本編第一部(完結済み)

「ああもう、絶対勝てると思ったのに!」
「実際、試合には勝っていたじゃないか」
「違う、僕は一人で勝ちたかったんだよ!」

 悔しそうに声をあげているのは、先ほどまで木刀を向けていた相手でもある敵部隊の隊長――大和守安定だ。対して彼に声をかけているのは、今回敗軍の将となった歌仙である。
 少々問題が生じてしまったために仕切り直しを挟むことにはなったものの、演練は滞りなく続けられた。その結果として、最後の一人であった歌仙を、安定が他二名の短刀と下し、そこで試合終了となった。
 だが、一人で部隊長を仕留めきれなかった安定にとっては、納得のいかない形での勝利だったようだ。彼らのやり取りを傍目から見ているだけの髭切ですらも、安定の無念が伝わってくるのが分かる。

「大和守、お前はちと性急が過ぎるな。歌仙兼定に部隊の指揮について教わるがよい。良い勉強になるだろう」

 審判員であり仲間の三日月に宥められて、不服そうではあるものの、安定はぎくしゃくとした動きで歌仙に向き直った。
 好戦的ではあるものの、反省点はそのまま素直に受け入れようとする姿勢は良い心がけだと髭切は思う。彼は将来、立派な惣領となるだろう。

「髭切さん、今日はありがとうございました!」

 明るい少年の声が不意に横からかけられ、髭切は視線を落とした。声の主は彼より背丈の小さい人物だったからだ。
 燃える炎のような、鮮やかな赤毛の少年――信濃藤四郎が、人なつっこい笑顔でこちらを見上げている。およそ短刀とは思えない膂力で繰り出される一撃には、邂逅した瞬間から驚かされたものだ。

「正直、勝てるのかってちょっとひやりとしたんだよね。強いなあ、髭切さんは」
「いやいや、僕もまだまだだよ。他の刀剣男士から聞いたんだけど、修行をしてきたんだって? 修行に出るとそんなに強くなるんだね」
「はい。昔の俺に所縁のあるところに行ったんだけど、自然とこう……気構えが変わっていったんだよ」
「昔の、自分?」

 うん、と信濃はきびきびと頷く。どこか誇らしさを感じさせる顔は、彼にとって修行が良いものだったということを示している。

「昔の自分……」

 彼に促されて、髭切はふと考える。
 物語で生まれたような自分、本当に在ったか定かではない刀。それでも、今ここにいるのは『髭切』だと主が教えてくれた。
 リンドウ畑の中で、子供のように笑っていた彼女。嬉しいという感情を心に響かせてくれた主。藤の名を持つ鬼が、彼の有り様を定めてくれた。
 けれども、もし昔の自分というものがあったとして。昔の主に会うことが叶ったとして。
 その結果、自分という存在はどうなってしまうのだろうか。

(鬼を切った僕は、鬼を切る刀になるのだろうか)

 ふと視線を上げると、遠くで主が演練相手の審神者と話しているのが見えた。いつものように笑いながら言葉を交わしている彼女に、特に違和感は覚えない。
 けれども、髭切は演練が終わる前から、ずっと気になっていたことがあった。

「そういえば髭切さん。仕切り直して俺と討ち合っているとき、仕切り直す前より何だかこう……動きが鈍っていたような気がしたんだけど、もしかして怪我させちゃったりした?」
「ううん、大丈夫。ちょっと気になっていたことがあっただけだから」

 適当な返事をしてから、髭切は再度主に目をやる。
 信濃が指摘した通り、髭切の動きは仕切り直した後から幾らか精彩を欠いていた。演練を中断している際に、主から不意に響いてきた思いが、ずっと気になってしまっていたからだ。
 夏祭りの夜や、出会った瞬間から感じていた主の心の声が零した欠片。その一片が、あの瞬間髭切の心に刺さっていた。
 最近は夢と同様めっきり感じ取ることが減ってしまったが、今日はまるで隙間風のように髭切の心に強く吹き込んできた。
 リンドウ畑で伝わってきた、心躍る暖かな感情とは、まったく逆の冷たいもの。彼の全身に行き渡ったのは、言葉にできない苦しげな思いだった。

(でも、今は笑っているんだよね。一過性のものだったのかな)

 髭切が主を眺めているうちに、当の本人がこちらに向けて手を振ってきた。返礼代わりに手を振り返しながらも、彼はやはり気のせいだったと思い直す。
 嫌なことはあったかもしれない。けれども、もう過ぎ去ったことなのだ、と。


 演練が終わってしまえば、その後どうするかは主次第だ。
 歌仙から聞いた話によると、以前は他の審神者と交流を深めるために食事をとっていたようだが、今日の二人はそのまま解散することを選んだようだった。
 主の言葉に従って、それぞれの刀剣男士は己の主の元に固まり、最初のホールに戻ろうとしていた。髭切も例に漏れず、主である藤の元に向かいかけたが、

