本編第一部(完結済み)

 乱藤四郎は、今この上なくご機嫌だった。
 彼が今いるのは、万屋大通りの一角である雑貨屋だ。彼の後ろには、自分の主である藤が立っている。
 乱は彼女の姿をちらと見て、自分の口角が緩むのを感じずにはいられなかった。その原因の一つは、彼の握りしめた掌の中にあった。


 ことは数時間前に遡る。顕現した日の翌日、本丸巡りも一通り終えた乱は、朝から主によって彼女の部屋に呼び出されていた。

「どうしたの、あるじさん」
「乱に渡したいものがあって。これ、皆にもあげているんだけど」

 彼女が引き出しから取り出したのは、鮮やかな桃色の金襴で作られたお守りだった。中に入っているもの――藤が自分の力を込めたどんぐりのせいで、ぷっくりと膨らんで少々不格好な姿となってしまっているものの、それを見て乱は瞳を星のように輝かせる。

「それって五虎退が言っていたお守り!?」
「うん。僕の力が込められているお守りだから、多分何かの役に立つ……と思う」

 少し歯切れの悪い言い方だったが、乱はそのことには頓着せず意気揚々とお守りを受け取った。五虎退が彼に見せてくれたものと違い、紐には鮮やかな赤のリボンが結ばれている。

「すっごく可愛い! ありがとう、あるじさん!!」
「乱は、可愛いものが好きなんだね」

 にこにこと微笑んでいる主の問いを、乱は額面通りに捉えた。当然、彼は主が抱える乱藤四郎への屈折した感情など、知る由もない。

「うん。こういうひらひらしていたりとか、きらきらしているものを見るとわくわくするんだ。だから、そういうのをできるだけ使いたいって、思ってるんだよね」

 一拍置いて、乱はやや躊躇を見せながら言葉を続ける。

「お茶碗とか箸とか身の回りの雑貨も、本当はもっと可愛いのが使いたいんだけれど」
「そっか。髭切のときにまとめて買ってたのを、使ってもらってたんだっけ」

 藤としては、皆の個性に合わせた方がいいのではと言ったのだが、歌仙は何度も買いに行くのも手間だからと、夏頃に茶碗や箸の類をまとめて買ってしまったのだ。
 その後にやってきた次郎は、箸や茶碗の好みは特になかったらしく、文句も言わずに使用してくれていた。結果、済し崩しに同様の品が乱にも宛がわれたのだが、乱にとってこれは大いに不満を抱くところだったらしい。

「乱は、どういうものが欲しいの?」
「えっとね。ボクが顕現していた時の服みたいに桃色のものとか、あとはボクの目みたいな綺麗な空色とか」
「それはこの家にはないかな。じゃあ、万屋に買いに行ったら? お金は僕の方で出してあげるからさ」
「いいの!?」

 乱としては、願ったり叶ったりである。
 身近な持ち物というのは、とにかく自分の気分を盛り上げるに欠かせないものだ。その一つが乱にとっては食器であり、主が自分の拘りを認めてくれたということに、彼はこの上ない喜びを覚えて声を弾ませた。

「じゃあ、あるじさんも一緒に買いに行こうよ!」
「でも、僕はもう自分の茶碗を持ってるよ」
「茶碗じゃなくてもいいよ。ボク、あるじさんともっとお話ししたい!」

 眩しい星のような目を向けられて、藤は首を横に振ることはできなかった。
 胸の内を刺す小さな痛みが、蓋をしたはずの苦い感情が漏れ出てきていると、何より彼女にはっきりと教えてくれていた。だが、それも見ないふりをして、彼女は乱に笑顔で頷き返したのだった。


 ***


 雑貨屋の暖簾の向こうは、乱にとってはまさに桃源郷と言えた。
 最近寝不足らしい主はまだ眠そうにしているが、乱の目は彼女とは対照的にぱっちりと開かれている。踊るように店内に入った彼は、一目散に食器売り場へと向かった。

「ねえ、あるじさん。これってどうかな?」

 彼が手にとったのは、桜の花弁がひらひらと散っているような模様が描かれた茶碗だ。揃いの柄の箸や箸置きも、その近くに置かれている。

「ボクの戦装束の色とそっくりで、すごく可愛いよね!」
「うん、凄く可愛い。乱は可愛いもの好きみたいだけど、元からそういうお話がある刀なの?」

 主の問いに、乱は茶碗を持ったまま「んー」と考え込む。問われて改めて考えてみたが、乱自身にそのような記憶は明確な形ではなかった。
 とはいえ、これは乱に限ったことではなく、顕現したばかりの刀剣男士は皆、ほぼ自身の記憶というものをぼんやりとしか認識していない。体に刻まれた逸話が明確になるのは、己の体を、はっきりと自分が捉えられるようになってからだ。

