本編第一部(完結済み)

 除夜の鐘も、年末のテレビ番組も刀剣男士たちが審神者から教えて貰わねば、当然知る由もない。住宅街から外れた立地の建物には、街のざわめきも届かない。結果、彼らは新年が訪れるとは感じていても、何か特別なことをしている気持ちはまるでなかった。

「一年が終わるんだって、今日主に言われてね」

 主が注文した年越し蕎麦を腹に入れた歌仙は、居間にある炬燵で体を温めていた。彼が声をかけたのは、同じように暖を取っている髭切である。
 五虎退と物吉は、既に床に入っている。蕎麦を十分に堪能したらしい主も、とうの昔に自室に籠もってしまっている。次郎に至っては同じ部屋にいるものの、炬燵を布団代わりに眠ってしまっていた。

「こうして一年が過ぎて、次の年が刻まれる。そうして歴史は紡がれるのだと、今日改めて思ったよ」
「ああ、確かに。人間は、こうやって毎日に節目を作って歴史を数えていくんだよね」
「そういうことさ。普段何となくで過ごしていたら、忘れてしまうものだけれど――僕らの昔の主も、そうやって積み上げてきたというわけなんだなと、思い直していたんだ」
「昔の主かあ」

 髭切は炬燵の上に載せられていた蜜柑に手を伸ばし、何をするともなしにそれを剥き始める。先日、藤が炬燵には蜜柑だと主張して、どこからともなく持ってきたものだ。

「昔の主って言っても、僕の持ち主は時代と共に変わっていったからねえ。それに、僕は本当にそこにいたのかどうかも、曖昧だから」
「ああ、君は逸話から生じている部分も大きいんだったね。髭切、その蜜柑、半分貰えないだろうか」
「いいよ、どうせ全部食べるつもりじゃなかったから。主も物好きだよねえ。……それで、そうそう。僕はそういう刀があったんだっていう、逸話から生まれたみたいなんだよね。鬼がいたかも怪しければ、鬼を斬ったかも怪しい。僕の名前を残した刀は、どうやら後世には複数見つかっているようだよ。一体どれが本物なのか、どれも本物じゃないのか」

 髭切から渡された蜜柑を受け取り、歌仙は彼の話を聞きながら頬張る。仄かに舌を痺れさせる酸っぱさとは対照的に、髭切の言葉は静まりかえった夜のように穏やかだ。

「でも、今ここにいるのは髭切だろう」
「うん。主が、そう決めたから。今はいない弟の代わりになってくれるんだって」

 知らない間に、髭切とそんな話をしていたのかと、歌仙は小さな嫉妬を抱く。だが、ここで自分も――などと張り合うのは、大人げない。代わりに蜜柑を嚥下して、彼は何でも無い風を装って会話を続ける。

「新年が明けて、主も少し体調が戻ればいいのだけれどね。どうにも、最近の彼女は無理をしがちのようだ」
「……ねえ、歌仙」

 髭切は逡巡を挟み、今自分の喉まで出かかった言葉を口にしようか悩む。
 主は常に笑っているものの、彼女の笑顔がどこまで本心からのものか分からない。その話をするべきか、髭切は躊躇する。これ以上、本丸の柱を自認している歌仙に負担をかけるべきかどうか。彼は今、どれほど気がついているのか。

「歌仙、君は――主が、今の生活に満足していると思う?」

 結果として、言葉は中途半端な問いに形を変えてしまった。けれども、これだけでも歌仙の不安の的を射るものだったらしい。愁眉を帯びた彼を見て、髭切は歌仙にも思う所はあるのだろうと察する。

「どうだろうね。少なくとも今の僕らは、主が以前過ごしてきたときと同じ生活をさせてあげることは、できていないんだろう」
「審神者になる前の生活ってこと?」
「ああ。両親を亡くした後も、彼女には家があった。家族がいた。この時代のあの年頃の娘が送る、普通の生活があった」

 届けられた家族からの手紙を、歌仙は思い返す。
 歌仙の考え方では、今の主は大人といって差し支えない年齢だ。それは、嘗て自分にとって一番影響のあった時代の記憶に引きずられている故の考え方であると、歌仙も分かってはいた。
 だが、顕現した今の時代では主の年頃の子供が親といるのは、何らおかしいことではないとも知っている。事実、自立している一人前の大人と見なせるような力強さを、彼女は持っていない。
 今は一人で立っている。けれども、本当なら藤という娘の手は付喪神ではなく、家族に添えられているべきはずだったのだ。

「僕らが、主からありきたりな平凡を――それでも、彼女にとっては変えようのない平穏を奪ったとも考えられる。無論、主が自ら望んだことでもあるのだとは、百も承知ではあるけれどね」
「だから、歌仙は家族みたいになろうとしてるんだね。くりすます……もそうだし、今日も正月に食べるという料理を買ってきてた」
「そういうわけだよ。物である僕らにできることなんて、その程度でしかない。最近はどうにも、こういう考えが拭えなくてね」