「少しよいか」

 三日月に声をかけられ、髭切は振り返る。

「どうかしたの?」
「いやさ、大したことではないのだが」

 部隊長である歌仙は、主への報告や他の刀剣男士の取りまとめで手が空いていない。暇そうにしていたから声をかけられたのだろうと、髭切は三日月宗近に向き直る。

「貴殿らの主に、此度は迷惑をかけてしまった。まずはそれを謝罪しようと思ってな。主からも直接はやり取りをしているが、改めて」
「そういえば、試合中に何か揉めていたね。何があったんだい?」
「ちとな、俺たちの主は変わった体質を持っている。そのことへの……そうさな、糾弾、と言うべきだろうか」

 謝辞は述べているが原因を深く語ろうとはしない様子に、触れられたくない件なのだろうと髭切は察する。

「それに加えて、俺の主から貴殿らの主へ失言をしてしまってな。彼女は気にしていないと言っていたが、失言は失言だ。それでも笑顔を崩さぬとは器の広い……と言いたいところなのだが」

 話の雲行きが変わり、髭切は目を眇める。彼の予想に反せず、三日月も同様に金の弧を描く青の瞳を細めた。

「彼女は、いつもあのようなな感じなのか?」
「あのような感じ?」

 鸚鵡返しの返答に、三日月の目つきの鋭さが増していく。
 刀を抜いてもいないというのに、漂わせる気配が抜き身のそれと大差ない。こちらに不快を齎しているわけではないが、彼の語る言葉が真剣だということは、ひしひしと伝わってくる。

「俺たちの主は、その体質のせいで少しばかり勘が鋭くてな。主曰く、彼女は諍いに巻き込まれて強い不快感や不安に襲われていた。主の口にした失言に、動揺もしたし苦い思いも抱いていた。故に、気になると言っておった」
「気になるって何が?」
「笑っておったのだよ」

 何気なく三日月が口にした言葉を聞いて、髭切は一瞬「何だそんなことか」と思う。
 相手を気遣って笑う。そういう瞬間があることは、髭切自身が嫌というほどよく知っている。顕現した直後の数日の自分が、まさにそうだったのだから。
 それの何がおかしいのか、と髭切が問いかけようとすると、先んじて三日月は続きを語り始めた。

「笑って気遣ってくれているのは、俺たちでも分かる。ただな、不愉快さを匂わせまいとしてか。諍いが終わってからも、主が詫びを入れた際も、彼女は笑顔のままだった」

 三日月は、藤の方に視線を送る。彼の眼差しは悲哀というよりは、どこか憐憫に満ちていた。

「傷ついたのだから、批難の一つでもしても良いだろうに。或いは気を遣ったにしても、貴殿らの前ではその笑顔を崩してもよかっただろうに」

 三日月宗近は思い出す。試合を見ている彼女の横顔に、全く揺るがない微笑みが浮かんでいたことを。歌仙たちが戻ってきてからも、彼女の笑顔は揺るがなかった。

「――あれではまるで、貼り付いて剥がれぬ、灼けた鉄の面のようだ」

 彼の言葉に、髭切は言葉にできない衝撃のようなものを覚えている自分に気がつく。と、同時に、どこかで納得してしまっている自分がいるとも理解していた。
 主は、よく笑う。そのことは彼も知っていた。
 本心からではないときもあるだろうというのは、髭切自身にも覚えがあるから今更いちいち追及しようとは思わない。
 その中でも、これはきっと心の底からの笑顔だと思えたことは数少なく、とびきり喜んでいると確信を持てたのは、一度だけ。
 リンドウ畑ではしゃぐ彼女の姿と共に聞こえた心に響く木霊は、確かに歓喜に満ちていた。主の心は喜びと嬉しさとで満ちあふれ、髭切も引きずられるように思わず笑い出しそうになったことを覚えている。
 あのとき、彼女の笑顔は太陽のようだと思い、今までの笑顔は月のように淡いものに過ぎないと知った。あれが、彼女にとっての幸せだと信じることができた。
 ならば、今はどうなのだろうか?

「人の子の思いは複雑でな。笑うことが、何もかもにおいて良いことになるというわけではない。終始笑っているが故に、見えなくなってしまうものもある」
「……それは、僕も知っているつもりだけどね」
「そうか。なら、釈迦に説法とだったな」

 先ほどまでの重たい空気を払拭して、三日月は鷹揚に微笑んでみせた。

「出過ぎた真似をして、すまなんだ。人の身を得た直後では、どうしても視野が狭くなってしまうのだが。……できることなら、貴殿らには後悔をしてほしくなくてな」

 再び藤を見やる三日月に倣い、髭切も彼女に視線を送る。
 他愛ない言葉を掛け合いつつも、微笑を少しも揺るがせない姿は、確かに彼の言う『面』に近いのかもしれない。
 面の下の顔もきっと笑顔であると、或いは嫌な思いが彼女の中にあったとしても、すぐ通り過ぎてしまうような些細なものだと信じ込んでいた。そうでなかったらという可能性を、今まで考えようとも思わなかった。

