本編第一部(完結済み)
審神者になると、人との交流が減る。そのように思う関係者も、あるいは審神者自身もそう考えることはある。
彼らの言い分としては、審神者は本丸に籠もって指揮をとることになるから、外出する頻度も下がって必然的に人との出会いが減るというわけだ。
たしかに、本丸という一種の閉鎖的な空間に住まうことが多い審神者は、刀剣男士たち以外との人間と交流する機会は少なくなる。だから「人」との交流が減るという言葉に、間違いはない。
しかし、この定説には二つの反論があると、審神者になって半年近くが過ぎた藤は思う。
「主、本当にこの方が演練の相手なんだろうね」
「そのはずなんだけど……」
一つは、刀剣男士はただの物ではないということだ。彼らには口もあるし手も足もある。考える思考能力も十分すぎるほど兼ね備えているし、思考した結果を行動に移す行動力もある。そこまでできるなら、それはもはや人と変わらないだろう。
そしてもう一つ。
「五振りしかいないとは聞いてなかったよ。悪いが一振りに待ってもらうなんてのは、流石にちょっとなぁ」
かけられた言葉を前に、彼女は渋面を作らないように必死に堪えていた。
今、藤は演練のために、とある施設にきていた。
三人しかいなかった以前と異なり、今回は五人の刀剣男士と共にだ。今回は対戦相手も見つかるだろうと、事前に打診も行い、手続きも主催の部署で行ってくれた。対戦相手の人相と目印代わりにつける札も確認して、準備万端と乗り込んだのである。
そして待っていたのが、この言葉だ。
スーツ姿のいかにもやり手そうな年配の審神者に、このように言われて、まだ若輩者の藤はつい弱気になってしまう。だからといって後ろに控えている歌仙、それに少し離れた場所で待機している皆のためにも、引き下がるわけにはいかない。藤は覚悟を決め直して、挑みかかるように彼を見つめた。
「でも、申し込むときは五人って伝えたはずです」
「対戦相手を組み合わせる際に、何かミスったんだろう。悪いが、そういうことだから他を当たってくれないか。私もできるなら、自分の刀剣男士全員に経験を積ませたいんだ。こちらはこちらで好きにさせてもらうよ」
それ以上は話すつもりはないと言わんばかりに、彼は踵を返して人混みの中へと消えてしまった。
審神者になっても、人との交流がゼロになるわけではない。寧ろ演練においては、知らない人間と突然一対一で話す機会が増したと言えるくらいだ。故に、交流が減るなどという定説は間違っている。
半ば打ちのめされつつも、藤はどこか冷静な思考でそのような結論を出した。
「手合わせにきたのは、こちらも同じなのだけれどね。対戦相手がいなくなってしまったら、こちらの経験が積まれないことについては、考えが至らないのだろうか。五振りしかいない事情を知っていて、そのことを考慮できないとは。想像力の足りない審神者だね」
ほとんど見えなくなっている男性の背中に、歌仙の痛烈な嫌味が投げつけられる。言葉通りの意味もあるが、それよりも側に居る主を蔑ろにされたことへの怒りが、そこに強く含まれていた。
歌仙の言う通り、六振り全員が揃っている相手の男性と異なり、藤は五振りである。そのハンデがあるため、偶発的に相手を誘う場合、どうしてもハードルが高くなってしまうのだ。
「仕方ないよ。向こうも向こうで都合があるようだから。とりあえず、皆に報告しにいこう」
肩を竦めて、藤は演練会場の入り口兼先ほどのような試合相手との待ち合わせ場所でもある、ホールの片隅に移動する。その場所はちょっとした休憩スペースになっており、主が対戦相手を見つける間の暇を潰す刀剣男士たちで、ごった返していた。
待っていた四人は、戻ってきた主を笑顔で出迎えてくれたが、事情を説明すると全員の顔が揃って苦々しいものに変わる。
「僕たちじゃ、試合相手にならないってこと? 本当にそうなのか、一戦試してこようか」
「髭切さん、流石にそれは私闘になってしまいますので」
「冗談だよ」
制止した物吉にはそう言ったものの、髭切の手は腰に吊られた太刀に添えられていた。彼なりに思う所があるというのが、ありありとその所作に表れている。
「で、でも、それなら僕たち、今日は……戦えないんですか?」
「約束をしてた相手に反故にされたのなら、今から探すってのはちっと難しいんじゃないかい。主、そこんところはどうなんだい?」
「ええと……」
不安げな五虎退に続いて次郎にまで問われ、藤は隠しきれない当惑を滲ませながら、辺りを見渡した。ホールの中は既に空白が目立ってきており、審神者たちが刀剣男士らを連れて、三々五々演練のための会場に散っていったことを示している。
それに比例して、彼女の焦りも増していく。
自分の刀剣男士たちをがっかりさせたくない。かといって、先ほどの審神者を見つけて、食ってかかる気にもなれない。
考えれば考えるほど、息が苦しくなるほどの焦りが生まれていく。上手くできなかった現実への申し訳なさで逃げ出したくなるが、それでも消せない使命感が彼女の足を縫い付けてしまい、その場から去ることを許さない。
(このまま見学だけして帰る? でも、そうしたら皆のやる気が無駄になってしまう。大会に来て試合だけ見て帰るなんて、そんなの悔しいだろうし。だからといって、誰か別の審神者を見つけて交渉するなんて、また断られたらどうしよう)
焦る頭は、ぐるぐると思考を空回りさせるだけで、結論など到底出るわけもなかった。彼女が時間だけを、徒に消費していると、
「お、きみたち! 久しぶりに会ったな」
軽快な声が不意に藤たちにかけられて、彼らは揃ってそちらに視線をやった。
ホールの中でもひときわ目立つ、真っ白の髪。髪に負けないほどの純白の羽織を纏い、金の瞳を持った青年が、片手に着物姿の少女を抱えて立っていた。その少女の顔を見て、藤は夏祭りの記憶を思い出す。
仲睦まじい恋人たちの姿 を目にして咄嗟に逃げ出したとき、ぶつかってしまった口のきけない少女――更紗という名の審神者だ。今日は浴衣姿ではなく、淡い緑の着物にくすんだ赤紫の袴を穿いている。
彼女を抱いているのは、鶴丸国永という刀剣男士だということも、藤たちは覚えていた。迷子になってしまった主を探すために起きた一騒動については、そう簡単に忘れられるものではない。
「こんにちは、鶴丸さん。それに更紗ちゃんも。君も来てたんだ」
挨拶をすると、今日はメモを持っていないらしく、彼女は無言でこくりと頷いた。相変わらずにこりともしないが、彼女の目はどことなく、嬉しさを帯びているように見える。
「主がきみ達を見かけて、挨拶をしたいと言うんでな。あの日は、連絡先も渡せずに別れてしまっただろう?」
「そうだったね」
忘れないうちにと思ったのか、鶴丸の腕に抱かれている更紗が、手に握った端末を藤に見せる。
彼女が、端末同士で連絡先を交換しようと言いたいのだと察した藤は、すぐに懐から自分のものを取り出して向け合った。数秒の通信が行われた後、画面の通知が無事に登録が完了したと教えてくれた。
「ありがとう。連絡先が分からないかって政府の人に頼んでも、知る必要はないって突っ返されて気になっていたんだ」
「そうか? まあ、うちは政府の連中とはあまり仲良くないからな」
「そうなの?」
藤が問いかけても、鶴丸は意味ありげに笑って、それ以上答えることはなかった。彼に抱かれている更紗も、相変わらずの鉄面皮で藤を見つめるばかりである。
「……主。折角だから、演練について打診してみては?」
「あ、そうか」
彼らの会話を隣で聞いていた歌仙が、そっと藤に耳打ちする。彼の提案を受けて、藤の中で一縷の希望が芽生えた。少なくとも、見知らぬ人に頼むよりは、彼らに声をかける方が遙かに気楽だ。
「あの、もし演練相手が見つかってないなら」
「あれ。もしかして藤さん? 久しぶりだね!」
中途半端に口に出した誘いは、今度は別の声によって遮られる。誰かと思い振り向くまでもなく、彼女は思わず体を強張らせた。
夏祭りで、その場から逃げ出した原因。ただ、刀剣男士と親しげに――恋仲のように話していたというだけで、胸が苦しくなった。あの瞬間の感情が、今でも鮮やかに思い出されてしまう。
だが、今はそんなことを考えるべきではない。心を切り替えて、藤は改めて彼女に向き直る。
