短編置き場

 お風呂というものは、人の心を開放的にする。普段の入浴でもついつい気が緩んでしまうのだが、温泉──しかも露天風呂ともなると、その開放感と来たら常のものとは桁違いだ。

「あ~、体に沁みる~~」

なので、こんな気の抜けた声が出てしまうのも許して欲しい、と藤は思う。審神者になって良かったと思うことは数あれど、今この瞬間もその一つに勘定してもいいだろう。
 万屋商店街の一角にできた旅館の開店に合わせて、主要な客層となる審神者と刀剣男士に一度試験的に利用してほしいと打診があったのが一ヶ月ほど前。厳正なる抽選の結果、当選のチケットをもぎ取ることができたのは応募用紙を物吉貞宗に書いて貰ったからだろうか。

「あの、藤様。私のようなものが一緒でよかったのでしょうか」
「気にしない気にしない。若苗だって本丸の一員なんだから」

 湯船の中で極楽極楽と鼻歌を歌う藤に声をかけてきたのは、最近彼女の本丸で預かっている少女──若苗だった。諸々の事件の渦中にいた彼女は、今は本丸で養生生活を兼ねて審神者である藤の手伝いをしている。

「そ、それに、ここは付喪神の皆様も入って来られるのでは」
「混浴と言っていた割には、着替えは男女別だったし、この温泉は女性用ってなってる所だから気にしなくていいんじゃない? ほら、入り口付近は女専用だって風呂入る前の案内板にも書いてあったよ」
「そうなんですね。そ、それなら……」

 と言いつつも、彼女はキョロキョロと落ち着きなく辺りを見渡してから湯船へと入る。
 若苗の心配は杞憂だったようで、いくら耳を澄ましてみても物音はしない。シン、と静まり返った露天風呂の中で聞こえるのは、遠くで鳴いている小鳥の声と木々が風に揺れる音だけだ。
 時刻は夕暮れ。夕飯を前にした時間ということもあって、多くの刀剣男士は部屋でくつろいでるはずだ、と藤は考えていた。本丸での風呂の時間は、多くは夕餉後に集中するからである。
 外に来たとしても、日常の習慣は簡単に抜けきれるものでは無い。つまり、晴れて女二人で広い露天風呂を独占できているというわけだった。

「お風呂の中で洋服着ているっていうのも、何だか変な感じだよね」
「湯着のことですか?」
「うん。ただタオル巻いてるだけって言うよりは安心できるね。一応混浴だから」

 藤の言う湯着というのは、脱衣所に置かれていたお湯に濡れても透けないキャミソールのようなワンピースのことだ。藤も若苗もそれぞれの名と同じ、薄紫と若草色の湯着を今は身につけていた。
 この旅館の名物でもある温泉は、女性用の脱衣所を出てすぐの所にある敷居で囲われた温泉を除いて、残り全てが混浴となっている。女性専用となっている藤と若苗がいる場所を除けば、性別関係なく湯に浸れる場所となっているのだ。奥まで行くつもりはなくても、万が一を考えて湯着を纏うのも必定と言えた。

「いい湯だよねえ」
「あったかいですね」
「今、事実上僕と若苗の貸し切りなんだよね。この温泉も旅館が開いた後だと、もっと多くのお客さんが来るだろうし」

 言いつつ、藤は大きく伸びをする。この開放感も今だけのものだと思うと、少しばかり淋しい。だからこそ今できることは今のうちにやっておけと、藤は若苗の側にすすす、と近づいた。

「ねえ、若苗。ちょっと訊きたいんだけど」
「はい。なんでしょうか」
「前より、胸、ちょっと大きくなった?」

 じーっと彼女の顔から肩、そして濁り湯の中に沈んでいる膨らんだ胸部に目を落とし、藤はぷに、とその麓を人差し指でつつく。

「あ、あのー……どうかしましたか?」
「いいからいいから、えいえいっ」

 ふにふにと指でその感触を楽しんだ後、藤は背後に回り若苗の脇の下から手を伸ばす。そのまま彼女のお腹を抱えるように抱きしめると、言い知れないむず痒さを覚えた若苗は耐えかねて笑い声をあげた。
 きゃあきゃあと歓声をあげながら、お湯の中での擽り合いを楽しむこと数分。ひとしきり笑い合って顔を真っ赤にした藤は、改めて若苗の胸をむにむにと掌で軽く触る。ほどよい弾力が返ってくる辺り、彼女の胸部は出会ったときより成長していると言って間違いないだろう。