「お話とかはないと思うけれど、そういうものに凄く惹かれるんだよね。好きって気持ちが溢れるのに、理由なんて関係ないんじゃないかな?」

 乱は茶碗をそっと棚に戻し、今度は自分の瞳を映し出したような空と同じ色の皿を手に取る。

「綺麗なものは綺麗で、可愛いものは可愛い。だからボクはこれがいい。そういう気持ちが生まれたら、理由なんかボクはどうでもいいって思っちゃうな。あるじさんはどう?」
「どうだろう。僕には、よく分からないや。考えたこともないから」
「そうなの?」

 乱はそれ以上主に深く尋ねず、再び自分の食器選びを続け始めた。対する藤は、視線を店の床に落として、手持ち無沙汰な様子を隠そうともせずに立ち尽くしていた。

(僕の『これがいい』なんて、もうどっかに行っちゃったから)

 乱に何を言われても、響くものがなかった。いや、そもそも響かせてはいけないのだと、彼女は戒めの言葉を胸中で唱える。
 彼への黒々とした思いは、まだ消えたわけではない。見ないふりをしただけだ。自分の心との繋がる線を、断っただけにすぎない。だから、ふとした切っ掛けで、線はまたできてしまう。そんなことはあってはならないから、藤はできるだけ心の波を穏やかにしようと努めていた。

「あるじさん、ボクやっぱりこの桜のお茶碗にするね。それと、あるじさんとおなじ名前の湯飲みがあってね。見て見て!」

 乱が持ってきたのは、彼女の名である『藤』と同じ名が名札に記された湯飲みだった。その名の通り、白い湯飲みをふわりとした淡い藤色が包んでいる。点々と散らした金箔が程よい品を添えており、藤としても心惹かれるものがあった。
 だが、その美しさを見ても尚、心を惹かれるより先に彼女の中でもう一人の自分が囁く。
 お前には、似合わないと。

「……僕が使うには、ちょっと綺麗すぎるし、似合わないよ」
「うーん、そうかな。湯飲みに似合うとかあるの?」
「持つ人に求められる品格とかはあるよ。僕は、そういうのないから」

 乱から湯飲みを受け取り、藤はそれを陳列棚に戻した。乱の物言いたげな視線を断ち切り、藤はそれ以上何も語らず、乱が選んだ茶碗や箸を手に、会計カウンターへと足を向ける。
 特に問題を起こすこともなく、新たな食器を一揃い購入した藤に、乱は太陽のような爽やかな笑顔で、

「今度は服屋に行きたいな。あるじさんと一緒に、お洒落な格好してみたくって」

 彼の中で密かに温めていた計画を、口にした。
 内番のために着る服は、政府から支給されたものが顕現した日の晩には既に届いていた。だが、正直乱としては作業着とは別の服が欲しくて堪らなかった。
 よくよく聞けば、他の刀剣男士は外出用の服を数着持っているという。五虎退にねだってその内のいくつかを見せて貰った乱は、すっかり当世の衣服に魅了されていた。

「ね、だめかな?」
「いいよ。万屋より外の方が洋服は揃ってるだろうから、一度本丸に戻ってから近所のショッピングモールに行ってみようか」

 今度こそ、藤は意識して自分でも完璧と思える笑顔を顔に浮かべた。彼女が笑う様子を見て、乱も主が賛同してくれたと、風船に空気を入れるが如く気持ちを膨らませる。
 スキップで、店を出て行く彼は当然気がつかない。主が浮かべる笑顔が、髭切が言う仮面の笑顔だということに。
 黒い思いを閉じ込めていた蓋は、既にずるずるとずり落ちかけていた。


 ***


 乱としては幸せの只中にあったとしても、思いがけない不測の事態というものはある。ショッピングモールに行く道中に、その悲劇は起きた。
 道すがら、乱にせがまれて買ったクレープを二人で食べつつ歩いている折に、連日の寝不足でふらついていた藤の足がもつれて、派手に転倒してしまったのだ。

「あるじさん、大丈夫!?」

 驚いた乱が駆け寄って藤を助け起こしたときには、手とコートはクレープの中身でぐちゃぐちゃに、ズボンは小石にでも引っかけたのか、いくつか破れ目を作ってしまっていた。
 幸いなことに厚着のおかげで、怪我らしい怪我は破れたズボンの下にできた軽い傷程度だが、転んだという事実と服をだめにしたという現実に、藤の心は益々暗澹としたものに変わっていく。

