本編第一部(完結済み)
「――以上が、今月の戦績です」
ホログラムで浮かび上がった画面を前にして、藤は少しかさついた唇を開く。暖房器具は部屋を暖めてくれるが、同時に湿気も奪っていってしまう。ひりついた喉は、無理に動かすと僅かに痛みを覚えた。
「ありがとう。たしかに書いてある通りではあるね。それでは、提出内容に対する補記は私の方でしておこう」
画面越しに映っている男性は、何度かこの本丸にも訪れている政府の役人――富塚だ。本丸で暮らし始めて程なくして一度訪問した後も、視察という名目で彼は何度か顔を見せている。大体は本丸の設備を確認したり、暮らしについていくつか質問をされたりする程度だった。
苦手意識のあるこんのすけに比べれば、彼はまだ応対のしやすい来客と言えるだろう。
その彼が、毎月提出している報告書について不明点があるので直接話をしたい、と連絡してきたのが十数分前のこと。結果、こうして藤は部屋の片隅で端末を起動していた。
「すみません、手間をかけさせてしまって」
「いいや、この程度大したことではないよ。君も年末が近くて何かと忙しいのだろう」
「まあ、少しは」
暦の上では十一月の末を過ぎて、十二月に入った頃である。師走という名の通り、大掃除だ年越しだと町や万屋は賑わっているらしいが、藤にとってはまるでそんな気分になれなかった。先月の初頭にあった演練の日のことは、今も地続きに彼女の中に残っている。
「それよりも、審神者様。今日はいつもと違う部屋だね。自室じゃないのかい」
何気なく話を振られ、藤は内心でぎくりとする。最早癖のように浮かべている笑顔を顔に貼り付け直し、
「今は、離れにいるんです。ちょっと集中したくて、気分転換に」
言い訳染みた物言いになっていないかと、内心ヒヤヒヤしながら藤は答えた。
藤は今、本丸で主に使っている大きな建物から出て、少し離れた所にある家屋の一室にいる。皆が離れと呼んでいるそこは、元は何日も籠もって作業をするための場所だったらしい。布団もあれば、炊事場や風呂まである。
ただ、一人暮らし用として最低限の空間しかないので、お世辞にも住みよい場所とは言えない。
「そうだったんだね。冷える日が続くから、体調には気をつけるように。そうだ。今日は審神者様に朗報があってね」
「朗報?」
「そう。君の保護者の宮下さん……君にはお父さんと言った方がいいかな。彼と、その姪御さんの手紙が先日政府に届いていたんだ。そろそろ検閲も終わって、君の所に送られるだろう」
家族からの手紙は藤の心を慰めてくれるだろうと信じている富塚の顔に、陰りはまるでない。彼が混じりけのない優しさから言ってくれていることを知っている藤は、こちらもいつも通り笑顔を浮かべて応対することにした。
「ありがとうございます。楽しみにしています」
ぺこりと頭を下げ、手短に別れの挨拶を済ませてから端末の電源を切る。
「おじさん達から手紙かあ」
ぼやきながら、藤は見るともなしに自分がいる部屋を見渡す。少しかび臭さと埃っぽさが残る部屋は、据え付けられた家具もなく殺風景なものだった。
あの演練から既に三週間近くが経っている。あれ以降、藤は仕事場を本丸の自室から離れへと移していた。歌仙達へは、「まとまった仕事が来たから集中させてほしい」と言っていたが、実際の所は違う。
自分がこのまま、ここにいていいのか。
藤は、そのことを自分に向けて問いかける時間が欲しかったのだ。けれども、答えはまだ出ていない。
(穢れっていうのは、多分変わってないだろうな)
あれから、ひょっとしたらの期待を持って、藤は一度手入れを行っていた。出陣先で負った軽い傷であったが、結果は以前と同じだった。
傷がみるみる内に塞がるのを見ていると同時に、胃がざわめくような不快感に襲われてしまい、怪我をしていた五虎退に気遣われてしまったほどだ。幸い寝込むほどではなかったが、改善していないと考えて間違いないだろう。
「これ、政府の人に相談したら何て言われるんだろう」
煉と名乗った審神者は、穢れていると指摘されながらも審神者を続けているらしい。彼と同じように、審神者であり続けることはできるのでは、と最初は甘い期待を抱いた。
けれども、彼が特例なだけかもしれない。そんな穢れた審神者は置いておけないと、お払い箱になる可能性の方が高いのではと今の藤は考えていた。
「僕は――審神者で、居続けたい」
数週間寝ても覚めても自問自答を続けた結果、はっきりした答えはこれだけだった。
自分は、審神者を辞めたくない。
元々審神者になったのも、高校を卒業した後に就職先が見つからず困っていた所を勧められたから、という非常に受け身な動機だった。
愛着や憧憬は審神者という立場に対してなかったはずなのに、いつの間にか刀剣男士たちから離れて暮らす生活を、想像できなくなっていた。
一から百まで彼らのことが好き、というわけではない。口にはできていないものの、彼らの優しさに心が痛むことは何度もあった。今だって、離れに一人でいる時間が増えたと、内心で喜んでいる部分がある。
それでも。
歌仙兼定を筆頭に、本丸で顕現した五人と共にいたい。元の家に戻りたくない。そう思う自分の方が、独りを望む自分より大きかった。
故に藤が導き出した結論は――現状維持、だった。
「それにほら、歌仙のご飯は出来合いのより美味しいし。五虎退や物吉は、僕がいないと寂しがるだろうし。虎の子を寒い朝に抱っこすることもできなくなるし」
わざと明るい調子で声を出し、藤は指を折りながら彼らとの日々を振り返る。
「次郎には舞を教えてあげようかって言われてるし。髭切とは」
ふ、と数週間前に会った彼の様子を思い出す。水浴びをした藤の元にやってきた、妙に思い詰めたような顔をした彼のことを。
「髭切とは、弟さんの代わりにちゃんと側にいるって約束したから」
一つ一つ言葉にすると、少しだけ自分がここにいることを許せそうな気がした。藤が息を一つ吐き出した丁度そのとき、不意に玄関の戸が開く音が部屋に響く。
誰か来た。
反射的に身構えてしまう自分に気がつき、藤はついつい嫌気を覚える。一人の時間はおしまいだ。最早気構えもせずに浮かべられるようになってしまった笑みを、彼女は口元に広げた。
***
「おや、きみは」
庭先で落ち葉の掃除をしていた歌仙は、玄関の塀に飛び乗っている一匹の狐に気がついた。面妖な化粧を顔に施したその名は、こんのすけだということは歌仙も知っている。
彼は首からぶら下げている鞄のようなものから、器用に前足を使って手紙を取り出し、ポストへと投函した。
「歌仙兼定。審神者様に手紙です。渡しておいてください」
狐はそれだけ言うと、素っ気ない素振りで立ち去ろうとした。が、歌仙は「待ってくれ」と呼びかける。
