短編置き場
「あいたーっ!」
早朝、どんな目覚ましよりも髭切の目を覚まさせる声が、朝の鍛錬を終えたばかりの彼の鼓膜を揺さぶった。おかげで、瞼の上を滞空していた眠気も、あっという間に退散してしまったようだ。
絶叫というほどでもない、どこか間の抜けた声なのが主らしいといえば主らしいだろうか。
一体何があったのかと思い、髭切は道着のまま、件の主の部屋へと向かう。本丸内の外側を沿うように廊下を歩き、冬の外気で冷えた床板の冷たさを感じながら、彼は一分もしない内に主の部屋の前に辿り着いた。
襖の柱をノックする必要はない。何故なら、この季節であるにも関わらず、彼女の部屋の襖は開け放たれていたからである。部屋の真ん中付近で茶色の紙箱を前にして、彼の主はしゃがみこんでいた。
「主、大丈夫?」
髭切の声に気がついて、彼女が振り返る。
彼にとっても、この本丸の刀剣男士にとっても主となる彼女――藤は、しかし審神者という仰々しい肩書きに似つかわしくないそそっかしさも兼ね備えている。
先ほどの悲鳴も、棚の上から何か落ちてきたからか、はたまた布団から頭を下に滑り落ちでもしたのか。そんなことを思いつつ、髭切は部屋の中へと足を踏み入れた。
「ああ、髭切。力入れすぎて、指を切っちゃった」
「ありゃ。指を切り落としたのかい?」
流石にそれは大変だ、と落ちた指先がないかと髭切は畳へと視線を落とす。だが、それらしいものは見当たらない。
どうしたものかと主を見直すと、彼女の方がきょとんとした顔でこちらを見ていた。
「切り落としてはいないよ。指の腹をちょこっと切っちゃっただけ。切り落としてたら、今頃ここは血の海になってるって。髭切は大袈裟だなあ」
言いつつ、彼女はちり紙で抑えられていた指先を、ほら、と髭切に見せる。
そこには、まるでごま粒のような大きさの傷があった。じんわりと血が滲んでいる所から察するに、ただ引っ掻いたりぶつけたりしたわけではないのだろう。
「これ、何で切ったの? 紙とかかな」
「ううん。カッター」
彼女は、畳の上に転がっている薄い刃物を髭切に見せる。
カッターなるものが、紙を切ったり箱を開けたりするために使われる刃物だということは、髭切も流石に知っていた。
「起き抜けに刃物を使うものじゃないね。びっくりして目が覚めちゃったよ」
「でも、指が落ちたわけじゃなくてよかったね」
畳に放り出されていたカッターを拾い上げ、髭切はかちかちと音を立てて刃をしまう。
無害になった薄い刃のそれに、彼はじっと視線を落とした。その視線は、普段の穏やかなものとは違う、言い知れない剣呑さが潜んでいた。
彼女が大怪我をしたわけではないことには、ほっとした。それと同時に、今度はなんとも言えないむかつきのようなものが、彼の胸中に芽生え始めていたのだ。
主が刃物で、怪我をした。
主の肌を、自分以外の刃が傷を入れた。
その事実がどういうわけか、髭切の中に形容し難い苛立ちを育てていく。
「これぐらいなら、唾をつけておけばすぐ治るから、安心して。でも、念のために絆創膏貼っておこうかな」
彼女はそう言って立ち上がりかけたが、間髪入れず髭切は手を伸ばして主の腕を掴んだ。
「主、ちょっと指、見せて」
彼女がいいよ、と言うより先に、髭切は主の手をとる。
止血は既に終えた後なのだろう。小さな傷から流れ出る血は、ほとんど止まっていると言ってよかった。
白い肌と滲んだ血が混じり合った指先に、彼は迷うこと無く己の薄い唇を触れさせる。
「えっ」
どうしたの、と彼女が口にするより早く、彼の開いた口が彼女の指先を咥え込んだ。突如指先に襲いかかった暖かな濡れた感触に驚いたのか、悲鳴のようなものが主の口から漏れる。
聞こえなかったふりをして、彼は指先を離すことなく、舌を彼女の指に這わせた。血液に混じる独特の鉄のような味が、ほんの少しとはいえ彼の口の中へと広がっていく。
構うことなく舌先で傷をなぞると、彼女の指がピクリと震えた。
痛かったのだろうか。それとも、何か別の感覚に襲われたのか。
どちらにせよ、気に食わない。
彼女の反応が、ではない。彼女の皮膚の上に残る傷が、自分がつけたものではないということが――だ。
人の身ならば決して感じ得ない、刀としての嫉妬が髭切を突き動かしていく。普段は意識しないようにしている感情が、彼に囁きかける。
自分も傷をつければいい。
こんな薄っぺらな粗末な刃よりも深く。
躊躇は、ほんの一瞬。
主が何か言うより先に、彼女の柔らかな指先に尖った彼の歯がじわりと食い込んだ。
この白い肌を裂く傷跡を、残したい。
