本編第一部(完結済み)
次郎の稽古が終わる頃には、既に日は落ちて辺りは暗くなっていた。十二月の夜は、常より早く訪れるものだ。
いつものように自室に戻った藤は、夕餉の時間まで何をするでもなく、ごろりと横になってぼんやりと天井を見上げていた。電気もつけていない部屋は、西日が入らなくなったらあっという間に薄闇に包まれる。
眠りたいわけではない。ただ、何も考えたくなかった。
何かを考えれば、すぐに思考は袋小路に行き止まる。考えれば考えるほど、頭を締め付けているかのように苦しくなっていく。
ここに自分はいていいのか、と問いかける声が聞こえる。お前はここに相応しくないのでは、という疑問がごぼりと泡のように浮かび上がる。その泡の中に、歌仙達の顔がよぎっては消えていく。彼らから離れたくないという心が、堂々巡りの問いに終止符を打つのを拒んでいる。
だから、できる限り頭を動かすことなく、虚空を見つめて過ごす。何かをしたいとも思えず、かといって思考すらもしたくない彼女なりの時間の潰し方だった。
仕事があるのならば、尚のこといい。書類作りや時間遡行軍との戦いにだけ、頭を動かせばいいのだから。
「あるじさま。入りますね」
独りをじっくり味わっていた藤の静寂は、不躾に襖を開く音で破られた。
また、勝手に人が部屋に入ってきた。ここは自室の筈なのに、自分の時間も場所も守ることができない。
反感は喉まで出かかっているのに、藤はそれら全てを体の奥へと押し込む。主が刀剣男士の訪問を歓迎するのは、当たり前だ。そうあるべきだ、と言い聞かせて。
いつからこんな思いを抱くようになったかも、それすらも忘却の外へと押し出して、藤は声をかける。
「どうしたの、五虎退」
体を起こして、藤はにこりと笑顔を見せる。入り口に立っている五虎退は、いつものように主に駆け寄らず、足をもじもじさせていた。
彼に纏わり付く虎の子たちに責っ付かれるように、少年はおずおずと薄暗い部屋の中へと足を踏み入れる。
「あ、あの……ご飯、の時間……です」
「ああ、もうそんな時間なんだね。すぐ行くよ……まだ、何かあるの?」
伝言をしにきただけだろうと思いきや、五虎退は寝台に寝転がっていた藤の側まで歩み寄った。彼女の手をその白い小さな手で掴み、共に行こうと言わんばかりに、くいくいっと引いている。
「一緒に行く?」
「は、はい!」
ただ、一緒に居間に向かうだけのことが、そんなにも嬉しいのだろうか。藤は内心で首を傾げながら、少年と共に部屋の外へと出た。
まるで何か隠し事でもしているかのように、彼はどこか落ち着きがない。だが、悪いことではないだろう。伝わってくるのは、地に足が着いていないような高揚感だ。
(何かいい話でもあったのかな。夕食の時に訊いてみようか)
結局、彼女は居間の襖に手をかけて開くまで、今日が何の日か思い出すことはなかった。
いつものように、すっと襖を開けると同時に、
「主様、めりーくりすます、です!!」
「め、めりー、です!」
居間へと入ろうとした自分に飛びついてきた物吉の言葉に、隣に立つ五虎退の後を追うような掛け声に、思わず藤は声を失う。
見れば、普段皆で団欒に用いている和室は、昼食をとったときから様変わりしていた。赤や金のリボンが鴨居や柱に結ばれ、部屋の隅にはどこから買ってきたのか、小さなクリスマスツリーが置かれている。
見慣れた緑の木には、これでもかとキラキラ輝くリボンや玉の形をした飾りがぶらさげられ、そのてっぺんには金色に煌めく星が光っていた。
「……これって」
驚愕のあまりその場に立ち尽くしている主の元に、次郎が酒瓶を片手にひょっこりと顔を覗かせる。
「主の時代じゃ、今日はくりすますってやつを祝う日なんだろう? せっかくだから驚かせてみようと思ったのさ! アタシが主を惹きつけている間に、皆で飾り付けをしたんだよ!」
道理で、今日は部屋に戻ろうとしたら何かと次郎が絡んできたのかと、藤は頷く。
昼食をとってから道場へと主が連れ出された後、出かける前に歌仙も含めた四人がこぞって行った飾り付けの成果は、藤をびっくりさせるには十分すぎるものだった。
「今日は、十二月二十四日だったんだね」
わざわざ口にしながら、藤は居間に貼られてあるカレンダーに目をやる。日々が灰色に染まりきったような今の彼女にとって、日付など数字以上の意味がなかったのだ。
「ほらほら、主賓はここに座って座って! 歌仙が今料理を持ってきてくれるから、アタシたちはそれを美味しく食べる係といこうじゃないか」
「料理って?」
クリスマスのご馳走を、刀剣男士の彼らが知っているのか、という藤の疑問はすぐに解消された。
居間に姿を見せた歌仙が持っていたのは、湯気を漂わせた鍋だったからだ。たしかに、大人数で食べるご馳走として、これ以上のものはないだろう。
「せっかくの祝いの日なんだから、主も遠慮なく食べるといいよ。今日も僕はお代わりに口を挟みはしないからね」
「ありがとう、歌仙」
冷めないように電磁調理器の上に置かれた鍋の蓋をとると、白い湯気の向こうに普段の藤なら思わず生唾を飲むような、具材の数々が躍っていた。
メインが鶏肉なのは、クリスマスの主体となるご馳走の一つに七面鳥の丸焼きがあるから、それに倣ったのだろうか。肉の周りには色鮮やかな野菜や豆腐、練り物がひしめき合っている。これにつゆをつけて口に入れれば、さぞかし美味しいだろう。
そこまでは予想できるのに、
(……あれ)
お腹が空いたという実感はある。食べたらどんな味がするのか、というのも想像できる。
――なのに、どういうわけか。
箸を持って口に運ぶことを、食べるという行為そのものを、億劫だと思う自分がいる。食欲がさながら枯れ果てた泉のように、消え失せている自分に気がつく。
何かを期待するような視線を感じて、藤は顔を上げた。
彼女の前には、刀剣男士たちの瞳が並んでいた。歌仙が、次郎が、物吉が、五虎退が、主が喜ぶ顔を見せるのを望んでいる。
この外国の行事について、藤は何も教えていなかった。だから彼らなりに独学で調べて、こうして準備してくれたのだということは、頭の回転が鈍った彼女でもすぐに悟れる。彼らが慣れない風習を祝い、主に楽しい時間を送ろうと努力してくれたと分かる。
ならば、その努力を労うのが主としての役目。
それが、主として望まれる相応しい振る舞い。
故に、彼女は口元に力を入れる。
楽しそうにせねば、笑わなければと見えない圧力が背中を押す。
「皆、ありがとう。美味しそうだね。冷めないうちに皆で食べよう」
期待通り、目の前にいた四人は顔を見合わせてから嬉しそうに頷いた。
自分の反応は間違いではなかった。そのことに藤が内心で安堵の息を吐いた時、
「主」
声をかけられ、藤はくるりと振り向いた。彼女の背後には、遅れてやってきたらしい髭切が立っていた。こちらをじっと見つめる彼の視線は、どこか気遣わしげで心配そうなものに見える。
髭切は、最近よくそういう視線を送る。彼だけは、自分の作り上げた砂上の楼閣のような笑顔を、見抜いているのではないか。
たとえそうだとしても、藤のとる選択に変わりは無い。心配をかけまいと、彼女は笑い続ける。
「髭切も食べようよ」
その言葉に誘われるように、彼は主に歩み寄り、
「ふぎゃ」
躊躇なく、彼女の頬を掴む。ぐにぐにと顔を伸ばされ、藤は悲鳴のような情けない声をあげた。
「髭切さん、主様のほっぺたがお餅みたいに伸びちゃいますよ」
物吉に笑顔で窘められ、髭切の手が主から離れる。解放された藤は目を白黒とさせていたが、髭切は自分の行動の理由については語らず、既に己の席に着座していた。
彼の行動の真意を問いかけることもなく、藤もまた大人しく食事の席に着いたのだった。
クリスマスのご馳走は、たとえ文化圏の違う料理だったとしても十分に美味しいものだった。
いつものように、二つ分用意された鍋の一つは藤と次郎と髭切という大食らいの者に占拠され、残った方を物吉や歌仙、五虎退の箸が落ち着いた様子で具材を攫っていた。鍋の周りをうろうろしていた虎の子たちは、たまに皆がくれるおこぼれを行儀良く食べている。
