短編置き場
ふっと瞼の上に眩しいものを感じて、彼女は目を覚ました。途端に、肩を通り過ぎる空気の感触に寒気を覚え、ぶるりと身震いしてから彼女は布団に戻ろうとした。
が、動けない。どういうわけか、誰かに掴まれでもしているかのようにしっかり体が固定されていて、ぴくりともしない。
「……主」
同時に耳に入った小さな声に、彼女は何故自分が動けないかを理解した。隣で寝ている彼――髭切に、しっかりと抱き込まれてしまっているからだ。
今日は一月の二日目。年も明けてすぐというときに、昨晩彼女――この本丸の審神者である藤は、彼に誘われて部屋にやってきていた。勿論、ただ夜遊びをするといった可愛らしい話ではなく、そういうことだということは双方承知の上である。
思い出すと恥ずかしくなるので、その記憶は脇に一旦追いやる。結果だけ言うならば、ことを終えて泥に沈み込むように寝入った藤が目を覚ますと、髭切にしがみつかれていたという話だ。
寝間着を申し訳程度しか纏っていない彼の姿は、見ていて心臓に悪い。既に藤の頬は真っ赤に染まり危険信号を発していた。
「髭切、あの、動けないんだけど」
「…………」
「もしかして、まだ寝てる?」
「起きてるよ」
長い睫毛が持ち上がり、自分の顔の真ん前にあった彼の瞳と目が合う。合ったと思うやいなや、藤は髭切にぎゅうと抱きしめられてしまった。薄い寝間着越しの彼の熱に、昨晩のことが嫌でも思い出されてしまう。
まさか続きを求めているのか。いや、しかし彼はそんなことは普段しないはずと頭が疑問符で埋め尽くされるより先に、髭切は少し眠たげに伏せた目を向けてぽつりと呟いた。
「……良かった。主が生きてる」
「え?」
些か物騒な単語を耳にすると同時に、抱きしめる力が強くなる。挙げ句、彼は藤の胸に顔を押しつけてきていた。
「何か、嫌な夢でも見たの?」
「……うん。今日見る夢は初夢だから、今年に起きることに関係しているかもしれないんだよね」
「夢は口にしたら正夢でなくなるっていうから、話してしまえば大丈夫だよ」
根拠はないが、藤は自分が聞いたことのある迷信を口にして彼を安心させようとした。
髭切は動かない。ただ藤にしがみついたまま、目を閉じて彼女の熱に浸っている。やがて、ゆっくりと彼の唇が開いて、囁くような声が漏れた。
「主を、殺しちゃう夢」
予想できていなかった答えに、藤は目を丸くする。彼はできる限りを克明に口にすることで、恐ろしい夢を外に追いやろうとするかのように、言葉を紡ぎ続けた。
「主がひとりぼっちで隠れているとき、主が僕らから離れていたとき、もし僕らが何もせずに主のことを見ない振りしているだけならどうなっていたかっていう夢だった。主がどんどんおかしくなって、壊れてしまって。本当に、化け物になってしまっていた」
彼は語る。夢の中の彼女は、決して全てが全て作り物ではなかった。彼が話しているのは、ほんの数年前のことだ。
藤が審神者になって一年後に起きたこと。皆の心が彼女から離れ、彼女自身も皆から離れ、どうすればいいか分からず停滞した日々を過ごしていた時期のことだ。
あのとき、主を孤独の闇に突き落としたまま、手を差し伸べることも引っ張り上げることもせずにいたら。彼女に向き合わず、時間が解決することを願い続けているだけだったら。或いは、全ての責を彼女に押しつけ続け、そのまま潰してしまっていたら。
そんな仮定のもとに築かれた夢は、夢であるというのにやけに鮮明で、彼の心を強く揺さぶった。
「その主は、人を殺すようになってしまっていた。嬉しそうに笑いながら。楽しそうに微笑みながら。僕はそんな顔を見たかったわけじゃなかったのに。だから、僕が――殺した」