「主のことについて、君は何か知っているのかい」
「と、言いますと」
「ここ一ヶ月ほど、主が僕らを避けているように思えるんだ。杞憂かもしれないが、政府の者であるきみたちにもし心当たりがあるなら教えてほしい」
「さあ。私はあくまで審神者様のサポートをしているだけ。刀剣男士との関わり方についてまで、口出しをできる立場ではありませんから」
言葉だけをとるなら、分を弁えた者としての発言にもとれる。けれども、こんのすけの口元にあるのは、どういうわけか楽しそうにも見える微笑であった。からかうような狐の仕草に、内心でムッとするのを歌仙は抑えられなかった。
こんのすけがあっという間に姿を消してしまったため、歌仙はそれ以上狐に何か言うこともできず、代わりに投函された手紙を取り出す。
見れば、宛先はいつものように主の『藤』という名ではなく墨で塗りつぶされていた。ならば、これは私的な手紙ということだろう。
「歌仙、何かあったのかい」
「髭切か。いや何、主に知り合いから手紙が届いたようなんだ。二通あるね」
言いつつ、歌仙は取り出した手紙をやってきた髭切に渡す。一つは飾り気がない質素な白の封筒だ。もう一つは封筒だけ見ても鮮やかな色合いに可愛らしい挿絵が添えられており、差出人の趣味が透けて見えるようだった。
「歌仙、どうして宛先が墨で塗りつぶされているの? ここは主の名前が書いてある所だよね」
「主の名前が書いてあるからこそだよ。本名を僕たちに知られないように、政府の人が手紙に記載されている主の本名は全て塗りつぶしているんだ」
「何故、僕らが知ってはいけないの」
「名を知るということは、その人物の魂を掴むようなものだから――と、以前主が見せてくれた書類にはあったよ。相手に呪いをかけるような時も、本人の名前がないとできないとか言うだろう?」
「僕らは別に、呪いをかけたりなんてしないのに」
言いながら、髭切は塗りつぶされた宛名に目を凝らす。ただの墨ならば透かして見ることもできたかもしれないが、政府が施した処置だからだろう。どれだけ角度を変えても名を覗くことはできそうになかった。
(僕の名前のことは気にしていたのに、自分の名前はいいのかな。主は藤という名で呼ばれる方が好きなんだろうか)
心中で問いかけてみたところで、宛名が見えるようになるわけではない。歌仙に手紙を返し、髭切は主がいるはずの離れへと顔を向けた。
「主に渡しに行こうよ。知り合いからの手紙なら、仕事を中断してでも見たいと思うんじゃないかな」
「……そうだね」
彼にしては珍しく歯切れの悪い返事に、髭切は「らしくない」と直感で察する。離れへ向かうために歩きながら、髭切は彼に話しかけた。
「歌仙、何だか緊張している?」
「……ここ最近、主が僕らを避けているように思えてしまってね。いや、考えすぎなのだろうとは思う。ただ」
歌仙は少し目を泳がせてから、以前も似たようなことがあったのだと髭切に告げる。
まだ夏が始まったばかりの頃、髭切が顕現する直前のことだ。遠征から帰ってきて歴史を守る使命について考えていた歌仙に、藤は寄り添い、言葉をかけてくれた。だが、彼女は同時に心配事があるのではと声をかけた歌仙の心遣いを、振り払った。
あの時の藤の頑なな態度が今の姿とどうしても重なり、歌仙の中で不安として育っていたのだ。
「僕は以前の彼女が抱えていた心配事は、自分の額にあるものへの懸念だったと思っていた。それがあるから、きっと自分は受け入れられないだろうという心配が、あったのだろうと。けれども、今はどうして本丸で仕事をしないのか、距離を置くのか。その理由が、僕には分からない」
「なら、聞いてみたら? 分からないこととかはっきりしないことをずっと悩んでいるより、話しちゃった方が楽になると思うよ」
意外とどうでもいいことだったりして、と髭切はいつもの調子で笑顔を見せる。
考え事や思い込みというのは、一人で続けているとどうしても泥濘にはまるように堂々巡りになってしまう。ならば、いっそのこと本人に聞いてしまえばいい、というのが髭切の意見だった。
彼のマイペースな様子につられて、歌仙も険しい顔を緩める。
「そうだね。ついでに尋ねてみることとしよう」
丁度離れに辿り着いた歌仙は、玄関のノブに手をかけ、しばしの逡巡を置いてから音を立てて開いた。
***
「主、少しいいかい」
「文が届いたんだよ、邪魔するね」
藤が何か言うよりも先に、彼女がいる部屋の襖が開かれる。
やってきた歌仙と髭切を見て、藤はまるで待ち構えていたように笑顔で出迎えた。文机と布団だけが唯一の調度品であるような質素な部屋に、髭切と歌仙は足を踏み入れる。誰かと話をしていたのか、文机の上には端末が藤と相対するようにちょこんと置かれていた。
「……もしかして、邪魔をしただろうか」
「大丈夫だよ、歌仙。さっき話は終わった所だから。手紙は誰から?」
「私的なもののようだったよ。きみのご家族からじゃないかな」
歌仙が差し出した封筒は、明らかに一度封が開けられていた。政府の人間が検閲をするため、どうしてもこのような形で届けられるのだ。藤自身わかりきっていたことなので、今更目くじらを立てようとも思わない。
特段の躊躇もせず、彼女は封を開く。透かした紙越しに見えるのは、歌仙にも見覚えがある、気骨のある字で綴られたものだった。
(父君からのものか。夏の頃にもそういえば来ていたね)
その手紙を勝手に見てしまったことは、今でも主に言い出せずにいる。一通り目を通してから、藤は顔を上げて、
「おじさんからだ。元気にしてるみたいで良かった」
何気なく彼女が口にした言葉に、歌仙は首を傾げる。
「おじさん? 君の父君からのものではないのかい」
「父親……といえばそう言えなくもないけど。育ての父親だから。世間的にいうと養父っていうのかな」
藤は手紙を床に広げて置き、立ちっぱなしの歌仙と髭切に適当な座布団を渡して座るように勧めた。
どうしても目に入ってしまう手紙を前にして、歌仙がちらちらと視線を送っていると、藤は「いいよ」とあっさり許可の言葉を口にした。
「恥ずかしいこととか、読まれて困るようなことは書いてなかったから。年末に帰れないかって訊かれていたけど、審神者の仕事で忙しいから無理なのはわかってたもの」
拾い上げて歌仙が目を通すと、夏に来た手紙と同じようにそこには帰省を促す文面があった。横から覗き込んでいた髭切は、『亡くなった母も待っているだろう』という所で思わず眉を顰める。
ここに記されている母とは、一体誰のことを言っているのだろうか。主が夢の中で「かあちゃ」と呼びかけていたのは、主によく似た女性に向けてだった。その彼女を指しているのか、それとも。
「主、ここに亡くなった母君に挨拶に来ては、とあるけれど、本当に帰らなくていいのかい」
