本編第一部(完結済み)

 雪。それはただの氷の粒であると書物にはあったが、初めてその現象を目の当たりにした者は総じてこう言う。
 ――綺麗だ、と。

「かーっ、絶景だねえ! いやあ、酒も美味くなるってもんだよ!」
「次郎はどんな景色でも美味しそうに飲むよね」

 縁側に腰掛けていた髭切は、次郎に話しかけつつも、自分の側に置いてあった猪口を呷る。

「積もったねえ」

 彼の眼前に広がっている庭は、昨晩と異なり一面の雪に覆われていた。午前中から降り始めた雪は夜まで降り続け、つい先ほどようやく止んだのだった。
 顕現して初めて見た雪に興奮した物吉が、主のいる離れに不躾に飛び込むのもやむを得ないと思うほど、空から延々と舞い落ちる白い粒に皆が心を奪われていた。
 とはいえ、その興奮も流石に夜になる頃には収まっている。五虎退や物吉が嬉々としてつけて回った足跡も再び雪によって蓋をされて、まるで一枚の銀の板のように整えられていた。縁側から漏れ出る本丸の明かりに照らされたこの景色は、この世のものとは思えない美しさを秘めて広がっている。
 そんな風情ある景色を眺めながら一杯どうだと誘われて、髭切と次郎はこうして縁側にいるのだった。

「主もこっちに腰を落ち着けたみたいだし、歌仙もやーっと肩の荷が下りたってところかね」
「それでも気を回してあれこれしているみたいだよ。今日の夕飯、主がいつもお代わりしてたものばかりだったから」
「うちの大将はほんと、気遣いしいだね。アタシみたいに適当にぱーってしてりゃいいのに」
「そういう君も、じゃないの?」

 髭切は隣でからからと笑う次郎太刀を見て、目を細める。次郎の器を測り、試すかのような表情だった。対する次郎も酒で少し赤くなった顔を、意味ありげににっこりとした笑みで埋める。

「ねえ、次郎。適当にぱーっとしてる方が、主も気が抜けるから君はそうしているの?」
「そりゃアンタ、アタシを買いかぶりすぎだよ。アタシはそんなに細かいこと考えちゃいないさ」

 髭切に倣って猪口を呷り、今は夜の闇の中、ぼんやりと白く浮かび上がっている雪景色を次郎はじっと見つめる。

「たださ、なーんか無理してるように見えなくもないんだよね。主、ああ見えて結構真面目にアタシたちの主でいようってしてくれてるだろう? そりゃ、アタシたちはその方が嬉しいし、楽だけどさ」

 次郎は猪口を空へと掲げるようにして持ち、雪雲の向こうに隠れた月へ乾杯を捧げながら、言葉を続ける。

「アタシたちが楽なのと、主が楽なのは別だろうからね。主はそんなことないって言うんだろうけども」
「驚いた。次郎って本当にちゃんと考えてるんだね」
「アンタ、アタシを褒めてるのか貶してるのか、どっちだい!?」

 本日分の酒を飲みきった次郎は、髭切の頭を少し乱暴にぽんぽんと叩いてから縁側を立った。月見酒も今夜は終いのようだ。

「ま、主だって一人になりたいって思う時があるだろうし。そうなったらそうなったで、アタシは黙ってここで待ってることにするよ。主がまた戻りたくなったら、いつでも帰れるようにさ」

 ぱちんと片目を閉じてみせた次郎は、徳利と猪口を持って厨に向かっていってしまった。
 残された髭切は、自分の分の猪口を指で軽く弾く。中身は既に空になっており、チン、という澄んだ音が雪景色へと吸い込まれていった。

「主は、これでよかったのかな」

 昼間は五虎退と物吉に混じって、藤も少し雪の中を戯れていた。
 けれども、仕事の疲労が溜まっていたのだろうか。それとも、単に寒いのが苦手なのだろうか。夕方前に彼女は室内に戻り、部屋にある炬燵に入ってからはじっとしたままだった。髭切も彼女に向かい合うように炬燵に潜ってみたが、当の本人はそのまま眠ってしまったので禄に話もできていない。