「若苗の胸、大きくなってるね。前は結構痩せてたから心配だったんだよ」
「そんなこと、あるのでしょうか」
「あるある。男の人が育てちゃうんだよ、こういうのって」

 自分の絶壁な胸については棚に上げて、藤はいけしゃあしゃあとでっちあげの持論を展開する。
 こんな軽口を叩けるようになったのも、ひとえに彼のおかげだ。頭の端で端正なその横顔と柔らかな砂色の髪を思い出し、藤は自然と頬を緩めていた。
 以前の自分なら、どうしても己と比較してしまい体格差が気になって落ち込んでしまっていただろうが、彼と共にいることでどうやら後ろ向きな嫉妬心も宥めることができたようだ。

「じゃあ、私の胸もそうやって育ったんですね。付喪神様って凄いです!」
「うん。その発言を目をキラキラさせて言われると、流石に僕も申し訳なくなってきたよ」

 彼女の面倒を見ている膝丸が聞いたらどんな顔をするだろう──と思った折、どこかで何かが派手に水に沈んだような音がして藤は首を捻った。
 耳を再び澄ましてみても、何も音は聞こえない。気のせいか、と再び彼女は温泉の暖かさに体を浸したのだった。



「ねえ、お前」
「……何だ、兄者」
「知らない間に彼女の胸の発育に協力していたんだね。兄は驚かされたよ」
「そんなことはない!! ……むぐっ」

 派手に水音を立てて立ち上がりかけた膝丸の両肩を掴んで、髭切は勢いよくドボンとお湯の中に戻した。肩が浸かるところで留まらず頭まで沈みかねない勢いだったために、しばらく水面には薄緑色の小さな頭頂部が見えるだけとなってしまった。

「兄者、一体何をするんだ!」
「しーっ。僕たちがいるって気づかれるよ」
「いや、気づかれたところで困りはしないだろう?」

 膝丸が言うように、兄と彼がいる風呂場は高い敷居が女湯との間に隔てられている温泉の一つだった。案内板にも混浴と指定されていたこの温泉に、男が浸かっていてはいけないということは当然ない。
 更に言えば、念のために腰には男性用の湯着を着用しているのだから、責められる言われはどこを取ってもないはずだ。

「気付かれても困らないけれど、話さなくなっちゃうでしょう。主たちが」
「…………」

 先ほどの会話を、膝丸はついつい思い出してしまう。
 兄弟水入らずの入浴時間だと皆が気を回してくれたおかげで、周りには誰もいない。彼女たちが入ってきたことに気がついた後は、主たちが気兼ねせずに話せるようにと静かにしていたのだが、それが裏目となって盗み聞きするような形になってしまった。
 しかも、その内容ときたら。髭切に何も言われずとも気まずさで膝丸が湯船の中に沈みたくなるようなものなのだから、たまったものではない。何せ若苗の面倒を一番見ているのは、膝丸なのだ。藤の論でいうなら、彼女の胸を育てている男性というのはつまり──

「俺は先にあがる」
「今あがると、僕らがここにいるって物音で気付かれちゃうよ?」

 理論的であると同時に抜け目ない返しに、膝丸は言葉を失って引き上げかけた体を戻すことになった。
 二人の間にできた沈黙を破るように、女風呂からはそうとは知らない他愛ない笑い声が風に乗って流れてくる。耳を塞げばいいのに、寧ろそばだててしまう己を叱咤しながらも、膝丸は身じろぎもせずに聞こえてくる言葉に耳を傾けた。



「藤様も、何だかその……最近、いい匂いがしていると思います」
「実は、この前万屋で良い香りがするっていうシャンプーがあったから変えてみたんだ。でも僕じゃ髪の毛が短くてあまり変わった気がしないんだよね」
「ちゃんと香ってますよ。ほら、こうやって近くに寄れば」
「若苗、顔が近い近い」

 くすくすと囁くような笑いを暫し交わしあった後、藤は自分の短い朱色の髪を摘まんでみせた。今日は温泉に備え付けられていたシャンプーを使ったから、また違う香りがふわりと漂っている。
 ただ、若苗のまっすぐで長い黒髪と異なり、藤の髪は肩につくかつかないかの長さだ。風が吹いても彼女のように靡いて良い香りが広がるということはまずない。
 だから気付いてほしい人にも気付かれなかった──と、藤が内心でしょんぼりとしていた頃の気持ちを思いだしたときだった。