「おばさんは……そのうち、落ち着いたら行くよ」
「その人も、育ててくれた人っていうこと?」
髭切の問いに、彼女はこくりと頷く。
養父から送られてきた封筒を更に藤がひっくり返すと、ストンという軽い音を立てて畳の上に一枚の写真が落ちた。座布団に腰を下ろした髭切と歌仙も、思わずその様子を目で追う。
写真の中には、鳥居を背景にして立つ神主らしき男性と一人の女性が映っている。二人の前には小さな女の子が二人、並んでいた。
藤が写真を拾い上げた弾みで、裏に書かれている文字が歌仙らの目に飛び込む。「いつも見守っているよ」という言葉を、写真をひっくり返した藤も目にしたようだった。
けれども、遠い故郷から我が子を思う親の気持ちが綴られたそれを、彼女は無機質な瞳で淡々と見つめている。
(さっき写っていた女の人……)
鳥居の前に立っている大人の女性に、髭切は見覚えがあった。
黒の髪を後ろにひっつめておでこを出した女性。四角い枠の中で穏やかに微笑んでいる彼女は、主が神社に行く悪夢を見たときに共にいた女性だ。
それに、最初に主の夢の中にも彼女はいた。灰色の廊下で、お菓子を持ってきたと言って藤に親しげに話していた女性。
話を聞く限りは既に故人のようだが、主にとっては自分を育ててくれた母とも言える存在のはずだ。
「その人たちが、君の養い親かい?」
「うん。おじさんとおばさんだね」
「ええと……確か、人は人から生まれてくるんだよね。なら、主を生んだ人たちは?」
一般的にはおいそれと触れがたい話題である部分に、髭切は遠慮無く踏み込む。けれども、藤は嫌そうな顔などは全く見せず、さらりと答えた。
「生んでくれた両親は、もういないよ」
養い親という言葉から薄々感づいていたことだが、改めて生みの親の不在を明らかにされて歌仙は瞬間、言葉を失う。
母親を亡くしているという事情は、夏にのぞき見た手紙からも察してはいた。だが、それは養ってくれた母のことであり、血の繋がっている両親はとうに他界しているという。
彼女は親しい存在である肉親を――母親に至っては二度も失ったのだ、と歌仙は理解した。
「……それは、僕らに話していいことだったのかな」
「隠すほどでもないから心配しないで、歌仙」
「けれども僕は一度もきみから、きみ自身のことを聞いた試しがない。責めているわけではないよ。ただ、話したくないことなのかと思っていた」
顕現した当初は、主という存在について深く立ち入ろうと思いはしなかった。家族という存在があることも分かっていたが、自分には関係ないと考えていた。刀なのだから、主の命に応じて己の力を振るえばいいだろうと、短絡的に構えていたのだ。
だが、今は異なる。歌仙と出会う前にも、主は彼女の人生を生きている。彼女は十数年とはいえ、人としての歩みを続けていた。そのことを自覚しているからこそ、そこに立ち入るのなら、また慎重になるべきであると彼は考えるようになっていた。
けれども、歌仙の心遣いとは裏腹に藤は躊躇いなく言葉を続ける。
「話したくないというより、聞かれなかったから話さなかっただけ。隠すことでもないからね。何が知りたいの? 出身とか、家のこと?」
唐突に明け透けな態度をとられて、歌仙は面食らってしまった。
思わず意見を求めようと髭切に視線を送るが、彼の横顔からは何の感情も読み取れない。ただ、泰然といつものように微笑んでいると分かっただけだった。
「いや、突然そのようなことを言われても」
「じゃあ、来歴だけ話しておくね。生まれたのは凄く山奥の小さな村だった。お父さんは小さい時に事故で亡くなったらしいから、僕は顔も全然覚えてない。お母さんも僕が十ぐらいの時に病気で。それから、色々あって育てる人がいなくなったから施設に引き取られて、その後におじさんとおばさんのいる家に来た。二人は神社の神主夫婦なんだ。だから、そういう格好してるんだよ」
藤が指さした写真の中の男性は、白の着物に紫色の袴を穿いていた。神職者が纏う装いなのだろうということは、歌仙も既に知識として得ている。
「それから、中学、高校と進学して卒業したと同時に審神者になった。身寄りの無い子供としては、恵まれている方だと思うよ」
さながら立て板に水の如く己の来歴を語った彼女は、最後ににこりと微笑んで言葉を締めくくった。強がりではなく、心の底からそう思っていることを、殊更に伝えようとしているかのように。
「主、こっちの子供は?」
写真の中で藤の隣に立っている少女を、髭切は指差す。黒い髪をまっすぐ伸ばした利発そうな娘は、くせ毛で小柄な藤とはまるで対照的な姿をしている。
「おじさんの姪御さん。僕と同い年で、学校も一緒だったからよく一緒に遊んでたんだ。舞がとても上手な子でね。勉強もできて性格も明るくて、クラスの人気者って感じだった。もう一つの手紙は彼女から来たんだよ。今は大学で勉強してるんだって」
さながら台本でも読み上げるように、彼女は己の友達であるという少女についてすらすらと語る。口の端を緩ませ、彼女は懐かしさに浸っていることを示すような笑顔を、変わらずに浮かべ続けていた。
(この娘、夏祭りの夢にいた人に似ている)
髭切は目を凝らしながら、名も知らぬ少女を見つめた。年の頃は大分異なっているが、主の見ていた夏祭りの夢の中で彼女はある少年と楽しそうに語らっていた。それを目撃した瞬間、主は踵を返して夏祭りの会場を去ったのだ。
主にとって、逃げ出したくなるほど苦手な人物ということなのだろうか。当然、藤自身は語らずに微笑んだままだ。
「主の事情は分かったよ。分かったからこそ言うが、彼らはきみにとっては恩人だろう。会いに行くのが人の常というものじゃないか」
「お世話になった人ではあるよ。でも、融通が利かない頑固者とかじゃないし、優しい人だから分かってくれるよ」
「それにきみが」
歌仙は、一瞬視線を泳がせる。彼にとって躊躇を挟む言葉ではあったが、やがて踏ん切りをつけたように、
「きみが、僕たちのことを気遣うあまり、寂しい思いをしているのではないかと、思ったんだ」
夏頃から心に引っかかっていたものを、ようやく歌仙は口にした。
最近、本丸にいる刀剣男士たちを避けた理由と、家族への郷愁が必ずしも完全に一致するとは、歌仙も考えていない。けれども、一人でいる理由が彼らでは埋められない思いを抱えている故なら、それを取り除けるのは主の人生に長く寄り添ってきた家族だろう。
自分たちでは役に立てない。主の心に寄り添えない。主は刀剣男士たちを――歌仙を、求めていないのかもしれない。
(僕は、また同じ心配事をしているようだ。髭切が顕現する直前にも、こうして焦って悩んで……まったく、進歩のない)
内心で自嘲をしながらも、歌仙は彼女の返事を待つ。しかし、彼の不安が杞憂であるかのように、藤はけろっとした顔で、
