本編第一部(完結済み)

「出陣、だって」

 勢いよく障子を開いた主は、開口一番冷えた声で告げた。その表情は石のように固まっている。
 歌仙と、彼の外套の中に隠れていた五虎退は突如告げられた言葉にきょとんとした顔をしてみせた。
 だが、沈黙は数秒ともたなかった。

「そうかい。じゃあ、行こうか」
「は、はい」

 まるで近所にちょっと野菜でも買ってきてと頼まれ、それを引き受けるかのような気軽さで歌仙は応じた。小心者の五虎退ですら、気を詰めたような面持ちをしているだけだった。

「出陣するんだよ」

 もう一度、念を押すように藤は言う。入ってきたときと同じように表情は凍りついていたが、声の震えは隠し切れていなかった。

「何度も言わなくても聞こえてるよ」

 しかし、歌仙の態度は先と変わる様子はない。いつもの小言の延長のような語調は、藤の放った単語に驚きを感じなかったことを示している。
 本体である刀を手元から引き寄せ、すっくと立ち上がる仕草に迷いや躊躇いのようなものは一切ない。

「……嫌ではないの?」
「何を言ってるんだ。刀は戦で使われるものだろう」

 まるで一と一を足したら何になるかとでも訊かれたかのように、歌仙は至極当り前といった態度を崩さなかった。出陣を告げた当の本人の方が、何度か瞬きをして目を丸くする始末だ。
 何故主はあんな顔をしているのだろうか。五虎退も歌仙も顔を見合わせてみたが、答えが思い浮かぶことなかった。
 視線を戻して主を見つめ直した時には、驚きらしき欠片は主の顔には微塵も残っていなかった。

「じゃあ、気をつけてね」

 歌仙を見つめる、名前と同じ藤色の瞳から、彼は何も読み取ることができない。冷たいガラスの板を一枚通したように、そこに確かにあるのに触れることができない。

「……あるじ、さま?」
「どうしたの、五虎退。もしかして、出陣するのが怖いの?」
「いえ、そういうわけではないんです。ただ……」
「そう。それならいいよ」

 五虎退が続けようとした言葉を、言葉の刃をもって藤はばっさりと切り落とす。それ以上言うなと暗に言われたような対応に、五虎退も思わず口を噤む。

「主も留守番になるのだから、気を付けるんだよ。怪しい者が来ても入れないようにね」
「歌仙は僕のことを何だと思っているの」
「僕らの主だと思っているよ」
「歌仙さん、あるじさまなら……きっと、大丈夫です。この前、あるじさまと少し手合せしたとき、あるじさまはとっても強かったですから」
「そうかな。歌仙の方がずっと強いと思うけれど」

 顕現してすぐに、五虎退と軽く手合せをしたことを藤は思い出す。結果としては五虎退には敗北したわけだが、五虎退の視点ではいい勝負ができたという感想を抱いていたようだ。

「もっと昔なら、きっと、あるじさまはいい武士になっていたと思います」

 目を輝かせて五虎退にお墨付きをもらったにもかかわらず、藤の顔に緊張が走る。神経が凝結した顔から、五虎退はやはり何も読み取ることができなかった。

「それで主、僕らはどこの時代に行けばいいんだい」

 歌仙に改めて問われ、藤は「ついてきて」と先導して廊下を歩きだす。歌仙から目を外したその顔には、先ほどは押し隠した苦渋が滲み出ていた。
 だが、それも一歩一歩廊下を歩くたびに、表情という皮をはぎ取るように感情が消え失せていく。やがて残ったのは、無表情という名の仮面だけであった。


***


「あるじさま、怒ってたんでしょうか……」

 西日が差し込む山道に、五虎退の遠慮がちな声が響く。まだ人の手が山に入りきらなかった頃の時代、その歴史の隙間に歌仙と五虎退は来ていた。
 報告にあった時間遡行軍の気配とやらも、今は生憎感じられない。