「うん、僕からも気をつけておくよ。ありがとう、ええと」
「三条宗近が作の一振り、三日月宗近だ。よろしく頼む」

 優雅に装束の裾を広げて、軽く足を曲げて一礼する三日月。
 彼に応じるように髭切も胸に手を添え、肩にかけた上着を片手で払って頭を下げる。

「源氏の重宝、髭切さ。こちらこそ、よろしく」

 告げた名は、自分自身を証明できるものだと主が教えてくれた名でもあった。


 ***


 演練が終わり、本丸に戻ったからといえ、それで終わりというわけではない。模擬戦をしたなら当然、その反省会も執り行わなければ演練をした意味がなくなってしまう。
 灯りを灯した歌仙の部屋で、次郎と歌仙、物吉は三人で輪になって話していた。中心にある机の上には、大きな紙に筆記用具が数点載せられている。紙面にはいくつかの文字や線、点が書かれていた。今日の演練の動きをおさらいした跡だ。
 とはいえ、大まかな議題は既に出尽くしており、話の流れは対戦相手への感想へと移っていた。

「今日の相手について、物吉、君はどう思った?」
「短刀のお二人の練度が、とても高いと思いました。五虎退とは比べ物にならないと……いえ、五虎退が決して劣っているというわけではありませんが」

 先に部屋へ戻って休むと言って席を辞した二人の内の一人、五虎退に対しての批評のようにも聞こえると気がつき、物吉はすぐさま訂正を挟む。

「五虎退は短刀の刀剣男士としては、十分に強いとボクは思っています。ただ、あの二人はそれとは違う次元にいるように感じました」
「信濃藤四郎に薬研藤四郎だね。粟田口の作の短刀だと名乗っていたよ」
「粟田口っていうことは、五虎退の兄弟みたいなもんだろう? そこまで差がつくもんなのかい?」

 歌仙の説明を聞いて、次郎が口を挟む。文机に載せられているお茶を一口啜ってから、歌仙は言葉を続けた。

「僕自身、薬研藤四郎から聞いたのだが……彼らは修行に行ったから強くなった、のだそうだ」

 言いつつ、歌仙は演練後に言葉を交わした少年のことを思い出す――。


 ◇◇◇


「そりゃ、旦那。俺たちは修行に行ってきたからな」

 薬研と名乗った少年は居住まいを正して、ニッと笑ってみせた。
 現代風の礼装のような紺色の服を身に纏っている点は、五虎退と似ているが、彼の片袖には五虎退と違い、甲冑の一部がくくりつけられている。そのせいもあってか、少年らしい細さよりも、無骨な武者の空気が彼から漂っているように思えた。

「本丸ではなく、どこか別の場所に行ったということかい?」
「ああ。ある程度練度を積んだ刀剣男士に認められるものでな。政府の人間に誘導されて俺たちが嘗て存在していた時代に行く。そこからは刀剣男士それぞれだな。元の主に僅かとはいえ会ったり指南を受けたりする奴もいれば、遠くから見てるだけって奴もいる。様々な時代を転々とするのもいたか。ま、そうして己を見つめ直した時に掴んだものを、俺たちの力として再構築する。その結果強くなった刀剣男士のことを、『極まった』というらしい」

 言いつつ、薬研は腰にさした己自身でもある短刀を見せる。見たところは大きな変化はなさそうではあったが、たしかに刃からにじみ出した気迫は、極めたという言葉にふさわしい風格がある。木刀では感じられなかった凄みが、彼の銀の刀身からはひしひしと伝わってきていた。

「旦那たちじゃ、もうちっと本丸で練度を上げたほうがいいかもな。それに、刀剣男士一人で出かけることを許可されるには、審神者の方にもそれなりに要求される政府からの信頼ってもんがあるらしい」
「なるほど、ありがとう。……ところで、一つ質問なんだが」

 胸を反らして誇らしげな様子を隠そうともしない少年に対して、対照的に少しばかり眉を顰めた歌仙は、

「修行をして、君はどれほど自分が変わったと思う?」

 最初に己の中から浮かび上がった疑問について、問いかけた。


 ◇◇◇


「それで、薬研さんはどう答えたんですか?」

 固唾を呑んで話の行く末を見守っていた物吉が、彼にしては珍しく急くように尋ねる。

「そんなに大きく変わるものじゃなかった、と彼は言っていた。ただ、刀剣男士によっては自分の抱える悩みを振り切って、内面的に大きく成長したものもいるとか」
「それは、大きく変わったって言うんじゃないかい?」
「そうだね。次郎太刀、君が禁酒に目覚めたら大きく変わったといえるだろう」
「いや、アタシはきっと修行とやらに行っても大して変わらない方に入るとおもうよ。大体、アタシが急に真人間ぶったら、主だってひっくり返っちまうだろう?」

 からからと笑いながら、次郎は文机の上にあるお茶を一気に飲み干した。ただ、やはりお茶だけでは彼には物足りなかったのだろう。歌仙に断りを入れてから、次郎もまた席を立ってしまった。少し遅くなった晩酌としゃれ込みに行くことはわざわざ聞くまでもなく予想できる。
 元々、演練の反省会は行軍の振り返りを済ませた時点で、ほぼ終了していたと言っていい。特に引き止めず、歌仙は小さくなっていく次郎の背中を見送った。

「薬研さんへの質問の件なんですが、歌仙さんは何を心配しているんですか?」
「僕らが修行に出たとする。そこで新しい見識を得た結果、今の考え方が大きく変わってしまうのかもしれない」