(どうしよう、これ。コートを脱いで帰るにしても寒いし、そもそも乱が楽しみにしている服屋に行くのを、キャンセルするのは彼に気の毒だし)

 こんな状況であっても、藤の頭はあくまで乱の楽しみが優先されていた。
 彼が笑わなければ意味がない。己は彼が楽しんでくれるための舞台装置のようなものだとすら、彼女は捉えていた。
 錆び付いた歯車のような思考は、ぎちぎちと回転してこれからのことを考え始める。汚れた服と、行く予定だった場所。そこまで思考を回転させ、彼女は一つの結論を導き出した。

「僕なら大丈夫だから。服はこれから行くお店で買おう。これ、もう駄目になっちゃったし」
「ごめんなさい。ボクが気付いて支えてあげれば、こんなことにならなかったのに」
「気にしなくていいよ。躓いた僕が悪いんだから。それに、コートもズボンも、もう随分と古いものだったから、買い換えるいい機会になったよ」

 コートについた、クリームやフルーツの欠片を払い落とし、持ってきていた鞄からビニール袋を取り出して、中に入れていく。勿体ないことをしたという気持ちはあるが、どうせ食べても美味しいと思えないのだから、その点においては惜しいとは思わない。
 最後に同じく鞄から出したウェットティッシュで、手についているべたつきや砂粒などを拭き取っているとき、藤は自分の膝に注がれる乱の視線に気がついた。

「どうしたの?」
「その、血が出てるから……」
「あ、そうか。乱は血を見るのが初めてなんだっけ」

 コンクリートで擦りむいた傷からは、赤い血がたらりと細く垂れ落ちていた。とはいえ、刀傷に比べればこの程度驚くほどのものではない。
 何てことはないと、鞄から絆創膏を取り出した彼女の視線が、しかし自らの傷口に向けられたまま、ぴたりと止まった。
 ルビーのように真っ赤に燃える赤を前にして、藤の頭の奥がくらりと揺れる。
 その赤から、どういうわけか目が離せない。以前も感じたことがある衝動が、流れ出る赤を見て揺さぶられ、奥から声をあげている。
 最近はついぞ感じなくなってしまったものを、この赤が齎す薫りは、自分に与えてくれるような気がした。
 それは、本来ならばもっと簡単に感じられる筈の感覚だった。なのに、気がつけばもう随分と久しく実感を抱いていない。
 それは、好物をいくら口にしても分からなかった『美味しい』という名の感覚に、酷く似通っている気がした。
 この薫りの誘惑を、前から自分は知っている。あの時は、こんなちっぽけなものではなくて、一層濃く深いものだった。
 何ヶ月も前。あの日、彼がこの赤に染まってきたとき――。

「あるじさん、どうしたの?」

 乱の声にはっとして、藤は首をふるふると横に振る。気がつかない内に、傷を凝視したまま凍り付いていたらしい。
 怪我を塞ぐように絆創膏をぺたりと貼ってから、彼女は立ち上がる。未だに不安の色が濃い乱に、にこりと微笑みかけて、

「じゃあ、服屋さんに行こうか。僕も、早く着替えたいからね」

 何事もなかったかのように、彼女は彼に提案する。
 足の痛みも、クレープをだめにしたという事実も、破れた服や台無しになったコートも、藤には最早不快とは思うことではなくなっていた。
 今大事なのは、乱がこの買い物を楽しめるか。ただ、それだけが彼女にとっては重要な行動指針になっていた。
 あの赤の誘惑は、彼女は考えようともしていなかった。まるで気付きたくない物から、目を逸らすかのように。


 ショッピングモールには、乱が思わず目移りするほどの服屋が所狭しと並んでいた。その中でも、彼は特に自分が気に入りそうな、華やかさと清楚さが合わさったような衣服が目立つお店へと足を踏み入れる。
 春物だけではなく、冬物もセール用品として多数取り扱っている点も、彼にとって好感が高い理由の一つとなっていた。何せ、今は主の着替えを探すという用もあるのだから。

「乱は女の子の服が好きなの?」

 ユニセックスなデザインのものから、如何にも女性向けと思える衣服がずらりと並ぶ店内で、藤は両手に服を抱えている乱に向かって問いかける。

「女の子の服っていうより、これもボクの好きなものの一つだからかな?」
「好きだから、理由がない?」
「そうそう。好きだから、好きって思うの。本当にそれだけだよ」

 乱の語る好みは、とてもシンプルだった。やれ肌の色味が合うだの、やれ着ていくに相応しい場所だの、そういった慣習に縛られることなく、己の思いに突き動かされるように、彼は纏う衣服を選んでいく。

