本編第一部(完結済み)
師走も終わりが近いこの日、しめ縄や紅白の横断幕を吊り下げた万屋を擁する商店街は、新年を迎える前の年末セールの真っ最中だった。刀剣男士や審神者の多くが道を行き交い、新年に向けてのお祭りムードは最高潮に達している。
その中でも比較的賑わいから遠い雑貨屋の片隅で、藤は立ち尽くしていた。彼女がいるのは、審神者御用達の消耗品の数々と銘打たれた一角。その内の一つ──お守りと書かれたものだった。
***
時刻は数時間前に遡る。藤は端末の前に座り、少し緊張した面持ちで言葉を発していた。
「クリスマスに皆から贈り物をしてもらったんです。お返しに何か僕からも渡したいと思っているのですが、何を返せばいいでしょう」
「それは、あなたが皆に贈りたいものではないのか?」
浮かび上がった画面から返事をしたのは、先月の初めに演練で世話になった男性の審神者――煉だ。年末の忙しい時期であるにも関わらず、藤が相談したいことがあると言ったら、対面の方がいいだろうと、時間を割いてくれているのである。
「それは、そうかもしれません。でも、差ができてしまうと不公平かと思って。皆が平等に喜べるものを選びたいんです」
見た目どころか、それぞれの趣味嗜好も考え方も大きく違う刀剣男士たち全員が喜んでくれるもの。そのような贈り物が藤には思いつかず、こうして先輩である彼に相談を持ちかけていた。
「しかし、それを我々に訊いても答えはでないと思われます。藤殿の本丸の刀剣男士と我らの主の刀剣男士では、同じ刀だったとしても考え方が異なりますから」
煉の隣に座って言葉を挟んでいるのは、彼の刀剣男士である一期一振である。刀剣男士の視点からのアドバイスも必要だろうと、煉が呼んできてくれたのだ。
「藤殿が心を込めて選んだものであれば、我ら刀剣男士、喜ばぬことはないでしょう」
「望んでいない物を貰って、喜んだふりをしてほしいわけじゃないんです」
「自分の気持ちを偽って誤魔化すような真似を、少なくとも私はしません。よしんば、主が我らの趣味嗜好に沿わぬ贈り物を与えたとして、そこに気持ちが宿っていれば私たちはそれで構わない。そう言いたいのです」
一期は自分の思いを懸命に語っているが、同時に彼女には届いていないとも思っていた。
傍らにいる己の主にちらりと目配せをしてみるが、主の方もどうやらそれに気がついているらしい。普段は見せない眉間の皺が、僅かなれどはっきりと刻まれている。
「僕は、皆には何の遠慮も気兼ねもなく、心の底から笑って欲しいんです。それに僕は、皆を対等に扱える審神者に……ちゃんとした審神者になりたい」
彼女の思いには嘘はない。だが、同時に己の首に鎖をかけているような息苦しさがあると、一期は思わずにいられなかった。
「何か、不満でも言われたのですか」
思わず、彼はそう問いかける。けれども、一期は口にしながらもその線は薄いだろうと考えていた。
実際に五虎退と手合わせをしたからこそ分かる。あの少年は、心の底から主に向けて深い敬慕の念を示していたのだから。
彼が想像した通り、藤はゆるゆると首を横に振ってみせた。だが、続く言葉は一期一振の想像とは異なるものだった。
「不満は、生まれたとしても言えないんだと思います。皆、優しいですから」
彼女は、何故か笑ってそんなことを言っていた。
その笑顔は優しく、まさにちゃんとした審神者然としたものであり――同時に、だからこそ、これでいいのかと疑念を抱かせる笑みでもあった。
「言いたいことは分かった。あなたの描く『ちゃんとした審神者』が、あなたにとってそのような人物像だと信じているのなら、俺が口出しすることではないだろう」
一期と藤の応酬に終わりがなさそうだと判断した煉は、彼らの会話に割って入る。主にそう言われてしまっては、一期も口を閉ざすしかない。
「それで、等しく喜べる品だったな。俺の本丸なら、食べ物、普段身につけて使える物の類だろう。一期はどう思う?」
「私もその辺りかと。筆記具や手ぬぐい、それに戦場でも身につけられるようなものでしたら尚嬉しいですな。いつでも主を近くに感じられるのですから」
「例えば、お守りとか?」
一期の言葉を聞いて、藤はすぐに思いついた品を口にする。
危ない場所に赴く者や戦いに臨むものにお守りを渡すのは、よくある話だ。実際に作った経験はないが――と思いつつの発言だったが、一期と煉は顔を見合わせて暫し黙り込んだ後、
「それです!」
「それだ!!」
二人が声を揃えて身を乗り出したので、藤は逆に端末から少し体を離してしまった。
「そ、それって?」
「お守りだ。お守りを渡せばいい」
「お守りって、神社にあるあれですか?」
「違います、藤殿。我々の言うお守りとは、主が我々のために力を込めて作ってくれたものです」
一期は自分の懐を探り、小さなお守りを端末の前にぶら下げて藤に見せた。神社にあるものと比べれば、紐の結びもどこか素人臭さが残るお守りだ。
「一期、俺の作ったものを出さなくてもいいだろう」
「良いでは無いですか。藤殿、審神者の方々は自分の力の一部を込めて、こうしてお守りという形で渡すことができるのです」
「審神者が手入れをするときの力を持ち歩いていれば、彼らに万一の事態があっても応急処置くらいは勝手にしてくれる。謂わば、保険のようなものだ」
そういえば、就任直後に読んだ手引書にそのような記載があったなと、藤は思い返す。
年末であろうとなかろうと、出陣や遠征の依頼が絶えることはない。今日も五虎退と物吉と次郎が、簡単な遠征任務の依頼を受けて早朝からこの本丸を発っていた。ならば、彼らの無事を祈るという意味に加えて、実際に役にも立つお守りというのは合理的な贈り物といえるだろう。
(僕が、彼らが無事でいてほしいと思うのは、単純に手入れをしたくないから……もあるけれど)
勝ってほしいとは思う。怪我をしないでほしいとも思う。
だけれども、同時に――到底表に出すことのできない利己的な考えがあると、彼女はもう自覚していた。
手入れをすれば、穢れているという現実に向き合わざるを得なくなる。それを直視したくないだけなのだ。
だからこれは、ただの汚れたエゴだ。そのエゴに、心配という名の綺麗なラベルを貼っているだけだ。
とはいえ、思いはどうあれ、効果があるのならそれに越したことはない。
「お守りは、どうやって用意すればいいんでしょう」
「慣れた審神者なら、あり合わせの品でも効果のあるお守りを作れるようだが、初心者なら万屋に行って道具一揃いを買ってからにするといい」
「主は今も利用していますよ。形式に拘る方ですので」
一期が見せるお守りは、神社のものと同じように金襴の布袋でできていた。万屋にあるというのは、その布袋や紐なのだろうと藤は推察する。
「ともかく、一度行ってみるといい。店員もこの手の質問には慣れているはずだ」
煉にこくこくと頷き返し、続けて藤は深々と頭を下げた。自分一人では、到底この案には至らなかっただろう。相談に乗ってくれた彼らには、感謝の念しかない。
