本編第一部(完結済み)

 目の前には、金色に光る瞳。猫のように鋭く細められた双眸は、まるで彼女の心の奥底を暴かんとばかりに、こちらを見つめている。
 何故こんなことになっているのか、全く理解が追いつかない。どうにか逃げ道を探そうと、彼女――藤は視線をちらりと脇にやる。
 本丸の厨の片隅、真っ白の髪に真っ白の装束を纏った刀剣男士に今、彼女は追い詰められている所だった。

「きみみたいな者が、どうしてこんな所にいるんだ?」

 言葉に色があるとするならば、きっとこれは無色だ。彼は純粋な興味でこちらに尋ねている。
 だというのに、ここ最近あれこれ考えすぎていたせいだろうか。藤は彼のその態度が、嫌悪から生まれたもののように見えていた。

「夏からずっと思っていたんだ。きみがこの本丸という場所で、刀剣男士という付喪神といる理由が俺にはわからない」

 次々と口にされる言葉が、まるで彼ら自身が持つ刃のように彼女の心の柔らかい所を切り裂いていく。暗にお前はここにいるべきではないと言われているかのようで、藤は無意識に震える拳を握りしめていた。

「彼らは、きみの何なんだ?」

 どうしてこんなことになっているのだろう。
 二度目の疑問を脳裏で言葉にしながら、藤はほんの一時間ほど前の記憶を思い出した。


 ◇◇◇


「よっ、藤殿。突然の我が儘を聞いてくれて、感謝の至りだ」
「そんな大層なことじゃないよ。こんにちは、更紗ちゃんに鶴丸さん」

 数日前の晩に突如連絡をしてきた鶴丸と更紗は、その場で藤の本丸に訪問する約束を取り付けた。そして、こうしてやってきたのは、あの雪の日から三日後のことだった。
 最初は本丸同士の距離の問題を懸念していたが、それは転送装置を使えばいいから問題ないと言われた。本来なら万屋や演練への行き来で使用するはずの装置を、私的に利用していいのかという躊躇もあったが、政府としても暗黙の了解としていると言われてしまえば、否定する理由などない。教えてもらっていた、暗号化された連絡先を転送装置に入力すれば、本丸間での行き来はいとも簡単に可能となった。
 本丸に訪れた二人は、招かれた客ということもあってか、小綺麗な格好をしていた。鶴丸が白い着流しに羽織を纏い、更紗は動きやすいように暖かそうなニットのセーターとズボンを着用している。
 対する藤は、普段とさして変わらない普段着である。客を迎えるといっても、同じ審神者同士だ。変に気構えする必要はない――というのは建前で、単によそ行きの服装を持ち合わせてなかっただけである。

『こんにちは あそび きたよ』
「うん、今日はゆっくりしていって。最近雪が降った所で、あちこち凍って滑りやすくなってると思う。歩くときは気をつけてください」
「ああ、分かった。それにしても、こりゃ見事に積もったなあ。俺たちの本丸ももう暫くしたら雪の時期だが、こちらの方が早いんだな」

 鶴丸は額に手を翳し、ぐるりと庭を見渡す。あれからも何度かまとまった降雪があったため、庭は彼の言うとおり一面白に染められていた。

「こっちが庭なら、あっちは畑か? 裏手にあるのは山だな。建物も十分に広そうだし、ここは住みよさそうな本丸だな」
『ふじ おうち すてき』
「ありがとう。歌仙たちが、いつも手入れをしてくれているから」

 出迎えに赴く主のために後ろに控えていた歌仙に、それとなく目配せを送ると、どこか得意げな顔が返ってきた。
 今日の主賓は鶴丸と更紗であり、それをもてなすのは主である藤が主体となるべきだと考えているのだろうか。普段は何かと世話焼きな彼が、今は随分と大人しい。

「そうだ、藤殿。きみは、狐は好きかい?」
「狐? まあ、嫌いでは無いけど……それがどうかしたの」

 藤が詳しく尋ねるより先に、鶴丸と手を繋いでいたはずの更紗がくるりと背を向けて何かを抱え上げる。どうやら彼女の体で隠していたらしいそれを目にして、藤は思わず驚きのため息を漏らした。

「狐だ……」

 更紗が抱え上げているのは、まるで子犬のような大きさをした栗毛の狐だった。ふわふわの毛並みのそれを藤に見せる更紗の顔は相変わらずの無表情だが、瞳には期待が垣間見える。

