短編置き場

 この本丸の刀剣男士である髭切は、一年の初日であるというにも関わらず、彼にしては珍しく疲れた顔で門の前に立っていた。
 両手には近くにある百貨店の紙袋が二つ。朝から長蛇の列を掻い潜り、入手した品々である。

「おみくじなんて興味なかったけれど、今引いたら大凶というものが出る気がするよ」

 ことの発端は、歌仙に買い物を頼まれたことから始まる。今日の夕飯である鍋の具材を誤って昨晩使ってしまったから、買い足してほしいと言われたのだ。
 歌仙はどこで買ってきてくれとも言わず、また髭切もどこでそのようなものが売っているかを知らなかったので、とりあえずそれらしき大きな建物に入ってみたのだが、それが大きな誤りだった。
 正月ともなれば、どこも初売りに力を入れるのがこの国の常となっている。加えて彼が行ってしまった建物、もとい百貨店ではその手の催し物に特に力を入れる。
 近くの商店街にちょっとお使いを頼んだつもりの歌仙との認識のズレにより、髭切は午前一杯を人波に嫌というほどもまれて過ごすことになってしまった。

「時間遡行軍より、あの場所にいた人たちの方が迫力と勢いがあったような気がするよ。おお、怖い怖い」

 言葉とは裏腹にちっとも怖がっているようには聞こえなかったが、ともあれ髭切は手に入れた品をぶら下げて玄関の引き戸を開ける。がらがらという音が、室内に彼の帰還を知らせてくれたのだろう。程なくして、軽快な足音と共に膝丸が顔を見せた。
 だが彼はどういうわけか、非番であるにも関わらずきっちりと戦装束に着替えているではないか。

「ありゃ、出陣かい?」
「いや、違う。それよりも兄者、一体どこに行っていたのだ。あとはもう兄者だけだぞ」
「え、何が?」

 髭切が困惑しているのを余所に、膝丸はずんずんと彼に近づいて荷物を受け取ると、今度は髭切の手も掴んでぐいぐいと引っ張っていこうとする。

「待って待って。全然、話が見えないんだけど」
「主はあと半刻ももたないだろうから、挨拶をするなら早くした方がいい。歌仙が『髭切はどこに行ってるんだ』と随分探し回っていたようだぞ」
「主が、半刻ももたない……?」

 それだけ聞けば、まるで主に何やら緊急事態が起きたようではないか。彼女は今朝も元気そうにおせち料理をつまみ食いして歌仙に叱られていたのに、これは一体どういうことか。
 動揺でかき混ぜられた頭は、しかし徐々に冷静さを取り戻し、髭切は考え得る限り最悪の予想をする。
 弟の不自然な戦装束。主の身の上に起きた何か。あと半刻ももたないという言葉。どこか慌てた様子。
 もしかして、時間遡行軍の本丸への襲撃があったのか。その凶刃に主が斃れたのではないか。あいつらを追い返していたために、膝丸は臨戦態勢のような姿をしているのではないか。

「ねえ、弟。一体何があったの」
「兄者が驚くのも無理はない。だが、どうやら主は知っていたようだぞ」
「知っていたって、僕は何も聞いていないよ。それより今、主はどこに!?」
「今の兄者を会わせるわけにはいかない。そんな格好では、主もがっかりするだろうからな」

 血相を変える髭切と対照的に、膝丸は落ち着き払っている。それは、髭切には最早どうにもならない状況であるが故に、諦めきったような態度にも見えた。
 膝丸は髭切を見ることもなく手を掴んだままある一室の前にやってきて、襖をすっと開いた。
 そこは、本来は刀として眠っている刀剣男士たちを人の姿へと顕現させるための部屋──正確には、その一部だ。本来なら取り払われている襖が現在ははめ込まれているため、丁度大きな一部屋として使われている部屋を二部屋に分けたようになっている。
 膝丸が襖を開いた向こうには、歌仙兼定が立っていた。彼も膝丸同様、出陣の際に纏う和装に着替えている。