彼女と初めて会ったのは、髭切が顕現する前。歌仙と共に太刀の刀剣男士を見に行ったときだ。たしか名は、スミレと言ったか。
こざっぱりとした飾り気の無い服装の彼女は、躊躇うことなく、いそいそと藤の元に駆け寄ってきた。隣には、夏祭りの際と変わることなく、加州清光が立っている。
「おいおい、きみたち知り合いだったのか?」
「そう、ですけど……鶴丸さんたちも知り合いなの?」
「さっき知り合ったばかりだけどな。今日の対戦相手だ」
鶴丸は、強気な笑みを加州とスミレに向けてみせる。更紗も端末を持った手をぶんぶんと振って、自分の交戦意欲を意気揚々と示していた。負けじと加州も猫のような紅の鋭い目つきで、鶴丸をにらみ返す。まさに一触即発といったところだ。
だが、士気を上げている二人とは対照的に、藤は内心で落胆をしていた。まさかスミレに対戦相手の座を譲ってほしいと、頼むわけにもいかない。更紗に対しても同様だ。
「そうだ、藤さん。連絡先、教えてなかったよね。もしよかったら、いいかな?」
更紗の持つ端末を目にして気がついたのか、スミレからも声がかけられる。彼女の勢いに流されるように、藤は彼女とも端末で互いの連絡先を交換し合った。
嬉しそうに微笑むスミレは、そっと藤に近づき、周りに聞こえないように声を潜ませ、
「藤さんの周り、優しそうな人たちでいっぱいだね。よかった。この前会ったときは、刀剣男士との関係で悩んでたみたいだから。ちょっと心配してたんだ」
はっとしてスミレの方を見つめると、その名の通り深い紫の瞳を細ませて、彼女はにっこりと笑いかけていた。審神者の先輩というよりは、気さくな姉のような彼女の姿に、藤はぽっと心に電気が灯ったような暖かさを覚える。
けれども、内側に生まれた暖かさは、申し訳なさと表裏一体だった。何せ、夏祭りの際に彼女の姿を目にした自分は、脱兎の如く逃げ出してしまったのだから。
「藤さん、あの更紗って女の子とは知り合いなの?」
再びひそひそ声で話しかけられ、藤はこくりと頷く。すると、今度は何やら困ったような顔で、スミレは更に声を絞って会話を続ける。
「私、あの子のこと怒らせちゃったかもなんだよね。会ったときからずっとむすっとした顔で……藤さん、何か思い当たることある?」
「えっ、いや、僕は特には」
「そうだよねー。仕方ない、あとで理由聞いて、謝ろう」
皆を待たせてるからもう行くね、と言葉を残してスミレはてきぱきと外の会場に向かって、歩き出した。
今日の試合は、全て屋外で行われている。謂わば広い公園に適当な区切りをつけて、その範囲内で試合をするものだとは、藤も聞いていた。
足早に走り去るスミレの言葉を思い出し、藤は改めて更紗を見つめる。彼女はスミレの言う通り、まるで仮面でもつけているのではないかと思うほどの、無表情を貫いていた。
(更紗ちゃんは、表情を変えはしないけど……でも、怒ったりはしてないって感じるんだよね。お話してくれるし)
スミレに声をかけるよりも先に、彼女が去ってしまったので、誤解を解くことは叶いそうにもなかった。
「それじゃあ、俺たちもこの辺りで失礼する。またな……ん、きみ、どうしたんだ」
別れの挨拶を告げかけていた鶴丸を引き留めるように、更紗はぐいぐいと彼の真っ白な羽織を引っ張る。
次いで、何か言いたげに藤を見つめたあと、鶴丸の手をとって彼の掌に何事か書き始めた。言葉と文字を交わす二人を暫く見守っていると、鶴丸はやおら顔を上げて、
「藤殿。きみ、大丈夫かって主が訊いてるぞ」
突然そのようなことを言われて、藤は目を丸くする。更紗の方を見ても、彼女の瞳がじっとこちらを見つめていること以外は、なにも分からない。
大丈夫かというのは、きっと対戦相手のいない不安を見抜かれての問いなのだろう。そうはいっても、幼い彼女に何かしてもらうわけにもいかない。
すぐさま、彼女は馴染みの笑顔を顔に浮かべて、彼女を安心させる言葉を並べる。
「大丈夫だよ。今日はお腹も空いてないし、迷子にもなってないもの。更紗ちゃん、演練頑張ってね」
「…………」
「おっと、主。そろそろ行かないと、演練の時間が無くなってしまうぞ。じゃあ、また」
何やらまだ、じっと藤を見つめている更紗を急かすように、鶴丸は口早に別れの挨拶を告げる。まるで白いつむじ風のように彼らは去っていき、残されたのは対戦相手がいないという問題を抱えたままの一行だった。
「主様。あのお二方の試合を見せてもらうというのは、いかがでしょうか」
途方に暮れている主の様子に気がついた物吉が、彼なりの提案を口にする。
彼が代案を出してくれてよかったと、藤は内心で胸をなで下ろした。自分から言い出すのは、やはりどうしても躊躇われてしまったのだ。
「じゃあ、二人にそのことを伝えないと……手続きとかもいるのかな。ちょっと聞いてくるよ」
受付を探そうと、藤は再度ぐるりとホールを見渡す。来た時はすでに審神者と刀剣男士でいっぱいだったが、今はほとんど誰もいないと言って久しい。
だからこそ、藤はそれを見つけることができた。
ちょうどホールの中でも目に入りづらい、大きな観葉植物の陰。そこには一塊になっている刀剣男士たちと、主らしき武装していない男性がいた。
彼らの周囲を漂う空気は、一目見ても明るいとは言えない。ふってわいた災難に苦慮しているような、困惑に取り巻かれている様子がありありと伝わってくる。
さながら、今の自分たちのように。
「ちょっと待ってて」
後ろに控える自分の刀剣男士たちに一言残してから、藤は小走りで彼らの方に向かう。
気配に気がついたのだろう。あちらの刀剣男士たちも、揃って顔を上げて、やってくる藤を見つめている。彼らにつられるようにして、審神者と思しき男性もこちらの接近を察したようだ。
見慣れない男性たちの視線に晒されて、気圧されそうにながらも、彼女は心を叱咤しながら彼らのもとに辿り着き、
「すみません。あの、もしよかったら演練の相手に」
「すまない。もし、相手がいないなら試合を申し込んでも」
二人同時に口を開き、その言葉の意味を知った彼らは揃って、安心したような笑顔を浮かべたのだった。
「お互い災難だったなあ。五振りだったら相手しないなんて言われるとは」
隣を歩く少年に不意に声をかけられて、歌仙はそちらに目をやる。
見た目は主よりも年若いように見えるのにも関わらず、地に根を張ったようなしっかりとした声の持ち主だ。藤が試合を申し込んだ審神者の刀剣男士らしい少年は、軽く片眉をあげてからニッと人なつこい笑みを見せる。
「そちらこそ、会った瞬間に、相手に試合をしたくないと言われたと聞いているよ。因縁をつけられたと、管理者に伝えた方が良いのではないかな」
「大将は気にしてないから、いいってよ。ま、うちの大将はそういうことがよくあるんだ」
からからと声をあげて笑い、その紫水晶のような瞳を彼は細めた。炭のように黒い髪の下で彼の瞳の色はよく映える。
けれども、秀麗な色合いの双眸とは異なり、漂う空気は戦に赴くもののふそのものだ。背格好からして、恐らくは短刀であるのだろうが、五虎退とは纏う風格というものがまるで違う。
「僕たちに合わせて、五振りで試合をしてくれると言っていたね。誰が抜けるつもりなのか、訊いてもいいだろうか」
「ああ。うちの部隊長曰く、今回は三日月のじいさんが欠席になるそうだ」
少年が黒い手袋に包まれた手で、前を歩く刀剣男士らのうちの一人を指す。
三日月という名らしい古風な青い装束を纏った男性は、装いだけを見るならば、確かに荒事よりものんびりと縁側で歌でも詠んでいる方が似合いそうに見えた。だが、腰に吊った太刀からは、少年同様並々ならぬ気迫を感じる。恐らくは彼も只者では無いのだろう。
歌仙が口にした通り、藤と同じく対戦相手に突然の辞退を突きつけられた彼らも、また途方に暮れていたところだったという。丁度利害が一致していたのだから、この二人で試合をしようという考えに至るのに、そう長い時間はかからなかった。
「三日月という刀剣男士には悪いことをしたね。部隊長の僕から、後からお礼を言っておこう」
「そんな気にするこたぁない。三日月のじいさんは、戦うよりはのんびりしてる方が性に合ってるみたいだからな。むしろ喜んでるんじゃないか?」
それならいいのだが、と思いつつ歌仙は先頭を歩く審神者の男性、そしてその隣にいる主に目をやる。
