短編置き場

 鼻先をかすめる甘く香ばしい香りに、髭切は思わずスンと鼻を動かした。
 今日は畑当番の日であり、畑仕事に慣れた彼はいつものように泥まみれになって帰ってきたところだった。普段ならお疲れ様と声をかけてくれる主は用事があるのか、今日は朝から姿を全く見かけていない。代わりに彼を迎えたのはこの香りである。

(主が好きそうな甘い香りだね。でもちょっと焦げてるかな?)

 近くになればなるほど、香ばしいを通り越して少し不穏な匂いが鼻に刺激を与えていく。小豆長光が新作のお菓子を作ろうとして失敗したのだろうか、などと考えながら髭切はいつもの習慣で風呂場に向かい、シャワーを使って畑仕事でついた泥を流し落とす。その間も浴場にまで忍び込んだ甘くて焦げた香りが、彼の周囲を絶えず漂っていた。

(そろそろ三時だから、厨に行ってこの焦げた匂いを確かめよう)

 濡れた体を手早く拭き、いつものグレーの上衣に白の上着を羽織る。髪の毛は少し濡れているが、今日はあれこれ身だしなみに口を挟む弟が裏山の手入れに出かけているのでこのままだ。
 厨に向かえば向かうほど、匂いはますます強くなる。誘われるように歩いていた髭切は、しかし廊下の途中で思わず足を止めた。

「ええと……これは何?」

 背丈の低い子供のようなものが、白い布をかぶってうごうごと蠢いている。あっちへふらふら、こっちへふらふらと頼りない足取りのそれは、ついには壁にぶつかってひっくり返ってしまった。

「ま、前が見えない、です……」
「五虎退、何をしているの?」
「あ、髭切さん」

 布の中から顔を出したのは、髭切にとっても馴染みのある少年──この本丸において最初に鍛刀された刀、五虎退である。

「どうして布をかぶってうろうろしてるの?」
「あるじさまから、今日はお化けの格好をして、おやつをもらいにきて欲しいと言われたんです」
「お化け?」

 五虎退は再び白い布をかぶって、胸の前で両手をだらりと下げてみる。奇妙なてるてる坊主のような姿に髭切が首を傾げていると、

「こ、これが、外つ国のお化けなのだそうです」

 言いつつもやはり前が見えないらしく、五虎退はまたよろめいてしまった。流石に見ていられず、彼から布を剥ぎ取った髭切は白布をマントのようにして少年の体に巻きつける。
 ありがとうございます、と頭を下げてから五虎退はたどたどしい言葉で説明を続けた。
 今日は外の国では、子供達がおばけの格好をしてお菓子をもらいに家々を練り歩く日であること。
 本来は魑魅魍魎が異なる世界からやってくるから、彼らに襲われないように仮装したのが始まりらしいということ。
 細かいことは気にせずに、今日はお化けの仮装をして普段とは違う空気を楽しもうと、お祭りのことを知った乱が言い出したこと。

「お化けの格好で、お菓子をくれないといたずらするぞ、と言うのだそうです」

 言いながら、五虎退は虎のように指を軽く曲げて「がおー」と言ってみせる。

「僕、怖い……でしょうか? 怖がらせてね、とあるじさまに言われてるんです」

 どこか嬉しそうに言いながら五虎退は手を広げる。
 どう見ても怖いと言うより愛らしいと主なら言うだろうが、髭切は微笑むだけに留めておいた。
 髭切さんも行きましょう、と手を引かれて彼らは歩き出す。どうやら髭切が当初行こうとしていた厨ではなく、五虎退は主の部屋を目指しているようだ。お菓子を配るのは主の部屋で行われることなのだろう。
 五分もしないうちに目的地は目に入った。が、同時に彼らは喧騒を耳にすることになる。

「あーるーじーさーん! もう三時なんだから、観念して出てきてよ!」

 喧騒の中心にいたのは乱藤四郎だ。普段から可愛らしい格好をすることが多い彼は、今日も黒が主体のワンピースに黒猫の耳を模した頭飾りをつけている。さしずめ、黒猫の仮装ということなのだろう。