「あるじさま、こちらの白菜も煮えてますよ」
「五虎退ありがとう。次郎、肉はまだ? よその鍋にうつつを抜かしてる場合じゃないよ。鍋奉行をしてくれるんじゃなかったの?」
「アタシはこういうちまちましたのは、やっぱり向いてないね! 歌仙、両方あんたに任せるよ」
「僕の目は二つしかないということを、きみは知らないのかい?」
言いつつも、歌仙は煮え切った野菜をひょいひょいと、空いている小皿の中に入れていく。他人のものであろうとお構いなしだ。
そんな彼の様子を見守りながら、藤はもそもそと箸を進ませていた。次郎や髭切の健啖さに比べたら、彼女の箸の進み方は遅い。空腹ではあるのだが、どういうわけか食欲は落ちたままだ。藤自身、体の機能の異常がもたらすちぐはぐさに、戸惑ってすらいた。
(味が変わったわけでもないのに、何だか食べたいって思えない気がする)
箸を止めることもできず、彼女は意識して煮えた具を小皿に沢山入れる。自発的に箸を動かさなければ、また歌仙たちを心配させてしまうからだ。
「主といいきみたちといい、本当によく食べるね。用意した甲斐があったというものだよ」
「歌仙、僕ももう少し肉が欲しいなあ」
「髭切、君が今まで食べてきた分でまるまる一羽分の鶏になっているだろうに。明日の朝には、君の腹の中で時を告げていることだろう」
「それはいいね。毎朝日の出と共に起きられるよ」
髭切と歌仙の応酬に、どっと笑い声が沸き起こる。彼らにつられるように、藤の喉からも笑い声が零れる。
久々に喉から溢れた笑い声は、自然と湧き出たものなのかわざと漏らしたものなのか。彼女自身ですら、最早分からなくなっていた。
箸の進みは遅くても、食べていけばお腹は満ちる。暖かな鍋料理のおかげで、体もどこかぽかぽかと熱を持っていく。体が温まれば、頑なになっていた気持ちも幾ばくかは解れる。
楽しげな笑い声に包まれていれば、彼女の心に滞留していた悩みも、一時とはいえ忘却の彼方に追いやることができた。
「あー、美味しかった。こんなに沢山食べたの久しぶりだよ」
「主、食べてすぐ横になると体に良くないそうだよ。こら、言った側から寝ようとするんじゃない」
座布団の上にごろりと横たわった藤を、歌仙は遠慮無く引きずり上げる。こんな他愛の無いやり取りも、随分と久しぶりのもののように藤には思えた。
歌仙に怒られながら姿勢を戻すと、たまたま目の前に座っている五虎退と目が合った。だが、彼はどういうわけかすぐ、藤から自分の瞳を逸らしてしまった。まるで、まだ何か隠し事をしているかのような素振りだ。
(ああ、そうか。クリスマスといえば)
クリスマスという行事については、刀剣男士である彼らよりも藤の方がより詳しく知っている。ならば、続いて行われるだろうということにも、幾つか心当たりがあった。
「皆、どうかしたの? 何だかそわそわしてるよね」
歌仙が鍋を片付けて戻ってきた頃を見計らい、藤は机を囲む彼らに声をかける。灰色になった心に、久しぶりに小さな灯りが点いたような温もりが、まだ彼女の中に残っていた。
だからだろう。自分でも楽しそうと思える声が、彼女の喉の奥から飛び出ていた。
「くりすますっていうのは、親しい人に贈り物をする日なんだろう? アタシたちもその真似をしてみようって、考えたのさ!」
一升瓶を堪能して酒気を帯びさせた次郎が、藤の背中から抱きつきながらいつも以上に陽気な声をかける。
やはり、と思いながらも藤は振り向いて、次郎の瞳と目を合わせる。合わせながらも、彼女の思考に冷静なもう一人の自分がそっと囁きかける。
今の自分はどんな顔をしているのだろうか。期待に満ちた子供のような顔か、嬉しそうに微笑んだ顔か。ちゃんと笑っていることができればいいが、と彼女は願う。
「じゃあまずは、アタシから行こうか。五虎退はなーんかまだ心の準備ができてなさそうだからね!」
口火を切った次郎太刀は、改めて、と藤の前に向き直って座り直す。いつもの相好を崩した様子ではなく、踵を浮かせたような一風変わった正座を彼はしていた。その仰々しさに倣い、藤も居住まいを正す。
「まさかだとは思うけど、お酒の贈り物じゃないよね?」
「あっはっは、違う違う! それもちょっとは考えたけどね。あー、でも来年は主もお酒を飲んでもいいんだっけ? なら、来年はアタシのとっておきを紹介するよ」
数秒前の真面目くさった態度はどこへやら、次郎はいつものからっとした笑顔を藤に見せる。つられて、藤も姿勢を崩して口元を緩めた。
「お酒じゃないなら、次郎は何にしたの?」
「ふっふーん。歌仙もあっと驚くものさ」
勿体ぶって次郎が懐から取り出して藤の掌に載せたのは、細い桐箱だった。箱を巻く和紙には、何やら達筆な筆跡で文字が書かれているが、その内容は藤には読み取れない。
次郎と視線を交わすと、彼は開けることを促すかのように深く、ゆっくりと頷いた。恐る恐る桐箱の蓋をどけ、藤は思わず目を丸くする。
「確かに……これには僕も、驚かされたよ」
後ろから覗き込んでいた歌仙が息を呑んでいるのが、藤にも分かる。
そこにあったのは、一本の黒塗りの扇子だった。壊さないようにそっと取り出してするすると開けば、金の地紙に桜の絵が繊細な筆遣いで描かれている。まるで、そこだけ春が訪れたかのようだ。
「主、アタシの舞を見るのが好きそうだったからね。今度一緒にどうかって思ったのさ。そうじゃなくても、扇子の一つくらいあって損はないだろう?」
「君がそんな風流なものを持ってくるとは予想できなかったよ、次郎太刀。てっきり酒を持ち込んできて、僕が没収することになるかと」
「ちょっと歌仙、それどういう意味だい!?」
横から混ぜ返してきた歌仙に、次郎が心外だと抗議する。再び笑いが居間に響き渡り、暖かな空気が藤の周りを包んでいった。
「ありがとう、次郎。大事にするね」
「ばんばん使ってくれていいんだよ。物は使われてこそ、意味があるんだからね」
にっと笑ってみせた次郎は、ばしばしと藤の肩をやや力をこめて叩く。勢い余って彼女は何度か咳き込み、ごめんごめんと背中をさする。そんなありふれた些細なやり取りの中で、次郎は瞬間、目を細めた。
(アタシたちに比べて、細い肩だよね。だってのに、アタシたちの主らしくしようって頑張っちゃってさ)
彼女の細い背に乗った重責が如何程のものか、次郎は知ることができない。彼女が人として暮らしてきた中で、どのような心を育ててきたのかも分からない。
だが少しでも頼ってくれたなら、その背に乗せた重荷を払い落とす手伝いができるのなら。そんなことを思いながら、次郎は彼女の背中をさすり、やがて名残惜しそうにそっと手を離した。
「それじゃあ、次は僕の番にしようか」
髭切は自分の背中に隠すようにして置いていた小さな包みを、藤の手に載せる。先ほどの次郎の贈り物とは違い、今度は妙に軽い。手に持ってみても、袋の中に入っているものの重みがまるで感じられないのだ。
「これは何?」
「種だよ」
さらりと髭切は答えてみせる。が、その言葉を聞いて、藤だけでなく周りの皆が、一様に目をぱちくりとさせていた。
「……種?」
「うん、種」
「種って、何の種?」
「春に咲く花の種だよ。ええと、ぱん……ぱん何とかとか、白いのとか、青いのとか。そうそう、桜草っていうのもあったよ」
嬉しそうにはにかむ髭切の顔は、まるで母親の驚く顔を期待している子供のそれに似ていると、藤は思った。
リボンを解いて中を覗けば、確かに園芸用品店でよく売られている種の袋が、これでもかとばかりに入っている。
「それと、大根も入れておいたんだ。今の季節も春の季節にも植えられるって書いてあったんだ」
そういえば、彼にそんな話をしたなと藤は思い返す。
(ああ――だから、花の種なんだ)
緑が好きだ、自然の景色が好きだ、綺麗なものが好きだと、彼に話した。ただの世間話のつもりだったのに、彼は覚えてくれていたのだ。そして主が好きだと話した景色を、自分に贈ろうと思ってくれたのだろう。
「ありがとう、髭切。一緒に育てようね」
彼の心遣いが、まるで暖かなお湯のように心に染み渡っていく。春に見ることができるだろう花畑を夢見て、藤の口の端に柔らかな笑みが浮かぶ。