 文机の上に広げられた紙をくるくると纏め、散らかしていた筆記具をまとめる。手は動かしながらも、歌仙の口は続きの言葉を紡いでいた。

「それが……その、恐ろしい、ですか」
「否定はしないよ。自分が自分でなくなる可能性というのは、あまり考えていて気持ちのいいものじゃない」

 けれども、と歌仙は言葉を繋ぐ。

「自分のこと以外でも、心配なことがあるんだ」
「……主様のことですか」

 物吉の返答に、歌仙は大きく頷いた。

「僕らがどうなるかは、はっきりと分からない。僕らの逸話に鬼に纏わるものは無かったはずだ。ただ、髭切はどうなるんだろう、とね」

 五虎退と共に先に席を立った青年――鬼を斬ったという逸話を持つ髭切のことを思い返して、歌仙は渋面を作ってしまった。
 髭切は、歌仙たち最初の三人のように、主を『人間』として扱う素振りは特段みせていない。彼は彼で、『鬼』ではあっても主である、という姿勢で藤に向き合っているようだと歌仙は推察していた。
 だからこそ以前の主に会い、やはり鬼は切ろうという考えになったとしたら、彼は躊躇なくそれを行うだろう。そういう性格の持ち主だと、歌仙は既に知っている。
 無論、そんな可能性は万が一にもないと信じたくはある。けれども、僅かに残った『一』が気になってしまうのも事実だ。

「そうなってしまったときのことを考えると、強くなることだけを手放しで喜んでいいものかと思うよ。僕らは、何に刀を向けるかを、選べるようになったのだから」
「そうですね。ボク達は歴史を守るためにこうしてここにいる。でも、歴史と同じくらいボクは、主様が大事です」

 不謹慎でしょうか、と物吉は苦笑する。本来の任務よりも私情を優先するとも判断されかねない言葉を、しかし歌仙は笑わなかった。叱ることもしなかった。ただ深く深く、頷いた。
 その肯定は、物吉の言葉と同じ物を歌仙が抱いているという示唆でもあった。

「大丈夫ですよ。ボクがちゃんと、主様に幸せを運びます。主様の笑顔を守ります。今日だってずっとにこにこしながら、ボク達の試合を見ていたんですよ?」

 自分自身、太陽のような笑顔を見せて、物吉は歌仙の肩を数度軽く叩く。ともすれば責任を背負いがちな部隊長の肩の荷を、まるで払っているかのようだった。
 これで話は終わりと言わんばかりに、部屋の明かりを消そうとして歌仙ははた、とあることに気がつく。

「そういえば、主はもう寝たのだろうか」


 水が足下のタイルを打つばしゃばしゃという音と、側溝を流れていく重苦しい音を、かれこれ三十分以上聞いているだろうか。聞きすぎて耳がおかしくなってしまいそうだと、藤は思う。
 髪を洗い、体を洗い、いつものように機械的に入浴を終えた藤は、歌仙が主について気にかける三十分以上前には外に出ようとしていた。
 けれども、まだ彼女はこうしてここにいる。その理由は入浴を終えようとした少し前に遡る。

 演練から帰ってきてから、藤の記憶はさながら途中のシーンが抜け落ちた映画のように、ぶつ切りになっていた。気がついたらご飯の前に座っていたし、気がついたら浴室の中にいた。その間はまるで上の空で、行動に使うための思考をずっと別のことに使い続けていた。
 それは、演練の途中から気になっていて仕方のなかったことだ。

『だってあーちゃん、穢れてるもの』
『あんたみたいな穢れた奴が刀剣男士といるなんて、いくら彼らでもかわいそうに思えてくるわ!!』

 過去からの二つの声が、遠く近く耳の中を木霊している。
 前者はもう十年近く前の話であるし、後者は自分に向けられたものですらない。頭ではそのことを理解しているのに、本丸に来てから度々感じた不可解な事象を、思い起こさずにはいられない。
 すっかり忘れてしまっていた思い出を、記憶の淵の淵に追いやって無かったことにしてしまった過去の一幕を、今突然目の当たりにさせられている。それは、今まで何度か感じた不調の理由としても、説明がつくものだった。

(穢れているなら、落とさないと)

 どういう原理かは分からない。穢れといわれているものがどんな形をしているのかすらも、分からない。
 けれども、道理として存在しているなら従うべきだ。それが、泥の中を這いずり回るような思考が導いた結論だった。
 風呂で温まった体を浴槽の外に出して、藤は蛇口をひねり直した。お湯を指し示していた温度調整の目盛りを、躊躇うことなく水へと変えて。
 熱くなっていたシャワーヘッドからは、徐々に身震いするような冷水が流れ落ちる。けれども、一切の逡巡をすることもなく、彼女はその水流を頭上から自分へと流した。
 季節はもう秋を通り越して冬が近い。十一月の冷たい水道管から降り注ぐ水は、あっという間に風呂場に立ち込めていた湯気を沈めてしまった。
 だが、彼女は水浴びを止めようとせず、それは三十分経った今でもこうして続いている。

(手入れをすると気分が悪くなるのは、僕が神様に触っちゃいけないものだから?)

 ざあざあという水音は、当然返事をしてくれるわけもない。濡れた視界には、排水溝へと流れる水流が映っていた。底なしにも思える暗がりは、まるで自分に纏わり付いているらしい何か――穢れを指しているようだ。

(血を見て、くらくらしてしまうから?)