彼らは何やら地図のようなものを、端末から立体映像として浮かべていた。演練のための会場までの先導は、主の仕事ということで、今先頭に立っているのは彼らだった。
慣れない他人との立ち回りで、神経をすり減らしてはいないといいがと考え、歌仙は少し主と距離を詰めようと足を速めた。
そんな歌仙の心慮などつゆとも知らず、藤は受付でもらった地図のデータを確認しつつ、同じような風景が続く会場を歩き回っていた。
当初予定されていた時間よりも、遅れて始めることになったためか、入り口近くに広がっていた整備された競技場のような場所は貸してもらえなかった。代わりに指定されたのは、入り口から大分離れた場所だった。
十一月は初頭といえど、通り過ぎる風は冷たい。外出用に用意した飾り気の無い粗末なコートの前を改めて閉じ直し、彼女は辺りを見渡す。
「えっと、僕らは十七番の競技場を借りていいって言われたから……」
今回は参加者が多いからか、さながら球技大会でもするかのように、競技場を特定の区画ごとに仕切っているとのことだった。藤が口にしたのは、その区画の一つだ。
試合の内容は、必然的に狭い所での乱戦になるだろう。場所が準備できないなら、場所に合わせた状況を想定した戦いをすればいいということらしい。
「あ、この辺りですね」
顔を上げ、藤が示した方向には目印となるかのように、注連縄が巻かれた石が重々しく鎮座していた。即席に用意されたらしい十七と書かれた立て札にも、同じように注連縄が巻きつけられている。
視界がひらけたところでの演練を想定しているためか、注連縄の向こうに広がっている広場には、障害物になるような木や岩の類はほとんどない。辛うじて目に入るのは、邪魔にならないように広場の片隅に置かれた祠だ。何か由緒でもあるのか、こちらも注連縄で周囲を囲っているのが見える。
(…………あれ)
不意に、どくりと体の奥で心臓が大きく跳ねたような気がした。
冷や汗が一筋、背を滑り落ちていく。藤は思わず、自分の胸を分厚いコートごしにぎゅっと握りしめた。
(だめだ、ここに入っちゃ)
この先に足を踏み入れることを、自分は許されていない。藤は直感で、そのような気配を感じ取った。
夏祭りで鳥居を見たときと同じだ。自分が入ってはいけない場所があり、そこに入れば悪いことが起きる。そのような不安が、不意に彼女の心を埋めていく。
どうしてそんな風に思うのか、理由もはっきりとは分からないというのに。
足が震え、けれども躊躇をしている場合ではないという正論が懸念をどうにか拭い去る。唾をごくりと呑んで、えいと一歩前に進もうとして、
「申し訳ないんだが」
ここに来るまで、大して言葉を交わしてもいなかった対戦相手の男性が、不意に口を開いた。慌ててそちらを向くと、どういうわけか彼の顔もどこか青いように見える。
急に気分が悪くなったのだろうか。藤が心配そうに彼を見つめていると、
「こっちじゃなくて、あっちの広場でもいいか?」
彼が指し示した先には、一行が前にしている場所とは異なり、注連縄はおろか手入れをされているかも怪しい空間があった。
場所が足りなかったら、試合会場として使うこともあるのかもしれないが、今は枯れた草があちこち伸び放題になっている。中途半端に伸びた立木が四方八方に枝を伸ばし、ところどころには大きな岩も見えた。注連縄だけでなく、祠のようなものも、ここにはないようだ。
「僕は構いません。でも、どうしてですか」
先ほどの違和感を覚えたのは自分だけでは無いのだろうか。奇妙な連帯感に安堵し、藤はそれとなく原因を隣の審神者に尋ねてみる。
「あまり……仰々しいのは好きじゃないんだ」
彼は簡潔にそれだけ言うと、自身の刀剣男士を引き連れて、先んじて隣の荒れた広場へと踏み入っていく。
答えになっていない答えに、思わず拍子抜けしていると、彼女の肩をとんと叩く者がいた。振り返れば見慣れたすみれ色の髪の青年――歌仙がこちらを見下ろしている。
「主、僕らも行こう。多少整備されていなかったとしても、彼らに後れを取るつもりはない。安心するといいよ」
「そうさ。むしろ整備なんてされていないことの方が、戦場じゃ多いくらいだからね!」
歌仙を追い越すように、次郎が見た目に違わぬ大股でのっしのっしと通り過ぎていく。厚底の草履を履いているため、一番足下が不安定なはずなのに、躓きそうな素振りなどまるで見せていない。
それ以上もたもたするわけにもいかず、藤は小走りで即席の会場へと足を向けた。
元々は、ここも演練をするための広場だったのだろう。だが、使われなくなって随分と経っているようだ。長らく整備されずに放置された結果、当然足下はよいとは言えない。伸び放題になった雑草が、冬の寒さで立ち枯れていた。
「君が部隊長でいいんだよね。演練のルールはどうする?」
試合の場の吟味を行っていた歌仙は、背後から声をかけられて頭を巡らした。
彼の背後には、ふわふわした黒い髪を一つに結い上げ、秋の空よりなお澄んだ青の瞳を持った青年が立っていた。年の頃は主と同じくらいに見える。どこか幼い風貌のために、寧ろ彼女より子供のようだと感じる部分もあった。
けれども段駄羅模様の浅葱羽織からは、ちらりと刀の柄が覗いている。彼もまた、刀剣男士ということだろう。
「僕は五対五の混戦を想定していたよ。こういう少しばかり開けた場は、時間遡行軍も部隊間でのやり取りに使うことが多い。そこを突くとき、僕たちは必然的に乱戦を強いられるからね」
「僕も同じ意見。それに一対一の手合わせなら、本丸でもやってるからさ」
人なつこい笑みを見せて、少年は同意する。
「僕は大和守安定。今日の部隊の部隊長を務めている。君は?」
「僕は歌仙兼定。同じく、第一部隊の部隊長さ。今日はよろしく頼むよ」
「うん。よろしくね」
差し伸べられた安定の手を、歌仙は迷いなくとる。
顔立ちこそ、あどけなさが残っているようには見えるが、彼の手は想像通りしっかりとした男らしさを感じさせるものだった。
握手を交わした後は、もうお互いに敵同士だ。二人は迷うことなく距離を置き、踵を返して自陣に戻る。歌仙を出迎えたのは同じ本丸の仲間達だった。
「歌仙さん。僕たちは、どうすればいいですか?」
「五虎退は偵察にまわってくれ。初動の様子を確認して、敵の狙いを把握したい。物吉は僕の支援を頼むよ。次郎と髭切は逸って前に出すぎないように」
「わかりました。僕、頑張りますっ」
五虎退は士気を高めるように、ぎゅっと胸の前で拳を握る。いつもは白さが目立つ頬も、今ばかりは仄かに朱に染まっていた。
「アタシたち、もしかして手綱のついていない猪とでも思われてるのかい?」
「それは心外だよねえ。僕たちも、ちゃんと部隊長の言うことは聞くよ」
「君たちが暴れると抑えが効かなくなるだろう。念には念を入れているだけだよ」
指示というよりは単なる注意を投げかけられた二人は、揃って唇を尖らせて不平を漏らす。とはいえ、本気ではないと分かっているからこその軽口の応酬だ。謂わば、試合前に肩の力を抜くための、息抜きのようなものである。
「主様にボク達全員が参加する手合わせを見て貰うのって、初めてですよね。なんだかわくわくします!」
物吉が嬉しさを隠せずに軽くその場で跳ねると、広場の側にあったベンチに腰掛けている主に向けて、ひらひらと手を振ってみせた。彼女も気がついたのか、物吉に向けて手を振り返している。
主が見ている。その思いをよりしっかりと心に届いたのだろう。一転、彼の顔は引き締まったものに変わった。
「主に無様な姿を見せるわけにはいかないからね。さて、相手の準備もそろそろできただろうか」
ばさりと外套を翻し、歌仙は反対側にいる安定を睨み付けた。
負けるものか。
そんな言葉が互いから聞こえるかのように、緊迫した空気が膨れ上がっていく。
試合が始まる十分ほど前。落ち葉が積もったベンチから藤が枯れ葉を退けていると、対戦相手の審神者の側に控えていた刀剣男士が徐に彼女に近づいてきた。
「そちらの部隊長は歌仙兼定か?」
「えっ、ええと、はい。そうですが……」
背丈は藤より一回りは高く、髭切と同じくらいだろうか。けれども、装いは彼とは真逆で昔の貴族を思わせる古風な青い装束を纏っていた。
