短編置き場
人通りの少ない夕暮れ時。万屋の通りを一陣の風が強く吹きすぎていく。
「うわっ」
その場を歩いていた一人の審神者──藤という名を名乗る彼女は、額に巻いていたバンダナの結び目が、風に煽られて緩んだことに気がついた。鉢巻のように彼女の額を覆っていたそれは、伸ばした手の隙間からすり抜けて落ちていく。
どこにでもよくある、ありふれた光景の一つ。ただ、それだけのはずだった。
「──っ!?」
鋭く誰かが息をのむ音。
見れば、ちょうど対面からやってきていた子供とその連れらしい刀剣男士が、バンダナを落とした彼女を──否、その額を凝視していた。
「……鬼か?」
聞こえないように極力まで絞られた刀剣男士の言葉が、彼の後ろに咄嗟に隠れた子供の驚いた瞳が、そこにある全てを示していた。
彼女の額にある角が、指し示すものの意味を。
「え、えっと」
思わず弁明を求めるような声が、藤の口から漏れる。彼らの反応は何度も見たことがあるもののはずなのに、唇が震えて声にならない。空転した思考回路が何か言葉を紡ぐより前に、
「はーい、そこまで」
その場の緊張にそぐわない聞き慣れた声が、背後から聞こえた。けれども、それは藤にとっては馴染みのある安心できる声だ。
振り返るより先に、彼女の両肩に手が置かれる。
「──髭切」
彼女もまた、背後に立つ彼の顔を見ることもなくその名を呼んだ。安心させるように、髭切が肩を掴む手に少しだけ力が込められる。
大丈夫。そう確信できたからこそ、藤はようやく動揺を顔から消して微笑むことができた。
「主、ほら、これ」
万屋通りの路地裏をくぐり抜けた先にある小さな休憩スペース。その一角にあるベンチで休んでいると、聞き慣れた声が上から降ってきた。
顔を上げれば、つやつやとしたタレがかかった美味しそうな団子がある。藤のお気に入りの店が扱っている一品だ。
「ありがとう。買ってきてくれたんだ」
「どういたしまして」
「それに、さっきも」
言いながら彼女は、自身の額に手を伸ばす。そこにあるバンダナは、今はきっちりと結び直されて額に生えている角をすっかり覆い隠していた。
「髭切が間に入ってくれたから、いい感じに誤魔化せた」
「じゃあそれも、どういたしまして」
ベンチに腰掛けている主の隣に、髭切はよいしょと腰を下ろす。団子が入った透明なパックを膝の上に置き、髭切自身も一本取り出して頬張り始める。
暢気な様子を見せながらも、髭切は横目で藤の様子をちらりと見ていた。
人通りの少ない道とはいえ、見知らぬ子供と刀剣男士に普段隠している角を見られてしまったというのは、彼女にとって思う所がないということはないだろう。だから、こうして人気の無い所で休ませ、気分を切り替えられるようにと団子を彼女のために買ってきたというわけだった。
「あのさ」
団子を一本食べ終えてから、ようやく藤は口を開いた。
「髭切は、鬼を斬った刀なんだよね」
藪から棒に何の話だろうと思いつつ、髭切はゆっくり首を上下に動かす。
「そう言われてはいるね。僕の名前が残されている刀も、鬼切丸って名前と一緒に伝わっているくらいだから」
「じゃあ髭切が斬った鬼ってさ、どんな鬼だったの?」
珍しいことを尋ねるものだ。やはり先ほどの件を気にしているのだろうか。
そのように思いつつも、髭切は素知らぬ風を装って彼女の疑問に答えることを選ぶ。
「うーん、どうだったかなあ」
曖昧な返事が意外だったのか、藤は少し目を丸くしながら二本目の団子に手を伸ばす。
表情にも暗い影のようなものは見えないし、ただの興味で聞いているのかもしれないと髭切は藤の心を推察する。この食べっぷりなら、先ほどのことはそこまで気にしてないのだろう。ならば、よかったと彼は内心で胸をなで下ろした。
「どうだったかって、自分が斬ったんじゃないの?」
「うーん、そうだけれど……でも、それが主みたいな鬼っていうものだったかどうかはわからないよ」
団子を食べ終えた髭切は自分の足元に転がっていた手頃な枝を拾い、舗装されていない地面にガリガリと絵を描いていく。四角い顔、もじゃもじゃした巻き毛の髪と頭には角。それは世間でよく見かける鬼らしい鬼の姿だった。