「怒っていた……とは違うだろうね。うまくは言えないのだけれど」

 歌仙は出陣の見送りをしてくれたときの主の様子を思い返す。元々とても表情豊かな人間ではないと分かってはいたが、今日は特に無表情になっているように歌仙には見えた。

「緊張していたのかもしれない。僕らにとっても初陣ではあるけれど、主にとってもこれは初陣になるのだから」
「本丸にいても、初陣……なんですね」
「ああ。待っているというのも、大事な戦いの一つのように捉えているのではないかな」

 当てずっぽうの推量ではあったが、歌仙は五虎退の不安を和らげるために敢えて確信めいたような言い方をした。

「あるじさま、強いですものね。本来なら……一緒に、出陣したかった、のでしょうか」
「それは違うんじゃないかな。そもそも主は……」

 歌仙が何か言いかけたとき、不意にがさがさと大きく茂みをかき分ける音がする。反射的に二人の手が、自らの腰に提げられた刀の柄に伸びた。
 心臓の音すら聞こえてしまいそうな、不気味なほどの静けさが辺りを覆う。
 一拍置いて茂みをかき分けて出てきたのは、一羽の野兎だった。罪のないこの耳長の獣は、殺気立った二人を見つけてすぐに踵を返して姿を草むらに消す。
 対照的に、歌仙と五虎退は全身に漲らせていた緊張感を少し緩め、細く長い息を吐き出した。

「びっ……くり、しました」
「ああ、そうだね。ただ、警戒はするに越したことはないだろう」

 とはいえ、所詮二振りしかいない状態では何か大きなことができるわけでもない。偵察に行こうにも、分断のリスクをわざわざ犯す理由が今時点では思いつかない。常日頃の警戒を怠らないという基本に立ち返ることが、今の彼らのとれる最善策だった。
 無言で歩き続けるのは警戒のためであるが、極度の緊張は耐えきれない空気も作ってしまう。あまりに張りつめた空気に耐えかねたのか、

「あ、あの……」

 五虎退が、小声でおずおずと口火を切った。

「ぼくも、歌仙さんみたいに、あるじさまのこと……すぐにわかるように、なりたいです」

 独り言めいた決意表明に、歌仙は痛いほど張りつめていた緊張を緩め、少年を安心させるような微かな微笑を浮かべる。

「そうだね。主もきっと喜んでくれるだろう」

 歌仙の肯定に、五虎退もパッと顔を明るくさせた。

「は、はいっ」

 彼が頷いたその瞬間、五虎退の後ろの茂みから草木をかき分ける大きな音が響く。朗らかな気配は一気に打ち破られた。

「五虎退!!」
「う、わ」

 歌仙の声と同時に反射的に五虎退は振り返り、一歩背後の茂みから飛び退って距離を置く。彼の首があったところに、緑の燐光をたなびかせた斬撃が通り過ぎていった。
 まるで浮遊する骨の魚のような、不気味な存在がそこには存在していた。
 歴史には存在しないはずの異形の何か。それが、時間遡行軍というものなのだと彼らは肌で感じる。

「やれやれ。もっと風情のある姿形をしていればいいものを」

 骨の魚の後ろから姿を見せたのは、打刀を片手に提げた生き物だ。背丈は大柄な人間より少し大きく、ぼろぼろの袴を履いていた。上半身は、筋骨隆々の肉体を惜しげもなく外気に晒している。
 ぼろぼろの傘を頭に被ったその姿は、先の骨ばかりの異形に比べれば人間に近い。しかし、彼の腕には人間の背骨のような白くごつごつしたものが這っている。何より纏う光が、瘴気が、それが人間ではないとはっきり示していた。
 傘の隙間から爛々と覗く瞳からは、友好とは程遠い感情が垣間見える。その目が、歌仙を捉えて表情を苦々しげなものに変えた。

「──せめて、雅に散ってもらおうかな」

 夕暮れが最後の光を山間から投げかけた刹那、歌仙は対する敵に向けて迷いなく踏み出した。


***


「……美味しくない」

 焦げた野菜炒めを前にして、本丸に残された藤はぼそりと呟く。それでも、作ったのは自分なのだから小言も全て自分に跳ね返ってきてしまった。
 目の前になるのは、焼き目というよりは焦げ目に近いものが目立つ野菜炒めだ。焦げの原因は、火を強くしすぎたことと調味料をかけすぎたことだろうと藤は推察する。
 気乗りしないものの仕方なく箸を動かし、口の中で焦げ臭いキャベツを齧る。途端に広がる苦味に、また顔をしかめることとなった。