あのような、何とも知れぬ名もなき刃などに、くれてやるものか。自分という存在そのもので、彼女に深く痕を刻み込みたい――。
「いたっ、髭切、痛いっ」
為すがままになっていた彼女の悲鳴を耳にして、髭切はハッとする。
見れば、困ったような顔でこちらを見つめている主と目が合った。痛みのせいか、少し顔が赤くなっているような気がする。
「本当に、唾つけなくてもいいからっ」
どうやら、彼女は自分が先ほど言ったことを実践されただけと、勘違いしてくれたらしい。
咥えていた指を唇から離すと、自分の唾液で濡れた主の指先――そこに点々と残る己の歯形が、彼の瞳に映った。
余程、力を込めてしまったのだろう。赤い痣のようになってしまっているのを目の当たりにすると、流石に嫉妬がどうこうという考えは、一旦脇に追いやられてしまった。
「勢い余って噛んじゃったみたいだ。ごめんね、主」
「治すために怪我を増やしてどうするの。その、心配してくれるのは、嬉しいけど」
今度こそ立ち上がった彼女は、申し訳なさそうにうなだれている髭切の頭を撫でて、救急箱を取りに向かう。自分の背中を追う視線に気がつくことなく、中身を取り出して指先を改めて見た彼女は、思わず「あれ」と声を漏らした。
そこにあったはずの切り傷はどこにもなく、彼が勢い余ってつけたという、小さな鬱血した噛み跡だけがぐるりと残っていたからだ。
「髭切の歯形と、同じ傷の形だったっけ」
首を傾げてみても、傷の形など思い出せるわけもない。
まあいいか、と開き直って彼女は塗り薬をつけてから絆創膏を傷跡の上に貼り付けようとして、一度手を止める。
(……何だか、指輪みたいだ)
ぐるりと指を一巡りするようにつけられた、赤い指輪。
そんな風に、見えないこともない。
そのように思いながら、彼女はぺたりと絆創膏で噛み痕を覆った。
「隠しちゃうの?」
部屋にいる彼に問われ、藤は数度ぱちぱちと目を瞬かせた後、こくりと頷いた。髭切は軽く目を伏せ、どことも知れぬ所へ目をやりんがら、
「……そう」
と、小さく呟いた。
***
その日一日中、髭切は気が付けば彼女の指先を目で追っていた。朝ご飯を食べているとき、自室で書類と奮闘しているとき、畑の様子を見に行っているとき。
彼女を見かけるたび、視線は絆創膏で覆われた彼女の指を見つめている。否、見つめていたかったのはその下に刻まれた自分の噛み跡だったのだろう。
「……怒られちゃうよねえ、こんなこと言ったら」
欲を言うならば、主にもっと跡をつけたい。そんなことを言い出したら、彼女は首を横に振るに決まっている。
痛みに対して、人間が恐怖を覚えるのは当然だ。それがひいては生存に繋がるのだから――などと小難しいことを考えずとも、髭切だって感覚で理解していた。
あのように薄い刃物で指先を斬っただけでも、あんな大声で叫ぶのだから。少し噛みついただけでも、痛いと悲鳴をあげるのだから。
──髭切(ほんたい)で傷をつけたいなどと申し出たら、どうなるか。
(どうかしちゃったのかなあ、僕は。主が元気そうにしていて、僕のことを他の刀とは別の形で好いてくれているだけでよかったのに。恋ってそういうふわふわして、ちょっと必死になって、それでいて暖かいものじゃないのかな)
最近は彼女もこちらを意識してくれているようで、髭切を見ては頬を染め、嬉しそうにはにかんでくれる。特別なその笑顔だけで、満たされていると彼は思っていた。
しかし、今朝彼女がカッターで指を切ったと話したとき、得体の知れない薄黒い感情が一息の間に湧き出そうになってしまったのだ。
あの瞬間はただ噛みつくだけで済んだが、もし自分の手元に刀があったなら、いったい何をしていただろうか。
「……僕は、加護を与える側なのに。これじゃ、厄災を与える刀になってしまうよ」
深呼吸を、一つ。それで黒々とした感情が消えてくれるわけではないが、少しだけ落ち着けた。縁側に腰掛けている彼の目線の先には、畑仕事をしている和泉守と何やら興奮して捲し立てている主がいる。
以前よりは、彼女が自分以外のものに目を向けていたとしても苛立ちを覚えなくなったが、これから先もそうだと今の髭切には言い切れなかった。
そんな未来を想像すると、今度はため息が口から零れ出てしまう。
「兄者、どうしたのだ。ため息など」
ふと隣に気配を感じ、髭切は顔を上げた。見れば、そこには弟の膝丸が猫を抱いて立っていた。にゃあ、と暢気に鳴いているのは、庭によく遊びに来る三毛猫だ。
「大したことじゃないよ。お前はどうしたの? その子は?」
「ああ。洗濯物にじゃれついていたから、回収してきた。最近はどうもこの本丸を遊び場と勘違いしているようで、何とかせねばと思っているのだが」