彼が夢に見た彼女の姿は、正真正銘の悪鬼だった。だから、誅さねばなるまいと思った。
鬼を斬った刀だから。主の刀だったものだから。彼女の声に耳を塞いでしまったから。引導を渡すのは自分ではないといけないと、夢の中で決意した。
「主の心臓に僕を突き立てた。主は何だか嬉しそうに笑ったまま、どんどん冷たくなっていって」
「……髭切」
「悲しいのに、胸が張り裂けそうなのに、僕はどうしてか笑ってたんだ。主をこの手にかけれたのが、嬉しかったんだ」
髭切は顔を上げず、くぐもった声で訥々と言葉を並べる。主を殺した夢の中で自分が喜んでいたという空恐ろしい物語を、ぽつりぽつりと語り続ける。
「今でもね、主を抱いているときに思うんだ。僕はただ君に傷を残したいだけなんじゃないかって」
「……髭切、よく噛んでくるものね」
重苦しい空気を二人の間から押しのけようとするかのように、藤は言葉に笑みを滲ませながら答えた。
彼女の言う通り、情事の際に彼はよく噛みついてくる。それはただの口吸いの延長ではなく、牙を突き立てるようなもののこともあった。今も彼女の首筋から胸元にかけて、点々と赤い跡が散っているし、首筋には淡く歯形がついていた。
痛くない程度にと彼は気遣ってくれているし、藤も心地よい程度の痛みに寧ろ気持ちが高ぶることもあるのだが、結果的に傷のようなものをつけていることに変わりは無い。
「いつか、それが本当に主を傷つけることになりそうで、だからこんな夢を見てしまうのかと思って」
「髭切は優しいから、そんなことしないと思うよ」
「でも僕は刀だから」
「それを言うなら私は鬼なんだけど、喜んで人を虐めるようなことをすると思う?」
髭切は藤の胸元に顔を埋めたまま、ふるふると首を横に振った。それが自分の淡い不安に対する答えなのだと、彼はもう気がついていた。
刀だから傷つけることしかできないというのなら、今このときは何だと言うのだろう。褥を共にして、暖かな幸せに包まれているこの瞬間は、ただ傷つけるだけのものでは決して生み出せないものなのだから。
「うん。だから大丈夫。髭切は私を斬るようなこともないし、私がおかしくなっちゃうようなこともない。夢は夢でおしまい」
しがみつく彼の背を撫でて、藤は謡うように囁く。
彼の語る夢は、決して全てが作り話というわけでもないだろう。もしもを重ねていき、ひょっとしたらを紡ぎ続けた可能性の世界。半歩ずれた先の未来に、きっと彼が言うように狂ってしまう自分の姿があったのだろうと、藤は思う。
けれども、たとえ壊れてしまった自分でも、彼に殺されたのならきっと、それはそれで幸せだったはずだ。
どうせ誰かに殺されるくらいなら、彼に幕を引いてもらいたい。どこか自分に似ていて、出会ったときから放っておけなかった彼の刃は、きっと誰より優しいだろうから。
「髭切、こっち向いて」
折角の朝をこんな沈んだ話で終わらせたくないと、藤は声をかける。ようやく彼女の胸元から顔を離した彼は、恐る恐る藤に視線を合わせた。
その名の通り、藤の花色をした瞳が彼の視線を受け止めると同時に、ふにっと柔らかいもので唇が塞がる。珍しく彼女から積極的に口づけをしたのだと気がつくのに、髭切は数秒を要した。
背中に回る彼女の腕に、少し緊張が走っている。何だかんだでまだ照れが残っているらしいと分かり、髭切は内心でにこりと微笑んだ。やはり、彼女は初々しさが残っている方が好い。
唇を押しつけるようにしていた彼女が、彼のその隙間に舌を恐る恐る這わせようとしているのに気がつき、髭切はひょいと顔を逸らし、体を離した。