「僕がが顕現してから見かけた鬼の絵姿って、大体こんな感じだよね」
「うん。赤い顔で眉が太くて、体が大きくて、牙が生えていて」
「でも、僕がそういう妖を斬ったかどうかは分からない。ただ赤い顔をして背丈が大きいだけの人間だったのかも」
「それってなんだか、外国の人みたいだね」
藤に言われて、髭切は数度パチパチと瞬きをする。その発想は彼にとって予想外のものだったからだ。
「うん。もしかしたら、そういう外の国の人間だったのかもね。もちろん、実際に鬼と呼ばれる妖がいたのかもしれない。或いは、もっと違う何かかも」
「もっと違う何か?」
二つ目の団子を食べ終えた彼女は、身を乗り出して髭切の推測に耳を傾けている。
「或いは、神様だったのかもね」
地面に描いた鬼に目や口を加えながら、髭切は何気なくその言葉を口にした。
自分たちも似たようなものだ。刀剣より出でし付喪神──刀剣男士。物より生まれた神がいるのならば、同時に物以外に宿る神だっているだろう。寧ろ、そちらの方が歴史という意味では古いに違いない。
「神様?」
「そう。神様」
「神様なのに、斬られるの?」
「歴史は勝者のものだからね。僕の持ち主やその人が仕えていた人たちにとって間違っているものは、皆悪いように言われる。神様だって人間だって。鬼という言葉についてる悪い意味も、そういう人間の意思から生まれたものかもね」
枝を地面に置き直し、髭切は改めて自分の描いた鬼と見つめあう。隣に座っている主が必死で笑いを堪えている様子を見る限り、自分に絵心というものはないらしい。
押し隠すことができなかった笑い声は、いつしか彼の耳にはっきりと届くまでになっていた。
「そんなに変かな?」
「ははっ、だって、ふふっ、強面の福笑いみたいなんだもの。ああ、おかしい。笑いすぎてお腹が痛くなる」
「主がおかしがってくれるなら、それでもいいけどね」
ころころと鈴を転がすように笑う彼女の頭を、わさわさとかき混ぜるように撫でる。それでも彼女の抱腹絶倒は収まらず、髭切は笑いの発作が治まるまで一分ほど彼女を見守ることになってしまった。
ひとしきり笑い終えてから、藤は居住まいを正して先ほどの会話を続ける。
「鬼の意味は人が作った、か。そういう考え方も面白いね、髭切」
「そういえば、主はどうしてそんなことを聞いたの?」
髭切が鬼を斬った逸話を持つことは、主は彼を顕現してすぐに調べだして知っているはずのことだ。今更聞くまでもないのではと思いきや、
「髭切が鬼を斬ったことは知ってたけど、じゃあ今の髭切はその鬼のことはどう思ってるのかって少し気になったから」
意表を突く回答に、髭切は少しばかり目を丸くする。
彼にとって自分を構成する逸話は重要な要素ではあるが、同時にそれ以上の意味はないものでもあったからだ。
鬼のことをどう思うか。
髭切は柳眉を顰めて、考えたこともない未知の領域へと思考を進める。先ほどのちょっとした事故の際、行き会った子供や刀剣男士の反応はごく当然と髭切も思っていた。
鬼だから、異質だから、警戒する。おとぎ話や些細な言葉一つとっても、人々に染みつかせた『鬼』というものに対する負のイメージはそれほどまでに濃い。
けれども、彼はその軛から一歩外れて考えを深める。そして数分経ってから、ようやく口を開いた。
「……僕がこの姿になってから出会ったわけではないから、もしもの話になってしまうけど。もし、その鬼が『悪』なら僕は斬らねばと思う、かな」
「やっぱり覚えてない鬼にどう思うか、なんて考えにくい?」
「うん。でも、今の僕としては、例え悪い何かだったとしても、斬った相手のことはちゃんと覚えておきたいよ」
名も存在もあやふやな何かに対する己の向き合い方として、それが一番誠実なもののように髭切には思えた。
彼の答えを聞いて藤は数度頷いた後、少し哀切を帯びた笑みを浮かべた。
「そうだね。僕も、どうせ斬られるなら君に覚えていて」
