短編置き場
黄昏時は、誰そ彼時ともいう。
何故ならその時間帯は、差し込む西日で人の顔が見えなくなるからだ。だから、顔が定かでないが故に誰か分からない人には『誰そ彼』と問いかける。
同時にその時刻は、逢魔が時とも呼ばれていた。
薄闇に紛れて、人ではないものも跳梁跋扈する。故に、歩けば魔に逢う時となる。
夕日が山間の向こうに消えかけ、地上に最後の光を投げかける頃。藤は、見慣れない道を小走りで歩いていた。
彼女が歩いているのは、普段行く万屋の大通りやコンビニへと向かう上り坂ではない。先日何気なく貼り出されている広告で目にした洋菓子店に、彼女は向かおうとしていた。
慣れない冒険に繰り出そうと決めたのは、ほんの十分ほど前のことだ。仕事が一段落して、気分転換をしたかった。外出の理由といえば、たったそれだけだ。
供もつけずにふらふら出歩くな、と歌仙なら言ったのだろうが、年がら年中誰かといるのも息がつまるというものだ。以前は、諸々の事件に巻き込まれたせいで、供もなしで出歩くなどと考えもしなかったが、それも喉元過ぎれば熱さ忘れるというものだ。もうあんなことはないだろうと、少し藤の気も緩んできていたのだった。
束の間の自由時間と、見慣れない町並みに心を躍らせながら、彼女は影を長く伸ばして鼻歌交じりで歩いていた。
隣に話す相手がいないからだろうか。今日はやけに色々なものが目に入る。
道端に置かれた鉢植えの花から、路地裏に駆け込む野良猫まで、見知らぬ街でも人が息づいているのだなと、新たな発見に藤は一層心を弾ませていた。
「あれ、ここにはこんなものがあるんだね」
スキップしながら夕日の中を歩いていた藤は、ある所でピタリと足を止める。
そこは、丁度山と民家の境となっているような場所であった。道沿いの石垣に埋まるようにして小さな祠が建てられていたのだ。
ただまっすぐ前を向いて進んでいるだけでは、到底見つからなかっただろう。そう思うぐらい、木でできた祠は朽ち果ててぼろぼろになっていた。
入り口の部分にかけられていただろう注連縄は、雨風に晒されたせいで汚れ、所々千切れてしまい、見る影もない。屋根の板も長くそこにあったためか、触っただけでも崩れ落ちそうだ。花やお供え物の類も当然見当たらない。
「手入れしている人、いないのかな」
周りを見渡してみるが、辺りには民家らしき建物があるものの、人の気配がまるでしない。夕闇に紛れているせいで気がつけなかったが、そこも人が住まなくなって久しいようだ。
大方、この土地に住人がいなくなって、祠の面倒を見る人がいなくなったのだろう。
嘗ての自分ならそこまで考えてても、やはりそのまま通り過ぎていただろう。
だが、今の彼女は違う。
審神者として数年の時を刀剣男士たちの中で過ごしていた彼女は、この祠を――或いはそれが祀っていた何かに対して、こう思った。
可哀想だ、と。
「洗ってあげたりしたら壊れちゃいそうだから、これくらいなら大丈夫だよね」
言いつつ、藤は祠に積もっていた落ち葉をぱっぱと払う。
土塊と枯れ葉に埋もれるようにしてあった祠は、おかげで多少は見られる程度になった。
「よし。流石に祠を建て直すってなると、こういう町中にあるのは管理している人とかに連絡をとらないとね。今度、探して頼んでみるよ」
誰がいるわけでもないと分かっていても、祠に話しかけながら彼女は微笑む。
ぺこりと一礼をしてからその場を立ち去ろうとした藤は、しかし背中を向けた瞬間、足を止めた。何故なら、誰かが彼女の上着の裾を引いたからだ。
「え、誰?」
ここには、誰もいなかったはずなのに。驚いて振り向くと、そこには小さな子供――のようなものがいた。
ようなもの、と表したのは、それが黒い薄もやのような漠然とした輪郭しか持っていなかったからだ。
まるで影法師だけを集めて作ったようだというのに、彼女の上着を掴む力だけはやけに強い。辛うじて目らしきパーツが白い丸としてぼんやりと顔の部分に浮かび上がっていたが、表情など到底読めるものでもない。
けれども、普段から刀が人の姿を得た者と対話している藤は、その影法師の正体に思い当たる節があった。
「もしかして、さっきの祠の?」
