短編置き場

「あ、主が寝てる」

 ある秋の日の昼下がり。髭切は居間の畳の上で大の字になって眠っている人影に気がついた。
 畑仕事を終えて一段落した頃合いということもあり、程よい倦怠感に誘われてしまったのだろう。見るものも眠たくなるほど、気持ちよさそうに髭切の主――藤は眠っていた。

(どうせなら、僕も隣にお邪魔しようかな)

 今日の彼に割り振られていた仕事である掃除も、先ほど無事に終えて、髭切は暇を持て余していた。弟の様子でも見に行こうかと思ったが、彼女の隣で午睡をするのも悪くない。
 そんなことを考えながら近づいた彼は、しかし主を見て目を見開いた。

「……胸が大きくなってる」

 本人が聞いたら平手打ちの一つでもしてきそうな発言だが、髭切としては何も下心や疚しいものがあって、このような発言をしたわけではない。
 藤の胸は、もともとが平坦なのだ。そのことはわざわざ隠されているわけでもなく、本丸の皆も知っている。
 人間の常識が通じない彼らにとっては、胸部の大小などはさしたる問題ではない。ただ、本人の気持ちを尊重して、口にはしていないだけだ。
 髭切にとって今問題になっているのはその大きさではなく、いつもと違う、という点である。

(朝見かけたときは、こんなに大きくなっていなかったのに、いつのまに? 病かな、それとも何か物の怪の類とか……)

 考えながら、髭切は彼女を起こさないようにそっと近寄ってしゃがみこんだ。そろそろと手を伸ばし、まずは口元に手をかざす。彼の掌を掠めていく呼吸は平時のように安定している。ならば、この膨らみのせいで苦しんでいるということはない。
 続けて、服を押し上げているその胸に手を伸ばして、彼は全く一切遠慮せずに触れた。

(…………何だか、妙に暖かいような)

 手触りを一言で言うなら『ふかふか』だろう。力を込めれば指が沈んでいくのではと思うほどだ。それに加えて、伝わる熱が人肌より高い。熱を帯びた膨らみといえば、腫れ物の類だろうか。
 角度を変えて強めに圧したり、或いは指の背でそっと撫でてみたりしとしていると、

「んぅ、もうちょっと……寝かせて……」

 寝起きで緩んだ主の声が、髭切の耳に聞こえた。どうやら、胸を触られたせいで起きてしまったらしい。

「おはよう、主」
「おはよ……え?」

 目を開いた藤が目の当たりにしたのは、自分の胸に手を載せている髭切だった。しかも単に触れているを通りこして、もはやそれは鷲掴みに近い。
 何が起きているか理解するのに、流石に彼女でも数十秒を要した。が、理解した瞬間、その顔は瞬間湯沸かし器より尚早く真っ赤になっていく。

「何してるの!?」
「主の胸が大きくなってるから、どうしたのかと思って」
「大きくなってるからってそんな……ん、大きくなってる?」

 あまりに彼の発言が非常識だったために、藤は一瞬自分が何を言われたのか分からなかった。が、分かってもそれを現実問題として思考に結びつけられるか、というと別の話だ。

「何言ってるの、胸なんて急に大きくなるわけが」

 寝転がったままの姿勢で自分の胸部に触れて、藤も確信する。
 胸が大きく膨らんでいる。しかも妙に暖かい。もこもこしているような気もする。
 ぐいと力を入れて押すと、何故かそのもこもこした膨らみが動いたような気がした。

「ねえ、主。ちょっといいかな」
「え?」

 彼女が「いい」とも「悪い」とも言わないうちに、髭切は藤が着ているセーターを掴み、えいっとめくりあげる。

「わーっ!?」

 驚いている彼女の声と同時に、セーターの裾から一匹の虎の子がひょこりと顔を出した。雪のように真っ白なその虎の子は、普段は五虎退のそばにいる一匹だ。
 慌てた様子の虎の子は、慌ててセーターの中から飛び出して窓辺に逃げ込んでしまった。