 冷えた唇を噛み締めて、彼女はぶんぶんと首を横に振る。振った弾みで、鏡が視界に入った。
 濡れた体で立っている痩せっぽちの自分を見て、彼女は顔を歪める。
 ――大きな鏡は嫌いだ。自分の体を目にしてしまうから。
 シャワーヘッドを鏡に向け、その面を濡れて歪んだものへと変える。視線を鏡から逸らして、彼女は自分の頭を整理するようにぽつぽつと言葉を紡いだ。

「歌仙たちは神様だよ。だって、手入れをするとき明らかに彼らの傷の治り方はおかしかったもの」

 初めて手入れをした瞬間のことを、藤はまだ覚えている。
 目を逸らしたくなるような創傷を前にして、できるだけ直視はしないようにと、薄目で自分の力とやらを使った。あの時は無我夢中で、ただ治ってほしいと祈っていた。
 その時まで、彼らのことを人間のように藤は捉えていた。戦場に赴くことを自ら望む姿に、やや違和感を覚えたとしても、やはり見目が人なら人と同じように見てしまう。
 だからこそ、あんな深い傷を負っているのに、病院ではなくこんな普通の家にいて、その傷を自分が治すのだという現実が、既に自分にとって恐ろしく場違いなことのように思えていた。
 彼らは神様らしいから大丈夫、と何度も言い聞かせて、おっかなびっくり自分にある正体の知れない力――霊力と呼ばれていたものを彼の傷へ、彼の中へと注ぎ込んだ。

「嘘みたいに傷が消えて、綺麗になっていくなんて、人間じゃありえない。鬼だって、ありえない」

 まるで映像を巻き戻すかのように、歌仙の傷はあっという間に塞がった。その様子を見て自分は安堵した、と同時に。
 違う、と理解した。
 早く治ってくれるに越したことはない。だというのに、違和感を拭えない。
 その後、手入れをするときは、極力包帯を巻いて傷が癒える瞬間を直接見ないようにしてはいた。けれども、手入れをする度に『彼らは違う』と思う自分がいることを、無視できなかった。
 彼らは人間ではなく、神様なのだと思ってしまう自分を、無視できなかった。皆が神様だと思えば思うほど、そんな神聖で尊いものに触れていいのかという懸念が、勝手に生まれていく。懸念を裏付けるように、体調もひどく崩していくようになった。

「それに」

 傷の中から湧き出る赤を目にした瞬間の自分を思い出し、藤はぶんぶんと首を横に振る。髪の毛についた雫が飛び散り、シャワーとは別の冷たい感覚に背筋が震えた。
 よそへと逸れた思考を戻さねばと、藤は顔を上げる。人工的な雨が彼女の顔を容赦なく打ち、頭を冷やしてくれた。

「ちゃんとしないと。ちゃんと落として、綺麗にしておかないと」

 流し場の側にかけていたタオルを手に取り、水で十分に濡らしてから、藤は体をこする。石鹸を使ってタオルを泡立てて、濡れた体を再び洗っていく。
 穢れというものが何かは分からないが、それを落とす方法なら以前教えてもらった。だから、彼女はこうして愚直にそれを実行している。
 一通り体を泡に塗れさせてから、再度冷水で流す。けれども藤はそれだけで止まらずに、三度目の洗浄作業を始める。
 何度も何度も、まるでそうしないといけないという、強迫観念に突き動かされるように。
 徐々にタオルでこすりすぎたせいで皮膚は赤くなり、じわじわと痛みを感じ始めても、彼女の手は動き続けた。
 ちゃんとしないといけない。今以上に、更に、審神者という肩書きに相応しい振る舞いを心がけなければならない。
 もし自分の推測が事実ならば、『ちゃんとした』成果を挙げていなければ、お払い箱になってしまう可能性が高いのだから。

「ちゃんとしないと、審神者じゃいられなくなるかもしれない。ちゃんとしなかったら」

 呪文のように続けていた言葉が、ふと途切れる。

「…………もし、ちゃんとできなくなったら」

 審神者ではなくなったら、どうなるのだろう。自分がいた家に戻るのだろうか。
 帰る場所がないわけではない。けれども、その場所を思い出すと息が苦しくなる。思わず、額に生えた小さな角に手が伸びた。
 もし、主がここにいられなくなってしまったら。自分ではなく、歌仙たちはどうなるのだろう。
 他の人間の元へ、鬼の自分よりもっと審神者らしい人間の元に行くのだろうか。自分ではない誰かを主と呼び、その主とご飯を食べ、山を歩き、童のように遊ぶのだろうか。
 共に過ごしたこの半年ほどの月日も、じきに忘れてしまうのだろうか。

「……それは、嫌だよ」

 前髪をぎゅっと握りしめ、彼女は絞り出すような声で呟く。
 自分でも予想外の言葉を聞いて、藤は目を少し見開いた。が、すぐにそれはくしゃりと歪んだ笑顔に塗りつぶされた。