「髭切様も、主から良い香りがするって先日言っておられましたよ」

 若苗からの思いがけない情報提供に、藤は顔を真っ赤にする。夕日よりも尚濃く頬を染めた彼女は一度湯の中に顔を沈めてみたものの、熱は全く引いてくれそうもない。

「そ、そ、そんなこと、言ってたの!?」
「はい。藤様を遠くから眺めて、そのように」
「き、気付いてたんだ……」

 自分の体を抱きしめるようにしながら、彼女は露店風呂のへりである岩にへなへなともたれ掛かった。
 意識している相手に些細な変化を気がついて貰うというのは、気恥ずかしさと嬉しさがここまでこんこんと湧き上がるものだったのかと驚かされる。つい先ほどまで落胆していたというのに、今では心臓が早鐘のように鳴っていた。

「でも、少し残念そうでした」
「残念そう? ……嫌いな香りだったのかな」
「いえ、そういうわけでなくて。どうせなら……ええと、僕の香りだといいのになあ、と」

 再び、藤の頭はお湯の中にどぼんと沈む。慌てた若苗に救出された彼女は、風呂のへりにしがみつくようにして己の中に湧き上がる言葉にできない恥ずかしさと戦うことになっていた。
 別に本人に直接言われたわけではないというのに、どうしてここまで体が熱くなってしまうのだろうか。温泉のお湯の温度が高いのだろう。きっとそうだ、と藤はめまぐるしく考えを切り替えていく。

「あ、あの、藤様。もしかして、温泉が熱くて真っ赤っかなのですか?」
「そうかもしれない……。若苗の方は、大丈夫?」

 健康優良児の藤と違い、若苗は一応病み上がりのような身であるし見るからに華奢だ。よくよく見れば、彼女の白い肌は桜色にほんのりと色づいていた。頬を染める色も、常のものよりもずっと鮮やかなものになっているが、それは見ようによっては逆上せているとも言えるものだ。

「実は、少し頭が痛いような気がしているのです」
「それは良くないよ。立てる?」
「はい。それは大丈夫そうです。藤様はどうしますか?」

 風呂場から上がった若苗は、ぱたぱたと小さく手で顔を仰ぎながら藤に尋ねかける。問われた彼女は、ちらりと敷居の向こうに目をやった。
 恐らく誰もいないはずの露天風呂で、敷居を気にせずにのんびりと湯に浸かるのも悪くなさそうだ。それに、今外に出てうっかり髭切に会いでもしたらどんな顔をすればいいか分からない。
 火照った気持ちを静めるためにも、もう少し一人の時間を楽しもうと藤は結論を出した。

「僕はまだ入ってるよ。折角だし、向こうの方も見てこようかな」
「わかりました。あの、お気をつけて」
「若苗は大袈裟だなあ。どうせ誰もいないのに」

 からからと笑う藤は、当然知る由もなかった。その敷居の向こう側に、自分が顔を合わせられないと言った相手がいることを。



「彼女、お風呂あがるみたいだね」
「兄者、その何か言いたげな目線は何だ?」
「今タイミングを合わせて出たら、逆上せて少しふらふらしている彼女の手伝いができるのになあ、と」
「…………」

 そんな下心丸出しで彼女に近づくのは言語道断だと、膝丸は首を横に振った。だが、

「それに、足元がおぼつかないと転んで怪我しちゃうかもだよね」

 などと言われると、途端にそんな光景が目に浮かんでしまう。
そこまで運動神経がいいわけでもない彼女のことだ。ふらついた足元で段差に躓き、バタンと転んでしまうのが目に見えるようである。

「兄者、俺は先にあがらせてもらう」
「はいはい、僕もちょっとしたら行くよ」

 お湯から出ていく弟の後ろ姿にひらひらと手を振り、彼が完全に脱衣所に入ったのを確かめてからちらりと温泉の更に奥を見る。
 何度も確認しているが、ここは混浴だ。だから、うっかり女性と出会ってもお互い何の問題もない。追い出される言われもなければ、批難される理由もない。
 そのことを今一度確認してから、髭切も湯の中から体を出す。彼の鋭敏な耳は、脱衣所に戻る少女の足音と重なってこちらへと向かう足音もまた聞き分けていたのだった。