言いかけて、藤の言葉が中途で切られた。髭切の人差し指が藤の唇にそっと添えられていたからだ。それは、言わないでという彼の想いの表れでもあると彼女はすぐに察した。
「僕はもう君を斬ったりしないよ」
「……うん」
小さく頷く彼女の頬に、彼の手袋に包まれた手が添えられる。
以前、そこに刻まれた傷はもう跡形もない。髭切という名の刀剣男士が顕現した直後、鬼を斬った刀という逸話に引きずられるようにして、彼女を斬りつけてしまったのだ。
傷痕がなくて良かったと彼は思う。
主だから、好きな相手だから顔に傷をつけたくない──のでは、ない。
自分が唯一彼女に刀傷を残したなどと考えてしまうと、言葉にし難い歓喜に似た感情に、きっと心が揺れてしまうから。人として彼女の心を求めた先に、刀としての自分が彼女を壊してしまうような気がしたから。
無論、そんな気持ちなど露とも見せることもなく、髭切は彼女に顔を寄せる。近づいてくる彼の瞳が求めていることに気がついて、藤は少し慌てた様子で周囲に視線を泳がせた。
「ここ、誰が通るかわかんないよ」
「誰も通らないよ」
軽い抵抗の言葉は有無を言わさぬ語調で封じて、続けて言葉を紡ぎかけていた彼女の唇を己のもので塞ぐ。ほんの一瞬、柔らかいもの同士が触れあい、すぐに離れていった。
真っ赤になった彼女は、顔を見られまいと俯いてしまっている。
人の形をした者同士の触れあいが、先ほど生まれた嫌な予感を心の片隅に押しやってくれる。そのことに安堵しながら、髭切は彼女を己の胸の中へと抱き寄せた。
俯いた彼女の白いうなじが、見下ろす形になった髭切にはよく見える。ふと、先ほどの彼女の言葉が髭切の中で蘇った。
──どうせ斬られるなら、君に覚えていてほしい。
(僕が、もし君を斬るようなことがあるとしたら)
そっとその肌を撫でると、くすぐったかったのか、まるでばねじかけの人形のように飛び起きた主と目が合った。更に顔を真っ赤にした彼女の頭を慈しむように撫でながら、彼は少しばかり目を伏せる。
(それは、君が本当に鬼になってしまったときだけだよ)
隠された思いが、このまま秘め事であり続けることを、彼は人知れずそっと祈った。
「うわっ」
その場を歩いていた一人の審神者──藤という名を名乗る彼女は、額に巻いていたバンダナの結び目が、風に煽られて緩んだことに気がついた。鉢巻のように彼女の額を覆っていたそれは、伸ばした手の隙間からすり抜けて落ちていく。
どこにでもよくある、ありふれた光景の一つ。ただ、それだけのはずだった。
「──っ!?」
鋭く誰かが息をのむ音。
見れば、ちょうど対面からやってきていた子供とその連れらしい刀剣男士が、バンダナを落とした彼女を──否、その額を凝視していた。
「……鬼か?」
聞こえないように極力まで絞られた刀剣男士の言葉が、彼の後ろに咄嗟に隠れた子供の驚いた瞳が、そこにある全てを示していた。
彼女の額にある角が、指し示すものの意味を。
「え、えっと」
思わず弁明を求めるような声が、藤の口から漏れる。彼らの反応は何度も見たことがあるもののはずなのに、唇が震えて声にならない。空転した思考回路が何か言葉を紡ぐより前に、
「はーい、そこまで」
その場の緊張にそぐわない聞き慣れた声が、背後から聞こえた。けれども、それは藤にとっては馴染みのある安心できる声だ。
振り返るより先に、彼女の両肩に手が置かれる。
「──髭切」
彼女もまた、背後に立つ彼の顔を見ることもなくその名を呼んだ。安心させるように、髭切が肩を掴む手に少しだけ力が込められる。
大丈夫。そう確信できたからこそ、藤はようやく動揺を顔から消して微笑むことができた。
「主、ほら、これ」
万屋通りの路地裏をくぐり抜けた先にある小さな休憩スペース。その一角にあるベンチで休んでいると、聞き慣れた声が上から降ってきた。
顔を上げれば、つやつやとしたタレがかかった美味しそうな団子がある。藤のお気に入りの店が扱っている一品だ。
「ありがとう。買ってきてくれたんだ」
「どういたしまして」
「それに、さっきも」
言いながら彼女は、自身の額に手を伸ばす。そこにあるバンダナは、今はきっちりと結び直されて額に生えている角をすっかり覆い隠していた。
