短編置き場

「あ、あるじさん! そこは右の枝に足をかけた方がいいよ!」
「主君、もうすこし、右、右です!」
「ああ……見てるだけでも怖い……」

 ある冬の日の昼下がり、庭から短刀の少年達がわいわいと騒いでいるのを彼は耳にした。思わず足を止めると、そこには桃色、白、金の鮮やかな彩りが花のように広がっていた。
 誰かと思うまでもない、この本丸にいる短刀の秋田藤四郎と五虎退、乱藤四郎の姿だ。彼らは庭の木を見上げて、先ほどから何やら息を弾ませて声をあげていた。

「何か面白いものでもあるのかい」
「あ、髭切さん。あの、あるじ、さまが」

 髭切と同じくこの本丸の古株である五虎退が、おずおずと樹上を指差した。つられて視線を上にやる。そして、彼にしては珍しく、髭切は呆然という言葉の意味を知ることになった。

「主、何をしているの?」

 既に葉も落ちたある木のてっぺん付近に、主である人物が実っていた。訂正、主がおっかなびっくり猿のように登っているところだった。
 彼女は数ある枝の中でも更に細い枝を伝い、その先にいる真っ白なふかふかした毛玉のようなものに手を伸ばしている。見れば、その毛玉には頭も手足もあり、虎の子の姿をしていた。

「あるじさんは、五虎退の虎が降りれなくなって困っているのを見つけて、それを下ろしてあげようとしてるんだよ」
「ああ、なるほど?」

 乱の説明を聞き、髭切も一応の納得をする。
 しかし彼女が載っている枝は、お世辞にも人間一人を支えるのに十分な太さはない。寧ろ、先ほどから何度か嫌なしなり方を見せていた。

「あ、あ、あ」

 五虎退が声にならない声を上げる。思わず手で顔を覆いつつも、指の隙間からこわごわ主の様子を窺っていた。
 根元で少年たちが騒いでいることなど歯牙にもかけず、主はその頼りない枝に体重をかけて、虎の子に向けて腕を伸ばした。差し出された救いの手に、虎の子も必死にしがみつく。
 腕にしがみつく虎の子を、主は安心させるように指先で優しく撫でた。
そして、下にいる少年たちを安心させるように、

「おーい五虎退、大丈夫だ、よ──っ?!」

 大声を発した瞬間、限界を迎えた木の枝がミシミシバキバキと嫌な音を立てて遂に折れる。ひゃっという空気を裂く悲鳴があがり、主の姿が木の上から消えた。
 何かを考えるまでもなく、反射的に髭切は落下地点に向かって駆け出す。タイミングよく落ちてきた主は、ちょうど彼の広げた腕の中に落ちた。
重力と相まってそれなりの衝撃が彼の腕に伝わる。けれども、この程度の衝撃で源氏の重宝たる彼が、主を取り落とすわけがなかった。

「ナイスキャッチ、髭切」
「どういたしまして。虎の方は?」
「無事だよ。こら、木に登るはいいにしてもあんなに細いところに登っちゃダメじゃないか」

 主は虎の子に懇々と説教をするが、今まさにそんな細いところから落ちてきた主を支えることになった髭切としては、一字一句本人に返したい気分であった。

「虎くん、無事でしたか?!」
「うん。平気平気。ついでに僕も平気」
「最近、この虎くん元気ないから心配だったんです……あれ」

 主の手から離れた虎の子は、耳をすこし下げて悲しそうに木を見上げる。五虎退がいくらお説教をしようとしても、まるで意に介していないようだ。
 主の手から離れてとぼとぼ歩く虎の子を、思わずその場にいる皆が目で追う。
 そのまま本丸の中に戻るのかと思いきや、不意に虎の子は弾かれたように顔を上げてある方向を見た。続いて、彼が見ている方向から、にゃーという可愛らしい鳴き声が聞こえる。そこにいたのは、一匹の三毛猫だった。