「歌仙、主は!?」
「主なら、苦しいから早く解放してくれと、何度も言っていてね。髭切が来るまでは我慢するって言ってはいたけれど、いつまでもつかはわからない。だから、準備してもらえるかな」
「準備って」
「そんなこと、決まっているだろう。あれ、本体は持ってきていないのかい。膝丸、それがないと意味がないだろう」
「すまない。急がねばと思ってつい」

 二人の会話を聞いて、髭切の思考は益々回転する。
 本体がないと意味が無い。準備をする。傷ついて苦しんだ人間が、解放してくれと願うなら──それは。

「主は、僕に介錯を頼んでるの」

 自分で口にしていて、らしくもなく声が震えた気がした。だが、振り向いた歌仙と膝丸は、まるで鳩が豆鉄砲を食らったような顔で髭切を見つめ返し、

「……髭切、きみ、実はまだ寝ぼけているんだろう」
「どうしたのだ、兄者。突然そのような縁起でも無いことを。新年のこのめでたい時の冗談としては、些か不謹慎が過ぎるのではないか」

 髭切がまるでおかしなことを口走ったかのように、二人は否定の言葉を続けざまに投げかけた。髭切の頭が益々混乱するより先に、膝丸が続きの言葉を口にする。

「実は、主が新年の挨拶を着物に着替えて行うと、今朝になって言い出してな。歌仙と前々から用意はしていたようだが、俺たちも聞かされたのは今日が初めてなのだ」
「挨拶となると、僕らもそれに相応しい姿をするべきだろう。刀剣男士である僕たちの刀剣男士らしい正装といえば、この戦装束だろうからね」

 武人が主への挨拶に己の得物を持ち込むのは本来なら相応しくないのかもしれないが、刀剣男士が刀剣男士である所以は刀にこそある。自分自身を連れて行かずに挨拶も何もないだろう──歌仙はそのように言葉を締めくくった。
 彼らの言葉を聞き、今度は髭切が鳩が豆鉄砲を食らったような顔をする番になった。

「じゃあ、半刻ももたないって言っていたのは」
「帯が苦しいから着物の姿のままでいられるのは、半刻ももたないと言っていたんだよ。主は着物姿に慣れていないみたいだからね」

 ようやく事態の内容がはっきりと分かり、髭切は長々と息を吐き出す。この数分間、まるで冷水を全身に浴びたような気持ちに襲われていて生きた心地がしなかった。それほどまでに、どうやら自分の中で主は大きな存在になっていたらしいと、髭切は客観的に己を捉え直す。
 そうして、ようやくいつもの調子を取り戻した髭切は、改めて己の姿を見やった。外出して人波をかき分けたせいか所々皺がよってしまった服では、とてもではないが新年の挨拶に相応しいとは言えないだろう。

「じゃあ、僕はすぐに着替えてくるよ。ああ、びっくりした」
「兄者、一体何を驚いているのだ」
「お前が思わせぶりなことを言うからだよ」

 よくよく見れば膝丸や歌仙に争った形跡はまるでなく、敵襲の割には部屋が荒らされていないのだから、勝手に勘違いしたのは自分の方だとは髭切も薄ら自覚していた。
どうにも、主のことに関わると目が曇ってしまうようだと、髭切は軽い反省の念を抱えながら、己の部屋へと向かったのだった。


***


 審神者の藤は、現在かつてないほどの苦痛を強いられていた。
 腹を締め上げる忌々しい紐の数々に加えて帯が、内蔵まで締め上げているような圧迫感で彼女を苛んでいたのだ。しかも、これがもう何時間も続いている。
 正月の挨拶を正装でしようと言い出したのは一体誰だと恨み言を吐き、すぐにそれは自分だったと藤は呻く。歌仙が折角用意してくれた着物を着る機会がなかなか訪れず、機会がないなら作ればいいと提案したのは他ならぬ彼女だった。

「だからって、こんなに、きつく締めなくてもいいじゃない、か!」

 今は誰もいないからと、藤は恨み言を爆発させる。
 本丸にいる刀剣男士の数は二十にも満たない。一人ずつに挨拶をしても、本来なら二時間もあれば大体は終わる想定だった。──まさか、髭切がお使いに行ったまま帰ってこないとは、彼女も思わなかったのだ。