「ありがとうございます。やってみます」
「ああ、喜んでもらえるといいな。また困ったことがあったら、連絡してきてくれ。それと」
頭を上げた藤に、煉も一期も揃ってよく似た柔和で穏やかな笑みを浮かべてこう言った。
「良いお年を」
「……はい。良いお年を」
***
そして今、思い立ったが吉日とばかりに藤はとある店の一角で立っていた。
お守り作成に使う道具一揃いは、すぐに見つけることができた。小さな布袋と布の口を結ぶための紐、木札、お札を書くのに使えそうな半紙などなどだ。一番手頃な方法は、お店の売り文句を見る限り、木札に力を込めてからお守りの中に入れるやり方なのだという。
「とりあえず、これでいいや」
これから顕現する刀剣男士の分も必要だろうと、藤はまとめて二十ほどを籠に詰めて会計に向かう。思ったよりも大荷物になってしまい、ずっしりと重みを感じる紙袋を片手に提げて、彼女は年末の万屋商店街に戻ってきた。
この商店街の町並みは、それこそ時間遡行でもしたのではないかと思うほどの古風な代物だ。だが、実際のところはそこまで古いわけではない。刀剣男士たちが親しみやすいように、わざわざ新たに用意された建物なのだという。それでも、どこか懐かしさを覚えながら藤は目を細めて町並みを眺める。
刀剣男士たちと思しき男性たちが一塊になって歩いて行き、今度は審神者らしき老人と同じく刀剣男士が喋りながらゆっくりと藤の前を通り過ぎていく。まさに師走という名に相応しい忙しなさが行き来する中、藤は見るともなしに辺りを見渡しながらぶらついていた。そこに、
「もしかして、主かい?」
不意に聞き慣れた声を耳にして、藤は顔を上げた。
目の前に立っていたのは、菫色のくせ毛をあちこち跳ねさせた青年――歌仙兼定だ。
「歌仙、今日は出かけてると思ってたけど、万屋の方に来ていたんだね」
「正月の記念に食べるという、おせち料理とやらを引き取りに行くと朝に言っただろう? 聞いてなかったのかい」
聞いていなかったというより、そもそも彼がそんな話をしていたことすら、藤は覚えていなかった。朝起きて自分が何をしていたのかすら、正直記憶が曖昧になっている。
最近は、こういうことがよくある。どうにも意識していないと、自分が今どんな行動をしていて、これからどうしようとしているのかを覚えていられない。一日一日が、文字通り矢のように通り過ぎていく。疲れが溜まっているせいだろう、と藤は思っていたが、こうして会話をすると噛み合わないことがあり、怪訝そうな顔をされるのだ。
とりあえず、藤はしおらしく頭を下げて「ごめんなさい」と呟いた。
「君が料理のことを聞き逃すなんて、明日は新年だというのに雨になりそうだ」
「今日、三十一日なんだっけ。もう一年が終わるんだね」
立ったまま話すのも何だからと、歌仙兼定と肩を並べて歩きながら藤は口を動かす。
「歌仙はこの一年、どうだったの」
「僕はまだ顕現して一年経っていないのだけれどね。良い時を過ごしたとは、思っているよ」
そうか、と藤は歌仙の言葉を聞いて気がつく。
歌仙が顕現をしたのは、五月のことだ。彼はこの世に人の形を持って生まれてきて、本人言う通り一年と経っていないのである。
「春の暖かさを、夏の厳しさを、秋の美しさを、冬の冷たさを、主のおかげで知れたんだ。僕はそれに感謝しているんだ」
「そっか。それなら、よかった」
自分が歌仙たちを呼び出したことで、彼らを困らせたり苦しめたりしているなら本末転倒だ。故に彼女は安堵の相槌を打ったのだが、続く歌仙の言葉に目を丸くする。
「きみと会えたことも、だよ」
歌仙からしたら、当たり前の事柄だ。人の姿を得て、新たな主人を得て、その人のもとに仕えて全力を振るう。刀としても人間との心を持ったものとしても、それ以上の喜びに勝る存在は、歌仙兼定の中に存在していない。
けれども、彼の真摯な視線を受けてなお、藤は目を逸らす。照れからだろうかと歌仙は思ったが、実のところそういうわけではない。
(僕は、君たちのそばにいるのに相応しくない者なのに)
かもしれない、という仮定の言葉はもう言えない。お前は穢れているという声が、体に染み付いたまま離れない。
夢の中で、歌仙たちを含めた刀剣男士に冷たい目で見下ろされたことを思い出し、藤は思わず唾を呑んだ。あれは自分の正体を知った彼らのとるべき未来の姿のように、彼女には思えていた。お守り作りの道具が入った袋の取っ手を握る手が、力を込めすぎて真っ白になっていく。
(僕は、嘘をついている)
彼らが描くようないい主なんて、どこにもいないのに。そんなフリをしている自分は、彼らを騙している。頭の隅がズン、と重くなったような気がした。
「主、どうしたんだい」
声をかけられて、藤はハッとする。どうやら、思考を続けるあまり足を止めてしまっていたらしい。先に行ってしまった歌仙の背中にすぐ追いつき、「何でもない」と口早に彼女は言う。
「そうだ。主に訊きたいことがあったんだよ」
「僕に訊きたいこと?」
「そう。君が本丸に来る前にどんな風に年を越していたんだい。あのくりすますという行事もそうだけれど、僕らはまだその辺りに疎くてね」
主にとって良い年越しとなるように、彼女が普段家族の中でどのようなことをしているのかを知り、それを再現したいと歌仙は考えていた。年末の帰省もままならない、審神者としての彼女の立場を慮っての言葉だ。
彼に促され、藤も自分の年越しに関する記憶を掘り起こしていく。
「おじさんは神社の神主さんだったから、年越しはいつも忙しそうにしていたよ。バイトの巫女さんに、色々指導したりお守りの準備したり。年が明けると初詣に皆が来るから」
「はつもうで?」
「神社に行って、今年もよろしくお願いしますって神様に挨拶する習慣のこと」
藤の言葉に歌仙は興味を持ったようだったが、彼女としてはこの話題は内心避けたいところだった。神社という存在に対して、彼女は現在、病的なまでの苦手意識を抱いていた。あの悪夢の中で目にした刀剣男士たちを思うと、それもむべなるかなというものである。
「僕は大体家でのんびりしていたよ。おじさんも、亡くなる前はおばさんも忙しそうだったな。神社にとって元旦から数日は一年で一番忙しい時期なんだ」
思い返せば、年越しを誰かと共に過ごしたことはここ最近ずっとなかった、と藤は思う。
歌仙に話した通り、神主の養父と巫女の指導役をしていた養母は、年末となれば家を空けて神社の敷地内にある社務所の方に居る時間が長かった。養父の姪御に当たり、藤にとっては姉のように優しくしてくれた少女も、当然のように親戚の手伝いとして巫女を務めていた。故に彼女に向かって「一緒に遊んでほしい」などとは言えなかった。
