本編第一部(完結済み)
試合の開始の合図を受けて、五虎退は弾丸のように駆け出す。彼はまず、広場の立木や岩を使ってその身を隠しながら、敵勢の動きを把握することに努めた。
元々華奢で小柄な体躯な上に、彼の白い髪は枯れ草と色合いが似ている。足音を最小限に殺し、できるだけ身を屈めて少年は風のように走り抜けた。
他の刀剣男士よりも遙かに遠くを見晴るかす瞳で、敵対する者たちの動きを捉える。大振りの刀を抜いた男――大太刀の刀剣男士の足は、見るからに遅い。先んじて駆けだした段駄羅羽織の青年や他の刀剣男士に取り残されているのが、はっきりと見て取れた。
自分より少しばかり背が高い少年達、恐らくは短刀か脇差の二名は段駄羅羽織の者と共にこちらに接近している。一方で、髭切と同じくらいの背丈の青年――太刀と思われるものを持った刀剣男士は、羽織の彼とは別の方角に別れて走り出していた。
(大太刀の彼はあまり動かないで迎撃の構え……先頭の三人はこちらへの主力で、太刀は遊撃、でしょうか。今はそう見えます)
すぐさまそれらの情報を持ち帰るために、五虎退は歌仙のもとへと駆け出す。既に走り始めた歌仙からの視線を受け取り、五虎退は予め決めていた形に手を動かす。声を出せない状況では、手で暗号を伝えるようにしようと以前話し合っていたのだ。偵察に出向くことが多い五虎退は、自然と使えるように現在特訓しているところだった。
歌仙がこくりと頷くのを見て、自分はどうしようか――と悩みかけた刹那、五虎退は膨れ上がる殺気に気がつく。
(――危ないっ)
咄嗟に身を捻り、自分の胴体を薙ごうとした一撃を回避する。演練用の木刀が作り上げた茶色の軌跡が通り過ぎ、五虎退は自分の敵と向かい合う。
紺色のすらりとしたズボンに、同色の上着を纏った人物がそこにいた。目線を上にあげれば、金色に輝くボタンが綺麗に並んでいる。深い朱色の襷に肩の半分を覆う紺のマントは、さながら貴人の護衛を務める騎士のようであった。
手に握っているのは、恐らく大きさから見て、太刀。ならば遊撃の敵かと判断し、迎撃しようと思いはした。
けれども、五虎退はその者の顔を目にして、金色の瞳を見開く。
「いち、にい」
一瞬、自分でも何故そんなことを口走ったのか分からず、五虎退はか細い身を震わせる。
いち兄。自分が発した言葉が指す意味は、目の前の青年が自分の兄であるということだ。
途端に、まるで己の中でパズルがぱちりと合ったように、五虎退の内に一つの自覚が生まれる。
それは、目の前の彼は、自分にとって人間の言葉でいう兄と表現できる存在だ、というもの。突如生み出された自覚は、不意に少年の内へ、見知らぬはずの彼への敬慕を芽生えさせていく。
降って湧いた感情に五虎退が戸惑っているように、目の前の彼も少しばかりの困惑を滲ませていた。
「いち兄、いち兄……ですよね」
「たしかに私の名前は一期一振です。粟田口吉光作の唯一の太刀であり、多くの短刀の弟がいる。それが刀剣男士としての私です。しかし」
言葉を逆接で打ち切り、迷いを断ち切った一期一振は木刀を構え直す。五虎退と同じ金色の瞳には、既に一切の躊躇というものがなかった。
「だから、何だというのでしょうか」
「……!」
「別の本丸といえど、五虎退は私の弟です。そのことは間違いありません。ですが、それはこの戦の場においては何の意味もない」
ビュッと空気を切る音と共に、微塵も加減のない突きが少年に向けて繰り出される。体が覚えた反射的な動きで辛うじて回避はできたが、もう少しずれていればと思うと五虎退の頬を冷たい汗が伝い落ちる。
「違いますかな。短刀――五虎退」
「で、も」
元々、自分でも気弱で臆病な性格であるとは自負している彼である。頭で割り切れても心が簡単に、はいそうですかと納得してくれない。
弟に対してだまし討ちのような卑怯な真似はせず、丁寧な言葉しか使わずに突き放すような態度をとるのは、一期一振なりの優しさなのだろう。そのことも理解はしているのに、それでも彼の心情は戦わないという選択肢をどこかで求めていた。
震える短刀の切っ先では、目の前の敵――そう、敵なのだ――は倒せない。分かっているのに、甘さが消えてくれない。
一方、一期一振は五虎退とは対照的に、甘えを絶った瞳で未熟な少年を見つめていた。しかし同時に彼は、無機質な瞳の裏でも別の思考も進めていた。
この様子では自分と五虎退の間でまともな試合をすることは叶わない。一方的に蹂躙してもよいが、それでは五虎退という刀剣男士のためにはならない。
(やれやれ、別の本丸とはいえ相手の鍛錬についてまで考えてしまうというのは……私も弟に厳しくなれない、ということでしょうな)
冷たい言葉を投げかけている兄が、まさか胸中で五虎退の鍛錬について思慮しているなどということは、当然目の前の少年は知らない。
冷めた瞳をした一期一振は、まるで五虎退に愛想を尽かしたとでも言わんばかりにわざとらしくため息を吐く。続けて、彼はちらりと観客席に座っている人物に目をやった。
つられて、五虎退の片目もそちらを向く。今も試合の状況をじっと見守っている主の姿が、そこにはあった。
「もし、私が何らかの術で兄を騙り五虎退を誑かしている者なら、今の隙をついてあなたの主をいとも容易く屠れたでしょう」
恐ろしい言葉を聞き、五虎退の背筋が泡立つ。構わず、一期一振は淡々と現実を少年に突きつけ続ける。
「人間というものはとても脆い。私の主も多少刀を扱う腕はある方ですが、それでも我らと手合わせをすれば五分と保ちません」
そのことは、五虎退もよく知っていた。最近は人数が足りているため、彼女が手合わせに参加する機会は減ってしまったが、以前は何度か主は歌仙と試合をしていた。そのとき、彼女が勝てた所を五虎退は見たためしがない。常に、主は道場の床に倒れ込んでいる側だった。
「さて、本気の私があの審神者を仕留めにいったとして、一体彼女は何分生き残れるでしょうか。いえ、時間遡行軍ならば情報を欲して拉致をするという可能性もありますね。その場合、手足の数本を折る程度の時間で済むでしょう」
無論、一期一振にはそのようなルールを逸脱した行為を実践する気は毛頭ない。
だが、五虎退は考えてしまう。自分が躊躇した結果、主が傷つく未来を想像してしまう。そんなことがあったら、五虎退は自分自身を許せない。
歯を食いしばり、己の中に突然芽生えた兄への親愛を主への忠義で塗りつぶす。再び一期一振を見据えた五虎退の目に、臆病な動揺は見られない。その名の通り、五匹の虎をも退けかねない気迫が燃え上がっていた。
(そうだ、五虎退。それでいい)
兄だから、というのは少年が手加減していい理由にはならない。常に緊張感と隣り合わせの戦場の中で、頼りになるのは己の主と信じる仲間だけだ。
裂帛の気合いと共に、少年は一歩踏み出す。彼の握る木刀には、もう迷いは宿っていなかった。
「五虎退と一期一振か。いい試合をしている」
藤の隣に腰掛けていた三日月は、目を眇めて広場の一角を見つめる。
「見えるんですか?」
「刀剣男士だからな。今は五虎退と一期一振がせめぎ合っている。石切丸はやや出遅れているようだな。そちらの髭切が討ちに行ったぞ」
三日月は、紺色の服の者が一期一振、緑の和装の者が石切丸、と教えてくれた。彼に言われるがままに目を向けて、藤は自分の刀剣男士の姿を探す。
試合が始まって十数分は経っているものの、既に藤にとっては試合の趨勢については何が何だか分からない、という感想しか抱けていなかった。
戦況は刻一刻と変わり、その度にしのぎを削り合う相手も入れ替わっていく。誰かに注視していれば、気がつけば別の誰かが他の相手と戦っているという状況では、戦に関しては素人の彼女ではまるで理解が追いつかないのも無理はない。
「ただ、髭切で相手ができるのか?」
「できないものなんですか」
隣に座る自分と同じ立場の観戦者――煉も、三日月のアドバイスを受けながら広場の一角を見つめて呟く。その内容に、思わず藤は彼に聞き返した。
三日月の言う通り、緑の装束を纏った大柄な青年に髭切が猛然と突っ込んでいくのが見える。彼の姿はなるほど、確かに鬼をも討ち取らん気概に満ちているように見えた。
「できないわけではないが、大太刀の一撃というのはとにかく重いし範囲も広い。そして大太刀の刀剣男士は総じてタフだ。落としきるなら、大太刀同士の方がいいだろう」
煉が指摘した通り、藤が目を凝らすと易々と打ち負かすどころか、寧ろ石切丸という刀剣男士の相手に髭切が苦戦している様子が見えた。彼の持つ太刀の木刀では、短刀のように大太刀の間合いをくぐり抜けて懐に潜り込むのも難しいのだろう。
戦闘において、髭切はあれで血気盛んなところがあると歌仙は話していたのを、藤は小耳に挟んでいた。ならば、たとえ苦戦しても、引こうとしないのではないかと藤は予想していた。その予想に違わず、髭切は自分から引き下がろうという素振りはまるで見せていない。はらはらしながら見守っていると、
「いかんな。信濃が動くぞ」
「信濃?」
「信濃藤四郎。短刀だ」