「だから、髭切に一人でお使いなんてやめておいた方がいいって歌仙には言ったのに。せめて膝丸と一緒に行かせるべきだったんだよ」

 おかげで、彼女はたった一人の挨拶のために、もう一時間この着物姿で過ごすことになった。たかが休憩のためだけに、着物を脱ぐわけにもいかない。
 審神者の中には、着物を常用している者もいるらしいが、藤は自分には絶対無理だと心の中できっぱりと首を横に振っていた。今度から演練で着物を着ている審神者がいたら、この苦しみに耐え抜いていることに敬意を示そう。具体的にはお辞儀とかで──などと、しょうもないことを考えているのは、偏に彼女が暇だったからだ。

「髭切~、早く来てよ~」

 自分でも情けないと思う声を出しても、彼が来てくれるわけがない──と思いきや、襖越しに物音と言い争う声がしているのに藤は気がつく。
 膝丸と歌仙、それに今か今かと待ち構えていた髭切の声を耳にして、彼女はぱっと顔を上げた。緩みきっていた顔を無理矢理しゃきっとしたものに戻し、最後の訪問者を待つために着物の襟の部分を触って崩れていないかを確認する。
 座布団の上に正座し直すと、五分もしないうちに「主」と声がかかった。

「入ってもいいかな」
「どうぞ」

 他のどの刀剣男士であっても、この瞬間は緊張する。普段は主らしい振る舞いからは程遠いスタイルを貫いている藤だが、一年の最初の日くらいは格好をつけたい。しゃんと背を伸ばし、彼女は襖が開く瞬間を待った。

「失礼する」

 その語調も、声音も、今まで聞いていた彼のものと大きく異なり、藤は目を丸くする。まるで弟のようにややかしこまった言葉と共に、襖が開いた。
 入室した髭切は、一度座ってから襖を閉め直すと、改めて藤の前に座り直す。ただそれだけの仕草だというのに、部屋に入るだけの所作で藤は思わずその一挙一動に目を奪われていた。
 他の刀剣男士もそうだった。彼らの立ち居振る舞いが、指の動かし方一つ一つが、いつも以上に洗練されて無駄のないものになっている。
 これまた先に訪れた彼らと同様、髭切も腰に佩いた刀を外して畳の上に置いていた。柄は藤の右手側に置かれていて、彼女がその気になればすぐにでも刀を手にとって抜くことができるだろう。

(これが、彼らにとって最大限の礼の表し方なんだろうね)

 自分の生殺与奪の権を主に握らせる。刀剣男士にとって、その姿勢が何よりもの敬意の示し方なのだとは、藤も察していた。

「主」

 髭切に呼びかけられ、藤は瞬時の思索の旅から戻ってくる。はっと顔を上げると、いつものような柔らかさを覚える微笑ではなく、真摯にこちらを見つめている髭切と目が合った。

「──新年の挨拶、謹んでお慶び申し上げる」

 膝に手を添えて頭を下げた彼が口にした畏まった言葉に、藤は目を点にした。
 彼女が呆けて何も言わないので、髭切も頭を上げることができず、しばらくそのままの姿勢で固まること数秒。ようやく慌てたように、藤は回りきっていない舌を無理矢理動かした。

「あ、あけましておめでとう。髭切」
「あけましておめでとう、主」

 返事をした髭切の声は、先ほどの凜としたものとは異なり、常日頃から耳にしている穏やかなものへと変わっていた。
 彼の普段通りの様子に、藤はほっと安堵の息を吐き出す。あんな改まった態度を突然取られてしまうと、藤としてはどうしていいのか分からなくなってしまうからだ。
 一方で、髭切もまた主の装いを見て、思わず瞬きをすることすら忘れてしまった。正月用の晴れ着として用意されたその着物は、白に近い淡い色合いをしているものだった。髭切の真っ白な純白の上着とは異なり、ほんのりとくすんだ紫や桜色がじんわりとにじみ出しており、それがまた言いようのない上品さを醸し出している。
 何か香でも焚いているのだろうか。彼女からは、ふわりと優しくて甘い香りが漂っていた。