 自分の手元に残った最後の蜜柑に目を落としながら、歌仙は呟く。

「主が審神者にならなかったら、もっと気楽に過ごせたんじゃないかと、思ってしまう。主にとって環境が変わるということは、あの角について新たに悩まなければならない、ということでもあるだろうから」
「たしかに、家族なら既に知っているだろうからねえ」
「新しい仲間が定期的に来る今の環境は、主にとって負担だろう。今も、次郎には時期を見て話すとは言っていたが、彼女にとっても難しいのだろうというのは僕にも分かるよ。誰だって、鬼とは呼ばれたくない」

 藤の額に生えた角が一体どういうものかについては、歌仙も髭切も頓着はしていなかった。ただ、鬼であるというレッテルは彼女にとって苦痛だろうと歌仙は捉えていた。
 刀剣男士であろうとなかろうと、あの姿を見れば誰だってその言葉を思い浮かべてしまう。人と異なる者であるという意味を指す単語は、彼女にとって苦い思い出と繋がっているに違いない。

「僕らの側にいなかったら、今以上に主はもっと幸せだったのかもしれない」
「それは、どうだろう」

 歌仙の予想に反して、髭切は否定の言葉を口にする。

「何が正しいとか、幸せだとか、僕らが決めちゃっていいのかな。それは、主が決めるものだよ」
「…………」
「だから僕らができるのって、主が幸せになりそうかなって思うことを、一つ一つ作っていくことじゃない? 僕らにとっての幸せを主に返していけば、いつかは主の幸せにたどり着ける。そう思うよ」

 歌仙の掌の上に残っていた蜜柑を摘まみ、髭切は自分の口へと放り込む。彼の所作に毒気を抜かれたように、歌仙も強張っていた顔を緩め、相好を崩した。

「……そうだね。どうにも僕は考えすぎてしまうようだ。文系だからかな」
「文系というのはよく知らないけど、歌仙はどちらかというと腕力に物言わせる方じゃないかな。戦い方とか」

 今年最後の出陣の際、敵の不可解な動きを目撃した歌仙が、「細かいことは良い。とりあえず首を落とそう」と指示を出した瞬間を思い出しての発言だった。
 けれども、この発言は歌仙の不興をいたく買ってしまったらしい。炬燵に載せられていた蜜柑は、全て歌仙によって取り上げられてしまった。

(――主が、鬼?)

 炬燵で彼らの話を聞いていたもう一人の刀剣男士を、二人が気に留めることは最後までなかった。


 ***


「あけましておめでとう、です!」
「五虎退、一体何がめでたいんだい?」
「お正月は、あけましておめでとう、と言うそうなんです。さっき、あるじさまからお借りした端末の中で、皆さんそうやってお話してました」
「じゃあ、アタシもやってみよう! あけましておめでとう!!」
「次郎、あまり大きい声を出さないでくれ。ただでさえ、何やら目立っているようなのだから」

 次郎の巨体を覆うコートを軽く小突き、歌仙は肩を落とす。周りからの視線が一瞬集まったものの、賑やかなやり取りを見て正月で浮かれているのだろうと思ったのか、すぐに目線はあちらこちらへと散っていった。

「ここは神社の中なんだ。我々も、この社の神に敬意を持ってだね」
「歌仙さん! あちらで貰った整理券と引き換えておみくじを引けるそうです! 主様の分も預かってますから、引きに行きましょう!」

 割って入った物吉の声に、歌仙は再びのため息をつく。平時ではまずお目にかかれない人混みとお祭りムードが、物吉の高揚感を否が応でも高めてしまったのだろう。自分の周りを跳ね回る彼を窘め、歌仙は一度辺りを見渡した。
 整然と調えられた石畳。本丸の家屋とも違う趣の建築物。わざわざ見る必要もないほどの、人の群れ。たき火がいずこかでは焚かれているようで、冷えた冬空に煙が一筋上っている。
 ここは本丸の近くにある神社だ。歩いて三十分ほどの場所に存在し、その規模は決して大きいとは言えないが、小さいというほどでもない。まして正月となれば、藤が以前歌仙に話した通り、神社にとってはもっとも忙しい時期といっても過言ではない。当然、ここもまた普段の倍以上の参拝者でごった返していた。

「これが、初詣なんですよね」
「そうらしいよ。主も昨日言っていたからね。人々が新年の挨拶を神様にするものなんだそうだ」

 正月に初詣に行く習慣については歌仙にしか教えられていなかったが、今朝起きた歌仙はおせち料理をつまみ食いする主を叱りながら、その話を口にしたのだ。
 それに食いついたのが五虎退であり、物吉であり、次郎であった。そこまで行きたがる者がいるのなら――とあれよあれよと準備が整い、急遽昼からの初詣となったのである。
 だが肝心の主の姿は、今の彼らの近くにはない。

「この人の数では、主が人混みに酔うのも無理はないね」

 おみくじを引くのに必要な整理券を買っている最中、彼女は人混みに酔ったと言って彼らの側から離れて、境内のはずれに行ってしまった。髭切が付き添ってくれているので、危ない目に遭いはしないだろうが、歌仙にとっては不安の種の一つであることに変わりは無い。