「虎くんが入り込んでたんだねえ。だから、あんなにふかふかして暖かかったんだ」
「道理で、セーターの割には妙に毛ざわりがいい感じがしたんだね」

 大方、寝ている主があまりに気持ち良さそうで、暖かな場所を求めて彼女のセーターの中に、潜り込んでしまったのだろう。虎の子にとっては、ちょうどいい暗がりだったというわけだ。

「……ところで髭切。いつまでセーターめくってるの」
「ん? ああ、そうだったね」

 セーターの下に着ていた肌着がむき出しになっていることに気がついて、髭切はめくり上げていたそれを戻す。
 ここまで大騒ぎをされて、流石に寝転がったままではいられない。上体を起こした彼女は、頬を朱に染めつつも、セーターの裾を直し始めた。

「ああ、びっくりした。胸が大きくなったかと、ぬか喜びしちゃった」
「大きい方がよかったの?」
「それは、まあ、うん。そういう方が、服とかも綺麗に着られるし、皆そういうものだし」

 歯切れの悪い返事の端々には、どこか悲しげな気配が漂っていた。ただの冗談として笑って流すには切羽詰まったものが混ざった横顔を見て、そのままにはしておきたくないと髭切は思う。
 ならば、と彼は体を起こしたばかりの藤の肩を掴み、彼女を巻き込むようにして、共にごろりと寝転がった。

「なっ、突然何してるの?」
「僕は今の主が好きだよ。主のことを近くで感じられるから」

 言いつつ、彼女の胸に耳を当てるように顔を寄せる。
 常ならば一定のリズムを刻んでいる筈の鼓動は、今日は少しばかり早い。緊張しているのだろうか。或いはただ驚いているだけなのだろうか。意識しているのだとしたら、と考えると、合わせて髭切の鼓動も早くなったように思えた。

「聞いていて、落ち着くの?」
「うん。主がここにいるなあって感じがするね」
「くすぐったいんだけど」
「じゃあ、止めようか?」

 顔を動かさず、目線だけで主の様子をうかがう。
 結果的に上目遣いの髭切と目が合ってしまった藤は、単純な照れや羞恥とは違う感情が生まれていくことを自覚する。頬の熱を生んでいるのも、きっとそのよく分からない何かのせいだ。

「やめ……なくて、いい。髭切がしたいなら、続けててもいいよ」
「じゃあ、続けてるね」

 もっと近寄りたいと、自分の腕を彼女の背中に回して抱き寄せる。少しばかり藤の体に緊張が走る。
 が、それ以上何かが起こるわけもないと分かって、徐々に余分な力は抜けていった。
 胸の音に耳を傾けるというよりは、胸の中に顔を埋めるようにして彼は目を閉じた。微かな髭切の吐息がセーター越しに藤に小さく伝わる。まるで赤子のようだと思い、藤は緊張で強張っていた口角を緩めた。

「……そのまま、寝ちゃうつもり?」
「うん。そうしようかな」
「じゃあ、僕も」

 二つ分の鼓動と二人分の呼吸がゆっくりと重なり合い、やがて一つになる。寄り添いながら、二人は昼下がりの夢の中へと旅立っていった。


 ***


「おや」

 居間の前を通りがかった歌仙は、その片隅で互いに体を沿わせるようにして眠っている主と髭切に気がつき、思わず口元に微笑を覗かせた。
 さながら兄妹のように寄り添って眠る彼らを起こさないように、歌仙は部屋の隅に置かれていた薄手の毛布をそっと二人にかける。

「二人とも、まるで童のような顔をしているね」

 彼らを慈しむかのように眺める彼の瞳は、刀では持ち得ないはずの、人の親のような暖かさに満ちていた。
 うららかな、秋の昼下がり。
 窓辺で丸まる虎の子だけが、本来あり得なかったはずの彼らの姿――刀が見守り、刀が寄り添い、一人の娘が幸せそうに眠る姿をじっと、いつまでも見つめていた。
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