三日月が指し示したのは、風のように駆け抜ける赤毛の少年だった。そのスピードといったら相当のもので、藤が目で追おうとしても捉えようとした先から彼の姿が消えてしまう。
赤い弾丸のように疾駆する信濃藤四郎という名の刀剣男士は、迷うことなく髭切に向かって突っ込んでいく。
「でも、短刀の刀剣男士じゃ、太刀が大太刀の相手をするように倒せないんじゃないですか」
「普通の短刀ならそうだろうが、あいつらは極めてるからな」
「極めてる?」
言うよりも見た方がいい、と煉は髭切を指さす。
折しも、石切丸と入れ替わるように飛び込んできた少年の一撃を髭切は難なく受け止めようとした。だが、彼は気圧されるように数歩下がる。まるで、あの細い短刀の一撃が大太刀の一振りに匹敵するかのような挙動だ。
「修行に出て、力をつけてきたということだ。だから、侮ると痛い目を見るぞ」
「まして、二対一の状態で対処できる相手ではないな」
煉と三日月に続けて言われ、藤は手に汗握りながら髭切の様子を見守っていた。彼らの言葉通り、ちょこまかと動く上に一撃一撃が鋭い赤髪の短刀を相手しながら大太刀の相手をするのは、至難の業のようだ。
けれども、彼の助けはすぐに訪れる。紫の暴風のような一刀が、石切丸という名の刀剣男士と髭切の間に割り込んできた。間違いなく、あれは次郎太刀だ。彼の楽しそうな顔が、遠くからでも見えるようである。
大太刀と大太刀同士がぶつかり合い、髭切は信濃という短刀の相手に専念できるようになった。
「大太刀には大太刀を、か。この僅かな間ですぐに指示を出すとは……これは歌仙の采配のようだな。良い目を持っている」
思いがけなく自分の最初の刀を三日月に褒められ、藤はほんのりと頬を朱に染める。自分のことではないはずなのに、本丸に最初からいてくれた彼に賞賛の言葉をかけられると、胸の奥が擽られるような喜びに満ちていく。
口の端に笑みを登らせる藤を横目で見て、煉と三日月も目を細める。彼らの視線は後輩を見守る先達のそれだった。
「その歌仙の方は、部隊長同士がぶつかりあっているな。大和守、部隊長を一気に攻め落とすつもりか」
「策としてはどうだ」
「薬研に物吉貞宗の相手をさせて一騎打ち。悪くは無いが、はてさて。いったいどうなるか」
隣の二人のやり取りを聞きながら、藤は胸の前で拳を握り、彼らの行く末を見守る。部隊長同士の討ち合いは、息をつかせぬ猛攻の応酬となっていた。
「オラオラオラァ!!」
「言葉遣いが雅じゃないね、君は!!」
先ほどまでの穏やかな面持ちはどこへやら、青い瞳に黒髪の青年――大和守安定は気炎を上げて、歌仙へ突きを繰り出してきた。
数度の突きがまるで一つの突きに凝縮するのではないか思うほどの、高速の刺突。だが、まだ僅かにブレがある。故に回避も不可能では無い。
(物吉は、あの黒髪の短刀の相手か。短刀相手なら遅れは取らないだろう)
攻撃を受け流しながらも、刀剣男士の基本的な戦いを歌仙は振り返っていく。
刀剣男士は操る刀が大きければ大きいほど、その物理的な力は強くなる。大太刀の次郎太刀と短刀の五虎退では、どうしても力比べでは五虎退が押し負けてしまう。
だが得物の大きさに反比例する形で、機動力は失われていく。短刀のものたちは総じて小柄であり、敵の攻撃を掻い潜って急所を突く強さを持っている。大太刀の攻撃は、大雑把で破壊力は高いが高速戦闘には追いつけない。
これに夜戦や室内戦という条件が絡めば、更に作戦は複雑を極めていく。けれども、今は野外の昼戦だ。細かいことはそこまで考える必要は無い。
大太刀に苦戦している髭切には、次郎太刀を向かわせた。相手の部隊長に追随していた短刀が、遅れて援護に行ったようだが、太刀の相手に短刀では、趨勢はやや太刀有利に傾くだろうと歌仙は予想していた。
短刀に隙を突かれる可能性もゼロではないが、髭切は敵を侮って油断するような戦いはしない。彼への信頼を以て、歌仙は任せられると判断していた。
(気になるのは五虎退か。残りの数から見て、相手の太刀の相手に手間取っているんだろう。できるなら助けに行きたいが)
そのためには、早々に敵の数を削いで救援に向かわせるか、先に物吉を向かわせて一時的に二対一の状況を双方に作るか。短刀と打刀両方を相手にするリスクと、五虎退を救出するリスクを秤にかける。
これが実戦なら、太刀の一撃で五虎退が負傷するリスクはそこそこに高い。対して、打刀同士の戦いに短刀が一振り加わった程度なら、ぎりぎり持ちこたえられる。
ならば、ここは物吉を援護に向かわせ、数の有利を以て相手の太刀を討ち取るべきだ。安定と数合の討ち合いを経た末に、歌仙はそのように結論を出す。
だが、歌仙はあることを見誤っていた。それは黒髪の短刀の少年を、ただの短刀と侮っていた点だ。
「物吉、ここは僕が」
彼の言葉が終わるかどうかという瞬間、視界に急速に何かが近づく。反射的に顔を微かに動かし、その飛来物を躱す。
目の端を通り過ぎていくそれは、木片――木刀の欠片だった。何が起きたのか、理解するより先に声が轟く。
「物吉貞宗、討ち取ったぞ!!」
突如響いた、相手への勝利宣言。轟いたのは、地に根を張ったようなどっしりとした低い声。あの黒髪の短刀のものだ。
まさか、と思わず歌仙の翡翠色の瞳が動く。その目が捉えたのは、演練用の木刀を折られて尻餅をつく物吉の姿と彼に短刀を突きつけている黒髪の少年の姿だった。誰が見てもそこにあるのは、敗北の姿だ。
肩に軽甲冑をつけ、白い布を纏わり付かせた少年を目にした刹那、歌仙は背筋に冷たいものが走ることを自覚せずにはいられなかった。気迫に満ちた彼の姿に、本能的に気圧されてしまう。
(彼は、何だ!?)
歌仙は知る由もなかった。その短刀もまた、修行によって極まった刀剣男士だということに。
「どこ見てるんだよ!!」
「――っ!!」
歌仙が見せてしまった一瞬の隙をついて、鋭い刺突が牙のように歌仙の喉笛に迫る。咄嗟にそれを受け止め、歌仙は数歩後退する。
何が起きたか理解できず、思考がまとまらない。それでも、体は勝手に動いて安定の攻撃を弾いてくれていた。
だが、このままあの短刀と二対一を強いられたら。物吉をくだし、ただならぬ気配を纏わせている彼の相手もすることになったら、耐えられるのだろうか。
ぎり、と奥歯を噛み締めて覚悟を決め直した歌仙は、安定の元にやってきた黒髪の少年を睨み付ける。けれども、
「薬研は一期の方に行って」
「おいおい、大和守の旦那。今ここで部隊長を落とした方がいいんじゃないか?」
「こいつは僕が倒す。いいから行くんだ」
有無を言わさない部隊長の口調に、薬研は渋々といった様子で踵を返す。
「おや、僕を仕留める絶好のチャンスだったのに。良いのかい?」
「部隊長は部隊長だけで倒しきるものだ。そうじゃないと、あいつに笑われるからさ」
「面子を気にして、そのような甘い判断をするとは」
木刀を軽く振り、安定は上段に構え直す。
「きみの見栄に塗れた判断、後悔させてあげるよ。大和守安定」
「吠え面をかくのはどっちかな、歌仙兼定!!」
二人が再びぶつかり合おうとする。まさにその瞬間、
「ちょっと、何やってるのよ!!」
彼らの耳を劈く怒号が響き渡る。
思わず双方の足が止まり、中途半端に構えた彼らは声の元――主たちの方へと視線を向ける。視線の先には、見知らぬ誰かに食ってかかられている彼らの主の姿があった。
鼓膜が破れるのでは無いのかという怒鳴り声に、藤は反射的に身を竦ませる。
三日月と煉の解説を聞きながら演練を見つめていたら、不意に広場で観戦をしている彼らに向けて、ずんずんとやってくる者がいたのだ。
その人物は、少女の姿をしていた。恐らくは藤よりも三つ四つは年下か。けれども、彼女の形相ときたら、まさに般若そのものであった。きっちりとした袴姿にすらりと伸びた背筋は美しいものであるというのに、今はそれすらも怒りの激しさを表すのに一役買っているようだ。
後ろに控えている刀剣男士と思しき男性は、藤が見たことの無い者だった。見目が麗しい金の鎧を纏った、派手な見た目の青年だが、思うところがあるのか、瞑目したまま少女の様子を見守っている。
「ここ、競技場じゃないでしょう!! 競技場外で係の者もつけずに、用意した結界の外でこんな団体戦の演練するなんて! 万が一折れたりしたらどうするの!!」
柘榴を思わせるくすんだ紅色の髪をした少女は、青の瞳をぎっと釣り上げ、居並ぶ三人に向けて問答無用に言葉を叩きつけた。
反射的に萎縮しかけるものの、藤は聞き捨てならない言葉を耳にして顔を上げる。
「演練で、折れることってあるんですか」
「ほとんどないわよ。でも、刀剣男士がやりすぎるって可能性もあるでしょ。破損したらすぐに修復できるように、わざわざ結界を競技場ごとに張ってるの。そういう術が用意できない場所では、審神者以外に修復係のものをつけたり、審判員に試合の判断をさせてやり過ぎないようにしたり、色々準備するのよ。そんなことも知らないで審神者やってるの、あんた」
最後の言葉がぐさりと刺さり、藤は再び身を縮める。どうやらこの少女は、危険な行為をしているから注意しにきたということらしい。