「主様の分も、良い運を引けるように頑張りますっ」
「ぼ、僕も、あるじさまの分もお祈りします」
「さあさあ、そろそろアタシたちの番だよ」

 おみくじより先にまず参拝と、神社の賽銭箱の前に彼らは並んでいた。先に参拝を済ませた人の真似をして、次郎が吊されていた紐をこれでもかと揺さぶる。
 そして、神社の神様どころか町中の人が起きるのではないかと思うほど、派手な音がガランガランと辺りに響き渡った。


 胸の中に自分以外の生き物がいて、全身を這い回っている。そんな気分だ、と藤は今の自分の状況を俯瞰する。
 本当に人混みに酔った可能性も想定して、境内の端に行ってしゃがみこんでみても、頭が割れそうな頭痛と胸のむかつきが収まらない。
 痛みを押し込めることばかり考えているせいだろう。側にいてくれるはずの髭切の気配すら、遙か彼方のように思えてしまう。

(やっぱり、こうなるから来たくなかったのに)

 非難めいた言い方になっていると気がつき、藤は小さくかぶりを振る。誘ったのは五虎退たちだが、頷いたのは自分だ。責任を彼らに押しつけるべきではない。それは、審神者としても人としてもするべきではない責任転嫁だ、と彼女は己を戒める。
 鳥居を目にした瞬間から、演練や夏祭りのときと同じような居心地の悪さに彼女は襲われてはいた。例えるならば、立ち入り禁止の場所に踏み入ろうとしているかのような、或いは他人の家に土足で上がるような、無作法な振る舞いを指摘された瞬間の居心地の悪さに似ている。
 はっきりしない後ろめたさが、自分の足を踏みとどまらせている。何故そのような気持ちになるかについては、既に藤の中で予想がついていた。

(僕は、穢れてるから)

 額に脂汗が滲み、夏でもないのに体が不愉快な熱に襲われる。だというのに今や寒気が全身を蝕み、閉じた唇は震えていた。むかつきを抑えるために噛み締めてみても、とうに温度を感じない。恐らく、その色は白を通り越して青くなっているだろう。

「主、やはり先に帰るかい」
「……大丈夫」

 髭切が背中をさすってくれているが、そんな価値は自分にはない。自分は彼を騙しているという暗い考えが、黒雲となって頭上を付き纏い続けている。
 ふと、違和感を覚えて藤は膝を抱え込む己の手に目をやり、

「ひっ!?」

 鋭く息を呑み、声にならない悲鳴を上げた。自分の手の上に何か細長い虫が――ムカデのようなものが這っているように見えたからだ。慌てて振り払うように手を動かし、その場に立ち上がる。ぐらりと視界が傾ぐが、倒れるより先に髭切の腕が伸びて彼女の上体を支えていた。

「どうしたの?」
「ムカデが、いたから」
「ムカデ?」

 一息ついてから辺りを見渡してみても、そのような虫はまるで見当たらない。考えてみれば、あれだけ近くにいた髭切が、主の手の上に虫が這うまで放っておくわけがない。
 嫌なことに頭を使いすぎて幻覚まで見始めたのだろう、と藤は頭をふるふると横に振った。

「気のせいだったかも。……ごめん、もう一度座らせて」

 髭切の腕にしがみつくようにしながら、彼女が再び膝を抱え込みかけたときだ。「すみません」と声が二人にかけられた。
 見れば、そこには白の上衣に緋袴を履いた巫女が立っていた。つやつやとしたおでこが見えるように、黒髪を後ろにひっつめ、まとめた髪に金銀が鮮やかな熨斗をつけている。

「お連れの方、具合が悪いようですが……。救護室に行かれますか? 社務所で臨時開設しておりますので」
「主、そうする? 僕から歌仙たちには伝えておくから」

 そこまで言って、髭切は口を閉ざす。
 彼女の様子がおかしい。藤は巫女を見つめたまま、正確には彼女の顔というよりその髪や、装束を見て凍り付いているようだった。
 あたかも――同じような姿の誰かを、そこから見出そうとしているかのように。

「だい……じょうぶ、です。ごめんなさい、大丈夫ですから、ごめんなさい!!」

 震える唇で叫ぶように彼女は言うと、まるで逃げ出すように踵を返して走り出してしまった。

「主っ!!」

 咄嗟に、ふらふらとした足取りの彼女に手を伸ばす。しかし髭切の手は霞を掴んだように、藤の手に届きはしなかった。
 顔を上げれば、既に彼女の姿は遙か遠く鳥居の向こうに見える。今にも倒れそうな顔をしていた人が、即座に移動できる距離とは到底思えない。

(おかしい。今の距離なら届くと思ったのに)

 自分の手を見つめてみても、答えなど到底思いつかない。振り返ると、声をかけてきた巫女は何もおかしなことなどなかったかのように、きょとんとしていた。
 髭切だけが、今の状況を奇妙だと認識している。まるで、狐にでもつままれたかのようだ。
 何を考えても、今は答えは出ないだろう。ならば、思考は無用。髭切は一目散に、主の背中に向かって駆け出した。


 神社の裏手にある鳥居から抜け出すと、そこは石灯籠が少しばかり並んだ小さな参道となっていた。数歩も歩けば歩道に出るほどの、こじんまりとした道。その中ほどで、藤の膝はついに悲鳴を上げてしまった。
 がくりと崩れ落ち、どうにか石灯籠の一つを支えにして地べたにずりずりとしゃがみ込む。走っていて息は上がっているはずなのに、呼吸が苦しい。何度吸っても吐いても、体に酸素が行き届かない。
 体をくの字に折り、膝を抱えて頭を埋める。目を閉じても視界が明滅していて、頭はぐらぐらと揺れている。