衣に負けぬくらい、彼の髪もまた夜の海のような深い青に染まっている。装束の正面には黄色で染め抜かれた三日月が、ゆるりと逆さまに弧を描いていた。顔立ちは他の刀剣男士同様、眉目秀麗という一言で表せるほど大層美しいものだった。
「俺たちの今日の部隊長は大和守安定といってな。あの、浅葱色の羽織を纏っている者だ」
「ああ、彼なんですね。彼も、歌仙みたいに最初の刀なんですか?」
「いいや。主の最初の刀は、あいつの古い親友でな。大和守は、ずっとその補佐をしていた。今まで部隊長を務めたことを気にしていたようだから、今日は任せてみてはと俺が主に言ったのだ」
ことの経緯を説明されて、藤は軽く相槌を打つ。
五人しか顕現していない藤の本丸では、歌仙以外の者が部隊長を務めたことがない。彼が最初に顕現した刀剣男士なのだから、彼に任せるのが筋だろうと思って、他の者に任せるという案すら思いついていなかったのだ。
そういうことも考えた方がいいのか、と口元に手を当てて改めて自身の刀剣男士たちに思いを馳せていると、
「おい、三日月。挨拶もなしにいきなり話しかけるのはよせ。困っているだろう」
枯れ葉を退け終わった藤の試合相手である審神者が、三日月を窘めるように声をかけた。どうやら藤が考え込んでいる様子を、見知らぬ相手に話題を振られて困惑しているからだと勘違いしたらしい。
「それもそうだったな。すまんすまん。改めて、俺は三日月宗近という。今日は話し相手としてだが、よろしく頼む」
ばさりと装束の片袖を外側に広げ、もう片方の手を胸に当てて三日月は優雅に一礼する。その所作もまた、見目に負けず劣らず洗練されたものだった。
「よろしくお願いします。僕の審神者としての名前は、藤っていいます」
ぺこりと頭を下げてから、今度は彼が挨拶するのだろうと、目の前の審神者の男性を見つめ直した。
癖の多い紫紺の髪をゆるく一つに結い、さっぱりとした色の袴姿の彼は、三日月のように人目を引く美しさを持っているわけでは無いが、独特の落ち着いた空気を漂わせていた。
とはいっても、彼の面差しもどこか刀剣男士に似て、少しばかり浮き世離れしているようにも見える。だからだろう、見目麗しいものばかりの刀剣男士の中に混ざっていても、埋もれてしまうようなことがない。
こういう人が審神者らしい審神者というのだろうか、と藤は思い――いつまで経っても、挨拶が返ってこないことに気がついた。
三日月も、主を急かすように審神者の肩をちょんちょんとつつく。
「主、何か気になることでも?」
「藤、といったか。審神者になったのは最近か?」
「はい。そうですが……」
何か無作法でもしてしまったかと、藤が胸の内で冷や汗をかいていると、彼はふぅーと長く息を吐き出してから、
「……良かった、無事だったんだな」
「え、どういうことですか?」
会った覚えのない相手にいきなり安否を心配されて、藤は目を白黒させる。三日月の方を見ても、彼も事態を見守るようににこにこしているばかりで、ちっとも助け船を出そうとしない。
「先に自己紹介をしよう。相模国で審神者をしている、煉というものだ。聞いての通り審神者としての名だから、好きなように呼んでくれて構わない」
「相模……」
どこかでその単語を耳にしたような気がする。けれども、どこでだったのかは思い出せない。誰かに尋ねたような、或いは何か恩義を感じたような。
「七月くらいの話だったか。ある新人の審神者の部隊が出陣した際に、想定外の被害が出て敗北したから、代わりに俺の部隊を出せと政府の人間から依頼されたことがあった」
彼の話を聞き、藤の頭の中で急速に数ヶ月の出陣が思い返される。
髭切が顕現した直後、彼の初陣のときの話だ。思いがけない数の敵に押され、歌仙達が傷だらけになって帰ってきてすぐ、藤は追撃のための要請を政府に出していた。
その際、やり取りをしていた係の者の背後で「相模国の本丸にいる彼を叩き起こしてこい!」という言葉が聞こえてきた覚えがある。夜なのに申し訳ないと思ったので、その言葉だけ妙に記憶に残っていたのだ。
「出陣自体は滞りなく済んだんだが……その新人の審神者の本丸がどうなったのか、敗北したというのはどういうことなのか、まるで教えてもらえなかったんだ」
何事もなかったようで良かった、と再度彼は安堵の息を吐く。
手伝ったはいいが、敗北というのがもし本丸の壊滅を指していたのなら。或いは、刀剣男士たちが致命的な傷を負っていたのならと、気が気では無かったようだ。たしかに何も情報を貰えなかったのならば、気にして当然だろうと藤も思う。
「問い合わせてもそっちの管轄の奴は、別の管轄の審神者に教えることはないの一点張りでな」
「あ、それは僕も……こんのすけさんに、助けてくれた人にお礼を言いたいから教えて欲しいって頼んでも、その……会わない方がいいとかなんとか」
まさか、悪い噂がついている異端の審神者と言われていました、と馬鹿正直に伝えるわけにもいかず、藤は適当に言葉を濁す。
改めて彼の様子を見ても、あの狐が言うように悪い人には見えない。寧ろ、見ず知らずの赤の他人を気遣う良い人だと感じるほどだ。
「審神者同士でいざこざが起きると、なまじっか刀剣男士は審神者を慕う者である故に、騒動が大きくなりやすい。最近は俺たち審神者のサポートをしている政府側も、一枚板じゃないと聞くからな」
「ともあれ、藤殿が無事で何よりだったということだ。出陣した俺たちも、実際少し気になっていた。その新人の刀剣男士たちは、何事もなく主の元に戻れたのだろうかと」
「そ、それは……なんというか、すみません」
藤が肩を縮めてぺこりと頭を下げると、「謝ることではない」と三日月に頭を撫でられた。立ち居振る舞いと違わぬ、ゆったりとした穏やかな手つきだ。仄かにいい香りがするのは、何か香の類でもつけているからだろうか。
「あれから皆戻ってきて、手入れも無事に終わらせて……それからはゆっくり過ごさせてもらったので、今は何ともないです。皆も元気です。心配してくださって、ありがとうございます」
「ああ、それは何よりだ。それと、改めて今日はよろしく」
すっと差し伸べられた手は、歌仙たちに比べて節が硬くなっていない白い手だった。普段刀を握ることのない人なのだろうと、藤は改めて人と刀剣男士たちの違いを実感する。
特に躊躇もせず、彼女は彼の手をとろうとした。だが、ふと、藤は自分の直感が再びざわめいていると気がつく。虫の知らせとでも言うのだろうか。言葉にできない嫌な感じが、目の前の煉という青年から伝わってきたのだ。
たとえるなら、黄昏時に見つけてしまった人気のない路地裏。或いは、月明かりの届かない夜の廊下の片隅。そんな思わず避けてしまいたくなるような黒い気配が、彼の側に纏わり付いているように思えた。
とはいえ、訳の分からない直感で相手の挨拶を無視していい理由にはならない。藤は一瞬の逡巡を打ち破って、彼の手をとり握手した。
「三日月。開始の合図は任せて良いか」
「あいわかった。主たちはそこで、ゆっくり茶でも飲んでいるといい」
「生憎だが、ここに茶はないぞ」
「はっはっは。そうだったな」
まるで老人と孫のようなやり取りをした後、三日月は競技場たる広場に向き直る。
片側には歌仙率いる藤の部隊が並んでいた。その中の一人、物吉が藤に気がついたらしくひらひらと手を振る。彼を応援するように手を振り返すと、どこか嬉しそうな気配が遠くからでも伝わってきた。
ちらりと横を見ると、試合相手の煉も自分の部隊にじっと視線を送っている。主がそこにいるということが、何よりも彼らにとって奮起する理由になると、彼もまた知っているようだった。
三日月が広場に近づくのを目にして、双方に流れていた空気が一気に引き締まる。
「此方、藤の刀剣男士、部隊長歌仙兼定率いる西軍」
ゆるりと三日月の片手が広げられる。
煉と試合をすると決めたときに藤が彼に渡した物――出陣する者たちを載せた紙を、三日月は片目で確認して、名を読み上げる。
「歌仙兼定、五虎退、物吉貞宗、髭切、次郎太刀」
紙をしまった三日月は、続けてもう片方の手を広げる。
「彼方、煉の刀剣男士、部隊長大和守安定率いる東軍」
こちらについては、わざわざ確認するまでも無い。自分と共に肩を並べるはずだった者たちの名を、三日月は厳かに読み上げる。
「大和守安定、薬研藤四郎、信濃藤四郎、一期一振、石切丸」