それは、かつての笑顔には程遠くても、微かにあの歓喜の気配に似ていると髭切は気がついた。
「どういたしまして、主。楽しみにしているよ」
やはり、この選択は間違っていなかった。
髭切は心の中で深く頷き、ガラス細工のように脆く淡い笑顔が消えないように、彼女の隣に腰を下ろした。
「じゃあ、顕現した順の逆なら、次は物吉かな。物吉は何を用意してくれたの?」
「ボクはけえきというお菓子を用意しました! だから、最後に持ってきて皆で食べましょう」
特にもったいぶることもなく、物吉は桃色に頬を染めてにっこりと微笑んだ。
ケーキという単語を耳にして、藤の目にきらりと星のような輝きが散る。この本丸で出される菓子は、刀剣男士たちの好みに合わせて和菓子が多い。洋菓子と聞いて、藤がいつもより興味を抱くのも当然だった。
「じゃ、じゃあ次は……僕の番です」
意を決したように声をあげたのは、五虎退だ。まるで今から敵の大将の首を討ち取りにでもいくかのような顔で、主である藤をじっと見つめている。
雑貨屋の店員が丁寧にラッピングしてくれた贈り物を、手はおろか全身を震えさせながら、五虎退は藤に渡した。
「五虎退、大丈夫? 何だか、すごく震えているけども」
「だ、大丈夫、です」
口にしているほど、五虎退としては全く大丈夫では無かった。
もし間違ったものを渡していたら、色が違って気に入って貰えなかったら。自分だけ、皆と異なる反応をされてしまったら。
そんなこと主はしないと分かっていても、五虎退の中にはありとあらゆる不安の芽が、摘んでも摘んでも生えてきてしまっていた。
「開けてもいい?」
「は、はい。開けてもいい、です」
首がとれるのではないかと思うほど、勢いよく首を縦に振る五虎退に気圧され、藤は包装のリボンに指をかける。どういうわけか、物吉までこちらを凝視しており、やりにくいことこの上ない。
二対の視線を集めながら、しゅるしゅるとリボンを解く。果たして袋の中から現れたのは――紫の花をあしらった髪飾りだった。添えられた房飾りとあわせて、どちらかというと和風の小物なのだろうとは、装飾品に疎い藤にも分かる。
彼女はそれを目にして、目を大きく見開いた。ああ、と思わず声が漏れる。記憶が一気に、就任直後の春へと戻っていく。
今手の上にあるものは、万屋の商店街に初めて行ったときに見つけた、自分好みの髪飾りと同じ形のもの。
同時に――そんなもの似合わないと他人に譲った、忘れようとしたもの。
「……あるじさまが、欲しかった品と、同じかは分からないですけど、でも」
それを、この少年はわざわざ見つけてきたということか。歌仙から話を聞いて、それだけでは曖昧な手がかりだったろうに、一縷の望みを託して選んだというのか。
「あるじさまは、きっと、紫色が似合うと思ったんです」
瞳と同じ紫色は、似合うだろうと彼は言う。その言葉をどう受け止めていいか、分からない。
驚きとも違う、悲しいとも苦しいとも違う。
ただ、分からないのだ。頭を一度に真っ白に塗りつぶしていくようなこの感情を表す言葉が、見つからない。
「おや、本当に見つけてきたんだね」
「は、はい。見つけて、きました。これが、あるじさまが譲ったと歌仙さんが話していたものでしょうか?」
「ああ、そうだよ。色は違うけど、これと全く同じ物だった」
歌仙のお墨付きも貰って、五虎退の中で張り詰めていた緊張が解ける。今度は期待の混じった目線で、少年の金色の目が主を見つめていた。
「あり……がとう。驚いたよ。何も話してないのに」
だから、その期待に応えなければならないと、藤は笑うことを選ぶ。いつも通りだ。実際欲しかったのは事実だろうと、心の内側で己がせっつく。
「ぼ、僕だけの手柄じゃないんです。物吉さんも手伝ってくれました。それに、あの人も」
「あの人?」
「この前、あるじさまが演練で会った女の子です」
五虎退の言葉を聞き、藤は二ヶ月近く前の記憶を掘り起こす。演練の最中に竜巻のように現れた彼女のことは、その時口にされた言葉も含めて、そうそう簡単に忘れられるものではない。
「その人が、なんだか不思議な力で、見つけてくれたんです。あ、あと、あるじさまに、あの時は演練を邪魔してごめんなさいって」
不意に伝えられた一方的な詫びの言葉に、藤はどう返していいか悩んでしまった。彼女にとっては、演練の中断よりも優先すべき事項が突然頭に入り込んできたので、正直彼女の態度の善し悪しについては、歯牙にかけてすらいなかったからだ。
ひとまずの返事として、藤は五虎退に一度頷きかけるだけに留めておいた。
「ともかく、五虎退。見つけてくれてありがとう。大事にするね」
「はい! あるじさまのお役に立てて……嬉しい、です」
五虎退のはち切れんばかりの笑顔を見つめていると、未だ波立つ心を隠しておいてよかったと、藤は確信を持つことができた。
繊細な作りの髪飾りをそっと包みの中に戻し、いよいよ最後にと、彼女は歌仙に向き直る。
「歌仙の贈り物は、実はさっきの鶏鍋だったりして」
「まさか。きみは、僕がそんな風流さに欠けるものを用意するとでも、思っているのかい。だとしたら、きみに雅のなんたるかを教えなければいけなくなるね」
「思ってないよ、そんなこと。でも、歌仙は僕の好きな食べ物とかは、見抜いてるんじゃないかって」
「それはそうだけれどもね。だからといって、料理一つで済ませるつもりはないよ。僕が用意したものは少し大きいんだ。ちょっと待っていてくれるかな」
一言断りを入れてから、歌仙は席を立った。
程なくして彼が再び顔を見せたとき、彼の両掌の上には細長い筒のような物体があった。そこには、何重にも布が巻き付けてある。
「主に似合いの反物を、見つけてきたんだよ。これぞという呉服屋を見つけるのに手間取ってね。何度も万屋に行くことになってしまったんだ」
「あ、だから、最近遅くまで出かけていたんですね」
髪飾りを買いに行こうと誘おうとしたのに、なかなか出会えなかったことを五虎退は思い出す。歌仙が主に渡す贈り物を吟味するためだというなら、なるほど納得できるというものだ。
「僕に似合う反物なんてあったの?」
「ああ、勿論。目利きには自信があると前にも言っただろう」
歌仙が筒に巻き付けていた布を広げると、その場に淡い藤色が広がった。所々に小さく秋の草花があしらわれており、生地も然程厚いものではない。
「本来は初夏や初秋に向けての布だそうだ。少し季節外れにはなってしまうけれど、これから仕立ててれば十分間に合うだろう」
「…………でも、着物って着る機会あるかな」
「機会はなければ作るものだよ。出かける時でも、何なら本丸にいる時でも構わない。家で着物を着てはいけないという習わしはないのだからね」
「なんなら、アタシと舞う時とかどうだい。その方が見栄えも良くなるってもんだろう」
次郎にぐいぐいと迫られ、藤はこくこくと頷く。歌仙から渡された反物を見つめ、それから慎重に撫でる。
この生地から生まれる着物は、さぞ美しいだろう。ただ、自分がそれを纏うのに相応しいのかどうかというと、素直に肯定はできない。
無論、そんな感情はすぐさま蓋をして、藤はにこりと笑って歌仙に反物を返した。
「えっと、これで全部だよね。じゃあ、物吉が用意してくれたケーキを食べようか」
「お腹がいっぱいになってるんじゃないかと思ったのに、君は全くブレないね」
歌仙は呆れたような口調で言ったものの、主が自ら何か食べたいと言い出したことに、内心でホッとしていた。
彼女が積極的に食べたいものがあると要望を口にすることが、最近めっきり無くなっていたからだ。出会ったときから、あれだけ歌仙の料理を楽しみにしていた彼女が、である。
「歌仙は、その布が汚れないように仕舞っておいて。もう少し暖かくなったら……着物を作りに行くの、手伝ってくれる?」
「勿論。喜んで引き受けよう」
くるくると反物を丸めて、歌仙は一度居間から出る。続けて物吉も、ケーキを取り出すためと彼の後を続いた。