影法師は頷く。それの返答を聞いて、藤は自分の予想を確信へと変える。
要は祠にいる神様が、綺麗にしてくれたお礼を言いに来たのだろう。ならば、素直に受けるのが礼儀というもの。以前もそのようなことがあったので、特に警戒もせずに藤は小さな黒い子供に微笑みかける。
影法師に向き直るように体を捻ると、それはあっさり手を離してくれた。
「……! ……!!」
影法師はこちらに身を乗り出して、何か言葉を発しているようだったが、その声は音というにはか細く、妙に甲高い。そのくせ言葉という形を得てはおらず、藤にはそれが何を言いたいのか、理解することができなかった。
「ごめんね、君の言葉が聞こえないみたいなんだ」
少し屈んで再度「ごめんね」と謝ると、影法師はじーっとこちらを見つめて、今度は手を差し出した。見た目に違わず、小さな五指は真っ黒な靄で構成されており、まるで影が焼き付いたモミジの葉のようだ。
「握手したいの?」
再び頷く影法師。
ならば、友誼の証として黒い手をとろうとした、まさにその時。
勢いよく、ぐいっと身体が後ろに引かれる。反射的に立ち上がったものの、今度は己の体が強い力で抱きしめられた。
自分を引っ張り、行動の自由を奪う得体の知れない何かに恐怖を覚え、藤は小さく悲鳴をあげた。
「な、なにっ!?」
「主、だめだよ」
耳元で聞こえたのが、聞き馴染みのある男性の声だと気がつき、藤は恐怖で強張った体の力を抜いた。
首を捻り後ろを見やれば、そこには予想通り――彼女の本丸の刀剣男士、髭切が立っていた。けれども、その瞳はいつもの穏やかで優しげなものではなく、強い警戒心を秘めている。
彼が何に対して敵対心を抱いているか気がついた藤は、慌てて首を横に振り、
「髭切。あの子は、あやかしじゃなくて多分あの祠の神様か何かで」
「だからだよ」
「だからって、どういう意味?」
髭切は答えを口にせず、ただ無言で前方を――藤が先ほど向いていた方を、指した。
彼につられて、影法師に視線を戻した彼女は、不意に背筋を冷たい手で撫でられたような寒気にぞくりとする。
それの姿は変わっていない。なのに、漂う気配が違う。
今までの無害なものから、理解できない不気味さを孕んだものに、それは様変わりしていた。
影法師は、白くがらんどうの瞳を藤に向け、無邪気に手を伸ばし続けている。
『アソボウ』
声とは違う音が、さながら耳に直接流し込まれるように響く。無数の子供の笑い声と共に、どっと彼女の中に声が、声が、声が、溢れかえる。
『アソボウ アソボウ ズットサビシカッタ ダカラアソボウ』
そこにいるのは一人のはずなのに、無数の目が自分に向けられ、視線が遠慮無く突き刺さっていく。
そこにあるのは敵意ではなく、ただの思慕だ。
親を求める子供のような、無邪気な願いの塊が彼女を見ている。見ている。見ている。
『キミハ キット ボクタチニチカイヒト ダカラ コッチノホウガ タノシイヨ ネエ ネエ』
目が、見ている。
手が、伸びてくる。
子供の手が、自分の手に、足に、
腹に、胸に、
内側に、入り込んでくる――。
『アソボウ、アソボウ、アソボウアソボウアソボウアソボウアソボウアソボウアソボウアソボウアソボウアソボウアソボウ』
「――ねえ」
頭が子供の笑い声で埋め尽くされる瞬間、まるで冷たい水のような声一つで、彼女の思考が急速に現実へと戻ってくる。
気がつけば自分の手は、あの影法師に向けて伸ばされていた。その腕を、行かせまいと言わんばかりに、髭切がしっかりと掴んでいる。
「誰の許可を得て、僕の主に勝手に触れているの」
彼の手から伝わる熱が、自分を引き戻してくれる。
それが分かっているのに、隣から響く彼の声を恐ろしいと思ってしまうのはどうしてだろう。
『ホシイ、ホシイ、ソノコホシイ』
「主が少しばかり優しくしたからって、調子に乗らないでほしいな」
普段の穏やかな声音はどこへやら。演練の際に耳にする、怜悧さがこもった挑発とも違う。
相手を威圧する意思が込められた低い音は、守られているはずの藤にすらも寒気をもたらしていた。
「失せろ」
静かな、とどめの一言。
