本編第一部(完結済み)
神社の鳥居の向こう側、蹲っている主に手を差し伸べている誰かがいる。それは元旦の日に起きたことの焼き直しだと気がついた髭切は、一目散に彼女に向かって駆け出した。
これは、自分が入り込んでいる主の夢だろう。あるいは、自分が勝手に見ているものかもしれないが、それでも構わない。
今は元旦からすでに数週間が経っていると、彼は頭では理解していた。けれども、夢でもいい。あれを確かめねばと彼は走る。
あの日もそこにある者を、誰も認識していなかった。道を通る通行人たちも、参拝客も、神社に勤める者たちですらも、まるで意に介していなかった。
(どうして、あれに誰も気がつかないの)
それは、一言で言うなら異様であった。
そこにあるというだけで、思わずその場に釘付けにされてしまうかのような圧力を覚えずにはいられない。刀剣男士であり、由緒ある刀の付喪神の髭切ですらも、足に震えが走ってしまうほどに。
あれは、何だ。
悍ましいと斬り捨てるには近寄りがたく、かといって神々しいと崇めるには血なまぐさい。主に接近している何か――あの狐のあやかしが言っていた存在は、この自分すらもたじろがせるほどの強力な存在ということかと、彼は考える。だが、ただそれだけだと断じてしまうには、あれは異質だった。
蹲っていた主が顔を上げる。その異質な存在を前にして彼女は――歓喜していた。一瞬瞳によぎった感情は、懐古であり、同時に喜びとしか形容できないものだった。
求めてやまない彼女の笑顔が、あの太陽のような朗らかな笑顔の残滓が、彼女の顔に浮かび上がる。
手を伸ばし、その正体不明の何かが差し伸べた、手と思しき物体を掴もうとする――。
「主!!」
大声で、彼女を呼ぶ。たとえ夢の中に過ぎないと言えど、叫ばずにはいられなかった。
途端に、藤の前にいた何かは夢のように姿を消し、水をかけた火のように彼女の横顔から喜びが剥がれ落ちる。
構うことなく、髭切は主に駆け寄ってその両肩を掴んだ。彼の前にあったのは、見慣れてしまった彼女の笑顔だった。
口角を少しばかり釣り上げ、唇に緩く弧を描いた笑み。皆が彼女の笑顔だと信じているものだ。
「主、もうそれはやめて」
「それって?」
彼女は笑ったまま尋ねる。これが自分の作り出した夢の中の主なのか、それとも以前のように夢を通して交わっている本当の主なのかは分からない。けれども、彼は声をかけずにはいられなかった。
「その笑顔。嘘をついてる笑顔は見慣れてるって、前に僕に言っていたよね。主の今の笑顔も、そういうものなんじゃないのかな」
「じゃあ、君はどんな顔をすれば喜んでくれるの」
髭切は声を失う。彼女の問いには、前提として自分の好きなようにするという選択肢が、存在してすら居なかったからだ。彼女にとっての行動指針は他人にあるということを、これ以上なくはっきりと彼女自身が示していた。
できるならこれが己の夢であってほしいと願う髭切を余所に、笑顔の彼女はつらつらと言葉を並べていく。
「髭切は怒った顔がいいのかな。それとも泣いてる方がいい? あ、もしかして真面目な顔が主として相応しいって思ってる? それとも困ってる顔の方が頼りなさそうで丁度いい? でもそれだと歌仙たちに心配をかけてしまうから」
「僕は、主が楽しそうにしている顔が好きなんだよ」
「じゃあ、やっぱり笑顔だね」
「――そうじゃなくてっ」
何故、彼女は自分の言葉を受け入れてくれないのだと、髭切は歯がみする。これでは、穴に話しかけているのと変わりないではないか。
「そうじゃなくて、主が本当に楽しそうにしている顔が、僕は見たいんだ」
「…………」
彼女の体に、ぶるりと震えが走る。じっと髭切を見上げ、藤は唇を震わせていた。まるで帰る場所を見失った雛のように、不安に揺れている瞳がこちらを見つめている。
その様子から直感で彼は悟る。これは、自分の夢ではなく、主の夢なのだと。何故なら己を見つめる瞳が、今まで髭切が見たこともないような空虚で、満たされていたからだ。こんな主を、今の自分では想像すらできないと他ならぬ自身が分かっていた。
「わからないんだ。楽しいのが」
いつしか、彼女の笑顔の仮面は剥がれ落ちていた。剥がれ落ちた下にあったのは、瞳と変わらない虚ろなものだった。
「私は、何が楽しいんだろう。分からないんだよ、もう。誰といるのが楽しくて、何を食べれば美味しくて、自分が何をしたら心が満たされるのか、分からないんだ」
「……主」
「私の好きな物は、何だったんだろう。私は、皆にどう見てもらうべきなんだろう。私はちゃんと、審神者でいられているんだろうか。本当に私は、ここにいていいの?」
両肩に置かれた髭切の手から逃れるように、彼女はそっと彼の手を掴んで離した。髭切の両手を握る彼女の手は、気がつかない内に真っ黒に汚れていた。
いや、それはただの泥のような汚れではない。髭切も見慣れている黒ずんだ赤――血肉がこびりついた手だった。
「私は、本当はここにいちゃいけない。君たち神様に触れていいような人じゃない。審神者なんて、なるべきじゃなかったのに」
「それが、本当に君の答えなの? 僕は――僕らは、主に会えて良かったと思ってるって言っても?」
髭切の声など聞こえないように、彼女はゆるゆると首を横に振る。
「なるべきじゃなかったんだ。でも、他に道がなかったから。もしならなかったら、私の大事な誇りを折らなければ仕事に就くことはできないだろうって、言われていて」
「誇りを、折る?」
「だから、私は自分勝手なんだ。自分勝手で我が儘なのに、皆とは離れたくなくて、君にも耳障りのいいことを言ったけれど……本当はただ君に私を重ね合わせて、言葉を投げかけただけだった」
最早髭切の言葉など届いていないのだろう。取り留めも無い言葉を流し続ける壊れたからくりのように、彼女は己の思いを吐露し続けていた。
主によって引き剥がされた手を、髭切は再び伸ばす。言葉が届かなくても、触れれば何かを伝えられる。そう信じていたから。だが、
「だめだよ、髭切」
彼の手を、掴む者がいた。
それは、薄闇の中から滲み出るようにして表れた。その姿は主とうり二つであるというのに、髭切は言い知れない怖気を彼女から感じ取っていた。
「君が僕に触っちゃいけない。だって僕は穢れてるから。君から汚れにいくような真似しちゃだめだよ」
「主は、穢れてなんかいない」
うり二つであるものの、もう一人の藤の顔は先ほどまで主が浮かべていた仮面の笑みを顔中に広げていた。表情だけを見るなら確かに笑顔なのに、その瞳はちっとも笑っていない。
いや、嗤ってはいる。己を嘲るかのように。
「穢れてるよ。だって僕は■■を口にしたのだから。それは、穢れだと教えられた。どれほど禊ぎを重ねても消えない穢れだと、おばさんに何度も何度も言われたんだ」
彼女の言葉の一部は、まるでそこだけ雑音が入り込んだように乱れてしまって判然としなかった。故に言葉の真意は測りかねたが、それでも髭切の抗弁の障害にはならなかった。
「何のことかは知らないけど、僕らは主に触れても平気だ。だからそんなものは存在しない」
「でも僕は君たちに触れるのが、ひどく苦痛だ」
「ひどく、苦痛?」
「おばさんは、それは罰だと言っていた。実際、僕は神様の住み処に近づいた後は、いつも気分が悪くなっていた。それなら、もう仕方ないよね。僕が間違っているんだから」
髭切の問いかけに答えず彼女の影法師のようなその人物は髭切の手を離し、蹲って頭を抱え込んでしまっているもう一人の自分の腕をぐいと引っ張り上げた。
よろよろと立ち上がった藤は、縋るような目で髭切を見つめている。弱り切った力を振り絞り、彼に手を伸ばそうとして――しかし、彼女の手をもう一人の藤が引き留めてしまった。
「どのツラ下げて彼らに頼るつもり? 嘘つきのくせに。騙しているくせに。君はずっと笑っていればいいんだ。そうすれば皆を安心させられる。簡単なことだよね。それ以上は、誰も求めていないんだから」
笑い続ける影法師の言葉が癇に障り、髭切は即座に否定を重ねた。
「そんな笑顔、僕はいらない。僕は、主の好きなようにしてみてほしいんだ。そうしたら、探していた君の笑顔を見つけられるだろうから」
藤は俯いたまま答えない。彼女の影法師は、笑顔を貼り付けて凍り付いている。
時間だけが間延びしたように過ぎていき、やがてプツリと世界が暗転した。
***
ガンガンと耳元ではっきりとしない大音声が響き渡り、髭切は頭上で太鼓でも鳴らされているのではないかと、一瞬思った。だが、次第にそれはただの音から意味のある声と変じていった。
「ひーげーきーりー! おはよう! 起きる時間だよ!!」
「ああ、次郎……。おはよう、早いんだね」
「もう八時だよ。アンタにしては珍しくお寝坊さんだね。普段は言われなくても、早く起きているっていうのに」
枕元に立つ次郎にゆさゆさと揺さぶられ、靄がかかったようになっていた髭切の意識も強制的に覚醒する。身を起こせば、たしかに彼の言うとおり冬の朝日が障子越しに部屋を照らしていた。
「そうだ、主は?」