「乱には、そういうのも似合うと思うよ」
「似合わなくても、ボクはこれにしたいって思うよ。ほら、これも可愛い!」

 春向けのふわりとした生成りのブラウスを手にとり、乱は無垢な少女のような笑みを浮かべる。服を合わせる彼の姿は、事情を知らない店員なら、まず間違いなく可憐な十代の娘だと勘違いしたことだろう。
 乱の歓喜に満ちあふれた表情を前にして、藤も同様の笑顔を鏡のように貼り付けてはいた。しかし、それはやはり貼り付けただけの、笑みに過ぎなかった。

(いいよね。何でも似合うくらい、可愛くて)

 また嫌な気持ちになっていると、藤は思わず鏡を向いた。
 大丈夫だ、まだ笑えている――はずだ。
 唇に込める力を強くする。顔の表情を作るための筋肉に全ての集中を捧げる。笑っていれば、主がこの買い物を楽しんでいると乱は思ってくれる。自分の心境がどう揺れ動こうと、知ったことではない。そんなものに、意味はないのだから。

「じゃあ、ボクはこの辺りでいいかな。それで、あるじさんは欲しい服は決まった?」
「え?」

 唐突に話題を振られて、藤は思わず笑顔を崩して、驚きを顔に浮かべてしまった。

「だから、あるじさんの欲しい服は決まった? 着て帰るんだから、暖かいものにしないといけないよね」
「うん」
「うん、じゃなくて。まだ決めてなかったの? ボクについて回ってるから、てっきりもう決まってるものだと思ってたよ」
「僕は、別に何でもいいから」

 この適当な投げやりすぎる返事に、自分の服を選ぶためにあれこれ試すほどの拘りを見せていた乱は、これでもかと目を見開いた。

「ボクが言うのも変だけど、あるじさんのためのものをあるじさんのお金で買うんだよ? 何でもいいなんてことはないよっ」
「でも、よく分からないし」
「あるじさんって、好きなものが無いの?」

 聞きようによっては、結構ひどいと思える問いを乱は投げかける。その明け透けすぎる言葉に、しかし藤は口ごもって答えに窮した。
 好きなものは、あったはずだ。
 甘いものに美味しいもの、例えばケーキやお菓子、美味と人々が絶賛する料理は、思わず舌なめずりするほどの喜びに繋がるはずだった。
 髭切に話したように、緑が広がる花畑は心を弾ませて踊り回りたくなるもののはずだった。
 ただ、それを前にしたときの自分の顔がもう見えないのだ。以前は容易に想像できたのに、その歓喜が本物なのかが今は分からない。
 クリスマスから今日まで、変わること無く藤の心に陰を差し挟むもののせいで、藤は乱に対して「そうだ」とも「違う」とも言えなかった。

「乱が好きなものを、選んでくれていいよ」
「ボクが好きなものとあるじさんの好きなものが、違うかもしれないじゃない。あるじさんは、明るい色と暗い色だったらどっちが好き?」
「どっちが似合うかも分からないから。本当に好きに選んでくれればいいって」

 自分でも粗雑とも思える回答に、乱は形の良い眉をピンと釣り上げた。
 怒らせてしまったと分かっているのに、どうしても今は顔が上手く笑顔になってくれない。
 それもそうだ。自分より容姿に優れていると見なしている相手に好みを聞かれるなど、敵に塩を送られているようなものだ、と斜に構えたもう一人の自分が囁くのだ。どうして、素直に己の好みを打ち明けようなどと、思えるだろうか。
 だが、藤の予想に反して乱は怒鳴るのでは無く、不意に火が消えたように消沈した様子で、ぽつりと不安げに言葉を形にする。

「……ごめん、あるじさん。やっぱり、ボクといるのあまり楽しくなかった?」

 気づかれてしまっていたのか、と藤は少し目を見開く。慌てて笑顔を浮かべようとするも、反感と焦りが混ざり合った状態では、流石に仮面をすぐに付け直すとはいかなかった。

「楽しくないから、意地悪言ってる?」
「……そうじゃないよ。よく分からなくて、本当に」

 そもそも楽しいかどうかもはっきりしないのだ、とは今は告げずにおく。浮かび上がってしまった反感についても、乱に話したところで困らせるだけだからと、藤はすぐに思考の端へと追いやった。