「主、すごく綺麗だよ」
「うん。これ、すごく綺麗な着物なんだ。見て見て。ここにも柄が入っているんだよ」

 髭切としては着物も含めた主自体を褒めたつもりだったが、どうやら彼女は着物が褒められたものと思ったようだ。
 立ち上がった藤は、嬉しそうにその場でくるりと周り、背中の部分を見せる。彼女が言うように、そこには元の生地を損なわないような白色で、蝶や花々が描かれていた。淡い繊細な筆遣いを見るに、恐らくは手で描いたものなのだろう。
 彼女が振ってみせた袖にも、同様に野の花が緻密に描かれている。見るも鮮やかなというほど眼が覚めるような色合いではないものの、美しいと思わずため息が漏れるような着物だった。

「まるで花畑の中に主がいるみたいだね。これは歌仙が仕立てたの?」
「うん。正月用のためではなかったようなんだけど、一目惚れした生地だから奮発したんだって嬉しそうに話してくれたんだ」
「主によく似合ってるよ。主の目の色と髪の毛の色がすごく引き立っている」
「本当? そう言って貰えるのは嬉しいな」

 主の明るい髪の毛は、白い着物においては鮮やかに映えるものだ。歌仙の見立ては確かだと思うと同時に、それを選んだのが自分ではないことがどういうわけか、胸にちくりと痛みをもたらした。
 そんな髭切の痛みなどつゆ知らず、再び座り直した藤は上機嫌を隠すこともなくニコニコしている。今はそのお日様のような笑顔が、髭切にとっての慰めとなっていた。

「来年はいっそのこと、皆和服を着てもらおう。そして帯で苦しめばいいんだ」
「主、帯を締めるのは女人だけだよ」
「あ、そうだったか」

 余程帯に恨みがあるのだろうか。胸の少し下を締め付けている煌びやかなそれを、藤はぽんぽんと恨めしそうに叩いていた。

「じゃあ、来年は着物じゃなくて普通の格好にする」
「ええっ、それは勿体ないな。折角主が綺麗な姿をしているのに。ずっとその姿のままでいてもいいんじゃないかって、思うくらいだよ?」

 掛け値なしの本音が告げる賞賛の言葉に、藤はぱっと頬を染める。彼女は自分の容姿を褒められることに慣れていないらしく、

「そ、そう言うなら、歌仙も褒めてくれたし頑張ろうかな」

 などと、髭切から目を逸らしながらぽそぽそと呟いていた。
 廊下から差し込む日の光が、彼女の桜色に染まった頬をゆっくりと照らしている。よくよく見れば普段の彼女と異なり、藤の顔は程よい血色に見えるように化粧がされているようだ。うっすらと唇に載せられた紅が光を受けて、艶やかに光っている。
 本人が気がつくよしも無かったが、着物を纏い、化粧まで施された彼女は、浮世離れしたとまでは行かないものの、こちらもまた品の良い美しさを纏っていた。髭切が、思わず声を失うほどに。
 できることなら、今この瞬間を閉じ込めてしまいたいと願いたくなる。無論それは叶わぬ願いではあるが、ならば一秒でも多く彼女と共にいて、この姿を目に焼き付けたいと髭切は思っていた。
 だが、当の藤は既に限界に来てしまっていた。

「……ねえ、髭切。ちょーっとお願いがあるんだけど」
「どうしたの?」
「挨拶はもういいから、これ着替えるの手伝ってくれる? 帯が苦しくて中身が出そう」

 およそ妙齢の女性が言っていいとは思えない言葉を口にしながら、藤は帯をつんつんと指さした。

「僕が、着替えの手伝いを?」
「うん。長襦袢まででいいからさ」

 本来ならば、髭切も歌仙も刀剣男士であり、つまるところ男の姿をしている。対する藤は、見た目としては中性的でも歴とした女子だ。着替えを手伝う相手としては本来相応しくないのだが、本丸に他の女子がいないのだから仕方が無い。
 藤としては、彼らを家族のように思っているので恥ずかしいとはそこまで思っていなかった。何も素っ裸になるわけでもなく、長襦袢まで脱がせてもらえればいいと思っているからもある。