「大丈夫、寂しいなんて思ったことはないよ。元気にしてるかなって考えることはあるけどね」
「それは、強がりではないと思っていいんだね」
「うん。歌仙にそんな強がりする意味ないでしょう?」
言いながら、彼女は笑う。笑う。いつものように、あまりにいつものように。
が、不意にその笑顔がぐにゃりと歪んだ。側に座っていた髭切が、おもむろに手を伸ばして彼女の頬を引っ張ったからだ。
「髭切!?」
「なにすふの、やめへっ」
彼女の頬が髭切の両手によって、ぐにぐにと変形していく。整った笑顔はあっという間に崩れ、まるで失敗した福笑いのような顔になる。
「髭切、急に何をしているんだい?」
歌仙が半ば呆れながら問いかけているのも意に介さずに、髭切は手袋に包まれた手を動かすのをやめない。
一分ほどそうしていただろうか。ひとしきり主の頬を伸ばしたり縮めたり揉んだりした後に、彼はようやく手を離した。
「いてて……いったいどうしたの?」
真っ直ぐにこちらを見つめる彼の顔に、いつもの柔らかな笑顔がない。対して、藤は全く笑顔を崩していなかった。微かに困惑の様子こそ滲んでいたものの、頬を伸ばされる前と大きな変化は見られない。
「うーん、やっぱりだめだねえ」
「だめって何が?」
「こっちの話。それより歌仙、主に話があるんじゃなかったのかな」
急に話を自分に振られ、歌仙は緊張が自分の体に走るのを自覚する。
どうして本丸から離れて仕事をするようになったのか。何故、自分たちを避けるような態度をとるのか。
直接聞いて、もし好ましくない回答が返ってきてしまったらと思うと、つい言葉が迷ってしまう。数秒の逡巡を経て口にしたものは、
「仕事は、もう一段落したのだろう。本丸に戻ってこないのかい」
当たり障りのない問いかけになってしまっていた。
主が敷地内の離れに引きこもるようになったとはいえ、流石に食事の時には本丸に顔を出している。たまに離れで眠る日もあるが、本丸にある主の部屋で体を休める回数の方が多い。
歌仙の言ではまるで藤がまったく本丸にいないように聞こえるが、それは事実としては正しくない。
だが同時に、それと同様の喪失と寂寥を彼らに抱かせているというのもまた、事実であったのだ。
「僕もほかの皆も、主がいないと収まりが悪くてね。勿論、度々帰ってきてるのは知っている。けれども、もし」
そこまで言っても尚、藤はぱちぱちと瞬きをしているだけで返事をしてはくれなかった。歌仙が何を伝えたいのか、十分に伝わっているのかも怪しい。
ままよ、と歌仙は自分の懸念や虚飾を一切かなぐり捨てて、
「きみが帰りたくない理由が、僕らにあるなら」
「ないよ」
突然言葉を打ち切られ、歌仙は瞬時面食らう。彼女の発言への理解が追いつかず、その否定が「非は君達にあるわけではない」という意味であることを遅まきながら理解する。
「そうだね。仕事も片付いたし、そろそろ戻ろうとは思ってた頃合いなんだ」
「それなら」
「うん。心配かけるのは良くないことだよね。今日にもここは片付けるから」
彼女は思い立ったら即行動と言わんばかりに、いそいそと散らかした手紙をまとめ、散らばっていた書類をまとめる。出しっぱなしになっていた布団を畳んで、押し入れにしまおうとしているのを目にして、ようやく歌仙は我に返り、藤の片付けを手伝い始めた。
それほどまでに、彼女の行動は突拍子のないものだった。まるでスイッチを無理矢理切り替えたように、躊躇も見せずに自分の隠れ家の後始末を続ける。
そんな二人の様子を、髭切は座ったままじっと目で追いかけていた。
「主、炊事場にあるゴミも片付けてしまっていいかい?」
「うん、お願い」
「……ちゃんと食べているんだろうね。たまに夕飯に来ていなかった日もあったようだけれど」
「食べてるよ。心配しなくても大丈夫」
片付けの手をテキパキと動き、一切の迷いがない。
とはいえ、彼女の心中は実際の行動に表れているものより、綺麗に切り替えられているわけではなかった。
正直、戻ってどうするのかという自問もあった。先ほど考えたように、これからどうするか、ここにいていいのかについての明確な答えは出ていない。
彼らが怪我をしたならば、手入れをしなければならない。手入れの際には、また体調を悪くするのが目に見えている。
離れで眠っているときは、いつもそんな夢を見る。怪我を負って苦しんでいる彼らを前にしているのに、どうしても手が届かない夢を。彼らはいつも、軽蔑するような瞳で自分を見つめていた。
それでも触れなければと手を伸ばした瞬間、大抵目が覚める。真っ暗な一人きりの部屋が、夢の後は冷たい牢獄のように思えた。
彼らにどう思われるかは度外視したとしても、自分が正体不明の何かに苛まれているのは気分がいいものではない。ならば、このことを歌仙や他の刀剣男士に相談するか。
(ううん、やめておこう。心配かけるのは良くない)
即座にその案を棄却し、藤は改めて現状維持を決断する。他人を思いやっての行動だと考えれば、迷いは無くなった。
いつだってそうだ。
親切にしてくれる他人には、優しくしなければならない。 それは、藤の生きる指針にもなっている言葉だった。
「髭切、奥の部屋にある窓の鍵を見てきてくれる?」
厨房に引っ込んでいた藤が顔を覗かせ、小さな和室に座りっぱなしになっていた髭切に呼びかける。断る理由もなく、髭切は立ち上がって奥の部屋へと向かった。
半ば倉庫のように使われていたらしいそこは、小窓が一つあるだけの、寒々として冷えた空間だった。
先ほど話をしていた場所と合わせて、たった二つの部屋。この狭い空間に、主は一人でぽつんと座っていたのだ。
(こんな所に一人でいる方が、主は好きなのかな。でも、花畑で見たときみたいな笑い方はしていなかった)
命じられた通りに、鍵がかかっていることを確認しながら髭切は思う。
彼女は相変わらず笑っていた。三日月宗近が言うような、面を貼り付かせたような笑顔を。
頬をいくら引っ張ってみたところで、彼女の笑顔は変わらない。弾けるような笑みを見たいと願っているのに、彼女は少しもその片鱗を見せてくれない。
どうすればいいのだろう、と立ち尽くしていると考えると、不意に荒々しい音と共に玄関の戸が開いた。続けて、同じくらい慌ただしい足音が廊下から響き渡る。
思わず奥の部屋から髭切が顔を出すと、そこには頬を真っ赤に染めた物吉が立っていた。庭から走ってきたのだろう。息は荒く、けれど目は興奮の光を宿している。
「主様、大変です!!」
「一体どうしたの、物吉」
廊下に立つ物吉に気がついた藤が、ひょいと手前の部屋から姿を見せる。物吉は胸の前でぎゅっと手を握りしめながら、
「雪が、降ってきました!!」