「主が可愛がっているものねえ」
ほれほれと指先を動かすと、膝丸の腕の中から飛び出した三毛猫が、髭切の膝の上に着地する。縁側に腰掛け続けていて、温まっていたのだろうか。嬉しそうに丸くなっていた。
「この猫は、主の心を掌握する術に長けているようだな。主が怒ると、さも反省しているといった風にすり寄ってくる」
「お前も、それに懐柔されてしまったんだろう?」
「いや、そんなことは……ない、はずだ」
以前、畑仕事の折にやってきた三毛猫を、膝丸が何分も撫で回していたのを髭切は見ていた。どうやら、この猫は人たらしだけでなく刀たらしでもあるようだ。
(主の心を掌握する、ねえ)
そんな言われ方をされると、再び髭切の内側にもやもやとした気持ちが生まれてくる。たかが畜生一匹に、こんな攻撃的な感情を向けるなどとは、源氏の重宝の名が泣くというものだと分かっているのに。
「兄者、俺の勘違いならよいのだが……何か、悩んでいるのではないか」
「え?」
「朝からどうにも、気落ちしているように見えていたのだ」
「……お前は、本当に目聡いね」
兄者のことだからな、と膝丸は真面目くさった顔で答える。兄弟刀の縁というものだろうか。こんなときに察しなくてもと、髭切は眉尻を下げて、困ったように笑ってみせた。
「俺でよければ、相談にはのろう。無論、兄者が望むのならば、だが」
「ううん……そうだねえ。じゃあ、例えばだけど」
髭切は、今も和泉守と話をしている藤へと目をやり、慎重に言葉を選ぶ。
「ある物があったとして、それを僕の物だって主張したいときは、どうすればいいのかな」
まさか、主に刀で跡を刻んでみたくなったとは言えずに、髭切は無難な質問を膝丸へと投げかける。膝丸は数度目を瞬かせた後、
「さては、兄者。また冷蔵庫に保管していた甘味を、別の者に取られてしまったのだな。名前を書いておかねば、掠め取られてしまっても已む無しと以前伝えただろう」
どうやらお菓子についての問題と勘違いしてくれたようで、彼は苦笑い交じりの意見を述べた。
膝丸の回答を聞き、髭切はふむ、と顎先に手を当てる。
「名前、名前かあ……」
主に己の所有物である証を刻むのなら、なるほど、名前というのは効果的なのだろう。だが、髭切にとって名前という存在は、あまりに曖昧模糊としたものだった。
もとより、名を変え続けてきた刀だ。今でこそ主に願われ、自分でもそうあれかしと望んだ結果『髭切』と名乗っているものの、この時代において刀剣男士の『髭切』は色々な本丸にいる。ただの名前という記号に、そこまで強い意味を見いだすことは、髭切には難しかった。
それに、名前を主に刻むとなると、やはり体に跡を残すことになってしまう。傷跡ではすぐに治ってしまうし、主も嫌がるだろう。自分だって、痛がる主は見たくない。
「名前を書けるものじゃ、ないんだよねえ」
「そうなのか? ならば、自分のものと分かるような証をぶら下げておくのも、良いかもしれぬ。丁度、この猫のように」
ごろんと仰向けになっている猫の首には、小さな革の首輪が結ばれていた。主曰く、首に輪っかをつけている生き物は、飼い主という役割の人間の元で、庇護されているのだそうだ。その証明として、首輪があるらしい。
「自分のものと分かる証……それはいいかもね。僕の気を混ぜておこうかな」
刀剣男士は、刀の付喪神である。そのため、八百万の古き神々には遠く及ばずとも、多少なりとも加護を与え、魔を祓う程度の力は持っていた。
その力の一部を込めて作ったものは、お守りや魔除けとしても機能するだろうと髭切は思う。加護を施す刀としても、申し分のない贈り物となるだろう。
「何につけておくのかは分からぬが、生き物には我らの気を不用意に与えぬようにな」
「どうして?」
「忘れたのか、兄者。以前、刀剣男士の気を入れたことで、ひどく体調を崩したと話していた御仁がいたではないか」
膝丸に言われて、髭切は半年ほど前のやりとりを思い出す。
「そういうこともあったねえ。でも、あれは事情があったからで」
「そのような事情がなかったとしても、強すぎる神の気は毒にもなる。俺はその身で実感させられたから言うが、あれは人間の場合ならきつすぎる酒のようなものだ。あるいは、薬とも言えるだろうか。最近は人を酷く酩酊させ、前後不覚に陥らせるあやかしのような薬もあると聞く。兄者なら、間違いを犯すような真似はしないだろうが、十分気をつけてくれ」
滔々と注意を述べるのは、自分が後悔しないようにという気持ちからなのだろうと、髭切は思う。或いは、聡い弟は兄が誰に何をしようとしているのか、薄ら感づいているのかもしれない。