「やっぱり着替える! 変だよ、これ!!」

 部屋の向こうから聞こえたのは、裏返った主の声だった。どうやら、彼女は仮装がお気に召さなかったらしい。

「着替えなくていいでしょ! ほら、五虎退も物吉も堀川も、もう来てるよ! あ、髭切さん。こんにちは!」

 乱はこちらをちらっと見てから、集まっている面々の名を次々と口にする。
 廊下の反対側からやってきたのは、乱が言った通り堀川国広と物吉貞宗だ。彼らは揃って黒いマントを羽織っていた。どうやら、それが突如お化けの格好を指定された彼らなりの仮装らしい。少年達に軽く挨拶をしていると、

「髭切さん、主さん引っ張り出すの手伝って!」

 乱から突如救援を求められた。何をしているのかと思いきや、恐らく部屋から出ようとしない主をどうにか外へ出そうとしているらしい。襖の端から黒い布きれが覗いていた。

「待って、髭切に引っ張らせないで。マントが破れる」

 乱の言葉を聞いて観念したのか、主は抵抗をやめておずおずと自室から顔を出す。

「そんな布で隠さなくてもいいのに」

 乱は唇を尖らせ、主の体をぺしぺしと叩く。
 彼が言うとおり、姿を見せた彼女はさながら黒のてるてる坊主のような姿をしていた。首からすっぽり黒い布に覆われているため、夜に立っていれば首だけ浮いているように見えただろう。

「さ、さて。今日は僕がお菓子を作ったんだよ。朝教えたように、お菓子くれないといたずらするぞーって言うんだよ」

 気を取り直すためか、少々どもりながらも彼女は得意げな顔を見せる。さながら、子供達を先導する先生のようだ。
 彼女の言葉を開始の合図ととったのか、五虎退がいそいそと主に近づく。がおーっと声をあげながら手を広げ、

「あ、あるじさま、お菓子ください。じゃないと、た、た、食べちゃい……ます!」
「食べられたくはないから、お菓子あげるね。はい」

 五虎退の手に、主の髪色と同じ夕焼け色の包みがちょんと載せられる。

「五虎退は虎の子たちのイメージかな? それとも幽霊?」
「ゆ、幽霊さんの方……です。虎くんたちは、耳と尻尾がなかったので」
「じゃあ、来年はそれも用意しようか。虎くんたちもお揃いで何かつけてあげると、いいかもね」
「は、はい!」

 顔をぱっと輝かせた五虎退は、いそいそと髭切の元に戻ってきた。包みを開けば、焼いたばかりの菓子の匂いが彼らの鼻をくすぐる。
 ところどころ焦げ目が見えるクッキーは、どういうわけか顔の描かれたかぼちゃの形をしていた。

「髭切さん、お菓子、もらえました! あ、そうだ。えっと」

 はにかんだ表情を見せてから、彼は何かを待つような視線で髭切を見つめている。一体何を期待しているのかと髭切は首を捻りかけ、しかしすぐに一つの答えを見つけ出した。

「……お菓子くれないと、いたずらしちゃうよ?」
「はい、そうです!」

 再び日だまりのような笑顔を見せた少年は、袋の中にあったクッキーの一つを髭切に渡す。受け取って口の中に入れて囓れば、濃いかぼちゃの風味が広がった。同時に何とも言えないほろ苦い焦げた味も後を追ってきたが、これはご愛嬌というものだろう。
 ごりごりと咀嚼しながら主を見やると、黒マントの物吉と堀川の手にも包みが行き渡るところだった。彼女が持っている籠の中身はそれが最後だったのか、既に空になっている。

「主も仮装しているの? 乱は黒猫になっているんだよね」
「そうそう! 主さんは僕のご主人様の魔女なんだよ!」

 髭切に問われ、乱はくるりとその場で回ってポーズを取ってみせる。隠されていた背中の尻尾がふわりと後を追い、なかなか本格的に仮装を楽しんでいるのがわかる。
 対して、お菓子を配り終えたらしい主は相変わらず黒のてるてる坊主のままだ。