「そういえば、夏祭りのときに狐の友達がいるって話してたよね」
「それで、どうしても見せたいって俺の主が言ってな。こうして連れてきたんだ。ま、そこまで悪さはしないと思うから大目に見てやってくれ」
「いいよ。僕も後でゆっくり見てみたい」

 愛らしい子狐を前にして、藤の口の端に小さな笑みが浮かぶ。小動物というのは、ただ存在するだけで人を和ませるものだ。まるでぬいぐるみのようにふわふわした子狐は、一目で藤の心をしっかりと掴んでいた。
 子狐を地面に下ろした更紗は、自分の持っているメモに辿々しく文字を綴り、藤に見せる。

『あとで ゆき つかって あそぶ いい ?』
「うん、構わないよ。でも、一度部屋に入ってからにしようか。歌仙、どこに案内する予定なんだっけ」
「客間だよ」

 歌仙は何でも無いことのように短く返す。やはり、いつもは饒舌な彼にしては言葉が少ないようだ。
 怪訝に思った彼女がじっと彼の様子を見ていると、今日は定規でも背中に差しているのではないかと見間違うほど、背筋がまっすぐに伸びていた。伸びすぎているのでは、と心配になるほどに。

(もしかして、緊張してる……?)

 今まで何度か富塚という政府の役人が本丸に来ているが、その際のの応対は当然藤がしていた。審神者が政府の役人と話をする場合、刀剣男士は完全に蚊帳の外だ。
 だが、今日は別の本丸の刀剣男士と審神者がやってきている。相対するなら、藤の隣に刀剣男士が並ぶのが妥当というものだ。
 要するに歌仙兼定は今初めて、人をもてなす側として矢面に立たされたということになる。

「た、立ち話もなんだろう。そろそろ、行こうじゃないか」
「歌仙、目が泳いでる」
「そんなことはないよ。さあ、寒い所に客人をいつまでも立たせるものじゃない」
「そうだね。鶴丸さん、更紗ちゃん。案内するね」

 先導を切って歩く歌仙の隣に並び、ちらりと視線を上に向ける。その横顔は見えない文字で、緊張していますと書かれているかのようだった。

「歌仙、肩の力を抜いて。別に失敗したって、彼らは気にしないだろうから」
「そういうわけにもいかないよ。きみの刀が失態を犯したとなればきみの顔に泥を塗ることになる」
「僕の顔になんて、いくら塗ったところでもう変わるものでもないよ」

 言いつつ、藤は少しばかり足を止めて振り向く。
 鶴丸の腕に抱えられた更紗が、狐を抱きしめながら彼の言葉を楽しそうに聞いている。対する彼女も、時折鶴丸の掌に何か文字を書いていた。互いの瞳は知り合いの家に赴くという小さなイベントに心躍らせているためか、まるで星のようにきらきらと輝いている。
 刀剣男士と他愛のない会話を、何の裏表もない会話を、忌憚なくする存在。
 無条件に彼らに慕われ、望まれる審神者という立場。
 更紗はそのどちらにも相応しいもののように、藤には見えた。

(僕は――彼女のようには、なれない)

 更紗だけではない。
 スミレや煉を見たときも、同じ感想を藤は抱く。別の審神者を目にするたびに、僻んでいるような感情が掠める。
 当たり障りのない会話一つするだけでも、最近は笑顔を貼り付けなければ上手くできないような気がした。
 以前はそんなことはなかったはずだ、というのは分かる。もっと自然に、彼らと言葉を交わしていた。どこかに一枚薄い壁を挟んでいたとしても、ここまで殊更に一線を引いていたわけではなかった。

(……あれ、そういえば僕は最初、どうやって彼らと話していたんだろう)

 客間に向かう道すがら湧いた疑問は、しかしガチガチに緊張して凍り付いた歌仙の横顔を目にして雲散霧消した。
 今は、このおもてなしを十全にやり通すことに集中しよう。そうして、彼女は些細な疑問として、その問いを心の棚に上げたのだった。