それを止めない相手に――立場上止められない相手に質問している時点で、自分も意地が悪い。
「分かっているよ。ほんの少しだけだから。お前は心配性だね」
結局、誰のことを話題にしているかは言わずじまいのまま、髭切は猫を膝丸に渡してその場を後にした。
***
神の気をこめれば、それは即ち加護になる。主の藤には、既に近所の神社で授かったお守りや、実家の神社で彼女の義父が祈祷したお守りがある。更に、裏山にある小さな分社から直々に受けたお守りは、彼女専属の加護を与えていると言っても過言ではないだろう。
だが、髭切が求めるのは単なるボディガードの意味を持つ加護ではない。自分が施した加護を――自分の気を、彼女に身につけておきたいと願っていたが故のものだった。
「主。ちょっといいかい」
その日の夜、主の部屋に顔を出すと彼女は少し疲れた顔でこちらに向き直った。どうやら、朝から晩まではしゃぎ回って既に眠たいようだ。
「どうしたの、髭切。そういえば、今日は何だか落ち込んでいるみたいだったけど、朝のことを気にしていたの? 怒ってないから、大丈夫だよ」
主にも、自分の様子が変であると気付かれていたらしい。つくづく自分は隠すのが下手らしいと、髭切は内心で自嘲する。
「うーん、それも少しあるかな。お詫びではないんだけど、主に渡したいものがあって」
「僕に?」
彼女の腕を取り、その手に載せたのは糸をより合わせて作った小さな輪っかだった。髭切の髪の毛に似た鳥の子色の糸に、白と黒がより合わさっていて、見るからに髭切を意識して作られたものとすぐ分かる。
「これ、髭切が作ったの?」
「うん。僕は、主に加護を与える刀だから。お守りになるかなって思ったんだ」
「ありがとう、髭切。髭切の加護なら、きっとどんな病気も厄災もへっちゃらだね」
「どういたしまして」
彼女は暫く悩んだ後、右腕に輪っかを巻き付けた。片手で縛りづらそうにしているのを見かねて、髭切が結ぶのを手伝う。
だが、主の手首に触れた瞬間、髭切の指が不自然に固まった。熱を帯びた血管の脈動が、手袋越しにも彼の指に伝わる。どくんと熱を持ち、命を動かし続ける鼓動に、彼の奥底で眠っていた黒いものがざわめいた。
「……髭切?」
ここの血管を裂けば、彼女の血を存分に浴びられるのではないか。
あるいは、もっと簡単な方法がある。ちらと目線を下にやれば、きょとんとした顔でこちらを見つめている藤がいた。あの細い首か、その下の薄い胸を切り裂けば。
彼女の心臓に刃を突き立て、最後の鼓動が果てるまで感じてみたい。鋼でできた己を飲み込ませ、消えない傷を穿ってみたい。己の一部を、彼女の体に染みこませることができるのなら、それはどれほどまでに好いものだろう――。
「髭切、どうしたの。ぼうっとして」
ゆさゆさと藤に体を揺さぶられ、髭切ははっとする。ぱちぱちと慌てて瞬きを繰り返し、困惑した表情を露わにした藤を見つめた。彼の手は、藤の手首に紐を宛がったまま固まっていた。
「……ちょっと疲れてるのかも。ねえ、主」
手早く紐を結び、すかさず彼女を抱き寄せる。わあっという藤の叫びは、今の髭切は聞かなかったことにした。
肌越しに伝わる鼓動の音、暖かい熱、それら全てを全身で感じて、嫌な想像を全て奥へと押し込み直す。自分はこの温もりを守りたいのだと、改めて己に誓うために。
「主は、温かいねえ」
「もしかして、寒かったの?」
「……うん。すっごく、寒かったんだ」
彼女を傷つけてしまう自分を、想像してしまったことが。
それが、ただの悪い夢だと言い張れない自分がいることが。
ならば遠ざけてしまえばいいのに、そんなことはもうできなかった。つくづく身勝手で我が儘だと思えど、この気持ちだけは変わってくれそうにない。
「じゃあ、今日は膝丸と一緒に寝ればいいよ。二人の方が暖かいよ」
「主も、来てくれる?」
思わず、腕に力を込める。彼女の熱を直で感じ続けていなければ、もう一人の自分が恐ろしいことをしでかしてしまう想像ばかりよぎってしまった。
彼の腕の中、藤はこくりと首を縦に振る。大方、悪い夢でも見たのだろう――彼女は、髭切の不安をそのように解釈していた。
「久しぶりに川の字で寝るね。楽しみだなあ」
無邪気に笑う藤に、髭切も微笑みかける。彼の笑顔は、まだ自分でも上手く取り繕えただろうと思えたものだった。
その日の夜。約束通り川の字になって寝た彼は、夢を見ることも無く朝を迎えた。
一晩中感じていた鼓動と彼女の側にいるという安らぎ、何より彼女の腕に巻かれた自分の証のおかげで、薄暗い感情はすっかり収まっていた。