「主なら、今鍛刀の真っ最中さ。儀式は終わったから、刀本体が出来上がるまでは、少し寝てるって話してたけどね」
何していたんだろうねと、次郎はからからと笑う。詮索するというよりは、純粋に興味を抱いているようだ。
「鍛刀って、主は新しい刀剣男士を顕現するつもりなの?」
「まさか、鍛刀して飾っておくだけってこともないだろうから、そうなんじゃないかい? アタシも初めての顕現に立ち会うわけだから、わくわくしてるんだよ」
次郎は嬉しそうな様子を隠さず、いそいそと髭切の部屋の障子を開き、外の空気を入れていく。対する髭切は、まだ回転しきっていない頭を、ようやく動かし始めたところだった。
「こんな時期に?」
「こんなって、別にそんなに変でもないだろう。アタシが顕現してそろそろ三ヶ月近く経とうとしてるよ」
「そうだけども……主はそれでいいのかな」
「――ま、アタシもそう思う部分もあるけどさ。でも、そんなこと言ってたら、いつまでも何もできないって考えたのかもしれないね」
髭切が言外に滲ませたように、主の心労は十二月の頃からさして改善しているように見えない。本丸から離れているときも、戻ってからも、彼女はどこか無理をしていると彼は感じていた。彼女の笑顔が嘘だと断定できるほどの確信を、次郎は持っていないようだが、薄ら察している点は髭切と変わらないようだ。
だが、髭切は次郎ほど楽観視できていなかった。今朝見た夢がもし、主の心象を映し出しているのだとするならば、彼女の心労は回復するどころか、ますます悪化している。
「ねえ、主って何か悪いものが憑いているように見えたりする?」
「藪から棒にどうしたんだい?」
「いいから。次郎の目から見たら、どう?」
髭切は夢の中で言及されていた『穢れ』という存在を思い返し、次郎に尋ねる。
彼女が以前見た悪夢でも、彼女の手はひどく汚れていた。あの夢にいた主の養母は、主を『悪い子』と呼んでいた。今朝の夢でも、主はどれだけ禊ぎをしても消せない穢れが憑いていると、影法師の自分に詰られていた。
だが、髭切にはそんなものは全く見えていないのだ。もっとも、いくら刀剣男士とはいえ、彼はその手の呪いや妖術の類には疎い。元々は武家に扱われていたことも、関係あるかもしれない。
けれども神社暮らしが長かったという次郎なら、何か違うものが見えているのかもしれないと思い、髭切は改めて彼の意見を聞いてみたのだ。
「悪いもののけとか、あやかしとか、そういう類のせいじゃないとアタシは思うよ。最近誰かに呪いをかけられたって感じもしないしね。やっぱりただの疲れだろうさ」
「次郎から見ても、そうなんだね。じゃあその線は違うのかな」
神社の中に入るだけで体調を崩し、巫女が近づくだけで逃げ出した。それだけ見ると、まるで悪いものが神聖な物を嫌って避けているようにも見える。
――さながら、本当の鬼のようだ。
「主の場合は、気を張りすぎてるだけだろうさ。それより髭切。口を動かすより先に手を動かしてくれないと、また歌仙にどやされるよ?」
「それもそうだね」
髭切はようやく立ち上がり、寝間着に手をかける。着替えている途中でも、彼の頭からは夢のことが離れてくれなかった。
(今日は、いつになくはっきりと主の夢を見た気がする)
あれが、本当に主の夢に入り込んだが故に目にしたものと仮定した場合、前回の夢から実に二ヶ月近く間を置いている。心の声が木霊するのも、以前に比べればぐっと数が減っていた。
夢の中の髭切も、顕現した当初のときのように主の内側に入り込んでいるのではなく、完全に切り離された存在となっている。いずれ、自分と彼女の繋がりは断たれるだろうと、髭切は予測していた。
顕現した時から、自分の感情と混ざり合う主の感情には翻弄され、驚かされもした。しかし、だからこそ気がつくものもあった。
(主が笑っているのに、心が笑っていないことは何度かあった)
皆が表面的な笑顔を受け入れている傍ら、気がつけなかった主の内側に潜むざわめきを、髭切は聞いていた。故に、三日月宗近に主の笑顔が仮面のようだと指摘されて、すんなりと納得できた。
歌仙たちには、恐らくこの繋がりはない。もしあるのなら、あの彼があんな夢を見て主に何も言わないわけがない。
(僕と彼らの違い――やはり、顕現の時に、主を斬ったから?)
まだ刀の形を取るより先に、髭切は自分を呼び寄せた鬼の首を斬り落とそうとした。結果的にそれは未遂に済み、今は自分が主を殺さなくて良かったとも思っている。
だが、その結果はさておくとしても、他の刀剣男士を顕現するときに決してありえないことが、あの場で起きた。顕現が完了しきっていない彼の刀身に、主の血が異物として混ざりこんでしまったのだ。
この考えは夢を見る原因を探るために、ありとあらゆる瞬間を、記憶の底から浚った結果としての答えだった。
(僕自身に主の一部が混ざったから、今は繋がりができているとして。それが弱くなってしまったのは、僕がその異物を無意識に外に出しちゃったからかな。もしくは、僕の中に混ざり過ぎちゃって、完璧に僕の一部になってしまったとか)
推測に推測を重ねたところで、結論が出るわけではない。今確かなのは、主と出来た縁が薄れかかっているという事実だ。
(夢をのぞき見ないことの方が、当たり前なのかもしれないけど……もうちょっと、待っていてほしいな)
三日月宗近に示唆され、更紗という娘に託され、何より髭切が彼女の今の有様に違和感を覚えているのだ。
どうでもいいと流すには、彼女はあまりに深く髭切に関わりすぎている。彼にとって藤という存在は、最早どうでもよくないものになっていた。
それだけで、理由は十分だ。
「よし、行こうか」
肩にはいつもの白の上着を載せ、腰に己自身を佩き、彼は顕現の間へと足を向ける。その間も、今から向かう先に居る主のことが心から離れはしなかった。
***
すーっと襖を開くと、髭切の前には既に共に来た次郎以外の全員が一堂に会していた。
「髭切、おはよう。今日は遅かったね」
「髭切さん、お、おはようございます」
「おはよう、歌仙に五虎退。少し寝坊しちゃったよ」
二人に挨拶を返し、髭切は部屋の中心に目をやる。そこには、眠そうに目をこすっている主が、白布の前に鎮座していた。直前まで休んでいたというのは、嘘ではないようだ。
「ふぁ……おはよう、髭切。それに次郎も」
言いながら、藤はぐるりと部屋を見渡して思わず苦笑いを零した。上背の高い二人が入ってきたせいで、顕現のための部屋は、最早ぎゅうぎゅう詰めと称しても過言ではない様子を見せていたからだ。
「髭切が来る前からちょっと狭いなって思っていたけど、ここまでの人数になると狭さが際立つね」
藤が言う通り、髭切の顕現の際に起きた事件を考慮して、顕現直後に諍いが発生した場合の仲裁役代わりの彼らも、今や五人となっている。大の大人が三人、子供も二人となれば小さな顕現用の部屋では手狭すぎるのだ。
「それについてはおいおい考えていけばいいよ。じゃあ主、始めるんだろう」
歌仙に急かされて、藤は白布に鎮座する刀に向き合う。
長さは脇差よりも短く、恐らくは短刀と称されるものだろう。刃には乱れた波を思わせる波紋が、薄っすらと浮かび上がっている。見ていると目がクラクラするような、見事な乱れ模様に、髭切も思わず目を吸い寄せられていた。
「うん、始めようか」
開始の言葉として藤が口にしたのは、たったそれだけだった。彼女の手が刃へと伸び、呼ばれる時を今か今かと待っている銀の刀身へ触れる。
途端、紫の薄い花弁がふわりと舞う様子をこの場にいる皆が幻視した。彼女の名と同じ藤の花と思しき色が、風を染め上げたかのようにゆるりと髭切の視界をよぎる。すうっと通り抜けていく甘い香りに鼻が気がついた刹那、刀から眩い光が溢れ、白布に置かれていたそれが人の形となる。
まず見えたのは、秋の銀杏の葉のような山吹色の髪。細長く癖のないそれは、肩からさらりと落ちるほど長い。纏う装束は紺の軍服を思わせるものだったが、袖はふんわりと蕾のように膨らんでいる。
そんな彼の足を覆っているのはズボンではなく、花のように舞うスカートだった。裾から、ちらりちらりと翻る桃色は、さながら本丸に一足早く春が訪れたかのような錯覚を、見る者に与える。
トンと舞い降りたその刀剣男士は、長い睫毛に縁取られた瞼を持ち上げた。そこにはまるで夏の空をそのまま切り取ってはめ込んだような、宝石と見紛う色合いを持つ瞳があった。
「乱藤四郎だよ。……ねぇ、ボクと乱れたいの?」
くるりと一回転してから、少女のような見た目をした乱藤四郎という名の刀剣男士は主に近づき、くすりと微笑む。喉から出た彼の声も、細く繊細な女性のそれに似ていた。
次郎のように歌舞伎役者の女形としての姿ではなく、まるで女の子そのもののような姿の刀剣男士が、そこに立っていた。
「刀剣男士……だよね?」
「ボクは刀剣男士だよ。もう、あるじさんってば!」
藤が思わず確認してしまうのも、無理はない。乱の出で立ちは、まさに少女そのものなのだから。
だが、片手に握っているのは明らかに先ほどまで白布の上に載っていた刀であったし、よくよく見れば彼の纏う衣服の意匠はどことなく五虎退のものに似ていた。