ぱぁっと顔を輝かせて、声を張り上げた。
ホログラムで浮かび上がった画面を前にして、藤は少しかさついた唇を開く。暖房器具は部屋を暖めてくれるが、同時に湿気も奪っていってしまう。ひりついた喉は、無理に動かすと僅かに痛みを覚えた。
「ありがとう。たしかに書いてある通りではあるね。それでは、提出内容に対する補記は私の方でしておこう」
画面越しに映っている男性は、何度かこの本丸にも訪れている政府の役人――富塚だ。本丸で暮らし始めて程なくして一度訪問した後も、視察という名目で彼は何度か顔を見せている。大体は本丸の設備を確認したり、暮らしについていくつか質問をされたりする程度だった。
苦手意識のあるこんのすけに比べれば、彼はまだ応対のしやすい来客と言えるだろう。
その彼が、毎月提出している報告書について不明点があるので直接話をしたい、と連絡してきたのが十数分前のこと。結果、こうして藤は部屋の片隅で端末を起動していた。
「すみません、手間をかけさせてしまって」
「いいや、この程度大したことではないよ。君も年末が近くて何かと忙しいのだろう」
「まあ、少しは」
暦の上では十一月の末を過ぎて、十二月に入った頃である。師走という名の通り、大掃除だ年越しだと町や万屋は賑わっているらしいが、藤にとってはまるでそんな気分になれなかった。先月の初頭にあった演練の日のことは、今も地続きに彼女の中に残っている。
「それよりも、審神者様。今日はいつもと違う部屋だね。自室じゃないのかい」
何気なく話を振られ、藤は内心でぎくりとする。最早癖のように浮かべている笑顔を顔に貼り付け直し、
「今は、離れにいるんです。ちょっと集中したくて、気分転換に」
言い訳染みた物言いになっていないかと、内心ヒヤヒヤしながら藤は答えた。
藤は今、本丸で主に使っている大きな建物から出て、少し離れた所にある家屋の一室にいる。皆が離れと呼んでいるそこは、元は何日も籠もって作業をするための場所だったらしい。布団もあれば、炊事場や風呂まである。
ただ、一人暮らし用として最低限の空間しかないので、お世辞にも住みよい場所とは言えない。
「そうだったんだね。冷える日が続くから、体調には気をつけるように。そうだ。今日は審神者様に朗報があってね」
「朗報?」
「そう。君の保護者の宮下さん……君にはお父さんと言った方がいいかな。彼と、その姪御さんの手紙が先日政府に届いていたんだ。そろそろ検閲も終わって、君の所に送られるだろう」
家族からの手紙は藤の心を慰めてくれるだろうと信じている富塚の顔に、陰りはまるでない。彼が混じりけのない優しさから言ってくれていることを知っている藤は、こちらもいつも通り笑顔を浮かべて応対することにした。
「ありがとうございます。楽しみにしています」
ぺこりと頭を下げ、手短に別れの挨拶を済ませてから端末の電源を切る。
「おじさん達から手紙かあ」
ぼやきながら、藤は見るともなしに自分がいる部屋を見渡す。少しかび臭さと埃っぽさが残る部屋は、据え付けられた家具もなく殺風景なものだった。
あの演練から既に三週間近くが経っている。あれ以降、藤は仕事場を本丸の自室から離れへと移していた。歌仙達へは、「まとまった仕事が来たから集中させてほしい」と言っていたが、実際の所は違う。
自分がこのまま、ここにいていいのか。
藤は、そのことを自分に向けて問いかける時間が欲しかったのだ。けれども、答えはまだ出ていない。
(穢れっていうのは、多分変わってないだろうな)
あれから、ひょっとしたらの期待を持って、藤は一度手入れを行っていた。出陣先で負った軽い傷であったが、結果は以前と同じだった。
傷がみるみる内に塞がるのを見ていると同時に、胃がざわめくような不快感に襲われてしまい、怪我をしていた五虎退に気遣われてしまったほどだ。幸い寝込むほどではなかったが、改善していないと考えて間違いないだろう。
「これ、政府の人に相談したら何て言われるんだろう」
煉と名乗った審神者は、穢れていると指摘されながらも審神者を続けているらしい。彼と同じように、審神者であり続けることはできるのでは、と最初は甘い期待を抱いた。
けれども、彼が特例なだけかもしれない。そんな穢れた審神者は置いておけないと、お払い箱になる可能性の方が高いのではと今の藤は考えていた。
「僕は――審神者で、居続けたい」
数週間寝ても覚めても自問自答を続けた結果、はっきりした答えはこれだけだった。
自分は、審神者を辞めたくない。
元々審神者になったのも、高校を卒業した後に就職先が見つからず困っていた所を勧められたから、という非常に受け身な動機だった。
愛着や憧憬は審神者という立場に対してなかったはずなのに、いつの間にか刀剣男士たちから離れて暮らす生活を、想像できなくなっていた。
一から百まで彼らのことが好き、というわけではない。口にはできていないものの、彼らの優しさに心が痛むことは何度もあった。今だって、離れに一人でいる時間が増えたと、内心で喜んでいる部分がある。
それでも。
歌仙兼定を筆頭に、本丸で顕現した五人と共にいたい。元の家に戻りたくない。そう思う自分の方が、独りを望む自分より大きかった。
故に藤が導き出した結論は――現状維持、だった。
「それにほら、歌仙のご飯は出来合いのより美味しいし。五虎退や物吉は、僕がいないと寂しがるだろうし。虎の子を寒い朝に抱っこすることもできなくなるし」
わざと明るい調子で声を出し、藤は指を折りながら彼らとの日々を振り返る。
「次郎には舞を教えてあげようかって言われてるし。髭切とは」
ふ、と数週間前に会った彼の様子を思い出す。水浴びをした藤の元にやってきた、妙に思い詰めたような顔をした彼のことを。
「髭切とは、弟さんの代わりにちゃんと側にいるって約束したから」
一つ一つ言葉にすると、少しだけ自分がここにいることを許せそうな気がした。藤が息を一つ吐き出した丁度そのとき、不意に玄関の戸が開く音が部屋に響く。
誰か来た。
反射的に身構えてしまう自分に気がつき、藤はついつい嫌気を覚える。一人の時間はおしまいだ。最早気構えもせずに浮かべられるようになってしまった笑みを、彼女は口元に広げた。
***
「おや、きみは」
庭先で落ち葉の掃除をしていた歌仙は、玄関の塀に飛び乗っている一匹の狐に気がついた。面妖な化粧を顔に施したその名は、こんのすけだということは歌仙も知っている。
彼は首からぶら下げている鞄のようなものから、器用に前足を使って手紙を取り出し、ポストへと投函した。
「歌仙兼定。審神者様に手紙です。渡しておいてください」
狐はそれだけ言うと、素っ気ない素振りで立ち去ろうとした。が、歌仙は「待ってくれ」と呼びかける。
「主のことについて、君は何か知っているのかい」