必然的に、藤は家でテレビを見ているか宿題をしているか、あるいは本でも読んでいるかという生活を余儀なくされていた。友人と出かけに行く機会もないわけではなかったが、年末となると旅行や帰省で不在の者も少なくない。結果として、彼女はこの数年間の年越しを、誰もいない家で過ごしていたのだ。
「家でのんびりって、きみは家業を手伝わなかったのかい」
歌仙兼定が口にした当然の疑問に、藤はぎくりとしてその場に立ち止まりかけた。あの時は、何故手伝って欲しいと彼らが言わなかったのか、意識しようともしなかった。いや、実際のところ、気がつかないふりをすることを自分が選んだのだろう。
鳥居をくぐる資格もないような穢れた者を、入れさせるわけにはいかない。そういう理由があったのだと今なら分かる。
それに、彼女が手伝えない理由は、もっと表面的なものとして一つあった。
「手伝うとしても、巫女さんは額を見せないといけない決まりだったから」
歌仙の顔が微かに軋む。その変化に気がついた藤は、何でもないよと伝えるかのように、いつも通りの笑顔を浮かべた。
「これは仕方ないよ。参拝者の人を驚かせてしまうし、僕のせいで神社に人が来なくなったら困るもの」
「そんなことは」
「そんなことは、あるよ。だから仕方ないんだ。それに、おかげで寒い外に出なくてもよくて、炬燵の中でゴロゴロしていられたわけだし。冬の寒さは好きじゃないんだ。だから外に出なくていいなら、そっちの方がいいよ」
彼女の口調があまりにいつも通りだったから、主が傷ついているのか、本当に怠惰を歓迎していたのか、読み取ることは歌仙にはできなかった。
「では、主は本丸でもゴロゴロする正月をお望みということかな」
どちらにせよ、これ以上この話題を続けない方がいいと、歌仙はわざと声色を明るいものにして、冗談めかして尋ねてみる。歌仙の誘いに乗るように藤も言葉に力を込めて、殊更に朗らかな声音で返答をした。
「それも悪くないね。あ、どうせなら今年も蕎麦を食べたいな。年越し蕎麦は、一人でも大晦日の時は食べていたんだ」
「きみは食べ物の要望だけは、しっかりとするんだね」
軽口を叩きながらも、歌仙は彼女の久しぶりのリクエストに心を浮き立たせていた。どうにも最近は気を遣っているのか、彼女は歌仙に何かしてくれと頼まないようになっていたからだ。
審神者としての自立を意識しているのかもしれないが、彼としては寧ろ出会った当初の彼女のように、突拍子もない発現を期待している節もあった。どうにも、生真面目すぎる彼女を見てると調子が狂うのだ。
「それで、その年越し蕎麦とやらは何なんだい?」
「年末の縁起物で、食べるといいことがあるらしいよ。天ぷらやネギを入れるんだ。夏に食べたような冷たい物じゃ無くて、暖かくしたつゆと一緒に浸すものでね。これがまた美味しくって」
「どうやら、そこまで手間のかかる料理じゃなさそうだね。じゃあ、この後一緒に蕎麦を買いに行こう。要望通りに作ってあげるから、面倒くさがらずに欲しい物は全部言うんだよ」
「……歌仙、どうしたの。熱でもあるの?」
普段なら、食いしん坊を諫めるような小言ばかりの彼にしては珍しい言葉だと、藤は目を丸くする。主に尋ねられ、歌仙は一つ咳払いをしてから、
「君の食が少し細くなったようだから、気になっていただけだよ。クリスマスの頃から、戻ってきてはいるようだけれどね」
歌仙にとっては当たり前の意見であり、藤にとっては寝耳に水な内容であった。何でも無いようなふりをしているつもりだったのに、気付かれていたのかと心中でほぞをかむ。
「冬は美味しいものがあって食べ過ぎちゃうから、ちょっと自粛が必要かと思って」
「食べなさすぎて、倒れては元も子もないよ。もっとも、きみには適度に自粛するくらいが丁度いいかもしれないね」
違いない、と彼女は顔をほころばせた。今でも、何を食べても美味しいと思えないのだということは、当然彼に教えられるわけがなかった。
歌仙との買い物を終えて帰宅した頃には、既に夜の帳がすっかり降りる時刻となってしまっていた。
夕飯を作りに行った彼と別れて、自室に戻った藤は着替えも早々に荷物の中身を取り出した。お守りという物自体は、今まで何度も目にしていた。だが、作ったことはまだない。
同梱されている説明書に目を通し、藤はほっと胸をなで下ろした。記載された内容は、そこまで難しいものではなかったからだ。
付属している木札に触れて、手入れのときと同じように力を込める。それを袋に入れて、紐を結んで入り口を閉じる。ただそれだけの段取りでできてしまうと分かり、拍子抜けしたほどだ。
「ええと……『思い入れがあるものならば、付属している木札でなくても構いません』だって。でも、とりあえずはこの買ったもので試そう」
お守りの中に木製の札、或いは紙でできたお札が入っていることは、お守り袋を開けたことがない藤でも知識としては知っていた。共通して、何やらありがたい言葉が書かれているとか、神職者が祈祷を行ってから入れているのだとも、風の噂で耳にしたことがある。
今度は、自分がそれを行う番だ。神様を癒やし、その無事を祈る貴いものを作り上げるのだ。
(僕にできるのだろうか)
審神者の力があるという自覚は、鍛刀や手入れができていることが確たる証拠となって保証してくれている。
だが、演練の時から拭えない懸念はいつまでも彼女の陰に潜み、手に震えを走らせる。
磨き上げられた木札は、さながら染み一つ無い白布を思わせた。そのようなものに、自分が触れていいのか。神社に入ることすらままならず、初詣の準備も手伝えないような者が、触る資格があるものなのか。
夢の中で見つめた己の掌が、不意に記憶の端から蘇る。泥のような黒い何かがへばりついた、自分の手。汚れきって、神様に触れるのに相応しくない者。
「──うっ」
木札を触った刹那、背筋に氷を流し込んだような寒気が走る。震えが止まらない彼女の手から木札が滑り落ち、カツンという乾いた音と共に床へと転がった。吐き気まではこみ上げなかったものの、頭には疼痛が鈍く響いている。
「……だめだ。これにお祈りするほど、触っていられない」
少し触れただけでこれなのだから、握り込んだらどうなってしまうか。それこそ、寒気が収まらず倒れてしまうだろう。
正月を寝込んだまま迎えるなどしたら、歌仙達を心配させてしまう。そんなことになってしまっては、何のためにお守りを作ったのか分かったものではない。
「何か他の方法……そうだ、思い入れのあるものなら、木札でなくても構わないって書いてあったんだ」
説明書にあった内容を思い返し、藤は自室に首を巡らせた。とはいえ、突然思い入れのあるものなどと言われても、すぐには思いつかない。
そもそも、審神者になる前に藤が持っていた品のほとんどは、養父の家に置いてきてしまっていたからだ。学生時代に明確な区切りをつけて、審神者という仕事に就きたかった。できることなら、あの頃から全く違う生活を送りたいと夢を見た。そんな思いがあったが故の行動だったが、今思えば何もかも無駄に終わってしまった。