「あ、どうして逃げるの」
「君の方からされるのは、僕の矜持が許せなくって。それに、主の方も顔が真っ赤になってる」
これ以上は頑張っても無理だったんじゃないのかと暗に示されて、藤は拗ねたように唇を噛む。
よしよしと頭を撫で、今度は髭切の方から彼女を抱き寄せた。細い首筋に、まずはちょんと口で触れる。白い肌に残った赤い跡を見て、彼は満足そうに笑みを深めた。自分の印が残っているというのは、どうしてこうも心を高ぶらせるのだろうか。
けれども、くっきりと残った噛み痕は先の話を思い出させてしまい、髭切は申し訳なさからその白い肌につけられた赤をそっと舌で舐めた。労るためにしたことではあるが、彼女は身をよじらせて髭切から逃げようとしている。どうやらくすぐったいらしい。
そのささやかな抵抗で再び熱を持ち始める気持ちを宥め、髭切は今度はちょん、ちょんと首筋から頬へと位置を変えてキスを落としていく。そして最後には、
「主、こっち向いて」
呼びかけて振り向いた彼女の唇を、お返しとばかり己のもので塞ぐ。微かに漏れ出る彼女の吐息に、凪いでいた心が揺れた。
彼女の背に回った腕に力をこめ、噛みつくように彼女の口内へと舌を絡ませる。息もできないほど深く、自分に溺れさせていく。冬の朝、小鳥の声すら聞こえない静寂の中に、濡れた音だけが小さく響いている。
いったい何秒、何分そうしていたのだろうか。髭切が満足して唇を離す頃には、彼女の開いた口からはすっかり乱れた息が漏れていた。
「ごめんね、苦しかった?」
「う、ううん。ちょっとだけ」
今度は藤の方から体を寄せ、髭切にしがみつく。寝間着越しの熱が交わって、二人の間にゆるりと広がっていく。乱れた彼女の髪の毛に指を絡ませて撫でると、くすぐったそうな笑い声が藤の口から零れていた。
悪い夢を追いやり、今この瞬間で上書きせんと彼は彼女の頭を撫で続ける。できることなら全身で余すところなく感じたいものだが、それは昨晩既にしてしまっている。少し間を空けなければ、彼女の体には酷だろう。昨晩、子猫のような甘えた声で啼いていた彼女を思い出すと、ついつい続きを求めてしまうがそれも我慢だ。
「髭切は、もう起きちゃう?」
「どうしようかなあ。主はどうしたいの?」
「私は……もうちょっといてほしいなって」
布団の中へと沈み込むように潜っていった彼女は、顔だけを少しばかり覗かせて髭切にしばしの滞在をねだる。そんな真似をされて、はいそうですかと退散するほど髭切は薄情ではない。むしろ、上目遣いでそんなおねだりをされてしまって、理性の糸が切れかける所だった。
「それなら、もうちょっとだけ寝坊しようか。主の腰もまだ痛いだろうし」
「ちょっ、それは言わないでよ! 恥ずかしいんだから……。大体、誰のせいで痛いと思ってるの」
「僕が激しくしちゃったからだよね。でも主があんなに『好き』って甘えた声でねだってくるものだから僕も」
「それ以上何も言うなああ!!」
布団の中で小さな絶叫を上げる藤とは対照的に、髭切は実に楽しそうに笑い声を零していた。ごめんよと形ばかりの謝罪を口にして、彼は彼女と共に再び緩やかな微睡みの中に沈んでいく。
夢うつつの中、彼は誓う。
たとえ夢ではどうだったとしても、彼女を傷つけるような真似は決してしないと。主が望もうと、彼女に刃を向けることを禁とするのだと。完全に眠りきってしまう前、彼はぽつりと心の底で呟いた。
(夢の中の僕、僕は君と違う形で僕の願いを叶えるよ。傷つけるのではなく、守るという形で)