「畑の仕事も、最近は全然しなくなったよね。冬だからかもしれないけれども」

 言いつつ、髭切は視線を庭の端に向ける。そこには本来、秋の収穫に向けて植えた野菜があった。だが、一週間前に髭切が全て片付けたため、雪の下にはただ一面に黒い土があるばかりである。
 畑仕事は、主がいつも采配を振るっていた。だから、彼女がいなくなってしまえば当然何をすればいいか、皆分からなくなる。髭切も冬という季節に合わせて何を育てればいいか分からず、片付けることしかできなかったのだ。
 夏の頃にはあんなに意気揚々と鍬を振るい、畝を作っていたというのに。まるで、彼女自身に冬が訪れたかのようだ。
 代わりというわけではないが、夏からずっと主の畑仕事の手伝いをしていた髭切は、畑の手入れをよくするようになっていた。習慣になっていたというのもある。だが、ただの日課で髭切は畑に赴いていたわけではない。彼女が再びこの畑で野菜や花を育てたいと思った時に、荒れた状態になっているのは見せたくはないと考えていたからだ。

(皆、形は違うけど、主のことが大事って気持ちは一つなんだろうね)

 主の部屋はいつも誰かが掃除しているのか綺麗に片付いていたし、彼女が仕事で夕飯はとらないと言ってきても歌仙はいつも主の好物を必ず一品作っていた。五虎退と物吉はことある度に主の部屋を覗き、虎の子ですら彼女の部屋に居座ろうとしていた。
 次郎は次郎でいつもの様子だったが、先ほど話した限りでは、彼が何も感じていないということはないだろう。主が不在のときは、いつもより飲む酒の量が少なかったのを髭切は知っている。

「主は、皆の主として慕われている。それは惣領として良いことだと僕は思うんだ。でも」

 目を伏せれば、先月行われた演練の際に出会った三日月宗近の言葉を思い出す。
 ――貼り付いて剥がれぬ、灼けた鉄の面のようだ。
 確かにそう感じる瞬間は増えた。元から主は相手を安心させるように笑いかける人物だとは思っていたが、意識すれば尚際立って見えるものもある。
 気にしすぎると言われればそれまでではあるが、彼女が本丸から離れていた数週間、ずっと髭切の心に引っかかってはいた。

「歌仙は何も気にしていないようだけれど……」

 実際、彼に相談しようかと考えたことはあった。だが、あれが自分たちを安心させるために向けたものなのではと考えてしまうと、躊躇がどうしても生まれてしまう。
 主が心配をかけまいとそうしているのなら、出来るだけその意思は汲みたかった。たとえ、もどかしい思いを抱いていたとしても。
 一通り思考の整理を終えた髭切は、大きく伸びをする。そのまま自室に戻ろうと立ち上げかけて、何気なく庭を目にし、彼はぎょっとした。

「……主?」

 雪が積もった庭をふらふらと歩いて行く人影が、彼の目に留まる。何か考えるより先に、髭切は上着をひっつかんで縁側から庭へと降りた。


(……綺麗だなあ)

 久しぶりにゆっくりと散策をしている庭は、雪のせいもあってか、どこか別世界に迷い込んだような錯覚を藤に覚えさせる。遠くに見える畑は収穫物が何もないせいか、起伏が少なく、さながら一枚の白い氷の板のようだ。
 誰かが手入れを続けてくれているのだろうかと考え、藤は自嘲の笑みを口元に浮かべる。
 誰か、なんて言う言葉は、随分と自分勝手で無責任な言い草だ。本来、世話をするべきは主である自分の筈なのに。
 畑から視線を外して、藤は一面の銀世界の中に薄ら浮かび上がった石畳の上を、ふらふらと歩く。目的など最初からない。ただこの白い世界を窓からずっと見ていたら、外を歩きたいと思ったというだけのことだ。
 やがて、彼女は庭の中の、ある場所で足を止めた。
 雪で真っ白な屋根ができたようになっている藤棚。そこは、本丸で初めて過ごす夜に訪れた場所でもあった。
 秋が過ぎ、冬になる前に政府の役人にである富塚に頼んで一度剪定の業者に手入れをしてもらった。おかげで、今は枯れた蔓がほうぼうに伸びるだけの寂しい姿を見せている。