――少なくとも、今は。
早朝、どんな目覚ましよりも髭切の目を覚まさせる声が、朝の鍛錬を終えたばかりの彼の鼓膜を揺さぶった。おかげで、瞼の上を滞空していた眠気も、あっという間に退散してしまったようだ。
絶叫というほどでもない、どこか間の抜けた声なのが主らしいといえば主らしいだろうか。
一体何があったのかと思い、髭切は道着のまま、件の主の部屋へと向かう。本丸内の外側を沿うように廊下を歩き、冬の外気で冷えた床板の冷たさを感じながら、彼は一分もしない内に主の部屋の前に辿り着いた。
襖の柱をノックする必要はない。何故なら、この季節であるにも関わらず、彼女の部屋の襖は開け放たれていたからである。部屋の真ん中付近で茶色の紙箱を前にして、彼の主はしゃがみこんでいた。
「主、大丈夫?」
髭切の声に気がついて、彼女が振り返る。
彼にとっても、この本丸の刀剣男士にとっても主となる彼女――藤は、しかし審神者という仰々しい肩書きに似つかわしくないそそっかしさも兼ね備えている。
先ほどの悲鳴も、棚の上から何か落ちてきたからか、はたまた布団から頭を下に滑り落ちでもしたのか。そんなことを思いつつ、髭切は部屋の中へと足を踏み入れた。
「ああ、髭切。力入れすぎて、指を切っちゃった」
「ありゃ。指を切り落としたのかい?」
流石にそれは大変だ、と落ちた指先がないかと髭切は畳へと視線を落とす。だが、それらしいものは見当たらない。
どうしたものかと主を見直すと、彼女の方がきょとんとした顔でこちらを見ていた。
「切り落としてはいないよ。指の腹をちょこっと切っちゃっただけ。切り落としてたら、今頃ここは血の海になってるって。髭切は大袈裟だなあ」
言いつつ、彼女はちり紙で抑えられていた指先を、ほら、と髭切に見せる。
そこには、まるでごま粒のような大きさの傷があった。じんわりと血が滲んでいる所から察するに、ただ引っ掻いたりぶつけたりしたわけではないのだろう。
「これ、何で切ったの? 紙とかかな」
「ううん。カッター」
彼女は、畳の上に転がっている薄い刃物を髭切に見せる。
カッターなるものが、紙を切ったり箱を開けたりするために使われる刃物だということは、髭切も流石に知っていた。
「起き抜けに刃物を使うものじゃないね。びっくりして目が覚めちゃったよ」
「でも、指が落ちたわけじゃなくてよかったね」
畳に放り出されていたカッターを拾い上げ、髭切はかちかちと音を立てて刃をしまう。
無害になった薄い刃のそれに、彼はじっと視線を落とした。その視線は、普段の穏やかなものとは違う、言い知れない剣呑さが潜んでいた。
彼女が大怪我をしたわけではないことには、ほっとした。それと同時に、今度はなんとも言えないむかつきのようなものが、彼の胸中に芽生え始めていたのだ。
主が刃物で、怪我をした。
主の肌を、自分以外の刃が傷を入れた。
その事実がどういうわけか、髭切の中に形容し難い苛立ちを育てていく。
「これぐらいなら、唾をつけておけばすぐ治るから、安心して。でも、念のために絆創膏貼っておこうかな」
彼女はそう言って立ち上がりかけたが、間髪入れず髭切は手を伸ばして主の腕を掴んだ。
「主、ちょっと指、見せて」
彼女がいいよ、と言うより先に、髭切は主の手をとる。
止血は既に終えた後なのだろう。小さな傷から流れ出る血は、ほとんど止まっていると言ってよかった。
白い肌と滲んだ血が混じり合った指先に、彼は迷うこと無く己の薄い唇を触れさせる。
「えっ」
どうしたの、と彼女が口にするより早く、彼の開いた口が彼女の指先を咥え込んだ。突如指先に襲いかかった暖かな濡れた感触に驚いたのか、悲鳴のようなものが主の口から漏れる。
聞こえなかったふりをして、彼は指先を離すことなく、舌を彼女の指に這わせた。血液に混じる独特の鉄のような味が、ほんの少しとはいえ彼の口の中へと広がっていく。
構うことなく舌先で傷をなぞると、彼女の指がピクリと震えた。
痛かったのだろうか。それとも、何か別の感覚に襲われたのか。
どちらにせよ、気に食わない。
彼女の反応が、ではない。彼女の皮膚の上に残る傷が、自分がつけたものではないということが――だ。
人の身ならば決して感じ得ない、刀としての嫉妬が髭切を突き動かしていく。普段は意識しないようにしている感情が、彼に囁きかける。
自分も傷をつければいい。
こんな薄っぺらな粗末な刃よりも深く。
躊躇は、ほんの一瞬。
主が何か言うより先に、彼女の柔らかな指先に尖った彼の歯がじわりと食い込んだ。
この白い肌を裂く傷跡を、残したい。