自分はあの頃から何ら変わることもなく、付喪神たちも以前共にいた人間たちと大きく異なるわけでもなかった。夢は、夢のまま潰えてしまった。
だが、今はそのような懐古に浸っている場合ではない。何でもいいから、とにかくお守りに入れられるような品を探す必要がある。
「そうだ。煉さんなら何か知っているかもしれない」
彼も、体質的には穢れを抱えている――らしい。あの演練の際に、二人の間にやってきた娘は、そんなことを口にしていた。ならば、同様の問題に直面している可能性は高い。
藤は端末を起動し、メール作成のボタンを押す。続いて画面に表示された入力欄に、手早く文言を入力し始めた。
お守りを作ろうとしたけれど、木札ではどうにもうまくいかない。思い入れのある品でもいいとあったが、自分では心当たりが思いつかない。煉さんは普段どうしているか。
そのような内容を簡単に認めて、送信する。自分の体調についての異変は、勿論伏せていた。
返信の着信音は、程なくして端末から鳴り響いた。
親身になってくれる彼へのありがたさと、誤魔化していることについての一抹の申し訳なさを覚えながら、藤は開封ボタンを押す。
「『思い入れのあるものとよく書いてあるが、実際には刀剣男士たちを思い起こすものなら何でも構わない。彼らの似顔絵でも、名前を記した紙でもいい。木札はお守りに入っているイメージが強いから、念を込めやすいと思われて勧められているだけだ』……あ、そうなんだ」
どうしても木札を使わなくてはいけないとなったら、どうしようかと思ったが、どうやら杞憂に済みそうだ。藤は不安に揺れていた心が安らぐのを感じた。
「『うまく扱えないというなら、木札に刀剣男士の名前を書いてみるといい。自分はそうしている』──煉さんは、この木札に触れるんだね」
あの娘に嫌悪の目を向けられ、自ら鳥居を避けていた彼でさえも、木札には難なく触れられる。その事実を知り、藤は目の前が再び真っ暗になったような、暗澹とした気持ちに襲われた。
足元に広がる底なしの穴から伸びた真っ黒な手が、自分を引きずり込まんとしている。そこから響く声が、お前はここにいるべきでないと囁いている。その声は、夢で会った亡くなったはずの養母の声に似ているような気がした。
(それでも、彼らは戦っているんだ。歴史のために、この今を守るために)
そこまで思いかけたものの、続けて藤は「違う」と首を横に振った。心に映し出されたのは髭切が顕現する少し前、遠征から戻った歌仙と語らった晩のやり取りだった。
歴史を守るという使命のために、体を得た。そのような正しすぎる答えは、頭で納得しても心が受け入れられないときもある。だから、今生きている日々にいる者を守るために、戦えばいい。
そのように口にしたのは、他ならぬ藤自身だった。
(僕が彼らに守られるほどの価値を持っているかは、分からない。けれども、彼らがそうしたいと思っているのなら、応えなければいけない)
自惚れていいのなら、彼らは今、主のために戦おうと思ってくれている。
ならば、挫けてなどいられない。ちゃんとしていなくてはいけない。主として、彼らの帰る先として。己の弱さに膝を屈している場合ではない。
安心して彼らが戦えるようにお守りを渡し、彼らを笑顔で出迎え、傷ついた彼らを癒やす。それが、審神者としてのあるべき姿だ。
心を鼓舞して、藤は立ち上がる。弱気な自分を己の裏側に封じ込み、途中になってしまったお守り作成を再開せんと再び机に向き直った。
「さっきの煉さんの話だと、ただの紙でもいいってことだよね。彼らの名前を書けるものなら何でもいいわけだから」
ひとまず紙を取り出そうと藤は引き出しを開け、そこで手を止めた。引き出しの隅に置かれた小さな布製の袋が、彼女の目を惹いたからだ。
「これ、秋の山で拾ったどんぐりだ」
髭切の気晴らしになるだろうと、山に行った日の思い出が、昨日のことのように藤の脳裏に蘇っていく。
一枚一枚の葉の色づきすら思い出せる。歩いて見つけた沢のことも、視界いっぱいに広がったリンドウの海のことも、そこで髭切と語ったことも。
何もかも思い出せるのに、何もかも遙か昔のことのように思えてしまう。
あのとき、山中で拾ったのがこのどんぐりだ。刀剣男士と同じように、一つとして同じ形はなく、だからこそ面白いと髭切にも見せたものだ。
「……これなら、いいかも」
元はといえば、それぞれ自分の刀剣男士に例えるなら、と考えながら拾ってきたどんぐりだ。ならば、お守りの中に入れる考えても丁度いい。
藤は油性ペンを取り出して、煉に教えてもらったようにどんぐりに名前を書いた。『歌仙兼定』とどんぐりに書き終え、藤は思わず吹き出しそうになる。
これではまるで、拾ったどんぐりに子供が名前を書いているかのようだ。本人が知ったら、さぞかし腑に落ちないという顔をすることだろう。
「じゃあ、歌仙から試そう」
具体的に何をするのかも分からないので、どんぐりを握って藤はぐっと掌に力を込めた。
目を閉じ、息をゆっくりと整える。体の内側に眠る自分という存在から、少しでも良いと思えるものを汲み上げ、掌へと集めて押し込んでいく。
(歌仙が、無事に帰ってきますように)
藤にとっての最初の刀。あの五月の日に現れた彼を、自分は初日から困らせてばかりいた。
だけども、彼のおかげで藤の花の異名を知れた。
彼の作る料理はいつも美味しかった。
彼がこの生活を楽しめるようにと硯と短冊を送り、できた和歌を時々見せて貰った。
夏祭りのときは、随分と彼を心配させてしまった。がみがみと説教の雷を落とされて、ずっと縮こまっていたと覚えている。
焼き芋を作りながら、髭切が悩んでいると彼に相談した。その際に、主の刀であることを彼が誇りに思っていると知った。
そして今日も。二人の出会いを、彼は感謝してくれていた。
(怪我をしませんように。痛い思いをしませんように。居なくなりませんように)
祈りを重ねる。
彼の顔を思い出し、頭を撫でる手の大きさを思い出し、初陣の際に見てしまった、今にも消えていきそうな血の気のない肌を思い出し、目が眩むほど広がっていた赤を思い出す。
あんな姿は、もう二度と見たくない。だから、少しでも自分に審神者の力があるというのなら、彼を守ってほしい。
不意に、藤は掌の中に握り込まれた小さな木の実が熱を帯びていることに気がついた。
恐々目を開くと、見た目は然して変化のないどんぐりが一つ。ただ、先ほどに比べると妙に暖かい。掌から離してみても、その温もりは消えなかった。
「これで、大丈夫……なのかな」
他のどんぐりと並べてみても、外見に変化は見られない。だが、どういうわけか見ているだけで、言葉にし難い安心が沸々と内側から湧き上がっていく。確証は持てないが、恐らくこれが成功しているということなのだろう。
「あとは、お守りの袋に入れて紐に縛るだけとして。これ、いつ渡そうか」
クリスマスのお礼をする日などというものは、藤の知る限りでは無かったはずだ。