 この先混浴と示された案内板の向こう側は、露天風呂という空間の性質をこの上なく生かした開放感に包まれた浴場となっていた。
 空を見上げれば、赤色に染まった空が徐々に薄闇に染まっていくのが見える。昼と夜のあわいが織りなす空模様は、見る者の心を奪うに相応しい景色だった。

「あー、これは絶景だ。温泉についてのアンケートには、この景色のことも書いておかないと」

 一応試験運用のモニターとしての立場を思い出し、藤はそんなことを呟きながら手近な温泉へと入り直した。
 風で少し冷えた体にじんわりと熱が戻ってくる。肩まで沈みこむと全身を優しく包むお湯の熱が彼女を包み、誘われるように藤はうつらうつらと舟をこぎ始める。先程まで荒れ狂う波のようになっていた気持ちを凪いだものに戻そうと、お湯の流れる音にだけ耳をすませて、のんびりと優雅な空気に己を溶け込ませる。
 どこかで鈴を転がすような虫の音がしている。目を閉じれば、ここはまるで俗世から離れた別世界──と夢うつつになっていた彼女の耳は、しかしペタペタと誰かが歩いている足音を聞き逃しはしなかった。

(誰かいたんだ。うるさくして邪魔だとか思われてなかったかな)

 貸切みたいなものと豪語していたが、混浴の方には人がいたのかと知った藤は少しばかり恥ずかしさで顔を赤くする。
 いたのは誰だろうか。一人静かに入っていそうな人物として心当たりがあるとしたら、歌仙や小豆だろうか。会話の内容を聞かれてはいないといいが、と後ろを振り返り、

「げっ」
「主も来ていたんだね。どうしたの、蛇が絞め殺されるような声を出して」

 砂色のふわりとした髪を湯気に小さく靡かせてそこに立つ青年を目にした藤は、目を見開き暫し硬直した。
 先ほど、どんな顔をして会えばいいか分からないと言った相手が眼前にいる。その事実を理解した彼女の顔は、熟れたトマトのように赤くなっていった。
 いいお湯だよね、などと言いながら当然のごとく隣に入ってくる彼を、言葉で制止する余裕など微塵もない。口を動かせるようになる頃には、既に彼女の隣で髭切がゆっくりと肩までお湯に浸かっていた。

「ひ、髭切、どうして」
「ここは混浴だよ?」
「いや、そうじゃなくて! そうだけども、そうじゃなくて!!」

 彼はいつだってこうだ。こちらの準備が整うより先にこちらの空間に滑り込んでくる。
 そして慌てふためくのはいつも自分だ。分かっているのに彼に気を許してしまうのは、好きになってしまった相手だからだろうか。
 思考を無意味に空転させていた藤は、ふとあることに気がつく。髭切の足音がしたのは、藤がいる温泉よりも奥ではなく、どちらかというと手前の方だった。
 つまり、彼は先ほどまで奥にいたのではなく、脱衣所のある入口側にいたというわけだ。若苗と歓談をしていた自分たちがいた場所も、当然手前の入口側だ。
 それの意味する所に気がついた藤は、恐る恐る己の推測について髭切に尋ねる。

「あのさ……もしかして、ずっと、温泉にいたの?」
「最初は弟もいたんだよ。兄弟水入らずで過ごしてきたらって言われてね。でも弟の方があの子の面倒見るために先に外に出ちゃってねえ」

 自分から半ば唆しておきながら、いけしゃあしゃあと髭切はそんなことを口にする。

「……もしかして、もしかしてだけど、聞こえてた?」
「あの子と楽しそうに話してたね」

 ただそれだけで、返答としては十分すぎた。無情にも、女子二人の秘密のお喋りは彼らの方にまでばっちり響いていたらしい。

「……あのさ」

 歯切れ悪く問いかけた藤は、もののついでと開き直り、先程聞かされたことを本人に尋ねようと決める。

「髪の香りのこと、気がついてたって本当?」
「うん」

 それがどうしたと言わんばかりのさらっとした回答だが、一人舞い踊っていたわけではないと本人の口から聞けた嬉しさで、藤の頭は歓喜で爆発しそうになっていた。
 同時に、頬にのぼる熱も桁違いに増えていったわけではあったが。