(あの人に、悪いことしちゃったな)

 巫女の姿を見た瞬間、頭が真っ白になってしまった。動揺が心を埋め、その場にいてはならないという強迫観念染みた思考が、判断能力を丸ごと奪っていった。
 駆け出してもすぐに髭切が引き留めてくれる距離だったのに、と冷静になれば考えられたのだが、彼の手が自分に届くことはなかった。
 髭切にとっての自分は、そこまで気にするほどの相手ではなかったということか。嫌な想像が心の片隅に生まれていき、どんよりとした気持ちを抱えていると、

「あ、またムカデだ……」

 僅かに顔を上げると、足元にちろちろと歩き回っている虫が目に入る。先ほど、手の上を這い回っていると思ったムカデだ。
 本物なのか、或いはやはり疲労で目にしてしまった幻覚なのか。酩酊したような思考では、何も考えられない。刺されたら痛いと分かっているのに、見るでもなくその姿を追ってしまう。
 そういえば、髭切が奇妙なムカデを見つけて、ちょっとした探検をしたことがあった。あれは夏祭りより前の話だったか。壊れたムカデの住処を髭切と直し、ムカデからそのお礼にと、奇妙な金属片を貰った。それは今も、携帯端末にストラップ代わりとしてつけている。
 あのときの自分と今の自分は、あまりにかけ離れている。夏の川で二人してはしゃぎまわっていた日が、まるで異世界の出来事のように思えるほどに。
 あのときの自分は、穢れているという現実をまだ知らなかった。だから、何も知らない子供のように遊び回れたのだ。
 まだ楽しいという感情を知ることができていた日々。それを思うと、先ほどより疲労感を強く覚えてしまった。
 瞼は重く、このまま閉じてしまいそうだ。いっそのこと、そうしてしまった方がいいのかもしれない。
 自分がここにいていいのか、分からない。この場は己に許された場所と思えない。
 刀剣男士に寄り添う、審神者という立場の者であるにも関わらず、神社に入ることすらろくに出来ない己の歪さに目眩すら覚える。
 何かを考えれば考えるほど、頭がどんどん重くなっていく。だから、もう何も考えないように眠ってしまえば――。

「辛いのか」

 声が聞こえたのは、そのときだった。見かねた通行人のものだろうか。
 やや低く、だがどこか暖かく、馴染みのある声だ。無条件で藤の心に染み渡り、彼女に安心をもたらしてくれる。初めて聞いたはずなのに、そんな風に思えない懐かしさを感じるのは何故だろう。

「ここにいるのが辛いと言うのなら、別の所に行くか」

 何か答えなくてはと思い、藤は膝の中に埋めていた顔を少しばかり上げる。
 視界に映り込んだのは、見慣れない男性の靴だった。所々が破けているが頑丈そうな靴は、こんな町中よりも寧ろ山中を歩き回るのに向いているだろう。
 それはどこか――故郷で共に暮らしていた老人達が履いていたものに、似ていた。

「お前がここを否定するのなら、私はお前を迎え入れよう」

 頭痛の名残のせいで、言葉の意味を理解するまでに藤は数十秒を要した。ようやく、見知らぬ誰かが妙な誘いを持ちかけているようだと気がつき、せめて何か返事をせねばと彼女は今度こそ、はっきりと目の前に立つ者の姿を見た。
 逆光を浴びてそこにいたのは、黒い髪に荒々しい無精髭の男。靴と同じ、あちこちがぼろぼろになっている衣服は、初詣の参拝客とはとても思えない。
 こんな人は知らない。なのに、何故か知っている気がする。その顔を見ていると、どうしてか愛おしさを覚える。手を伸ばせば、すぐに笑顔で迎えてくれた彼のことを――知っている。

「──おとう、さん?」

 自分が紡いだ言葉が音になりきるより先に、

「主!!」

 聞き慣れた髭切の声が、冬の空気を切り裂くように響く。彼女がハッとした頃には、先程までいた人影はまるで霞のように消えていた。

「……夢?」

 遂に、疲労が白昼夢まで呼び寄せてしまったのだろうか。ぴしゃぴしゃと頬を叩いて目を覚まさせてから、彼女は自分に駆け寄ってくる髭切の方を向いた。
 血相を変えて走ってきた彼は、藤の前に来ても勢いを殺すことなく、掴みかかるように彼女の両肩に手を置いた。

「主、大丈夫!? さっき、一体何を見ていたの」
「……何だか、夢を見ていたみたいなんだ。知っている人が、近くにいるような気がして。そんなわけないのに」

 髭切と見つめ合うこと暫し、藤はゆるゆると首を横に振る。そっと髭切の手に己のものを添えて、ゆるりと肩から引き剥がした。

「ごめんね。急に飛び出して。もう大丈夫だから」

 立ち上がって無事を主張してみようとしたものの、膝に力が入りきらずに体が傾く。すかさず髭切の手が伸びたが、彼女はそれを避けるように近くの石灯籠に手をついた。
 どうしてそんなことをしてしまったのか、自分でもよく分からない。彼を騙しているという罪悪感が、無意識に彼を避けようとしてしまったのだろうか。