彼女から響く鼓動に身を委ね、自分が守りたい温もりを抱えて、彼は再び眠りの世界に旅立った。
が、動けない。どういうわけか、誰かに掴まれでもしているかのようにしっかり体が固定されていて、ぴくりともしない。
「……主」
同時に耳に入った小さな声に、彼女は何故自分が動けないかを理解した。隣で寝ている彼――髭切に、しっかりと抱き込まれてしまっているからだ。
今日は一月の二日目。年も明けてすぐというときに、昨晩彼女――この本丸の審神者である藤は、彼に誘われて部屋にやってきていた。勿論、ただ夜遊びをするといった可愛らしい話ではなく、そういうことだということは双方承知の上である。
思い出すと恥ずかしくなるので、その記憶は脇に一旦追いやる。結果だけ言うならば、ことを終えて泥に沈み込むように寝入った藤が目を覚ますと、髭切にしがみつかれていたという話だ。
寝間着を申し訳程度しか纏っていない彼の姿は、見ていて心臓に悪い。既に藤の頬は真っ赤に染まり危険信号を発していた。
「髭切、あの、動けないんだけど」
「…………」
「もしかして、まだ寝てる?」
「起きてるよ」
長い睫毛が持ち上がり、自分の顔の真ん前にあった彼の瞳と目が合う。合ったと思うやいなや、藤は髭切にぎゅうと抱きしめられてしまった。薄い寝間着越しの彼の熱に、昨晩のことが嫌でも思い出されてしまう。
まさか続きを求めているのか。いや、しかし彼はそんなことは普段しないはずと頭が疑問符で埋め尽くされるより先に、髭切は少し眠たげに伏せた目を向けてぽつりと呟いた。
「……良かった。主が生きてる」
「え?」
些か物騒な単語を耳にすると同時に、抱きしめる力が強くなる。挙げ句、彼は藤の胸に顔を押しつけてきていた。
「何か、嫌な夢でも見たの?」
「……うん。今日見る夢は初夢だから、今年に起きることに関係しているかもしれないんだよね」
「夢は口にしたら正夢でなくなるっていうから、話してしまえば大丈夫だよ」
根拠はないが、藤は自分が聞いたことのある迷信を口にして彼を安心させようとした。
髭切は動かない。ただ藤にしがみついたまま、目を閉じて彼女の熱に浸っている。やがて、ゆっくりと彼の唇が開いて、囁くような声が漏れた。
「主を、殺しちゃう夢」
予想できていなかった答えに、藤は目を丸くする。彼はできる限りを克明に口にすることで、恐ろしい夢を外に追いやろうとするかのように、言葉を紡ぎ続けた。
「主がひとりぼっちで隠れているとき、主が僕らから離れていたとき、もし僕らが何もせずに主のことを見ない振りしているだけならどうなっていたかっていう夢だった。主がどんどんおかしくなって、壊れてしまって。本当に、化け物になってしまっていた」
彼は語る。夢の中の彼女は、決して全てが全て作り物ではなかった。彼が話しているのは、ほんの数年前のことだ。
藤が審神者になって一年後に起きたこと。皆の心が彼女から離れ、彼女自身も皆から離れ、どうすればいいか分からず停滞した日々を過ごしていた時期のことだ。
あのとき、主を孤独の闇に突き落としたまま、手を差し伸べることも引っ張り上げることもせずにいたら。彼女に向き合わず、時間が解決することを願い続けているだけだったら。或いは、全ての責を彼女に押しつけ続け、そのまま潰してしまっていたら。
そんな仮定のもとに築かれた夢は、夢であるというのにやけに鮮明で、彼の心を強く揺さぶった。
「その主は、人を殺すようになってしまっていた。嬉しそうに笑いながら。楽しそうに微笑みながら。僕はそんな顔を見たかったわけじゃなかったのに。だから、僕が――殺した」