結局数分の思案の果てに、藤は正月のお年玉代わりにお守りを贈る結論を出して、五人分のお守りを作り上げたのだった。
その中でも比較的賑わいから遠い雑貨屋の片隅で、藤は立ち尽くしていた。彼女がいるのは、審神者御用達の消耗品の数々と銘打たれた一角。その内の一つ──お守りと書かれたものだった。
***
時刻は数時間前に遡る。藤は端末の前に座り、少し緊張した面持ちで言葉を発していた。
「クリスマスに皆から贈り物をしてもらったんです。お返しに何か僕からも渡したいと思っているのですが、何を返せばいいでしょう」
「それは、あなたが皆に贈りたいものではないのか?」
浮かび上がった画面から返事をしたのは、先月の初めに演練で世話になった男性の審神者――煉だ。年末の忙しい時期であるにも関わらず、藤が相談したいことがあると言ったら、対面の方がいいだろうと、時間を割いてくれているのである。
「それは、そうかもしれません。でも、差ができてしまうと不公平かと思って。皆が平等に喜べるものを選びたいんです」
見た目どころか、それぞれの趣味嗜好も考え方も大きく違う刀剣男士たち全員が喜んでくれるもの。そのような贈り物が藤には思いつかず、こうして先輩である彼に相談を持ちかけていた。
「しかし、それを我々に訊いても答えはでないと思われます。藤殿の本丸の刀剣男士と我らの主の刀剣男士では、同じ刀だったとしても考え方が異なりますから」
煉の隣に座って言葉を挟んでいるのは、彼の刀剣男士である一期一振である。刀剣男士の視点からのアドバイスも必要だろうと、煉が呼んできてくれたのだ。
「藤殿が心を込めて選んだものであれば、我ら刀剣男士、喜ばぬことはないでしょう」
「望んでいない物を貰って、喜んだふりをしてほしいわけじゃないんです」
「自分の気持ちを偽って誤魔化すような真似を、少なくとも私はしません。よしんば、主が我らの趣味嗜好に沿わぬ贈り物を与えたとして、そこに気持ちが宿っていれば私たちはそれで構わない。そう言いたいのです」
一期は自分の思いを懸命に語っているが、同時に彼女には届いていないとも思っていた。
傍らにいる己の主にちらりと目配せをしてみるが、主の方もどうやらそれに気がついているらしい。普段は見せない眉間の皺が、僅かなれどはっきりと刻まれている。
「僕は、皆には何の遠慮も気兼ねもなく、心の底から笑って欲しいんです。それに僕は、皆を対等に扱える審神者に……ちゃんとした審神者になりたい」
彼女の思いには嘘はない。だが、同時に己の首に鎖をかけているような息苦しさがあると、一期は思わずにいられなかった。
「何か、不満でも言われたのですか」
思わず、彼はそう問いかける。けれども、一期は口にしながらもその線は薄いだろうと考えていた。
実際に五虎退と手合わせをしたからこそ分かる。あの少年は、心の底から主に向けて深い敬慕の念を示していたのだから。
彼が想像した通り、藤はゆるゆると首を横に振ってみせた。だが、続く言葉は一期一振の想像とは異なるものだった。
「不満は、生まれたとしても言えないんだと思います。皆、優しいですから」
彼女は、何故か笑ってそんなことを言っていた。
その笑顔は優しく、まさにちゃんとした審神者然としたものであり――同時に、だからこそ、これでいいのかと疑念を抱かせる笑みでもあった。
「言いたいことは分かった。あなたの描く『ちゃんとした審神者』が、あなたにとってそのような人物像だと信じているのなら、俺が口出しすることではないだろう」
一期と藤の応酬に終わりがなさそうだと判断した煉は、彼らの会話に割って入る。主にそう言われてしまっては、一期も口を閉ざすしかない。
「それで、等しく喜べる品だったな。俺の本丸なら、食べ物、普段身につけて使える物の類だろう。一期はどう思う?」
「私もその辺りかと。筆記具や手ぬぐい、それに戦場でも身につけられるようなものでしたら尚嬉しいですな。いつでも主を近くに感じられるのですから」
「例えば、お守りとか?」
一期の言葉を聞いて、藤はすぐに思いついた品を口にする。
危ない場所に赴く者や戦いに臨むものにお守りを渡すのは、よくある話だ。実際に作った経験はないが――と思いつつの発言だったが、一期と煉は顔を見合わせて暫し黙り込んだ後、
「それです!」
「それだ!!」
二人が声を揃えて身を乗り出したので、藤は逆に端末から少し体を離してしまった。
「そ、それって?」
「お守りだ。お守りを渡せばいい」
「お守りって、神社にあるあれですか?」
「違います、藤殿。我々の言うお守りとは、主が我々のために力を込めて作ってくれたものです」
一期は自分の懐を探り、小さなお守りを端末の前にぶら下げて藤に見せた。神社にあるものと比べれば、紐の結びもどこか素人臭さが残るお守りだ。
「一期、俺の作ったものを出さなくてもいいだろう」
「良いでは無いですか。藤殿、審神者の方々は自分の力の一部を込めて、こうしてお守りという形で渡すことができるのです」
「審神者が手入れをするときの力を持ち歩いていれば、彼らに万一の事態があっても応急処置くらいは勝手にしてくれる。謂わば、保険のようなものだ」
そういえば、就任直後に読んだ手引書にそのような記載があったなと、藤は思い返す。
年末であろうとなかろうと、出陣や遠征の依頼が絶えることはない。今日も五虎退と物吉と次郎が、簡単な遠征任務の依頼を受けて早朝からこの本丸を発っていた。ならば、彼らの無事を祈るという意味に加えて、実際に役にも立つお守りというのは合理的な贈り物といえるだろう。
(僕が、彼らが無事でいてほしいと思うのは、単純に手入れをしたくないから……もあるけれど)
勝ってほしいとは思う。怪我をしないでほしいとも思う。
だけれども、同時に――到底表に出すことのできない利己的な考えがあると、彼女はもう自覚していた。
手入れをすれば、穢れているという現実に向き合わざるを得なくなる。それを直視したくないだけなのだ。
だからこれは、ただの汚れたエゴだ。そのエゴに、心配という名の綺麗なラベルを貼っているだけだ。
とはいえ、思いはどうあれ、効果があるのならそれに越したことはない。
「お守りは、どうやって用意すればいいんでしょう」
「慣れた審神者なら、あり合わせの品でも効果のあるお守りを作れるようだが、初心者なら万屋に行って道具一揃いを買ってからにするといい」
「主は今も利用していますよ。形式に拘る方ですので」
一期が見せるお守りは、神社のものと同じように金襴の布袋でできていた。万屋にあるというのは、その布袋や紐なのだろうと藤は推察する。
「ともかく、一度行ってみるといい。店員もこの手の質問には慣れているはずだ」
煉にこくこくと頷き返し、続けて藤は深々と頭を下げた。自分一人では、到底この案には至らなかっただろう。相談に乗ってくれた彼らには、感謝の念しかない。
「ありがとうございます。やってみます」