程なくして戻ってきた物吉が持ってきたのは、多様な甘味に明るい藤から見れば、スタンダードでシンプルな苺のショートケーキだった。彼の宣言通り、箱の中にはワンホール分が綺麗に収まっている。
「色んなけえきがあったんですが、白と赤がとっても綺麗だったのでこれにしました! まるで、雪が降ったみたいですよね」
「……すごいです。小さなお人形が、置いてあります」
「これはメレンゲでできているから、食べられるんだよ」
「食べちゃうんです、か!?」
藤の言葉に、五虎退が目を丸くする。何だか可哀想、と涙目になる彼の姿が妙におかしくて、藤は思わずくすりと微笑んだ。
箱から取り出されたホールケーキは、そのまま歌仙が持ってきてくれた大皿に移し替えられる。切り分けはケーキの扱いに慣れている藤が行い、六つに切り分けられたケーキが小皿に一つ一つ置かれていった。
「主様がお好きな味だと良いのですが」
「僕は甘いもの、どれも好きなんだ。だから、どんなケーキでも大丈夫だよ」
藤は物吉を安心させようと柔らかい微笑を見せてから、白と赤が織りなす甘味へとフォークを突き立てる。スポンジ部分の柔らかさに懐かしさを覚えながらも口に運び、下に広がる生クリームの甘さに舌鼓を打つ――つもりだった。
(――あれ)
甘いものは好きだと自分でも分かっていた。だから、これこそは美味しいと思えるだろうと予想していた。
なのに、どういうわけだろう。舌は甘みを伝えているのに、それが美味だと思う感覚と繋がってくれない。
鶏鍋のときと同じだ。味覚自体は機能している。だけども、感じとった旨みを、感情を動かすものへと体が変換してくれない。
「主様、どうかしましたか」
感覚が齎す奇妙なズレは、思わず藤の手を止めてしまっていた。
気がつくと、隣に座ってこちらを覗き込むようにしている物吉の瞳と目が合った。咄嗟に、最早反射的に作れるようになった笑顔の仮面を、顔に被せる。
「何でもないよ。久しぶりだったから、少しびっくりしたんだ」
「主様は、よくこれを食べていたんですか?」
「よくってほどじゃないけど、お祝い事とかあったときとかなら」
「じゃあ、これから主様に幸せなことがあったら、けえきを用意しますね」
屈託のない笑顔を浮かべている物吉に、これで良かったのだと藤は内心で胸を撫で下ろした。
贈り主である物吉が喜んでくれたなら、それに越したことはない。自分が美味しいと思えるかどうかなどというのは、二の次の事項だ。
「不思議な味だね。練り切りとはまた違う甘みがする。お茶と合わせても、悪くはない」
歌仙の言葉に、藤は顔を上げて残りの面々の様子を見つめた。ケーキを頬張っている五虎退の姿は、さながら小動物のように愛らしい。
歌仙は、自分が入れた日本茶と一緒にケーキを食べているようだ。食べ合わせとしてどうなのだろうと思いつつも、少し苦みがあるお茶との組み合わせを、彼は彼で存分に楽しんでいるようだ。
「うんうん。アタシもこの、けえきとやらを気に入ったよ。髭切、アンタはどうだい?」
「凄く美味しいね。甘くてふわふわしている。上に置かれている赤い果実と合わせると、味がまた変わるんだね」
皆が美味しそうにケーキを食べている。自分には分からなくなっている『美味しい』というものを感じている。そこに奇妙なズレは存在しているのに、彼女は笑顔を揺るがせず、ケーキを味わっているふりをした。
等分に切られたケーキは、刀剣男士らに笑顔を、藤に歪なちぐはぐを齎す代わりに、あっという間になくなってしまった。
***
楽しい時というものは、瞬く間に過ぎていく。クリスマスパーティも、終わってしまえばなんて事のない日常の一つに押し流されていく。
その日の夜、藤は皆の贈り物を抱えて部屋に戻った。
まず、次郎がくれた扇子は、付属していた扇子立てに置いて、タンスの上に飾っておく。殺風景な部屋に、そこだけまるで一足早く春が訪れたかのようだった。
続いて、彼女は髭切から貰った花の種と大根の種を、机に載せる。春の花を植えるには時期尚早だろうが、貰った種の全てが咲いたら、きっと見事な花畑ができあがることだろう。
種の側に並べて置いたのは、五虎退の髪飾りが入った袋だ。
「……折角くれたんだから、つけないとね」
デザインが気に入らないわけではない。元々買おうか悩んでいたくらいなのだから、そこの部分は問題では無かった。
ただ、彼女には髪飾り一つつけるだけでも躊躇してしまう理由があった。
刀剣男士の誰一人とて知らないが故に、指摘していないことだったが、彼女は一般的な同年代の女子が当然のように求める服飾品を買おうともせず、化粧も今まで一度も彼らの前でしていなかった。
装飾品を身につけること。好きな衣類を求めて街に繰り出したり、端末を使ってネットワークの海を彷徨ったりすること。あるいは、装いに合わせてメイクを施すこと。服に似合う靴を選ぶこと。
その全てを、彼女は一切行っていない。
纏う服は実家から持ってきた古着の着回しばかりだし、化粧道具も最低限身だしなみを整える程度のものであり、それも埃を被ってしまっている。靴だって、歩きやすいスニーカーを数足置いているだけであり、とてもお洒落な代物とは言えない。
別に着飾ることが『悪』と思っているわけでも、面倒だと投げ出しているわけでもない。好きだと思う衣類の一つや二つ、着飾って気持ちを高揚させたいという欲の三つや四つ、彼女の中にだってある。
「でも、似合わないよ」
理由は、ただそれだけだ。
五虎退は主の瞳によく似合うと言ってくれたものの、一人でこうしていると、どうしてもそのような感情が浮かび上がる。
「髪も短いし、男の子みたいな格好の方がまだましだっていうのに」
それでも、もしかしたら、と思う。
同時に馬鹿なことを言うな、と心の奥で誰かが嘲笑う。
――男の子みたいな体してるんだから、いっそ男装でもした方が似合うわよ。
そんな声が記憶の奥底から聞こえ、藤は反射的に引き出しを開いて髪飾りを入れ、勢いよく閉めた。
「――――っ」
少し乱れた息を深呼吸を挟んで整え、藤はずるずるとその場に座り込んだ。歌仙が贈ってくれた反物に、思いを馳せる余裕すらなかった。
彼らの思いは嬉しかったし、皆で賑やかに談笑し、鍋をつつくのは楽しいと思えた――そこで、彼女の思考にノイズが走る。
「――本当に?」
本当に、楽しかったのだろうか。
本当に楽しいとは、なんだろうか。
笑顔になること? 笑顔なら、ずっと前から浮かべ続けている。
だが、今日は本当に心の底から勝手に笑えていた。そう言いたくても、言えないことに彼女は気がついてしまった。
「あれ、楽しいってなんだっけ……」
歌仙と出会った頃の自分は、もっとこの生活に期待を抱いていたはずだ。そのときの自分は笑っていた。
でも、それは心の底からのものだっただろうか。問いに、答えが見つからない。
ならば、更に昔はどうだっただろうか。
例えば、学生時代に友人としたお喋りの中で笑っていたときは。或いは、養父母と他愛の無い雑談を交わしあっていたときは。他にも、学校の帰り道に寄った喫茶店で、大好きな洋菓子を口にしたときは。
楽しんでいたかもしれないと、思える筈の欠片はあった。
楽しんでいたに違いないと、思えるための確信だけがなかった。
「僕の楽しいは、どこにいっちゃったんだろう」
自分の感情が分からない。
笑顔を浮かべすぎたせいで、何に心躍らせているのかも、はっきりしない。
自分という存在が、どんどんぼけていく。顔に貼り付いた仮面を剥がす術が見つからず、ついには仮面の下の顔すらも見えなくなってしまっている。
そのことに、気がついてしまった。けれども、どうすればいいかも分からない。
「今日は、楽しかったんだ。皆、僕のために色々考えてプレゼントを贈ってくれた。だから、今日は楽しい日だったんだ」
そういうことにしよう。
そういうことに、してしまおう。
自分の記憶という絵の上に、藤は感情という名のインクをぶちまける。楽しいという文字だけで、思い出を塗りつぶしていく。
そうして感情に折り合いをつけたはずなのに、どういうわけだろうか、喉の奥にはまるで玉が詰まったかのような違和感だけが残っていた。