まるで相撲の行司の如く伸びやかな声が響く。
東西に分かたれた軍を抱えるように、ゆるりと両腕を広げた彼は高らかに宣言する。
「いざ、尋常に――勝負!!」
彼らの言い分としては、審神者は本丸に籠もって指揮をとることになるから、外出する頻度も下がって必然的に人との出会いが減るというわけだ。
たしかに、本丸という一種の閉鎖的な空間に住まうことが多い審神者は、刀剣男士たち以外との人間と交流する機会は少なくなる。だから「人」との交流が減るという言葉に、間違いはない。
しかし、この定説には二つの反論があると、審神者になって半年近くが過ぎた藤は思う。
「主、本当にこの方が演練の相手なんだろうね」
「そのはずなんだけど……」
一つは、刀剣男士はただの物ではないということだ。彼らには口もあるし手も足もある。考える思考能力も十分すぎるほど兼ね備えているし、思考した結果を行動に移す行動力もある。そこまでできるなら、それはもはや人と変わらないだろう。
そしてもう一つ。
「五振りしかいないとは聞いてなかったよ。悪いが一振りに待ってもらうなんてのは、流石にちょっとなぁ」
かけられた言葉を前に、彼女は渋面を作らないように必死に堪えていた。
今、藤は演練のために、とある施設にきていた。
三人しかいなかった以前と異なり、今回は五人の刀剣男士と共にだ。今回は対戦相手も見つかるだろうと、事前に打診も行い、手続きも主催の部署で行ってくれた。対戦相手の人相と目印代わりにつける札も確認して、準備万端と乗り込んだのである。
そして待っていたのが、この言葉だ。
スーツ姿のいかにもやり手そうな年配の審神者に、このように言われて、まだ若輩者の藤はつい弱気になってしまう。だからといって後ろに控えている歌仙、それに少し離れた場所で待機している皆のためにも、引き下がるわけにはいかない。藤は覚悟を決め直して、挑みかかるように彼を見つめた。
「でも、申し込むときは五人って伝えたはずです」
「対戦相手を組み合わせる際に、何かミスったんだろう。悪いが、そういうことだから他を当たってくれないか。私もできるなら、自分の刀剣男士全員に経験を積ませたいんだ。こちらはこちらで好きにさせてもらうよ」
それ以上は話すつもりはないと言わんばかりに、彼は踵を返して人混みの中へと消えてしまった。
審神者になっても、人との交流がゼロになるわけではない。寧ろ演練においては、知らない人間と突然一対一で話す機会が増したと言えるくらいだ。故に、交流が減るなどという定説は間違っている。
半ば打ちのめされつつも、藤はどこか冷静な思考でそのような結論を出した。
「手合わせにきたのは、こちらも同じなのだけれどね。対戦相手がいなくなってしまったら、こちらの経験が積まれないことについては、考えが至らないのだろうか。五振りしかいない事情を知っていて、そのことを考慮できないとは。想像力の足りない審神者だね」
ほとんど見えなくなっている男性の背中に、歌仙の痛烈な嫌味が投げつけられる。言葉通りの意味もあるが、それよりも側に居る主を蔑ろにされたことへの怒りが、そこに強く含まれていた。
歌仙の言う通り、六振り全員が揃っている相手の男性と異なり、藤は五振りである。そのハンデがあるため、偶発的に相手を誘う場合、どうしてもハードルが高くなってしまうのだ。
「仕方ないよ。向こうも向こうで都合があるようだから。とりあえず、皆に報告しにいこう」
肩を竦めて、藤は演練会場の入り口兼先ほどのような試合相手との待ち合わせ場所でもある、ホールの片隅に移動する。その場所はちょっとした休憩スペースになっており、主が対戦相手を見つける間の暇を潰す刀剣男士たちで、ごった返していた。
待っていた四人は、戻ってきた主を笑顔で出迎えてくれたが、事情を説明すると全員の顔が揃って苦々しいものに変わる。
「僕たちじゃ、試合相手にならないってこと? 本当にそうなのか、一戦試してこようか」
「髭切さん、流石にそれは私闘になってしまいますので」
「冗談だよ」
制止した物吉にはそう言ったものの、髭切の手は腰に吊られた太刀に添えられていた。彼なりに思う所があるというのが、ありありとその所作に表れている。
「で、でも、それなら僕たち、今日は……戦えないんですか?」
「約束をしてた相手に反故にされたのなら、今から探すってのはちっと難しいんじゃないかい。主、そこんところはどうなんだい?」
「ええと……」
不安げな五虎退に続いて次郎にまで問われ、藤は隠しきれない当惑を滲ませながら、辺りを見渡した。ホールの中は既に空白が目立ってきており、審神者たちが刀剣男士らを連れて、三々五々演練のための会場に散っていったことを示している。
それに比例して、彼女の焦りも増していく。
自分の刀剣男士たちをがっかりさせたくない。かといって、先ほどの審神者を見つけて、食ってかかる気にもなれない。
考えれば考えるほど、息が苦しくなるほどの焦りが生まれていく。上手くできなかった現実への申し訳なさで逃げ出したくなるが、それでも消せない使命感が彼女の足を縫い付けてしまい、その場から去ることを許さない。
(このまま見学だけして帰る? でも、そうしたら皆のやる気が無駄になってしまう。大会に来て試合だけ見て帰るなんて、そんなの悔しいだろうし。だからといって、誰か別の審神者を見つけて交渉するなんて、また断られたらどうしよう)
焦る頭は、ぐるぐると思考を空回りさせるだけで、結論など到底出るわけもなかった。彼女が時間だけを、徒に消費していると、
「お、きみたち! 久しぶりに会ったな」
軽快な声が不意に藤たちにかけられて、彼らは揃ってそちらに視線をやった。
ホールの中でもひときわ目立つ、真っ白の髪。髪に負けないほどの純白の羽織を纏い、金の瞳を持った青年が、片手に着物姿の少女を抱えて立っていた。その少女の顔を見て、藤は夏祭りの記憶を思い出す。
彼女を抱いているのは、鶴丸国永という刀剣男士だということも、藤たちは覚えていた。迷子になってしまった主を探すために起きた一騒動については、そう簡単に忘れられるものではない。
「こんにちは、鶴丸さん。それに更紗ちゃんも。君も来てたんだ」
挨拶をすると、今日はメモを持っていないらしく、彼女は無言でこくりと頷いた。相変わらずにこりともしないが、彼女の目はどことなく、嬉しさを帯びているように見える。
「主がきみ達を見かけて、挨拶をしたいと言うんでな。あの日は、連絡先も渡せずに別れてしまっただろう?」
「そうだったね」
忘れないうちにと思ったのか、鶴丸の腕に抱かれている更紗が、手に握った端末を藤に見せる。
彼女が、端末同士で連絡先を交換しようと言いたいのだと察した藤は、すぐに懐から自分のものを取り出して向け合った。数秒の通信が行われた後、画面の通知が無事に登録が完了したと教えてくれた。
「ありがとう。連絡先が分からないかって政府の人に頼んでも、知る必要はないって突っ返されて気になっていたんだ」
「そうか? まあ、うちは政府の連中とはあまり仲良くないからな」
「そうなの?」
藤が問いかけても、鶴丸は意味ありげに笑って、それ以上答えることはなかった。彼に抱かれている更紗も、相変わらずの鉄面皮で藤を見つめるばかりである。
「……主。折角だから、演練について打診してみては?」
「あ、そうか」
彼らの会話を隣で聞いていた歌仙が、そっと藤に耳打ちする。彼の提案を受けて、藤の中で一縷の希望が芽生えた。少なくとも、見知らぬ人に頼むよりは、彼らに声をかける方が遙かに気楽だ。
「あの、もし演練相手が見つかってないなら」
「あれ。もしかして藤さん? 久しぶりだね!」
中途半端に口に出した誘いは、今度は別の声によって遮られる。誰かと思い振り向くまでもなく、彼女は思わず体を強張らせた。
夏祭りで、その場から逃げ出した原因。ただ、刀剣男士と親しげに――恋仲のように話していたというだけで、胸が苦しくなった。あの瞬間の感情が、今でも鮮やかに思い出されてしまう。
だが、今はそんなことを考えるべきではない。心を切り替えて、藤は改めて彼女に向き直る。
彼女と初めて会ったのは、髭切が顕現する前。歌仙と共に太刀の刀剣男士を見に行ったときだ。たしか名は、スミレと言ったか。
