短編置き場

審神者の藤は、この数分で何度目になるか分からないあくびをかみ殺していた。やや硬さの残る座席の上ではあるものの、程よい疲労感と暗闇が彼女に睡魔という形で訪れている。

「どうして、車の中でじっとしてると眠くなるんだろう」
 
 車というものは、言ってしまえば密室である。そんな狭い空間で灯りも落としてじっとしていれば、睡眠と似た形になり眠気というものだって自ずとやってきてしまう――というのは理解しているが、ついつい口の中で疑問として形にしてしまう。
 藤が腰掛けているのは、政府から借りた車の助手席だ。普段身分証明書以外の働きをしない運転免許証を珍しく使う機会に恵まれた彼女は、こうして故あって自動車の片隅に小さく収まっていたのだった。

「疲れたーもう運転なんてしたくないよー」

 これだけ愚痴を言いながら、今日わざわざ慣れない運転を行っていた理由はただ一つ。先日貰った政府の呼び出しに記載されていた場所が、よりにもよって電車が通っていない辺鄙な場所だったからである。
 普段ならどこで何をするにしても、審神者のための特別措置として目的地に本丸から転移できるように、臨時の転移先として登録してくれるのが彼らの常の対応だった。だが、今回は呼ばれたのが藤一人だったというのもあって、車を貸すから自力で来いと言われてしまったのである。
 故に、仕方なくこうして政府が用意してくれた車を借りて、先ほどまで運転席に収まっていたのだ。

「いくら、政府の車は自動走行の機能が着いているとはいえ、やっぱり緊張は抜けないよねえ」

 昨今の自動車は、自動運転の技術を搭載しているものも少なくない。それでも走行している全ての自動車がこの機能を保持しているわけではないが、そこは審神者という立場の特権を鑑みて、政府は安全で快適な運転が行える車を用意してくれた。
 機械に任せていれば、ほとんど事故らしい事故はしないし、逐一ハンドルを切る必要もない。だが、やはり万が一ということもあるので、基本的な操作方法は頭に入れてもいるし、不測の事態に備えて常に神経を張り詰めさせておく必要がある点は通常の自動車と大差ない。
 結果、慣れない警戒に神経をすり減らした彼女は、すでに帰宅の途中でこうして疲労困憊となっていた。少しでもハンドルの前にいるという緊張感から逃げ出したくて、わざわざ助手席に座り直しているくらいである。本来この席は今日の同行者である髭切が腰掛けていたのだが、当の本人にはお使いを頼んでいるので今は不在だ。

「髭切が戻ってくるまで、少し休もう……」

 ふあぁと大きなあくびをもう一つ。やがてむにゃむにゃと言葉になっていない声を漏らしながら、彼女はしばしの休息に身を委ねた。


 自分の主がのんびりと助手席で眠りについている頃。本来助手席に座っていた刀剣男士──髭切は、二十四時間営業の店舗にて、主に頼まれていた飲み物と食べ物を買っていた。
 夕飯自体は既に簡単に済ませているものの、運転というのはとにかく緊張を強いられて神経がすり減るものだから、お腹がすくので何か食べたいと頼まれたのだ。

「ただでさえ、突然呼び出されてかなり緊張してたものねえ」

 本来の用事である呼び出し自体は、単なるカウンセリングのようなものだったと後から主に報告を受けていた数年前に少し本丸内で問題を起こしたことがある彼女に気遣ってのことのようだが、逆に緊張させてしまっては本末転倒というところだろうと髭切は思っていた。
 こうして二人で普段は乗ることのない『自動車』なるものに乗って遠くに行くのは楽しかったが、当の主が緊張のあまり楽しんでいると程遠かったのは、髭切としては残念なところだった。

「もっと主も大らかにいけばいいのにね。あの輪っかの手綱を握るとき、すごくガチガチになっていてまるで岩みたいだったよ」

 いっそ運転を変わろうか、と言うつもりはあったのだが、折角だから主に花を持たせてやりたいという気持ちもあったので黙ったままでいたのだ。戻ったときには交代を申し出てみようと思い、髭切は買い物袋をぶら下げて店から車へと戻る。
 ひとまず、主に指定された助手席の扉を開けようとして、しかし彼は席に座ることなく、その場から助手席を覗き込むに留めざるを得なかった