「と、言いますと」
「ここ一ヶ月ほど、主が僕らを避けているように思えるんだ。杞憂かもしれないが、政府の者であるきみたちにもし心当たりがあるなら教えてほしい」
「さあ。私はあくまで審神者様のサポートをしているだけ。刀剣男士との関わり方についてまで、口出しをできる立場ではありませんから」
言葉だけをとるなら、分を弁えた者としての発言にもとれる。けれども、こんのすけの口元にあるのは、どういうわけか楽しそうにも見える微笑であった。からかうような狐の仕草に、内心でムッとするのを歌仙は抑えられなかった。
こんのすけがあっという間に姿を消してしまったため、歌仙はそれ以上狐に何か言うこともできず、代わりに投函された手紙を取り出す。
見れば、宛先はいつものように主の『藤』という名ではなく墨で塗りつぶされていた。ならば、これは私的な手紙ということだろう。
「歌仙、何かあったのかい」
「髭切か。いや何、主に知り合いから手紙が届いたようなんだ。二通あるね」
言いつつ、歌仙は取り出した手紙をやってきた髭切に渡す。一つは飾り気がない質素な白の封筒だ。もう一つは封筒だけ見ても鮮やかな色合いに可愛らしい挿絵が添えられており、差出人の趣味が透けて見えるようだった。
「歌仙、どうして宛先が墨で塗りつぶされているの? ここは主の名前が書いてある所だよね」
「主の名前が書いてあるからこそだよ。本名を僕たちに知られないように、政府の人が手紙に記載されている主の本名は全て塗りつぶしているんだ」
「何故、僕らが知ってはいけないの」
「名を知るということは、その人物の魂を掴むようなものだから――と、以前主が見せてくれた書類にはあったよ。相手に呪いをかけるような時も、本人の名前がないとできないとか言うだろう?」
「僕らは別に、呪いをかけたりなんてしないのに」
言いながら、髭切は塗りつぶされた宛名に目を凝らす。ただの墨ならば透かして見ることもできたかもしれないが、政府が施した処置だからだろう。どれだけ角度を変えても名を覗くことはできそうになかった。
(僕の名前のことは気にしていたのに、自分の名前はいいのかな。主は藤という名で呼ばれる方が好きなんだろうか)
心中で問いかけてみたところで、宛名が見えるようになるわけではない。歌仙に手紙を返し、髭切は主がいるはずの離れへと顔を向けた。
「主に渡しに行こうよ。知り合いからの手紙なら、仕事を中断してでも見たいと思うんじゃないかな」
「……そうだね」
彼にしては珍しく歯切れの悪い返事に、髭切は「らしくない」と直感で察する。離れへ向かうために歩きながら、髭切は彼に話しかけた。
「歌仙、何だか緊張している?」
「……ここ最近、主が僕らを避けているように思えてしまってね。いや、考えすぎなのだろうとは思う。ただ」
歌仙は少し目を泳がせてから、以前も似たようなことがあったのだと髭切に告げる。
まだ夏が始まったばかりの頃、髭切が顕現する直前のことだ。遠征から帰ってきて歴史を守る使命について考えていた歌仙に、藤は寄り添い、言葉をかけてくれた。だが、彼女は同時に心配事があるのではと声をかけた歌仙の心遣いを、振り払った。
あの時の藤の頑なな態度が今の姿とどうしても重なり、歌仙の中で不安として育っていたのだ。
「僕は以前の彼女が抱えていた心配事は、自分の額にあるものへの懸念だったと思っていた。それがあるから、きっと自分は受け入れられないだろうという心配が、あったのだろうと。けれども、今はどうして本丸で仕事をしないのか、距離を置くのか。その理由が、僕には分からない」
「なら、聞いてみたら? 分からないこととかはっきりしないことをずっと悩んでいるより、話しちゃった方が楽になると思うよ」
意外とどうでもいいことだったりして、と髭切はいつもの調子で笑顔を見せる。
考え事や思い込みというのは、一人で続けているとどうしても泥濘にはまるように堂々巡りになってしまう。ならば、いっそのこと本人に聞いてしまえばいい、というのが髭切の意見だった。
彼のマイペースな様子につられて、歌仙も険しい顔を緩める。
「そうだね。ついでに尋ねてみることとしよう」
丁度離れに辿り着いた歌仙は、玄関のノブに手をかけ、しばしの逡巡を置いてから音を立てて開いた。
***
「主、少しいいかい」
「文が届いたんだよ、邪魔するね」
藤が何か言うよりも先に、彼女がいる部屋の襖が開かれる。
やってきた歌仙と髭切を見て、藤はまるで待ち構えていたように笑顔で出迎えた。文机と布団だけが唯一の調度品であるような質素な部屋に、髭切と歌仙は足を踏み入れる。誰かと話をしていたのか、文机の上には端末が藤と相対するようにちょこんと置かれていた。
「……もしかして、邪魔をしただろうか」
「大丈夫だよ、歌仙。さっき話は終わった所だから。手紙は誰から?」
「私的なもののようだったよ。きみのご家族からじゃないかな」
歌仙が差し出した封筒は、明らかに一度封が開けられていた。政府の人間が検閲をするため、どうしてもこのような形で届けられるのだ。藤自身わかりきっていたことなので、今更目くじらを立てようとも思わない。
特段の躊躇もせず、彼女は封を開く。透かした紙越しに見えるのは、歌仙にも見覚えがある、気骨のある字で綴られたものだった。
(父君からのものか。夏の頃にもそういえば来ていたね)
その手紙を勝手に見てしまったことは、今でも主に言い出せずにいる。一通り目を通してから、藤は顔を上げて、
「おじさんからだ。元気にしてるみたいで良かった」
何気なく彼女が口にした言葉に、歌仙は首を傾げる。
「おじさん? 君の父君からのものではないのかい」
「父親……といえばそう言えなくもないけど。育ての父親だから。世間的にいうと養父っていうのかな」
藤は手紙を床に広げて置き、立ちっぱなしの歌仙と髭切に適当な座布団を渡して座るように勧めた。
どうしても目に入ってしまう手紙を前にして、歌仙がちらちらと視線を送っていると、藤は「いいよ」とあっさり許可の言葉を口にした。
「恥ずかしいこととか、読まれて困るようなことは書いてなかったから。年末に帰れないかって訊かれていたけど、審神者の仕事で忙しいから無理なのはわかってたもの」
拾い上げて歌仙が目を通すと、夏に来た手紙と同じようにそこには帰省を促す文面があった。横から覗き込んでいた髭切は、『亡くなった母も待っているだろう』という所で思わず眉を顰める。
ここに記されている母とは、一体誰のことを言っているのだろうか。主が夢の中で「かあちゃ」と呼びかけていたのは、主によく似た女性に向けてだった。その彼女を指しているのか、それとも。
「主、ここに亡くなった母君に挨拶に来ては、とあるけれど、本当に帰らなくていいのかい」