「…………」

 訝しむようにじっと見つめられてしまったが、髭切にこれ以上負担をかけたくはない。いつも通りの微笑を藤が浮かべていると、

「あるじさまー」

 五虎退の細い声を、彼女の耳が捉えた。表の正門となっている鳥居とは異なる裏手側にいたのに、よく見つけたものだと藤は少しばかりの驚きを覚える。

「あるじさま、びっくり……しました。待ち合わせの場所に、二人ともいなかったので」
「ごめんね。ちょっと、こっち側も見ておきたくて」

 髭切の視線を感じつつも、藤は適当な誤魔化しを口にする。無言で睨まれたような気がしたが、四人の心配を無意味に煽るつもりは髭切にもなかっただろう。彼は、沈黙を貫いてくれていた。

「あるじさま、お体の具合は大丈夫なんですか? 次郎さんが、もし辛いなら担いでいこうって、話していたんです」
「そんな大袈裟な。僕は平気だよ。ほら、こうやって立てるくらいには快復してるから」

 何の気なしに石灯籠に置いた手を見て、藤は思わず「ひっ」と悲鳴をあげて飛び退いた。最早三度目となるが、その冷たい石の上を大きなムカデが這っていたからだ。
 急激に動いたせいで、未だ安定には程遠い体調が悪化したようで、藤の体がぐらりと傾ぐ。だが、

「おっと。ほら、急に姿勢を変えると危ないよ?」

 次郎が彼女の背後に回り、そのたくましい腕で傾いだ体を支えてくれた。おかげで地面に倒れ込むのは避けることができたようだ。

「何でこんなにムカデが……」
「ムカデ?」
「うん、さっきそこに」

 藤の視線を追って次郎は石灯籠を見るが、そこにはムカデはおろか羽虫すらいなかった。

「いた、気がしただけで……ここに来てから、何度か見かけているんだ」

 やはり夢か幻覚か、と藤は長く息を吐き出す。

「ここの神様は、ムカデのような姿をしていると神社の成り立ちを記した石碑にあったね。もしかしたら、主を歓迎しているのかもしれない」

 歌仙の言葉を聞き、藤は「えっ」と驚きの声を漏らす。穢れている自分は、神社にとっては寧ろ異物のはずだ。歓迎よりは追い出すために出てきているのでは、と彼女の顔は訝しんだものに変わる。

「具合が悪いあるじさまが心配で、きっと様子を、見に来てくれたんですよ」

 五虎退はにこにこ微笑みながらそんな希望に満ちた予想をしてみせる。だが、藤としては彼とは真逆の考えしか、思い浮かばなかった。

「そうでした、主様が引いた整理券のおみくじを、代わりに引いてきたんですが――なんと、大吉だったんですよ!」
「大吉?」

 神社に来て本格的に体調を崩す直前、藤は彼におみくじの整理券を渡していた。それを使って、物吉が自分の分と合わせて引いてきてくれたらしい。
 彼から受け取った小さな紙を伸ばすと、確かにそこには大きく『大吉』と書かれていた。

「健康、外に出れば自ずと快復。旅行、思わぬ出会いあり。金運、質実剛健が一攫千金への近道。恋愛、思い人近くにあり……ふうん」

 口から零れたのは、自分でも気のないと思えるような返事だった。
 無理もない。おみくじなど、所詮は如何様にもとれるようなことを、もっともらしい言葉で並び立てているだけだ。
 他人と見比べて、少しばかり感想を言い合えばそれで用済みのもの。そんなものに対して、物吉のように一喜一憂できるほど、藤はおみくじに厚い信頼を寄せているわけではなかった。だからといって捨てることもできないので、紙を小さく折りたたんで、彼女はポケットの中におみくじを無造作に突っ込んだ。

「主様、お出かけになったら、いいことがあるみたいです。春になったら、旅行してみませんか」
「審神者が、本丸を抜け出したらだめでしょう。刀剣男士が旅行に行けないかは、訊いておいておこうか」
「ボクは、主様と行きたいんですよ」

 物吉は残念そうに眉を下げてしまい、藤はしまったと内心で冷や汗をかいた。
 自分の正しさを貫こうとするあまり、誰かを傷つけてしまっては意味がない。何のために審神者であり続けているのか、分かっているのか。これでは意味が無い。
 そうやって、藤の思考がぐしゃぐしゃになった紙くずのように乱れていく。いつも、誰かを傷つけてしまったと思った瞬間は、こうなってしまうのだ。

「そんじゃ、そろそろ帰ろうか。主はアタシと手繋いでおくれよ。次郎さん、甘酒飲んでちょっと千鳥足なんだよね~」
「はいはい。じゃあ、一緒に歩こうか」

 まだ体調が万全でない主を気遣って、自ら酔っ払ったふりをしてくれた次郎の気持ちを察して、藤は彼の大きな手を掴んだ。外にいたはずなのに、彼の手はその心遣いと同じくらい温かなものだった。
 本丸に戻ったら、少し休もう。夜には、また皆と『楽しい』時間が待っている。そんなことを思い、一歩歩き始めたときだった。