「好きな服とか、はっきり決まってないんだ。それに、どうして乱がそれを知りたいかもよく分からない」
「……本当に言ってるの? 本当の、本気で?」
「うん」

 自分の中でずれてしまった歯車が、ずれたまま回っている。そのことを打ち明けたのは、夢の中を除けば乱が初めてだった。普段は皆とこんな話をしないので、話題としてあがりもしなかったのだ。

「ボクが知りたい理由はすっごく簡単だよ。ボクがあるじさんの好きな物を知っていれば、それを見つけたときに教えてあげられるでしょ? そうしたら、あるじさんは沢山楽しいってなるじゃない!」
「…………」
「それに、ボクはあるじさんの好きな物を、好きになってみたい。それなら、ボクもあるじさんも二倍楽しくなるし、ほら、それだけで最高に幸せって感じがしない?」

 感情に任せた屈託の無い素直な思いがそのまま表れたような言葉に、藤は目を丸くする。見開かれた瞳には、今まで灯っていなかった光が微かによぎっていた。

「僕の好きなことを、そんなに知りたいの?」
「うん。あるじさんの好きな食べ物、好きな場所、好きな人、好きな物、好きな考え方! いっぱい知りたいし、沢山お話ししたい。ボクはまだあるじさんに出会ったばかりなのに、こんなに好きが溢れてるんだもの! なら、もっとこの思いを強くしたい!」

 それは、刀剣男士であるが故の刷り込みなのではないか、と藤はやや俯瞰的に彼の言葉を受け取る。けれども、ここまで己に興味を持たれて、まるで何も感じないということができるほど、藤は達観できてもいなかった。

「僕の好きなものを、君が好きになってくれるって言うの?」
「うん。だから、ボクにもあるじさまの好きな色とか服とか知りたいんだ。で、最初の話に戻るけど、好きな服がよく分からないの?」

 藤はぎこちなく頷く。その動きは、さびついたぜんまい仕掛けの人形のようだった。

「何が似合うのとか、そういうのは全然」
「似合うじゃなくって、好きな物も?」
「……あまり、実感がなくて」

 好きな服を選ぶという言葉は、藤にとってはまるで遠い異国で話される言葉のように聞こえた。
 小さい頃、彼女にとって衣服というのは、防寒のためと日々の生活で怪我をしないようにするために、身に纏うものという認識だった。逆に言えば、それ以外の認識が幼い彼女にはなかったのだ。生まれ育った山の中では、子供に着せる衣類にも困窮していたのだろう。藤は丈の合わないセーターを何年も着回していた。
 山から下りて施設で暮らすようになれば、尚更選択の余地などなかった。身寄りの無い子供を、引き取ってくれているのだという遠慮は、彼女にとって好みなどという些末なもので、人を困らせてはいけないという気持ちを、後押しするものになっていた。
 お洒落という概念が、存在しない環境で育ったという事情もあり、藤は服に関しては殊更強い執着をその時点では見せようとしなかった。
 しかし都会で暮らし、年頃の娘にもなれば、少なからず着たいものの方向性は生まれていく。だが、彼女は養父母に育ててもらっている身ということを、忘れられなかった。彼らへの恩返しとして、
 藤は、自分の要求をなるべく控えめにするようにしていた。衣服というのは、その最たる物の一つだ。
 結果、彼女は薄らとした好みらしき方向性は得ているものの、何でも好きに選んでいいと言われると、逆に躊躇してしまうという娘に育っていた。
 悪目立ちせず、無難な物。安くて丈夫な物。それが、彼女にとって自分が着ても大丈夫な衣服の条件に、いつしかなってしまっていたのだ。

「それなら、まずはあるじさんの好きを探す所からだね」

 それでも、乱はめげることなく自分のセンスで適当な服を数着手に取る。

「よし。まず、色から決めよう。明るいのと暗いのと、どっちがいい? 直感でいいから答えてみて」
「じゃあ……明るいの」
「うんうん。それなら、こっちとこっちはどう?」

 乱は黒いセーターを陳列棚に戻し、代わりに白と落ち着いた紫のものを並べる。

「……こっちの紫かな。白は汚してしまいそう」
「もう、あるじさんはすぐに機能的なことばかり考えるんだから! 着たいとは思うの?」
「うーん……普段着るならやめておきたいかな」
「じゃあ、お洒落用の服だね。上は紫にするから、下はちょっと明るい色にしてみようよ。ズボンとスカートならどっちがいい?」

 乱はこの問いにも藤は迷うだろうと、思っていた。だが、彼女はこれには間髪入れず、

「ズボン」

 乱に待つ暇など与えずに、すぐに答えた。食い気味に告げられた選択に、乱は少しばかり驚いた顔を見せたが特にその理由を尋ねることなく、持っていたフリルのスカートを棚に戻す。