「せーっかくボクが可愛い魔女の衣装を選んだっていうのに、主さんってまた似合わない似合わないって言って隠しちゃったんだよ」
「だって、ここまでするつもりじゃなかったんだもの」

 ぷりぷりと怒っている乱に対して、主は再び襖の向こうへと引っ込んでしまった。余程、乱が選んだ衣装が恥ずかしいらしい。

「これから庭で記念撮影するんだから、ちゃんとマント外してきてよね! 五虎退、堀川さん、物吉さん、準備手伝ってっ」

 その場にいた少年達を引きつれて、乱は縁側に向かって走り出しかける。が、去り際にそろりと髭切に近寄り、

「主さんのマント、剥いじゃって。お願い!」

 口早にそれだけ言うと、自分はすたこらさっさと立ち去ってしまった。
 突然の依頼に驚きつつも、とりあえず髭切は中途半端に開けられていた襖から主の自室へと入る。文机には空になった籠が置いてあり、その前で黒マントに包まれた主がぺたんと座り込んでいた。

「せっかくだから写真撮るときくらいは外しても、いやでもこれは恥ずかしい……」
「主」
「うわぁ!?」

 背後から声をかけると、髭切がいると思わなかったのか、素っ頓狂な声を上げて主は振り返った。分かりやすいぐらいの動揺が顔に浮かんでいる。

「どどどうしたの。髭切もお菓子欲しいの?」
「うーん、ええとねぇ……」

 乱にマントを外してこいと頼まれたという事実がなかったとしても、主がひた隠しにしている格好というものには興味がある。
 数秒の間にそう結論づけた彼は、丁度五虎退とのやり取りを思い出し、

「そうそう。お菓子くれないといたずらするよ」
「ごめんね。僕、もうお菓子持ってなくて」
「だから、いたずらせてね」

 言うや否や、彼は主の身をすっぽり覆っていた黒マントを掴み、問答無用でそれを剥ぎ取った。ぎゃあ、という彼女の絶叫じみた悲鳴が聞こえるがお構いなしである。はてさて、何が出てくるのかと思いきや、

「主、この格好を恥ずかしがっていたの?」

 彼女が身にまとっていたのは、乱と同じような黒を基調としたワンピースだった。スカートの部分にはくすんだ赤の蝶リボンがいくつもあしらわれており、沈みがちな色合いに彩りを与えている。
 全身隠さなければならないほど奇天烈な格好ではない、と彼は思ったが主はぷるぷると身を震わせてしまった。

「わーっ、わーっ!」
「どうしたの、そんなに大騒ぎして」
「マント返してっ」
「どうして返さないといけないの?」

 普段はズボンとシャツといった簡素な格好をしている彼女にしては珍しく、随分と愛らしい格好だと髭切は思わず注視してしまった。センスからしても、乱が選んだというのも納得の装いである。
 対して、主の方はというと髭切に見つめられているということもあり、服の蝶リボンと同じくらい真っ赤になってしまった。

「乱に衣装を任せたら、こ、こんな」
「こんな?」
「こんな可愛い格好、似合わないって言ったのに」
「似合ってると思うよ」

 ボッと音がしたのではないかと思うほど、主の顔が火にかけられた炭のような赤に染まる。煙が出ていてもおかしくないだろう。
 主から没収したマントを代わりに自分が羽織りながら、髭切は俯いたまま動かなくなってしまった主を見つめる。

「……変じゃないかな」
「変じゃないよ。主に似合うって思ったから、乱も選んだんじゃないかな」
「そうかな。そうだと、いいんだけど」

 ようやく顔を上げてくれた主の頬は、まだ羞恥の熱が消えていないのかほんのり朱に染まっていた。それでも頬をぺちぺち叩いて気合いを入れ直した彼女は、すっくと立ち上がる。