彼が夢に見た彼女の姿は、正真正銘の悪鬼だった。だから、誅さねばなるまいと思った。
鬼を斬った刀だから。主の刀だったものだから。彼女の声に耳を塞いでしまったから。引導を渡すのは自分ではないといけないと、夢の中で決意した。
「主の心臓に僕を突き立てた。主は何だか嬉しそうに笑ったまま、どんどん冷たくなっていって」
「……髭切」
「悲しいのに、胸が張り裂けそうなのに、僕はどうしてか笑ってたんだ。主をこの手にかけれたのが、嬉しかったんだ」
髭切は顔を上げず、くぐもった声で訥々と言葉を並べる。主を殺した夢の中で自分が喜んでいたという空恐ろしい物語を、ぽつりぽつりと語り続ける。
「今でもね、主を抱いているときに思うんだ。僕はただ君に傷を残したいだけなんじゃないかって」
「……髭切、よく噛んでくるものね」
重苦しい空気を二人の間から押しのけようとするかのように、藤は言葉に笑みを滲ませながら答えた。
彼女の言う通り、情事の際に彼はよく噛みついてくる。それはただの口吸いの延長ではなく、牙を突き立てるようなもののこともあった。今も彼女の首筋から胸元にかけて、点々と赤い跡が散っているし、首筋には淡く歯形がついていた。
痛くない程度にと彼は気遣ってくれているし、藤も心地よい程度の痛みに寧ろ気持ちが高ぶることもあるのだが、結果的に傷のようなものをつけていることに変わりは無い。
「いつか、それが本当に主を傷つけることになりそうで、だからこんな夢を見てしまうのかと思って」
「髭切は優しいから、そんなことしないと思うよ」
「でも僕は刀だから」
「それを言うなら私は鬼なんだけど、喜んで人を虐めるようなことをすると思う?」
髭切は藤の胸元に顔を埋めたまま、ふるふると首を横に振った。それが自分の淡い不安に対する答えなのだと、彼はもう気がついていた。
刀だから傷つけることしかできないというのなら、今このときは何だと言うのだろう。褥を共にして、暖かな幸せに包まれているこの瞬間は、ただ傷つけるだけのものでは決して生み出せないものなのだから。
「うん。だから大丈夫。髭切は私を斬るようなこともないし、私がおかしくなっちゃうようなこともない。夢は夢でおしまい」
しがみつく彼の背を撫でて、藤は謡うように囁く。
彼の語る夢は、決して全てが作り話というわけでもないだろう。もしもを重ねていき、ひょっとしたらを紡ぎ続けた可能性の世界。半歩ずれた先の未来に、きっと彼が言うように狂ってしまう自分の姿があったのだろうと、藤は思う。
けれども、たとえ壊れてしまった自分でも、彼に殺されたのならきっと、それはそれで幸せだったはずだ。
どうせ誰かに殺されるくらいなら、彼に幕を引いてもらいたい。どこか自分に似ていて、出会ったときから放っておけなかった彼の刃は、きっと誰より優しいだろうから。
「髭切、こっち向いて」
折角の朝をこんな沈んだ話で終わらせたくないと、藤は声をかける。ようやく彼女の胸元から顔を離した彼は、恐る恐る藤に視線を合わせた。
その名の通り、藤の花色をした瞳が彼の視線を受け止めると同時に、ふにっと柔らかいもので唇が塞がる。珍しく彼女から積極的に口づけをしたのだと気がつくのに、髭切は数秒を要した。
背中に回る彼女の腕に、少し緊張が走っている。何だかんだでまだ照れが残っているらしいと分かり、髭切は内心でにこりと微笑んだ。やはり、彼女は初々しさが残っている方が好い。
唇を押しつけるようにしていた彼女が、彼のその隙間に舌を恐る恐る這わせようとしているのに気がつき、髭切はひょいと顔を逸らし、体を離した。
「あ、どうして逃げるの」