「勝手だなあ、僕は。ただ自分の都合で、審神者になっただけのはずなのに」

 水の音は止まない。彼女は再び、タオルで体をこすり始めた。


「あの、髭切さん」

 歌仙の部屋で反省会を終えた髭切と五虎退は、各々の自室に向かっている所だった。唐突に五虎退に呼ばれて、廊下を歩いていた髭切はぴたりと足を止める。

「髭切さん、は、もし……兄弟が、自分と戦うって言ってきたら、どうします……か」

 言葉を選んでいるためか、五虎退の声はいつもより震えて、つっかえつっかえになっていた。
 彼はその様子を、五虎退なりの真摯さから表れたものだと捉える。どういう意図で質問をしているのかを知るためにも、髭切は逆に鸚鵡返しに聞き直した。

「兄弟が、自分と戦う?」
「は、はい。あの、いち兄……僕にとって、兄みたいな刀剣男士が、今日の戦う相手の中にいたんです。それ以外にも、僕の兄さん達だと思う刀剣男士が、二振り」

 確かに、今日の演練相手の中には五虎退と似た装束の者が複数名いた。あれが彼の兄弟にあたるものだろう。

「僕は、戦うのを躊躇ってしまって。いち兄は、迷わず戦おうとしていて。もし、兄弟だからって躊躇ってたら、あるじさまが危ないときどうするのだと、言われてしまって。僕は、それは嫌だって思って、戦いました。でも、これが演練じゃなくて、本当の戦いだったら」
「僕は戦うよ」

 迷うことなくきっぱり言い放つ髭切に、五虎退は目を丸くする。

「弟が戦うっていう形で気持ちをぶつけてきたのなら、僕はそれには応えたいかな」

 彼――薄緑の髪をした青年、名も知らぬ弟がもし自分に害意を向けたのなら。
 弟の真剣な思いに向き合いたいと思う自分がいることを、髭切は自覚していた。彼が弟だからといって、刀を下げる理由にはならない。

「それなら、ぼ、僕も」
「でも、五虎退は焦らなくてもいいんじゃない? 僕がこうだからって五虎退もそうしなくちゃいけないってこともないだろうし。主もそう言ってたよ」
「あるじさまが、ですか?」
「うん。自分の考えがあるなら無理に他の意見に従わなくてもいい、みたいな感じにね」

 己の有り様を否定されたことを不服に思いながらも、意見を伝える機会を逸して口を噤んでいた髭切に、主が言った言葉だ。
 わざわざ記憶を振り返るまでもなく、あの晩のやり取りは今でも褪せることなく心に刻まれている。顕現した直後、消えない怒りともどかしさに振り回されて自暴自棄になってしまった日々は、簡単に忘れられるものではない。今となっては、やや恥ずかしいといえる思い出であったとしてもだ。
 五虎退も彼なりに考えを纏めようとしているのだろう。口元に手を当ててうんうんと唸った後、

「……もし、僕たちの本丸の仲間が、あるじさまを傷つけるような人だったときは、どうしたらいいんでしょう。その、髭切さんみたいに勘違いから、とかじゃなくて……あるじさまのことを知っていても、傷つけたいって人だったら」
「五虎退は、皆と仲良くしたいんだね」
「そ、それは……そうです。あるじさまだって、そうしたいはずです、から」

 違う本丸や時間遡行軍の見せるまやかしのようなものではなく、本来本丸の仲間として顕現した刀剣男士が刃を向けたなら。
 かりそめの敵の姿に、あの薄緑の髪の青年が重なる。弟が仲間として顕現して、けれども主との間に軋轢が生じてしまったのなら、自分は先ほどと同じ答えを言えるだろうか。

「――その時は」

 そこまで言いかけて、話しながら歩いていた五虎退は不意にぴたりと足を止めた。つられて、髭切も口を閉ざして彼に倣う。
 どうしたのか、と問いかけるより先に髭切の耳に水音が響いた。今彼らが立っている場所は、風呂場とそこに繋がる脱衣所が近い。そのせいだろうと思ったが、

「あるじさま、まだお風呂でしょうか」

 五虎退が言うように、演練の振り返り会に参加できない主はさっさとお風呂に入って寝ると話していた。ならば、彼女はもう一時間以上風呂に入っていることになる。
 早風呂というほどではないが、主のお風呂時間は長くても三十分を少し越す程度だ。冬になったことで少し時間は延びたが、それでも一時間も長風呂は今まで一度もなかった。

「随分と長いね。普段は四半刻もしたらあがってくるというのに」
「もう出ていて、お湯だけ出しっぱなしにしてしまったんでしょうか」

 脱衣所の扉を見てみると、扉の所に『使用中』の札が掛けられていた。風呂が一つしかない以上、間違えて主の入浴中に入ることがないように、彼女が使用しているときはこうして札をかけているのだ。
 ならば、彼女はまだこの中にいるということになる。水音も止む様子がない。

「僕、様子を見てきますね」

 異性の裸を見るのはお互いにとって恥ずかしいものだ、という感覚は既に五虎退も会得している。だからこそ、慎重に脱衣所の扉を開き、開ききる前に中に向かって声をかけた。

「あるじさま?」

 脱衣場全体に響き渡るように、普段よりも大きい声を出してみるものの反応はない。思い切って脱衣所の扉を全開にするが、果たして中は空のままだった。やはり主は既にあがっており、お湯をうっかり出しっぱなしにしたのだろうか。
 確認のために浴場の磨りガラスに目をやると、ぼんやりと影が浮かび上がっていることに気がつく。明らかに、何かがいる。何か、というより、大きさからして主に間違いはないだろう。