「……狭野方の、花」

 ここで歌仙が教えてくれた、藤の異名。その単語は、藤にとって聞き馴染みのある言葉だった。
 幼い頃、母や村人たちは何度かこの名で彼女を呼んだ。
 狭野方の花のお姫様、と。
 とりわけ可愛がられるときに呼ばれた名だから、彼女にとってこの言葉は、暖かい思い出と繋がったものになっていた。
 特に深い意味で捉えてはいなかったが、歌仙が教えてくれた内容のおかげで彼女はようやく理解することができた。言葉の意味も、何故そう呼ばれていたのかも。

「ここで、何をしているの」

 物思いに耽っていた藤は、背後からの呼び声にハッとする。振り返ればそこには、髭切が立っていた。普段彼が浮かべている笑顔は、今は少し曇っているように見える。

「体を壊してしまうよ。人の子は寒い所にいると体調を崩すんだよね?」
「大丈夫だよ。セーターも着込んでるし、別に薄着なわけでもないから」

 彼女が言うように、今の藤は暖かそうなセーターに長ズボンという出で立ちだ。野暮ったさが目立つくすんだ黒のセーターは、お世辞にも彼女に似合っているとは言い難いが、防寒の役にはたつだろう。
 だが、室内ならともかく、夜の雪の庭を歩くのには些か物足りないのではと髭切は思う。

「ここに用があったの?」
「用ってほどでもないけど、綺麗だなと思って」

 言いつつ、藤は藤棚の下にあるベンチに腰掛ける。幸い、棚の上を四方八方に伸びる蔓のおかげか、座る所に雪は殆ど積もっていなかった。
 彼女の隣に肩を並べるように、髭切も腰を下ろす。すぐに部屋に戻るつもりがなさそうだ、と判断した彼は、自分がひっつかんできた上着を藤の肩にかけた。髭切の熱で温められたそれは、彼女の冷えた氷のような体にじんわりと熱を送り始める。

「ここに生えている木みたいなものは、何ていう名前なの?」

 黙りこくっているのも何だから、と髭切は天を見上げて藤に問いかける。

「これは藤っていうんだよ」
「主と同じ名前なんだね」
「うん。僕の花でもある、かな」

 髭切に倣い、藤も目を細めて藤棚の上を覆う蔓たちを見つめる。白い雪と縦横無尽に駆け巡るそれらが描く幾何学模様は、まさに自然が作り出した芸術と言えるだろう。

「これさ、狭野方の花って言う名前でもあるんだって。歌仙が教えてくれたんだ」
「さのかたの、はな」

 彼女が口にした聞き慣れないはずの文字の並びを、しかし髭切は知っていた。
 秋の足音がまだしていた頃、弟の面影を求め、自分という物語に煩悶していた時期。
 己にまつわる悪夢のような夢に溺れていたとき、主が聞かせてくれた子守歌の歌詞にあった言葉だ。
 いや、あの歌を歌っていたのは主ではなく、夢の中にいたもう一人の誰かだったと彼は振り返る。幼い子供をあやすように口にしていたその歌を、まるで導かれるように髭切は紡ぐ。

ねんねんころりよ  おころりよ
  おひいはよい子だ  ねんねしな

  おひいのお守りは どこへ行った
  お角を生やして  山へ行った

  山のめぐみに  何もろうた
  狭野方の花に  あけみの実

「……髭切、その唄は?」
「どこかで聞いた気がするんだよね。変だった?」
「ううん、そうじゃなくて。僕も、昔聞いた気がしたから」

 どこで聞いたんだろう、と藤は口元に寒さで冷えて赤くなった指を当てて考え込む。考え込んでいるはずの彼女の口元にはいつもとは違う、唄に誘われるように生まれた柔らかな微笑があった。
 淋しげではあるものの、同時に何かを懐かしむような暖かさも混ざった笑みは、この唄を歌った人を思ってかと髭切は考える。

「僕が知っている童謡と髭切が歌ってくれたものとじゃ、歌詞が全然違うね。狭野方の花にあけみの実……か」
「あけみ」

 何とはなしに彼がおうむ返しで繰り返した筈の単語に、藤は弾かれたように顔を上げた。まるで、誰かに呼ばれたかのように。

「あけみっていうのは、どんな植物なの?」

 しかし、髭切がしているのはただの質問だと気がついた藤は、すぐに小さく頭を振る。彼女の口の端から覗いていたのは、どういうわけか安堵のようなものでもあり、けれども何かを残念がっているような顔にも見えた。