「……寝ちゃってるね」

 扉を開ける音にも気がつかず、主である藤がすっかり寝入っていたからだ。むにゃむにゃと寝言を呟く彼女の姿は、まさに無防備そのものだ。

「お疲れ様、主」

 頭をそっと撫でると、無意識のうちに嬉しそうに彼女は口元を緩めた。髭切がつられて笑みを口の端にのぼせていると、今度は安らかな寝息が彼の耳へと届く。

「さて、と。疲れてる主を起こすのもよくないよね。どうしようか」

 小首を傾げた髭切の視線は、本来は主が座っていた方の座席に向けられる。彼が頷いてそちらに向かうのに、数秒と必要なかった。


 ガタリと揺れる振動で、ふっと意識が浮上する。寝ていたのだと気がつくより先に、再度の振動で意識が強制的に目覚めの域に達する。開いた瞼が見ている景色は通り過ぎる木々の黒い影と、時々過ぎる街灯の光だった。
 車が、動いてる。
 その事実を頭で理解し、藤の頭は冷水を浴びさせられたように一気に覚醒した。
 思わず現実を直視したくなくてギリギリと強張った動きで首を横に向けるより先に、横から伸びてきた隣に座る者の手が、彼女の頭を柔らかく撫でていく。反射的に手の暖かさに目を細めてしまうが、和んでる場合ではないと藤は勢いよく首をぶんぶんと横に振った。

「ありゃ、起きちゃったのかい?」
「ひ、ひ、髭切が運転してるの!?」
「うん」

 それがどうした、と言わんばかりに彼は頷く。
 政府が貸してくれる車は自動運転の機能があるため、刀剣男士が運転席に座っていても問題ないということは、藤も知っている。貸して貰うときにも、貸出人とその件については確認はとれている。物である彼らが何かした場合の責任をとるために、どんな車でも運転させてもらえるわけではないが、この車ならばとりあえず問題ないということらしい。
 加えて言うならば、髭切自身も数週間とはいえ講習を受けていたのだから、運転する方法もわかっている(はず)だ。故に何も問題はないのだが、どうしても「大丈夫なのか?」という疑問が尽きることはない。
 これが同時期に講習を受けた歌仙なら大船に乗ったつもりで任せられるのだが、髭切はどうにもふわふわした立ち居振る舞いのせいで運転というものに彼が結びつかない。

「……別に髭切がそこに座らなくても、起こしてくれればよかったのに」
「気持ちよさそうに寝ていたものだから、起こしづらくって。それにずっとここに座っていると、緊張するって言っていたよね」
「それは、そうだけど。じゃあ頭を撫でていたのは?」
「主の寝顔を見ていたら、頭を撫でたくなっただけだよ」

 話しつつもこちらに視線を合わせることなく目線を前に向けているのは、集中しているということの表れなのだろう。人の何倍も気配に敏感で視力もいい刀剣男士なのだから、車通りも少ない場所でもあるし事故を起こすようなことはないだろう、と藤はひとまず安堵の息を吐き出す。
 安心してしまうと、不意に頭部に残った温かい手の感触を思い出してしまい、藤は思わずきゅっと唇を軽く噛んだ。寝てる間に何度か撫でられたのではと思うと、嬉しいような起きてなかったのが悔しいような、複雑な心持ちだ。

「主の席に飲み物とごはん置いておいたから。疲れたなら食べておいて」

 言われるがままに席の端に視線を落とすと、たしかに頼んでおいたものが入った袋が置かれていた。

「ありがとう」

 お礼を述べながら何気なく顔を上げて、藤はどきりとする。彼女の視線の先では、フロントガラスを見据えている彼の横顔が、街灯の薄明かりに照らされていた。本当にそれだけのことなのに、真っ直ぐに進行方向を見据えている彼の姿に視線を奪われる。
 髭切の横顔なんて今まで何度も本丸で見たことがあるはずなのに、咄嗟の時に動かせるようにとハンドルに軽く添えられた手が、何か危険な事態が近寄っていないかと外に向けられた視線が、普段の彼とまた違ったように見えて思わず心臓が跳ねる。
 じっと彼に見蕩れていると、その視線に気がついたのだろうか。街灯の光を受けて黄金色の炎に揺れる瞳が、こちらに向けられた。