藤がそれを指摘するより先に、彼女の後ろに控えていた五虎退がパッと顔を輝かせる。
「乱兄さん!」
「五虎退!」
駆け寄ってきた白髪の少年を、金髪の彼女――もとい彼は、難なく受け止めた。小鳥がさえずるような心地よい笑い声が部屋に広がり、この様子ならば身構える必要はないだろうと歌仙や他の者も肩の力を抜く。
「乱藤四郎は、五虎退のお姉さん……じゃない、お兄さんなの?」
「は、はい。あるじさま、乱藤四郎兄さんは僕を作った人と同じ人が、作った刀なんです。乱兄さん、紹介しますね。こちらの方が、僕らのあるじさまです。藤っていうお名前なんです」
「初めまして、よろしくね!」
見た目に違わず朗らかな太陽のような笑顔を藤に向け、乱は手を差し出した。ようやく見た目の衝撃から立ち直った藤は、差し出された彼の手をおずおずと取る。握り返す彼の力は、確かに刀剣男士らしい力強いものだった。
「やっぱり男の子なんだね」
「そうだよ? えっとあるじさんは」
「あるじさまは、女性の方です。凄くお優しいんですよ」
再び誤解を招くことがないように、五虎退はすぐさま注釈を口に出す。頬を桜色に染めて嬉しそうに語る少年は、敬愛する主を紹介できるという誉に輝いていた。
「少しいいかな。五虎退」
三人ですっかり盛り上がってしまっているところに割り込んだのは、歌仙兼定だった。彼は「失礼するよ」と断りを入れると、こほんと一つ咳払いをする。
「僕は歌仙兼定。この本丸の最初の刀剣男士だ。主については先程五虎退が紹介した通りだよ」
「よろしくね、歌仙さん。えっと……じゃあ、まずボクは何をすればいいんだろう?」
「歌仙、乱に本丸の案内をおいてくれるかな」
答えたのは歌仙ではなく、藤だった。どのみち同じようなことを言うつもりだった歌仙に異論があるはずもなく、一つ首肯を返して、すぐさま本丸の間取りについて口にし始める。
二人の間で、やりとりが始まったのを横目で確認してから、藤はそろりそろりと乱たちから距離を置いた。その仕草はさながら猫のようで、まったく音のしない静かで自然なものだった。
「主、どこに行くんだい?」
部屋の入り口近くに陣取っていた次郎に声をかけられ、彼女は足を止める。そこには、次郎だけでなく髭切も立っていた。
「ちょっと、寝なおそうかと思って。仮眠だけじゃやっぱり眠いからさ。実は昨日、遅くまで起きていたんだ」
「それなら、アタシと歌仙であの子の面倒は見ておくからさ。ほら、ゆっくり休んで元気な顔を見せとくれよ!」
次郎にぽんぽんと頭を撫でられ、藤はいつものように笑ってみせた。だが、それは髭切が一目で看破できるほどに不格好な代物だった。
彼女が部屋から姿を消してすぐ、髭切もまた踵を返そうとしたが今度も次郎が彼を呼び止める。
「髭切、アンタも寝直すのかい」
「ううん。ちょっと主に用が」
「でも、寝るって言ってただろう? 用があるなら起きてからにした方が良いとアタシは思うよ」
髭切はそれ以上次郎に返事をすることもなく、問答無用で主の部屋に向かった。彼女の心の木霊はもう聞こえない。けれども、彼は確信を持って言えた。
彼女の心は、再び波立ってしまっていると。
***
「――女の子かと、思った」
自室に戻った藤は、まるでぜんまいが切れた人形のようにふらりふらりと部屋の真ん中にやってきて、崩れ落ちた。
その理由は、乱藤四郎の容姿に驚いたからではある。が、彼女の心を揺らしているのは、ただの驚きだけではなかった。
「あんなに綺麗な髪をしてて、綺麗な目をしてて」
今までも、顕現してきた中に容姿端麗な刀剣男士はいくらでもいた。否、全員がそうだと言ってもいい。
物吉も五虎退も、歌仙も次郎も髭切も、皆常人より目鼻立ちが整っている。そこに立っているだけで、人を惹きつける美を兼ね備えている。
しかしその美しさも、言ってしまえば男性的な魅力だった。女性顔負けの顔立ちとは言えないこともないが、彼らの容姿を羨みはしなかった。刀剣男士たちの体格や装いは、明らかに藤にとって異性のものだ。ほっそりとした体躯の五虎退でさえ、一目見れば少年と分かる。
――なのに彼は、乱藤四郎は。
花のようなスカートがよく似合う、華奢な体つき。女の子のように細く、耳障りのよい可愛らしい声。長い睫毛に滑らかな肌。癖のない、さらさらの髪。
どれもこれも、眩しすぎる。
届かない高嶺の花として眺めるだけなら、心は波立つこともなかったのに、よりにもよって彼は刀剣男士なのだ。彼は己を「あるじさん」と呼び、親しげに交流を深めようとしているのだ。
なまじっか『女』という存在に近い形として現れたが故に、彼女は痛感してしまう。
自分と乱は違う。違いすぎる。お前はこの域に至れないのだと、運命がこちらを指さし笑っている声が聞こえるかのようだ。
「……ずるいよ」
食いしばった歯から漏れた音は、ひどい嫉妬に塗れていた。
よろよろと持ち上げた顔が、机の上に申し訳程度に置かれた小さな鏡に映る。肩のあたりで切られた癖の多い髪。平坦な体つき。妬みで歪んだ顔は、自分でも醜いと思うものだった。
衝動的に鏡を掴み、藤はそれを部屋の片隅に勢いよく放り投げた。無残な音と共に床に落ちた鏡を見ることなく、今度は頭に爪を立ててぐしゃぐしゃと乱していく。
羨ましい。
羨ましい羨ましい羨ましい。
男の子なのに、あんなに綺麗で、可愛くて。誰からも好かれるような容姿をしていて。
それに何より――そんな嫉妬に塗れた自分が一番嫌だ。
容姿のことを思うと、その思いに引きずられるように記憶がぐるりと遡る。それは藤にとってほんの数年前の話だった。
まだ、高校に在学中だった頃。丁度そのときの自分は、淡い片思いの初恋を見事に散らした直後だった。
青春時代のよくある話の一つ。ただそれだけとして片付けられるほどの達観は、まだできていなかった。だから真新しい傷跡を抱えて、耐えるように日々を過ごしていた。
そんなある日のこと。頼まれたゴミ捨てを終え、教室に戻ってきた彼女は聞いてしまった。こちらに向けて、わざと聞かせるように囁かれた言葉を。
「男の子みたいな姿してるんだからさ。いっそ男の子になってしまったらいいじゃない。ねえ、あなただってそう思うでしょう?」
敵意を剥き出しにして、こちらを見ていた女生徒は、自分の片思い相手に同様の淡い思いを抱えていたらしいとは知っていた。恋敵になるかもしれなかった誰かの声は、敗残者になった相手を哀れむように、歪んだ笑みを見せた。
「きっとその方が似合うわよ。大体あんたのこと、彼が好きになるわけないじゃない。胸もちっさいし、つーか、ほとんどないし? 顔だって地味だし」
「皆知ってるけど、先生がうるさいから敢えて言ってないだけなのよね。あんたの角、本当は皆こう思ってるんだから。気持ち悪いって」
俯いたあの時の自分の前にだらりと落ちたのは、長い三つ編みだった。母と同じ髪色だからと、ついつい切らずにいたものだった。
けれども、己の手は気がつけば鋏に伸びていて、伸ばした髪を切り落とす躊躇は、すっかりなくなってしまっていた。
考えれば考えるほど、疲れてしまう。
どうして、自分は他の皆が当たり前のように持っているものが、ないのだろうと。顔の美醜はともかくも、この体格だけはどうにもならなかったのだろうかと。
養母に相談したこともあった。彼女はそれを『悪いことをした天罰』と言って、慰めるだけだった。
他の女子のように高くもない声が、平坦な体格が、受け入れられない。それならいっそ、男の子になってしまえばいい。そうしてしまえば、きっと楽になれる。
だから審神者になる一年ほど前から、一人称を変えた。『私』ではなく『僕』というようにした。服装も、制服以外は無地のズボンやシャツをわざと選んできた。ここでも、男の子としてのあり方を選ぶつもりだった。
だが、この判断は甘かったのだと藤はすぐに痛感した。養父も学校の同級生も、彼女の口調に違和感を覚えながらも、藤を無意識に女性として扱っていた。
しかし、刀剣男士は違う。彼らは、ありのままを受け入れ、思うがままに行動する。当初、彼女が男性のような振る舞いをしたら、五虎退はそれを素直に受け入れてしまった。故に、彼女は男扱いをされればされるほど、受け入れられない自分がどこかに残っているままだということに、ようやく気付かされた。
結果、この中途半端な偽造は五虎退を戸惑わせ、すぐに歌仙によって暴かれた。何の事情も知らない五虎退は、寧ろ逆に気を遣い、殊更に藤を女性扱いまでするようになってしまっていた。
「でも、皆はそれ以上は何も言わなかったから……気にしないままでいようとできたのに」
見てしまった。
自分が思い描くような『可愛い』を凝縮したような刀剣男士の姿を、見てしまった。
しかも、彼はこの本丸に居る。これからも何度も顔を合わせることになる。その度に、こんな黒い感情を抱いてしまう自分に、吐き気を催すような嫌悪を覚えてしまうだろう。
泣き声は漏れない。
漏らしてはいけない。
誰が悪いわけでもないのだから。