「多分、それはアケビのことだと思う。秋に実がなる植物で、花も実も綺麗な紫色なんだ」
「それは、畑で育てられるもの?」
「畑で育てているのはあまり聞かないかな。きっと、裏山には生えているよ。でも、もう冬が近いから実はないかもね」

 他愛のない話題であるはずなのに、言葉を交わしていくうちに藤の頬が少しばかり紅色に染まる。この話は彼女にとってきっと心惹かれるものなのだろう、と髭切は推察し、話題をもう少し広げようと更に言葉を続ける。

「じゃあ、この藤の花はいつ咲くんだい?」
「だいたい五月かな。僕の生まれた時も、山藤がそれは見事に咲いてたそうだから」
「主の生まれた時っていうのはいつなの?」
「五月四日。藤の花の季節なんだ」

 彼女の言葉を受けて、髭切はもう一度宙に張り巡らせた藤の蔓をじっと見つめる。既に葉も落ちてしまったうら寂しい姿からは、彼女の言う花がどんなものかなど、まるで想像できない。けれども、どこか嬉しげに語る様子からは、藤にとってこの花は特別に好きな物なのだということだけは、十分に伝わってくる。

「じゃあ、五月四日になったら、主と一緒にここに来て藤の花を見たいな」

 リンドウの花を前にして、あれほど顔を輝かせて走り回るほどに喜んでいたのだ。きっと、彼女の名でもある藤の花を見たらもっと喜ぶだろう。探していたあの笑顔も、浮かべてくれるかもしれない。
 まるで年端もいかぬ子供のような単純な思いつきではあった。が、髭切にとっては状況を打開するための策の一つだ。故に、機を逃す前にと更に言葉を重ねていく。

「半年後の約束にしたいんだけど、だめかな?」
「いいよ。髭切が、そうしたいなら」

 言いつつ、藤は小指をピンと立てて髭切に差し出した。一体どういう理由でそのような所作をしているのか分からず、彼はこてんと首を傾げる。

「指切りっていうんだよ。ほら、こうやって」

 手袋に包まれた髭切の手から小指を選び取り、藤は自分の細い指へと絡めていった。彼女の指が冬の冷気ですっかり冷え切っていることに気がつくより先に、

「指切りげんまん、嘘ついたら針千本のーます。指切った」

 パッと小指が離れる。ひんやりとした感触が微かに残る小指を髭切はまじまじと見つめた。彼女が一体今何をしたのかを、どうにか理解しようと思考を回転させるかのように。

「指切り……つまり、指を切って誓いの証にするってこと?」
「そこまで物騒な意味はないよ。さっきのはおまじないみたいなもので、約束を破らないようにしようってこと」

 ぴこぴこと小指を動かす藤は、どこか楽しそうに口元を緩めていた。その微笑は、髭切が探している弾けるような笑みにどこか似ているようにも思い、思わず身を乗り出す。
 思いがけなく距離を詰められて驚いた藤は、たじたじになりながら、

「ど、どうしたの?」

 と、目を少しばかり見開いて尋ねる。
 じーっと彼女を見つめていても答えが見つかるわけもなく、髭切は近づくのと同じくらい呆気なくひょいと体を離した。
 上体を動かした弾みで、彼の視界に畑があったはずの場所――今は雪が綺麗に積もっている庭の隅が目に入る。縁側から庭に出る前に考えていたことを思い出し、髭切は畑についても彼女に尋ねようと決める。

「冬は畑の仕事、何かした方がいいかな」
「こんなにも雪が降るなら、植えても流石に生えてこないかもね。でも、少しは試してもいいかも」
「例えば、冬はどういうものが植えられるの?」
「大根、とか。冬の大根は煮物向けなんだよね。煮崩れしにくくて、しっかりと味が染みこませた味噌おでんとか、凄く美味しいんだよ」