「何か顔についてる? それとも、変なところがあったかな」
「う、ううん、なんでもない。なんでも……」

 思わず口早で誤魔化しの言葉を並べてから、藤はシートベルトをきゅっと握りしめる。
 だが、彼に誤魔化しは通用しきっていなかったようで、器用なことにもこちらに向けて片目だけだが視線を送っている。目を合わせなくても、髭切の疑念はひしひしと伝わってきていた。
 気まずい。とても気まずい。
 まさかあなたの顔に見惚れてました、などとは口が裂けても言えないが、何も言わないのも気まずさを加速させていく。

「本当に?」

 釘を刺されるような言い方ではあったが、その声音には少し心配そうな気持ちが混ざっているように聞こえた。
 おそらく、髭切なりに多少の不安を抱いてはいるのだろう。自分の運転が正しいのかどうか、彼らの時代には想像もつかないものを操るための手綱を握っているというのは、自動でからくりがやってくれると聞かされていても安心できるものではない。まして、事故を起こしたら人間は死ぬこともあると聞かされているだろうから、慎重にもなろうというものだ。
 そんな状態の彼に、自分のつまらぬ挙動不審で不安を煽るような真似はしたくなかった。いらぬ心配は不要なのだと伝えねばと、あれこれと考えるより先に藤は口を動かす。

「し、シートベルトが」
「この紐が?」
「シートベルトが食い込んでるから、今日は何だか自分の胸が大きく見えるなあ……とか思ってね。あはは、これなら、ちょっとは髭切もどきどきしたりするのかな~……なんて」

 自分でも何を言ってるんだと思うが、とりあえずこれで誤魔化せたろうと藤は形だけの笑いを彼に送る。果たして、赤信号なのをいいことに髭切はじっと彼女を――正確には彼女の胸元に視線を落としていた。
 普段からお世辞にも豊かとは言えず、寧ろ平たい部類に入る胸部を持つ彼女であったが、現在は胸の真ん中を縦断する形で食い込んでいるベルトのおかげで、そこはかとない主張を見せているのは確かだった。

「主、それってもしかして」

 もしかして、何なのか。
 聞くより先に車が再び走り出し、反動で藤の体はガクンと傾き少しばかり前のめりになる。髭切も再び運転に集中し始めたのか、何も言葉を発してくれない。
 気がつけばポツポツと並んでいた電灯も数えるほどになっており、外から聞こえるのは車が走るゴーッという音だけになっていた。辺りから民家の灯りは消え、代わりに木の数だけがやたら増えていく。ヘッドライトに照らされているのは汚れたガードレールと、時折よぎる標識だけだ。
 道路の状態が悪いか、藤は軽い振動を覚えていた。だが、そんな景色のことはどうでもいいと思うほど、やたら続いてしまっている沈黙の方が、彼女にとっては気がかりだった。

(もしや、冗談が滑った……?)

 別の意味で嫌な冷や汗を藤がかいている一方で、髭切の顔は闇夜のせいかまるで出陣の時のように険しいものに見えた。そんな彼と目を合わせることができず、窓の景色でも見つめてこの静寂をやり過ごそうとしていた藤は、

(あれ、今何か……ううん、誰かいた?)

 街灯の明かりが辛うじて届くか届かないかの位置に、薄っすらと何かが立っていることに気がついた。だが、こちらは車内。例え誰かが立っていたとしても、凝視するより先にこちらの方が先に通り過ぎていってしまう。

(こんな夜道で待ち合わせかな。それとも鹿の類だったのかな。ここって山の中だろうし)

 目的地への近道だからか知らないが、行きも通ったこの道は、山中を通した道路であるがゆえにはっきり言ってかなり寂れている。ちゃんと整備されているのかも怪しいし、その証拠に今もがくんがくんと振動が伝わってきている。それでも、昼間は陽光に照らされているおかげで不気味さはそこまで感じなかったが、夜は明かりの少なさもあってあまり通りたい道とは思えない。
 髭切にハンドルを握っておいてもらってよかった、と現金なことを考えながら、彼女が再び座り直した時だった。