「おばさんは……そのうち、落ち着いたら行くよ」
「その人も、育ててくれた人っていうこと?」
髭切の問いに、彼女はこくりと頷く。
養父から送られてきた封筒を更に藤がひっくり返すと、ストンという軽い音を立てて畳の上に一枚の写真が落ちた。座布団に腰を下ろした髭切と歌仙も、思わずその様子を目で追う。
写真の中には、鳥居を背景にして立つ神主らしき男性と一人の女性が映っている。二人の前には小さな女の子が二人、並んでいた。
藤が写真を拾い上げた弾みで、裏に書かれている文字が歌仙らの目に飛び込む。「いつも見守っているよ」という言葉を、写真をひっくり返した藤も目にしたようだった。
けれども、遠い故郷から我が子を思う親の気持ちが綴られたそれを、彼女は無機質な瞳で淡々と見つめている。
(さっき写っていた女の人……)
鳥居の前に立っている大人の女性に、髭切は見覚えがあった。
黒の髪を後ろにひっつめておでこを出した女性。四角い枠の中で穏やかに微笑んでいる彼女は、主が神社に行く悪夢を見たときに共にいた女性だ。
それに、最初に主の夢の中にも彼女はいた。灰色の廊下で、お菓子を持ってきたと言って藤に親しげに話していた女性。
話を聞く限りは既に故人のようだが、主にとっては自分を育ててくれた母とも言える存在のはずだ。
「その人たちが、君の養い親かい?」
「うん。おじさんとおばさんだね」
「ええと……確か、人は人から生まれてくるんだよね。なら、主を生んだ人たちは?」
一般的にはおいそれと触れがたい話題である部分に、髭切は遠慮無く踏み込む。けれども、藤は嫌そうな顔などは全く見せず、さらりと答えた。
「生んでくれた両親は、もういないよ」
養い親という言葉から薄々感づいていたことだが、改めて生みの親の不在を明らかにされて歌仙は瞬間、言葉を失う。
母親を亡くしているという事情は、夏にのぞき見た手紙からも察してはいた。だが、それは養ってくれた母のことであり、血の繋がっている両親はとうに他界しているという。
彼女は親しい存在である肉親を――母親に至っては二度も失ったのだ、と歌仙は理解した。
「……それは、僕らに話していいことだったのかな」
「隠すほどでもないから心配しないで、歌仙」
「けれども僕は一度もきみから、きみ自身のことを聞いた試しがない。責めているわけではないよ。ただ、話したくないことなのかと思っていた」
顕現した当初は、主という存在について深く立ち入ろうと思いはしなかった。家族という存在があることも分かっていたが、自分には関係ないと考えていた。刀なのだから、主の命に応じて己の力を振るえばいいだろうと、短絡的に構えていたのだ。
だが、今は異なる。歌仙と出会う前にも、主は彼女の人生を生きている。彼女は十数年とはいえ、人としての歩みを続けていた。そのことを自覚しているからこそ、そこに立ち入るのなら、また慎重になるべきであると彼は考えるようになっていた。
けれども、歌仙の心遣いとは裏腹に藤は躊躇いなく言葉を続ける。
「話したくないというより、聞かれなかったから話さなかっただけ。隠すことでもないからね。何が知りたいの? 出身とか、家のこと?」
唐突に明け透けな態度をとられて、歌仙は面食らってしまった。
思わず意見を求めようと髭切に視線を送るが、彼の横顔からは何の感情も読み取れない。ただ、泰然といつものように微笑んでいると分かっただけだった。
「いや、突然そのようなことを言われても」
「じゃあ、来歴だけ話しておくね。生まれたのは凄く山奥の小さな村だった。お父さんは小さい時に事故で亡くなったらしいから、僕は顔も全然覚えてない。お母さんも僕が十ぐらいの時に病気で。それから、色々あって育てる人がいなくなったから施設に引き取られて、その後におじさんとおばさんのいる家に来た。二人は神社の神主夫婦なんだ。だから、そういう格好してるんだよ」
藤が指さした写真の中の男性は、白の着物に紫色の袴を穿いていた。神職者が纏う装いなのだろうということは、歌仙も既に知識として得ている。
「それから、中学、高校と進学して卒業したと同時に審神者になった。身寄りの無い子供としては、恵まれている方だと思うよ」
さながら立て板に水の如く己の来歴を語った彼女は、最後ににこりと微笑んで言葉を締めくくった。強がりではなく、心の底からそう思っていることを、殊更に伝えようとしているかのように。
「主、こっちの子供は?」
写真の中で藤の隣に立っている少女を、髭切は指差す。黒い髪をまっすぐ伸ばした利発そうな娘は、くせ毛で小柄な藤とはまるで対照的な姿をしている。
「おじさんの姪御さん。僕と同い年で、学校も一緒だったからよく一緒に遊んでたんだ。舞がとても上手な子でね。勉強もできて性格も明るくて、クラスの人気者って感じだった。もう一つの手紙は彼女から来たんだよ。今は大学で勉強してるんだって」
さながら台本でも読み上げるように、彼女は己の友達であるという少女についてすらすらと語る。口の端を緩ませ、彼女は懐かしさに浸っていることを示すような笑顔を、変わらずに浮かべ続けていた。
(この娘、夏祭りの夢にいた人に似ている)
髭切は目を凝らしながら、名も知らぬ少女を見つめた。年の頃は大分異なっているが、主の見ていた夏祭りの夢の中で彼女はある少年と楽しそうに語らっていた。それを目撃した瞬間、主は踵を返して夏祭りの会場を去ったのだ。
主にとって、逃げ出したくなるほど苦手な人物ということなのだろうか。当然、藤自身は語らずに微笑んだままだ。
「主の事情は分かったよ。分かったからこそ言うが、彼らはきみにとっては恩人だろう。会いに行くのが人の常というものじゃないか」
「お世話になった人ではあるよ。でも、融通が利かない頑固者とかじゃないし、優しい人だから分かってくれるよ」
「それにきみが」
歌仙は、一瞬視線を泳がせる。彼にとって躊躇を挟む言葉ではあったが、やがて踏ん切りをつけたように、
「きみが、僕たちのことを気遣うあまり、寂しい思いをしているのではないかと、思ったんだ」
夏頃から心に引っかかっていたものを、ようやく歌仙は口にした。
最近、本丸にいる刀剣男士たちを避けた理由と、家族への郷愁が必ずしも完全に一致するとは、歌仙も考えていない。けれども、一人でいる理由が彼らでは埋められない思いを抱えている故なら、それを取り除けるのは主の人生に長く寄り添ってきた家族だろう。
自分たちでは役に立てない。主の心に寄り添えない。主は刀剣男士たちを――歌仙を、求めていないのかもしれない。
(僕は、また同じ心配事をしているようだ。髭切が顕現する直前にも、こうして焦って悩んで……まったく、進歩のない)
内心で自嘲をしながらも、歌仙は彼女の返事を待つ。しかし、彼の不安が杞憂であるかのように、藤はけろっとした顔で、