全てを見なかったふりで流すために、彼女は布団の中に潜り込んで、気絶するように眠りの世界に逃げ込んだのだった。
いつものように自室に戻った藤は、夕餉の時間まで何をするでもなく、ごろりと横になってぼんやりと天井を見上げていた。電気もつけていない部屋は、西日が入らなくなったらあっという間に薄闇に包まれる。
眠りたいわけではない。ただ、何も考えたくなかった。
何かを考えれば、すぐに思考は袋小路に行き止まる。考えれば考えるほど、頭を締め付けているかのように苦しくなっていく。
ここに自分はいていいのか、と問いかける声が聞こえる。お前はここに相応しくないのでは、という疑問がごぼりと泡のように浮かび上がる。その泡の中に、歌仙達の顔がよぎっては消えていく。彼らから離れたくないという心が、堂々巡りの問いに終止符を打つのを拒んでいる。
だから、できる限り頭を動かすことなく、虚空を見つめて過ごす。何かをしたいとも思えず、かといって思考すらもしたくない彼女なりの時間の潰し方だった。
仕事があるのならば、尚のこといい。書類作りや時間遡行軍との戦いにだけ、頭を動かせばいいのだから。
「あるじさま。入りますね」
独りをじっくり味わっていた藤の静寂は、不躾に襖を開く音で破られた。
また、勝手に人が部屋に入ってきた。ここは自室の筈なのに、自分の時間も場所も守ることができない。
反感は喉まで出かかっているのに、藤はそれら全てを体の奥へと押し込む。主が刀剣男士の訪問を歓迎するのは、当たり前だ。そうあるべきだ、と言い聞かせて。
いつからこんな思いを抱くようになったかも、それすらも忘却の外へと押し出して、藤は声をかける。
「どうしたの、五虎退」
体を起こして、藤はにこりと笑顔を見せる。入り口に立っている五虎退は、いつものように主に駆け寄らず、足をもじもじさせていた。
彼に纏わり付く虎の子たちに責っ付かれるように、少年はおずおずと薄暗い部屋の中へと足を踏み入れる。
「あ、あの……ご飯、の時間……です」
「ああ、もうそんな時間なんだね。すぐ行くよ……まだ、何かあるの?」
伝言をしにきただけだろうと思いきや、五虎退は寝台に寝転がっていた藤の側まで歩み寄った。彼女の手をその白い小さな手で掴み、共に行こうと言わんばかりに、くいくいっと引いている。
「一緒に行く?」
「は、はい!」
ただ、一緒に居間に向かうだけのことが、そんなにも嬉しいのだろうか。藤は内心で首を傾げながら、少年と共に部屋の外へと出た。
まるで何か隠し事でもしているかのように、彼はどこか落ち着きがない。だが、悪いことではないだろう。伝わってくるのは、地に足が着いていないような高揚感だ。
(何かいい話でもあったのかな。夕食の時に訊いてみようか)
結局、彼女は居間の襖に手をかけて開くまで、今日が何の日か思い出すことはなかった。
いつものように、すっと襖を開けると同時に、
「主様、めりーくりすます、です!!」
「め、めりー、です!」
居間へと入ろうとした自分に飛びついてきた物吉の言葉に、隣に立つ五虎退の後を追うような掛け声に、思わず藤は声を失う。
見れば、普段皆で団欒に用いている和室は、昼食をとったときから様変わりしていた。赤や金のリボンが鴨居や柱に結ばれ、部屋の隅にはどこから買ってきたのか、小さなクリスマスツリーが置かれている。
見慣れた緑の木には、これでもかとキラキラ輝くリボンや玉の形をした飾りがぶらさげられ、そのてっぺんには金色に煌めく星が光っていた。
「……これって」
驚愕のあまりその場に立ち尽くしている主の元に、次郎が酒瓶を片手にひょっこりと顔を覗かせる。
「主の時代じゃ、今日はくりすますってやつを祝う日なんだろう? せっかくだから驚かせてみようと思ったのさ! アタシが主を惹きつけている間に、皆で飾り付けをしたんだよ!」
道理で、今日は部屋に戻ろうとしたら何かと次郎が絡んできたのかと、藤は頷く。
昼食をとってから道場へと主が連れ出された後、出かける前に歌仙も含めた四人がこぞって行った飾り付けの成果は、藤をびっくりさせるには十分すぎるものだった。
「今日は、十二月二十四日だったんだね」
わざわざ口にしながら、藤は居間に貼られてあるカレンダーに目をやる。日々が灰色に染まりきったような今の彼女にとって、日付など数字以上の意味がなかったのだ。
「ほらほら、主賓はここに座って座って! 歌仙が今料理を持ってきてくれるから、アタシたちはそれを美味しく食べる係といこうじゃないか」
「料理って?」
クリスマスのご馳走を、刀剣男士の彼らが知っているのか、という藤の疑問はすぐに解消された。
居間に姿を見せた歌仙が持っていたのは、湯気を漂わせた鍋だったからだ。たしかに、大人数で食べるご馳走として、これ以上のものはないだろう。
「せっかくの祝いの日なんだから、主も遠慮なく食べるといいよ。今日も僕はお代わりに口を挟みはしないからね」
「ありがとう、歌仙」
冷めないように電磁調理器の上に置かれた鍋の蓋をとると、白い湯気の向こうに普段の藤なら思わず生唾を飲むような、具材の数々が躍っていた。
メインが鶏肉なのは、クリスマスの主体となるご馳走の一つに七面鳥の丸焼きがあるから、それに倣ったのだろうか。肉の周りには色鮮やかな野菜や豆腐、練り物がひしめき合っている。これにつゆをつけて口に入れれば、さぞかし美味しいだろう。
そこまでは予想できるのに、
(……あれ)
お腹が空いたという実感はある。食べたらどんな味がするのか、というのも想像できる。
――なのに、どういうわけか。
箸を持って口に運ぶことを、食べるという行為そのものを、億劫だと思う自分がいる。食欲がさながら枯れ果てた泉のように、消え失せている自分に気がつく。
何かを期待するような視線を感じて、藤は顔を上げた。
彼女の前には、刀剣男士たちの瞳が並んでいた。歌仙が、次郎が、物吉が、五虎退が、主が喜ぶ顔を見せるのを望んでいる。
この外国の行事について、藤は何も教えていなかった。だから彼らなりに独学で調べて、こうして準備してくれたのだということは、頭の回転が鈍った彼女でもすぐに悟れる。彼らが慣れない風習を祝い、主に楽しい時間を送ろうと努力してくれたと分かる。
ならば、その努力を労うのが主としての役目。
それが、主として望まれる相応しい振る舞い。
故に、彼女は口元に力を入れる。
楽しそうにせねば、笑わなければと見えない圧力が背中を押す。
「皆、ありがとう。美味しそうだね。冷めないうちに皆で食べよう」
期待通り、目の前にいた四人は顔を見合わせてから嬉しそうに頷いた。
自分の反応は間違いではなかった。そのことに藤が内心で安堵の息を吐いた時、
「主」
声をかけられ、藤はくるりと振り向いた。彼女の背後には、遅れてやってきたらしい髭切が立っていた。こちらをじっと見つめる彼の視線は、どこか気遣わしげで心配そうなものに見える。
髭切は、最近よくそういう視線を送る。彼だけは、自分の作り上げた砂上の楼閣のような笑顔を、見抜いているのではないか。
たとえそうだとしても、藤のとる選択に変わりは無い。心配をかけまいと、彼女は笑い続ける。
「髭切も食べようよ」
その言葉に誘われるように、彼は主に歩み寄り、
「ふぎゃ」
躊躇なく、彼女の頬を掴む。ぐにぐにと顔を伸ばされ、藤は悲鳴のような情けない声をあげた。
「髭切さん、主様のほっぺたがお餅みたいに伸びちゃいますよ」
物吉に笑顔で窘められ、髭切の手が主から離れる。解放された藤は目を白黒とさせていたが、髭切は自分の行動の理由については語らず、既に己の席に着座していた。
彼の行動の真意を問いかけることもなく、藤もまた大人しく食事の席に着いたのだった。
クリスマスのご馳走は、たとえ文化圏の違う料理だったとしても十分に美味しいものだった。
いつものように、二つ分用意された鍋の一つは藤と次郎と髭切という大食らいの者に占拠され、残った方を物吉や歌仙、五虎退の箸が落ち着いた様子で具材を攫っていた。鍋の周りをうろうろしていた虎の子たちは、たまに皆がくれるおこぼれを行儀良く食べている。
「あるじさま、こちらの白菜も煮えてますよ」