乱藤四郎だって何も主を困らせるために、あの姿で顕現しているのではないのだから。刀剣男士は、顕現する自分の姿を選べないと彼女も知っている。
だから、これは仕方ない。仕方ないこと故に、生まれてしまった感情は全て捨てなければならない。
分かっているのに。
「こんなもの、切り捨てないといけないのに」
もし、『嫌い』まで捨ててしまったら、いったい自分は何になってしまうのだろう。好きも楽しいも分からないのに『嫌い』まで見えなくなってしまったら、何がこの手に残るのだろうか。
(ほんと、自分勝手だよなあ……)
喉の奥が締め付けられたように痛み、声はもう出なくなってしまった。行き詰まった思考から逃れるように、藤は床の上に寝転がり、天井を見上げる。
何か別のことを考えたかったのに、思い出してしまったのは今朝見た酷い夢だった。
自分に詰られ、己のあり方を責められた。わかりきっていることを何度も囁かれた。袋小路にぶち当たっているのは、夢に見るまでもなく理解していた。
ほんの僅かに残っている自分の心は今、辛うじて二つの言葉を告げている。
――皆と離れたくない。
――審神者で居続けたい。
その理由が自分の都合を優先しているものだと分かっていたが、今はもう、形にできる願いはこれだけになってしまっていた。
「そういえば夢の中に、誰かいたような……」
自分の肩を掴み、真っ直ぐに向き合ってくれた誰か。彼の声ははっきりと聞こえなかったものの、心配してくれているのだと思うことはできた。だが、どれだけ記憶の底を浚っても、その誰かの顔は曖昧なままだった。
「そんな都合のいい王子様を夢の中で作り出すなんて、僕も弱いなぁ……」
横になったせいで、瞼が途端に重みを増したようだ。
仮眠をとるというのは半ば方便だったが、なかなか寝付けないでいるのは事実だった。酷いときなど明け方まで目が冴えてしまい、眠るというよりは気絶するように意識が落ちる日も珍しくないくらいだ。
寝台に上がる手間すら今の彼女には億劫で、藤は冷たい床の上に体を横たえて、そのまま意識をぶつりと途切れさせた。
***
一方、髭切は顕現の部屋から出て、厨に来ていた。
最初は、主の部屋に直行するつもりだった。だが、何も持っていかずに会話だけするのも難しいだろうと、一応彼なりに段取りを考えていたのだ。
このまま向かっても、きっと「仮眠をとるから」と言って追い返されてしまうだろう。しかし彼は、彼女が皆に伝えていたその言葉を、人払いのための言い訳だと捉えていた。
ならば、鍛刀で疲れた体に、暖かいお茶でもどうだろうかと思って部屋に来た――と言えば、主も追い返しづらいだろう。髭切も、たまに小言を言いにやって来た歌仙にやられる手段でもあった。
彼は慣れない手つきでお湯を沸かし、見よう見まねでお茶らしきものを用意していた。その手順ときたら、歌仙が見たら卒倒ものだったが、今の彼を止める者はいない。茶菓子らしき袋を棚から引っ張り出し、髭切は鍛刀部屋を出てから十分後には主の部屋の前まで来ていた。
「主、入るね」
一応断りの言葉は入れるものの、返事を待たずに髭切は片手でお盆を持ち、片手で襖を開く。
しかし開いた瞬間、彼は思わずお盆を落としかけた。主が床の上に倒れていたからだ。
「――!?」
息を呑み、髭切は彼女に向かって一目散に駆け寄った。片手のお盆を乱暴に机に置いたために、勢い余って零れたお茶が小さな水たまりを作る。
「主!?」
藤の体を揺さぶろうとした瞬間、彼女は「ううん」と言いながらごろりと寝返りを打った。続いて、規則正しい寝息が聞こえる。
どうやら次郎に別れ際に告げたように、本当に寝てしまったらしい。あれは人払いの方便というわけだけではなかったのかと、髭切は納得すると同時に安堵の息を吐いた。
「こんな所で寝ていると、体を冷やしてしまうよ。人間は体を冷やすと風邪をひいてしまうんだよね」
呼びかけても、彼女はごろごろと髭切から逃げるように寝返りを打つばかりだった。
仕方ないと、髭切は寝台の上に丸めて置かれている布団を手に持ち、彼女の体にばさりとかける。器用なことに、彼女は布団を巻き付けて、蓑虫のようになるまで寝返りを繰り返してから、再びじっと動かなくなってしまった。
「ううん、これじゃあ話も難しそうだね」
本当は、主が顕現直後に苦い笑顔を見せた件や、主の見ている夢の話などをしてみようかと思っていた。だが、当の本人が眠りこけているのでは、話をする云々以前の問題だ。
仕方なく、彼は彼女の隣に腰掛けると持ってきたお茶を口にした。飲んだお茶には葉っぱが混ざっており、思わず彼は渋い顔になる。
「おかしいな。歌仙の真似をしたはずなのに」
まあいいかと、彼は構わずお茶を口に含む。折角持ってきた茶菓子の煎餅も、主が眠っているのでは持ってきた意味が無くなってしまった。
どうしようかと髭切が部屋を見渡していると、彼は部屋の角で思わず目を留める。そこには、うち捨てられたように無造作に鏡が転がっていた。
「上に置いていたものが落ちてきた……というわけではなさそうだね」
鏡に近寄った髭切は、磨かれた鏡面に無残な亀裂がはいっていることに気がつく。落ちた破片をこのままにしておいては危ないだろう。髭切は手袋に包まれた手で、一つ一つキラキラと輝く破片を拾い上げた。
「主は物を大事にする方だと思っていたのだけれど……こんな風にしておくなんて、何があったんだろう」
破片を鏡本体と一緒にまとめてゴミ箱に捨ててから、髭切は首を傾げる。あの鏡は、間違いなく部屋の端に向かって放り投げられたが故に割れたものだ。鏡を見て何か嫌なことでも思い出したのだろうか。
鏡など、この本丸にはいくらでもあるというのに。今更何を――とまで考えた髭切は、待てよと思考を切り替える。
今までの彼女と今の彼女の違い。そこに存在しているとすぐに思いつくのは、乱藤四郎という新たな刀剣男士だ。
彼が、彼女の触れられたくない何かに触れてしまったとしたら。それが、鏡を見ればより際立つものなのだとしたら。
「角じゃないよね。なんだろう。髪の色とか目の色とかかな」
彼は刀剣男士であるが故に、世間で言う美醜や生まれ持っての体つきに対する評価を知らない。それが時に人の心にどんな傷を穿つのかを、理解できない。
主に訊きたいと思うことの一つに鏡の件を加えてから、髭切は主の側に腰掛けた。
「主。起きたら、ちょっと話したいことがあるんだ」
眠っている主は聞こえていないはずなのに、ゆるゆると首を横に振った。髭切は眉を不服そうに顰めて、彼女の眉間をぐりぐりと人差し指で押してみる。当然、返事はない。
「主の話、ちゃんと聞かせてよ」
今度は首を横にこそ振らなかったが、彼女は髭切に背を向けるようにして眠ってしまった。することもなくなった彼は、寝台にもたれかかり、彼女が目を覚ますのを待つことにした。
***
泥に沈み込むかのように眠っていた藤は、目を覚まして早々にぎょっとした。眠りから覚めたら、寝台にもたれかかって見知った者が船を漕いでいたら、誰だって驚きもする。まして彼女が寝る前に、その人物は部屋にいなかったはずなのだから。
「また勝手に、人の部屋に入ってきてる……」
ぶつぶつ言いながらも、藤は自分の体から滑り落ちた布団に気がついてふっと表情を緩める。恐らく、床で寝ている自分が体を冷やすまいと、彼が布団をかけてくれたのだろう。
倒れている自分を見て、きっと心配をかけたに違いない。改めて彼に心の中で謝罪してから、藤は自分にかかっていた布団を髭切へとかけた。彼が自分と話をしようとして来ていたことなど、当然知る由もない。
「うわ。茶葉を茶こしに通さないで直接急須に入れてる。髭切って大胆なお茶の入れ方をするんだなあ。これ、綺麗に洗えるかなあ」
持ってきていた茶菓子なども、まとめてお盆ごと持ち上げ、彼女は部屋から出て行こうとした。その足音に加えて、彼女が呟いた声に気がついた髭切は、浅い眠りから意識を引き上げる。
「あれ、主。起きたの?」
「おはよう。うん、さっき起きた所。布団、かけてくれてありがとう」
「どういたしまして。主、実はちょっと話があるんだ」
「話?」
お盆を持ったまま、藤は髭切に向き直る。彼はいったいどれから切り出すべきか悩み、まず直近で目にした件を口にすることにした。
だが髭切はまだ顕現して数ヶ月の刀剣男士であり、故に回り道をしてゆっくりと相手の心の氷を溶かすという話術をまるで知らなかった。
「主は、乱藤四郎のせいで鏡を割ったの?」
直球過ぎる彼の言葉に藤は動揺を見せかけるも、すぐさま貼り付け慣れた笑顔を顔に浮かべる。
「鏡? ああ……昨日誤って落として割っちゃったんだ。片付けるの面倒で部屋の隅にやってたんだよね。髭切が捨ててくれたの?」
「片付けてはおいたよ。ゴミ箱の中に入れておいたんだ」
「それは片付けたって言わないよ!?」
藤は目を丸くして、お盆を置いて慌ててどこかに行ってしまった。程なくして戻ってきた彼女は、幾枚かの厚紙のようなものと共に、鏡やガラスの欠片の片付け方を髭切にレクチャーし始める。話があるといった彼の言葉など、もうとうの昔に忘れてしまったようだった。