『――逃げなくて、いいのか』

 不意に耳元で誰かが囁く声をを聞いた気がして、藤は勢いよく振り返った。だが、見えるのは彼女が突然振り返ったことに驚いている、歌仙や五虎退たちだけである。 

「どうしたの、主」

 髭切に問われて、藤は何を言おうか悩み、結局首をゆるゆると横に振るに留めた。


 ***


 帰ってからも大事をとって少し休んだ藤は、彼女にとってやらねばならないこと――即ち、お年玉でもあり、クリスマスのお礼でもあるお守りを渡そうと、自分の部屋から姿を見せた。
 時刻は、夕暮れよりは幾らか前だ。今日は出陣の要請もなく、皆が本丸の何処かにいるはずである。
 廊下を歩き、藤はまず厨に向かおうとした。そこなら間違いなく、歌仙がいるだろうと思われたからだ。しかし、その途中で藤は二人の小さな影を見つける。

「あ、五虎退と物吉。ちょっといい?」
「あるじさま! もう起きても大丈夫なんですか」
「うん。二時間くらい寝たら、くらくらしたのも収まったみたい。それよりも、二人に渡したいものがあって」

 五虎退と物吉は、揃って顔を見合わせる。物腰が柔らかいこの二人は、まるで年の近い兄弟のようだ。

「主様が、ボク達にですか?」
「そうだよ。えっと……先日のクリスマスのお礼と、お年玉っていうお正月のお祝いの品を兼ねてなんだけどね」

 手に提げていた紙袋から、藤は小さな金襴の布袋を取り出した。中には藤の力が込められたどんぐりが入っており、そのせいで少しぷっくりと膨らんで、不格好なお守りになってしまっていた。

「皆が出陣するときに、何事も起きませんように、怪我しませんようにって、お祈りしておいたお守りなんだ。上手くできたかは分からないんだけど、良かったら持って行ってくれる?」
「勿論です!」
「ぼ、僕も、持っていきます!」

 すぐさま答えたのは物吉だ。続けて五虎退も、少ししどろもどろになりながら続く。
 二人の頬は綺麗な薔薇色に染まり、見ている藤も思わず目を細めて彼らを見守ってしまったほどだ。この瞬間だけは彼女も、自分が手入れをしたくないから、などというエゴを忘れることができた。

「そうでした、丁度ボクらも主様にお渡ししに行こうとしていたんです」
「僕に?」
「はい。えっと、同じものになってしまうんですけど……」

 物吉は私服のベルトに結んでいた巾着から、白い紙袋を取り出した。染み一つ無い袋に唯一ある意匠――鳥居の模様を見て、藤の顔色が変わる。

「あの神社のお守りなんだそうです。悪いものを追い払ってくれる効果があるって、巫女の方がお話されていました!」

 物吉が嬉しそうに差し出してきた以上、断るわけにもいかない。どうにか震えを押し殺して、藤はそれを紙袋ごと受け取った。触れてしまったら、厄除けのお守りは自分を拒むに違いないと、藤は中を覗くこともできなかった。

「あ、あと……あの神社の、神様は、鉄を作る神様なんだそうです」
「製鉄の神様ってこと?」
「は、はい。だから、主様は刀をお作りにもなるので、丁度いいかと思って……」
「ムカデの神様で、製鉄の神様でもあるんだ。そんな神様もいるんだね」
「は、はい。ムカデさんです。でも僕たちでは、ムカデさんは見つけられませんでした」

 しょんぼりと肩を落とす五虎退の頭を、藤はそっと撫でる。彼の髪の毛はまるで綿菓子のように、柔らかく彼女の手を受け入れた。

「僕は三度も見かけたのに、不思議なこともあるもんだね。ムカデとは何かと縁があるのかな」
「そうだったんですか!? てっきり一度だけだと思ってました。主様は運がいいんですね」
「どうだろう。疲れて、それらしいものを見間違えただけかもしれないよ」

 自分の懸念を二人に悟られまいと、藤は目を輝かせる物吉に適当な返事をする。
 同じ神様である付喪神の彼らが見つけることができず、自分のもとにわざわざやってきたのは何故なのだろうかと、藤は心の片隅でちらと思う。
 やはり、早く立ち去れという警告だったのだろうか。考えたところで、ムカデが姿を見せて何かを語ってくれるわけでもなかった。

「あるじさま、そういえば昨日のお掃除で押し入れの中から絵札がいっぱい出てきたんです。遊戯に使う品のようなのですが、見て貰ってもいいでしょうか?」
「絵札?」
「文字が書かれた札と、絵が描かれた札です。え、と……たしか読み札と……」
「ああ、それならカルタのことだね」

 そこまで、藤が言いかけたときだった。

「あけましておめでとうございます」

 そんな声が三人の間に割って入ったのは。
 三人が思わず振り向いたその先、そこには声の主である面妖な化粧を施した狐がこちらをじっと見つめていた。政府の使者である管狐――こんのすけである。