自分がした判断が予想外に危ういものだと気付かされて、藤の中に不安が急速に生まれる。たとえて言うならば、知らない間に立ち入り禁止の場所で遊んでいた子供の心境に近い。
同じ立場でもある煉の方を恐る恐る見ると、彼は全く動じずに少女と相対していた。
「係の者が用意してくれた好意と規則を逸脱した行為については、謝罪する。だが、俺は彼らがやりすぎてしまうとは考えていない。あいつらだって弁えている。狙うのも本体ではなく木刀にしているし、肉体への攻撃は控えるように常に言ってある」
「それに、万が一の場合は俺が動く。何、木刀を使っている者たちに天下五剣の一振りが後れを取ることはあるまい」
煉に続き、三日月が腰の太刀に手を添えて頷く。だが彼らの自信ありげな態度も、彼女の燃えさかる炎には、水ではなく油としかならなかったようだ。
「あんた達の意見なんてどうでもいいの。ここの演練場はうちの家が管理してるところなのよ! うちが管理してるところでは、うちの仕来りに従ってちょうだい!!」
「す、すみません。気をつけます」
まさか競技場の運営者側の人間だとは思わず、藤は反射的に頭を下げた。
ここで何かあれば、恐らくこの少女の家の者に責任が問われるのだろう。公園で事故があると、公園の管理者が責任をとるのと同じ理屈だ。ならば、彼女が烈火の如く怒り狂い、怒鳴りつけるのも道理というものである。
「すまない。俺が言い出したことなんだ。彼を怒らないでくれ」
煉が何気なく口にした言葉を聞いて、頭を下げていた藤は思わず唇を無意識に噛んだ。
煉は自分を『彼』と呼んだ。つまり彼は、自分を男として見ていた。ただそれだけの勘違いが、どうしていつもこんなに苦しいのだろうかと、取り留めも無い自問が頭を埋め尽くす。望んでこんな格好をしているはずなのに、という言葉がぐるぐると頭を巡っていく。
何て言おうか、それとも言わないでおこうか。藤が声も無く唇を震わせていると、
「何言ってんのよ。その子、女の子じゃない。あんたの目、節穴?」
煉の失言を少女の声が暴いて、ばっさりと斬り捨てる。思わず顔を彼女に向けると、少女は藤ではなく目を眇めて睨むように煉を凝視し、
「大っ体、あんたみたいな穢れてる奴が、何でこんなとこいんのよ」
吐き捨てるように、更に言葉をぶつける。今までの言葉も語調は荒かったが、そこにはあくまで注意というお題目があった。
だが、今口にした言葉は明らかに注意以外のものに対する嫌悪が含まれている。
(……今の、言葉)
勿論、言葉にから見え隠れする棘にも、思う所はある。けれども、それ以上に、心臓が揺さぶられるような動揺に襲われるのは何故か。
(僕は、この言葉を、言われたことが――ある)
鼓動の音が頭全体に響き渡る。サーッという砂嵐のような音が耳に響き、世界が遠くなる。
「――穢れた奴が入っていい所じゃないのよ、ここは」
とどめのように口にされた言葉を耳にした瞬間、頭の隅に電流が走ったような衝撃に引っ張られて何かが記憶の淵から蘇っていく。窯の蓋をこじ開けるように、どっと思い出が頭に奔流として流れていく――。
***
それは、まだ藤が施設から引き取られて、すぐのことだった。右も左も分からない都会の只中で、彼女は故郷の緑が恋しいと思うことが何度かあった。
だから、都会の中で木々に囲まれたその場所を見たとき、懐かしさに後押しされるように藤は足を踏み入れようとした。
けれども、一緒に居た人は――自分を引き取ってくれた女性は、手を引いて幼い彼女をその場から離れさせようとした。丁度、先日見た夢のように。
「ねえ、どうして行っちゃだめなの」
小さな手で指した先には、朱塗りの真っ赤な門――鳥居があった。
尋ねられた彼女は、とても困った顔をしていた。恐らく、そのはずだ。思い出そうとしても、どうにも彼女の顔だけぼやけてしまう。
ただ、確かなこともある。幼子の駄々を戒めるように、彼女は自分と目線を合わせてこう言った。
「だってあーちゃん、穢れてるもの」
夢の中では音が消えてしまって聞こえなかった言葉が、今はもうはっきりと思い出せる。
けがれてる。
彼女の言葉が何を指すのか、その時は分からず、どういうことかと彼女に訊いた。
「汚れてるっていうことよ。あーちゃんの汚れは簡単には落とせないものなの」
再びどうして、と尋ねる。自分の体は故郷の山で駆け回っていた頃よりも、ずっと身綺麗になっていた。母が褒めてくれた髪もつやつやだったし、爪の先までぴかぴかになっていると思っていたくらいだ。
「あーちゃん。とても悪いことをしたでしょう」
聞き分けの無い子供を叱るように、ゆっくりとした言葉で指摘されて、少しばかりひやりとした。
思い当たることは、ある。
しかし、周りの大人はそれを止めるどころか、笑顔で見守っていた。だから、自分がした行為が『悪いこと』かどうか幼い彼女は分からず、なるべく考えないようにしていた。
テレビというものが、日夜その話を話題としていると、知っていたけれども。画面の向こう側の大人が、『りかいしがたいやばんなこうい』『りんりをいつだつしたおぞましいこと』と、もっともな顔で話していたことも、目にしていたけれども。
それは、知らない大人が言っているだけで、だから見当違いな発言をしているのだと、見ないふりができた。
けれども今改めて指摘されて、自分の身近にいた大人への不信が生まれかける。
だが同時に、自分は即座にその疑いを否定しようとした。故郷の人たちに悪い人たちはいない。自分の親は悪い人ではない。きっと何かの間違いだ、と。
「かわいそうに。誰もあーちゃんに教えてあげなかったのね。悪いことをしたら穢れがつくの。あーちゃんは、それがあるから入っちゃだめなのよ」
「入ったらどうなるの」
「神様が怒ってしまうわ。怒って、あーちゃんに罰をくだすの。あーちゃんの周りの大人は悪い大人ばかりだから、皆でこぞってあーちゃんを悪い子にしてしまったのね。かわいそうに」
自分の養母に、悪意はなかったはずだ。彼女はあくまで笑顔を崩さなかった。聞き分けのない子供に教え含むような態度を、揺るがすことはなかった。
とはいえ、甘やかされて育った自分は、彼女の言葉をなるべく否定したいという気持ちに突き動かされていた。
「そんなことないもん、私、汚れてないし、その……神様だって遊んでくれるよ」
神様といわれるものがどんなものかは分からなかったが、目に見えないが皆が祈っている何か凄いものだということは知っていた。だから、神様は良い人で、自分の味方だという気持ちを漠然と抱いていた。
実際、鳥居をくぐっても何も起きなかった。物珍しい建物や施設は面白いと思ったが、神様らしいものも見つからなかった。恐れていたように罰が下ることもなかった。
故に、義母には何ともないと言い張った。彼女は笑って、それを聞いていた。
――その時は。
神社から帰った日の夜、原因不明の頭痛と腹痛で寝込むことになり、初めて『ひょっとしたら』という疑念を持った。
それからも懲りずに、体が治ってから近所の神社に行くことはあったが、その度に同じ体調不良が起きた。やがて学業が忙しくなり、神社に足を向けることも自然と無くなった。
否、無意識に避けるようになっていた。養母が自分に放った言葉の真意に向き合う気になれず、我知らず蓋をしていたのだ。
だが今この瞬間、少女の刃物のような言葉によって、閉じた蓋は強引にこじ開けられてしまった――。
***
「穢れた、とはどういうことかな」
娘の刃物じみた言葉を直接受けたのは、藤ではない。彼女の隣の審神者である煉だった。
彼の刀剣男士である三日月は雲行きの怪しさを感じたのか、一歩前に出て穏やかに問いかける。
三日月は太刀に添えていた手を下ろし、攻撃の意思はないことを示していた。だが、瞳に漂う気配は優しげであるが故にいっそ不気味であると思えるほど、凪いでいた。
「言葉通りよ。死(し)穢(え)が染みついているって言ってるの。こういう所に来るなら、誰がいるか分からないんだから、そういうのは落としてきなさいよ」
少し言葉がきついと思ったのか、少女の言葉の勢いに込められた棘は幾分か収められていた。
「ほら、禊をしていれば収まるものなんだから。水かぶって大人しくしているだけでしょ。まさか、知らないとか言わないわよね? そっちの子にもうつっちゃうでしょう。ねえ?」
突然話を向けられても、藤には何がなんだか分からない言葉だったために、微動だにせずに聞いていることしかできなかった。
助けを求めるように煉と三日月を見つめてみるも、彼ら自身は全く狼狽えた様子はない。やり玉にあげられている煉の様子を藤はそれとなく観察してみるが、見た限り彼の服装も身なりも清潔そのものだ。
少女が言う『穢れ』が何かは、藤にはさっぱり分からない。それとも、見える者には見えるということなのだろうか。
煉は困ったような笑いを浮かべて、この言いがかりじみた言葉に対して、
「悪いな。生まれつきなんだ」
それだけ言った。瞬間、再び少女の目に攻撃的な光が宿る。
「はぁ!? なら、なんであんた審神者なんかしてるのよ!?」