片付けが終われば、歌仙や五虎退が姿を見せてしまった。結局彼はその日、主にこれ以上踏み込んだ質問をすることはできないままとなってしまった。
これは、自分が入り込んでいる主の夢だろう。あるいは、自分が勝手に見ているものかもしれないが、それでも構わない。
今は元旦からすでに数週間が経っていると、彼は頭では理解していた。けれども、夢でもいい。あれを確かめねばと彼は走る。
あの日もそこにある者を、誰も認識していなかった。道を通る通行人たちも、参拝客も、神社に勤める者たちですらも、まるで意に介していなかった。
(どうして、あれに誰も気がつかないの)
それは、一言で言うなら異様であった。
そこにあるというだけで、思わずその場に釘付けにされてしまうかのような圧力を覚えずにはいられない。刀剣男士であり、由緒ある刀の付喪神の髭切ですらも、足に震えが走ってしまうほどに。
あれは、何だ。
悍ましいと斬り捨てるには近寄りがたく、かといって神々しいと崇めるには血なまぐさい。主に接近している何か――あの狐のあやかしが言っていた存在は、この自分すらもたじろがせるほどの強力な存在ということかと、彼は考える。だが、ただそれだけだと断じてしまうには、あれは異質だった。
蹲っていた主が顔を上げる。その異質な存在を前にして彼女は――歓喜していた。一瞬瞳によぎった感情は、懐古であり、同時に喜びとしか形容できないものだった。
求めてやまない彼女の笑顔が、あの太陽のような朗らかな笑顔の残滓が、彼女の顔に浮かび上がる。
手を伸ばし、その正体不明の何かが差し伸べた、手と思しき物体を掴もうとする――。
「主!!」
大声で、彼女を呼ぶ。たとえ夢の中に過ぎないと言えど、叫ばずにはいられなかった。
途端に、藤の前にいた何かは夢のように姿を消し、水をかけた火のように彼女の横顔から喜びが剥がれ落ちる。
構うことなく、髭切は主に駆け寄ってその両肩を掴んだ。彼の前にあったのは、見慣れてしまった彼女の笑顔だった。
口角を少しばかり釣り上げ、唇に緩く弧を描いた笑み。皆が彼女の笑顔だと信じているものだ。
「主、もうそれはやめて」
「それって?」
彼女は笑ったまま尋ねる。これが自分の作り出した夢の中の主なのか、それとも以前のように夢を通して交わっている本当の主なのかは分からない。けれども、彼は声をかけずにはいられなかった。
「その笑顔。嘘をついてる笑顔は見慣れてるって、前に僕に言っていたよね。主の今の笑顔も、そういうものなんじゃないのかな」
「じゃあ、君はどんな顔をすれば喜んでくれるの」
髭切は声を失う。彼女の問いには、前提として自分の好きなようにするという選択肢が、存在してすら居なかったからだ。彼女にとっての行動指針は他人にあるということを、これ以上なくはっきりと彼女自身が示していた。
できるならこれが己の夢であってほしいと願う髭切を余所に、笑顔の彼女はつらつらと言葉を並べていく。
「髭切は怒った顔がいいのかな。それとも泣いてる方がいい? あ、もしかして真面目な顔が主として相応しいって思ってる? それとも困ってる顔の方が頼りなさそうで丁度いい? でもそれだと歌仙たちに心配をかけてしまうから」
「僕は、主が楽しそうにしている顔が好きなんだよ」
「じゃあ、やっぱり笑顔だね」
「――そうじゃなくてっ」
何故、彼女は自分の言葉を受け入れてくれないのだと、髭切は歯がみする。これでは、穴に話しかけているのと変わりないではないか。
「そうじゃなくて、主が本当に楽しそうにしている顔が、僕は見たいんだ」
「…………」
彼女の体に、ぶるりと震えが走る。じっと髭切を見上げ、藤は唇を震わせていた。まるで帰る場所を見失った雛のように、不安に揺れている瞳がこちらを見つめている。
その様子から直感で彼は悟る。これは、自分の夢ではなく、主の夢なのだと。何故なら己を見つめる瞳が、今まで髭切が見たこともないような空虚で、満たされていたからだ。こんな主を、今の自分では想像すらできないと他ならぬ自身が分かっていた。
「わからないんだ。楽しいのが」
いつしか、彼女の笑顔の仮面は剥がれ落ちていた。剥がれ落ちた下にあったのは、瞳と変わらない虚ろなものだった。
「私は、何が楽しいんだろう。分からないんだよ、もう。誰といるのが楽しくて、何を食べれば美味しくて、自分が何をしたら心が満たされるのか、分からないんだ」
「……主」
「私の好きな物は、何だったんだろう。私は、皆にどう見てもらうべきなんだろう。私はちゃんと、審神者でいられているんだろうか。本当に私は、ここにいていいの?」
両肩に置かれた髭切の手から逃れるように、彼女はそっと彼の手を掴んで離した。髭切の両手を握る彼女の手は、気がつかない内に真っ黒に汚れていた。
いや、それはただの泥のような汚れではない。髭切も見慣れている黒ずんだ赤――血肉がこびりついた手だった。
「私は、本当はここにいちゃいけない。君たち神様に触れていいような人じゃない。審神者なんて、なるべきじゃなかったのに」
「それが、本当に君の答えなの? 僕は――僕らは、主に会えて良かったと思ってるって言っても?」
髭切の声など聞こえないように、彼女はゆるゆると首を横に振る。
「なるべきじゃなかったんだ。でも、他に道がなかったから。もしならなかったら、私の大事な誇りを折らなければ仕事に就くことはできないだろうって、言われていて」
「誇りを、折る?」
「だから、私は自分勝手なんだ。自分勝手で我が儘なのに、皆とは離れたくなくて、君にも耳障りのいいことを言ったけれど……本当はただ君に私を重ね合わせて、言葉を投げかけただけだった」
最早髭切の言葉など届いていないのだろう。取り留めも無い言葉を流し続ける壊れたからくりのように、彼女は己の思いを吐露し続けていた。
主によって引き剥がされた手を、髭切は再び伸ばす。言葉が届かなくても、触れれば何かを伝えられる。そう信じていたから。だが、
「だめだよ、髭切」
彼の手を、掴む者がいた。
それは、薄闇の中から滲み出るようにして表れた。その姿は主とうり二つであるというのに、髭切は言い知れない怖気を彼女から感じ取っていた。
「君が僕に触っちゃいけない。だって僕は穢れてるから。君から汚れにいくような真似しちゃだめだよ」
「主は、穢れてなんかいない」
うり二つであるものの、もう一人の藤の顔は先ほどまで主が浮かべていた仮面の笑みを顔中に広げていた。表情だけを見るなら確かに笑顔なのに、その瞳はちっとも笑っていない。
いや、嗤ってはいる。己を嘲るかのように。
「穢れてるよ。だって僕は■■を口にしたのだから。それは、穢れだと教えられた。どれほど禊ぎを重ねても消えない穢れだと、おばさんに何度も何度も言われたんだ」
彼女の言葉の一部は、まるでそこだけ雑音が入り込んだように乱れてしまって判然としなかった。故に言葉の真意は測りかねたが、それでも髭切の抗弁の障害にはならなかった。
「何のことかは知らないけど、僕らは主に触れても平気だ。だからそんなものは存在しない」
「でも僕は君たちに触れるのが、ひどく苦痛だ」
「ひどく、苦痛?」
「おばさんは、それは罰だと言っていた。実際、僕は神様の住み処に近づいた後は、いつも気分が悪くなっていた。それなら、もう仕方ないよね。僕が間違っているんだから」
髭切の問いかけに答えず彼女の影法師のようなその人物は髭切の手を離し、蹲って頭を抱え込んでしまっているもう一人の自分の腕をぐいと引っ張り上げた。
よろよろと立ち上がった藤は、縋るような目で髭切を見つめている。弱り切った力を振り絞り、彼に手を伸ばそうとして――しかし、彼女の手をもう一人の藤が引き留めてしまった。
「どのツラ下げて彼らに頼るつもり? 嘘つきのくせに。騙しているくせに。君はずっと笑っていればいいんだ。そうすれば皆を安心させられる。簡単なことだよね。それ以上は、誰も求めていないんだから」
笑い続ける影法師の言葉が癇に障り、髭切は即座に否定を重ねた。
「そんな笑顔、僕はいらない。僕は、主の好きなようにしてみてほしいんだ。そうしたら、探していた君の笑顔を見つけられるだろうから」
藤は俯いたまま答えない。彼女の影法師は、笑顔を貼り付けて凍り付いている。
時間だけが間延びしたように過ぎていき、やがてプツリと世界が暗転した。
***
ガンガンと耳元ではっきりとしない大音声が響き渡り、髭切は頭上で太鼓でも鳴らされているのではないかと、一瞬思った。だが、次第にそれはただの音から意味のある声と変じていった。
「ひーげーきーりー! おはよう! 起きる時間だよ!!」
「ああ、次郎……。おはよう、早いんだね」
「もう八時だよ。アンタにしては珍しくお寝坊さんだね。普段は言われなくても、早く起きているっていうのに」
枕元に立つ次郎にゆさゆさと揺さぶられ、靄がかかったようになっていた髭切の意識も強制的に覚醒する。身を起こせば、たしかに彼の言うとおり冬の朝日が障子越しに部屋を照らしていた。
「そうだ、主は?」
「主なら、今鍛刀の真っ最中さ。儀式は終わったから、刀本体が出来上がるまでは、少し寝てるって話してたけどね」