 再び冷えているはずの彼女の頬に、パァっと紅が差す。
 その味噌おでんとやらの料理に思いを馳せているからだろうか。ここ最近見かけている仮面のような笑顔とは違うと、確信を持って髭切にも言えるほど顕著な差があった。ならば、この話題を更に続けようと髭切は言葉を探す。
 自分でもどうしてここまでムキになっているか分からない。細かいことはどうでもいい。そう思いがちな筈なのに、自分ことですらない主のことを気にしてしまう。彼女を放っておきたくないと、口が勝手に動いてしまう。

「ええと……そうだ、主は花を育てるのが好きなのかい?」
「藪から棒にどうしたの、髭切」
「いいから」

 強気で会話を押し進めていくと、藤は気圧されるようにこくりと小さく数度頷いた。

「花……というよりは、畑とか、緑が好きなのかな。育てたら食べられるからっていうのもあるし、見ていて綺麗だなって思うし」

 話しながら藤は辺りを見回してみたが、今は緑より雪の白が目立ってしまっている。たとえ雪が溶けたとしても、今度は緑ではなく、黒々とした土や枯れた葉が見えるだけだろう。それを思うと、冬は主にとって好きなものが見えなくなる季節ということかと、髭切は考える。

「それに、土の匂いは懐かしいんだ。故郷が、見渡す限り自然しかないような場所だったから」
「そこは、冬になるとここみたいに雪が降るの?」
「うん。すごく降る。だから冬の準備は死活問題で、食べられるものはできるだけ長く保存できるように、皆で塩漬けにしたり干したりする。火が足りなくならないように、薪はたくさん用意する必要があるし、建物の傷んでるところは直しておかないといけない。冬の準備のために、他の季節があるって言ってもいいぐらい」

 その暮らしぶりを聞いて、髭切は驚きのあまり数度ぱちぱちと瞬きをした。彼女の話す故郷での暮らしと、彼の知る人間の暮らしが違いすぎたからだ。
 本丸に顕現してから今までの暮らし以外の生活というものを、当然髭切は知らない。彼が刀として扱われていた時代の暮らし向きを、今のように自分の目で直に見たことはないから、彼はぼんやりとした体感でしか過去の生活を認識していなかった。故に、他と比べることもできはしなかった。
 ただ、こうして人の姿を得てから体験した暮らしと藤が語る暮らしがかけ離れているという認識ぐらいは、髭切にもあった。

(今はカラクリが火起こしもしてくれるって思っていたけれど、主が昔いた場所は違うんだね)

 髭切が相槌の代わりに、興味深げに藤をじっと見つめていたせいだろうか。彼女は、見慣れてしまったお面のような笑顔を再び顔に貼り付けた。

「あはは、変だよね。こんな、いつの時代だって思うような暮らしをさ。実際、不便だったよ。不衛生で汚いだけだし、家も隙間風が入ってくること結構あったし、今の生活の方がずっと楽で」

 そこまで言いかけて、藤は言葉を止めなければならなくなった。彼女の頬に伸びてきた髭切の手が、離れの時と同様に藤の頬をぐにぐにと伸ばしてしまったからだ。

「いひゃいいひゃい。どうひたの?」
「ええとね、何だか嫌な感じがしたから」

 そんな笑い方は見たくない。
 直感めいた感情が髭切に囁くたびに、彼は何度でも頬を伸ばす。今回はすぐに手を離したものの、気が逸れてくれたおかげか、先ほどまでの嫌な笑い方は収まっていた。

「何だか楽しそうな生活だと僕は思うなぁ。一度、主の故郷に行ってみたいよ」

 髭切が何気なく切り出した提案に、しかし藤はゆるゆると首を横に振った。

「ごめんね。もう、ないんだ」
「……ない?」
「うん」

 眉尻を少し下げ、触れたら壊れそうな淋しげな微笑を浮かべた藤は、視線を落としてぽつりぽつりと呟く。

「近所に住んでいた人、僕と母さん以外はお年寄りばかりだったから。僕が小さい頃から亡くなる人、多くて。特に冬は、いつも誰かのお葬式があってね。無茶して猟に出かけた人が足を滑らせてとか、病気になって急に容態が悪化してそのままとか」

 髭切の記憶の端で、以前のぞき見た夢が思い出される。主が父親の墓を見ながら、母親にどうしてお父さんは土の下にいるのか、出してあげないのかと駄々をこねていた場面だった。
 その時、親子の周りには確かに複数の気配があった。けれども、夢の中でも彼女はやがて一人になってしまった。幼い彼女はひたすらに誰かを求めて走って――走って行った先にいた髭切は、粉々に砕け散った。
 丁度、初陣で派手に負傷して、主が手入れしてくれていたときの夢だったと彼は振り返る。