投げつけられた言葉はただ怒りをぶつけるのではなく、明らかな嫌悪や忌避が入り交じったものだった。彼女の怒鳴り声に、藤は何度目になるか分からない緊張を強いられる。
「あんたみたいな穢れた奴が刀剣男士といるなんて、いくら彼らでもかわいそうに思えてくるわ!!」
自分に向けられた言葉ではないのに、ぐさりと、藤の心の片隅に刃が刺さる。
先日から過っていたある不安が、先だって見ていた夢が、度々起こっていた不調が、過去と結びついて嫌な形で絡まり合い、最悪の絵図を藤に見せる。
どこか遠くに刀剣男士を感じる瞬間がある。それは、彼らが神様だから。そのこと自体は、単なる事実にすぎない。
ならば、神社の鳥居や注連縄に不自然な嫌な感覚を覚え、その内側にいてはいけないと思うのは。夢の中で刀剣男士たちに侮蔑の目を向けられ、洗っても落ちない汚れに手が塗れていたのは。
手入れをしたときに、体調を著しく崩すのは。ひょっとしたら、髭切の腕の負傷がなかなか治らなかったのも。
何かやり方が間違っているというわけではなく。刀剣男士たちにその理由があるというわけでもなく。
――全て、自分が原因だというのか。
「そちらの言い分は、正しいのかもしれない。だが、経緯はどうあれ、俺は審神者として政府に認められている」
隣から響く煉の落ち着いた声が、藤を終わらない思考の渦から引っ張り上げた。
「君が俺のことを疎ましく思うのは自由だ。ただ、試合は最後までやらせてくれないか。久しぶりの演練なんだ。それに、彼……いや、彼女も困ってる」
落ち着いた彼の声とは対照的に、藤はぶるりと外の冷気とは異なる寒気を覚えた。
それが近くにいる青の装束を纏った刀剣男士――三日月からのものだと分かり、思わず彼に目をやり、そのまま息を呑んだ。
漂う空気が、先ほどの穏やかなものとはまるで違う。さながら冬の空に輝く月のように、美しいのに恐ろしくもある気配が、ひしひしと彼の瞳から伝わってくる。夜空の深い藍を思わせる瞳には、名の通り三日月のような模様が浮かんでいると、その瞬間藤は気がついた。
彼はきっと今、表情を崩すこと無く、けれども怒りを堪えている。藤は直感的に、そう思った。
「……それもそうね。ともかく、試合が終わったんなら、さっさと目立たないように帰ってよね。あと、そこのあんた」
藤の方にじろりと視線を送って少女は言う。
「あんた、穢れに触れたんだから、帰ったらちゃんと体清めなさいよ」
それだけ言い捨てると、彼女はくるりと踵を返して去って行った。
まるで嵐のような人だと思わず口から詰まっていた息を藤が吐き出すと、同じタイミングでため息が被さった。
見れば、彼女の側に控えて一一言も話さなかった金の鎧の刀剣男士も、同じように息を吐き出していたのだ。
「不躾にすまなかったね。主はこの競技場の監督役を初めて任されたもので、気が立っているんだ。代わりに、俺が謝ろう」
ぺこりと頭を下げる名も知らぬ刀剣男士に、藤は気にしていないと慌ててぶんぶんと首を横に振る。
煉も同様に「頭を上げてくれ」と言う。言われるがままに顔を上げた刀剣男士は、どこか気品のある顔立ちで苦笑いを浮かべる。
「主は普通の人が見えないものが、色々と見えてしまう御仁でね。とはいえ、無礼なことには変わりない。すまなかった」
「いや、事実だ。実際よく言われる」
まるで何でもないことのように、煉はさらりと言ってのけた。思わず藤も、謝罪した刀剣男士も彼を注視してしまったが、彼の横顔に沈痛なものもなければ、怒っている気配もなかった。さながら、凪いだ海のように静かなものだった。
少女の刀剣男士は、少しばかり驚いた様子を顔に浮かべたが、それ以上は言葉を挟まず、彼の主らしき娘の後を追って姿を消した。
これで一段落したかと思いきや、藤は妙に辺りが静まりかえっていることに気がついた。
突如嵐のようにやってきた少女とのやり取りを見ていたのは、藤たちだけではない。演練を行っていた面々も、どうやら固唾を呑んで、こちらのやり取りを気にしていたようだ。
「やれやれ、これでは結果的に水を差したのと変わらんな」
三日月は鷹揚なため息を吐いた後、広場へと大きく手を振った。こちらは何ともない、という合図なのだろう。
気を取り直したように双方の刀剣男士が互いに何事か語り合い、再び剣戟の音が聞こえるようになる。やがて、先ほどまでの静けさは嘘のように広場は戦場へと戻っていった。
「すまない。俺のせいで巻き込んでしまった」
「いえ、あの……それは、いいんですけど」
煉に頭を下げられ、藤はすぐに手を振って気にしていないことを示した。
少女に怒鳴りつけられたことも、演練の進行に滞りが生じてしまったことも、実際今の藤にとっては興味の外だったのだ。彼女が気にしているのは、ただ一つ。
「その……穢れてるって、言われてましたけど」
「ああ。俺と話していて、もしくは触れようとして、何だか嫌な感じはしなかったか?」
「……あ」
思い当たる節があり、藤は思わず声を上げる。彼と握手しようとしたときに感じた、黄昏時の薄闇のような違和感は、すぐに思い出せた。
「気がついていたのに話してくれていたのか。ありがとう。実はそれだけでも、結構嫌がる審神者は多いんだ。今日の演練相手にもそれでキャンセルされた」
彼は何事もないように言っているが、藤がどれだけ目を凝らしても目に見えて不自然な様子はない。ただ、触れるときに微かに違和感を覚える程度であり、それも気のせいで済ますこともできるものだ。
「さっきみたいに、あんな剣幕で捲し立てられるのは流石に初めてだったが」
「あの、その」
煉の言葉に被せるように、藤は声をかける。
先ほどから生まれてしまった予測を、どう言葉にしようと彼女は唇を震わせた。しかし、少し前に思い出してしまったもののせいで乱れてしまった思考は、理路整然とは程遠く、意味の無い言葉の断片を辛うじて口にすることしかできない。
そんな彼女が落ち着くのを待つかのように、煉は表情を変えずじっとこちらを見ていた。数十秒を要して、ようやくさざ波だっていた思考を均した彼女は、息を整え会話を続ける。
「穢れていると……神様がいる所に入ったり、触ったりしたら、どうなるんですか」
「……あまり気分が良い物じゃない。だから注連縄で囲った結界も入りたくはなかったんだ。悪かったな、君が叱られる理由もなかったのに巻き込んでしまって」
「いえ、そういうわけじゃ」
「それに……その、性別を、勘違いしていたようだ。重ねて詫びよう」
頭を下げられて、藤はぶんぶんと首を横に振る。けれども、声はなかなか出なかった。
対戦相手がおらず右往左往していた自分との試合を快く引き受けてくれたことには、寧ろ感謝しているくらいだ。だというのに、ひりついた喉が動いてくれない。
「――本当に大丈夫なんです。よく間違えられますし。気にしていないです」
十数秒を要してから、ようやく藤は渇いた喉を動かして、言葉を口にできた。
気にしていないと言葉にすれば、大丈夫と口にすれば、自分を騙すことができる。気にしていないことにできる。大丈夫だったことにできる。
たとえ事実はそうでなかったとしても。今は、それが最善だと、彼女は――笑う。
口角に力をこめ、釣り上げる。目を細め、自然に顔は馴染みのあるいつもの形を作り上げる。目の前の彼は、これで安心してくれるだろうか。
だが、藤の期待に反して煉は寧ろ眉を少しばかり顰め、怪訝そうな顔をした。
「あの、本当に大丈夫ですから。そうだ、連絡先を教えてもらえませんか」
「…………ああ。そうだな。今度、何か送らせてもらおう。今日の礼と詫びも兼ねて」
端末同士のやり取りを済ませて面を上げれば、会ったときと変わらない優しげな微笑を浮かべた青年の顔が、そこにはあった。
どうやら彼は納得してくれたらしいと、藤は内心で安堵の息を吐く。折角親切にしてくれた相手に、不愉快な思いを抱かせてはいけない。そう思っていたからこその心情だった。
(……でも、僕は本当にここにいていいんだろうか)
穢れた奴が刀剣男士といるなんて、彼らがかわいそう。
少女が投げ捨てた言葉が、まだ耳の奥でわんわんと響いているようだった。
ふと手を見れば、夢で見た黒い泥がへばりついているような気がして、思わず彼女はコートの裾でそれを払おうとした。だが、存在するはずもない泥が落ちるわけもなく、ごわついたコートの感覚を手の甲が伝えるだけで終わる。
以前同じことを養母に言われたときは、ただの偶然だと思えた。
いいや、その言葉は正しくない。本当はそれ以上を考えると、気がついてはいけないことに気がついてしまいそうで、考える行為を放棄していたのだ。
しかし、こうして今、気がついてしまった。気がついてしまった以上、もう逃げることはできない。
(彼らが神様で、僕がもし本当に穢れているなら)
終わりのない思考の渦が、再び彼女の心を攫っていく。それを悟られまいと、彼女は笑顔を貼り付けたまま、演練の様子をぼんやりと見つめていた。
気遣うように見守る、自分と同じ審神者の目線すら意識の外にやり、、藤は自分との問答を重ねていく。
この沈んでいく思いは、胸の内に収めたままにしておこうと、彼女は思考の末に決断する。
