本編第一部(完結済み)

 ゆらりゆらりと、自分が揺れている。
 不規則な振動に、ほのかに伝わる温もり。誰かに背負われでもしているのだろうか。うっすらと瞳を開けば、予想に違わず背中らしきものが、大写しになる。
 心地よくて、暖かい。安心できる背中だ。このまま身を委ねて、もう一度眠ってしまいたくなるほどに。
 今日は、とても疲れた。それがどうしてかは思い出せないが、何か色々なことをしていたからだというのは分かる。指先の一つ一つに、鉛がついているのではないかと思うほど、体が重い。
 それに、何も考えたくないと投げやりになるほど、心も使い果たしてしまった。あれこれ悩んで、頭を抱えて、眠れない夜を過ごした。だから、今はこの毛布のような暖かさに包まれて、ずっと眠っていたい。
 けれども無情にも、ぐうぅという大きな腹の虫が、自分を起こしてしまった。瞬間、鼻が何やらとても美味しそうな料理の匂いを嗅ぎつける。今まで嗅いだこともない、素晴らしいご馳走の香りだ。

「ほら、あーちゃん。着いたわよ」

 背負っている誰かに呼びかけられて、彼女は目を覚ます。彼女――審神者としての名は藤と呼ばれていた彼女は、ゆっくりと瞳を開いて目の前に広がっているものを見つめる。
 いつのまにか、誰かの背中からは降ろされ、藤は囲炉裏のような場所の近くに座っていた。昔ながらの作りであるそこには、時代錯誤な薪で火が熾されている。
 天井から吊された鍋は、飾り気も何もない鉄鍋だ。中には、何かがぐつぐつと煮えている。部屋のつくりも素材も、さながら数百年前にタイムスリップしたような古めかしさを、帯びている。
 けれども、彼女は思う。懐かしい、と。
 この景色は自分が育ってきた場所の一つだと、藤は確信する。ここは、村の中でも一番古い建物だと、以前教えてもらったことがある場所だ。
 だからこそ、同時に今見ているものは、夢だと気がついた。優しい蛍のような光が、ちらちらとそこかしこで瞬いていて、この場所が自分を暖かく迎え入れてくれると、彼女は直感で理解する。

「ほれ、姫さん。今日は美味いもんが手に入ったぞ」

 少しばかり訛りの強い言葉で呼びかけられ、彼女は顔を上げた。
 囲炉裏のそばには、数名の老人が座っている。その中の一人が彼女に声をかけたのだ。
 けれども、彼らの顔は、鍋の中から沸き立つ湯気に覆い隠されているかのように、見えない。だからといって、恐れはない。彼らの声は優しげで、それに藤にとって聞き馴染みのあるものだったからだ。姫さんという呼び名は、懐古と愛おしさを、彼女の胸に芽生えさせていく。

「藤のとこの姫さんは、いつもお腹空いた空いた言うてたからなぁ。ほれほれ」

 皺だらけの手に招かれて、彼女は老人の元にずりずりと座ったまま近寄る。気がつけば、今の自分よりうんと幼い手が、老人に向けて伸ばされていた。

「うん、おなかすっごく空いたっ。今日は、なにをたべるの?」
「今日はな、とっておきだぞ。ほれ、食べてみい」

 痩せて皺だらけの手が渡した、罅が入った器に浮かんでいるのは、何かの肉のようだった。何の躊躇いもなく、幼い記憶に浸っていた彼女はそれに齧りつく。
 途端に口の中に広がる旨みときたら、まるで舌を痺れさせるのではないかと思うほどだった。ほっぺたが落ちてしまうというは、まさにこのことだろう。

「どうだ、美味いか?」

 嬉しそうに尋ねる老人に応える暇さえ惜しんで、彼女はもう一口二口と頬張る。どんな高級な肉だってこれには叶うまいと、満面の笑みを浮かべた。
 藤の向日葵のような笑顔に釣られて、老人たちが微笑んだのが、顔も見えないのに何故か彼女には分かった。

「おいしい! ねえ、これはなんてどうぶつのお肉なの?」
「これか? これはな、猪でも兎でもないんだぞ」
「じゃあ、しか?」

 老人はにこにこ笑ったまま、ゆっくりと首を横に振る。その眼差しは孫娘を見守る祖父のようなものだ、と藤は心の片隅で察していた。
 これが何なのかは分からないが、美味しいことには変わりない。彼女は再び、極上の甘露のような肉を口に運ぶ。
 疲れも相まってだろう。今目の前にあるこれを食べなければと、体が勝手に動く。
 さながら、自分に足りないものを補おうとでも言わんばかりに。食べねば、食べねば、食べ――。


 ***


「痛っ!!」

 大きな悲鳴が耳を劈き、彼女はハッとする。意識が急速に現実に引き戻される。
 同時に、口の中にじんわりと鉄錆と、そこから薫るぞっとするほどの何かが、彼女の舌を痺れさせた。
 薫ってきたものの正体を理解した瞬間、藤は思わずその場から飛び退りかける。が、足が思うように動かない。何かに足が挟まっているからだ。それに、体も何だか不安定だ。
 この不安定さは、誰かに背負われているからだと気がつく前に、暴れている彼女を背負っていた者が、姿勢を低くした。このままでは後ろにのけぞった藤が、背中から落ちてしまうと気がついたからだ。

「主、寝ぼけてるとはいえ、急に暴れるのはやめてくれないか。危ないだろう」

 かけられた声で我に返り、藤は自分が歌仙に背負われていたと漸く理解した。下ろされた場所は畳の上だ。灯りはつけられていないが、どうやら周りを見る限りここは自室らしい。
 藤を連れてきた歌仙は振り返り、渋面を彼女に向ける。暴れた弾みで、恐らくどこかを蹴っ飛ばしてしまったのだろう。