「猫さん、今日も来てるんですね」
「いつも木に登って遊んでるよね。ああ、だからあの子も真似したのかな」

 五虎退の言葉に、主もこくこくと頷く。
 すると、先ほどまでしょんぼりとしていた五虎退の虎が、水を得た魚のように猫に向かって不意に一直線に走っていった。

「あ、虎くん?!」

 五虎退の驚きの声など、虎の子の耳には入っていないようである。

「あれ、虎くん、なんだか急に元気になったような……」
「おっと、もしかしたらこれって」

 突然の虎の挙動に首を秋田は首を傾げる。一方、虎の子がまるで放たれた矢のように猫に向かって駆けてく様を見て、乱は楽しげにニヤニヤと笑う。
 三毛猫の側にやってきた虎の子は、尻尾を大きく揺らしながら相手の様子を窺っている。対する三毛猫の方はというと、尻尾をピンと立てて薄緑色の瞳で虎の子のくりくりとした瞳を試すように見ていた。
 視線に気圧されたように、虎の子は姿勢を低くして、細く甘えたような声を出す。その姿はさながら、何かお伺いでもたてているようだった。

「いやー、五虎退の虎も隅に置けないね」
「乱兄さん、どういう意味ですか?」
「秋田、簡単なことだよ。あの虎くんは、あの三毛猫ちゃんが好きなんだよ。だから三毛猫ちゃんと同じように木に登ろうとしたり、彼女の姿を見たら猛アタックしにいったというわけ!」

 腰に手を当てて力説している乱に、秋田はおおーと納得の声を上げてパチパチと拍手を送った。傍らから虎の子の控えめなアタックを見ていた髭切と主も、「なるほど」と同時に声を漏らす。

「あの三毛猫って女の子だったんだねえ」
「三毛猫はオスが滅多に生まれないらしいからね」
「ふうん。それで虎くんはご執心なんだ」

 主に三毛猫の性別について説明を受けて、改めて髭切は事態を捉えなおす。
 いくら虎が猫と似た生き物らしいといえ、猫からしたら虎は『似ているが違う何か』に過ぎないはずだ。現に三毛猫が虎の子を見つめる視線は、少し冷めたもののように髭切には思えた。

「が、頑張って……虎くん……」

 控えめながらも力の入った応援を五虎退から受けて、虎の子は意を決して三毛猫に擦り寄るように近寄る。三毛猫は鼻をふんふんと鳴らし、この白い自分に似た子供の様子を探っていた。
 虎の言語は流石に刀にも主にも分からない。無言の視線のやり取りを、その場にいた全員が固唾をのんで見守る。
 ぐるぐるという虎の子の低い声に、三毛猫の「んなぁ」という不機嫌そうな声が重なった。虎の子は更に一歩詰め寄ったが、三毛猫は背中を丸くして毛を逆立てて「ふーっ」と威嚇の声を上げた。
 いくら猫語も虎語も解さない者たちでも、この態度を見れば三毛猫の心中を思い浮かべるのはそう難しいことではなかった。

「虎くん、落ち込まないで……」

 すごすごと帰ってきた虎の子の頭を、五虎退はよしよしと撫でてやる。
 一方、大人の余裕とでもいうのか、ふんと鼻を鳴らした三毛猫は悠々と主たちの方に近づいてきた。

「ありゃ。こっちの方が好きなのかな」
「そうじゃなくて、僕がいつもおやつあげてるからそれじゃないかな」

 髭切の足元まで来て、にゃあにゃあと鳴き声をあげる三毛猫に主は待っててと声をかける。
 かけてから、

「ねえ、いつまでこの姿勢でいるの?」
「これ、気に入らなかった?」

 先ほど落ちてから、ずっと髭切に抱えられたままであることを指摘する。こてんと首をかしげる髭切に、主は呆れたようなため息をついた。

「下ろしてってば。重たいでしょう」
「はいはい。僕は気にならないんだけれどね」

 地面に足をつけた主は、ズボンのポケットから煮干しを取り出して、しゃがんで三毛猫に差し出す。待ってましたと言わんばかりに、彼女の掌のおやつに三毛猫は顔を突っ込んだ。

「小さな子供はお気に召さなかったのかな。五虎退の虎はいい子達だよ?」

 彼女は三毛猫に虎の子の推薦をしてみたが、肝心の猫の方は「あれは守備範囲外」と言わんばかりにしかめ面をしていた。

「まあ、虎だからねえ。猫ちゃんはお気に召さなかったかな」

 三毛猫の機嫌をとるために、主は彼女の顎をかりかりと撫でてやる。気持ちよさそうにゴロゴロと喉を鳴らす様子は、先ほど虎の子に見せた態度とはまさに雲泥の差だった。五虎退たちに慰められている傷心の彼が、少し可哀想になるほどである。