けれども沈鬱な思いの木霊が、演練を行っている一人の刀剣男士の心に響いていることを、藤はまだ知らなかった。
元々華奢で小柄な体躯な上に、彼の白い髪は枯れ草と色合いが似ている。足音を最小限に殺し、できるだけ身を屈めて少年は風のように走り抜けた。
他の刀剣男士よりも遙かに遠くを見晴るかす瞳で、敵対する者たちの動きを捉える。大振りの刀を抜いた男――大太刀の刀剣男士の足は、見るからに遅い。先んじて駆けだした段駄羅羽織の青年や他の刀剣男士に取り残されているのが、はっきりと見て取れた。
自分より少しばかり背が高い少年達、恐らくは短刀か脇差の二名は段駄羅羽織の者と共にこちらに接近している。一方で、髭切と同じくらいの背丈の青年――太刀と思われるものを持った刀剣男士は、羽織の彼とは別の方角に別れて走り出していた。
(大太刀の彼はあまり動かないで迎撃の構え……先頭の三人はこちらへの主力で、太刀は遊撃、でしょうか。今はそう見えます)
すぐさまそれらの情報を持ち帰るために、五虎退は歌仙のもとへと駆け出す。既に走り始めた歌仙からの視線を受け取り、五虎退は予め決めていた形に手を動かす。声を出せない状況では、手で暗号を伝えるようにしようと以前話し合っていたのだ。偵察に出向くことが多い五虎退は、自然と使えるように現在特訓しているところだった。
歌仙がこくりと頷くのを見て、自分はどうしようか――と悩みかけた刹那、五虎退は膨れ上がる殺気に気がつく。
(――危ないっ)
咄嗟に身を捻り、自分の胴体を薙ごうとした一撃を回避する。演練用の木刀が作り上げた茶色の軌跡が通り過ぎ、五虎退は自分の敵と向かい合う。
紺色のすらりとしたズボンに、同色の上着を纏った人物がそこにいた。目線を上にあげれば、金色に輝くボタンが綺麗に並んでいる。深い朱色の襷に肩の半分を覆う紺のマントは、さながら貴人の護衛を務める騎士のようであった。
手に握っているのは、恐らく大きさから見て、太刀。ならば遊撃の敵かと判断し、迎撃しようと思いはした。
けれども、五虎退はその者の顔を目にして、金色の瞳を見開く。
「いち、にい」
一瞬、自分でも何故そんなことを口走ったのか分からず、五虎退はか細い身を震わせる。
いち兄。自分が発した言葉が指す意味は、目の前の青年が自分の兄であるということだ。
途端に、まるで己の中でパズルがぱちりと合ったように、五虎退の内に一つの自覚が生まれる。
それは、目の前の彼は、自分にとって人間の言葉でいう兄と表現できる存在だ、というもの。突如生み出された自覚は、不意に少年の内へ、見知らぬはずの彼への敬慕を芽生えさせていく。
降って湧いた感情に五虎退が戸惑っているように、目の前の彼も少しばかりの困惑を滲ませていた。
「いち兄、いち兄……ですよね」
「たしかに私の名前は一期一振です。粟田口吉光作の唯一の太刀であり、多くの短刀の弟がいる。それが刀剣男士としての私です。しかし」
言葉を逆接で打ち切り、迷いを断ち切った一期一振は木刀を構え直す。五虎退と同じ金色の瞳には、既に一切の躊躇というものがなかった。
「だから、何だというのでしょうか」
「……!」
「別の本丸といえど、五虎退は私の弟です。そのことは間違いありません。ですが、それはこの戦の場においては何の意味もない」
ビュッと空気を切る音と共に、微塵も加減のない突きが少年に向けて繰り出される。体が覚えた反射的な動きで辛うじて回避はできたが、もう少しずれていればと思うと五虎退の頬を冷たい汗が伝い落ちる。
「違いますかな。短刀――五虎退」
「で、も」
元々、自分でも気弱で臆病な性格であるとは自負している彼である。頭で割り切れても心が簡単に、はいそうですかと納得してくれない。
弟に対してだまし討ちのような卑怯な真似はせず、丁寧な言葉しか使わずに突き放すような態度をとるのは、一期一振なりの優しさなのだろう。そのことも理解はしているのに、それでも彼の心情は戦わないという選択肢をどこかで求めていた。
震える短刀の切っ先では、目の前の敵――そう、敵なのだ――は倒せない。分かっているのに、甘さが消えてくれない。
一方、一期一振は五虎退とは対照的に、甘えを絶った瞳で未熟な少年を見つめていた。しかし同時に彼は、無機質な瞳の裏でも別の思考も進めていた。
この様子では自分と五虎退の間でまともな試合をすることは叶わない。一方的に蹂躙してもよいが、それでは五虎退という刀剣男士のためにはならない。
(やれやれ、別の本丸とはいえ相手の鍛錬についてまで考えてしまうというのは……私も弟に厳しくなれない、ということでしょうな)
冷たい言葉を投げかけている兄が、まさか胸中で五虎退の鍛錬について思慮しているなどということは、当然目の前の少年は知らない。
冷めた瞳をした一期一振は、まるで五虎退に愛想を尽かしたとでも言わんばかりにわざとらしくため息を吐く。続けて、彼はちらりと観客席に座っている人物に目をやった。
つられて、五虎退の片目もそちらを向く。今も試合の状況をじっと見守っている主の姿が、そこにはあった。
「もし、私が何らかの術で兄を騙り五虎退を誑かしている者なら、今の隙をついてあなたの主をいとも容易く屠れたでしょう」
恐ろしい言葉を聞き、五虎退の背筋が泡立つ。構わず、一期一振は淡々と現実を少年に突きつけ続ける。
「人間というものはとても脆い。私の主も多少刀を扱う腕はある方ですが、それでも我らと手合わせをすれば五分と保ちません」
そのことは、五虎退もよく知っていた。最近は人数が足りているため、彼女が手合わせに参加する機会は減ってしまったが、以前は何度か主は歌仙と試合をしていた。そのとき、彼女が勝てた所を五虎退は見たためしがない。常に、主は道場の床に倒れ込んでいる側だった。
「さて、本気の私があの審神者を仕留めにいったとして、一体彼女は何分生き残れるでしょうか。いえ、時間遡行軍ならば情報を欲して拉致をするという可能性もありますね。その場合、手足の数本を折る程度の時間で済むでしょう」
無論、一期一振にはそのようなルールを逸脱した行為を実践する気は毛頭ない。
だが、五虎退は考えてしまう。自分が躊躇した結果、主が傷つく未来を想像してしまう。そんなことがあったら、五虎退は自分自身を許せない。
歯を食いしばり、己の中に突然芽生えた兄への親愛を主への忠義で塗りつぶす。再び一期一振を見据えた五虎退の目に、臆病な動揺は見られない。その名の通り、五匹の虎をも退けかねない気迫が燃え上がっていた。
(そうだ、五虎退。それでいい)
兄だから、というのは少年が手加減していい理由にはならない。常に緊張感と隣り合わせの戦場の中で、頼りになるのは己の主と信じる仲間だけだ。
裂帛の気合いと共に、少年は一歩踏み出す。彼の握る木刀には、もう迷いは宿っていなかった。
「五虎退と一期一振か。いい試合をしている」
藤の隣に腰掛けていた三日月は、目を眇めて広場の一角を見つめる。
「見えるんですか?」
「刀剣男士だからな。今は五虎退と一期一振がせめぎ合っている。石切丸はやや出遅れているようだな。そちらの髭切が討ちに行ったぞ」
三日月は、紺色の服の者が一期一振、緑の和装の者が石切丸、と教えてくれた。彼に言われるがままに目を向けて、藤は自分の刀剣男士の姿を探す。
試合が始まって十数分は経っているものの、既に藤にとっては試合の趨勢については何が何だか分からない、という感想しか抱けていなかった。
戦況は刻一刻と変わり、その度にしのぎを削り合う相手も入れ替わっていく。誰かに注視していれば、気がつけば別の誰かが他の相手と戦っているという状況では、戦に関しては素人の彼女ではまるで理解が追いつかないのも無理はない。
「ただ、髭切で相手ができるのか?」
「できないものなんですか」
隣に座る自分と同じ立場の観戦者――煉も、三日月のアドバイスを受けながら広場の一角を見つめて呟く。その内容に、思わず藤は彼に聞き返した。
三日月の言う通り、緑の装束を纏った大柄な青年に髭切が猛然と突っ込んでいくのが見える。彼の姿はなるほど、確かに鬼をも討ち取らん気概に満ちているように見えた。
「できないわけではないが、大太刀の一撃というのはとにかく重いし範囲も広い。そして大太刀の刀剣男士は総じてタフだ。落としきるなら、大太刀同士の方がいいだろう」
煉が指摘した通り、藤が目を凝らすと易々と打ち負かすどころか、寧ろ石切丸という刀剣男士の相手に髭切が苦戦している様子が見えた。彼の持つ太刀の木刀では、短刀のように大太刀の間合いをくぐり抜けて懐に潜り込むのも難しいのだろう。
戦闘において、髭切はあれで血気盛んなところがあると歌仙は話していたのを、藤は小耳に挟んでいた。ならば、たとえ苦戦しても、引こうとしないのではないかと藤は予想していた。その予想に違わず、髭切は自分から引き下がろうという素振りはまるで見せていない。はらはらしながら見守っていると、
「いかんな。信濃が動くぞ」
「信濃?」
「信濃藤四郎。短刀だ」
三日月が指し示したのは、風のように駆け抜ける赤毛の少年だった。そのスピードといったら相当のもので、藤が目で追おうとしても捉えようとした先から彼の姿が消えてしまう。