「髭切が間に入ってくれたから、いい感じに誤魔化せた」
「じゃあそれも、どういたしまして」
ベンチに腰掛けている主の隣に、髭切はよいしょと腰を下ろす。団子が入った透明なパックを膝の上に置き、髭切自身も一本取り出して頬張り始める。
暢気な様子を見せながらも、髭切は横目で藤の様子をちらりと見ていた。
人通りの少ない道とはいえ、見知らぬ子供と刀剣男士に普段隠している角を見られてしまったというのは、彼女にとって思う所がないということはないだろう。だから、こうして人気の無い所で休ませ、気分を切り替えられるようにと団子を彼女のために買ってきたというわけだった。
「あのさ」
団子を一本食べ終えてから、ようやく藤は口を開いた。
「髭切は、鬼を斬った刀なんだよね」
藪から棒に何の話だろうと思いつつ、髭切はゆっくり首を上下に動かす。
「そう言われてはいるね。僕の名前が残されている刀も、鬼切丸って名前と一緒に伝わっているくらいだから」
「じゃあ髭切が斬った鬼ってさ、どんな鬼だったの?」
珍しいことを尋ねるものだ。やはり先ほどの件を気にしているのだろうか。
そのように思いつつも、髭切は素知らぬ風を装って彼女の疑問に答えることを選ぶ。
「うーん、どうだったかなあ」
曖昧な返事が意外だったのか、藤は少し目を丸くしながら二本目の団子に手を伸ばす。
表情にも暗い影のようなものは見えないし、ただの興味で聞いているのかもしれないと髭切は藤の心を推察する。この食べっぷりなら、先ほどのことはそこまで気にしてないのだろう。ならば、よかったと彼は内心で胸をなで下ろした。
「どうだったかって、自分が斬ったんじゃないの?」
「うーん、そうだけれど……でも、それが主みたいな鬼っていうものだったかどうかはわからないよ」
団子を食べ終えた髭切は自分の足元に転がっていた手頃な枝を拾い、舗装されていない地面にガリガリと絵を描いていく。四角い顔、もじゃもじゃした巻き毛の髪と頭には角。それは世間でよく見かける鬼らしい鬼の姿だった。
「僕がが顕現してから見かけた鬼の絵姿って、大体こんな感じだよね」
「うん。赤い顔で眉が太くて、体が大きくて、牙が生えていて」
「でも、僕がそういう妖を斬ったかどうかは分からない。ただ赤い顔をして背丈が大きいだけの人間だったのかも」
「それってなんだか、外国の人みたいだね」
藤に言われて、髭切は数度パチパチと瞬きをする。その発想は彼にとって予想外のものだったからだ。
「うん。もしかしたら、そういう外の国の人間だったのかもね。もちろん、実際に鬼と呼ばれる妖がいたのかもしれない。或いは、もっと違う何かかも」
「もっと違う何か?」
二つ目の団子を食べ終えた彼女は、身を乗り出して髭切の推測に耳を傾けている。
「或いは、神様だったのかもね」
地面に描いた鬼に目や口を加えながら、髭切は何気なくその言葉を口にした。
自分たちも似たようなものだ。刀剣より出でし付喪神──刀剣男士。物より生まれた神がいるのならば、同時に物以外に宿る神だっているだろう。寧ろ、そちらの方が歴史という意味では古いに違いない。
「神様?」
「そう。神様」
「神様なのに、斬られるの?」
「歴史は勝者のものだからね。僕の持ち主やその人が仕えていた人たちにとって間違っているものは、皆悪いように言われる。神様だって人間だって。鬼という言葉についてる悪い意味も、そういう人間の意思から生まれたものかもね」
枝を地面に置き直し、髭切は改めて自分の描いた鬼と見つめあう。隣に座っている主が必死で笑いを堪えている様子を見る限り、自分に絵心というものはないらしい。
押し隠すことができなかった笑い声は、いつしか彼の耳にはっきりと届くまでになっていた。
「そんなに変かな?」
「ははっ、だって、ふふっ、強面の福笑いみたいなんだもの。ああ、おかしい。笑いすぎてお腹が痛くなる」
「主がおかしがってくれるなら、それでもいいけどね」
ころころと鈴を転がすように笑う彼女の頭を、わさわさとかき混ぜるように撫でる。それでも彼女の抱腹絶倒は収まらず、髭切は笑いの発作が治まるまで一分ほど彼女を見守ることになってしまった。