 ***


 客間として鶴丸たちが通された一室。そこに腰を落ち着けた今日の主賓の一人である鶴丸は、歌仙が出した茶を口に含み、一息置いてから告げた。

「きみたちの本丸は、何というか静かだな」
「そういうもんかねえ、アタシは他を知らないから分からないけどもさ」

 皆の目が集中していて落ち着かない、と最初に鶴丸は言ったものの、どうしても普段本丸で見慣れない刀剣男士というものは注目を集める。
 更紗が口の利けない子供ということもあって、彼らはついつい鶴丸に話しかけてしまうのだ。もてなす側の主催である藤は、今は菓子を取りに行くと席を立っていて客間にはいない。その結果、自然と鶴丸がこの場の主役のような立ち位置となって話をしていた。

「鳥の鳴き声を耳にしながらのんびり過ごすなんて、俺たちの本丸ではなかなか考えられないぞ」
「では、鶴丸様の本丸は賑やかなのですか?」

 鶴丸の隣にちょこんと座った物吉が、身を半ば乗り出しながら尋ねる。

「ああ。そりゃ毎日毎日誰かが何かを起こしているぞ。何せ二十振り近くいるんだからな」
「そ、それは……大変、ではないんですか?」

 未だ五振りに主を加えて六人での生活しか経験したことがない五虎退にとって、鶴丸のいう集団生活は想像すらできない驚天動地の連続のように聞こえた。

「いや、大変ってことはないな」
『つる いつもにぎやか たのしい さびしくない いいこと』

 鶴丸は首を横に振り、更紗は言葉の代わりに持ってきたメモに自分の言葉を綴る。

「藤殿は静かな方が好きなのか? だとしたら、無理を言ってしまったのではと少し心配でな」
「いいや、主自身は割とおてんばで子供のような所があるからね。賑やかなことが嫌いというのは多分……」

 言いつつ、歌仙の言葉は徐々に歯切れの悪いものになっていく。主がどんな空気を望んでいるのか、すぐに答えられると思っていたのに、その実彼自身よく分かっていないことに気がついてしまったからだ。
 仕事場を変えてまで一人になろうとしていた主は、本当は静寂を喜んでいたのではないだろうか。けれども、次郎が開いた宴会では楽しそうに笑っていた――はずだ。

「多分、好きだと……思うよ」
「そうか。なら、いいんだ」

 それでもどうにか絞り出した歌仙の答えを聞いて、鶴丸は適当な返事をしつつも僅かに眉を顰める。
 彼はこの本丸に到着してから時が経てば経つほど、微かな違和感に気がついていた。
 本丸の内部でそれに気がついている者は――少なくとも表面上に気がついたことを露わにしている者は、まだいないようだ。彼は一時間にも満たない観察の上ではあるが、そう判断していた。
 部外者であるからこそ、本丸に漂っている軋みをより強く感じずにはいられない。歯車が噛み合わず、ぎしぎしと悲鳴をあげながら回っている。例えて言うならそんな感じだろうか。
 刀剣男士という複数の歯車全てに噛み合い、回していく大きな歯車――それを主と喩えるならば、今はそれが錆び付いてしまっている。だから、周りの歯車である刀剣男士の様子にもどこかぎこちなさが残る。自身の本丸を知っているからこそ、鶴丸はその引っかかりに気がついていた。

(俺の主は……まあ、気付いていても黙っているだろうな)

 五虎退の連れている虎の子が珍しいのか、鶴丸の主である更紗は五匹の虎の子を一度に抱えようとしていた。あいにく、この無理矢理な抱擁の強行はかなわず、虎の子たちからしこたまパンチを貰っている。
 五虎退が止めに入り、更紗は驚いた顔――無論、傍目から見たら無表情ではあるのだろうが、ともかく驚きを瞳に宿してずりずりと足を擦りながら鶴丸の元に戻ってきた。
 微妙な硬さが残る空気を破ろうと、鶴丸はやや強引ではあるが別の話題を振ることにした。

「そういえば、きみたちの本丸はクリスマスを祝わないのかい?」
「くり、すます?」

 突如飛び出た横文字に、歌仙たちは揃って顔を見合わせる。彼がした話題の転換は、気を紛らわすには丁度良かったらしい。鶴丸はわざとらしく手を広げて、声を張り上げた。

「そう、クリスマスだ! 外つ国の祝い事でな、この国も最近は取り入れて皆で楽しんでいるらしい。贈り物を家族や友人にして、ご馳走を食べて過ごすっていうのが定番だな。要は、少し早い正月みたいなものだ!」
「贈り物を、家族や友人に……」