「あるじさま、まだお風呂に入ってるんですか!?」

 流れ出る水音に負けないように声を張り上げると、ピタリと床を打つ水流の音が止んだ。キュッキュと蛇口を閉める甲高い音から察するに、どうやらシャワーを止めたらしい。
 続けて、がらりと浴場の戸が開く。五虎退は思わず入り口から目を逸らし、彼女に背を向けた。
 見た目は幼い子供の姿とはいえ、主は自分の裸を誰かに見られるのを異性として当然嫌がっているようだった。以前、自分が犯した失言を思い出すと、今すぐにでも飛び出したい所だ。
 しかし、棚が入り組んだ脱衣所を瞑目したまま駆け抜けるのは難しいだろう。故に彼は目を瞑り、背中を向けることで見ていないことを示すしかなかった。

「もういいよ、こっちを見ても」

 彼女の言葉を耳にして、五虎退は恐る恐る振り返る。
 薄手の白い寝間着姿に着替えた藤が、丁度腰の紐を締めているところだった。バスタオルでがしがしと乱暴に髪を拭いてから、ふーと一息吐き、

「ごめんね、禊がないといけないと思ったら長くなって」
「禊ぐ?」

 五虎退の問いに答えずに、彼女は髪を拭き終わったバスタオルを、洗濯物を仕舞う籠に放り込んだ。続いて、額に見える小さな角を覆い隠すようにバンダナを巻く。
 ぺたぺたと裸足の彼女がたてる足音が、脱衣所の入り口へと向かう。その背中を見つめながら、五虎退は同時にある違和感に襲われていた。
 普段、五虎退がここで感じる筈の何かが欠けている。その何かを探すために当てもなく脱衣所をうろうろし、再度浴場に近づいたとき彼はハッとした。

(冷たい……?)

 主が入った後である浴場からは、先ほどまでシャワーが使われていたはずなのに熱気のようなものをまるで感じない。寧ろその逆で、服を着ている五虎退ですらも、ヒヤリとするような冷気が彼を迎えていた。
 お風呂から上がれば自然と湯気がまとわりついて、一時的に脱衣場が蒸し暑くなるときだってあるくらいなのに、全くその気配がない。ならば、彼女は脱衣所と温度差のない空間――十一月の冷えた室内と変わらない空間に、着るものもなくいたことになる。

「あるじさまっ!」

 自分が導き出した可能性にぞっとした五虎退は、慌てて脱衣所を飛び出した。
 幸い、主はまだすぐそこにいた。どうやら、髭切が彼女を引き留めてくれたようだ。

「あるじさま、寒くないんですか!?」
「ほら、五虎退もこう言ってるよ」

 恐らく髭切も、脱衣所から流れ出た空気の温度差から同じ結論に行き着いたらしい。彼は素早く藤の全身に目をやって、怪訝そうに柳眉を顰めた。

「それに、何度体を洗ったの? 肌が赤くなってしまっているし、少し怪我してる」

 髭切の言葉で、五虎退は彼女の寝巻きから覗く腕や首元が妙に赤いことに気がついた。冷水を浴びた反動で体が熱を求めて赤くなったようにも考えられるが、微かに見える小さな傷は明らかにただの水浴びでできるものではない。

「主、何を言われたの? 僕らが試合してた時に、誰かと話してたよね」
「何ともないよ。前もこういうことしてたから」
「僕が知る限りではないと思うんだけどね。五虎退は?」

 髭切に話を振られて、五虎退も慌ててこくこくと頷く。けれども藤は変わらない笑顔を浮かべて、

「前って言っても、もっと小さい時。ちょっと良くないものがついてしまってるって指摘されたから、落としてたの」
「それは落ちたのかな?」

 彼女はパチパチと数度瞬きをしてから、笑顔を少しも揺るがせずにゆっくりと頷いた。

「うん、多分」

 だが彼女の笑顔とは対照的に、髭切の顔から常にある笑顔が消える。じっと藤を見つめる髭切は、まるで彼女の表情の裏にある何かを探るかのようだった。

「主」
「僕、もう寝るね。おやすみ」

 髭切が何か言いかけるものの、彼の言葉を切るようにして藤は就寝の挨拶を口早に告げる。自分の部屋に向かって小走りで行ってしまう彼女を、髭切も五虎退もこれ以上引き留めることができなかった。

「貼り付いて剥がれない……か。そうかもしれない」

 ぽつりと呟いた髭切の言葉が持つ意味を、五虎退は当然知る由もなかった。


 自室に戻り、後ろ手で襖を閉める。
 冷水を浴びたせいで体はすっかり冷え切ってしまい、湯船に一度は入ったというのに途轍もない倦怠感に襲われていた。それなのに、タオルで擦りすぎた体はヒリヒリとして消えない痛みをもたらしてくる。最後の方に垢擦り用のタオルを使って、力一杯こすったせいだ。
 けれども、こうして自分を苛む痛みは同時に懐かしくもあった。