あのような、何とも知れぬ名もなき刃などに、くれてやるものか。自分という存在そのもので、彼女に深く痕を刻み込みたい――。
「いたっ、髭切、痛いっ」
為すがままになっていた彼女の悲鳴を耳にして、髭切はハッとする。
見れば、困ったような顔でこちらを見つめている主と目が合った。痛みのせいか、少し顔が赤くなっているような気がする。
「本当に、唾つけなくてもいいからっ」
どうやら、彼女は自分が先ほど言ったことを実践されただけと、勘違いしてくれたらしい。
咥えていた指を唇から離すと、自分の唾液で濡れた主の指先――そこに点々と残る己の歯形が、彼の瞳に映った。
余程、力を込めてしまったのだろう。赤い痣のようになってしまっているのを目の当たりにすると、流石に嫉妬がどうこうという考えは、一旦脇に追いやられてしまった。
「勢い余って噛んじゃったみたいだ。ごめんね、主」
「治すために怪我を増やしてどうするの。その、心配してくれるのは、嬉しいけど」
今度こそ立ち上がった彼女は、申し訳なさそうにうなだれている髭切の頭を撫でて、救急箱を取りに向かう。自分の背中を追う視線に気がつくことなく、中身を取り出して指先を改めて見た彼女は、思わず「あれ」と声を漏らした。
そこにあったはずの切り傷はどこにもなく、彼が勢い余ってつけたという、小さな鬱血した噛み跡だけがぐるりと残っていたからだ。
「髭切の歯形と、同じ傷の形だったっけ」
首を傾げてみても、傷の形など思い出せるわけもない。
まあいいか、と開き直って彼女は塗り薬をつけてから絆創膏を傷跡の上に貼り付けようとして、一度手を止める。
(……何だか、指輪みたいだ)
ぐるりと指を一巡りするようにつけられた、赤い指輪。
そんな風に、見えないこともない。
そのように思いながら、彼女はぺたりと絆創膏で噛み痕を覆った。
「隠しちゃうの?」
部屋にいる彼に問われ、藤は数度ぱちぱちと目を瞬かせた後、こくりと頷いた。髭切は軽く目を伏せ、どことも知れぬ所へ目をやりんがら、
「……そう」
と、小さく呟いた。
***
その日一日中、髭切は気が付けば彼女の指先を目で追っていた。朝ご飯を食べているとき、自室で書類と奮闘しているとき、畑の様子を見に行っているとき。
彼女を見かけるたび、視線は絆創膏で覆われた彼女の指を見つめている。否、見つめていたかったのはその下に刻まれた自分の噛み跡だったのだろう。
「……怒られちゃうよねえ、こんなこと言ったら」
欲を言うならば、主にもっと跡をつけたい。そんなことを言い出したら、彼女は首を横に振るに決まっている。
痛みに対して、人間が恐怖を覚えるのは当然だ。それがひいては生存に繋がるのだから――などと小難しいことを考えずとも、髭切だって感覚で理解していた。
あのように薄い刃物で指先を斬っただけでも、あんな大声で叫ぶのだから。少し噛みついただけでも、痛いと悲鳴をあげるのだから。
──髭切(ほんたい)で傷をつけたいなどと申し出たら、どうなるか。
(どうかしちゃったのかなあ、僕は。主が元気そうにしていて、僕のことを他の刀とは別の形で好いてくれているだけでよかったのに。恋ってそういうふわふわして、ちょっと必死になって、それでいて暖かいものじゃないのかな)
最近は彼女もこちらを意識してくれているようで、髭切を見ては頬を染め、嬉しそうにはにかんでくれる。特別なその笑顔だけで、満たされていると彼は思っていた。
しかし、今朝彼女がカッターで指を切ったと話したとき、得体の知れない薄黒い感情が一息の間に湧き出そうになってしまったのだ。
あの瞬間はただ噛みつくだけで済んだが、もし自分の手元に刀があったなら、いったい何をしていただろうか。
「……僕は、加護を与える側なのに。これじゃ、厄災を与える刀になってしまうよ」
深呼吸を、一つ。それで黒々とした感情が消えてくれるわけではないが、少しだけ落ち着けた。縁側に腰掛けている彼の目線の先には、畑仕事をしている和泉守と何やら興奮して捲し立てている主がいる。
以前よりは、彼女が自分以外のものに目を向けていたとしても苛立ちを覚えなくなったが、これから先もそうだと今の髭切には言い切れなかった。
そんな未来を想像すると、今度はため息が口から零れ出てしまう。
「兄者、どうしたのだ。ため息など」
ふと隣に気配を感じ、髭切は顔を上げた。見れば、そこには弟の膝丸が猫を抱いて立っていた。にゃあ、と暢気に鳴いているのは、庭によく遊びに来る三毛猫だ。
「大したことじゃないよ。お前はどうしたの? その子は?」
「ああ。洗濯物にじゃれついていたから、回収してきた。最近はどうもこの本丸を遊び場と勘違いしているようで、何とかせねばと思っているのだが」