 ぽつりと鶴丸の言葉を繰り返した歌仙につられて、物吉や五虎退も互いに顔を見合わせてひそひそと言葉を交わす。
 知っているか。いや、知らない。けれども、面白そうだ。そんな言葉が、この本丸の刀剣男士の間に飛び交う。

「万屋に行って店の中を見て回るといい。赤や緑、それに金のリボンで木に飾り付けをしていて、そりゃ綺麗なものだったぞ。俺たちの本丸もいくらか真似させてもらっているんだ」

 鶴丸が更紗に視線を送ると、更紗は首から提げていた巾着から端末を取り出した。その画面を何度か叩き、中空に画面を表示させる。
 端末で撮影した写真と思しきそれは、彼女の本丸を写したものだった。何名かの刀剣男士と囲まれて中心にいる更紗の背後に、見たことも無い大きな木が置かれている。天辺には星の飾りが輝き、枝葉を覆うようにカラフルなリボンが何重も巻かれていた。
「おお、随分と派手な飾りじゃないか! これは一体なんという飾りなんだい?」
「よくぞ聞いてくれた、次郎太刀。これはくりすますつりー、と言ってだな。簡単に表すなら、正月の門松みたいに飾りをつけた植物なんだ」
「鶴丸さん、ここ、靴下が吊されています。どうして、木に靴下を……吊すんですか?」
「くりすます、という日にはさんたくろーすという老人が子供達に贈り物を持ってくる日でもあるんだ。それでもって、その老人は子供達が眠っている間に靴下の中に贈り物を入れる。翌朝起きた子供達は、贈り物が入っているかと靴下をわくわくしながら覗くというわけだ」

 面白いだろう、と笑いかける鶴丸に、尋ねた五虎退もこくこくと頷く。写真に写っている木の下には、靴下がまるで小さな山のように積まれていた。

「勿論、顔も知らない爺さんにばかり任せちゃいられない。俺たちも主に贈り物をしているんだぜ。ほら」

 鶴丸が端末の画面をぽんと触ると写真が切り替わり、今度は沢山の贈り物に囲まれている更紗が写っているものとなった。続けて鶴丸が何度か画面に触れると、次々と贈り物の包装を解いている彼女の写真が何枚も表れる。
 ぬいぐるみや小さな細工物、仕立てた着物からお菓子と、あまりに多種多様な品を手にする更紗は、表情こそ変わらないものの実に楽しそうだ。

「何年か前から始めたんだ。主がやりたいって言い出したってのもあるし、俺たちも主にまとまって贈り物をする機会がなかったからな」

 その時の興奮を思い出したのか、更紗はぺちぺちと鶴丸の手を叩いている。彼女にとってこの行事はまたとない至福のときだということが、彼女の様子からも手に取るように伝わってきた。

「あ、あの、僕たちも……やって、みませんか」

 写真に注目している皆に向けて、五虎退がおずおずと手を挙げながら告げる。普段は引っ込み思案な彼が、このような誘いを自らするのは珍しかった。

「あるじさまに、お、贈り物を……。あるじさまに、僕、沢山喜んでほしい……です。だって、あるじさま……ずっと何だか、忙しそうで」

 五虎退の目から見ても、髭切ほど確信を抱いていたわけではないが藤の様子はどこか苦しげには見えていた。
 仕事が忙しいからも勿論あるのだろう。けれども演練があったあの日の夜に出くわした彼女の姿を思い出す度、心の奥底が痛くなる。
 言葉にできないもどかしさが募っているのに、肝心の主は笑顔で過ごしているのだから、何か言うこともできない。だから、別の方法で彼女に楽しいと思えるものを送りたいと、五虎退は願っていた。

「お、いいねえ五虎退。アタシもそう思っていたところなんだよ! でもってその祭りとやらの時に祝いの酒を飲めれば、言うことなしだね」
「きみは酒宴を開きたいだけだろう、次郎」

 次郎を窘めつつも、歌仙は五虎退の提案に存外乗り気になっている自分に気がついていた。きっと、自分の思いの発端もやはり五虎退と同じなのだろう。

「ねえ。そのくりすますっていう祭りのこと、主も知っているの?」
「そりゃ当然だ。きみ達の主はこの時代で育ってきたんだろう。なら、知らないわけがないさ」

 髭切の疑問に、鶴丸はすかさず答えてみせる。彼曰く、クリスマスが広まったのは刀の時代が終わりを告げてからだという。髭切たちには縁遠い時代ではあったが、主にとっては寧ろそちらの方がなじみ深いはずだ。