ただそれだけで、影法師は「ぴゃっ」と子供らしい甲高い悲鳴をあげ、祠の裏へと逃げ込み、見えなくなってしまった。
途端に、藤の周りが先ほどよりも明るくなる。いや、先ほどまで知らず知らずのうちに景色が薄暗く見えていたのだ。
髭切のおかげで助かった、ということをようやく藤は理解する。
けれども、彼が自分を掴む腕が、あの影法師の腕に似ていると思ってしまうのはどうしてだろうか。
「主、一人でこんな時間に出歩くのは危ないよ。出かけるなら僕も一緒について行くから」
まるで何事もなかったかのように、髭切は藤から手を離した。
先だっての恐ろしげな声音は何処へやら。春の陽だまりのようないつもの彼の声に戻っているのに、藤の耳の奥には子供が裸足で逃げ出すようなあの声の残響があり続けていた。
それに、夕日を背後に浴びた彼が――逆光を浴びて影法師となった彼の姿が、いつもと違う何かに感じてしまうのは先ほどあったことのせいか。
「もしかして、怖がらせちゃった?」
何も言葉を発さずに、髭切を見続ける主の様子に気がつき、彼は申し訳なさそうに眉を下げて尋ねる。
彼女は肯定も否定もせずに、唇を震わせてその場に立ち尽くしていた。
「ごめんね。ああする以外で、刀を抜かずにことを収める方法が思いつかなかったんだ」
「……うん」
主が乱暴な解決を望んでいないと察した彼が、咄嗟に取った手段だということは藤も理解できている。
けれども、髭切の放つ威嚇の余波に中てられたように、藤の言葉はまだ歯切れの悪いままだった。
「…………」
痛いほどの沈黙が、二人の間に雪のように降り積もる。
無理もない、と髭切も思う。
普段出さない声音や殺気じみたものが漏れ出たから、という単純な理由だけが原因ではない。
それもあるのかもしれないが、自分も本質的にはあの影法師と同じだと彼は思っていた。ただ、人から受けた思いと人に向ける想いの質が異なるというだけ。ならば、同様に怖がられるのも仕方ない。
「本丸に戻ろうか。歌仙たちが心配しているよ」
今まで髭切の顔に焦点を当てまいとしていた藤は、その時初めて彼の顔を直視した。
彼は、笑っていた。
目を細めて、眉尻を降ろし、少し寂しそうに。まるで泣いているかのような、綺麗な笑顔を見せていた。
「…………あ」
藤が震える唇を開ききるよりも先に、髭切は踵を返す。
背中を向けたのは、恐らくは情けない顔をしている自分の顔を見せたくなかったからだ。
しかし、これでは主を守れない。さっさといつもの自分を取り戻さねば。彼女の反応は仕方ないことだ。何でも無かったように、やり過ごせばいい。
そう思おうとした。
「待って!!」
彼女が、背中に勢いよくぶつかってくるまでは。
「……ありがとう、助けてくれて」
背中から回された腕が、逃すまいと彼をしっかりと抱きしめている。夕方の風で冷えた彼の体に、主の熱がじんわりと伝わっていく。
「怖かったんじゃないの?」
「怖かったよ。皆と離ればなれになるみたいな気がして、自分が自分じゃないものになっていく、みたいだったから」
「そうじゃなくて。僕のことが怖かったんじゃないの?」
ぐりぐりと彼女の頭が押しつけられていることが、背中越しでも分かる。
人の目が背中を見られるような作りになっていないのがもどかしい。今、彼女がどうやって自分と触れ合っているのか、見られないのだから。
「ちょっと、びっくりはした。でも、君は僕を守ろうとしてくれた。それぐらいは分かるし、それで十分だよ」
背中の温もりが自分から離れ、代わりに彼女の指が髭切の手袋に包まれた指先に触れる。
「一緒に帰ろう」
主の声が、彼の中にあった薄暗い思いを一息で吹き飛ばしていく。布越しに伝わる彼女の熱が、心の隙間を埋めていくかのようだった。
夕日で頬を染めた藤が、こちらを見てにこりと笑いかける。ただそれだけで、髭切の心の奥に、ぽぅっと暖かな光が灯っていく。
いつしか、彼の口元にも彼女そっくりの優しげな笑みが浮かんでいた。
「手、離さないようにね」
言いつつ触れた藤の指に己のものを絡めると、驚いたのか彼女の肩が跳ねる。それに気づかないふりをして、髭切は歩みを進める。
二人並んだ影法師は一つになり、やがて夜の薄闇の中へと消えていった。