「ねえ、主」

 静寂を破って髭切が声をかける。同時に、バンッと何かが後部ドアについているリアウィンドウにぶつかったような音がした。

「あれ、枝でも落ちてきたのかな」

 音がすれば、当然原因が気になる。藤が思わず身をひねりかけると、髭切の伸ばした腕が藤を制した。

「そっちは向かないで」

 普段より緊張感の走った声で止められた瞬間、今までハンドルに添えられていただけの彼の手が、躊躇うことなく自動運転を解除するボタンを押した。本来なら、よほど緊急と判断した際にだけ押されるはずのものだ。
 藤が何か言うより先に、ブレーキペダルが勢いよく踏まれ、その反動で藤は思わず頭を助手席の前面にぶつけそうになった。

「髭切……?」

 突然の急ブレーキに、らしくない緊張した顔つき。何かあったの、と聞くより先に、彼はシートベルトを外してしまう。
 ベルトの拘束から自由になった彼は、ダッシュボードを乗り越えてこちらの席へと身を乗り出そうとした。彼の動きは、まるで狭い助手席に二人分収まろうとしているように見え、藤はその行動の意味が分からず、疑問符が頭の中を埋め尽くしていくのを感じていた。

「主、ここの座席を倒すからくりってどこだっけ」
「それはこの辺りの取っ手を引いて……じゃなくて、何してるの!?」

 このままだと、まるで彼に押し倒されるようではないか。
 彼女の顔が一気に朱に染まるより先に、髭切は主が示したレバーをぐいと引いた。がくんと助手席の背もたれが後ろに倒れ、ある程度座席に寝そべることができるようになる。しかし、突然背もたれが倒れた藤は、むしろ反対に座席から半ば滑り落ちてしまった。
 構わず、彼の体が自分に迫る。服越しに伝わる彼の温もりと、はっきりと聞こえる息遣いに彼女は目を白黒させてしまう。少し不恰好ではあるが、助手席という狭いスペースで、彼に押し倒されている……を通り越して、藤は髭切に抱きつかれていた。
 こんな山奥に止まって、いったいどういうつもりか。もしかして、そういうことなのか、とちらちらと甘い想像が頭を掠めていく。

「な、な、なんで、急に」
「主、動かないで」

 だが、耳元で囁かれた声の硬さに、藤は自分の甘やかな妄想が見当違いなものであると思い知らされる。

「どうしたの」

 小声で問いかける言葉が言葉になりきるより先に、彼の腕の中に閉じ込められた。
顔が胸に押し付けられて、口を開くこともままならない。

「息を止めて。じっとしていて。目も瞑っておいた方がいい」

 言われるがままに息を止め、目を瞑る。
 同時に、音がした。
 こんこんと窓ガラスをノックする音が。
 さながら、待ち合わせ相手が運転手に自分が来たことを知らせるかのような、軽いノックだった。
 思わず身じろぎするも、彼の腕が藤の動きを止める。そのはずみで気が付いたが、どうやら彼は片腕で主を抱き寄せ、空いた片腕では何か別のものを握っているようだった。恐らく、その手にあるのは助手席に置いていた己の本体だろう。
 どうして、わざわざ刀を握っているのか。そのことを問うより先に、再びのノック音に肌が粟立つ。
 この夜道だ。道に迷った誰かが、通りがかる車に助けを求めているのかもしれない。あるいは、運転中に車が故障して電波も届かずに困っているのかもしれない。そう、楽観的に考えたくもあった。
 だが、これは違うと頭の中で警鐘が鳴り響いている。
 コンコン。コンコン。
 ノックの音が止まらない。
 なのに、声は全くしない。
 誰かいませんか、とも、助けてくれませんか、とも聞こえない。ひたすらにノックの音だけが響く。
 やがて、ノックの音は藤の近くの助手席から、フロントガラスへと移動し、今度は運転席側から響いてくるようになった。まるで誰かが、止まっている車のまわりを移動しているかのように。
 こちらを覗き込むような視線が、肌の隙間から差し込み、突き刺さっていくような錯覚に襲われる。