赤い弾丸のように疾駆する信濃藤四郎という名の刀剣男士は、迷うことなく髭切に向かって突っ込んでいく。
「でも、短刀の刀剣男士じゃ、太刀が大太刀の相手をするように倒せないんじゃないですか」
「普通の短刀ならそうだろうが、あいつらは極めてるからな」
「極めてる?」
言うよりも見た方がいい、と煉は髭切を指さす。
折しも、石切丸と入れ替わるように飛び込んできた少年の一撃を髭切は難なく受け止めようとした。だが、彼は気圧されるように数歩下がる。まるで、あの細い短刀の一撃が大太刀の一振りに匹敵するかのような挙動だ。
「修行に出て、力をつけてきたということだ。だから、侮ると痛い目を見るぞ」
「まして、二対一の状態で対処できる相手ではないな」
煉と三日月に続けて言われ、藤は手に汗握りながら髭切の様子を見守っていた。彼らの言葉通り、ちょこまかと動く上に一撃一撃が鋭い赤髪の短刀を相手しながら大太刀の相手をするのは、至難の業のようだ。
けれども、彼の助けはすぐに訪れる。紫の暴風のような一刀が、石切丸という名の刀剣男士と髭切の間に割り込んできた。間違いなく、あれは次郎太刀だ。彼の楽しそうな顔が、遠くからでも見えるようである。
大太刀と大太刀同士がぶつかり合い、髭切は信濃という短刀の相手に専念できるようになった。
「大太刀には大太刀を、か。この僅かな間ですぐに指示を出すとは……これは歌仙の采配のようだな。良い目を持っている」
思いがけなく自分の最初の刀を三日月に褒められ、藤はほんのりと頬を朱に染める。自分のことではないはずなのに、本丸に最初からいてくれた彼に賞賛の言葉をかけられると、胸の奥が擽られるような喜びに満ちていく。
口の端に笑みを登らせる藤を横目で見て、煉と三日月も目を細める。彼らの視線は後輩を見守る先達のそれだった。
「その歌仙の方は、部隊長同士がぶつかりあっているな。大和守、部隊長を一気に攻め落とすつもりか」
「策としてはどうだ」
「薬研に物吉貞宗の相手をさせて一騎打ち。悪くは無いが、はてさて。いったいどうなるか」
隣の二人のやり取りを聞きながら、藤は胸の前で拳を握り、彼らの行く末を見守る。部隊長同士の討ち合いは、息をつかせぬ猛攻の応酬となっていた。
「オラオラオラァ!!」
「言葉遣いが雅じゃないね、君は!!」
先ほどまでの穏やかな面持ちはどこへやら、青い瞳に黒髪の青年――大和守安定は気炎を上げて、歌仙へ突きを繰り出してきた。
数度の突きがまるで一つの突きに凝縮するのではないか思うほどの、高速の刺突。だが、まだ僅かにブレがある。故に回避も不可能では無い。
(物吉は、あの黒髪の短刀の相手か。短刀相手なら遅れは取らないだろう)
攻撃を受け流しながらも、刀剣男士の基本的な戦いを歌仙は振り返っていく。
刀剣男士は操る刀が大きければ大きいほど、その物理的な力は強くなる。大太刀の次郎太刀と短刀の五虎退では、どうしても力比べでは五虎退が押し負けてしまう。
だが得物の大きさに反比例する形で、機動力は失われていく。短刀のものたちは総じて小柄であり、敵の攻撃を掻い潜って急所を突く強さを持っている。大太刀の攻撃は、大雑把で破壊力は高いが高速戦闘には追いつけない。
これに夜戦や室内戦という条件が絡めば、更に作戦は複雑を極めていく。けれども、今は野外の昼戦だ。細かいことはそこまで考える必要は無い。
大太刀に苦戦している髭切には、次郎太刀を向かわせた。相手の部隊長に追随していた短刀が、遅れて援護に行ったようだが、太刀の相手に短刀では、趨勢はやや太刀有利に傾くだろうと歌仙は予想していた。
短刀に隙を突かれる可能性もゼロではないが、髭切は敵を侮って油断するような戦いはしない。彼への信頼を以て、歌仙は任せられると判断していた。
(気になるのは五虎退か。残りの数から見て、相手の太刀の相手に手間取っているんだろう。できるなら助けに行きたいが)
そのためには、早々に敵の数を削いで救援に向かわせるか、先に物吉を向かわせて一時的に二対一の状況を双方に作るか。短刀と打刀両方を相手にするリスクと、五虎退を救出するリスクを秤にかける。
これが実戦なら、太刀の一撃で五虎退が負傷するリスクはそこそこに高い。対して、打刀同士の戦いに短刀が一振り加わった程度なら、ぎりぎり持ちこたえられる。
ならば、ここは物吉を援護に向かわせ、数の有利を以て相手の太刀を討ち取るべきだ。安定と数合の討ち合いを経た末に、歌仙はそのように結論を出す。
だが、歌仙はあることを見誤っていた。それは黒髪の短刀の少年を、ただの短刀と侮っていた点だ。
「物吉、ここは僕が」
彼の言葉が終わるかどうかという瞬間、視界に急速に何かが近づく。反射的に顔を微かに動かし、その飛来物を躱す。
目の端を通り過ぎていくそれは、木片――木刀の欠片だった。何が起きたのか、理解するより先に声が轟く。
「物吉貞宗、討ち取ったぞ!!」
突如響いた、相手への勝利宣言。轟いたのは、地に根を張ったようなどっしりとした低い声。あの黒髪の短刀のものだ。
まさか、と思わず歌仙の翡翠色の瞳が動く。その目が捉えたのは、演練用の木刀を折られて尻餅をつく物吉の姿と彼に短刀を突きつけている黒髪の少年の姿だった。誰が見てもそこにあるのは、敗北の姿だ。
肩に軽甲冑をつけ、白い布を纏わり付かせた少年を目にした刹那、歌仙は背筋に冷たいものが走ることを自覚せずにはいられなかった。気迫に満ちた彼の姿に、本能的に気圧されてしまう。
(彼は、何だ!?)
歌仙は知る由もなかった。その短刀もまた、修行によって極まった刀剣男士だということに。
「どこ見てるんだよ!!」
「――っ!!」
歌仙が見せてしまった一瞬の隙をついて、鋭い刺突が牙のように歌仙の喉笛に迫る。咄嗟にそれを受け止め、歌仙は数歩後退する。
何が起きたか理解できず、思考がまとまらない。それでも、体は勝手に動いて安定の攻撃を弾いてくれていた。
だが、このままあの短刀と二対一を強いられたら。物吉をくだし、ただならぬ気配を纏わせている彼の相手もすることになったら、耐えられるのだろうか。
ぎり、と奥歯を噛み締めて覚悟を決め直した歌仙は、安定の元にやってきた黒髪の少年を睨み付ける。けれども、
「薬研は一期の方に行って」
「おいおい、大和守の旦那。今ここで部隊長を落とした方がいいんじゃないか?」
「こいつは僕が倒す。いいから行くんだ」
有無を言わさない部隊長の口調に、薬研は渋々といった様子で踵を返す。
「おや、僕を仕留める絶好のチャンスだったのに。良いのかい?」
「部隊長は部隊長だけで倒しきるものだ。そうじゃないと、あいつに笑われるからさ」
「面子を気にして、そのような甘い判断をするとは」
木刀を軽く振り、安定は上段に構え直す。
「きみの見栄に塗れた判断、後悔させてあげるよ。大和守安定」
「吠え面をかくのはどっちかな、歌仙兼定!!」
二人が再びぶつかり合おうとする。まさにその瞬間、
「ちょっと、何やってるのよ!!」
彼らの耳を劈く怒号が響き渡る。
思わず双方の足が止まり、中途半端に構えた彼らは声の元――主たちの方へと視線を向ける。視線の先には、見知らぬ誰かに食ってかかられている彼らの主の姿があった。
鼓膜が破れるのでは無いのかという怒鳴り声に、藤は反射的に身を竦ませる。
三日月と煉の解説を聞きながら演練を見つめていたら、不意に広場で観戦をしている彼らに向けて、ずんずんとやってくる者がいたのだ。
その人物は、少女の姿をしていた。恐らくは藤よりも三つ四つは年下か。けれども、彼女の形相ときたら、まさに般若そのものであった。きっちりとした袴姿にすらりと伸びた背筋は美しいものであるというのに、今はそれすらも怒りの激しさを表すのに一役買っているようだ。
後ろに控えている刀剣男士と思しき男性は、藤が見たことの無い者だった。見目が麗しい金の鎧を纏った、派手な見た目の青年だが、思うところがあるのか、瞑目したまま少女の様子を見守っている。
「ここ、競技場じゃないでしょう!! 競技場外で係の者もつけずに、用意した結界の外でこんな団体戦の演練するなんて! 万が一折れたりしたらどうするの!!」
柘榴を思わせるくすんだ紅色の髪をした少女は、青の瞳をぎっと釣り上げ、居並ぶ三人に向けて問答無用に言葉を叩きつけた。
反射的に萎縮しかけるものの、藤は聞き捨てならない言葉を耳にして顔を上げる。
「演練で、折れることってあるんですか」
「ほとんどないわよ。でも、刀剣男士がやりすぎるって可能性もあるでしょ。破損したらすぐに修復できるように、わざわざ結界を競技場ごとに張ってるの。そういう術が用意できない場所では、審神者以外に修復係のものをつけたり、審判員に試合の判断をさせてやり過ぎないようにしたり、色々準備するのよ。そんなことも知らないで審神者やってるの、あんた」
最後の言葉がぐさりと刺さり、藤は再び身を縮める。どうやらこの少女は、危険な行為をしているから注意しにきたということらしい。
自分がした判断が予想外に危ういものだと気付かされて、藤の中に不安が急速に生まれる。たとえて言うならば、知らない間に立ち入り禁止の場所で遊んでいた子供の心境に近い。