「苦い。それに、まずい。歌仙のご飯が良かった」

 小言を漏らしていると、慰めるように足元に五虎退の虎の一匹が駆け寄ってくる。足首を撫でるふわふわの毛ざわりに、藤の溜飲も少し下げられたようだった。

「君なら、わかるかな」

 不意に要領の得ない質問をされ、虎は首を傾げる。食事を中座し、藤は虎の子を抱き上げた。膝の上に載せて、そのふわふわの毛に指を通して撫でていく。

「刀なら、戦いに出るのは当たり前なんだよね」

 ぐるると肯定するように虎の子が唸る。

「審神者なら、見送るのが当たり前なんだよね」

 虎の唸り声は、今度はなかった。

「なら、僕はきっと間違ってるんだね」

 虎を膝から解放して、藤は立ち上がる。一人の本丸には既に夜闇が訪れていた。歌仙の小言も五虎退の虎と戯れる声も、今は聞こえない。

「僕は、彼らが行きたがらないだろうと思った。五虎退はあの通りで気が小さいし。歌仙だって歌を詠むのが好きで料理を作るのが上手くて刀を振るうのが得意なだけの、普通の人に見えてた」

 障子を開けば、無人の庭がただただ広がっている。明かりもないので、針の糸程度に残された今日最後の陽の光以外は、庭を照らすものはなかった。

「でも彼らは刀剣男士だから。当たり前のように出陣に行って、僕は馬鹿みたいにそのことに狼狽えてしまった。でもそれは、間違いなんだ」

 自分に言い聞かせるように、藤は言葉を止めない。自らが生み出した疑問を自らの手でへし折るための儀式を、愚直に続けていく。

「僕は、また間違えた。間違えて余計なことを考えて、余計な不安を相手に抱かせた」

 微かに差していた光もついに消え、庭は完全な闇に沈む。合わせるように、藤の瞳に宿っていた微かな疑念も塗り潰される。それ以上は考えてはならないと、感情という線を切り捨てる。
 刀剣男士はいくら物だとしても人間の心を持っているのだから、人間のように扱うべきなのではないかという疑問があった。
 心がそこに存在しているのだから、怪我をすれば痛いだろうし、死んだらそれで終わりになるのではないかという懸念があった。
 それら一つ一つの疑いを考えることを、否とした。考えないことを、是とした。
 審神者としての在り方の正しさは、先だってこんのすけが示している。後は、その正しさに従って振る舞えばいい。藤にとっては、それは数年前から慣れ親しんでしまっていた作業だった。
 自分の中に湧き出た疑問の芽を全て磨り潰した藤は、庭に背を向けて足を止める。藤の足元には、五虎退の虎たちが集まっていた。

「……五虎退さ。僕のこと、いい武士になれるって」

 しゃがみこんで、藤は虎の頭に手を伸ばす。機械的に彼らを撫で続ける手は、やがてぱたりと力なく落ちた。

「いいじゃないか。それでいいって、決めたんじゃないか。なのに、何で未練がましく傷ついてるんだ」

 取り留めのない言葉を聞いても、虎の子たちは疑問符を浮かべるばかりだ。無論、最初から返事を求めるつもりも藤にはなかった。
 ずるずると障子にもたれかかり、膝を抱えるように座りこむ。思考を切り替えるために、藤は自分が導き出した結論を言葉にした。

「僕は、ただここで待っていればいいんだ。彼らの帰りを待って、手入れとやらをして、そうやって過ごすのが審神者として正しいんだ。そうでなければ、審神者を辞めさせられてしまう」

 腕の中に埋めていた顔を僅かにあげ、自分の額に巻いたバンダナをそっと撫でる。

「それは、嫌だ」


***


 見掛け倒しという言葉がある。見た目だけは優れているように見えても、その実はさほど大したものではなく劣っているという意味だ。
 歌仙は今まさに目の前の敵に対して、そのような評価を下していた。

(力は確かにあるのだけれど、動きがね)