「ひっ」

 息を呑み、ぴったりと体を密着させてくれている彼にしがみつく。彼の腕の内側なら安全地帯のはずだと祈り、車の内側に染み込んでくるかのような冷たい気配に、じっと耐える。
 やがて、ノックの音がピタリと止んだ。先ほどまでの音が嘘のように、静寂が辺りを支配する。

「終わった、の……?」

 思わず藤が顔を離しかけたときだった。
 バンッ!!
 フロントガラスを力強く叩く音に、胃の底に氷塊を飲み込んだような怖気が走る。
 バンバンと窓ガラスを叩く音は一度では終わらない。何度も何度も、まるでこのガラスを叩き割ろうとしているかのようだった。
 ――怖い、怖い怖い怖い!!
 今すぐここから逃げ出したい。自分を怖がらせてるものが何かを、この目ではっきりさせたい。
 矛盾した衝動が体の中で駆け巡り、頭の中が真っ白になる。だが、自分を包んでいる腕は全く狼狽えることがなかった。

「大丈夫。僕がいるから」

 囁く声に、藤はうっすら涙を浮かべて必死でしがみつく。
 バンバンとフロントガラスを叩く音は、留まることを知らず続いている。叩きすぎて割れるのではないかと思うほど、長い長い時間が二人の間を通り過ぎていく。
 フロントガラスから響いていた音はやがて車全体を叩くような音の洪水へと変わっていった。
 声はしない。ただ、この中に何かがいるのではないかと探るように、叩く音だけが何重にも重なって響いている。
 震えが止まらない。体が急速に冷えていく。でも、彼の熱があるおかげで、パニックにならずに済んでいる。
 なんといっても、髭切はあやかし斬りの刀だ。何度も自分を守ってくれた。もっともっと恐ろしいものにも、立ち向かったこともある。時間遡行軍に比べれば、この程度の正体不明な敵など何だと言うのだ。
 だから、こんなただ音が響くだけの恐怖なんて、平気だ。彼が平気なら、自分だって平気でなくてはならない。だって、自分は彼の主なんだから。
 そこまで覚悟が決まると、ストン、と心が落ち着いた。
 その時を待っていたのではないのだろうが、響く音も徐々に小さくなり、やがてそれはふつりと途切れた。

「終わった……?」

 思わず体を起こしかけたが、ぐいと再び髭切に抱き寄せられる。気が緩んだせいか、自分の側にある彼の熱が今は無性に恥ずかしい。

「僕が見てくるから、主はこのまま外から見えないように隠れていて。これ、ちゃんと持っておいてね」

 そう言われると同時に、手に刀の鞘が握らされた。次いで、藤のまぶたの上にちょんと柔らかい感触が通り過ぎる。
 それが口づけだと気がつくより先に、髭切の体は離れ、運転席側から外へと消えてしまっていた。


 主を車内に残して外に出た髭切は、思わずため息をついた。
 車のフロントガラスや窓ガラスにはっきりとした傷などはない。まるで大勢の人が叩いていたような音だったというのに、手形すらない。
 だが、確かに気配はある。残り香ではあるものの、そこに何かがいた気配が。

「ここの山の主かと思ったけど、そうじゃなさそうだね」

 主の他愛ないジョークにどうやって返事しようか考えるより先に、髭切はこの道に差し掛かってしまい、考えを切り替えずにはいられなかった。
 少ない街灯。真っ暗な山道。それ自体はそこまで問題ではない。そこに何もいなければ、きっとただの暗いだけの道だった。
 だが、何かの気配を彼はずっと感じていた。昼間通るときには感じなかった、悍ましい何かの気配。時間遡行軍のような明確な敵意はなく、どちらかというと好奇心で近づいてきているように髭切には感じられた。
 例え好奇心とはいえ、人ならざるものの興味に任されるがまま弄ばれたら、まともな感覚しか持ち合わせていない人ではひとたまりもないだろう。まして、審神者のような力や素養があるものなら、その影響は計り知れない。だから、警戒をしたまま通り過ぎる――つもりだった。

(そいつらの一つを、主が見てしまったんだろうね)