「ええと、でもやっぱりマント返してくれない?」

 髭切はにっこりと笑いながら嬉しそうにこう言った。

「だーめ」



 乱の拘りに拘った撮影会が終わった後、主は少しぐったりした様子で縁側に腰掛けていた。元気が有り余っている少年たちはそのまま厨にいる歌仙にお菓子をねだりに行ったようだが、流石に彼女にその元気はないらしい。

「お疲れ様。今日は朝から頑張ってたんだね」

 隣に座った髭切に気がついた主は、居住まいを正してからこくこくと頷く。

「どうして、この外つ国の行事をやろうとしたの? 乱が言ったから?」
「それもないわけじゃないんだけど、去年の僕だったら多分やらなかったと思う。本当のことをいうと、このお祭り自体そこまで好きじゃなかったんだ」
「主は甘い物が好きだから、寧ろこういう行事は好きだと思っていたよ」

 失礼な、と頬を膨らませた主は、しかしすぐにそれを緩ませた。

「甘い物がもらえるという意味では好きではあるよ。ただ、仮装とか知らない人と大騒ぎするとか、どうやるのが正解かよく分からなくて」

 昔を思い出したのか、彼女は少しばかり寂しげに口元を歪める。

「でも、本丸の皆なら楽しいかなって。乱も五虎退も物吉も堀川も、みんな良い子ばかりだから」
「それで、改めてこうしてみて今の主はどう思っているの?」

 彼女の心の声を引き出そうと言わんばかりに、髭切は優しげに問いかける。かぼちゃと同じような山吹色に光る彼の瞳を見つめながら、主は楽しそうに目を細ませた。

「楽しいよ、とても。乱は計画の時からすごく乗り気になってくれたし、物吉も堀川も五虎退もお祭りのことは知らなかったみたいだけど、彼らなりに参加してみたいって気持ちを見せてくれたし」

 主は自分の側に置いていた端末を取り出し、先ほど大騒ぎしながら撮影した画像を呼び出す。
 小さな画面には白黒のマントを羽織った少年たちに、猫のポーズをして片目を瞑っている乱、何が何だか分からないまま巻き込まれながらも笑っている髭切、そして彼らの中心に主が立っていた。
 その顔は、どんな宝にも代えがたい笑顔に溢れていた。

「ところで、主はお菓子を貰いに行く側にはならないの?」
「そうしてもいいんだけど……あ、そうだ」

 何か思いついたと言わんばかりに不意に声をあげた主は、にやりと怪しげな笑みを浮かべた後、

「トリックオアトリート、お菓子くれないといたずらするよ」

 髭切に向かって手を差し出しながら、五虎退も口にしていた決まり文句を口から発する。当然、髭切がお菓子など持っていないことなど、彼女だって知っているだろう。
 つまり、主の狙いはお菓子ではなく彼へのいたずらだった。しかし、

「僕はお菓子を持っていないから、いたずらされるんだよね。どんないたずらをされるのかなあ」

 相手は素直な子供ではなく、常にマイペースな髭切だ。本来なら嫌がられるはずのいたずらにすら興味を持ち、ぐいぐいと身を乗り出して主に続きを促そうとしている。
 まさかそんな反応が返ってくると思わなかった彼女は、逆に彼に迫られてたじたじとなってしまっていた。

「え、いや、それは」
「僕は主に何をされるんだい?」
「待って。何でそんなに楽しそうなの!?」

 やっぱり今のなし、と叫びながら主は立ち上がり髭切から逃げるように廊下を去って行く。彼女としては逃げ切れば仕切り直しもできると思ったのだろう。
 けれども、主と古い付き合いの髭切がそんな分かりやすい逃亡を許すはずがなかった。

「いたずらしてくれるまで今日はついていくからね、主」
「もう来たの、追いつくのが早いよ!」
「遊びは本気で楽しむものってこの前言ってなかったっけ?」
「それとこれとは別!」

 普段は見られない魔女の仮装で逃げ回る主を追いかけるのは、なかなかどうして楽しいものだ。来年のこの日は、自分もより本格的に参加していいかもしれない。
 趣旨を完全に取り違えた彼は、そんなことを思いながら彼女に一日中付き纏っていたのだった。
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