「大丈夫、寂しいなんて思ったことはないよ。元気にしてるかなって考えることはあるけどね」
「それは、強がりではないと思っていいんだね」
「うん。歌仙にそんな強がりする意味ないでしょう?」
言いながら、彼女は笑う。笑う。いつものように、あまりにいつものように。
が、不意にその笑顔がぐにゃりと歪んだ。側に座っていた髭切が、おもむろに手を伸ばして彼女の頬を引っ張ったからだ。
「髭切!?」
「なにすふの、やめへっ」
彼女の頬が髭切の両手によって、ぐにぐにと変形していく。整った笑顔はあっという間に崩れ、まるで失敗した福笑いのような顔になる。
「髭切、急に何をしているんだい?」
歌仙が半ば呆れながら問いかけているのも意に介さずに、髭切は手袋に包まれた手を動かすのをやめない。
一分ほどそうしていただろうか。ひとしきり主の頬を伸ばしたり縮めたり揉んだりした後に、彼はようやく手を離した。
「いてて……いったいどうしたの?」
真っ直ぐにこちらを見つめる彼の顔に、いつもの柔らかな笑顔がない。対して、藤は全く笑顔を崩していなかった。微かに困惑の様子こそ滲んでいたものの、頬を伸ばされる前と大きな変化は見られない。
「うーん、やっぱりだめだねえ」
「だめって何が?」
「こっちの話。それより歌仙、主に話があるんじゃなかったのかな」
急に話を自分に振られ、歌仙は緊張が自分の体に走るのを自覚する。
どうして本丸から離れて仕事をするようになったのか。何故、自分たちを避けるような態度をとるのか。
直接聞いて、もし好ましくない回答が返ってきてしまったらと思うと、つい言葉が迷ってしまう。数秒の逡巡を経て口にしたものは、
「仕事は、もう一段落したのだろう。本丸に戻ってこないのかい」
当たり障りのない問いかけになってしまっていた。
主が敷地内の離れに引きこもるようになったとはいえ、流石に食事の時には本丸に顔を出している。たまに離れで眠る日もあるが、本丸にある主の部屋で体を休める回数の方が多い。
歌仙の言ではまるで藤がまったく本丸にいないように聞こえるが、それは事実としては正しくない。
だが同時に、それと同様の喪失と寂寥を彼らに抱かせているというのもまた、事実であったのだ。
「僕もほかの皆も、主がいないと収まりが悪くてね。勿論、度々帰ってきてるのは知っている。けれども、もし」
そこまで言っても尚、藤はぱちぱちと瞬きをしているだけで返事をしてはくれなかった。歌仙が何を伝えたいのか、十分に伝わっているのかも怪しい。
ままよ、と歌仙は自分の懸念や虚飾を一切かなぐり捨てて、
「きみが帰りたくない理由が、僕らにあるなら」
「ないよ」
突然言葉を打ち切られ、歌仙は瞬時面食らう。彼女の発言への理解が追いつかず、その否定が「非は君達にあるわけではない」という意味であることを遅まきながら理解する。
「そうだね。仕事も片付いたし、そろそろ戻ろうとは思ってた頃合いなんだ」
「それなら」
「うん。心配かけるのは良くないことだよね。今日にもここは片付けるから」
彼女は思い立ったら即行動と言わんばかりに、いそいそと散らかした手紙をまとめ、散らばっていた書類をまとめる。出しっぱなしになっていた布団を畳んで、押し入れにしまおうとしているのを目にして、ようやく歌仙は我に返り、藤の片付けを手伝い始めた。
それほどまでに、彼女の行動は突拍子のないものだった。まるでスイッチを無理矢理切り替えたように、躊躇も見せずに自分の隠れ家の後始末を続ける。
そんな二人の様子を、髭切は座ったままじっと目で追いかけていた。
「主、炊事場にあるゴミも片付けてしまっていいかい?」
「うん、お願い」
「……ちゃんと食べているんだろうね。たまに夕飯に来ていなかった日もあったようだけれど」
「食べてるよ。心配しなくても大丈夫」
片付けの手をテキパキと動き、一切の迷いがない。
とはいえ、彼女の心中は実際の行動に表れているものより、綺麗に切り替えられているわけではなかった。
正直、戻ってどうするのかという自問もあった。先ほど考えたように、これからどうするか、ここにいていいのかについての明確な答えは出ていない。
彼らが怪我をしたならば、手入れをしなければならない。手入れの際には、また体調を悪くするのが目に見えている。
離れで眠っているときは、いつもそんな夢を見る。怪我を負って苦しんでいる彼らを前にしているのに、どうしても手が届かない夢を。彼らはいつも、軽蔑するような瞳で自分を見つめていた。
それでも触れなければと手を伸ばした瞬間、大抵目が覚める。真っ暗な一人きりの部屋が、夢の後は冷たい牢獄のように思えた。
彼らにどう思われるかは度外視したとしても、自分が正体不明の何かに苛まれているのは気分がいいものではない。ならば、このことを歌仙や他の刀剣男士に相談するか。
(ううん、やめておこう。心配かけるのは良くない)
即座にその案を棄却し、藤は改めて現状維持を決断する。他人を思いやっての行動だと考えれば、迷いは無くなった。
いつだってそうだ。
親切にしてくれる他人には、優しくしなければならない。 それは、藤の生きる指針にもなっている言葉だった。
「髭切、奥の部屋にある窓の鍵を見てきてくれる?」
厨房に引っ込んでいた藤が顔を覗かせ、小さな和室に座りっぱなしになっていた髭切に呼びかける。断る理由もなく、髭切は立ち上がって奥の部屋へと向かった。
半ば倉庫のように使われていたらしいそこは、小窓が一つあるだけの、寒々として冷えた空間だった。
先ほど話をしていた場所と合わせて、たった二つの部屋。この狭い空間に、主は一人でぽつんと座っていたのだ。
(こんな所に一人でいる方が、主は好きなのかな。でも、花畑で見たときみたいな笑い方はしていなかった)
命じられた通りに、鍵がかかっていることを確認しながら髭切は思う。
彼女は相変わらず笑っていた。三日月宗近が言うような、面を貼り付かせたような笑顔を。
頬をいくら引っ張ってみたところで、彼女の笑顔は変わらない。弾けるような笑みを見たいと願っているのに、彼女は少しもその片鱗を見せてくれない。
どうすればいいのだろう、と立ち尽くしていると考えると、不意に荒々しい音と共に玄関の戸が開いた。続けて、同じくらい慌ただしい足音が廊下から響き渡る。
思わず奥の部屋から髭切が顔を出すと、そこには頬を真っ赤に染めた物吉が立っていた。庭から走ってきたのだろう。息は荒く、けれど目は興奮の光を宿している。
「主様、大変です!!」
「一体どうしたの、物吉」
廊下に立つ物吉に気がついた藤が、ひょいと手前の部屋から姿を見せる。物吉は胸の前でぎゅっと手を握りしめながら、
「雪が、降ってきました!!」
ぱぁっと顔を輝かせて、声を張り上げた。