こざっぱりとした飾り気の無い服装の彼女は、躊躇うことなく、いそいそと藤の元に駆け寄ってきた。隣には、夏祭りの際と変わることなく、加州清光が立っている。
「おいおい、きみたち知り合いだったのか?」
「そう、ですけど……鶴丸さんたちも知り合いなの?」
「さっき知り合ったばかりだけどな。今日の対戦相手だ」
鶴丸は、強気な笑みを加州とスミレに向けてみせる。更紗も端末を持った手をぶんぶんと振って、自分の交戦意欲を意気揚々と示していた。負けじと加州も猫のような紅の鋭い目つきで、鶴丸をにらみ返す。まさに一触即発といったところだ。
だが、士気を上げている二人とは対照的に、藤は内心で落胆をしていた。まさかスミレに対戦相手の座を譲ってほしいと、頼むわけにもいかない。更紗に対しても同様だ。
「そうだ、藤さん。連絡先、教えてなかったよね。もしよかったら、いいかな?」
更紗の持つ端末を目にして気がついたのか、スミレからも声がかけられる。彼女の勢いに流されるように、藤は彼女とも端末で互いの連絡先を交換し合った。
嬉しそうに微笑むスミレは、そっと藤に近づき、周りに聞こえないように声を潜ませ、
「藤さんの周り、優しそうな人たちでいっぱいだね。よかった。この前会ったときは、刀剣男士との関係で悩んでたみたいだから。ちょっと心配してたんだ」
はっとしてスミレの方を見つめると、その名の通り深い紫の瞳を細ませて、彼女はにっこりと笑いかけていた。審神者の先輩というよりは、気さくな姉のような彼女の姿に、藤はぽっと心に電気が灯ったような暖かさを覚える。
けれども、内側に生まれた暖かさは、申し訳なさと表裏一体だった。何せ、夏祭りの際に彼女の姿を目にした自分は、脱兎の如く逃げ出してしまったのだから。
「藤さん、あの更紗って女の子とは知り合いなの?」
再びひそひそ声で話しかけられ、藤はこくりと頷く。すると、今度は何やら困ったような顔で、スミレは更に声を絞って会話を続ける。
「私、あの子のこと怒らせちゃったかもなんだよね。会ったときからずっとむすっとした顔で……藤さん、何か思い当たることある?」
「えっ、いや、僕は特には」
「そうだよねー。仕方ない、あとで理由聞いて、謝ろう」
皆を待たせてるからもう行くね、と言葉を残してスミレはてきぱきと外の会場に向かって、歩き出した。
今日の試合は、全て屋外で行われている。謂わば広い公園に適当な区切りをつけて、その範囲内で試合をするものだとは、藤も聞いていた。
足早に走り去るスミレの言葉を思い出し、藤は改めて更紗を見つめる。彼女はスミレの言う通り、まるで仮面でもつけているのではないかと思うほどの、無表情を貫いていた。
(更紗ちゃんは、表情を変えはしないけど……でも、怒ったりはしてないって感じるんだよね。お話してくれるし)
スミレに声をかけるよりも先に、彼女が去ってしまったので、誤解を解くことは叶いそうにもなかった。
「それじゃあ、俺たちもこの辺りで失礼する。またな……ん、きみ、どうしたんだ」
別れの挨拶を告げかけていた鶴丸を引き留めるように、更紗はぐいぐいと彼の真っ白な羽織を引っ張る。
次いで、何か言いたげに藤を見つめたあと、鶴丸の手をとって彼の掌に何事か書き始めた。言葉と文字を交わす二人を暫く見守っていると、鶴丸はやおら顔を上げて、
「藤殿。きみ、大丈夫かって主が訊いてるぞ」
突然そのようなことを言われて、藤は目を丸くする。更紗の方を見ても、彼女の瞳がじっとこちらを見つめていること以外は、なにも分からない。
大丈夫かというのは、きっと対戦相手のいない不安を見抜かれての問いなのだろう。そうはいっても、幼い彼女に何かしてもらうわけにもいかない。
すぐさま、彼女は馴染みの笑顔を顔に浮かべて、彼女を安心させる言葉を並べる。
「大丈夫だよ。今日はお腹も空いてないし、迷子にもなってないもの。更紗ちゃん、演練頑張ってね」
「…………」
「おっと、主。そろそろ行かないと、演練の時間が無くなってしまうぞ。じゃあ、また」
何やらまだ、じっと藤を見つめている更紗を急かすように、鶴丸は口早に別れの挨拶を告げる。まるで白いつむじ風のように彼らは去っていき、残されたのは対戦相手がいないという問題を抱えたままの一行だった。
「主様。あのお二方の試合を見せてもらうというのは、いかがでしょうか」
途方に暮れている主の様子に気がついた物吉が、彼なりの提案を口にする。
彼が代案を出してくれてよかったと、藤は内心で胸をなで下ろした。自分から言い出すのは、やはりどうしても躊躇われてしまったのだ。
「じゃあ、二人にそのことを伝えないと……手続きとかもいるのかな。ちょっと聞いてくるよ」
受付を探そうと、藤は再度ぐるりとホールを見渡す。来た時はすでに審神者と刀剣男士でいっぱいだったが、今はほとんど誰もいないと言って久しい。
だからこそ、藤はそれを見つけることができた。
ちょうどホールの中でも目に入りづらい、大きな観葉植物の陰。そこには一塊になっている刀剣男士たちと、主らしき武装していない男性がいた。
彼らの周囲を漂う空気は、一目見ても明るいとは言えない。ふってわいた災難に苦慮しているような、困惑に取り巻かれている様子がありありと伝わってくる。
さながら、今の自分たちのように。
「ちょっと待ってて」
後ろに控える自分の刀剣男士たちに一言残してから、藤は小走りで彼らの方に向かう。
気配に気がついたのだろう。あちらの刀剣男士たちも、揃って顔を上げて、やってくる藤を見つめている。彼らにつられるようにして、審神者と思しき男性もこちらの接近を察したようだ。
見慣れない男性たちの視線に晒されて、気圧されそうにながらも、彼女は心を叱咤しながら彼らのもとに辿り着き、
「すみません。あの、もしよかったら演練の相手に」
「すまない。もし、相手がいないなら試合を申し込んでも」
二人同時に口を開き、その言葉の意味を知った彼らは揃って、安心したような笑顔を浮かべたのだった。
「お互い災難だったなあ。五振りだったら相手しないなんて言われるとは」
隣を歩く少年に不意に声をかけられて、歌仙はそちらに目をやる。
見た目は主よりも年若いように見えるのにも関わらず、地に根を張ったようなしっかりとした声の持ち主だ。藤が試合を申し込んだ審神者の刀剣男士らしい少年は、軽く片眉をあげてからニッと人なつこい笑みを見せる。
「そちらこそ、会った瞬間に、相手に試合をしたくないと言われたと聞いているよ。因縁をつけられたと、管理者に伝えた方が良いのではないかな」
「大将は気にしてないから、いいってよ。ま、うちの大将はそういうことがよくあるんだ」
からからと声をあげて笑い、その紫水晶のような瞳を彼は細めた。炭のように黒い髪の下で彼の瞳の色はよく映える。
けれども、秀麗な色合いの双眸とは異なり、漂う空気は戦に赴くもののふそのものだ。背格好からして、恐らくは短刀であるのだろうが、五虎退とは纏う風格というものがまるで違う。
「僕たちに合わせて、五振りで試合をしてくれると言っていたね。誰が抜けるつもりなのか、訊いてもいいだろうか」
「ああ。うちの部隊長曰く、今回は三日月のじいさんが欠席になるそうだ」
少年が黒い手袋に包まれた手で、前を歩く刀剣男士らのうちの一人を指す。
三日月という名らしい古風な青い装束を纏った男性は、装いだけを見るならば、確かに荒事よりものんびりと縁側で歌でも詠んでいる方が似合いそうに見えた。だが、腰に吊った太刀からは、少年同様並々ならぬ気迫を感じる。恐らくは彼も只者では無いのだろう。
歌仙が口にした通り、藤と同じく対戦相手に突然の辞退を突きつけられた彼らも、また途方に暮れていたところだったという。丁度利害が一致していたのだから、この二人で試合をしようという考えに至るのに、そう長い時間はかからなかった。
「三日月という刀剣男士には悪いことをしたね。部隊長の僕から、後からお礼を言っておこう」
「そんな気にするこたぁない。三日月のじいさんは、戦うよりはのんびりしてる方が性に合ってるみたいだからな。むしろ喜んでるんじゃないか?」
それならいいのだが、と思いつつ歌仙は先頭を歩く審神者の男性、そしてその隣にいる主に目をやる。
彼らは何やら地図のようなものを、端末から立体映像として浮かべていた。演練のための会場までの先導は、主の仕事ということで、今先頭に立っているのは彼らだった。