「そうだ! それなら、主様には当日まで内緒にしておきませんか? きっと驚くと思うんです」

 物吉がパチンと手を合わせて、星のように瞳を輝かせながら提案する。折良く今、主は菓子をとりにいってこの場にいない。当日まで皆で口裏を合わせていれば、贈り物についてバレることはないだろう。
 そこまで話が進んだ所で、髭切はちらりと鶴丸に視線を送った。
 主が席を立った機を見計らっての、この話題。どこか噛み合わない本丸の実情を見抜いた上で、関係の改善に役立ちそうな内容をわざと口にしたのではないか、と思ったのだ。
 はたして、髭切の視線に気がついた鶴丸は、意味ありげに片目を瞑ってみせただけだった。

「そういえば、きみたち。その肝心の主殿は、いつ戻ってくるんだ?」

 鶴丸に問われて、全員が顔を見合わせる。
 菓子を取りに行くだけにしては、彼女が席を立ってからもう十五分以上経とうとしている。世間話と降って湧いた祝い事の話で盛り上がってしまったが、まだ藤が帰ってこないのは妙だ。
 この本丸は、さして広くもない。厨から客間の間には多少の距離はあるものの、時間がかかりすぎているのは誰が考えても明らかだ。

「少し様子を見てくるよ」

 髭切が立ち上がり、次いで鶴丸が彼の後を追うように立つ。

「俺もついて行っていいか?」
「お客様なら座ってたらどうだい、鶴丸国永」
「なあに、ちょっとした本丸の探検さ。それとも、何か知られたらまずいものでもあるのかい?」

 何気なく振られたはずの話題に、髭切は僅かに目を眇める。
 ただの軽口なのか、或いは主の見た目について何か知っているのか。
 一瞬視線を交錯させただけでは彼の思惑を読み取ることは到底叶わず、断る理由も見つからない髭切は彼の同道を許した。
 部屋を出て行った二人も、部屋に残った他の面々も、誰も気がつきはしなかった。
 更紗が連れてきていた子狐が、いつの間にか姿を消していたことに。


 ***


 皆が客間でクリスマスの話をして盛り上がる少し前、藤は厨にやってきて一息ついていた。
 歌仙のように緊張をしていた――からではない。更紗と鶴丸国永の姿に、言葉にできない居づらさを覚えてしまったからだ。

「更紗ちゃんは、小さいのにちゃんと主の役割もこなしていて、凄いな」

 屈託の無い笑顔を主に向ける鶴丸は、幸せそうだった。きっと彼の笑顔を受け止める更紗も、表情こそ動かないものの幸福だと感じているのだろう。
 何故なら、彼女の瞳は鶴丸を見つめるとき、いつも星のように輝いている。自分はそんな顔を作り出して歌仙らに向けることはできても、彼女のような感情を無邪気に抱くことができない。
 自分と更紗を比べて一人でしょげていると気がついた藤は、一度その場を立つことで、感情をリセットすることにしたのだった。

「これじゃ、僕が妬いているみたいだ。仕方ないじゃないか。彼女は僕と違って、ちゃんとしているんだから」

 だから、ちゃんとできるのは当たり前だと藤は小声で繰り返す。 
 仕方ない、仕方ない。そう呟けば、ささくれだった心を見ないことにできる。
 気持ちにきっちり蓋をした後、藤は改めて厨を見渡した。歌仙に持ってくるよう頼まれた菓子は、確か食器棚の下にあるという話だ。

「お菓子、お菓子っと。何買ってきてるのかな」

 彼女が食器棚の前で屈んだ折、がらりと厨の引き戸が開く音が響いた。思わず首を背後に向けると、そこには真っ白な着物を纏った青年――客であるはずの鶴丸国永が立っていた。

「あ、すみません。すぐにお菓子取って戻るから」
「菓子はどうでもいいんだ。ちょっときみに話があってな」

 不躾に厨に入ってきた鶴丸は、ずかずかと藤に歩み寄る。その佇まいは何度か彼を見かけたときよりも、言い知れない偉容を纏っているように感じられた。
 思わず藤が立ち上がった頃には、鶴丸は藤の目と鼻の先に立っていた。こちらを睥睨する金の瞳は、まるで服を通してありのままの自分を見つめんとするような、図々しさが垣間見えた気がした。