 自然体から一気に攻勢に転じられたときは流石に狼狽えたが、その速度自体は大したものではない。
 分かりやすい直線的な突きを、半身だけ体の軸をずらすことで躱す。お返しとばかりに、相手の懐に潜り込むように姿勢を低くして下段から一息に斬り上げた。
 相手の胴に深く刻まれた裂傷は、腕を切り落とすまでは至らない。けれども、その動きが鈍ったことは明らかだ。

「やれやれ。これなら主との手合わせの方がまだ歯ごたえがあったかな」

 あちらはあちらで力任せで押し切ってこようとして、時々驚かされるのだけれどと歌仙は苦笑いする。
 その表情が、顔に出てしまったのだろう。馬鹿にされたと思ったのか、異形が怒りの咆哮をあげる。

「せめて、散り際ぐらいは美しいものにしてあげよう」

 歌仙の一撃で、既に片腕が使い物にならなくなったのだろう。動かせる片手で、相手は刀を握り直す。
 一歩踏み込み、大きく振りかぶって落とされる一撃。雄叫びと共に迫りくるそれは、しかしやはり直線的すぎた。
 難なく躱し、姿勢を大きく崩した相手の延髄にあたる部分を、軽い所作で薙ぎ払う。
 首こそ落ちなかったものの、致命傷に至るには十分すぎる痛撃だ。そうして哀れな怪物は動かなくなった。
 けれども、鞘に刀を納めることはしない。何故なら、先制攻撃を仕掛けた敵の相手を五虎退がしているはずだからだ。
 微かに聞こえているもう一つの剣戟に、歌仙は向かう。木立が服に引っかかるのも意に介さず、彼は山道から外れてひた走る。真っ暗闇の中では、方向感覚もすぐに曖昧になってしまう。それでも、ただの夜の山では聞こえないはずの金属的な刃物がぶつかり合う音だけは聞き逃さない。
 そうして幾つ目になるかも分からない藪を掛け分けた先で、歌仙は五虎退を見つけた。彼は今まさに、骨だけになった魚のようなものを片足で地面に押さえつけているところだった。トドメとばかりに、己の分身で骨の怪物がくわえていた刃を砕く。

「……はぁ、これ、で、全部、でしょうか?」

 五虎退は軽く刃を振ってから、己の鞘に刀を納めた。白い頬やむき出しになっている足には、いくつか切り傷ができている。

「恐らくね。報告にも敵の数は二とあったから」

 歌仙も五虎退に倣い、血ぶりをしてから刀を鞘に納める。パチンという音が、戦いの一区切りがついたという合図のようだった。

「よかった、です。これで、あるじさまの初陣も、成功……ですね」
「そうだね。さあ、帰ろ──」

 そこまで言いかけて、歌仙は何か大きなものの気配が周囲に膨れ上がったことに気がつく。
 それは殺気だ。先ほどとは比べ物にならない悍ましさがある。なのにどこから来ているかわからない。
 五虎退も気がついたのか、細い眉を下げて不安げな表情を見せる。二人の呼吸だけが、しんと静まり返った森に響く。
 どこだ。どこにいる。
 後ろか、前か、右か、左か。
 目だけを忙しなく動かしているのに、影も形も見つけられない。木々が月の光を隠してしまって、まさに一寸先は闇だ。
 そして、その時は突然やってきた。
 一際大きな茂みをかき分ける音。それは、五虎退のすぐ後ろから突如響いた。

「五虎退!!」

 ぬっと表れた体は、歌仙よりもひとまわり大きいように見える。五虎退は咄嗟に構えたが、自分が既に獲物を納めていたことに気が付いて顔を青くする。
 だが敵の見た目をはっきり理解するより先に、月の明かりに照らされた銀の曲線が目に突き刺さった。その軌跡は、少年の首を通り過ぎていこうとしている。