何していたんだろうねと、次郎はからからと笑う。詮索するというよりは、純粋に興味を抱いているようだ。
「鍛刀って、主は新しい刀剣男士を顕現するつもりなの?」
「まさか、鍛刀して飾っておくだけってこともないだろうから、そうなんじゃないかい? アタシも初めての顕現に立ち会うわけだから、わくわくしてるんだよ」
次郎は嬉しそうな様子を隠さず、いそいそと髭切の部屋の障子を開き、外の空気を入れていく。対する髭切は、まだ回転しきっていない頭を、ようやく動かし始めたところだった。
「こんな時期に?」
「こんなって、別にそんなに変でもないだろう。アタシが顕現してそろそろ三ヶ月近く経とうとしてるよ」
「そうだけども……主はそれでいいのかな」
「――ま、アタシもそう思う部分もあるけどさ。でも、そんなこと言ってたら、いつまでも何もできないって考えたのかもしれないね」
髭切が言外に滲ませたように、主の心労は十二月の頃からさして改善しているように見えない。本丸から離れているときも、戻ってからも、彼女はどこか無理をしていると彼は感じていた。彼女の笑顔が嘘だと断定できるほどの確信を、次郎は持っていないようだが、薄ら察している点は髭切と変わらないようだ。
だが、髭切は次郎ほど楽観視できていなかった。今朝見た夢がもし、主の心象を映し出しているのだとするならば、彼女の心労は回復するどころか、ますます悪化している。
「ねえ、主って何か悪いものが憑いているように見えたりする?」
「藪から棒にどうしたんだい?」
「いいから。次郎の目から見たら、どう?」
髭切は夢の中で言及されていた『穢れ』という存在を思い返し、次郎に尋ねる。
彼女が以前見た悪夢でも、彼女の手はひどく汚れていた。あの夢にいた主の養母は、主を『悪い子』と呼んでいた。今朝の夢でも、主はどれだけ禊ぎをしても消せない穢れが憑いていると、影法師の自分に詰られていた。
だが、髭切にはそんなものは全く見えていないのだ。もっとも、いくら刀剣男士とはいえ、彼はその手の呪いや妖術の類には疎い。元々は武家に扱われていたことも、関係あるかもしれない。
けれども神社暮らしが長かったという次郎なら、何か違うものが見えているのかもしれないと思い、髭切は改めて彼の意見を聞いてみたのだ。
「悪いもののけとか、あやかしとか、そういう類のせいじゃないとアタシは思うよ。最近誰かに呪いをかけられたって感じもしないしね。やっぱりただの疲れだろうさ」
「次郎から見ても、そうなんだね。じゃあその線は違うのかな」
神社の中に入るだけで体調を崩し、巫女が近づくだけで逃げ出した。それだけ見ると、まるで悪いものが神聖な物を嫌って避けているようにも見える。
――さながら、本当の鬼のようだ。
「主の場合は、気を張りすぎてるだけだろうさ。それより髭切。口を動かすより先に手を動かしてくれないと、また歌仙にどやされるよ?」
「それもそうだね」
髭切はようやく立ち上がり、寝間着に手をかける。着替えている途中でも、彼の頭からは夢のことが離れてくれなかった。
(今日は、いつになくはっきりと主の夢を見た気がする)
あれが、本当に主の夢に入り込んだが故に目にしたものと仮定した場合、前回の夢から実に二ヶ月近く間を置いている。心の声が木霊するのも、以前に比べればぐっと数が減っていた。
夢の中の髭切も、顕現した当初のときのように主の内側に入り込んでいるのではなく、完全に切り離された存在となっている。いずれ、自分と彼女の繋がりは断たれるだろうと、髭切は予測していた。
顕現した時から、自分の感情と混ざり合う主の感情には翻弄され、驚かされもした。しかし、だからこそ気がつくものもあった。
(主が笑っているのに、心が笑っていないことは何度かあった)
皆が表面的な笑顔を受け入れている傍ら、気がつけなかった主の内側に潜むざわめきを、髭切は聞いていた。故に、三日月宗近に主の笑顔が仮面のようだと指摘されて、すんなりと納得できた。
歌仙たちには、恐らくこの繋がりはない。もしあるのなら、あの彼があんな夢を見て主に何も言わないわけがない。
(僕と彼らの違い――やはり、顕現の時に、主を斬ったから?)
まだ刀の形を取るより先に、髭切は自分を呼び寄せた鬼の首を斬り落とそうとした。結果的にそれは未遂に済み、今は自分が主を殺さなくて良かったとも思っている。
だが、その結果はさておくとしても、他の刀剣男士を顕現するときに決してありえないことが、あの場で起きた。顕現が完了しきっていない彼の刀身に、主の血が異物として混ざりこんでしまったのだ。
この考えは夢を見る原因を探るために、ありとあらゆる瞬間を、記憶の底から浚った結果としての答えだった。
(僕自身に主の一部が混ざったから、今は繋がりができているとして。それが弱くなってしまったのは、僕がその異物を無意識に外に出しちゃったからかな。もしくは、僕の中に混ざり過ぎちゃって、完璧に僕の一部になってしまったとか)
推測に推測を重ねたところで、結論が出るわけではない。今確かなのは、主と出来た縁が薄れかかっているという事実だ。
(夢をのぞき見ないことの方が、当たり前なのかもしれないけど……もうちょっと、待っていてほしいな)
三日月宗近に示唆され、更紗という娘に託され、何より髭切が彼女の今の有様に違和感を覚えているのだ。
どうでもいいと流すには、彼女はあまりに深く髭切に関わりすぎている。彼にとって藤という存在は、最早どうでもよくないものになっていた。
それだけで、理由は十分だ。
「よし、行こうか」
肩にはいつもの白の上着を載せ、腰に己自身を佩き、彼は顕現の間へと足を向ける。その間も、今から向かう先に居る主のことが心から離れはしなかった。
***
すーっと襖を開くと、髭切の前には既に共に来た次郎以外の全員が一堂に会していた。
「髭切、おはよう。今日は遅かったね」
「髭切さん、お、おはようございます」
「おはよう、歌仙に五虎退。少し寝坊しちゃったよ」
二人に挨拶を返し、髭切は部屋の中心に目をやる。そこには、眠そうに目をこすっている主が、白布の前に鎮座していた。直前まで休んでいたというのは、嘘ではないようだ。
「ふぁ……おはよう、髭切。それに次郎も」
言いながら、藤はぐるりと部屋を見渡して思わず苦笑いを零した。上背の高い二人が入ってきたせいで、顕現のための部屋は、最早ぎゅうぎゅう詰めと称しても過言ではない様子を見せていたからだ。
「髭切が来る前からちょっと狭いなって思っていたけど、ここまでの人数になると狭さが際立つね」
藤が言う通り、髭切の顕現の際に起きた事件を考慮して、顕現直後に諍いが発生した場合の仲裁役代わりの彼らも、今や五人となっている。大の大人が三人、子供も二人となれば小さな顕現用の部屋では手狭すぎるのだ。
「それについてはおいおい考えていけばいいよ。じゃあ主、始めるんだろう」
歌仙に急かされて、藤は白布に鎮座する刀に向き合う。
長さは脇差よりも短く、恐らくは短刀と称されるものだろう。刃には乱れた波を思わせる波紋が、薄っすらと浮かび上がっている。見ていると目がクラクラするような、見事な乱れ模様に、髭切も思わず目を吸い寄せられていた。
「うん、始めようか」
開始の言葉として藤が口にしたのは、たったそれだけだった。彼女の手が刃へと伸び、呼ばれる時を今か今かと待っている銀の刀身へ触れる。
途端、紫の薄い花弁がふわりと舞う様子をこの場にいる皆が幻視した。彼女の名と同じ藤の花と思しき色が、風を染め上げたかのようにゆるりと髭切の視界をよぎる。すうっと通り抜けていく甘い香りに鼻が気がついた刹那、刀から眩い光が溢れ、白布に置かれていたそれが人の形となる。
まず見えたのは、秋の銀杏の葉のような山吹色の髪。細長く癖のないそれは、肩からさらりと落ちるほど長い。纏う装束は紺の軍服を思わせるものだったが、袖はふんわりと蕾のように膨らんでいる。
そんな彼の足を覆っているのはズボンではなく、花のように舞うスカートだった。裾から、ちらりちらりと翻る桃色は、さながら本丸に一足早く春が訪れたかのような錯覚を、見る者に与える。
トンと舞い降りたその刀剣男士は、長い睫毛に縁取られた瞼を持ち上げた。そこにはまるで夏の空をそのまま切り取ってはめ込んだような、宝石と見紛う色合いを持つ瞳があった。
「乱藤四郎だよ。……ねぇ、ボクと乱れたいの?」
くるりと一回転してから、少女のような見た目をした乱藤四郎という名の刀剣男士は主に近づき、くすりと微笑む。喉から出た彼の声も、細く繊細な女性のそれに似ていた。
次郎のように歌舞伎役者の女形としての姿ではなく、まるで女の子そのもののような姿の刀剣男士が、そこに立っていた。
「刀剣男士……だよね?」
「ボクは刀剣男士だよ。もう、あるじさんってば!」
藤が思わず確認してしまうのも、無理はない。乱の出で立ちは、まさに少女そのものなのだから。
だが、片手に握っているのは明らかに先ほどまで白布の上に載っていた刀であったし、よくよく見れば彼の纏う衣服の意匠はどことなく五虎退のものに似ていた。
藤がそれを指摘するより先に、彼女の後ろに控えていた五虎退がパッと顔を輝かせる。