「話……って何ですか?」
「なあ。なんで、きみは彼らと一緒にいるんだ?」

 何を問われているのか理解できず、藤は目をぱちぱちと瞬かせて目の前に立つ男を見つめることしかできなかった。
 次郎ほどではないものの、鶴丸の上背も相当のものだ。自分より頭一つ分大きい男に文字通り追い詰められて、反射的に藤の中に恐怖が生まれる。

「きみみたいな者が、どうしてこんな所にいるんだ?」

 言葉に色があるとするならば、きっとこれは無色だ。彼は、純粋な興味でこちらに尋ねている。だというのに、ここ最近あれこれ考えすぎていたせいだろうか。藤は、彼のその態度が嫌悪から生まれたもののように見えていた。

「夏祭りの時からずっと思っていたんだ。きみがこの本丸という場所で、刀剣男士という付喪神といる理由が俺にはわからない」

 次々と口にされる言葉が、まるで彼ら自身の持つ刃のように彼女の心の柔らかい所を切り裂いていく。暗に、お前はここにいるべきではないと言われているかのようで、藤は無意識に拳を握りしめていた。

「彼らは、きみの何なんだ?」

 とどめとばかりにかけられた言葉に、藤は唇を震わせることしかできなかった。


 思考が、まとまらない。
 何故鶴丸国永にこのようなことを問われているのか。他の本丸の刀剣男士に見抜かれるほど、自分はちゃんとしていない不出来な者に見えたのだろうか。
 それとも、それとも、それとも。
 思い当たる要素は藤自身の手によって無数に生み出され、彼女の心をじわじわと黒いものへと染め上げていく。

「もう一度問う。きみみたいな存在が、わざわざ刀剣男士の側にいたがる理由は何だ? 彼らはきみにとって何なんだ? 俺には、きみみたいな奴が、彼らの元にいたがる理由が分からないんだ」
「…………それは」

 はっきりと言われなかったものの、まるで今まで心中に隠していた懸念――穢れた自分が彼らのそばにいていいのかという疑問――を指摘されたような気がした。だからこそ、彼女は肺腑に冷水を流し込まれたような悪寒に包まれていた。けれども、答えなければもっと自分が惨めなように思えて、藤は必死で言葉を組み上げようとする。

「僕にとって、彼らは」

 何といえばいい。ただの主と刀?
 それは違うと即座に自分が否定する。
 では、友達?
 それも違う。それではまだ足りない。
 ならば、家族?
 いいや、それは否定されてしまった。
 刀剣男士は家族になれない。就任直後に歌仙自身から言われたことだ。
 でも望むならば、とまで考えて、再び違うとどこかで否定が挟まれる。
 今のこの状態が、家族などと認めたくないと叫ぶ己がいる。
 わからない。彼らを表す言葉が、見つけられない。

「彼らは……大事な人たちだ」

 結局口にした回答は、曖昧にぼかしたものとなってしまった。その誤魔化しに気がついたのか、鶴丸の目が針のように細くなる。
 彼の視線に気圧され、藤は後ろに下がろうとしたが、背中はすぐに食器棚についてしまった。これではまるで獣に追い詰められた小動物のようだと、混乱する思考の片隅で藤は思う。

「大事、なるほどね。大事か」

 彼が口にする言葉の一音一音が、あたかも質量を持ってこちらの肌に食い込んでいくように感じる。その重みで動けなくなったかの如く、藤は立ち尽くしていた。

「なら、一つ聞きたい。どうしてきみは、自分が大事だと思ってるあいつらの輪から自ら抜け出て、ホッとしたような顔をしているんだ?」

 ぎくり、とした。
 刀剣男士らが一堂に会した客間に居心地の悪さを覚えてしまったことを、そこに当然のようにおさまっている更紗に情けない嫉妬心を抱いたことを。
 見抜かれている。この神様は見抜いている。
 間違っているのにごまかし続けている惨めな自分の存在を、見抜いている。
 心臓を鷲掴みにされたように、息ができなくなる。
 酸素が足りなくなったせいで視界がぼやけたのだろうか。目の前にいる鶴丸国永の金色の瞳が揺れ、一瞬紅に染まったような気がした。
 このまま倒れるのでは、と思いかけた折、

「ねえ」

 耳にしたことのある声が聞こえたと思いきや、眼前に立っていた鶴丸の姿が消える。
 誰かがやってきて引き剥がしたのだ、と気がつくより先に彼女の視界にもう一人の刀剣男士が現れた。淡い砂色の柔らかな髪に、翻る白い上着。それは、藤の刀剣男士である髭切だった。