 走ってる途中、明らかに空気が切り替わった瞬間があった。その時、主は助手席の窓ガラスから外を眺めていた。退屈しのぎに外の景色を眺めていたのだろう。数多あった気配のうちの一つを彼女が見てしまい――故に、気がつかれた。
 見るということは、相手に気がつかれるということと表裏一体なのだから、それも当然だろう。気がつかなければ、知らぬふりで通り過ぎてしまうこともできたかもしれないが、縁がそこでできてしまった。
 振り切ることも考えたが、山道でスピードを出した結果、崖に突っ込むような事態は避けたかった。故に、相手にここに目当てのものはいないと誤認させよう、と彼は決めた。
 斬ってしまおうかとも思ったが、相手の正体も分からないうちに闇雲に攻勢に出るのが得策とは判断できなかった。藪をつついて蛇を出すような真似はしたくない。一人ならいざ知らず、守るべき者が今の自分にはあるのだから。

「さっきの感じだと、調べてみたけれどここにはいないと思って、他を探しに行ったのかな」

 ぐるりと車の周りを一周しても、近くに隠れている様子はない。どうやら、うまく騙されてくれたらしい。
 ざわりと、夜風に吹かれて黒々とした木々が蠢く。まるで大きな生き物の腹のなかにいるような、不安を煽る気配は変わらずにそこかしこに充満していた。さっきのもの以外にも、ここには何かがいるのだろう。しかも、一つ二つではなく数え切れないほどに。
 髭切が周りをひと睨みすると、ふ、とざわついていた気配が消える。挑発するような視線が、まるで恐々とこちらを伺う遠慮がちなものになり、彼らが臆している様子が髭切には手に取るようにわかった。

「もし、主に手を出すつもりならそれなりの覚悟をしてよね」

 普段の柔らかな声音など、露ほども感じさせない。凄みのある声は、主を守る番犬としての威嚇ともまた違う。

「彼女は、僕のものだ」

 高らかに響いたのは、自分の所有物を譲る気がないという強者の宣言だった。
 返事はない。だが、固唾を呑む気配だけは伝わった。今は、それで十分だ。
 髭切が車内に戻ると、主は言われた通り助手席の中で小さくなっていた。顔は暗闇の中でもはっきりわかるほど、青白い。彼女に不安を抱かせたものをまだ野放しにしているというと思うと、不快感を抱かずにはいられないが、今は追いかけて斬るわけにもいかない。

「主、もう少しだけそうしておいて。大丈夫そうな所まで行ったら、僕が声かけるから」
「……うん。結局何がいたの?」
「何だろうね。細かいことは、今はどうでもいいよ」

 髭切は再びエンジンをかけ、自動走行に任せることなくハンドルに手をかける。この鉄の馬は言うことを聞きすぎて逆にまだなじめないが、そんなことも言っていられない。
 アクセルペダルをゆっくりと踏んで慎重に加速した車の後を追う気配は、もう一つも存在していなかった。


 山中の道を抜けると、街灯の数もいくらか増えていく。ようやく「いいよ」と言われた藤は、恐る恐る座席の下から出てくる。窓から見える景色が山の中ではないことに安堵の息を漏らし、倒した背もたれを元に戻してから彼女は座り直した。
 未だ指の先に冷えが残っているものの、ちらほらと見える人家の灯りが、自分の知る世界に戻ってきたことを教えてくれる。ようやく無事を確信できたこともあり、心中に生まれた安堵はお湯のように彼女の中へ染み渡っていった。

「あれって、何だったのかやっぱり分からなかったの?」

 安心すると、謎の解明をしたくなるというのが人の性というものである。藤が尋ねると、すでに自動運転に切り替えたおかげで張り詰めた気を少し緩めた髭切が、小首を傾げながら、

「あそこで亡くなったりした人とかが集まったよくないもの、かなあ」

 これまた曖昧な返事をした。

「最初はあの山を治めるあやかし──ううん、僕らと同じ神様みたいなものがいるのかと思ったけど、その割には気配が弱かった気もするんだよね」
「色々あって、悪いものになってしまった神様……って可能性は?」
「どうだろう。他にもいっぱいいたから、それは考えにくいかなあ」

 他にもいっぱい、という言葉を聞いて藤はさーっと青ざめる。どうやら、彼は外に出ている僅かな間でその『いっぱいいた何か』に相対していたらしい。

「色々な思いが、あそこに残ってしまっているんだろうね」
「それって幽霊ってこと?」
「そういうものもいたかもね。でも、ちょっと凄んだらすぐに居なくなっちゃったから、多分そこまで大したものじゃないよ」