「あ、でも帰ってきてすぐだと疲れてるよね。なら、歌仙呼んできてもらってもいいから」

 髭切は彼女の提案を聞いて、しかし首を横に振った。どういうわけか、歌仙に着替えを手伝って貰っている主を想像するだけで、また胸の奥にちりちりとした不愉快な痛みが生まれ始めたのだ。

「僕が手伝うよ。帯を緩めればいいの?」
「ああ、それより先に帯紐と帯揚げを緩めないといけないから、この色の紐をまず緩めてくれる?」

 主の説明を聞きながら、まるで用途の予想がつかない様々な紐を髭切はてきぱきと解いていく。
 帯といっても結び方こそやや複雑だが大きな紐であることには変わりない。帯の端を見つけてから、ああでもないこうでもないと言いつつ、髭切は数分もかけない内に藤を戒めから解放した。

「じゃあ、今度はこっちの紐も解いてくれる?」

 と言って彼女が指差したのは、おはしょりを作るために締められた紐だ。なるほど、たしかにきっちり結ばれているのでこれはきつかろうとは、着物を着たことない髭切でも思う。

「これは主がしたのかな。すごくしっかり縛ってあるね」
「ううん。締めたのは歌仙。というか全部紐は歌仙が縛ったんだよ。ちょっとは加減してほしいよね。おせちが胃袋から出てきそう」

 ふうんと気のない返事をして主の愚痴を流しているように見えて、髭切は内心穏やかならざる状態だった。彼女に着物を纏わせ、紐や帯を歌仙が締めている姿を想像すると、どうにもちりちりと心の片隅に焦げたような痛みがまた生まれてしまう。

「結構、固く縛っているみたいだね」
「崩れちゃうといけないって言われたんだ。出かけるわけでもないから大袈裟だって言ったのに」

 言った側から、髭切の手が腰紐の結び目にかかり、それをするすると解いていく。柔らかな紐は結び目という要を失い、あっという間に彼女を解放した。念を入れるためか二つあった腰紐の両方を解くと、着物は重力に負けて床へとずるりと落ちかける。

「あ、髭切。これ、適当にかけておいてくれるかな。僕は着替えてくるから」

 宣言通り長襦袢だけの姿になった藤は、髭切に着物を押しつけるといそいそと部屋から出て行ってしまった。
 残された髭切は、渡された着物を抱えて行き場のない気持ちと共に立ち尽くすしかなかった。じりじりとした痛みは未だ残ったままだというのに、そのことについて主に尋ねる暇すらなかった。

「これ、どこにかけておけばいいんだろう」

 腕の中に残された柔らかな布に目線を落として考え込んでいると、ふわりと彼の鼻を優しい香りが掠めていった。主と話していたときにも横切っていた甘いようでどこか清涼感もある香りは、着物の中から漂っているようだった。
 誘われるように、髭切はその香りの源へ少しばかり顔を寄せる。普段主が使っている髪を洗うための薬剤の香りと、着物そのものにつけられた香の香りが混ざり合い、何とも言えない蠱惑的なものとなっていて、さながら彼を誘っているかのようだ。
 気づけば、髭切は自分がかき抱く着物の中に少しばかり顔を埋め、ほんの僅かとはいえその残り香に酔いしれていた。

(主は、僕がこんなことをしているなんて知らないのだろうけど──知ったなら、どんな顔をするんだろうね)

 照れるのだろうか。それとも、怒るのだろうか。或いは、呆れた顔で「何してるの」と白けた態度をとるのだろうか。そんな態度を見せられてしまったらと想像すると、心に隙間風が入り込んだような寒さを覚えた。
 どうしてほしいのかは分からない。ただ、無視はされたくない。
 歌仙のことだってそうだ。彼のことは本丸最初の刀としても、主を守る者としても信頼しているのに、どういうわけか主に近づけたくないと思う己がいる。
 この気持ちが何なのかを知りたい。願いつつ、髭切は着物から名残惜しそうに体を離した。



 しのぶれど 問われ思いが 見えればと 
 移りし藤の香 わが心焼かむ
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