何故ならその時間帯は、差し込む西日で人の顔が見えなくなるからだ。だから、顔が定かでないが故に誰か分からない人には『誰そ彼』と問いかける。
同時にその時刻は、逢魔が時とも呼ばれていた。
薄闇に紛れて、人ではないものも跳梁跋扈する。故に、歩けば魔に逢う時となる。
夕日が山間の向こうに消えかけ、地上に最後の光を投げかける頃。藤は、見慣れない道を小走りで歩いていた。
彼女が歩いているのは、普段行く万屋の大通りやコンビニへと向かう上り坂ではない。先日何気なく貼り出されている広告で目にした洋菓子店に、彼女は向かおうとしていた。
慣れない冒険に繰り出そうと決めたのは、ほんの十分ほど前のことだ。仕事が一段落して、気分転換をしたかった。外出の理由といえば、たったそれだけだ。
供もつけずにふらふら出歩くな、と歌仙なら言ったのだろうが、年がら年中誰かといるのも息がつまるというものだ。以前は、諸々の事件に巻き込まれたせいで、供もなしで出歩くなどと考えもしなかったが、それも喉元過ぎれば熱さ忘れるというものだ。もうあんなことはないだろうと、少し藤の気も緩んできていたのだった。
束の間の自由時間と、見慣れない町並みに心を躍らせながら、彼女は影を長く伸ばして鼻歌交じりで歩いていた。
隣に話す相手がいないからだろうか。今日はやけに色々なものが目に入る。
道端に置かれた鉢植えの花から、路地裏に駆け込む野良猫まで、見知らぬ街でも人が息づいているのだなと、新たな発見に藤は一層心を弾ませていた。
「あれ、ここにはこんなものがあるんだね」
スキップしながら夕日の中を歩いていた藤は、ある所でピタリと足を止める。
そこは、丁度山と民家の境となっているような場所であった。道沿いの石垣に埋まるようにして小さな祠が建てられていたのだ。
ただまっすぐ前を向いて進んでいるだけでは、到底見つからなかっただろう。そう思うぐらい、木でできた祠は朽ち果ててぼろぼろになっていた。
入り口の部分にかけられていただろう注連縄は、雨風に晒されたせいで汚れ、所々千切れてしまい、見る影もない。屋根の板も長くそこにあったためか、触っただけでも崩れ落ちそうだ。花やお供え物の類も当然見当たらない。
「手入れしている人、いないのかな」
周りを見渡してみるが、辺りには民家らしき建物があるものの、人の気配がまるでしない。夕闇に紛れているせいで気がつけなかったが、そこも人が住まなくなって久しいようだ。
大方、この土地に住人がいなくなって、祠の面倒を見る人がいなくなったのだろう。
嘗ての自分ならそこまで考えてても、やはりそのまま通り過ぎていただろう。
だが、今の彼女は違う。
審神者として数年の時を刀剣男士たちの中で過ごしていた彼女は、この祠を――或いはそれが祀っていた何かに対して、こう思った。
可哀想だ、と。
「洗ってあげたりしたら壊れちゃいそうだから、これくらいなら大丈夫だよね」
言いつつ、藤は祠に積もっていた落ち葉をぱっぱと払う。
土塊と枯れ葉に埋もれるようにしてあった祠は、おかげで多少は見られる程度になった。
「よし。流石に祠を建て直すってなると、こういう町中にあるのは管理している人とかに連絡をとらないとね。今度、探して頼んでみるよ」
誰がいるわけでもないと分かっていても、祠に話しかけながら彼女は微笑む。
ぺこりと一礼をしてからその場を立ち去ろうとした藤は、しかし背中を向けた瞬間、足を止めた。何故なら、誰かが彼女の上着の裾を引いたからだ。
「え、誰?」
ここには、誰もいなかったはずなのに。驚いて振り向くと、そこには小さな子供――のようなものがいた。
ようなもの、と表したのは、それが黒い薄もやのような漠然とした輪郭しか持っていなかったからだ。
まるで影法師だけを集めて作ったようだというのに、彼女の上着を掴む力だけはやけに強い。辛うじて目らしきパーツが白い丸としてぼんやりと顔の部分に浮かび上がっていたが、表情など到底読めるものでもない。
けれども、普段から刀が人の姿を得た者と対話している藤は、その影法師の正体に思い当たる節があった。
「もしかして、さっきの祠の?」