「五虎退ありがとう。次郎、肉はまだ? よその鍋にうつつを抜かしてる場合じゃないよ。鍋奉行をしてくれるんじゃなかったの?」
「アタシはこういうちまちましたのは、やっぱり向いてないね! 歌仙、両方あんたに任せるよ」
「僕の目は二つしかないということを、きみは知らないのかい?」
言いつつも、歌仙は煮え切った野菜をひょいひょいと、空いている小皿の中に入れていく。他人のものであろうとお構いなしだ。
そんな彼の様子を見守りながら、藤はもそもそと箸を進ませていた。次郎や髭切の健啖さに比べたら、彼女の箸の進み方は遅い。空腹ではあるのだが、どういうわけか食欲は落ちたままだ。藤自身、体の機能の異常がもたらすちぐはぐさに、戸惑ってすらいた。
(味が変わったわけでもないのに、何だか食べたいって思えない気がする)
箸を止めることもできず、彼女は意識して煮えた具を小皿に沢山入れる。自発的に箸を動かさなければ、また歌仙たちを心配させてしまうからだ。
「主といいきみたちといい、本当によく食べるね。用意した甲斐があったというものだよ」
「歌仙、僕ももう少し肉が欲しいなあ」
「髭切、君が今まで食べてきた分でまるまる一羽分の鶏になっているだろうに。明日の朝には、君の腹の中で時を告げていることだろう」
「それはいいね。毎朝日の出と共に起きられるよ」
髭切と歌仙の応酬に、どっと笑い声が沸き起こる。彼らにつられるように、藤の喉からも笑い声が零れる。
久々に喉から溢れた笑い声は、自然と湧き出たものなのかわざと漏らしたものなのか。彼女自身ですら、最早分からなくなっていた。
箸の進みは遅くても、食べていけばお腹は満ちる。暖かな鍋料理のおかげで、体もどこかぽかぽかと熱を持っていく。体が温まれば、頑なになっていた気持ちも幾ばくかは解れる。
楽しげな笑い声に包まれていれば、彼女の心に滞留していた悩みも、一時とはいえ忘却の彼方に追いやることができた。
「あー、美味しかった。こんなに沢山食べたの久しぶりだよ」
「主、食べてすぐ横になると体に良くないそうだよ。こら、言った側から寝ようとするんじゃない」
座布団の上にごろりと横たわった藤を、歌仙は遠慮無く引きずり上げる。こんな他愛の無いやり取りも、随分と久しぶりのもののように藤には思えた。
歌仙に怒られながら姿勢を戻すと、たまたま目の前に座っている五虎退と目が合った。だが、彼はどういうわけかすぐ、藤から自分の瞳を逸らしてしまった。まるで、まだ何か隠し事をしているかのような素振りだ。
(ああ、そうか。クリスマスといえば)
クリスマスという行事については、刀剣男士である彼らよりも藤の方がより詳しく知っている。ならば、続いて行われるだろうということにも、幾つか心当たりがあった。
「皆、どうかしたの? 何だかそわそわしてるよね」
歌仙が鍋を片付けて戻ってきた頃を見計らい、藤は机を囲む彼らに声をかける。灰色になった心に、久しぶりに小さな灯りが点いたような温もりが、まだ彼女の中に残っていた。
だからだろう。自分でも楽しそうと思える声が、彼女の喉の奥から飛び出ていた。
「くりすますっていうのは、親しい人に贈り物をする日なんだろう? アタシたちもその真似をしてみようって、考えたのさ!」
一升瓶を堪能して酒気を帯びさせた次郎が、藤の背中から抱きつきながらいつも以上に陽気な声をかける。
やはり、と思いながらも藤は振り向いて、次郎の瞳と目を合わせる。合わせながらも、彼女の思考に冷静なもう一人の自分がそっと囁きかける。
今の自分はどんな顔をしているのだろうか。期待に満ちた子供のような顔か、嬉しそうに微笑んだ顔か。ちゃんと笑っていることができればいいが、と彼女は願う。
「じゃあまずは、アタシから行こうか。五虎退はなーんかまだ心の準備ができてなさそうだからね!」
口火を切った次郎太刀は、改めて、と藤の前に向き直って座り直す。いつもの相好を崩した様子ではなく、踵を浮かせたような一風変わった正座を彼はしていた。その仰々しさに倣い、藤も居住まいを正す。
「まさかだとは思うけど、お酒の贈り物じゃないよね?」
「あっはっは、違う違う! それもちょっとは考えたけどね。あー、でも来年は主もお酒を飲んでもいいんだっけ? なら、来年はアタシのとっておきを紹介するよ」
数秒前の真面目くさった態度はどこへやら、次郎はいつものからっとした笑顔を藤に見せる。つられて、藤も姿勢を崩して口元を緩めた。
「お酒じゃないなら、次郎は何にしたの?」
「ふっふーん。歌仙もあっと驚くものさ」
勿体ぶって次郎が懐から取り出して藤の掌に載せたのは、細い桐箱だった。箱を巻く和紙には、何やら達筆な筆跡で文字が書かれているが、その内容は藤には読み取れない。
次郎と視線を交わすと、彼は開けることを促すかのように深く、ゆっくりと頷いた。恐る恐る桐箱の蓋をどけ、藤は思わず目を丸くする。
「確かに……これには僕も、驚かされたよ」
後ろから覗き込んでいた歌仙が息を呑んでいるのが、藤にも分かる。
そこにあったのは、一本の黒塗りの扇子だった。壊さないようにそっと取り出してするすると開けば、金の地紙に桜の絵が繊細な筆遣いで描かれている。まるで、そこだけ春が訪れたかのようだ。
「主、アタシの舞を見るのが好きそうだったからね。今度一緒にどうかって思ったのさ。そうじゃなくても、扇子の一つくらいあって損はないだろう?」
「君がそんな風流なものを持ってくるとは予想できなかったよ、次郎太刀。てっきり酒を持ち込んできて、僕が没収することになるかと」
「ちょっと歌仙、それどういう意味だい!?」
横から混ぜ返してきた歌仙に、次郎が心外だと抗議する。再び笑いが居間に響き渡り、暖かな空気が藤の周りを包んでいった。
「ありがとう、次郎。大事にするね」
「ばんばん使ってくれていいんだよ。物は使われてこそ、意味があるんだからね」
にっと笑ってみせた次郎は、ばしばしと藤の肩をやや力をこめて叩く。勢い余って彼女は何度か咳き込み、ごめんごめんと背中をさする。そんなありふれた些細なやり取りの中で、次郎は瞬間、目を細めた。
(アタシたちに比べて、細い肩だよね。だってのに、アタシたちの主らしくしようって頑張っちゃってさ)
彼女の細い背に乗った重責が如何程のものか、次郎は知ることができない。彼女が人として暮らしてきた中で、どのような心を育ててきたのかも分からない。
だが少しでも頼ってくれたなら、その背に乗せた重荷を払い落とす手伝いができるのなら。そんなことを思いながら、次郎は彼女の背中をさすり、やがて名残惜しそうにそっと手を離した。
「それじゃあ、次は僕の番にしようか」
髭切は自分の背中に隠すようにして置いていた小さな包みを、藤の手に載せる。先ほどの次郎の贈り物とは違い、今度は妙に軽い。手に持ってみても、袋の中に入っているものの重みがまるで感じられないのだ。
「これは何?」
「種だよ」
さらりと髭切は答えてみせる。が、その言葉を聞いて、藤だけでなく周りの皆が、一様に目をぱちくりとさせていた。
「……種?」
「うん、種」
「種って、何の種?」
「春に咲く花の種だよ。ええと、ぱん……ぱん何とかとか、白いのとか、青いのとか。そうそう、桜草っていうのもあったよ」
嬉しそうにはにかむ髭切の顔は、まるで母親の驚く顔を期待している子供のそれに似ていると、藤は思った。
リボンを解いて中を覗けば、確かに園芸用品店でよく売られている種の袋が、これでもかとばかりに入っている。
「それと、大根も入れておいたんだ。今の季節も春の季節にも植えられるって書いてあったんだ」
そういえば、彼にそんな話をしたなと藤は思い返す。
(ああ――だから、花の種なんだ)
緑が好きだ、自然の景色が好きだ、綺麗なものが好きだと、彼に話した。ただの世間話のつもりだったのに、彼は覚えてくれていたのだ。そして主が好きだと話した景色を、自分に贈ろうと思ってくれたのだろう。
「ありがとう、髭切。一緒に育てようね」
彼の心遣いが、まるで暖かなお湯のように心に染み渡っていく。春に見ることができるだろう花畑を夢見て、藤の口の端に柔らかな笑みが浮かぶ。