「昔も、こんな無茶したっけ」

 穢れていると養母に言われたことを思い出したと同時に、引きずられるように蘇った記憶の一つだ。
 自分にそんな汚れがついているのなら、ちゃんと落としたい。故郷での暮らしは、自分を取り返しのつかないほど悪い何かにしたわけではないと証明したい。その思いは、今こうして大人になった時分でも、藤の中に残っているものでもあった。
 ともあれ、幼い彼女の主張を聞いた養母は、ならばと冷たい水を浴びることを勧めた。それが、神様に会うために禊ぎなのだと教えられたからだ。体を何度も洗い、一分の隙も無いくらい己をぴかぴかにした。
 けれども、結果は変わらなかった。

「結局、寒かったから二度やって音を上げたんだよね」

 夏ならばともかく、冬に差し掛かる頃合いまで行水をする根気は幼い頃の藤にはなかった。だが、今はそんな弱音を言ってはいられない。
 もっとも、水浴びが本当に効果があるのなら、幼い頃一度試した時に何らかの変化が見られたはずだ。
 だからこれは結局、ただの気休めだ。
 やるだけのことはしたのだ、と己を納得させるための、ただの気休め。変わらなかったとしても、変われないのは仕方ないのだという事実を飲み込むために、退路を断ったというだけだ。

「もう寝よう。疲れちゃった」

 冷えた体を寝台の上に座らせる。布団は当然まだ冷たいままであり、自分が暫く氷の寝台に眠るような気分を強いられるだろうと彼女は嘆息した。
 兎にも角にも、さっさと体を休めよう。誰も来ないうちに、と思った瞬間、襖がゆっくりと開く音が耳に飛び込んできた。
 誰にも会いたくなかったのに。しかもノックもなしに不躾に入ってくるなんて。
 そこまで批難めいた思いを抱きながらも、彼女は顔に笑顔を貼り付けた。大方、先ほどのやり取りで心配になって来た二人のうちのどちらかだろう。ならば、それを無下にしてはいけないと彼女の心が自分自身を戒めていく。

「主、寒くないかい」

 予想通り、入ってきたのは髭切だった。別れる際にいつもと違う様子を見せていたから、その件だろうか。

「寒くないよ、もう寝るところだから」

 入室した時から既に見えていた主の笑顔を前にして、髭切は困ったように眉尻を下げる。
 何か不自然な部分があっただろうかと藤が内心で疑念を抱いていると、近寄ってきた彼はずいと彼女に湯飲みを差し出した。中からは暖かな湯気が立ち上っている。

「お茶を入れてきたんだ。体を冷やすと人間は風邪を引くって、五虎退が教えてくれてね」
「この程度でひくほど、柔な体してないよ……っくしゅん」

 抗弁をしてみたものの、すぐさまくしゃみが飛び出てしまった。誤魔化すために、あははと笑ってみせたら無言で湯飲みが押しつけられる。
 流石に弁解のしようがないので、黙って湯飲みを受け取った藤は、喉へと熱い液体を流し込んだ。ほとんど味らしい味のしない薄いお茶だったが、体の芯は芯までかっかと暖かくなっていく。

「ありがとう。ちょっと温まったよ」

 にこりと笑って湯飲みを髭切に返す。素直に受け取ったものの、彼はすぐにその場を立ち去ろうとせず、じっと藤を見つめていた。
 何か他に言うことがあるのだろうか、と藤が無言で待っていると、不意に髭切の手が伸びてきた。主の頬に手を添えた彼は、再び探るような目を向けている。
 一体どうしたのかと思いきや、びょんとほっぺが伸ばされた。

「!? 髭切、どうひたの」
「本当に剥がれないなあって思って」

 髭切の手は頬から離れてはくれたが、彼は困ったような顔でじっと藤を見つめている。彼女も髭切に合わせてわざとらしく首を傾げてみたが、沈黙は守られたままだ。

(貼り付いて剥がれない、灼けた鉄の面……)

 演練の帰りしなに三日月に言われたことを、髭切はずっと考えていた。
 目の前の彼女は笑っている。それは確かなのに、何か違うと思う自分がいる。
 あのリンドウ畑で見た笑顔と今の笑顔は、違う。そのことは分かる。しかし、一体どうして違ってしまうのかが分からない。
 彼女の笑顔を見るならば、あの笑顔がいい。太陽のように弾け、花が咲いたような彼女の笑顔が見たい。
 そう思ってはいるのに、どのようにすればその笑顔を呼び出せるのか、髭切には分からなかった。

「ごめんね、話があるなら明日聞くね。僕はもう寝るよ」

 それ以上話がないと判断したのか、藤は「おやすみなさい」と言って布団に潜り込んでしまった。仕方なく、髭切も湯飲みを持って外に出る。
 冷えきって擦り切れた体で、それでも彼女は笑っていた。演練の間、何か心ないことを言われて苦い思いを抱いていた。それは確かなのに、戻ってきた彼らを迎えた藤の顔にあったのも、また笑顔だった。
 その笑顔はどちらも笑顔なのに、三日月が口にした言葉をつい思い出してしまうものでもあった。
 だからだろうか。何かしたい、という思いに突き動かされるように慣れないお茶の用意などをして、気がつけば彼女の部屋の前に立っていた。
 けれども、結局探しているものは得られなかった。
 じりじりと心の隅を焦がす思いへの答えがわからず、髭切は湯呑みを持ったまま、廊下にしばらく立ち尽くしていた。
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