 いったい自分を置いて外に出てる時に何をしていたんだ、と藤は顔を引きつらせたが、多分聞いても彼は答えてくれないだろう。
 だが、髭切のことだ。自分に危害を加えるようなことはないだろう、という信頼はあったので、ひとまずはそれ以上の詮索をやめることにした。文字通り、触らぬ神に祟りなしというやつである。
 ひやりとはしたが、あれ以降は特に問題もなく人里に戻ることができた。今は、そのことに感謝するしかない。もう一時間も自動運転に任せれば、本丸にたどり着くだろう。車は適当な近場のレンタル駐車場にでも停めて、明日にでも政府の人に回収して貰えばいい。
 見通しが立つと、心にも余裕が生まれる。藤はそういえば、とあの山道を通る前のやりとりを思い出し、

「あの時、『もしかして』って言いかけてたのって、お化けに気がついてたから言ってたの?」
「あの時って?」
「えっと……僕がその、シートベルトがどうこうって、言ってた時」

 自分で思い出してあまりにしょうもない話題だったと思い出し、藤は曖昧な言葉で詳細をごまかした。それでも、話した内容を思い浮かべると思わず頬を染めてしまう。

「ああ、あのときね。その時言っていた『もしかして』の続きだけど」

 髭切は、こちらに顔を向けてにっこりと微笑んでみせた。この笑顔は心底嬉しいことがあったときの顔だ。

「もしかして、僕のこと誘ってるのかなって聞きたかったんだよ」

 藤の目が見開かれ、ついでにその体が硬直する。
 誘うとは何か。どこかに遊びに出かけるということか、あるいはご飯でも、などと思考は現実逃避を開始しかける。
 だが、話した内容を思い出せばどういう意味かなど、あっという間にわかる。

「さ、さ、誘ってるって」
「この車っていうもの、明日返してもいいなら朝帰りでもいいかなって」
「待って待って待って! 別にそんなつもりじゃ」
「それに、さっき僕が主を隠してた時、最初は何だか期待しているような顔していたから」

 ぐうの音も出ないとはまさにこのことだ。藤は顔を真っ赤にしたまましばらく俯いてしまった。
 たしかに、急停止して彼が近くにきた時、色々な予想が頭の中に過っていた。そんなに物欲しそうな顔をしていたのかと、藤は恥ずかしさのあまり手で顔を覆ってしまう。はしたないと思われることの羞恥よりも、相手にそのような期待を向けられていることを知っても尚、高揚してしまう自分に対する自発的な恥ずかしさのせいだ。
 求められていることが嬉しいのに、恥ずかしい。相変わらず、この感情は持て余してしまう。

「でも、さっきの件もあるから念のため本丸に戻ったほうがいいかな。あそこなら安全だものね」

 だが、呈示された予定変更は本人の手によって却下されてしまった。考えるまでもなく、先ほどのことを思えば安全な場所にいた方がいいというのは分かる。

「そう……だよね。ごめん、なんだか勝手に浮かれてたかも」
「浮かれてはいたんだね」

 自分で墓穴を掘ったと気がついた頃には、時すでに遅し。
 恐る恐る顔を上げると、瞳だけをちらとこちらに向けて意味深に微笑んでいる彼と目が合った。

「じゃあ、帰ってから主の部屋にお邪魔しようかな。いいよね?」

 有無を言わさぬ言い方に、藤は首をこくこくと縦に振る。自分から期待だけしておいて、今更嫌になるわけもない。
 再び膝に視線を落として、急遽加わった夜の予定について頭がいっぱいになっている彼女は気がつかない。

「余計なものが触れてないか、確認もしておきたいし」

 ぽつりと漏らした髭切の瞳が、己の縄張りに踏み入れた者を徹底的に排除しようとする狼のそれになっていたということを。
 再び彼女の頭が優しく撫でられる頃には、その危険な光もすっかり鳴りを潜めていた。
 彼の指が髪を撫でる感触に、再びうっとりと目を細めながら藤は暫し疲れた体を休ませる。二人の夜はもう少し続きそうだと、幸せなひとときを夢見ながら。
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