「……あけまして、おめでとうございます」

 先に口火を切ったのは、藤だった。強張った声でありながらも、彼女は頭を下げて審神者としての礼儀を狐に見せる。五虎退と物吉も、彼女に倣ってぺこりとお辞儀した。
 しかしこんのすけは、まるで彼らなどいないように藤に向かってトントンと歩み寄る。

「審神者様、少しよろしいでしょうか」
「はい」

 尋ねておきながらもこんのすけはすぐに本題に入らず、その無機質な瞳をちらりと傍らの刀剣男士二人に向ける。さながら、お前らは邪魔だと言わんばかりに。
 以前本丸に遊びに来た更紗が連れてきた狐と異なり、真っ黒なガラス玉をはめたような視線からは、感情がまるで読み取れない。

「五虎退、物吉。少し別のところに行ってくれる? この狐さんは、僕に用があるみたいだから」

 主に求められた以上、二人に断ることなどできるわけがない。少年達が完全に立ち去ってから、こんのすけはようやく口を開いた。

「お守りを作られたようですね」
「だめでしたか」
「いえ。ただ、彼らには必要ないでしょうと思っただけのことです」
「彼らに万が一があった時に、役に立つものと聞いてます」
「万が一があっても、刀剣男士など次を作ればいいでしょう」

 その物言いは、特段彼らを侮っているわけでも嫌っているわけでもなかった。ただ、自分の思想として当然であると考えているが故の言葉だ。
 花が枯れれば、また植えればいい。物が壊れれば、また用意すればいい。この狐にとって刀剣男士はその程度の存在に過ぎないのだと悟った藤は、思わず嫌悪感を露わにする。

「どうして、そんなことを言うんですか。彼らは生きてます」
「生きているように見えるだけです。審神者様は刀剣男士に随分ご執心のようですが、深入りはしすぎないように願います」
「なぜ」
「……必要がないからですよ」

 さらりとこんのすけは言ったが、暫し挟まれた沈黙には何か別の意味があるように藤には聞こえた。無論、どれだけ待ってもその答えがわかるわけでもない。

「そんなことよりも」

 こんのすけも語るつもりはなかったのだろう。トントン拍子で次の話題へと進めていく。

「審神者様、そろそろまた、新たな刀を顕現する時期ではありませんか」
「顕現し続けなければ、審神者ではいられない――という話でしたね」

 次郎を顕現する際にも、この問答はしていた。たしかに彼を顕現してから、もう二ヶ月以上は経っている。そろそろ次の鍛刀を行うべきだとは、藤にも分かっていた。

「審神者様のお力が増せば、より強力な刀剣男士を呼び寄せられるようになります。そうすれば、お守りなど作らなくてもあなた様の懸念は解消されるでしょう」
「そういうものなんですか?」
「通説ですがね。物吉貞宗や髭切、次郎太刀という刀剣男士は新米の審神者にはなかなか顕現できないもの――と言われています。しかし、あなた様は立て続けに彼らをこの世へと導いた。これは、審神者様の地力が優れていることを示しているのでしょう」

 果たしてそうだろうか、と藤は疑念を抱く。こんのすけの言葉が事実だとしても、自分に穢れがついているのだろうという思いは消えるわけではない。
 鍛刀や手入れという審神者の力と、これは全く別の次元の話のようだ。だというのに、密接に審神者としての日常に絡みついて、離れてくれないものとなっている。

「先ほどの話、立ち聞きさせていただきましたが、神の使いがわざわざあなた様の元に赴いたのも、あなた様に興味を持たれたからでしょう。私としても嬉しい限りです」
「僕はそんな、大層な人間じゃない」
「ええ、存じております。鬼――でしょう」

 さらりとこんのすけが告げた言葉に、藤は心臓を鷲掴みにされたような心地に襲われた。
 何故それを知っている。
 彼は、どこまで自分のことを知っているのだろうか。
 この狐は一体何なのだ。
 藤の顔色を読み取ったように、狐は前足で鼻を撫でながら言葉を続けた。

「驚くほどの話ではありません。審神者になる際に、面接は受けたでしょう。あの結果は政府内では共有される資料なのですよ。あなた様も、それを承知だったと思いますが」

 こんのすけが言っていたことは事実だ。その折に、自分の容姿に関する話もしている。面接した人間は特に気にしようともせずに次の話題に移ってしまったので、藤としても殊更に強調したつもりもなく、故に記憶から抜け落ちてしまっていた。

「……僕を、審神者の任から外さないんですか」
「何故?」
「だって、鬼なんて居るべきじゃないって」
「思っておりませんよ。ただ、鍛刀を続け、ここに居続けてさえくれれば私はいいのです。私にとっては、それこそが望ましい。そんな、やめさせようなどと」

 まるで簡単な足し算の答えが分からないとでも言われたかのように、こんのすけはきょとんとした顔――少なくともそう思える顔をしてみせていた。

「なら、顕現さえ続けていれば、僕は審神者でいられるんですね」

 自分が審神者でいていいのかという、消えない懸念。だが、同時に審神者でい続けられる最低限のラインさえ分かればと、思っている己がいる。疑問を口にすると同時に、自分のそんな弱気な思考に気がついてしまった。