「このちょっと硬い生地のズボン、かっこよくていいね。セーターと合わせてみたら、お洒落な感じがしない?」
「そうかな……」

 ぐいぐいと試着室まで連れて行かれた藤は、内側にある鏡を使って、早速乱に押しつけられた服を合わせてみた。
 自分の好みかどうかと言われればまだ曖昧だが、悪くないかもという気持ちはある。似合っているかどうかと問われると、少し首を傾げてしまうが。

(お洒落は……してみたいと、思ってたこともあったな)

 具体的に何が着たいという目標はなかったものの、普段はしない、自分が選んでみた格好で外を歩いてみたいという気持ちはあった。その夢がこんな形で叶うとも思わなかったし、あまりに突然だったせいで、気持ちが高揚してそわそわする気持ちの余裕もなかった。
 でも、それを悪いとは思わない。
 乱は、藤に歩み寄ろうとしてくれる。好きなことを知りたいと言ってくれる。彼の思いにはっきりと答えられないのは申し訳ないが、自分に興味を抱いてくれる者を問答無用で突き放せるほど、藤もひねくれてはいなかった。
 あるじさんのコートはボクに選ばせて、と勢い込んで告げる乱に選択を任せ、藤は先に用意してもらった分の会計を進める。
 店員に訳を話して試着室を貸して貰い、彼女は早速買った服に着替えてみることにした。クレープで汚れた元々の服は購入したものと入れ替わる形で袋に詰め直し、改めて鏡の前に立つ自分を見つめる。

(これ、似合っているのかな)

 まず考えるのは、自分が不自然に目立ってしまっていないかという点だった。店員が訝しげにこちらを見るような真似はしないだろうが、内心どう思われているやら。不安は尽きないが、藤は一旦それを心の奥底へとしまい込んだ。

「乱が言っているみたいに、好きを捕まえたら楽しいことも思い出せるかな」

 甘い物を好きだった、と思った。
 皆といるのは好きだった、と思った。
 綺麗な花畑が好きだった、と思った。
 好きの欠片は確かにあったはずなのに、何故それが今はこんなに遠いものになってしまっているのか。その理由は、皆の思いに応じるために、己の心すら騙そうとしたツケだということを、藤は薄ら理解していた。
 結果、皆が喜んでいるのならそれでいいと考えていた。けれども、今はもう一つの欲ができていた。

「僕の好きなものを、君たちも好きになってくれるって、願ってもいいんだろうか」

 乱は、主の好きなものを好きになりたいと、言ってくれた。ならば、自分の思いや考えが皆と違っていたとしても、それを肯定してくれるのだろうか。
 たとえ、手入れをすることもままならないような、穢れを抱えていたとしても。皆の望むような、清廉潔白な優秀な審神者がどこにもいなかったとしても。
 或いは、何ヶ月も前から――審神者になる前を含むなら何年も前から押し殺してきた、自分の思いを口にしたとしても。
 改めて話せば、頷いて受け入れてくれるのだろうか。

「そうしたら、僕はまた楽しいを知ることができるのかな」

 小さな願いの粒はぽつりと床の上に落ちて、音もなく弾けていった。


 ***


 行きとは随分と異なり、両手にそれなりの量の荷物を抱えて乱と藤は本丸へと戻ってきた。
 時刻は夕餉の頃合いより少し前であり、年を越したとはいえ日はまだそこまで延びていないために、足元はもう真っ暗になりつつある。山間の向こうでは、太陽が今日最後の光を空へと投げかけていた。

「ただいまー、歌仙さん」

 乱ががらがらと引き戸を開けながら、帰参の挨拶をすると、玄関に近い厨から、歌仙がひょいと顔を出した。

「おかえり、二人とも。おや、主。その上着はどうしたんだい?」

 出迎えにやってきた歌仙は、藤のコートが新調されていることに目聡く気がついた。
 今彼女が羽織っているのは、乱が選んできたさっぱりした青色のコートだ。首の辺りや袖口にふんわりとしたファーが添えられており、一方で裾にかけてゆったりと広がるラインを見ると、さながらスカートを穿いているようにも見える。本当は内心でスカートを選んで欲しかった乱の、彼なりの妥協案だったとは、藤には伝えられていなかった。