「ひっ」
「下がれ!!」

 咄嗟に、歌仙は自らが前に出て、五虎退の盾となった。代わりに自分の体が凶刃の軌道と重なってしまうが、後先のことを考えてる暇などなかった。

「──ぐっ!?」

 体で受けた冷たい刃は、触れた先から熱を奪うのではと思う怖気を覚えさせる。
 だが、思考できたのはそこまで。強烈な痛撃は思考すらも一気に奪っていく。
 血の通う体を金属が通り抜けて容赦なく引き裂き、はじけるような痛みというものが全身を容赦なく苛む。それでも意識を飛ばさなかったのは、最早意地だった。
 しかし、歌仙もただやられっぱなしというわけではない。自分の血で汚れた手を、目の前の敵に伸ばす。破れた着物のようなものを掴み、抜かれようとする刃すら己の筋肉に力を籠め、抜かせない。相手の顔に動揺のようなものが走る。
 敵の姿は、まるで鬼の武者のようだ。白い面は死人のようなのに、何かに憑かれたような執念だけは爛々とその目に宿っている。額からは二本の長い角が天を突くように伸びており、顔の下半分を般若の面が覆っている。
 だが、面で隠し切れていない瞳には焦りのようなものが見えた。自らの得物を、敵に封じられているのだ。歌仙は不敵な笑みを相手に向けてから、

「五虎退!」

 文字通り血を吐くような叫びで、未だ自由に動ける味方に呼びかける。
それに応じて、五虎退も鞘に納めていた己の半身を抜く。夜闇に浮かんだ銀の光は、過たず鬼面の武者の心臓部分に深々と突き刺さった。すかさず抜くと、まるで噴水のように黒ずんだ血が流れ落ちる。
 武者は苦悶の呻きと共に歌仙に突き立てた刃から手を離し、二、三歩下がろうとした。
 その動揺を、そして逃走を、歌仙は見逃さない。

「貴様の、罪は」

 血に濡れても、刃が突き立っていても己の半身を抜く速さは変わらない。

「重いぞ!!」

 ばっさりと上段からの斬撃が鬼を襲う。至近距離から文字通り真っ二つにされ、さしもの武者もがくりと膝をつき、どうと倒れる。
 負け惜しみのように辛うじて持ち上げられた首が、油断なく相手を見張っていた五虎退と視線をぶつけ合う。

「ひっ」

 ズルズルと彼に這い寄り、最後の気力とばかりに声を上げて立ち上がろうとして、願いかなわずその場に再度崩れる。とどめとばかりに、うつ伏せに倒れた敵の首に歌仙の刃が突き立てられた。

「た、食べられるかと、思いました……」
「まさか、そんな、わけ、はないだろう……」

 荒い息を吐き出し、敵の後を追うように歌仙も膝から崩れ落ちかける。咄嗟に近くにあった木の幹に手をついたが、弾みで彼の体からぼたぼたと血が零れ落ちる。
 突き立てられた刃こそ敵が死したと同時に消え失せていたが、傷が無くなるわけではない。傷を塞いでいたものが無くなったため、かえって出血は増してしまったほどだ。

「歌仙さん、血が……!」
「ああ、全く……これじゃ主に合わせる顔がないじゃないか」
「早く、戻りましょう。早く……!」

 五虎退の声を聞きながら、歌仙の意識はどんどん遠くなっていく。
 体の底がどんどん冷たくなっていくのが分かる。自分は元は金属の塊なのだから、それは寧ろ当り前のはずなのに今は恐ろしく思えてしまう。自分はこんなにも、温かさに慣れてしまっていたのだろうか。

「主、の所に……戻ら、ないと」

 薄れゆく思考の中でも、はっきりと主のことが思い出される。
 あの食いしん坊で、いつも澄ました顔の主はこの姿を見てどんな顔をするのだろう。マイペースで何事にも動じないような態度を見せる人物。何かを期待するように歌仙を見つめた当代の主。
 歌仙兼定という存在を、一振りの刀としても、人間としても扱おうとしていた。家族が欲しいという夢を醒めたものだと、語っていた。
 どこか頼りない所もあって、不安そうな態度を見せていた。だから、あの主を支えたいと自然に思うようになっていた。
 だから、できるならこんな姿を見せてしまっても、いつものように澄ました顔で「何をしてるんだ」と言って欲しかった。
 あの主を動揺させるのは自分でなければいいのにと、歌仙は願う。
 そうして、彼の意識は完全に暗闇に落ちた。
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