「お前は、何?」

 ただ、彼の声はいつもの柔らかな優しげなものとは程遠い。氷のように冷えたそれに、藤自身圧倒されてしまう。
 ようやく呼吸を整えた藤が目にしたのは、鶴丸の腕をまるで折らんばかりに力を込めて握りしめている髭切、彼に腕を掴まれている鶴丸国永、そして――髭切の後ろで目を丸くしているもう一人の鶴丸国永の姿だった。

「え、鶴丸さんが二人?」
「そういえば前にもこんなことがあったよね。夏祭りの途中、主が鶴丸国永に先導されて戻ってきたと言ったのに、当の本人は知らないって言ってた話」

 あの時はその場に居合わせた小烏丸曰く、祭りに誘われてやってきたあやかしのせいだろうとのことだった。藤も他の皆も殊更に深く掘り下げようとせず、有耶無耶のままに終わってしまったのだ。

「どうして俺がもう一人いるんだ? あ、まさか、お前」

 鶴丸が何か言葉にするより先に、その場にいる全員の注目を浴びていたもう一人の鶴丸の輪郭が一瞬歪む。まるで狐に化かされたかのように彼という存在は消え、代わりに髭切は一匹の子狐を掴んでいた。
 更紗が連れてきていた、小さな狐。藤に見せたいと言っていたらしいその小動物が、今は髭切に前足を握られている。

「ああ、やっぱりそういうことか。まさか、俺に化けているとはな」

 呆気に取られている藤と髭切をよそに、鶴丸は髭切がぶら下げているその獣の鼻面を人差し指でつつく。まるでこうなることを予想していたかのような口ぶりに、髭切はその端正な顔を懐疑で歪めた。

「どういうこと? 君たちは、あやかしを連れてきたの?」

 子狐の愛くるしい見た目など意に介さず、髭切はぱっと狐を床に落とす。空中で一回転して床に着地した狐は、不服そうに髭切をじっと睨んでいた。
 が、対する髭切は獣などまるで歯牙にかけず、藤を背に庇うように立って鶴丸と狐を睨み付ける。

「あやかし退治の刀が、まさかあやかしに気がつかないなんてね。源氏の重宝として、流石に反省しないといけないかな」

 言葉こそ軽いものではあったが、そこに漂う剣呑さたるや、近くにいる藤が思わず背中に寒気を覚えるような声音だった。
 けれども、鶴丸はそんな髭切を前にしてもいつもの調子を崩さず、ただ慌てたように「違う違う」と首を横に振る。

「こいつは、あやかしじゃない。まあ、なんだ。少し長生きしてる狐ってだけだ。害はない。俺も主もそれは保障する」
「でも、主を襲おうとしてた」
「それは違うよ。鶴丸さん――じゃなくて、その狐さんは、僕に何か聞きたいことがあったみたいなんだ」

 髭切が一方的に膨れ上がらせた剣呑な空気を払おうと、藤は二人の間に割って入る。

「僕がうまく答えられなくて、それで狐さんを困らせてしまっただけなんだ。だから、喧嘩しないで」

 髭切に詰め寄るようにして、彼女は何でも無いと笑う。
 せっかく来た客人を困らせてはいけない。更紗の好意で連れてこられた化け狐の悪戯を、大事にしてはいけない。
 だから笑わねばならないと、彼女は自分に厳命する。いつも通りであれ、と口角を微かに釣り上げて、目を細めて笑顔を作り上げる。
 髭切は暫く狐と藤を何度か見比べたが、ため息を吐き出してから藤の肩を軽く掴んで自分へと寄せるだけに留めた。どうやら、まだ警戒はしているが一応許す、という所に落ち着いたらしい。

「安心してくれ、藤殿。別に喧嘩をしてるわけじゃないさ。この悪戯狐には俺たちからもきつーく言っておく。それで勘弁してくれないか」
「僕も怒ってるわけじゃないから、気にしないで」

 藤は鶴丸にもにこりと微笑んだ後、

「そうだ、お菓子っ」

 と、自分が何故ここに来たかを口にして、いそいそと食器棚を漁り始めた。あくまで普段通りの様子を貫き続ける藤を、髭切は釈然としない面持ちで見つめ続けていた。
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