「乱兄さん!」
「五虎退!」
駆け寄ってきた白髪の少年を、金髪の彼女――もとい彼は、難なく受け止めた。小鳥がさえずるような心地よい笑い声が部屋に広がり、この様子ならば身構える必要はないだろうと歌仙や他の者も肩の力を抜く。
「乱藤四郎は、五虎退のお姉さん……じゃない、お兄さんなの?」
「は、はい。あるじさま、乱藤四郎兄さんは僕を作った人と同じ人が、作った刀なんです。乱兄さん、紹介しますね。こちらの方が、僕らのあるじさまです。藤っていうお名前なんです」
「初めまして、よろしくね!」
見た目に違わず朗らかな太陽のような笑顔を藤に向け、乱は手を差し出した。ようやく見た目の衝撃から立ち直った藤は、差し出された彼の手をおずおずと取る。握り返す彼の力は、確かに刀剣男士らしい力強いものだった。
「やっぱり男の子なんだね」
「そうだよ? えっとあるじさんは」
「あるじさまは、女性の方です。凄くお優しいんですよ」
再び誤解を招くことがないように、五虎退はすぐさま注釈を口に出す。頬を桜色に染めて嬉しそうに語る少年は、敬愛する主を紹介できるという誉に輝いていた。
「少しいいかな。五虎退」
三人ですっかり盛り上がってしまっているところに割り込んだのは、歌仙兼定だった。彼は「失礼するよ」と断りを入れると、こほんと一つ咳払いをする。
「僕は歌仙兼定。この本丸の最初の刀剣男士だ。主については先程五虎退が紹介した通りだよ」
「よろしくね、歌仙さん。えっと……じゃあ、まずボクは何をすればいいんだろう?」
「歌仙、乱に本丸の案内をおいてくれるかな」
答えたのは歌仙ではなく、藤だった。どのみち同じようなことを言うつもりだった歌仙に異論があるはずもなく、一つ首肯を返して、すぐさま本丸の間取りについて口にし始める。
二人の間で、やりとりが始まったのを横目で確認してから、藤はそろりそろりと乱たちから距離を置いた。その仕草はさながら猫のようで、まったく音のしない静かで自然なものだった。
「主、どこに行くんだい?」
部屋の入り口近くに陣取っていた次郎に声をかけられ、彼女は足を止める。そこには、次郎だけでなく髭切も立っていた。
「ちょっと、寝なおそうかと思って。仮眠だけじゃやっぱり眠いからさ。実は昨日、遅くまで起きていたんだ」
「それなら、アタシと歌仙であの子の面倒は見ておくからさ。ほら、ゆっくり休んで元気な顔を見せとくれよ!」
次郎にぽんぽんと頭を撫でられ、藤はいつものように笑ってみせた。だが、それは髭切が一目で看破できるほどに不格好な代物だった。
彼女が部屋から姿を消してすぐ、髭切もまた踵を返そうとしたが今度も次郎が彼を呼び止める。
「髭切、アンタも寝直すのかい」
「ううん。ちょっと主に用が」
「でも、寝るって言ってただろう? 用があるなら起きてからにした方が良いとアタシは思うよ」
髭切はそれ以上次郎に返事をすることもなく、問答無用で主の部屋に向かった。彼女の心の木霊はもう聞こえない。けれども、彼は確信を持って言えた。
彼女の心は、再び波立ってしまっていると。
***
「――女の子かと、思った」
自室に戻った藤は、まるでぜんまいが切れた人形のようにふらりふらりと部屋の真ん中にやってきて、崩れ落ちた。
その理由は、乱藤四郎の容姿に驚いたからではある。が、彼女の心を揺らしているのは、ただの驚きだけではなかった。
「あんなに綺麗な髪をしてて、綺麗な目をしてて」
今までも、顕現してきた中に容姿端麗な刀剣男士はいくらでもいた。否、全員がそうだと言ってもいい。
物吉も五虎退も、歌仙も次郎も髭切も、皆常人より目鼻立ちが整っている。そこに立っているだけで、人を惹きつける美を兼ね備えている。
しかしその美しさも、言ってしまえば男性的な魅力だった。女性顔負けの顔立ちとは言えないこともないが、彼らの容姿を羨みはしなかった。刀剣男士たちの体格や装いは、明らかに藤にとって異性のものだ。ほっそりとした体躯の五虎退でさえ、一目見れば少年と分かる。
――なのに彼は、乱藤四郎は。
花のようなスカートがよく似合う、華奢な体つき。女の子のように細く、耳障りのよい可愛らしい声。長い睫毛に滑らかな肌。癖のない、さらさらの髪。
どれもこれも、眩しすぎる。
届かない高嶺の花として眺めるだけなら、心は波立つこともなかったのに、よりにもよって彼は刀剣男士なのだ。彼は己を「あるじさん」と呼び、親しげに交流を深めようとしているのだ。
なまじっか『女』という存在に近い形として現れたが故に、彼女は痛感してしまう。
自分と乱は違う。違いすぎる。お前はこの域に至れないのだと、運命がこちらを指さし笑っている声が聞こえるかのようだ。
「……ずるいよ」
食いしばった歯から漏れた音は、ひどい嫉妬に塗れていた。
よろよろと持ち上げた顔が、机の上に申し訳程度に置かれた小さな鏡に映る。肩のあたりで切られた癖の多い髪。平坦な体つき。妬みで歪んだ顔は、自分でも醜いと思うものだった。
衝動的に鏡を掴み、藤はそれを部屋の片隅に勢いよく放り投げた。無残な音と共に床に落ちた鏡を見ることなく、今度は頭に爪を立ててぐしゃぐしゃと乱していく。
羨ましい。
羨ましい羨ましい羨ましい。
男の子なのに、あんなに綺麗で、可愛くて。誰からも好かれるような容姿をしていて。
それに何より――そんな嫉妬に塗れた自分が一番嫌だ。
容姿のことを思うと、その思いに引きずられるように記憶がぐるりと遡る。それは藤にとってほんの数年前の話だった。
まだ、高校に在学中だった頃。丁度そのときの自分は、淡い片思いの初恋を見事に散らした直後だった。
青春時代のよくある話の一つ。ただそれだけとして片付けられるほどの達観は、まだできていなかった。だから真新しい傷跡を抱えて、耐えるように日々を過ごしていた。
そんなある日のこと。頼まれたゴミ捨てを終え、教室に戻ってきた彼女は聞いてしまった。こちらに向けて、わざと聞かせるように囁かれた言葉を。
「男の子みたいな姿してるんだからさ。いっそ男の子になってしまったらいいじゃない。ねえ、あなただってそう思うでしょう?」
敵意を剥き出しにして、こちらを見ていた女生徒は、自分の片思い相手に同様の淡い思いを抱えていたらしいとは知っていた。恋敵になるかもしれなかった誰かの声は、敗残者になった相手を哀れむように、歪んだ笑みを見せた。
「きっとその方が似合うわよ。大体あんたのこと、彼が好きになるわけないじゃない。胸もちっさいし、つーか、ほとんどないし? 顔だって地味だし」
「皆知ってるけど、先生がうるさいから敢えて言ってないだけなのよね。あんたの角、本当は皆こう思ってるんだから。気持ち悪いって」
俯いたあの時の自分の前にだらりと落ちたのは、長い三つ編みだった。母と同じ髪色だからと、ついつい切らずにいたものだった。
けれども、己の手は気がつけば鋏に伸びていて、伸ばした髪を切り落とす躊躇は、すっかりなくなってしまっていた。
考えれば考えるほど、疲れてしまう。
どうして、自分は他の皆が当たり前のように持っているものが、ないのだろうと。顔の美醜はともかくも、この体格だけはどうにもならなかったのだろうかと。
養母に相談したこともあった。彼女はそれを『悪いことをした天罰』と言って、慰めるだけだった。
他の女子のように高くもない声が、平坦な体格が、受け入れられない。それならいっそ、男の子になってしまえばいい。そうしてしまえば、きっと楽になれる。
だから審神者になる一年ほど前から、一人称を変えた。『私』ではなく『僕』というようにした。服装も、制服以外は無地のズボンやシャツをわざと選んできた。ここでも、男の子としてのあり方を選ぶつもりだった。
だが、この判断は甘かったのだと藤はすぐに痛感した。養父も学校の同級生も、彼女の口調に違和感を覚えながらも、藤を無意識に女性として扱っていた。
しかし、刀剣男士は違う。彼らは、ありのままを受け入れ、思うがままに行動する。当初、彼女が男性のような振る舞いをしたら、五虎退はそれを素直に受け入れてしまった。故に、彼女は男扱いをされればされるほど、受け入れられない自分がどこかに残っているままだということに、ようやく気付かされた。
結果、この中途半端な偽造は五虎退を戸惑わせ、すぐに歌仙によって暴かれた。何の事情も知らない五虎退は、寧ろ逆に気を遣い、殊更に藤を女性扱いまでするようになってしまっていた。
「でも、皆はそれ以上は何も言わなかったから……気にしないままでいようとできたのに」
見てしまった。
自分が思い描くような『可愛い』を凝縮したような刀剣男士の姿を、見てしまった。
しかも、彼はこの本丸に居る。これからも何度も顔を合わせることになる。その度に、こんな黒い感情を抱いてしまう自分に、吐き気を催すような嫌悪を覚えてしまうだろう。
泣き声は漏れない。
漏らしてはいけない。
誰が悪いわけでもないのだから。
乱藤四郎だって何も主を困らせるために、あの姿で顕現しているのではないのだから。刀剣男士は、顕現する自分の姿を選べないと彼女も知っている。