「主が可愛がっているものねえ」
ほれほれと指先を動かすと、膝丸の腕の中から飛び出した三毛猫が、髭切の膝の上に着地する。縁側に腰掛け続けていて、温まっていたのだろうか。嬉しそうに丸くなっていた。
「この猫は、主の心を掌握する術に長けているようだな。主が怒ると、さも反省しているといった風にすり寄ってくる」
「お前も、それに懐柔されてしまったんだろう?」
「いや、そんなことは……ない、はずだ」
以前、畑仕事の折にやってきた三毛猫を、膝丸が何分も撫で回していたのを髭切は見ていた。どうやら、この猫は人たらしだけでなく刀たらしでもあるようだ。
(主の心を掌握する、ねえ)
そんな言われ方をされると、再び髭切の内側にもやもやとした気持ちが生まれてくる。たかが畜生一匹に、こんな攻撃的な感情を向けるなどとは、源氏の重宝の名が泣くというものだと分かっているのに。
「兄者、俺の勘違いならよいのだが……何か、悩んでいるのではないか」
「え?」
「朝からどうにも、気落ちしているように見えていたのだ」
「……お前は、本当に目聡いね」
兄者のことだからな、と膝丸は真面目くさった顔で答える。兄弟刀の縁というものだろうか。こんなときに察しなくてもと、髭切は眉尻を下げて、困ったように笑ってみせた。
「俺でよければ、相談にはのろう。無論、兄者が望むのならば、だが」
「ううん……そうだねえ。じゃあ、例えばだけど」
髭切は、今も和泉守と話をしている藤へと目をやり、慎重に言葉を選ぶ。
「ある物があったとして、それを僕の物だって主張したいときは、どうすればいいのかな」
まさか、主に刀で跡を刻んでみたくなったとは言えずに、髭切は無難な質問を膝丸へと投げかける。膝丸は数度目を瞬かせた後、
「さては、兄者。また冷蔵庫に保管していた甘味を、別の者に取られてしまったのだな。名前を書いておかねば、掠め取られてしまっても已む無しと以前伝えただろう」
どうやらお菓子についての問題と勘違いしてくれたようで、彼は苦笑い交じりの意見を述べた。
膝丸の回答を聞き、髭切はふむ、と顎先に手を当てる。
「名前、名前かあ……」
主に己の所有物である証を刻むのなら、なるほど、名前というのは効果的なのだろう。だが、髭切にとって名前という存在は、あまりに曖昧模糊としたものだった。
もとより、名を変え続けてきた刀だ。今でこそ主に願われ、自分でもそうあれかしと望んだ結果『髭切』と名乗っているものの、この時代において刀剣男士の『髭切』は色々な本丸にいる。ただの名前という記号に、そこまで強い意味を見いだすことは、髭切には難しかった。
それに、名前を主に刻むとなると、やはり体に跡を残すことになってしまう。傷跡ではすぐに治ってしまうし、主も嫌がるだろう。自分だって、痛がる主は見たくない。
「名前を書けるものじゃ、ないんだよねえ」
「そうなのか? ならば、自分のものと分かるような証をぶら下げておくのも、良いかもしれぬ。丁度、この猫のように」
ごろんと仰向けになっている猫の首には、小さな革の首輪が結ばれていた。主曰く、首に輪っかをつけている生き物は、飼い主という役割の人間の元で、庇護されているのだそうだ。その証明として、首輪があるらしい。
「自分のものと分かる証……それはいいかもね。僕の気を混ぜておこうかな」
刀剣男士は、刀の付喪神である。そのため、八百万の古き神々には遠く及ばずとも、多少なりとも加護を与え、魔を祓う程度の力は持っていた。
その力の一部を込めて作ったものは、お守りや魔除けとしても機能するだろうと髭切は思う。加護を施す刀としても、申し分のない贈り物となるだろう。
「何につけておくのかは分からぬが、生き物には我らの気を不用意に与えぬようにな」
「どうして?」
「忘れたのか、兄者。以前、刀剣男士の気を入れたことで、ひどく体調を崩したと話していた御仁がいたではないか」
膝丸に言われて、髭切は半年ほど前のやりとりを思い出す。
「そういうこともあったねえ。でも、あれは事情があったからで」
「そのような事情がなかったとしても、強すぎる神の気は毒にもなる。俺はその身で実感させられたから言うが、あれは人間の場合ならきつすぎる酒のようなものだ。あるいは、薬とも言えるだろうか。最近は人を酷く酩酊させ、前後不覚に陥らせるあやかしのような薬もあると聞く。兄者なら、間違いを犯すような真似はしないだろうが、十分気をつけてくれ」
滔々と注意を述べるのは、自分が後悔しないようにという気持ちからなのだろうと、髭切は思う。或いは、聡い弟は兄が誰に何をしようとしているのか、薄ら感づいているのかもしれない。