慣れない他人との立ち回りで、神経をすり減らしてはいないといいがと考え、歌仙は少し主と距離を詰めようと足を速めた。
そんな歌仙の心慮などつゆとも知らず、藤は受付でもらった地図のデータを確認しつつ、同じような風景が続く会場を歩き回っていた。
当初予定されていた時間よりも、遅れて始めることになったためか、入り口近くに広がっていた整備された競技場のような場所は貸してもらえなかった。代わりに指定されたのは、入り口から大分離れた場所だった。
十一月は初頭といえど、通り過ぎる風は冷たい。外出用に用意した飾り気の無い粗末なコートの前を改めて閉じ直し、彼女は辺りを見渡す。
「えっと、僕らは十七番の競技場を借りていいって言われたから……」
今回は参加者が多いからか、さながら球技大会でもするかのように、競技場を特定の区画ごとに仕切っているとのことだった。藤が口にしたのは、その区画の一つだ。
試合の内容は、必然的に狭い所での乱戦になるだろう。場所が準備できないなら、場所に合わせた状況を想定した戦いをすればいいということらしい。
「あ、この辺りですね」
顔を上げ、藤が示した方向には目印となるかのように、注連縄が巻かれた石が重々しく鎮座していた。即席に用意されたらしい十七と書かれた立て札にも、同じように注連縄が巻きつけられている。
視界がひらけたところでの演練を想定しているためか、注連縄の向こうに広がっている広場には、障害物になるような木や岩の類はほとんどない。辛うじて目に入るのは、邪魔にならないように広場の片隅に置かれた祠だ。何か由緒でもあるのか、こちらも注連縄で周囲を囲っているのが見える。
(…………あれ)
不意に、どくりと体の奥で心臓が大きく跳ねたような気がした。
冷や汗が一筋、背を滑り落ちていく。藤は思わず、自分の胸を分厚いコートごしにぎゅっと握りしめた。
(だめだ、ここに入っちゃ)
この先に足を踏み入れることを、自分は許されていない。藤は直感で、そのような気配を感じ取った。
夏祭りで鳥居を見たときと同じだ。自分が入ってはいけない場所があり、そこに入れば悪いことが起きる。そのような不安が、不意に彼女の心を埋めていく。
どうしてそんな風に思うのか、理由もはっきりとは分からないというのに。
足が震え、けれども躊躇をしている場合ではないという正論が懸念をどうにか拭い去る。唾をごくりと呑んで、えいと一歩前に進もうとして、
「申し訳ないんだが」
ここに来るまで、大して言葉を交わしてもいなかった対戦相手の男性が、不意に口を開いた。慌ててそちらを向くと、どういうわけか彼の顔もどこか青いように見える。
急に気分が悪くなったのだろうか。藤が心配そうに彼を見つめていると、
「こっちじゃなくて、あっちの広場でもいいか?」
彼が指し示した先には、一行が前にしている場所とは異なり、注連縄はおろか手入れをされているかも怪しい空間があった。
場所が足りなかったら、試合会場として使うこともあるのかもしれないが、今は枯れた草があちこち伸び放題になっている。中途半端に伸びた立木が四方八方に枝を伸ばし、ところどころには大きな岩も見えた。注連縄だけでなく、祠のようなものも、ここにはないようだ。
「僕は構いません。でも、どうしてですか」
先ほどの違和感を覚えたのは自分だけでは無いのだろうか。奇妙な連帯感に安堵し、藤はそれとなく原因を隣の審神者に尋ねてみる。
「あまり……仰々しいのは好きじゃないんだ」
彼は簡潔にそれだけ言うと、自身の刀剣男士を引き連れて、先んじて隣の荒れた広場へと踏み入っていく。
答えになっていない答えに、思わず拍子抜けしていると、彼女の肩をとんと叩く者がいた。振り返れば見慣れたすみれ色の髪の青年――歌仙がこちらを見下ろしている。
「主、僕らも行こう。多少整備されていなかったとしても、彼らに後れを取るつもりはない。安心するといいよ」
「そうさ。むしろ整備なんてされていないことの方が、戦場じゃ多いくらいだからね!」
歌仙を追い越すように、次郎が見た目に違わぬ大股でのっしのっしと通り過ぎていく。厚底の草履を履いているため、一番足下が不安定なはずなのに、躓きそうな素振りなどまるで見せていない。
それ以上もたもたするわけにもいかず、藤は小走りで即席の会場へと足を向けた。
元々は、ここも演練をするための広場だったのだろう。だが、使われなくなって随分と経っているようだ。長らく整備されずに放置された結果、当然足下はよいとは言えない。伸び放題になった雑草が、冬の寒さで立ち枯れていた。
「君が部隊長でいいんだよね。演練のルールはどうする?」
試合の場の吟味を行っていた歌仙は、背後から声をかけられて頭を巡らした。
彼の背後には、ふわふわした黒い髪を一つに結い上げ、秋の空よりなお澄んだ青の瞳を持った青年が立っていた。年の頃は主と同じくらいに見える。どこか幼い風貌のために、寧ろ彼女より子供のようだと感じる部分もあった。
けれども段駄羅模様の浅葱羽織からは、ちらりと刀の柄が覗いている。彼もまた、刀剣男士ということだろう。
「僕は五対五の混戦を想定していたよ。こういう少しばかり開けた場は、時間遡行軍も部隊間でのやり取りに使うことが多い。そこを突くとき、僕たちは必然的に乱戦を強いられるからね」
「僕も同じ意見。それに一対一の手合わせなら、本丸でもやってるからさ」
人なつこい笑みを見せて、少年は同意する。
「僕は大和守安定。今日の部隊の部隊長を務めている。君は?」
「僕は歌仙兼定。同じく、第一部隊の部隊長さ。今日はよろしく頼むよ」
「うん。よろしくね」
差し伸べられた安定の手を、歌仙は迷いなくとる。
顔立ちこそ、あどけなさが残っているようには見えるが、彼の手は想像通りしっかりとした男らしさを感じさせるものだった。
握手を交わした後は、もうお互いに敵同士だ。二人は迷うことなく距離を置き、踵を返して自陣に戻る。歌仙を出迎えたのは同じ本丸の仲間達だった。
「歌仙さん。僕たちは、どうすればいいですか?」
「五虎退は偵察にまわってくれ。初動の様子を確認して、敵の狙いを把握したい。物吉は僕の支援を頼むよ。次郎と髭切は逸って前に出すぎないように」
「わかりました。僕、頑張りますっ」
五虎退は士気を高めるように、ぎゅっと胸の前で拳を握る。いつもは白さが目立つ頬も、今ばかりは仄かに朱に染まっていた。
「アタシたち、もしかして手綱のついていない猪とでも思われてるのかい?」
「それは心外だよねえ。僕たちも、ちゃんと部隊長の言うことは聞くよ」
「君たちが暴れると抑えが効かなくなるだろう。念には念を入れているだけだよ」
指示というよりは単なる注意を投げかけられた二人は、揃って唇を尖らせて不平を漏らす。とはいえ、本気ではないと分かっているからこその軽口の応酬だ。謂わば、試合前に肩の力を抜くための、息抜きのようなものである。
「主様にボク達全員が参加する手合わせを見て貰うのって、初めてですよね。なんだかわくわくします!」
物吉が嬉しさを隠せずに軽くその場で跳ねると、広場の側にあったベンチに腰掛けている主に向けて、ひらひらと手を振ってみせた。彼女も気がついたのか、物吉に向けて手を振り返している。
主が見ている。その思いをよりしっかりと心に届いたのだろう。一転、彼の顔は引き締まったものに変わった。
「主に無様な姿を見せるわけにはいかないからね。さて、相手の準備もそろそろできただろうか」
ばさりと外套を翻し、歌仙は反対側にいる安定を睨み付けた。
負けるものか。
そんな言葉が互いから聞こえるかのように、緊迫した空気が膨れ上がっていく。
試合が始まる十分ほど前。落ち葉が積もったベンチから藤が枯れ葉を退けていると、対戦相手の審神者の側に控えていた刀剣男士が徐に彼女に近づいてきた。
「そちらの部隊長は歌仙兼定か?」
「えっ、ええと、はい。そうですが……」
背丈は藤より一回りは高く、髭切と同じくらいだろうか。けれども、装いは彼とは真逆で昔の貴族を思わせる古風な青い装束を纏っていた。
衣に負けぬくらい、彼の髪もまた夜の海のような深い青に染まっている。装束の正面には黄色で染め抜かれた三日月が、ゆるりと逆さまに弧を描いていた。顔立ちは他の刀剣男士同様、眉目秀麗という一言で表せるほど大層美しいものだった。