「そ、それと……僕の香りだといいのにって、どういうこと?」
「ああ、それね。口にしたつもりではないけど、彼女には聞こえちゃったのかな。僕の使っている香の香りが主からしたらいいだろうなって思ったんだよ」

 たしかに、刀剣男士たちの一部は万屋で買ってきたお香を焚いている者もいる。そのことについて主である藤は、皆からいい香りがすると無邪気に喜んでいた。
 だが、今急にそんなことを言われると妙に違う意味を伴っているように聞こえてしまうのは何故だろうか。単純にお揃いなことが嬉しいのだろうと解釈して、藤は早とちりしかねない自分の心にブレーキをかける。

「今度、主にもお裾分けしてあげるね」
「う、うん。ありがとう」

 髭切の好きな香りのお香でも譲ってもらえる。ただそれだけだ、と分かっているのに心臓の鼓動のうるさいことと言ったら、彼に聞こえてしまうのではないだろうかと思うほどだ。

「その……髭切が好きな香りって、どんな香りなの?」
「うーん、弟が買ってきたものを適当に使っているだけだからねえ。あ、今は白いのが好きかな」

 その場に膝丸がいたら、「白檀だ、兄者」と訂正をしただろうが残念ながら今彼は髭切の側にはいない。哀れな藤は、何だか白いのが好きらしい、という曖昧な知識しか得ることができなかった。

「あ、今日は僕も髭切も同じ旅館のシャンプー使っているから、同じ香りだよ。お揃いだね」
「うん? ああ、そうだね。主と同じ香りが僕からもする」

 言われて気がついたようで、髭切は自分の髪を引っ張って鼻に近づけ、すんすんとその香りを嗅ぐ。大して気にも留めていなかったが、すっきりした香りが彼の鼻の奥を掠めていった。

「でも、どうせなら独り占めにしたいんだよね」
「ん? 髭切、何か言った?」
「何も言ってないよ。主、もう少し側に行ってもいい?」

 既に側にいるのでは、と言い出すより先に、髭切は肩が触れるのではないかと思うほど藤の側に寄る。
 照れが勝って流石に逃げ出すのではと危惧した髭切は、おやと微かに眉を上げた。藤が頭を彼の肩にこてんと載せて、ぎゅうと目を閉じながら震える唇で、

「もう少し……こうしていても、いい?」

 珍しく彼女から甘えるようなことを口にしていたのだ。当然、断る理由などない。

「うん。僕もそうしたいって思っていたから」

 いつしか空は夕の朱色から完全な夜が訪れようとしていた。
 温泉のあちこちにつけられている明かりが灯るまで、二人は宵の静けさに暫し浸っていたのだった。



 兄がのんびりと主と星見の湯につかっている頃。
 膝丸は脱衣所で手早く浴衣に着替え、脱衣所前でウロウロしながら若苗が出てくるのを今か今かと待っていた。
 刀剣男士と審神者が共に使用することを考えられた露天風呂だけあって、女性の主が火急の時にすぐ駆けつけられるように脱衣所の入り口自体はお互い近くに作られている。
 が、それはそれとしても姿を見せるまでは落ち着けはしないというのが、膝丸の心情だった。

(風呂上がりにのぼせて倒れるようなことになってないといいのだが、いやしかし女人の着替えの場を覗くわけにもいかない……)

 などと悶々とすること十数分。ペタペタという足音をようやく耳にして膝丸は行ったり来たりを止める。
 果たして、程なくして入り口にかけられていた暖簾をくぐり、一人の少女が顔を出した。伸びたまっすぐの黒髪を流すがままにしている彼女は、膝丸を見るとパッと顔を輝かせる。

「あ、膝丸様。膝丸様もお風呂に?」
「い、いや、少しこの辺りを歩いていただけだ」

 髪の毛は湯でしっとり濡れているのだから先ほどまで温泉にいたことを隠しきれるわけもないのだが、純朴な若苗は膝丸の誤魔化しを間に受けたようだった。
 奇遇ですね、と邪気のない笑みを向けられて、膝丸は猛烈な居心地の悪さに襲われる。まさか女風呂の会話を盗み聞きしていました、とも言えない。言ったところで彼女は多分、おそらく、きっとそこまで気にしない──はずだ。
 なにせ、この娘ときたらまるで七つの童のように無邪気で純粋なのだから。