「猫は虎のことを好きになれないのかい」
「さあ? まあ、猫に恋する虎が変わり者なのだとは思うよ。好きになるかどうかは、個性の問題なんじゃない?」

 主の回答を聞いて、髭切は「ふうん」と気のないような返事をする。
 そんな二人のやりとりに露ほどの興味を持たない三毛猫は、もっともっとと煮干しをねだっていた。主はパッと両手を広げて、もう煮干しがないという仕草をしてみせる。代わりに、この食いしん坊な彼女の頭をよしよしと撫でてやった。
 特別サービスとばかりに、ごろりと寝そべる三毛猫に、主は今度は横腹を毛並みを整えるように優しく撫でていく。数分ほどされるがままになっていた三毛猫は十分満足したのか、不意に立ち上がって姿を庭の茂みの中に消してしまった。

「本当に、猫っていうのは気まぐれだね」
「もうちょっと撫でたかったの?」
「少しだけね。仕方ないけれど」

 肩をすくめる主の隣に、今度は髭切が目線を合わせるようにしゃがみこむ。

「ところで、主は虎に好きになられるのは嫌?」
「うん? いや、本物の虎に好きになられたら流石に困るよ」
「そっかあ」

 何気なく返事をした主の頭に、不意にぽんぽんと優しい感触が訪れる。それが隣の彼の手だと気が付いて、主は顔を上げて彼と視線を交わした。

「いきなり何?」
「いや、主はどちらかというと猫だなあって」
「猫は好きだよ?」

 首を傾げる彼女に、彼は手を伸ばして彼女の顎を指先で軽く持ち上げる。突然の行動に主が硬直していると、彼は中指を軽く曲げてくすぐるように動かしてみせた。その仕草は、まるで主が先ほどまで猫にしている仕草とそっくりだった。

「んん。何してるの」

 猫と違い、主はむずがるように首を軽く振って彼の指から逃げる。

「いや、主は猫だからこうされるのも好きかなあって」
「くすぐったいって。僕くすぐられるの苦手なんだから」
「そうなんだ。じゃあこちらの方がこの猫にはいいのかな」

 ぽんぽんとまた頭を撫でられて、主はため息をつく。
 彼も猫を触りたかったということだろうか。相変わらずこの刀の考えていることはよくわからない、という意味のため息だった。

「僕は猫じゃないんだけど」
「いやいや、十分猫だよ」
「どの辺りが?」
「寒いとこたつで丸くなるし、暖かいところでも丸くなってるし、夏は涼しいところで伸びてるし、木に登るし、美味しいものには目がないし、毛がふわふわしてるし」

 指折り数えていく彼に、主は「はぁ」と気の無い返事をする。

「たしかにそこだけあげれば猫っぽい、のかな」
「うんうん」

 納得してくれたのが嬉しいのか、八重歯をちらと見せて彼はにっこりと笑ってみせた。

「だから、これも好きなんだろうって思ったんだけど」

 また顎の下をくすぐろうと髭切は手を伸ばしたが、今度は先んじて主に顔をぶんぶん振られる。平時は穏やかな表情を見せる主ではあったが、度重なる髭切の行動に耐えかねてか眉間に小さな皺がよっていた。

「やめてってば。もう、猫扱いするならいっそ猫可愛がりの方にしてよ」
「主はお気に召さなかった?」
「くすぐったいのは嫌いなんだってば」

 プイと顔を背けて、藤は立ち上がって彼の隣を去ってしまった。残された髭切も後を追うように立ち上がり、本丸へと消えていく気まぐれな猫のような背中を見送る。

「うーん、嫌われちゃったかな」

 三毛猫につれない態度をとられて意気消沈としている虎の子が、髭切の目に留まる。
 一度の威嚇で肩を落とす虎の子は、まさに素直と言ってよかった。だが、その程度では自分は気を落とすことはないだろう。

「僕は、五虎退の虎くんほど聞き分けは良くないからね」

 つれない素振りを見せる猫を、虎の目は楽しそうにいつまでも追いかけている。
 その様はまさに『虎視眈眈』であった。
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