「俺たちの今日の部隊長は大和守安定といってな。あの、浅葱色の羽織を纏っている者だ」
「ああ、彼なんですね。彼も、歌仙みたいに最初の刀なんですか?」
「いいや。主の最初の刀は、あいつの古い親友でな。大和守は、ずっとその補佐をしていた。今まで部隊長を務めたことを気にしていたようだから、今日は任せてみてはと俺が主に言ったのだ」
ことの経緯を説明されて、藤は軽く相槌を打つ。
五人しか顕現していない藤の本丸では、歌仙以外の者が部隊長を務めたことがない。彼が最初に顕現した刀剣男士なのだから、彼に任せるのが筋だろうと思って、他の者に任せるという案すら思いついていなかったのだ。
そういうことも考えた方がいいのか、と口元に手を当てて改めて自身の刀剣男士たちに思いを馳せていると、
「おい、三日月。挨拶もなしにいきなり話しかけるのはよせ。困っているだろう」
枯れ葉を退け終わった藤の試合相手である審神者が、三日月を窘めるように声をかけた。どうやら藤が考え込んでいる様子を、見知らぬ相手に話題を振られて困惑しているからだと勘違いしたらしい。
「それもそうだったな。すまんすまん。改めて、俺は三日月宗近という。今日は話し相手としてだが、よろしく頼む」
ばさりと装束の片袖を外側に広げ、もう片方の手を胸に当てて三日月は優雅に一礼する。その所作もまた、見目に負けず劣らず洗練されたものだった。
「よろしくお願いします。僕の審神者としての名前は、藤っていいます」
ぺこりと頭を下げてから、今度は彼が挨拶するのだろうと、目の前の審神者の男性を見つめ直した。
癖の多い紫紺の髪をゆるく一つに結い、さっぱりとした色の袴姿の彼は、三日月のように人目を引く美しさを持っているわけでは無いが、独特の落ち着いた空気を漂わせていた。
とはいっても、彼の面差しもどこか刀剣男士に似て、少しばかり浮き世離れしているようにも見える。だからだろう、見目麗しいものばかりの刀剣男士の中に混ざっていても、埋もれてしまうようなことがない。
こういう人が審神者らしい審神者というのだろうか、と藤は思い――いつまで経っても、挨拶が返ってこないことに気がついた。
三日月も、主を急かすように審神者の肩をちょんちょんとつつく。
「主、何か気になることでも?」
「藤、といったか。審神者になったのは最近か?」
「はい。そうですが……」
何か無作法でもしてしまったかと、藤が胸の内で冷や汗をかいていると、彼はふぅーと長く息を吐き出してから、
「……良かった、無事だったんだな」
「え、どういうことですか?」
会った覚えのない相手にいきなり安否を心配されて、藤は目を白黒させる。三日月の方を見ても、彼も事態を見守るようににこにこしているばかりで、ちっとも助け船を出そうとしない。
「先に自己紹介をしよう。相模国で審神者をしている、煉というものだ。聞いての通り審神者としての名だから、好きなように呼んでくれて構わない」
「相模……」
どこかでその単語を耳にしたような気がする。けれども、どこでだったのかは思い出せない。誰かに尋ねたような、或いは何か恩義を感じたような。
「七月くらいの話だったか。ある新人の審神者の部隊が出陣した際に、想定外の被害が出て敗北したから、代わりに俺の部隊を出せと政府の人間から依頼されたことがあった」
彼の話を聞き、藤の頭の中で急速に数ヶ月の出陣が思い返される。
髭切が顕現した直後、彼の初陣のときの話だ。思いがけない数の敵に押され、歌仙達が傷だらけになって帰ってきてすぐ、藤は追撃のための要請を政府に出していた。
その際、やり取りをしていた係の者の背後で「相模国の本丸にいる彼を叩き起こしてこい!」という言葉が聞こえてきた覚えがある。夜なのに申し訳ないと思ったので、その言葉だけ妙に記憶に残っていたのだ。
「出陣自体は滞りなく済んだんだが……その新人の審神者の本丸がどうなったのか、敗北したというのはどういうことなのか、まるで教えてもらえなかったんだ」
何事もなかったようで良かった、と再度彼は安堵の息を吐く。
手伝ったはいいが、敗北というのがもし本丸の壊滅を指していたのなら。或いは、刀剣男士たちが致命的な傷を負っていたのならと、気が気では無かったようだ。たしかに何も情報を貰えなかったのならば、気にして当然だろうと藤も思う。
「問い合わせてもそっちの管轄の奴は、別の管轄の審神者に教えることはないの一点張りでな」
「あ、それは僕も……こんのすけさんに、助けてくれた人にお礼を言いたいから教えて欲しいって頼んでも、その……会わない方がいいとかなんとか」
まさか、悪い噂がついている異端の審神者と言われていました、と馬鹿正直に伝えるわけにもいかず、藤は適当に言葉を濁す。
改めて彼の様子を見ても、あの狐が言うように悪い人には見えない。寧ろ、見ず知らずの赤の他人を気遣う良い人だと感じるほどだ。
「審神者同士でいざこざが起きると、なまじっか刀剣男士は審神者を慕う者である故に、騒動が大きくなりやすい。最近は俺たち審神者のサポートをしている政府側も、一枚板じゃないと聞くからな」
「ともあれ、藤殿が無事で何よりだったということだ。出陣した俺たちも、実際少し気になっていた。その新人の刀剣男士たちは、何事もなく主の元に戻れたのだろうかと」
「そ、それは……なんというか、すみません」
藤が肩を縮めてぺこりと頭を下げると、「謝ることではない」と三日月に頭を撫でられた。立ち居振る舞いと違わぬ、ゆったりとした穏やかな手つきだ。仄かにいい香りがするのは、何か香の類でもつけているからだろうか。
「あれから皆戻ってきて、手入れも無事に終わらせて……それからはゆっくり過ごさせてもらったので、今は何ともないです。皆も元気です。心配してくださって、ありがとうございます」
「ああ、それは何よりだ。それと、改めて今日はよろしく」
すっと差し伸べられた手は、歌仙たちに比べて節が硬くなっていない白い手だった。普段刀を握ることのない人なのだろうと、藤は改めて人と刀剣男士たちの違いを実感する。
特に躊躇もせず、彼女は彼の手をとろうとした。だが、ふと、藤は自分の直感が再びざわめいていると気がつく。虫の知らせとでも言うのだろうか。言葉にできない嫌な感じが、目の前の煉という青年から伝わってきたのだ。
たとえるなら、黄昏時に見つけてしまった人気のない路地裏。或いは、月明かりの届かない夜の廊下の片隅。そんな思わず避けてしまいたくなるような黒い気配が、彼の側に纏わり付いているように思えた。
とはいえ、訳の分からない直感で相手の挨拶を無視していい理由にはならない。藤は一瞬の逡巡を打ち破って、彼の手をとり握手した。
「三日月。開始の合図は任せて良いか」
「あいわかった。主たちはそこで、ゆっくり茶でも飲んでいるといい」
「生憎だが、ここに茶はないぞ」
「はっはっは。そうだったな」
まるで老人と孫のようなやり取りをした後、三日月は競技場たる広場に向き直る。
片側には歌仙率いる藤の部隊が並んでいた。その中の一人、物吉が藤に気がついたらしくひらひらと手を振る。彼を応援するように手を振り返すと、どこか嬉しそうな気配が遠くからでも伝わってきた。
ちらりと横を見ると、試合相手の煉も自分の部隊にじっと視線を送っている。主がそこにいるということが、何よりも彼らにとって奮起する理由になると、彼もまた知っているようだった。
三日月が広場に近づくのを目にして、双方に流れていた空気が一気に引き締まる。
「此方、藤の刀剣男士、部隊長歌仙兼定率いる西軍」
ゆるりと三日月の片手が広げられる。
煉と試合をすると決めたときに藤が彼に渡した物――出陣する者たちを載せた紙を、三日月は片目で確認して、名を読み上げる。
「歌仙兼定、五虎退、物吉貞宗、髭切、次郎太刀」
紙をしまった三日月は、続けてもう片方の手を広げる。
「彼方、煉の刀剣男士、部隊長大和守安定率いる東軍」
こちらについては、わざわざ確認するまでも無い。自分と共に肩を並べるはずだった者たちの名を、三日月は厳かに読み上げる。
「大和守安定、薬研藤四郎、信濃藤四郎、一期一振、石切丸」
まるで相撲の行司の如く伸びやかな声が響く。
東西に分かたれた軍を抱えるように、ゆるりと両腕を広げた彼は高らかに宣言する。
「いざ、尋常に――勝負!!」