「君の方からされるのは、僕の矜持が許せなくって。それに、主の方も顔が真っ赤になってる」
これ以上は頑張っても無理だったんじゃないのかと暗に示されて、藤は拗ねたように唇を噛む。
よしよしと頭を撫で、今度は髭切の方から彼女を抱き寄せた。細い首筋に、まずはちょんと口で触れる。白い肌に残った赤い跡を見て、彼は満足そうに笑みを深めた。自分の印が残っているというのは、どうしてこうも心を高ぶらせるのだろうか。
けれども、くっきりと残った噛み痕は先の話を思い出させてしまい、髭切は申し訳なさからその白い肌につけられた赤をそっと舌で舐めた。労るためにしたことではあるが、彼女は身をよじらせて髭切から逃げようとしている。どうやらくすぐったいらしい。
そのささやかな抵抗で再び熱を持ち始める気持ちを宥め、髭切は今度はちょん、ちょんと首筋から頬へと位置を変えてキスを落としていく。そして最後には、
「主、こっち向いて」
呼びかけて振り向いた彼女の唇を、お返しとばかり己のもので塞ぐ。微かに漏れ出る彼女の吐息に、凪いでいた心が揺れた。
彼女の背に回った腕に力をこめ、噛みつくように彼女の口内へと舌を絡ませる。息もできないほど深く、自分に溺れさせていく。冬の朝、小鳥の声すら聞こえない静寂の中に、濡れた音だけが小さく響いている。
いったい何秒、何分そうしていたのだろうか。髭切が満足して唇を離す頃には、彼女の開いた口からはすっかり乱れた息が漏れていた。
「ごめんね、苦しかった?」
「う、ううん。ちょっとだけ」
今度は藤の方から体を寄せ、髭切にしがみつく。寝間着越しの熱が交わって、二人の間にゆるりと広がっていく。乱れた彼女の髪の毛に指を絡ませて撫でると、くすぐったそうな笑い声が藤の口から零れていた。
悪い夢を追いやり、今この瞬間で上書きせんと彼は彼女の頭を撫で続ける。できることなら全身で余すところなく感じたいものだが、それは昨晩既にしてしまっている。少し間を空けなければ、彼女の体には酷だろう。昨晩、子猫のような甘えた声で啼いていた彼女を思い出すと、ついつい続きを求めてしまうがそれも我慢だ。
「髭切は、もう起きちゃう?」
「どうしようかなあ。主はどうしたいの?」
「私は……もうちょっといてほしいなって」
布団の中へと沈み込むように潜っていった彼女は、顔だけを少しばかり覗かせて髭切にしばしの滞在をねだる。そんな真似をされて、はいそうですかと退散するほど髭切は薄情ではない。むしろ、上目遣いでそんなおねだりをされてしまって、理性の糸が切れかける所だった。
「それなら、もうちょっとだけ寝坊しようか。主の腰もまだ痛いだろうし」
「ちょっ、それは言わないでよ! 恥ずかしいんだから……。大体、誰のせいで痛いと思ってるの」
「僕が激しくしちゃったからだよね。でも主があんなに『好き』って甘えた声でねだってくるものだから僕も」
「それ以上何も言うなああ!!」
布団の中で小さな絶叫を上げる藤とは対照的に、髭切は実に楽しそうに笑い声を零していた。ごめんよと形ばかりの謝罪を口にして、彼は彼女と共に再び緩やかな微睡みの中に沈んでいく。
夢うつつの中、彼は誓う。
たとえ夢ではどうだったとしても、彼女を傷つけるような真似は決してしないと。主が望もうと、彼女に刃を向けることを禁とするのだと。完全に眠りきってしまう前、彼はぽつりと心の底で呟いた。
(夢の中の僕、僕は君と違う形で僕の願いを叶えるよ。傷つけるのではなく、守るという形で)
彼女から響く鼓動に身を委ね、自分が守りたい温もりを抱えて、彼は再び眠りの世界に旅立った。