(あの時、僕は折れて砕けてもいいと思っていた。刀解してもいいよと言った。主は、そのことを故郷の人が亡くなる場面と被せて考えていたのかな)

 父親だけでなく、身近な者が次々に命を落とせば、幼い頃とはいえ思うところもあっただろう。彼女にとって古傷を抉るような話題を口にしてしまったのかと、髭切は当時の言動を省みる。
 沈痛な面持ちに、なってしまっていたのだろうか。藤は、しんみりとした空気を和らげるように、微笑んでみせた。

「大丈夫、もう随分昔の話だから。でも、そんなわけだから、故郷に行ってもボロボロの家しかないと思う」
「それでも、一度行ってみたいな。そうだ。これも、指を切る約束にしてもいい?」
「いいよ。髭切がしたいなら」

 今度は髭切から伸びた小指が、藤の細い小指を絡め取る。おまじないの唄は覚えていなかったので、無言で何度か上下に指を振ってから、

「約束、だね」

 それだけ言って、指を離した。
 わざわざ彼女の故郷に行こうと言い出したのは、彼女にとって家族を思い出し、郷愁に浸れるのはそこではないかと思ったからだ。
 離れで育ての親から手紙を貰ったというのに、彼女が見せたのは仮面のような笑顔だけだった。しかし、今こうして生まれ育った場所について話しているとき、主の顔には仮面以外のものが見えたと髭切は感じていた。
 ならば、彼女にとって故郷は仮面以外の笑顔を――探しているあの笑顔を、仮面の下に隠している気持ちを、出せる場所なのかもしれない。

「ねえ、主」

 呼びかければ、すぐに彼女は顔を上げる。先ほどまで残っていた懐かしさに思いを馳せる微笑みは引っ込み、今は形にはまった笑みだけが彼の前にあった。
 どうして彼女はこの笑顔を見せるのだろう。楽しいから、というわけではない。ならば、気遣いからなのか。ついでだから、その真意も問おうかと思った矢先、

「あるじさまー!!」

 縁側から、五虎退が主を呼ぶ声が響いた。彼女と共にそちらを向くと、今まさに彼が何かを大事そうに抱えながらやってくるのが見えた。

「五虎退、一体どうしたの?」
「あるじさま、端末から音楽がずっと鳴っていて、僕がこの丸い所を触ったら、その……こちらの方々が」

 現代機器に馴染みがない五虎退には、端末の着信を受け取るだけで虎の穴に潜るような心持ちだったのだろう。
 恐る恐る渡された端末を藤が覗くと、どうやら保留中になっているようだった。慣れた手つきで彼女が保留解除のボタンを押すと、途端に端末から中空へと映像が映し出される。

「お、やっと繋がったか。藤殿、演練から一ヶ月ぶりだな! 鶴丸国永だ」

 そこにいたのは自らがそう名乗る通り、白髪に満月の如く明るい金色を宿した瞳を持つ青年――鶴丸国永だった。そういえば連絡先を交換していたな、と藤は思い返す。
 彼は「ちょっと待っててくれ」と一声かけると、画面外に一度消えてしまった。何かを呼ぶ声、そして小さな足音が聞こえたかと思うと途端に、画面一杯に少女の顔が映し出された。
 無表情で何を考えているか分からないような面差しは、間違いなく鶴丸の主である審神者――更紗だ。
 彼女は手に持っていた紙らしきものを、カメラの向こうの藤に見せようとする。とはいえ、カメラに押しつけるようになってしまったために、そこに何が書かれているかはさっぱり分からなかった。

「おいおい、きみがそんなに近づいちゃ藤殿の方じゃ何も見えないぞ?」

 鶴丸に促され、大写しになっていた更紗が少し下がる。
 ようやく上半身が映るようになった彼女は、今度こそ画面越しの藤に見えるように、画用紙を持ち上げてみせる。

『おうち あそび いってもいい ?』

 真っ白な紙には、子供らしい大きな字でそのように書かれていた。
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