「ああ、喜んでもらえるといいな。また困ったことがあったら、連絡してきてくれ。それと」
頭を上げた藤に、煉も一期も揃ってよく似た柔和で穏やかな笑みを浮かべてこう言った。
「良いお年を」
「……はい。良いお年を」
***
そして今、思い立ったが吉日とばかりに藤はとある店の一角で立っていた。
お守り作成に使う道具一揃いは、すぐに見つけることができた。小さな布袋と布の口を結ぶための紐、木札、お札を書くのに使えそうな半紙などなどだ。一番手頃な方法は、お店の売り文句を見る限り、木札に力を込めてからお守りの中に入れるやり方なのだという。
「とりあえず、これでいいや」
これから顕現する刀剣男士の分も必要だろうと、藤はまとめて二十ほどを籠に詰めて会計に向かう。思ったよりも大荷物になってしまい、ずっしりと重みを感じる紙袋を片手に提げて、彼女は年末の万屋商店街に戻ってきた。
この商店街の町並みは、それこそ時間遡行でもしたのではないかと思うほどの古風な代物だ。だが、実際のところはそこまで古いわけではない。刀剣男士たちが親しみやすいように、わざわざ新たに用意された建物なのだという。それでも、どこか懐かしさを覚えながら藤は目を細めて町並みを眺める。
刀剣男士たちと思しき男性たちが一塊になって歩いて行き、今度は審神者らしき老人と同じく刀剣男士が喋りながらゆっくりと藤の前を通り過ぎていく。まさに師走という名に相応しい忙しなさが行き来する中、藤は見るともなしに辺りを見渡しながらぶらついていた。そこに、
「もしかして、主かい?」
不意に聞き慣れた声を耳にして、藤は顔を上げた。
目の前に立っていたのは、菫色のくせ毛をあちこち跳ねさせた青年――歌仙兼定だ。
「歌仙、今日は出かけてると思ってたけど、万屋の方に来ていたんだね」
「正月の記念に食べるという、おせち料理とやらを引き取りに行くと朝に言っただろう? 聞いてなかったのかい」
聞いていなかったというより、そもそも彼がそんな話をしていたことすら、藤は覚えていなかった。朝起きて自分が何をしていたのかすら、正直記憶が曖昧になっている。
最近は、こういうことがよくある。どうにも意識していないと、自分が今どんな行動をしていて、これからどうしようとしているのかを覚えていられない。一日一日が、文字通り矢のように通り過ぎていく。疲れが溜まっているせいだろう、と藤は思っていたが、こうして会話をすると噛み合わないことがあり、怪訝そうな顔をされるのだ。
とりあえず、藤はしおらしく頭を下げて「ごめんなさい」と呟いた。
「君が料理のことを聞き逃すなんて、明日は新年だというのに雨になりそうだ」
「今日、三十一日なんだっけ。もう一年が終わるんだね」
立ったまま話すのも何だからと、歌仙兼定と肩を並べて歩きながら藤は口を動かす。
「歌仙はこの一年、どうだったの」
「僕はまだ顕現して一年経っていないのだけれどね。良い時を過ごしたとは、思っているよ」
そうか、と藤は歌仙の言葉を聞いて気がつく。
歌仙が顕現をしたのは、五月のことだ。彼はこの世に人の形を持って生まれてきて、本人言う通り一年と経っていないのである。
「春の暖かさを、夏の厳しさを、秋の美しさを、冬の冷たさを、主のおかげで知れたんだ。僕はそれに感謝しているんだ」
「そっか。それなら、よかった」
自分が歌仙たちを呼び出したことで、彼らを困らせたり苦しめたりしているなら本末転倒だ。故に彼女は安堵の相槌を打ったのだが、続く歌仙の言葉に目を丸くする。
「きみと会えたことも、だよ」
歌仙からしたら、当たり前の事柄だ。人の姿を得て、新たな主人を得て、その人のもとに仕えて全力を振るう。刀としても人間との心を持ったものとしても、それ以上の喜びに勝る存在は、歌仙兼定の中に存在していない。
けれども、彼の真摯な視線を受けてなお、藤は目を逸らす。照れからだろうかと歌仙は思ったが、実のところそういうわけではない。
(僕は、君たちのそばにいるのに相応しくない者なのに)
かもしれない、という仮定の言葉はもう言えない。お前は穢れているという声が、体に染み付いたまま離れない。
夢の中で、歌仙たちを含めた刀剣男士に冷たい目で見下ろされたことを思い出し、藤は思わず唾を呑んだ。あれは自分の正体を知った彼らのとるべき未来の姿のように、彼女には思えていた。お守り作りの道具が入った袋の取っ手を握る手が、力を込めすぎて真っ白になっていく。
(僕は、嘘をついている)
彼らが描くようないい主なんて、どこにもいないのに。そんなフリをしている自分は、彼らを騙している。頭の隅がズン、と重くなったような気がした。
「主、どうしたんだい」
声をかけられて、藤はハッとする。どうやら、思考を続けるあまり足を止めてしまっていたらしい。先に行ってしまった歌仙の背中にすぐ追いつき、「何でもない」と口早に彼女は言う。
「そうだ。主に訊きたいことがあったんだよ」
「僕に訊きたいこと?」
「そう。君が本丸に来る前にどんな風に年を越していたんだい。あのくりすますという行事もそうだけれど、僕らはまだその辺りに疎くてね」
主にとって良い年越しとなるように、彼女が普段家族の中でどのようなことをしているのかを知り、それを再現したいと歌仙は考えていた。年末の帰省もままならない、審神者としての彼女の立場を慮っての言葉だ。
彼に促され、藤も自分の年越しに関する記憶を掘り起こしていく。
「おじさんは神社の神主さんだったから、年越しはいつも忙しそうにしていたよ。バイトの巫女さんに、色々指導したりお守りの準備したり。年が明けると初詣に皆が来るから」
「はつもうで?」
「神社に行って、今年もよろしくお願いしますって神様に挨拶する習慣のこと」
藤の言葉に歌仙は興味を持ったようだったが、彼女としてはこの話題は内心避けたいところだった。神社という存在に対して、彼女は現在、病的なまでの苦手意識を抱いていた。あの悪夢の中で目にした刀剣男士たちを思うと、それもむべなるかなというものである。
「僕は大体家でのんびりしていたよ。おじさんも、亡くなる前はおばさんも忙しそうだったな。神社にとって元旦から数日は一年で一番忙しい時期なんだ」
思い返せば、年越しを誰かと共に過ごしたことはここ最近ずっとなかった、と藤は思う。
歌仙に話した通り、神主の養父と巫女の指導役をしていた養母は、年末となれば家を空けて神社の敷地内にある社務所の方に居る時間が長かった。養父の姪御に当たり、藤にとっては姉のように優しくしてくれた少女も、当然のように親戚の手伝いとして巫女を務めていた。故に彼女に向かって「一緒に遊んでほしい」などとは言えなかった。
必然的に、藤は家でテレビを見ているか宿題をしているか、あるいは本でも読んでいるかという生活を余儀なくされていた。友人と出かけに行く機会もないわけではなかったが、年末となると旅行や帰省で不在の者も少なくない。結果として、彼女はこの数年間の年越しを、誰もいない家で過ごしていたのだ。