影法師は頷く。それの返答を聞いて、藤は自分の予想を確信へと変える。
要は祠にいる神様が、綺麗にしてくれたお礼を言いに来たのだろう。ならば、素直に受けるのが礼儀というもの。以前もそのようなことがあったので、特に警戒もせずに藤は小さな黒い子供に微笑みかける。
影法師に向き直るように体を捻ると、それはあっさり手を離してくれた。
「……! ……!!」
影法師はこちらに身を乗り出して、何か言葉を発しているようだったが、その声は音というにはか細く、妙に甲高い。そのくせ言葉という形を得てはおらず、藤にはそれが何を言いたいのか、理解することができなかった。
「ごめんね、君の言葉が聞こえないみたいなんだ」
少し屈んで再度「ごめんね」と謝ると、影法師はじーっとこちらを見つめて、今度は手を差し出した。見た目に違わず、小さな五指は真っ黒な靄で構成されており、まるで影が焼き付いたモミジの葉のようだ。
「握手したいの?」
再び頷く影法師。
ならば、友誼の証として黒い手をとろうとした、まさにその時。
勢いよく、ぐいっと身体が後ろに引かれる。反射的に立ち上がったものの、今度は己の体が強い力で抱きしめられた。
自分を引っ張り、行動の自由を奪う得体の知れない何かに恐怖を覚え、藤は小さく悲鳴をあげた。
「な、なにっ!?」
「主、だめだよ」
耳元で聞こえたのが、聞き馴染みのある男性の声だと気がつき、藤は恐怖で強張った体の力を抜いた。
首を捻り後ろを見やれば、そこには予想通り――彼女の本丸の刀剣男士、髭切が立っていた。けれども、その瞳はいつもの穏やかで優しげなものではなく、強い警戒心を秘めている。
彼が何に対して敵対心を抱いているか気がついた藤は、慌てて首を横に振り、
「髭切。あの子は、あやかしじゃなくて多分あの祠の神様か何かで」
「だからだよ」
「だからって、どういう意味?」
髭切は答えを口にせず、ただ無言で前方を――藤が先ほど向いていた方を、指した。
彼につられて、影法師に視線を戻した彼女は、不意に背筋を冷たい手で撫でられたような寒気にぞくりとする。
それの姿は変わっていない。なのに、漂う気配が違う。
今までの無害なものから、理解できない不気味さを孕んだものに、それは様変わりしていた。
影法師は、白くがらんどうの瞳を藤に向け、無邪気に手を伸ばし続けている。
『アソボウ』
声とは違う音が、さながら耳に直接流し込まれるように響く。無数の子供の笑い声と共に、どっと彼女の中に声が、声が、声が、溢れかえる。
『アソボウ アソボウ ズットサビシカッタ ダカラアソボウ』
そこにいるのは一人のはずなのに、無数の目が自分に向けられ、視線が遠慮無く突き刺さっていく。
そこにあるのは敵意ではなく、ただの思慕だ。
親を求める子供のような、無邪気な願いの塊が彼女を見ている。見ている。見ている。
『キミハ キット ボクタチニチカイヒト ダカラ コッチノホウガ タノシイヨ ネエ ネエ』
目が、見ている。
手が、伸びてくる。
子供の手が、自分の手に、足に、
腹に、胸に、
内側に、入り込んでくる――。
『アソボウ、アソボウ、アソボウアソボウアソボウアソボウアソボウアソボウアソボウアソボウアソボウアソボウアソボウ』
「――ねえ」
頭が子供の笑い声で埋め尽くされる瞬間、まるで冷たい水のような声一つで、彼女の思考が急速に現実へと戻ってくる。
気がつけば自分の手は、あの影法師に向けて伸ばされていた。その腕を、行かせまいと言わんばかりに、髭切がしっかりと掴んでいる。
「誰の許可を得て、僕の主に勝手に触れているの」
彼の手から伝わる熱が、自分を引き戻してくれる。
それが分かっているのに、隣から響く彼の声を恐ろしいと思ってしまうのはどうしてだろう。
『ホシイ、ホシイ、ソノコホシイ』
「主が少しばかり優しくしたからって、調子に乗らないでほしいな」
普段の穏やかな声音はどこへやら。演練の際に耳にする、怜悧さがこもった挑発とも違う。
相手を威圧する意思が込められた低い音は、守られているはずの藤にすらも寒気をもたらしていた。
「失せろ」
静かな、とどめの一言。