(いやしかしだからと言って隠し事などをして良いのだろうか。兄者はああ言っていたが、流石に知らぬ存ぜぬで通すのは)
「きゃっ」

 などと取り留めもない思考を重ねていても、小さな悲鳴を膝丸は聞き逃さない。
 ハッと視線をやれば、目の前に立っていたはずの彼女の体が傾ぎ、こちらに倒れこもうとしていた。咄嗟に伸びた膝丸の腕が転びかけた若苗の体に伸び、間一髪彼女を抱き支える。

「大丈夫か? やはり逆上せていたのか」
「お家のお風呂より温度が高かったもので……少しくらくらしてしまいました。藤様が言っていた通りでしたね。膝丸様も、すみません」
「いや、これしきのこと」

 大したことない、と続けるつもりだった。
 しかし、膝丸は気がついてしまう。妙に腕に当たる柔らかな感触。己がとっさに伸ばした手は彼女の二の腕と──胸のあたりを掴んでいた。
 気がついた瞬間、膝丸はまるで電流でも走ったかのようにばっと手を離すが時既に遅し。憎らしい己の掌は、あの妙にふっくらとした弾力が齎す感触をしっかり覚えてしまっていた。

「す、す、すまない。そんなつもりではっ」
「膝丸様?」

 膝丸のおかげで姿勢を戻せた若苗は、乱れた温泉浴衣を直すこともせずにキョトンとこちらを見ていた。
 気まずい。とても気まずい。
 相手が何も意識してなさそうというのが、余計に膝丸の気まずさを加速させる。
 こういう時彼女の純粋さに感謝するべきなのだろうか。いやむしろ、本人から平手打ちを貰った方がマシだったのではないか。
 いっそこの場に穴があったら埋まりたいと、膝丸は内心で冷や汗をだらだらと流していた。

「どうかされましたか?」
「……何でもない、何でもないのだ」
「ああ、膝丸様。そういえばお伝えしたいことがあったのです」

 自分の胸元に手を添えた彼女は、まるで花がほころぶような笑顔を膝丸に向ける。

「先程藤様とお風呂に入っていた時に、私の胸が少し大きくなったと藤様が言っておりました。藤様曰く、これも膝丸様のおかげではないかのことで、感謝を伝えねばと」

 何故か世紀の大発見でもしたかのように、彼女は瞳を輝かせていた。
 まさかさっき聞いていたので知っているとも言えず、加えてこの純粋な上に天然が重なったような娘に対して「人前でそのようなことを口にするものでなく、更に言うなら本人に報告するものでもない」と言いたかったが、あまりの衝撃に膝丸の口から出たのは言葉にならない呻き声だけだった。
 よりにもよって彼女の言葉のせいで先程掌が記憶した柔らかな感触をありありと思い出してしまい、膝丸は再び自分が埋まる穴を探したい心持ちになってしまっていた。
 助け舟になるかもしれない主こと藤は、まだ温泉の中だろう。早く出てきてくれと願うも、無情にも彼を置いて時は過ぎていく。

「やっぱり膝丸様はすごいです。私を元気にするだけでなく、体を育ててもくれたんですね」
「後生だから若苗、そのことを兄者や他の者の前で言わないでくれ。俺の胃が保ちそうにない」
「私が話をするとお腹が痛くなるのですか? では、控えておきます」
「いや、喋るなというわけではなくてだな。その、成長の話は止めてほしいと言っているのだ」

 何か勘違いをしているらしい若苗に必死の訂正をしつつ、膝丸はぽんぽんと彼女の濡れた頭を撫でる。
 彼女の無邪気さにつけ込んでしまう形になっていることの心苦しさに胸の奥から嫌な痛みが響いてきた気がするが、今はまだそれは黙っておくこととした。

「そういえば、今日は髭切様はご一緒ではないのですか?」
「あ、兄者は今、少し別のところにいる。それより先に部屋に戻るとしよう。そろそろ夕餉の頃合いだ」

 もしこのタイミングで髭切が戻ってきたら、おそらく延々とからかわれ続けるのが目に見える。そのことを予想した膝丸は彼女の背を押すようにして、その場を後にせんと歩き出す。
 共に歩き出した若苗が無邪気な子猫のように腕を絡めるのを見て、膝丸は思わず少しばかり口角を緩めた。その程度は、どうか許してほしいと誰にとも知れず彼は乞うのだった。
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