「家でのんびりって、きみは家業を手伝わなかったのかい」
歌仙兼定が口にした当然の疑問に、藤はぎくりとしてその場に立ち止まりかけた。あの時は、何故手伝って欲しいと彼らが言わなかったのか、意識しようともしなかった。いや、実際のところ、気がつかないふりをすることを自分が選んだのだろう。
鳥居をくぐる資格もないような穢れた者を、入れさせるわけにはいかない。そういう理由があったのだと今なら分かる。
それに、彼女が手伝えない理由は、もっと表面的なものとして一つあった。
「手伝うとしても、巫女さんは額を見せないといけない決まりだったから」
歌仙の顔が微かに軋む。その変化に気がついた藤は、何でもないよと伝えるかのように、いつも通りの笑顔を浮かべた。
「これは仕方ないよ。参拝者の人を驚かせてしまうし、僕のせいで神社に人が来なくなったら困るもの」
「そんなことは」
「そんなことは、あるよ。だから仕方ないんだ。それに、おかげで寒い外に出なくてもよくて、炬燵の中でゴロゴロしていられたわけだし。冬の寒さは好きじゃないんだ。だから外に出なくていいなら、そっちの方がいいよ」
彼女の口調があまりにいつも通りだったから、主が傷ついているのか、本当に怠惰を歓迎していたのか、読み取ることは歌仙にはできなかった。
「では、主は本丸でもゴロゴロする正月をお望みということかな」
どちらにせよ、これ以上この話題を続けない方がいいと、歌仙はわざと声色を明るいものにして、冗談めかして尋ねてみる。歌仙の誘いに乗るように藤も言葉に力を込めて、殊更に朗らかな声音で返答をした。
「それも悪くないね。あ、どうせなら今年も蕎麦を食べたいな。年越し蕎麦は、一人でも大晦日の時は食べていたんだ」
「きみは食べ物の要望だけは、しっかりとするんだね」
軽口を叩きながらも、歌仙は彼女の久しぶりのリクエストに心を浮き立たせていた。どうにも最近は気を遣っているのか、彼女は歌仙に何かしてくれと頼まないようになっていたからだ。
審神者としての自立を意識しているのかもしれないが、彼としては寧ろ出会った当初の彼女のように、突拍子もない発現を期待している節もあった。どうにも、生真面目すぎる彼女を見てると調子が狂うのだ。
「それで、その年越し蕎麦とやらは何なんだい?」
「年末の縁起物で、食べるといいことがあるらしいよ。天ぷらやネギを入れるんだ。夏に食べたような冷たい物じゃ無くて、暖かくしたつゆと一緒に浸すものでね。これがまた美味しくって」
「どうやら、そこまで手間のかかる料理じゃなさそうだね。じゃあ、この後一緒に蕎麦を買いに行こう。要望通りに作ってあげるから、面倒くさがらずに欲しい物は全部言うんだよ」
「……歌仙、どうしたの。熱でもあるの?」
普段なら、食いしん坊を諫めるような小言ばかりの彼にしては珍しい言葉だと、藤は目を丸くする。主に尋ねられ、歌仙は一つ咳払いをしてから、
「君の食が少し細くなったようだから、気になっていただけだよ。クリスマスの頃から、戻ってきてはいるようだけれどね」
歌仙にとっては当たり前の意見であり、藤にとっては寝耳に水な内容であった。何でも無いようなふりをしているつもりだったのに、気付かれていたのかと心中でほぞをかむ。
「冬は美味しいものがあって食べ過ぎちゃうから、ちょっと自粛が必要かと思って」
「食べなさすぎて、倒れては元も子もないよ。もっとも、きみには適度に自粛するくらいが丁度いいかもしれないね」
違いない、と彼女は顔をほころばせた。今でも、何を食べても美味しいと思えないのだということは、当然彼に教えられるわけがなかった。
歌仙との買い物を終えて帰宅した頃には、既に夜の帳がすっかり降りる時刻となってしまっていた。
夕飯を作りに行った彼と別れて、自室に戻った藤は着替えも早々に荷物の中身を取り出した。お守りという物自体は、今まで何度も目にしていた。だが、作ったことはまだない。
同梱されている説明書に目を通し、藤はほっと胸をなで下ろした。記載された内容は、そこまで難しいものではなかったからだ。
付属している木札に触れて、手入れのときと同じように力を込める。それを袋に入れて、紐を結んで入り口を閉じる。ただそれだけの段取りでできてしまうと分かり、拍子抜けしたほどだ。
「ええと……『思い入れがあるものならば、付属している木札でなくても構いません』だって。でも、とりあえずはこの買ったもので試そう」
お守りの中に木製の札、或いは紙でできたお札が入っていることは、お守り袋を開けたことがない藤でも知識としては知っていた。共通して、何やらありがたい言葉が書かれているとか、神職者が祈祷を行ってから入れているのだとも、風の噂で耳にしたことがある。
今度は、自分がそれを行う番だ。神様を癒やし、その無事を祈る貴いものを作り上げるのだ。
(僕にできるのだろうか)
審神者の力があるという自覚は、鍛刀や手入れができていることが確たる証拠となって保証してくれている。
だが、演練の時から拭えない懸念はいつまでも彼女の陰に潜み、手に震えを走らせる。
磨き上げられた木札は、さながら染み一つ無い白布を思わせた。そのようなものに、自分が触れていいのか。神社に入ることすらままならず、初詣の準備も手伝えないような者が、触る資格があるものなのか。
夢の中で見つめた己の掌が、不意に記憶の端から蘇る。泥のような黒い何かがへばりついた、自分の手。汚れきって、神様に触れるのに相応しくない者。
「──うっ」
木札を触った刹那、背筋に氷を流し込んだような寒気が走る。震えが止まらない彼女の手から木札が滑り落ち、カツンという乾いた音と共に床へと転がった。吐き気まではこみ上げなかったものの、頭には疼痛が鈍く響いている。
「……だめだ。これにお祈りするほど、触っていられない」
少し触れただけでこれなのだから、握り込んだらどうなってしまうか。それこそ、寒気が収まらず倒れてしまうだろう。
正月を寝込んだまま迎えるなどしたら、歌仙達を心配させてしまう。そんなことになってしまっては、何のためにお守りを作ったのか分かったものではない。
「何か他の方法……そうだ、思い入れのあるものなら、木札でなくても構わないって書いてあったんだ」
説明書にあった内容を思い返し、藤は自室に首を巡らせた。とはいえ、突然思い入れのあるものなどと言われても、すぐには思いつかない。
そもそも、審神者になる前に藤が持っていた品のほとんどは、養父の家に置いてきてしまっていたからだ。学生時代に明確な区切りをつけて、審神者という仕事に就きたかった。できることなら、あの頃から全く違う生活を送りたいと夢を見た。そんな思いがあったが故の行動だったが、今思えば何もかも無駄に終わってしまった。
自分はあの頃から何ら変わることもなく、付喪神たちも以前共にいた人間たちと大きく異なるわけでもなかった。夢は、夢のまま潰えてしまった。