「少し汚しちゃったから、ついでに買い換えたんだ」
「綺麗な色合いだね。選んだのは主かい?」
「ううん、ボクだよ!」

 誇らしげな乱の言葉に相槌を打っていると、歌仙は藤からやけに強い視線を投げかけられていることに気がついた。何かを期待するような、しかし同時に諦めてもいるような思いが、そこには込められている。
 いったい彼女が何に対して、そんな相反する混ざり合った思いを抱いているのか。歌仙には皆目見当がつかないが、続く言葉を待ち望んでいるのだとは、はっきりと伝わってきた。
 何か言わねば、と思考だけが空回りし、

「……よく、似合っているよ」

 ようやく口にできた言葉は、そんなありきたりな言い回しだった。
 だというのに、藤の顔はまるで太陽が昇ったかのように、ふわっと晴れやかなものに包まれていく。乱の笑顔のように弾けんばかりではなかったとしても、彼女の瞳に最近は灯ることのなかった明かりが揺らめいたのは事実だ。

「あるじさんは、明るい色合いの服が好きみたいなんだよ。歌仙さん、知ってた?」
「いいや、そういえばきみから衣類についての好みを聞いたことはなかったね。冬は暗い色や黒いものばかり着ていたから、てっきりそういう趣味なのだと思っていたよ」
「……それは、あれしか持っている服がなかったからで」
「それなら、今度からは違う色合いのものを選ぶといいさ。今度、着物を仕立てるときは、主の好きな色についても考慮しよう」
「あ……りが、とう」

 俯いた彼女の顔は歌仙からではよく見えなかったが、藤の声はいつもより上ずって聞こえていた。
 おや、と彼は少しばかり目を見開く。その掠れた声の中に、確かに彼は主の喜びを感じ取っていた。
 こんな声を主から聞くのは、一体いつぶりだろうか。クリスマスの宴のときでも、喜んだ声を出していたはずなのに、今の彼女とあの時の彼女は違うと、歌仙は直感で察していた。

「それでね、歌仙さん! ボクもいっぱい買ってきたから、後でちゃんと見てね!」
「分かったよ。何はともあれ、二人とも靴を脱いであがってきたらどうだい。土間にいつまでも居たいわけでもないだろう」

 歌仙がそこまで言いかけた折、不意にビービーと甲高い警告音が狭い土間にガンガンと響き渡った。
 ぎょっとして藤が端末を取り出すと、そこには『緊急 遠征出陣要請』の文字が真っ赤に光っている。

「緊急……珍しいね」

 藤が言うように、緊急で端末に連絡が来るようなケースは、そこまで多くない。出陣ならともかく、遠征となると尚更だ。
 遠征出陣の要請は、大まかに急を要さないものと、緊急とされるものの二つに分けられる。前者は予め、ある程度の調査を政府側が進めており、最終確認としてより緻密な調査をするために、複数名の刀剣男士の出陣を要請されるものが多い。他にも、時間遡行軍を退けた後の被害に対して、帳尻を合わせる必要があり、作業に人手が必要だからと駆り出される場合もある。
 一方で緊急と題されているものは、政府の調査における初期段階で、規模の大きい改変の可能性が高い、或いは大規模の敵部隊を感知したケースが多い。その名の通り、緊急度が高いと判断されたときに下される任務だ。
 その場合、悠長に細かい調査をする時間が惜しまれるので、接敵もある程度考慮した状態で、複数の調査部隊が広範囲にわたり派遣される。出陣した先に、敵がいない可能性も無論高くなるが、もし敵がいた場合は、それは強力な敵部隊である可能性が高い。
 甲高い警告音は、否が応でも藤に緊張を強いる。彼女は手汗で滑る端末をどうにか落とさないように握り込み、事前に判明した調査内容を表示するための操作を、慎重に進めていく。

「時代は、江戸時代……天明の三年か」

 虚空に浮かび上がったホログラムの情報を、歌仙が読みあげていく。更に時代の部分を藤が触れると、その時代に起きた事件が箇条書きでまとめられたものが、別の画面として表示される。今回の調査で影響が起きたと推測される部分を、強調するかのように、一部の文字がぴかぴかと光っていた。

「これより後の時代に、歴史改変の兆しがあると書いてあるね。そのため、この辺り一帯の時代を一斉に調査しているということらしい。なるほど、どの時代、どの場所に敵部隊がいるかは、はっきりしていないというわけだ」
「緊急の時って、大体時間遡行軍に出くわすことがないよね」

 藤の言葉は希望的観測に満ちたものではあったが、彼女の表情自体は出陣の際に見せる淡々とした冷めたものに変じていた。彼女は出陣の折には、いつもこうして感情を抑えるような顔を見せる。歌仙としては既に慣れていたが、乱は少し驚いたように主を見つめていた。