ただそれだけで、影法師は「ぴゃっ」と子供らしい甲高い悲鳴をあげ、祠の裏へと逃げ込み、見えなくなってしまった。
途端に、藤の周りが先ほどよりも明るくなる。いや、先ほどまで知らず知らずのうちに景色が薄暗く見えていたのだ。
髭切のおかげで助かった、ということをようやく藤は理解する。
けれども、彼が自分を掴む腕が、あの影法師の腕に似ていると思ってしまうのはどうしてだろうか。
「主、一人でこんな時間に出歩くのは危ないよ。出かけるなら僕も一緒について行くから」
まるで何事もなかったかのように、髭切は藤から手を離した。
先だっての恐ろしげな声音は何処へやら。春の陽だまりのようないつもの彼の声に戻っているのに、藤の耳の奥には子供が裸足で逃げ出すようなあの声の残響があり続けていた。
それに、夕日を背後に浴びた彼が――逆光を浴びて影法師となった彼の姿が、いつもと違う何かに感じてしまうのは先ほどあったことのせいか。
「もしかして、怖がらせちゃった?」
何も言葉を発さずに、髭切を見続ける主の様子に気がつき、彼は申し訳なさそうに眉を下げて尋ねる。
彼女は肯定も否定もせずに、唇を震わせてその場に立ち尽くしていた。
「ごめんね。ああする以外で、刀を抜かずにことを収める方法が思いつかなかったんだ」
「……うん」
主が乱暴な解決を望んでいないと察した彼が、咄嗟に取った手段だということは藤も理解できている。
けれども、髭切の放つ威嚇の余波に中てられたように、藤の言葉はまだ歯切れの悪いままだった。
「…………」
痛いほどの沈黙が、二人の間に雪のように降り積もる。
無理もない、と髭切も思う。
普段出さない声音や殺気じみたものが漏れ出たから、という単純な理由だけが原因ではない。
それもあるのかもしれないが、自分も本質的にはあの影法師と同じだと彼は思っていた。ただ、人から受けた思いと人に向ける想いの質が異なるというだけ。ならば、同様に怖がられるのも仕方ない。
「本丸に戻ろうか。歌仙たちが心配しているよ」
今まで髭切の顔に焦点を当てまいとしていた藤は、その時初めて彼の顔を直視した。
彼は、笑っていた。
目を細めて、眉尻を降ろし、少し寂しそうに。まるで泣いているかのような、綺麗な笑顔を見せていた。
「…………あ」
藤が震える唇を開ききるよりも先に、髭切は踵を返す。
背中を向けたのは、恐らくは情けない顔をしている自分の顔を見せたくなかったからだ。
しかし、これでは主を守れない。さっさといつもの自分を取り戻さねば。彼女の反応は仕方ないことだ。何でも無かったように、やり過ごせばいい。
そう思おうとした。
「待って!!」
彼女が、背中に勢いよくぶつかってくるまでは。
「……ありがとう、助けてくれて」
背中から回された腕が、逃すまいと彼をしっかりと抱きしめている。夕方の風で冷えた彼の体に、主の熱がじんわりと伝わっていく。
「怖かったんじゃないの?」
「怖かったよ。皆と離ればなれになるみたいな気がして、自分が自分じゃないものになっていく、みたいだったから」
「そうじゃなくて。僕のことが怖かったんじゃないの?」
ぐりぐりと彼女の頭が押しつけられていることが、背中越しでも分かる。
人の目が背中を見られるような作りになっていないのがもどかしい。今、彼女がどうやって自分と触れ合っているのか、見られないのだから。
「ちょっと、びっくりはした。でも、君は僕を守ろうとしてくれた。それぐらいは分かるし、それで十分だよ」
背中の温もりが自分から離れ、代わりに彼女の指が髭切の手袋に包まれた指先に触れる。
「一緒に帰ろう」
主の声が、彼の中にあった薄暗い思いを一息で吹き飛ばしていく。布越しに伝わる彼女の熱が、心の隙間を埋めていくかのようだった。
夕日で頬を染めた藤が、こちらを見てにこりと笑いかける。ただそれだけで、髭切の心の奥に、ぽぅっと暖かな光が灯っていく。
いつしか、彼の口元にも彼女そっくりの優しげな笑みが浮かんでいた。
「手、離さないようにね」
言いつつ触れた藤の指に己のものを絡めると、驚いたのか彼女の肩が跳ねる。それに気づかないふりをして、髭切は歩みを進める。
二人並んだ影法師は一つになり、やがて夜の薄闇の中へと消えていった。