「そのように言い換えることもできますね」
「そう――ですか」

 狐の答えに、藤は安堵の息を密かに吐く。顕現なら体に負担がかからない。新しい仲間とそつなく対応していくのも、今まで通りにやれば問題ないだろう。

「何か不安なことでも?」

 珍しくこちらを気遣うような言葉だと思い、しかし藤は違うとすぐに否定する。
 この狐は、探っている。こちらに弱みがないかを、或いはこちらに隙がないかを。知らぬ間に忍び寄り、迂闊に油断すると噛み付いてくる。狐と言うよりは、まるで蛇のようだ。

「不安ではありません。刀剣男士の皆は良くしてくれていますから。ただ、ちょっと気になっただけです」
「そうですか。なら、結構です」

 こんのすけはそれ以上この話題を続けることなく、その場を立ち去ろうとした。が、踵を返した彼は首だけをこちらに向けて続く言葉を放つ。

「あなた様がたとえ審神者の任をおりたとしても、あなた様の養父はそれを責めはしないと、以前お会いした時に話していましたよ」

 再びどくりと、嫌な形で鼓動が跳ねる。

「それと、あなた様の角について大層心配しておられてましてね。取り除きたいというのなら、いつでも準備ができていると。以前送られていた手紙にも、書いてあったかとは思いますが」

 今度こそ、喉の奥を締め上げられたような圧迫感に、藤は思わず息を止めた。
 話自体なら一度、既に聞いたはずのものであった。審神者になるために家を出る少し前、養父に深刻そうな顔で呼び出されてこう持ちかけられたのだ。
 角を取ってはどうか、と。
 そのときは、すぐに断った。お金がかかるようなことを、わざわざしてもらわなくてもいいと言って。金銭面の心配をする優しい娘のふりをした。

「無論、今は心配無用だと伝えておきました。ご安心ください」

 本当は、違うのに。
 嘘を、ついた。

「私としても、審神者様が望んでいないことを強要するような真似はしません。では、鍛刀の結果報告をお待ちしています。富塚は、あなたを優秀な審神者だと褒めていましたよ」

 とってつけられたような褒め言葉など、藤の耳には入らない。頭にまるで羽虫が住み着いたかのように、うわんと耳鳴りが響き続けてしまっている。
 こんのすけが姿を消してからも、その場で倒れなかったのは自分の折れかけた矜持が、辛うじて支えてくれていたからだ。
 五虎退たちがくれたお守りの入った袋を、ぎゅうと握りしめる。それすらも自分には助けにならないのだと、分かっていても。

「どうして、放っておいてくれないの」

 思わず手を額に伸ばすと、バンダナの布越しに小さな硬い感触を抱く。別に何をされたわけでもないというのに、それがまだそこにあることに、藤は大きな安心を覚えた。
 そのおかげか、体の力が抜けてずるずると彼女は床へと崩れ落ちる。今は誰も通らないでほしいと祈り、呼吸を整えて彼女は再び笑顔を作る準備をした。


 ***


 生まれたときから、それは額にあったのだと聞いていた。
 日の光を浴びて、春の若葉のような色で煌めく小さな角。母にも、共に暮らしていた老人達にも角は生えていなかった。
 彼らは総じて額に小さなこぶのようなものを持っていたが、自分のように角として明確に突き出ている者は一人もいなかった。
 角そのものを、嫌悪したことはなかった。川面にうつる己の顔を見て、きらきらと輝く額のこれは、まるでお日様がくれた天然の冠のようだと思っていた。
 けれども皆と違う姿に、不安を覚えなかったわけではない。だから、母親にしがみついて泣きそうになりながら、一度だけ尋ねたことがあった。

「これ、へんじゃない? あーちゃんにだけ、どうしてこれがあるの?」
「変なんて思ってないわ。とっても綺麗なんだもの。きっと神様があーちゃんを特別に大好きだから、授けてくれたのね」

 母親は、そう言って藤の頭をそっと撫でてくれた。畑仕事で傷んだ手であったとしても、娘の自分にとってそれは何よりも安心できる手だった。
 その日から、角のことで悩まなくて済むようになった。村の人たちも、神様からの贈り物だと口々に言い合い、角のある娘を見ては目を細めて、その成長を見守ってくれた。
 いつしか、それは単純に綺麗なものを喜ぶ気持ちから、母や隣人が褒めてくれたものという誇りへと、変わっていった。そして、この思いだけは村を出てからもずっと変化しない物の一つだった。

「――角が生えてるなんて、なんて可哀想なんでしょう。ねえ、どうにかして取れないかしら」
「そうだな。知り合いの医者に聞いてみるよ」
「ええ、お願い。あーちゃん、それは隠しておきなさい。その方がずっと可愛く見えるわ」

 そう、否定される日が来たとしても。

「ねえ、■■さんって角があるのって本当?」
「見せてみろよ。うわ、本当だ。何だこれ」
「ちょっと、いじめるのはやめなさいよ。あーちゃんだって、好きで生やしてるわけじゃないんだから」

 そう、哀れまれる日が来たとしても。

「──ごめんね。変だよね。気持ち悪いから、隠しておくね」

 自らが、そう言う日が来たとしても。
 その誇らしい思いだけは――覆りはしなかった。
 それは、今でも変わらない揺るぎない尊厳の証だった。
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