「調査の範囲が大雑把になってしまうから、たまたま今までは出くわさなかっただけだよ。可能性は、まあ低いのだろうが」

 言いつつ、歌仙は自分の服の裾をまとめあげていた襷あげの紐を解く。前髪をまとめていた紐も外し、さらりとした長いすみれ色の髪が彼の額を隠した。

「乱。急で悪いが、今日がきみの初陣になるらしい」
「任せて。うずうずしてたくらいだから! でも、敵には今回出会わないの?」
「いる可能性はゼロではない。緊急任務の場合、敵の脅威度を判定するだけで終わるのではなく、接敵する確率が高いと言われているからね」
「普通のときは、敵の数を数えるだけ?」
「ああ。他にも、敵が乱していった情勢を落ち着かせるために、あれこれ手を回す場合もあるが……今回に限ってなら、敵がその時代に来ているかどうかも怪しい」

 緊急と題されているのだから、観測された時間遡行軍の部隊が大規模の可能性が高いことは想像がつく。けれども、主も言っていたように、接敵する可能性は綿密な事前調査が行われていないが故に、逆に低くなりがちだ。

「なーんだ。ちょっと残念」
「乱、僕らはただ敵を斬るためだけに顕現したわけではないのだよ」
「分かってるって。でも、少しボクの力を試したかったなって思っただけだよ」

 乱は腕を組んで、不服そうに唇を尖らせる。その仕草は可愛らしいが、言っていることは命のやり取りを自ら望むという些か物騒すぎるものだった。

「ねえ、もし敵がいたらどうするの? 接敵するってことは、戦うの?」
「相手に気付かれたなら、こちらで対処するしかないだろう。実力を上回っていると考えられるなら、援軍の要請を出すよ。僕らはまだ六振りしかいないわけだから、援軍の要請は他の本丸に頼むことになるかな」

 歌仙に確認のための目配せをされて、藤はこくりと頷く。
 同時に、彼が口にした内容に、藤は自分の至らなさを痛感させられてしまってもいた。体の内側に薄い刃を差し込まれたような痛みを胸の内に覚え、彼女は歌仙に気付かれないように微かに目を伏せる。
 わざわざ、よその本丸に要請を依頼するという手順を踏まなければならないのは、自分が顕現を後回しにし続けているからだ。十分な刀剣男士がいれば、自分の所属する本丸に援軍を回してくれ、と頼むだけで済む。細かい事情を斟酌する必要がないため、行動だって迅速に行える。
 だが、他の本丸に依頼する場合は、どうしても余分な手続きが間に生まれてしまう。その間に手遅れになってしまったらと思うと、肺腑に冷水が流し込まれるような寒気を覚えてしまう。

「顕現、もう少ししたほうがいいかな」

 ぽつりと藤が漏らした言葉を、歌仙は聞き逃さなかった。彼女の言葉の内側に隠れているだろう苦悩を、歌仙は同時に読み取ったつもりだった。

「無理はしなくていいよ。きみにもきみの事情があるだろうから。乱、出陣の準備をしよう。主も転送装置の準備をしておいてくれ」

 乱は主に自分の荷物を託すと、歌仙の背を追っていそいそと駆け出していった。
 残された藤は端末の電源を落とし、買ったばかりの洋服と汚れた服を抱え、靴を脱いで板張りの廊下へとあがる。トントンと音を立てて歩き始めた藤は、廊下に据え付けられている鏡の前で思わず足を止めた。
 普段の自分ならまずしない格好をした姿の己が、そこには映し出されていた。

「似合っているって、言ってもらえた」

 あのときの歌仙は、本当に心の底から漏れ出た声を口にしたように見えた。だから、藤もそれをお世辞ではなく本音として受け取っていた。

「僕が好きな物を、君たちも好きでいてくれるって、信じてもいいのかな」

 出陣の連絡は重要なものだと分かっていたが、その程度で藤の中に灯った灯は消えはしなかった。

「皆に話すことができたなら、また『楽しい』を見つけられるのかな」

 ほんの少しの期待を込めて、彼女は呟く。鏡の向こうの自分は未だ虚ろな瞳をしていたが、隠しきれない希望の灯を微笑として浮かべてもいた。その笑みは、髭切が探し求めている花畑のときの彼女が見せた笑顔でもあった。
 だが、本丸の奥で聞こえる歌仙の声で我に返った藤は、改めて表情を引き締め直す。今は、まだ審神者の顔を崩してはならない。出陣に向かう彼らを見送るのに、相応しい顔を見せねばならない。
 やがて、全員が出陣のための装束に身を包んでやってきた頃には、彼女の口元にあった淡い笑みは既に消え失せていた。
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