それを止めない相手に――立場上止められない相手に質問している時点で、自分も意地が悪い。
「分かっているよ。ほんの少しだけだから。お前は心配性だね」
結局、誰のことを話題にしているかは言わずじまいのまま、髭切は猫を膝丸に渡してその場を後にした。
***
神の気をこめれば、それは即ち加護になる。主の藤には、既に近所の神社で授かったお守りや、実家の神社で彼女の義父が祈祷したお守りがある。更に、裏山にある小さな分社から直々に受けたお守りは、彼女専属の加護を与えていると言っても過言ではないだろう。
だが、髭切が求めるのは単なるボディガードの意味を持つ加護ではない。自分が施した加護を――自分の気を、彼女に身につけておきたいと願っていたが故のものだった。
「主。ちょっといいかい」
その日の夜、主の部屋に顔を出すと彼女は少し疲れた顔でこちらに向き直った。どうやら、朝から晩まではしゃぎ回って既に眠たいようだ。
「どうしたの、髭切。そういえば、今日は何だか落ち込んでいるみたいだったけど、朝のことを気にしていたの? 怒ってないから、大丈夫だよ」
主にも、自分の様子が変であると気付かれていたらしい。つくづく自分は隠すのが下手らしいと、髭切は内心で自嘲する。
「うーん、それも少しあるかな。お詫びではないんだけど、主に渡したいものがあって」
「僕に?」
彼女の腕を取り、その手に載せたのは糸をより合わせて作った小さな輪っかだった。髭切の髪の毛に似た鳥の子色の糸に、白と黒がより合わさっていて、見るからに髭切を意識して作られたものとすぐ分かる。
「これ、髭切が作ったの?」
「うん。僕は、主に加護を与える刀だから。お守りになるかなって思ったんだ」
「ありがとう、髭切。髭切の加護なら、きっとどんな病気も厄災もへっちゃらだね」
「どういたしまして」
彼女は暫く悩んだ後、右腕に輪っかを巻き付けた。片手で縛りづらそうにしているのを見かねて、髭切が結ぶのを手伝う。
だが、主の手首に触れた瞬間、髭切の指が不自然に固まった。熱を帯びた血管の脈動が、手袋越しにも彼の指に伝わる。どくんと熱を持ち、命を動かし続ける鼓動に、彼の奥底で眠っていた黒いものがざわめいた。
「……髭切?」
ここの血管を裂けば、彼女の血を存分に浴びられるのではないか。
あるいは、もっと簡単な方法がある。ちらと目線を下にやれば、きょとんとした顔でこちらを見つめている藤がいた。あの細い首か、その下の薄い胸を切り裂けば。
彼女の心臓に刃を突き立て、最後の鼓動が果てるまで感じてみたい。鋼でできた己を飲み込ませ、消えない傷を穿ってみたい。己の一部を、彼女の体に染みこませることができるのなら、それはどれほどまでに好いものだろう――。
「髭切、どうしたの。ぼうっとして」
ゆさゆさと藤に体を揺さぶられ、髭切ははっとする。ぱちぱちと慌てて瞬きを繰り返し、困惑した表情を露わにした藤を見つめた。彼の手は、藤の手首に紐を宛がったまま固まっていた。
「……ちょっと疲れてるのかも。ねえ、主」
手早く紐を結び、すかさず彼女を抱き寄せる。わあっという藤の叫びは、今の髭切は聞かなかったことにした。
肌越しに伝わる鼓動の音、暖かい熱、それら全てを全身で感じて、嫌な想像を全て奥へと押し込み直す。自分はこの温もりを守りたいのだと、改めて己に誓うために。
「主は、温かいねえ」
「もしかして、寒かったの?」
「……うん。すっごく、寒かったんだ」
彼女を傷つけてしまう自分を、想像してしまったことが。
それが、ただの悪い夢だと言い張れない自分がいることが。
ならば遠ざけてしまえばいいのに、そんなことはもうできなかった。つくづく身勝手で我が儘だと思えど、この気持ちだけは変わってくれそうにない。
「じゃあ、今日は膝丸と一緒に寝ればいいよ。二人の方が暖かいよ」
「主も、来てくれる?」
思わず、腕に力を込める。彼女の熱を直で感じ続けていなければ、もう一人の自分が恐ろしいことをしでかしてしまう想像ばかりよぎってしまった。
彼の腕の中、藤はこくりと首を縦に振る。大方、悪い夢でも見たのだろう――彼女は、髭切の不安をそのように解釈していた。
「久しぶりに川の字で寝るね。楽しみだなあ」
無邪気に笑う藤に、髭切も微笑みかける。彼の笑顔は、まだ自分でも上手く取り繕えただろうと思えたものだった。
その日の夜。約束通り川の字になって寝た彼は、夢を見ることも無く朝を迎えた。
一晩中感じていた鼓動と彼女の側にいるという安らぎ、何より彼女の腕に巻かれた自分の証のおかげで、薄暗い感情はすっかり収まっていた。
――少なくとも、今は。