同じ立場でもある煉の方を恐る恐る見ると、彼は全く動じずに少女と相対していた。
「係の者が用意してくれた好意と規則を逸脱した行為については、謝罪する。だが、俺は彼らがやりすぎてしまうとは考えていない。あいつらだって弁えている。狙うのも本体ではなく木刀にしているし、肉体への攻撃は控えるように常に言ってある」
「それに、万が一の場合は俺が動く。何、木刀を使っている者たちに天下五剣の一振りが後れを取ることはあるまい」
煉に続き、三日月が腰の太刀に手を添えて頷く。だが彼らの自信ありげな態度も、彼女の燃えさかる炎には、水ではなく油としかならなかったようだ。
「あんた達の意見なんてどうでもいいの。ここの演練場はうちの家が管理してるところなのよ! うちが管理してるところでは、うちの仕来りに従ってちょうだい!!」
「す、すみません。気をつけます」
まさか競技場の運営者側の人間だとは思わず、藤は反射的に頭を下げた。
ここで何かあれば、恐らくこの少女の家の者に責任が問われるのだろう。公園で事故があると、公園の管理者が責任をとるのと同じ理屈だ。ならば、彼女が烈火の如く怒り狂い、怒鳴りつけるのも道理というものである。
「すまない。俺が言い出したことなんだ。彼を怒らないでくれ」
煉が何気なく口にした言葉を聞いて、頭を下げていた藤は思わず唇を無意識に噛んだ。
煉は自分を『彼』と呼んだ。つまり彼は、自分を男として見ていた。ただそれだけの勘違いが、どうしていつもこんなに苦しいのだろうかと、取り留めも無い自問が頭を埋め尽くす。望んでこんな格好をしているはずなのに、という言葉がぐるぐると頭を巡っていく。
何て言おうか、それとも言わないでおこうか。藤が声も無く唇を震わせていると、
「何言ってんのよ。その子、女の子じゃない。あんたの目、節穴?」
煉の失言を少女の声が暴いて、ばっさりと斬り捨てる。思わず顔を彼女に向けると、少女は藤ではなく目を眇めて睨むように煉を凝視し、
「大っ体、あんたみたいな穢れてる奴が、何でこんなとこいんのよ」
吐き捨てるように、更に言葉をぶつける。今までの言葉も語調は荒かったが、そこにはあくまで注意というお題目があった。
だが、今口にした言葉は明らかに注意以外のものに対する嫌悪が含まれている。
(……今の、言葉)
勿論、言葉にから見え隠れする棘にも、思う所はある。けれども、それ以上に、心臓が揺さぶられるような動揺に襲われるのは何故か。
(僕は、この言葉を、言われたことが――ある)
鼓動の音が頭全体に響き渡る。サーッという砂嵐のような音が耳に響き、世界が遠くなる。
「――穢れた奴が入っていい所じゃないのよ、ここは」
とどめのように口にされた言葉を耳にした瞬間、頭の隅に電流が走ったような衝撃に引っ張られて何かが記憶の淵から蘇っていく。窯の蓋をこじ開けるように、どっと思い出が頭に奔流として流れていく――。
***
それは、まだ藤が施設から引き取られて、すぐのことだった。右も左も分からない都会の只中で、彼女は故郷の緑が恋しいと思うことが何度かあった。
だから、都会の中で木々に囲まれたその場所を見たとき、懐かしさに後押しされるように藤は足を踏み入れようとした。
けれども、一緒に居た人は――自分を引き取ってくれた女性は、手を引いて幼い彼女をその場から離れさせようとした。丁度、先日見た夢のように。
「ねえ、どうして行っちゃだめなの」
小さな手で指した先には、朱塗りの真っ赤な門――鳥居があった。
尋ねられた彼女は、とても困った顔をしていた。恐らく、そのはずだ。思い出そうとしても、どうにも彼女の顔だけぼやけてしまう。
ただ、確かなこともある。幼子の駄々を戒めるように、彼女は自分と目線を合わせてこう言った。
「だってあーちゃん、穢れてるもの」
夢の中では音が消えてしまって聞こえなかった言葉が、今はもうはっきりと思い出せる。
けがれてる。
彼女の言葉が何を指すのか、その時は分からず、どういうことかと彼女に訊いた。
「汚れてるっていうことよ。あーちゃんの汚れは簡単には落とせないものなの」
再びどうして、と尋ねる。自分の体は故郷の山で駆け回っていた頃よりも、ずっと身綺麗になっていた。母が褒めてくれた髪もつやつやだったし、爪の先までぴかぴかになっていると思っていたくらいだ。
「あーちゃん。とても悪いことをしたでしょう」
聞き分けの無い子供を叱るように、ゆっくりとした言葉で指摘されて、少しばかりひやりとした。
思い当たることは、ある。
しかし、周りの大人はそれを止めるどころか、笑顔で見守っていた。だから、自分がした行為が『悪いこと』かどうか幼い彼女は分からず、なるべく考えないようにしていた。
テレビというものが、日夜その話を話題としていると、知っていたけれども。画面の向こう側の大人が、『りかいしがたいやばんなこうい』『りんりをいつだつしたおぞましいこと』と、もっともな顔で話していたことも、目にしていたけれども。
それは、知らない大人が言っているだけで、だから見当違いな発言をしているのだと、見ないふりができた。
けれども今改めて指摘されて、自分の身近にいた大人への不信が生まれかける。
だが同時に、自分は即座にその疑いを否定しようとした。故郷の人たちに悪い人たちはいない。自分の親は悪い人ではない。きっと何かの間違いだ、と。
「かわいそうに。誰もあーちゃんに教えてあげなかったのね。悪いことをしたら穢れがつくの。あーちゃんは、それがあるから入っちゃだめなのよ」
「入ったらどうなるの」
「神様が怒ってしまうわ。怒って、あーちゃんに罰をくだすの。あーちゃんの周りの大人は悪い大人ばかりだから、皆でこぞってあーちゃんを悪い子にしてしまったのね。かわいそうに」
自分の養母に、悪意はなかったはずだ。彼女はあくまで笑顔を崩さなかった。聞き分けのない子供に教え含むような態度を、揺るがすことはなかった。
とはいえ、甘やかされて育った自分は、彼女の言葉をなるべく否定したいという気持ちに突き動かされていた。
「そんなことないもん、私、汚れてないし、その……神様だって遊んでくれるよ」
神様といわれるものがどんなものかは分からなかったが、目に見えないが皆が祈っている何か凄いものだということは知っていた。だから、神様は良い人で、自分の味方だという気持ちを漠然と抱いていた。
実際、鳥居をくぐっても何も起きなかった。物珍しい建物や施設は面白いと思ったが、神様らしいものも見つからなかった。恐れていたように罰が下ることもなかった。
故に、義母には何ともないと言い張った。彼女は笑って、それを聞いていた。
――その時は。
神社から帰った日の夜、原因不明の頭痛と腹痛で寝込むことになり、初めて『ひょっとしたら』という疑念を持った。
それからも懲りずに、体が治ってから近所の神社に行くことはあったが、その度に同じ体調不良が起きた。やがて学業が忙しくなり、神社に足を向けることも自然と無くなった。
否、無意識に避けるようになっていた。養母が自分に放った言葉の真意に向き合う気になれず、我知らず蓋をしていたのだ。
だが今この瞬間、少女の刃物のような言葉によって、閉じた蓋は強引にこじ開けられてしまった――。
***
「穢れた、とはどういうことかな」
娘の刃物じみた言葉を直接受けたのは、藤ではない。彼女の隣の審神者である煉だった。
彼の刀剣男士である三日月は雲行きの怪しさを感じたのか、一歩前に出て穏やかに問いかける。
三日月は太刀に添えていた手を下ろし、攻撃の意思はないことを示していた。だが、瞳に漂う気配は優しげであるが故にいっそ不気味であると思えるほど、凪いでいた。
「言葉通りよ。死(し)穢(え)が染みついているって言ってるの。こういう所に来るなら、誰がいるか分からないんだから、そういうのは落としてきなさいよ」
少し言葉がきついと思ったのか、少女の言葉の勢いに込められた棘は幾分か収められていた。
「ほら、禊をしていれば収まるものなんだから。水かぶって大人しくしているだけでしょ。まさか、知らないとか言わないわよね? そっちの子にもうつっちゃうでしょう。ねえ?」
突然話を向けられても、藤には何がなんだか分からない言葉だったために、微動だにせずに聞いていることしかできなかった。
助けを求めるように煉と三日月を見つめてみるも、彼ら自身は全く狼狽えた様子はない。やり玉にあげられている煉の様子を藤はそれとなく観察してみるが、見た限り彼の服装も身なりも清潔そのものだ。
少女が言う『穢れ』が何かは、藤にはさっぱり分からない。それとも、見える者には見えるということなのだろうか。
煉は困ったような笑いを浮かべて、この言いがかりじみた言葉に対して、
「悪いな。生まれつきなんだ」
それだけ言った。瞬間、再び少女の目に攻撃的な光が宿る。
「はぁ!? なら、なんであんた審神者なんかしてるのよ!?」
投げつけられた言葉はただ怒りをぶつけるのではなく、明らかな嫌悪や忌避が入り交じったものだった。彼女の怒鳴り声に、藤は何度目になるか分からない緊張を強いられる。