それは、かつての笑顔には程遠くても、微かにあの歓喜の気配に似ていると髭切は気がついた。
「どういたしまして、主。楽しみにしているよ」
やはり、この選択は間違っていなかった。
髭切は心の中で深く頷き、ガラス細工のように脆く淡い笑顔が消えないように、彼女の隣に腰を下ろした。
「じゃあ、顕現した順の逆なら、次は物吉かな。物吉は何を用意してくれたの?」
「ボクはけえきというお菓子を用意しました! だから、最後に持ってきて皆で食べましょう」
特にもったいぶることもなく、物吉は桃色に頬を染めてにっこりと微笑んだ。
ケーキという単語を耳にして、藤の目にきらりと星のような輝きが散る。この本丸で出される菓子は、刀剣男士たちの好みに合わせて和菓子が多い。洋菓子と聞いて、藤がいつもより興味を抱くのも当然だった。
「じゃ、じゃあ次は……僕の番です」
意を決したように声をあげたのは、五虎退だ。まるで今から敵の大将の首を討ち取りにでもいくかのような顔で、主である藤をじっと見つめている。
雑貨屋の店員が丁寧にラッピングしてくれた贈り物を、手はおろか全身を震えさせながら、五虎退は藤に渡した。
「五虎退、大丈夫? 何だか、すごく震えているけども」
「だ、大丈夫、です」
口にしているほど、五虎退としては全く大丈夫では無かった。
もし間違ったものを渡していたら、色が違って気に入って貰えなかったら。自分だけ、皆と異なる反応をされてしまったら。
そんなこと主はしないと分かっていても、五虎退の中にはありとあらゆる不安の芽が、摘んでも摘んでも生えてきてしまっていた。
「開けてもいい?」
「は、はい。開けてもいい、です」
首がとれるのではないかと思うほど、勢いよく首を縦に振る五虎退に気圧され、藤は包装のリボンに指をかける。どういうわけか、物吉までこちらを凝視しており、やりにくいことこの上ない。
二対の視線を集めながら、しゅるしゅるとリボンを解く。果たして袋の中から現れたのは――紫の花をあしらった髪飾りだった。添えられた房飾りとあわせて、どちらかというと和風の小物なのだろうとは、装飾品に疎い藤にも分かる。
彼女はそれを目にして、目を大きく見開いた。ああ、と思わず声が漏れる。記憶が一気に、就任直後の春へと戻っていく。
今手の上にあるものは、万屋の商店街に初めて行ったときに見つけた、自分好みの髪飾りと同じ形のもの。
同時に――そんなもの似合わないと他人に譲った、忘れようとしたもの。
「……あるじさまが、欲しかった品と、同じかは分からないですけど、でも」
それを、この少年はわざわざ見つけてきたということか。歌仙から話を聞いて、それだけでは曖昧な手がかりだったろうに、一縷の望みを託して選んだというのか。
「あるじさまは、きっと、紫色が似合うと思ったんです」
瞳と同じ紫色は、似合うだろうと彼は言う。その言葉をどう受け止めていいか、分からない。
驚きとも違う、悲しいとも苦しいとも違う。
ただ、分からないのだ。頭を一度に真っ白に塗りつぶしていくようなこの感情を表す言葉が、見つからない。
「おや、本当に見つけてきたんだね」
「は、はい。見つけて、きました。これが、あるじさまが譲ったと歌仙さんが話していたものでしょうか?」
「ああ、そうだよ。色は違うけど、これと全く同じ物だった」
歌仙のお墨付きも貰って、五虎退の中で張り詰めていた緊張が解ける。今度は期待の混じった目線で、少年の金色の目が主を見つめていた。
「あり……がとう。驚いたよ。何も話してないのに」
だから、その期待に応えなければならないと、藤は笑うことを選ぶ。いつも通りだ。実際欲しかったのは事実だろうと、心の内側で己がせっつく。
「ぼ、僕だけの手柄じゃないんです。物吉さんも手伝ってくれました。それに、あの人も」
「あの人?」
「この前、あるじさまが演練で会った女の子です」
五虎退の言葉を聞き、藤は二ヶ月近く前の記憶を掘り起こす。演練の最中に竜巻のように現れた彼女のことは、その時口にされた言葉も含めて、そうそう簡単に忘れられるものではない。
「その人が、なんだか不思議な力で、見つけてくれたんです。あ、あと、あるじさまに、あの時は演練を邪魔してごめんなさいって」
不意に伝えられた一方的な詫びの言葉に、藤はどう返していいか悩んでしまった。彼女にとっては、演練の中断よりも優先すべき事項が突然頭に入り込んできたので、正直彼女の態度の善し悪しについては、歯牙にかけてすらいなかったからだ。
ひとまずの返事として、藤は五虎退に一度頷きかけるだけに留めておいた。
「ともかく、五虎退。見つけてくれてありがとう。大事にするね」
「はい! あるじさまのお役に立てて……嬉しい、です」
五虎退のはち切れんばかりの笑顔を見つめていると、未だ波立つ心を隠しておいてよかったと、藤は確信を持つことができた。
繊細な作りの髪飾りをそっと包みの中に戻し、いよいよ最後にと、彼女は歌仙に向き直る。
「歌仙の贈り物は、実はさっきの鶏鍋だったりして」
「まさか。きみは、僕がそんな風流さに欠けるものを用意するとでも、思っているのかい。だとしたら、きみに雅のなんたるかを教えなければいけなくなるね」
「思ってないよ、そんなこと。でも、歌仙は僕の好きな食べ物とかは、見抜いてるんじゃないかって」
「それはそうだけれどもね。だからといって、料理一つで済ませるつもりはないよ。僕が用意したものは少し大きいんだ。ちょっと待っていてくれるかな」
一言断りを入れてから、歌仙は席を立った。
程なくして彼が再び顔を見せたとき、彼の両掌の上には細長い筒のような物体があった。そこには、何重にも布が巻き付けてある。
「主に似合いの反物を、見つけてきたんだよ。これぞという呉服屋を見つけるのに手間取ってね。何度も万屋に行くことになってしまったんだ」
「あ、だから、最近遅くまで出かけていたんですね」
髪飾りを買いに行こうと誘おうとしたのに、なかなか出会えなかったことを五虎退は思い出す。歌仙が主に渡す贈り物を吟味するためだというなら、なるほど納得できるというものだ。
「僕に似合う反物なんてあったの?」
「ああ、勿論。目利きには自信があると前にも言っただろう」
歌仙が筒に巻き付けていた布を広げると、その場に淡い藤色が広がった。所々に小さく秋の草花があしらわれており、生地も然程厚いものではない。
「本来は初夏や初秋に向けての布だそうだ。少し季節外れにはなってしまうけれど、これから仕立ててれば十分間に合うだろう」
「…………でも、着物って着る機会あるかな」
「機会はなければ作るものだよ。出かける時でも、何なら本丸にいる時でも構わない。家で着物を着てはいけないという習わしはないのだからね」
「なんなら、アタシと舞う時とかどうだい。その方が見栄えも良くなるってもんだろう」
次郎にぐいぐいと迫られ、藤はこくこくと頷く。歌仙から渡された反物を見つめ、それから慎重に撫でる。
この生地から生まれる着物は、さぞ美しいだろう。ただ、自分がそれを纏うのに相応しいのかどうかというと、素直に肯定はできない。
無論、そんな感情はすぐさま蓋をして、藤はにこりと笑って歌仙に反物を返した。
「えっと、これで全部だよね。じゃあ、物吉が用意してくれたケーキを食べようか」
「お腹がいっぱいになってるんじゃないかと思ったのに、君は全くブレないね」
歌仙は呆れたような口調で言ったものの、主が自ら何か食べたいと言い出したことに、内心でホッとしていた。
彼女が積極的に食べたいものがあると要望を口にすることが、最近めっきり無くなっていたからだ。出会ったときから、あれだけ歌仙の料理を楽しみにしていた彼女が、である。
「歌仙は、その布が汚れないように仕舞っておいて。もう少し暖かくなったら……着物を作りに行くの、手伝ってくれる?」
「勿論。喜んで引き受けよう」
くるくると反物を丸めて、歌仙は一度居間から出る。続けて物吉も、ケーキを取り出すためと彼の後を続いた。
程なくして戻ってきた物吉が持ってきたのは、多様な甘味に明るい藤から見れば、スタンダードでシンプルな苺のショートケーキだった。彼の宣言通り、箱の中にはワンホール分が綺麗に収まっている。