ひとしきり笑い終えてから、藤は居住まいを正して先ほどの会話を続ける。
「鬼の意味は人が作った、か。そういう考え方も面白いね、髭切」
「そういえば、主はどうしてそんなことを聞いたの?」
髭切が鬼を斬った逸話を持つことは、主は彼を顕現してすぐに調べだして知っているはずのことだ。今更聞くまでもないのではと思いきや、
「髭切が鬼を斬ったことは知ってたけど、じゃあ今の髭切はその鬼のことはどう思ってるのかって少し気になったから」
意表を突く回答に、髭切は少しばかり目を丸くする。
彼にとって自分を構成する逸話は重要な要素ではあるが、同時にそれ以上の意味はないものでもあったからだ。
鬼のことをどう思うか。
髭切は柳眉を顰めて、考えたこともない未知の領域へと思考を進める。先ほどのちょっとした事故の際、行き会った子供や刀剣男士の反応はごく当然と髭切も思っていた。
鬼だから、異質だから、警戒する。おとぎ話や些細な言葉一つとっても、人々に染みつかせた『鬼』というものに対する負のイメージはそれほどまでに濃い。
けれども、彼はその軛から一歩外れて考えを深める。そして数分経ってから、ようやく口を開いた。
「……僕がこの姿になってから出会ったわけではないから、もしもの話になってしまうけど。もし、その鬼が『悪』なら僕は斬らねばと思う、かな」
「やっぱり覚えてない鬼にどう思うか、なんて考えにくい?」
「うん。でも、今の僕としては、例え悪い何かだったとしても、斬った相手のことはちゃんと覚えておきたいよ」
名も存在もあやふやな何かに対する己の向き合い方として、それが一番誠実なもののように髭切には思えた。
彼の答えを聞いて藤は数度頷いた後、少し哀切を帯びた笑みを浮かべた。
「そうだね。僕も、どうせ斬られるなら君に覚えていて」
言いかけて、藤の言葉が中途で切られた。髭切の人差し指が藤の唇にそっと添えられていたからだ。それは、言わないでという彼の想いの表れでもあると彼女はすぐに察した。
「僕はもう君を斬ったりしないよ」
「……うん」
小さく頷く彼女の頬に、彼の手袋に包まれた手が添えられる。
以前、そこに刻まれた傷はもう跡形もない。髭切という名の刀剣男士が顕現した直後、鬼を斬った刀という逸話に引きずられるようにして、彼女を斬りつけてしまったのだ。
傷痕がなくて良かったと彼は思う。
主だから、好きな相手だから顔に傷をつけたくない──のでは、ない。
自分が唯一彼女に刀傷を残したなどと考えてしまうと、言葉にし難い歓喜に似た感情に、きっと心が揺れてしまうから。人として彼女の心を求めた先に、刀としての自分が彼女を壊してしまうような気がしたから。
無論、そんな気持ちなど露とも見せることもなく、髭切は彼女に顔を寄せる。近づいてくる彼の瞳が求めていることに気がついて、藤は少し慌てた様子で周囲に視線を泳がせた。
「ここ、誰が通るかわかんないよ」
「誰も通らないよ」
軽い抵抗の言葉は有無を言わさぬ語調で封じて、続けて言葉を紡ぎかけていた彼女の唇を己のもので塞ぐ。ほんの一瞬、柔らかいもの同士が触れあい、すぐに離れていった。
真っ赤になった彼女は、顔を見られまいと俯いてしまっている。
人の形をした者同士の触れあいが、先ほど生まれた嫌な予感を心の片隅に押しやってくれる。そのことに安堵しながら、髭切は彼女を己の胸の中へと抱き寄せた。
俯いた彼女の白いうなじが、見下ろす形になった髭切にはよく見える。ふと、先ほどの彼女の言葉が髭切の中で蘇った。
──どうせ斬られるなら、君に覚えていてほしい。
(僕が、もし君を斬るようなことがあるとしたら)
そっとその肌を撫でると、くすぐったかったのか、まるでばねじかけの人形のように飛び起きた主と目が合った。更に顔を真っ赤にした彼女の頭を慈しむように撫でながら、彼は少しばかり目を伏せる。
(それは、君が本当に鬼になってしまったときだけだよ)
隠された思いが、このまま秘め事であり続けることを、彼は人知れずそっと祈った。