だから、これは仕方ない。仕方ないこと故に、生まれてしまった感情は全て捨てなければならない。
分かっているのに。
「こんなもの、切り捨てないといけないのに」
もし、『嫌い』まで捨ててしまったら、いったい自分は何になってしまうのだろう。好きも楽しいも分からないのに『嫌い』まで見えなくなってしまったら、何がこの手に残るのだろうか。
(ほんと、自分勝手だよなあ……)
喉の奥が締め付けられたように痛み、声はもう出なくなってしまった。行き詰まった思考から逃れるように、藤は床の上に寝転がり、天井を見上げる。
何か別のことを考えたかったのに、思い出してしまったのは今朝見た酷い夢だった。
自分に詰られ、己のあり方を責められた。わかりきっていることを何度も囁かれた。袋小路にぶち当たっているのは、夢に見るまでもなく理解していた。
ほんの僅かに残っている自分の心は今、辛うじて二つの言葉を告げている。
――皆と離れたくない。
――審神者で居続けたい。
その理由が自分の都合を優先しているものだと分かっていたが、今はもう、形にできる願いはこれだけになってしまっていた。
「そういえば夢の中に、誰かいたような……」
自分の肩を掴み、真っ直ぐに向き合ってくれた誰か。彼の声ははっきりと聞こえなかったものの、心配してくれているのだと思うことはできた。だが、どれだけ記憶の底を浚っても、その誰かの顔は曖昧なままだった。
「そんな都合のいい王子様を夢の中で作り出すなんて、僕も弱いなぁ……」
横になったせいで、瞼が途端に重みを増したようだ。
仮眠をとるというのは半ば方便だったが、なかなか寝付けないでいるのは事実だった。酷いときなど明け方まで目が冴えてしまい、眠るというよりは気絶するように意識が落ちる日も珍しくないくらいだ。
寝台に上がる手間すら今の彼女には億劫で、藤は冷たい床の上に体を横たえて、そのまま意識をぶつりと途切れさせた。
***
一方、髭切は顕現の部屋から出て、厨に来ていた。
最初は、主の部屋に直行するつもりだった。だが、何も持っていかずに会話だけするのも難しいだろうと、一応彼なりに段取りを考えていたのだ。
このまま向かっても、きっと「仮眠をとるから」と言って追い返されてしまうだろう。しかし彼は、彼女が皆に伝えていたその言葉を、人払いのための言い訳だと捉えていた。
ならば、鍛刀で疲れた体に、暖かいお茶でもどうだろうかと思って部屋に来た――と言えば、主も追い返しづらいだろう。髭切も、たまに小言を言いにやって来た歌仙にやられる手段でもあった。
彼は慣れない手つきでお湯を沸かし、見よう見まねでお茶らしきものを用意していた。その手順ときたら、歌仙が見たら卒倒ものだったが、今の彼を止める者はいない。茶菓子らしき袋を棚から引っ張り出し、髭切は鍛刀部屋を出てから十分後には主の部屋の前まで来ていた。
「主、入るね」
一応断りの言葉は入れるものの、返事を待たずに髭切は片手でお盆を持ち、片手で襖を開く。
しかし開いた瞬間、彼は思わずお盆を落としかけた。主が床の上に倒れていたからだ。
「――!?」
息を呑み、髭切は彼女に向かって一目散に駆け寄った。片手のお盆を乱暴に机に置いたために、勢い余って零れたお茶が小さな水たまりを作る。
「主!?」
藤の体を揺さぶろうとした瞬間、彼女は「ううん」と言いながらごろりと寝返りを打った。続いて、規則正しい寝息が聞こえる。
どうやら次郎に別れ際に告げたように、本当に寝てしまったらしい。あれは人払いの方便というわけだけではなかったのかと、髭切は納得すると同時に安堵の息を吐いた。
「こんな所で寝ていると、体を冷やしてしまうよ。人間は体を冷やすと風邪をひいてしまうんだよね」
呼びかけても、彼女はごろごろと髭切から逃げるように寝返りを打つばかりだった。
仕方ないと、髭切は寝台の上に丸めて置かれている布団を手に持ち、彼女の体にばさりとかける。器用なことに、彼女は布団を巻き付けて、蓑虫のようになるまで寝返りを繰り返してから、再びじっと動かなくなってしまった。
「ううん、これじゃあ話も難しそうだね」
本当は、主が顕現直後に苦い笑顔を見せた件や、主の見ている夢の話などをしてみようかと思っていた。だが、当の本人が眠りこけているのでは、話をする云々以前の問題だ。
仕方なく、彼は彼女の隣に腰掛けると持ってきたお茶を口にした。飲んだお茶には葉っぱが混ざっており、思わず彼は渋い顔になる。
「おかしいな。歌仙の真似をしたはずなのに」
まあいいかと、彼は構わずお茶を口に含む。折角持ってきた茶菓子の煎餅も、主が眠っているのでは持ってきた意味が無くなってしまった。
どうしようかと髭切が部屋を見渡していると、彼は部屋の角で思わず目を留める。そこには、うち捨てられたように無造作に鏡が転がっていた。
「上に置いていたものが落ちてきた……というわけではなさそうだね」
鏡に近寄った髭切は、磨かれた鏡面に無残な亀裂がはいっていることに気がつく。落ちた破片をこのままにしておいては危ないだろう。髭切は手袋に包まれた手で、一つ一つキラキラと輝く破片を拾い上げた。
「主は物を大事にする方だと思っていたのだけれど……こんな風にしておくなんて、何があったんだろう」
破片を鏡本体と一緒にまとめてゴミ箱に捨ててから、髭切は首を傾げる。あの鏡は、間違いなく部屋の端に向かって放り投げられたが故に割れたものだ。鏡を見て何か嫌なことでも思い出したのだろうか。
鏡など、この本丸にはいくらでもあるというのに。今更何を――とまで考えた髭切は、待てよと思考を切り替える。
今までの彼女と今の彼女の違い。そこに存在しているとすぐに思いつくのは、乱藤四郎という新たな刀剣男士だ。
彼が、彼女の触れられたくない何かに触れてしまったとしたら。それが、鏡を見ればより際立つものなのだとしたら。
「角じゃないよね。なんだろう。髪の色とか目の色とかかな」
彼は刀剣男士であるが故に、世間で言う美醜や生まれ持っての体つきに対する評価を知らない。それが時に人の心にどんな傷を穿つのかを、理解できない。
主に訊きたいと思うことの一つに鏡の件を加えてから、髭切は主の側に腰掛けた。
「主。起きたら、ちょっと話したいことがあるんだ」
眠っている主は聞こえていないはずなのに、ゆるゆると首を横に振った。髭切は眉を不服そうに顰めて、彼女の眉間をぐりぐりと人差し指で押してみる。当然、返事はない。
「主の話、ちゃんと聞かせてよ」
今度は首を横にこそ振らなかったが、彼女は髭切に背を向けるようにして眠ってしまった。することもなくなった彼は、寝台にもたれかかり、彼女が目を覚ますのを待つことにした。
***
泥に沈み込むかのように眠っていた藤は、目を覚まして早々にぎょっとした。眠りから覚めたら、寝台にもたれかかって見知った者が船を漕いでいたら、誰だって驚きもする。まして彼女が寝る前に、その人物は部屋にいなかったはずなのだから。
「また勝手に、人の部屋に入ってきてる……」
ぶつぶつ言いながらも、藤は自分の体から滑り落ちた布団に気がついてふっと表情を緩める。恐らく、床で寝ている自分が体を冷やすまいと、彼が布団をかけてくれたのだろう。
倒れている自分を見て、きっと心配をかけたに違いない。改めて彼に心の中で謝罪してから、藤は自分にかかっていた布団を髭切へとかけた。彼が自分と話をしようとして来ていたことなど、当然知る由もない。
「うわ。茶葉を茶こしに通さないで直接急須に入れてる。髭切って大胆なお茶の入れ方をするんだなあ。これ、綺麗に洗えるかなあ」
持ってきていた茶菓子なども、まとめてお盆ごと持ち上げ、彼女は部屋から出て行こうとした。その足音に加えて、彼女が呟いた声に気がついた髭切は、浅い眠りから意識を引き上げる。
「あれ、主。起きたの?」
「おはよう。うん、さっき起きた所。布団、かけてくれてありがとう」
「どういたしまして。主、実はちょっと話があるんだ」
「話?」
お盆を持ったまま、藤は髭切に向き直る。彼はいったいどれから切り出すべきか悩み、まず直近で目にした件を口にすることにした。
だが髭切はまだ顕現して数ヶ月の刀剣男士であり、故に回り道をしてゆっくりと相手の心の氷を溶かすという話術をまるで知らなかった。
「主は、乱藤四郎のせいで鏡を割ったの?」
直球過ぎる彼の言葉に藤は動揺を見せかけるも、すぐさま貼り付け慣れた笑顔を顔に浮かべる。
「鏡? ああ……昨日誤って落として割っちゃったんだ。片付けるの面倒で部屋の隅にやってたんだよね。髭切が捨ててくれたの?」
「片付けてはおいたよ。ゴミ箱の中に入れておいたんだ」
「それは片付けたって言わないよ!?」
藤は目を丸くして、お盆を置いて慌ててどこかに行ってしまった。程なくして戻ってきた彼女は、幾枚かの厚紙のようなものと共に、鏡やガラスの欠片の片付け方を髭切にレクチャーし始める。話があるといった彼の言葉など、もうとうの昔に忘れてしまったようだった。
片付けが終われば、歌仙や五虎退が姿を見せてしまった。結局彼はその日、主にこれ以上踏み込んだ質問をすることはできないままとなってしまった。