「あんたみたいな穢れた奴が刀剣男士といるなんて、いくら彼らでもかわいそうに思えてくるわ!!」
自分に向けられた言葉ではないのに、ぐさりと、藤の心の片隅に刃が刺さる。
先日から過っていたある不安が、先だって見ていた夢が、度々起こっていた不調が、過去と結びついて嫌な形で絡まり合い、最悪の絵図を藤に見せる。
どこか遠くに刀剣男士を感じる瞬間がある。それは、彼らが神様だから。そのこと自体は、単なる事実にすぎない。
ならば、神社の鳥居や注連縄に不自然な嫌な感覚を覚え、その内側にいてはいけないと思うのは。夢の中で刀剣男士たちに侮蔑の目を向けられ、洗っても落ちない汚れに手が塗れていたのは。
手入れをしたときに、体調を著しく崩すのは。ひょっとしたら、髭切の腕の負傷がなかなか治らなかったのも。
何かやり方が間違っているというわけではなく。刀剣男士たちにその理由があるというわけでもなく。
――全て、自分が原因だというのか。
「そちらの言い分は、正しいのかもしれない。だが、経緯はどうあれ、俺は審神者として政府に認められている」
隣から響く煉の落ち着いた声が、藤を終わらない思考の渦から引っ張り上げた。
「君が俺のことを疎ましく思うのは自由だ。ただ、試合は最後までやらせてくれないか。久しぶりの演練なんだ。それに、彼……いや、彼女も困ってる」
落ち着いた彼の声とは対照的に、藤はぶるりと外の冷気とは異なる寒気を覚えた。
それが近くにいる青の装束を纏った刀剣男士――三日月からのものだと分かり、思わず彼に目をやり、そのまま息を呑んだ。
漂う空気が、先ほどの穏やかなものとはまるで違う。さながら冬の空に輝く月のように、美しいのに恐ろしくもある気配が、ひしひしと彼の瞳から伝わってくる。夜空の深い藍を思わせる瞳には、名の通り三日月のような模様が浮かんでいると、その瞬間藤は気がついた。
彼はきっと今、表情を崩すこと無く、けれども怒りを堪えている。藤は直感的に、そう思った。
「……それもそうね。ともかく、試合が終わったんなら、さっさと目立たないように帰ってよね。あと、そこのあんた」
藤の方にじろりと視線を送って少女は言う。
「あんた、穢れに触れたんだから、帰ったらちゃんと体清めなさいよ」
それだけ言い捨てると、彼女はくるりと踵を返して去って行った。
まるで嵐のような人だと思わず口から詰まっていた息を藤が吐き出すと、同じタイミングでため息が被さった。
見れば、彼女の側に控えて一一言も話さなかった金の鎧の刀剣男士も、同じように息を吐き出していたのだ。
「不躾にすまなかったね。主はこの競技場の監督役を初めて任されたもので、気が立っているんだ。代わりに、俺が謝ろう」
ぺこりと頭を下げる名も知らぬ刀剣男士に、藤は気にしていないと慌ててぶんぶんと首を横に振る。
煉も同様に「頭を上げてくれ」と言う。言われるがままに顔を上げた刀剣男士は、どこか気品のある顔立ちで苦笑いを浮かべる。
「主は普通の人が見えないものが、色々と見えてしまう御仁でね。とはいえ、無礼なことには変わりない。すまなかった」
「いや、事実だ。実際よく言われる」
まるで何でもないことのように、煉はさらりと言ってのけた。思わず藤も、謝罪した刀剣男士も彼を注視してしまったが、彼の横顔に沈痛なものもなければ、怒っている気配もなかった。さながら、凪いだ海のように静かなものだった。
少女の刀剣男士は、少しばかり驚いた様子を顔に浮かべたが、それ以上は言葉を挟まず、彼の主らしき娘の後を追って姿を消した。
これで一段落したかと思いきや、藤は妙に辺りが静まりかえっていることに気がついた。
突如嵐のようにやってきた少女とのやり取りを見ていたのは、藤たちだけではない。演練を行っていた面々も、どうやら固唾を呑んで、こちらのやり取りを気にしていたようだ。
「やれやれ、これでは結果的に水を差したのと変わらんな」
三日月は鷹揚なため息を吐いた後、広場へと大きく手を振った。こちらは何ともない、という合図なのだろう。
気を取り直したように双方の刀剣男士が互いに何事か語り合い、再び剣戟の音が聞こえるようになる。やがて、先ほどまでの静けさは嘘のように広場は戦場へと戻っていった。
「すまない。俺のせいで巻き込んでしまった」
「いえ、あの……それは、いいんですけど」
煉に頭を下げられ、藤はすぐに手を振って気にしていないことを示した。
少女に怒鳴りつけられたことも、演練の進行に滞りが生じてしまったことも、実際今の藤にとっては興味の外だったのだ。彼女が気にしているのは、ただ一つ。
「その……穢れてるって、言われてましたけど」
「ああ。俺と話していて、もしくは触れようとして、何だか嫌な感じはしなかったか?」
「……あ」
思い当たる節があり、藤は思わず声を上げる。彼と握手しようとしたときに感じた、黄昏時の薄闇のような違和感は、すぐに思い出せた。
「気がついていたのに話してくれていたのか。ありがとう。実はそれだけでも、結構嫌がる審神者は多いんだ。今日の演練相手にもそれでキャンセルされた」
彼は何事もないように言っているが、藤がどれだけ目を凝らしても目に見えて不自然な様子はない。ただ、触れるときに微かに違和感を覚える程度であり、それも気のせいで済ますこともできるものだ。
「さっきみたいに、あんな剣幕で捲し立てられるのは流石に初めてだったが」
「あの、その」
煉の言葉に被せるように、藤は声をかける。
先ほどから生まれてしまった予測を、どう言葉にしようと彼女は唇を震わせた。しかし、少し前に思い出してしまったもののせいで乱れてしまった思考は、理路整然とは程遠く、意味の無い言葉の断片を辛うじて口にすることしかできない。
そんな彼女が落ち着くのを待つかのように、煉は表情を変えずじっとこちらを見ていた。数十秒を要して、ようやくさざ波だっていた思考を均した彼女は、息を整え会話を続ける。
「穢れていると……神様がいる所に入ったり、触ったりしたら、どうなるんですか」
「……あまり気分が良い物じゃない。だから注連縄で囲った結界も入りたくはなかったんだ。悪かったな、君が叱られる理由もなかったのに巻き込んでしまって」
「いえ、そういうわけじゃ」
「それに……その、性別を、勘違いしていたようだ。重ねて詫びよう」
頭を下げられて、藤はぶんぶんと首を横に振る。けれども、声はなかなか出なかった。
対戦相手がおらず右往左往していた自分との試合を快く引き受けてくれたことには、寧ろ感謝しているくらいだ。だというのに、ひりついた喉が動いてくれない。
「――本当に大丈夫なんです。よく間違えられますし。気にしていないです」
十数秒を要してから、ようやく藤は渇いた喉を動かして、言葉を口にできた。
気にしていないと言葉にすれば、大丈夫と口にすれば、自分を騙すことができる。気にしていないことにできる。大丈夫だったことにできる。
たとえ事実はそうでなかったとしても。今は、それが最善だと、彼女は――笑う。
口角に力をこめ、釣り上げる。目を細め、自然に顔は馴染みのあるいつもの形を作り上げる。目の前の彼は、これで安心してくれるだろうか。
だが、藤の期待に反して煉は寧ろ眉を少しばかり顰め、怪訝そうな顔をした。
「あの、本当に大丈夫ですから。そうだ、連絡先を教えてもらえませんか」
「…………ああ。そうだな。今度、何か送らせてもらおう。今日の礼と詫びも兼ねて」
端末同士のやり取りを済ませて面を上げれば、会ったときと変わらない優しげな微笑を浮かべた青年の顔が、そこにはあった。
どうやら彼は納得してくれたらしいと、藤は内心で安堵の息を吐く。折角親切にしてくれた相手に、不愉快な思いを抱かせてはいけない。そう思っていたからこその心情だった。
(……でも、僕は本当にここにいていいんだろうか)
穢れた奴が刀剣男士といるなんて、彼らがかわいそう。
少女が投げ捨てた言葉が、まだ耳の奥でわんわんと響いているようだった。
ふと手を見れば、夢で見た黒い泥がへばりついているような気がして、思わず彼女はコートの裾でそれを払おうとした。だが、存在するはずもない泥が落ちるわけもなく、ごわついたコートの感覚を手の甲が伝えるだけで終わる。
以前同じことを養母に言われたときは、ただの偶然だと思えた。
いいや、その言葉は正しくない。本当はそれ以上を考えると、気がついてはいけないことに気がついてしまいそうで、考える行為を放棄していたのだ。
しかし、こうして今、気がついてしまった。気がついてしまった以上、もう逃げることはできない。
(彼らが神様で、僕がもし本当に穢れているなら)
終わりのない思考の渦が、再び彼女の心を攫っていく。それを悟られまいと、彼女は笑顔を貼り付けたまま、演練の様子をぼんやりと見つめていた。
気遣うように見守る、自分と同じ審神者の目線すら意識の外にやり、、藤は自分との問答を重ねていく。
この沈んでいく思いは、胸の内に収めたままにしておこうと、彼女は思考の末に決断する。
けれども沈鬱な思いの木霊が、演練を行っている一人の刀剣男士の心に響いていることを、藤はまだ知らなかった。