「色んなけえきがあったんですが、白と赤がとっても綺麗だったのでこれにしました! まるで、雪が降ったみたいですよね」
「……すごいです。小さなお人形が、置いてあります」
「これはメレンゲでできているから、食べられるんだよ」
「食べちゃうんです、か!?」
藤の言葉に、五虎退が目を丸くする。何だか可哀想、と涙目になる彼の姿が妙におかしくて、藤は思わずくすりと微笑んだ。
箱から取り出されたホールケーキは、そのまま歌仙が持ってきてくれた大皿に移し替えられる。切り分けはケーキの扱いに慣れている藤が行い、六つに切り分けられたケーキが小皿に一つ一つ置かれていった。
「主様がお好きな味だと良いのですが」
「僕は甘いもの、どれも好きなんだ。だから、どんなケーキでも大丈夫だよ」
藤は物吉を安心させようと柔らかい微笑を見せてから、白と赤が織りなす甘味へとフォークを突き立てる。スポンジ部分の柔らかさに懐かしさを覚えながらも口に運び、下に広がる生クリームの甘さに舌鼓を打つ――つもりだった。
(――あれ)
甘いものは好きだと自分でも分かっていた。だから、これこそは美味しいと思えるだろうと予想していた。
なのに、どういうわけだろう。舌は甘みを伝えているのに、それが美味だと思う感覚と繋がってくれない。
鶏鍋のときと同じだ。味覚自体は機能している。だけども、感じとった旨みを、感情を動かすものへと体が変換してくれない。
「主様、どうかしましたか」
感覚が齎す奇妙なズレは、思わず藤の手を止めてしまっていた。
気がつくと、隣に座ってこちらを覗き込むようにしている物吉の瞳と目が合った。咄嗟に、最早反射的に作れるようになった笑顔の仮面を、顔に被せる。
「何でもないよ。久しぶりだったから、少しびっくりしたんだ」
「主様は、よくこれを食べていたんですか?」
「よくってほどじゃないけど、お祝い事とかあったときとかなら」
「じゃあ、これから主様に幸せなことがあったら、けえきを用意しますね」
屈託のない笑顔を浮かべている物吉に、これで良かったのだと藤は内心で胸を撫で下ろした。
贈り主である物吉が喜んでくれたなら、それに越したことはない。自分が美味しいと思えるかどうかなどというのは、二の次の事項だ。
「不思議な味だね。練り切りとはまた違う甘みがする。お茶と合わせても、悪くはない」
歌仙の言葉に、藤は顔を上げて残りの面々の様子を見つめた。ケーキを頬張っている五虎退の姿は、さながら小動物のように愛らしい。
歌仙は、自分が入れた日本茶と一緒にケーキを食べているようだ。食べ合わせとしてどうなのだろうと思いつつも、少し苦みがあるお茶との組み合わせを、彼は彼で存分に楽しんでいるようだ。
「うんうん。アタシもこの、けえきとやらを気に入ったよ。髭切、アンタはどうだい?」
「凄く美味しいね。甘くてふわふわしている。上に置かれている赤い果実と合わせると、味がまた変わるんだね」
皆が美味しそうにケーキを食べている。自分には分からなくなっている『美味しい』というものを感じている。そこに奇妙なズレは存在しているのに、彼女は笑顔を揺るがせず、ケーキを味わっているふりをした。
等分に切られたケーキは、刀剣男士らに笑顔を、藤に歪なちぐはぐを齎す代わりに、あっという間になくなってしまった。
***
楽しい時というものは、瞬く間に過ぎていく。クリスマスパーティも、終わってしまえばなんて事のない日常の一つに押し流されていく。
その日の夜、藤は皆の贈り物を抱えて部屋に戻った。
まず、次郎がくれた扇子は、付属していた扇子立てに置いて、タンスの上に飾っておく。殺風景な部屋に、そこだけまるで一足早く春が訪れたかのようだった。
続いて、彼女は髭切から貰った花の種と大根の種を、机に載せる。春の花を植えるには時期尚早だろうが、貰った種の全てが咲いたら、きっと見事な花畑ができあがることだろう。
種の側に並べて置いたのは、五虎退の髪飾りが入った袋だ。
「……折角くれたんだから、つけないとね」
デザインが気に入らないわけではない。元々買おうか悩んでいたくらいなのだから、そこの部分は問題では無かった。
ただ、彼女には髪飾り一つつけるだけでも躊躇してしまう理由があった。
刀剣男士の誰一人とて知らないが故に、指摘していないことだったが、彼女は一般的な同年代の女子が当然のように求める服飾品を買おうともせず、化粧も今まで一度も彼らの前でしていなかった。
装飾品を身につけること。好きな衣類を求めて街に繰り出したり、端末を使ってネットワークの海を彷徨ったりすること。あるいは、装いに合わせてメイクを施すこと。服に似合う靴を選ぶこと。
その全てを、彼女は一切行っていない。
纏う服は実家から持ってきた古着の着回しばかりだし、化粧道具も最低限身だしなみを整える程度のものであり、それも埃を被ってしまっている。靴だって、歩きやすいスニーカーを数足置いているだけであり、とてもお洒落な代物とは言えない。
別に着飾ることが『悪』と思っているわけでも、面倒だと投げ出しているわけでもない。好きだと思う衣類の一つや二つ、着飾って気持ちを高揚させたいという欲の三つや四つ、彼女の中にだってある。
「でも、似合わないよ」
理由は、ただそれだけだ。
五虎退は主の瞳によく似合うと言ってくれたものの、一人でこうしていると、どうしてもそのような感情が浮かび上がる。
「髪も短いし、男の子みたいな格好の方がまだましだっていうのに」
それでも、もしかしたら、と思う。
同時に馬鹿なことを言うな、と心の奥で誰かが嘲笑う。
――男の子みたいな体してるんだから、いっそ男装でもした方が似合うわよ。
そんな声が記憶の奥底から聞こえ、藤は反射的に引き出しを開いて髪飾りを入れ、勢いよく閉めた。
「――――っ」
少し乱れた息を深呼吸を挟んで整え、藤はずるずるとその場に座り込んだ。歌仙が贈ってくれた反物に、思いを馳せる余裕すらなかった。
彼らの思いは嬉しかったし、皆で賑やかに談笑し、鍋をつつくのは楽しいと思えた――そこで、彼女の思考にノイズが走る。
「――本当に?」
本当に、楽しかったのだろうか。
本当に楽しいとは、なんだろうか。
笑顔になること? 笑顔なら、ずっと前から浮かべ続けている。
だが、今日は本当に心の底から勝手に笑えていた。そう言いたくても、言えないことに彼女は気がついてしまった。
「あれ、楽しいってなんだっけ……」
歌仙と出会った頃の自分は、もっとこの生活に期待を抱いていたはずだ。そのときの自分は笑っていた。
でも、それは心の底からのものだっただろうか。問いに、答えが見つからない。
ならば、更に昔はどうだっただろうか。
例えば、学生時代に友人としたお喋りの中で笑っていたときは。或いは、養父母と他愛の無い雑談を交わしあっていたときは。他にも、学校の帰り道に寄った喫茶店で、大好きな洋菓子を口にしたときは。
楽しんでいたかもしれないと、思える筈の欠片はあった。
楽しんでいたに違いないと、思えるための確信だけがなかった。
「僕の楽しいは、どこにいっちゃったんだろう」
自分の感情が分からない。
笑顔を浮かべすぎたせいで、何に心躍らせているのかも、はっきりしない。
自分という存在が、どんどんぼけていく。顔に貼り付いた仮面を剥がす術が見つからず、ついには仮面の下の顔すらも見えなくなってしまっている。
そのことに、気がついてしまった。けれども、どうすればいいかも分からない。
「今日は、楽しかったんだ。皆、僕のために色々考えてプレゼントを贈ってくれた。だから、今日は楽しい日だったんだ」
そういうことにしよう。
そういうことに、してしまおう。
自分の記憶という絵の上に、藤は感情という名のインクをぶちまける。楽しいという文字だけで、思い出を塗りつぶしていく。
そうして感情に折り合いをつけたはずなのに、どういうわけだろうか、喉の奥にはまるで玉が詰まったかのような違和感だけが残っていた。
全てを見なかったふりで流すために、彼女は布団の中に潜り込んで、気絶するように眠りの世界に逃げ込んだのだった。