だが、今はそのような懐古に浸っている場合ではない。何でもいいから、とにかくお守りに入れられるような品を探す必要がある。
「そうだ。煉さんなら何か知っているかもしれない」
彼も、体質的には穢れを抱えている――らしい。あの演練の際に、二人の間にやってきた娘は、そんなことを口にしていた。ならば、同様の問題に直面している可能性は高い。
藤は端末を起動し、メール作成のボタンを押す。続いて画面に表示された入力欄に、手早く文言を入力し始めた。
お守りを作ろうとしたけれど、木札ではどうにもうまくいかない。思い入れのある品でもいいとあったが、自分では心当たりが思いつかない。煉さんは普段どうしているか。
そのような内容を簡単に認めて、送信する。自分の体調についての異変は、勿論伏せていた。
返信の着信音は、程なくして端末から鳴り響いた。
親身になってくれる彼へのありがたさと、誤魔化していることについての一抹の申し訳なさを覚えながら、藤は開封ボタンを押す。
「『思い入れのあるものとよく書いてあるが、実際には刀剣男士たちを思い起こすものなら何でも構わない。彼らの似顔絵でも、名前を記した紙でもいい。木札はお守りに入っているイメージが強いから、念を込めやすいと思われて勧められているだけだ』……あ、そうなんだ」
どうしても木札を使わなくてはいけないとなったら、どうしようかと思ったが、どうやら杞憂に済みそうだ。藤は不安に揺れていた心が安らぐのを感じた。
「『うまく扱えないというなら、木札に刀剣男士の名前を書いてみるといい。自分はそうしている』──煉さんは、この木札に触れるんだね」
あの娘に嫌悪の目を向けられ、自ら鳥居を避けていた彼でさえも、木札には難なく触れられる。その事実を知り、藤は目の前が再び真っ暗になったような、暗澹とした気持ちに襲われた。
足元に広がる底なしの穴から伸びた真っ黒な手が、自分を引きずり込まんとしている。そこから響く声が、お前はここにいるべきでないと囁いている。その声は、夢で会った亡くなったはずの養母の声に似ているような気がした。
(それでも、彼らは戦っているんだ。歴史のために、この今を守るために)
そこまで思いかけたものの、続けて藤は「違う」と首を横に振った。心に映し出されたのは髭切が顕現する少し前、遠征から戻った歌仙と語らった晩のやり取りだった。
歴史を守るという使命のために、体を得た。そのような正しすぎる答えは、頭で納得しても心が受け入れられないときもある。だから、今生きている日々にいる者を守るために、戦えばいい。
そのように口にしたのは、他ならぬ藤自身だった。
(僕が彼らに守られるほどの価値を持っているかは、分からない。けれども、彼らがそうしたいと思っているのなら、応えなければいけない)
自惚れていいのなら、彼らは今、主のために戦おうと思ってくれている。
ならば、挫けてなどいられない。ちゃんとしていなくてはいけない。主として、彼らの帰る先として。己の弱さに膝を屈している場合ではない。
安心して彼らが戦えるようにお守りを渡し、彼らを笑顔で出迎え、傷ついた彼らを癒やす。それが、審神者としてのあるべき姿だ。
心を鼓舞して、藤は立ち上がる。弱気な自分を己の裏側に封じ込み、途中になってしまったお守り作成を再開せんと再び机に向き直った。
「さっきの煉さんの話だと、ただの紙でもいいってことだよね。彼らの名前を書けるものなら何でもいいわけだから」
ひとまず紙を取り出そうと藤は引き出しを開け、そこで手を止めた。引き出しの隅に置かれた小さな布製の袋が、彼女の目を惹いたからだ。
「これ、秋の山で拾ったどんぐりだ」
髭切の気晴らしになるだろうと、山に行った日の思い出が、昨日のことのように藤の脳裏に蘇っていく。
一枚一枚の葉の色づきすら思い出せる。歩いて見つけた沢のことも、視界いっぱいに広がったリンドウの海のことも、そこで髭切と語ったことも。
何もかも思い出せるのに、何もかも遙か昔のことのように思えてしまう。
あのとき、山中で拾ったのがこのどんぐりだ。刀剣男士と同じように、一つとして同じ形はなく、だからこそ面白いと髭切にも見せたものだ。
「……これなら、いいかも」
元はといえば、それぞれ自分の刀剣男士に例えるなら、と考えながら拾ってきたどんぐりだ。ならば、お守りの中に入れる考えても丁度いい。
藤は油性ペンを取り出して、煉に教えてもらったようにどんぐりに名前を書いた。『歌仙兼定』とどんぐりに書き終え、藤は思わず吹き出しそうになる。
これではまるで、拾ったどんぐりに子供が名前を書いているかのようだ。本人が知ったら、さぞかし腑に落ちないという顔をすることだろう。
「じゃあ、歌仙から試そう」
具体的に何をするのかも分からないので、どんぐりを握って藤はぐっと掌に力を込めた。
目を閉じ、息をゆっくりと整える。体の内側に眠る自分という存在から、少しでも良いと思えるものを汲み上げ、掌へと集めて押し込んでいく。
(歌仙が、無事に帰ってきますように)
藤にとっての最初の刀。あの五月の日に現れた彼を、自分は初日から困らせてばかりいた。
だけども、彼のおかげで藤の花の異名を知れた。
彼の作る料理はいつも美味しかった。
彼がこの生活を楽しめるようにと硯と短冊を送り、できた和歌を時々見せて貰った。
夏祭りのときは、随分と彼を心配させてしまった。がみがみと説教の雷を落とされて、ずっと縮こまっていたと覚えている。
焼き芋を作りながら、髭切が悩んでいると彼に相談した。その際に、主の刀であることを彼が誇りに思っていると知った。
そして今日も。二人の出会いを、彼は感謝してくれていた。
(怪我をしませんように。痛い思いをしませんように。居なくなりませんように)
祈りを重ねる。
彼の顔を思い出し、頭を撫でる手の大きさを思い出し、初陣の際に見てしまった、今にも消えていきそうな血の気のない肌を思い出し、目が眩むほど広がっていた赤を思い出す。
あんな姿は、もう二度と見たくない。だから、少しでも自分に審神者の力があるというのなら、彼を守ってほしい。
不意に、藤は掌の中に握り込まれた小さな木の実が熱を帯びていることに気がついた。
恐々目を開くと、見た目は然して変化のないどんぐりが一つ。ただ、先ほどに比べると妙に暖かい。掌から離してみても、その温もりは消えなかった。
「これで、大丈夫……なのかな」
他のどんぐりと並べてみても、外見に変化は見られない。だが、どういうわけか見ているだけで、言葉にし難い安心が沸々と内側から湧き上がっていく。確証は持てないが、恐らくこれが成功しているということなのだろう。
「あとは、お守りの袋に入れて紐に縛るだけとして。これ、いつ渡そうか」
クリスマスのお礼をする日などというものは、藤の知る限りでは無かったはずだ。
結局数分の思案の果てに、藤は正月のお年玉代わりにお守りを贈る結論を出して、五人分のお守りを作り上げたのだった。