「どうして、歌仙が僕を?」
「縁側で眠っていたからね。あのままじゃ体を冷やしてしまうよ。次郎はまだ、その辺りのことを、よく理解していないようだったから、僕が連れてきたんだ」

 歌仙の説明を受けて、藤はようやく大体の経緯を察した。
 仮眠のおかげか、体の怠さは少しだけ抜けている。同時に、口の中に残った味が徐々にはっきりとして、僅かに残っていた眠気は雲散霧消した。

「……歌仙、その、首の後ろに血がついてた。一体どうしたの」
「どうしたもこうしたも、寝ぼけたきみが噛みついたんじゃないか」

 藤に言われて、首の後ろに手をやる歌仙。躾のなっていない子猫を見るかのように、彼は不服そうな顔をする。

「お腹が空いていたのなら、そう言えばいいだろうに。僕なんて食べても、美味しくないだろう」

 歌仙としては、突然噛まれた意趣返しも含めた、軽い冗談のつもりだった。
 しかし歌仙の言葉を聞いた途端、藤の顔はぞっとするほど真っ青になっていく。窓から差し込む月の冷え冷えとした明かりと、全く同じ色と言ってもいいぐらいだった。

「……主? 具合でも悪いのかい」

 流石に異変を感じた歌仙が問いかけるも、藤は凍り付いて動かない。目を見開き、何か恐ろしいものでも見るかのように、彼を見つめ続けていた。
 歌仙の顔は、心配から徐々に怪訝そうな表情へと変わっていく。一体どうしたのかと尋ねようとした矢先、藤の腹から気の抜けた音が響いた。

「なんだ、やっぱりお腹が空いていたんだね。夕飯はあまり食べていなかったのかい?」
「ちょっと、胃が受け付けてくれなくて。でも、お腹は空いてるみたい」
「それなら、鍋の残り物で雑炊を作ったんだ。粥は確かに胃に優しいものだよね。それを持ってこようか」
「うん、お願い」

 言葉を交わしているうちに、藤の顔にも少しずついつもの血の気が戻ってきた。
 歌仙が厨に行ってしまうのを見送り、藤は長く長くため息をつく。彼が去り際につけてくれた明かりが、部屋を煌々と照らしてくれている。けれども彼女はそれから逃げるように膝を抱えて隙間へと顔を埋めた。
 誰も入り込みようがない薄闇の中、彼女は口を開けてはあはあと荒い呼吸を繰り返す。何度も何度も、まるで食べてもいない何かを、吐き出そうとするかのように。


 ほんの十分もしない内に、歌仙は藤の元に戻ってきた。彼の持つお盆の上には、金色に輝くつやつやした米と、残った野菜や肉の欠片が混ぜ込まれた雑炊が載せられていた。どうやら卵を混ぜて作ったものらしい。

「せっかく良い出汁が出ていたのだから、作らないと勿体無いかとおもってね。味は物吉と五虎退が保障してくれている」
「二人はもう休んだの?」
「皿洗いを手伝ってくれたあとに、湯浴みをしてから床に着いたよ。髭切は、次郎に付き合って晩酌を楽しんでいるようでね。僕も後で、少し混ざろうかと思っているところだ」

 言いつつ、歌仙は文机に雑炊を乗せる。現金なもので、食べ物を見ると、藤の腹はぐうぐうと、ますます大きな音をたてて主張を始めた。
 だが、相変わらず体の方は十全とはいえない。仮眠程度では食べる気力の回復にまでは、至らなかったようだ。空腹と食欲の乖離に困惑しながらも、藤は匙を手にとる。

「いただきます」

 椅子に腰掛け、まずは一緒に運ばれてきたお茶を口に含む。一口では飽き足らず、一息に湯飲みの半分を飲み干して、藤は細く長く息を吐き出した。
 そうしないと、今も口の中に残っている鉄錆の味と、共に薫ったものが、無くなってくれないように思えたからだ。
 改めて手を合わせてから、今度こそと黄金色に光る米の中に匙を差し込む。鍋の熱さの余韻を表すかのように、ふわりと白い湯気が湧き立つ。
 数度、息を吹きかけて十分に冷ましてから、舌の上に滑り込ませると、普通のお粥とは違うコクが一気に広がる。後を追うようにやってきた、卵のまろやかな味が程よく溶け合い、喉の奥を滑り落ちていった。

「美味しいかい?」

 歌仙の問いかけに答えは無い。だが、黙々と匙を動かす姿が何よりも雄弁な回答だった。
 然程噛まずに飲み込めることもあって、夕飯のときよりも滑らかに食事が喉を通っていく。或いは仮眠の最中に見た夢が、食欲を刺激したのかもしれないが、今はそのことは考えまい。
 器の半分ほどが空になった頃、漸く藤は匙を置いて一息ついた。

「今日は色々準備をして、疲れただろう。食べたなら胃を休めてから、横になるといいよ」
「うん、その」

 歯切れの悪い返事の後、藤は歌仙をちらりと見る。彼女は彼を見つめているというよりは、彼の首の辺りを気にしているようだった。

「……ごめん」

 先ほど寝ぼけて噛みついたことを、謝っているのだと気がついた歌仙は「なんでもないよ」と安心させるように微笑む。

「この程度の傷、怪我のうちにも入らない。放っておけばすぐ塞がるだろう」
「でも、僕は。僕は」

 そこまで言いかけて、彼女は唇を震えさせる。喉の奥が痙攣でもしてしまったかのように、彼女の言葉は音にすらならず、消えていってしまった。
 暫し歌仙は言葉を待ったが、これ以上主に謝罪を重ねさせまいと、別の話題へと話を切り替えた。

「主、次郎のことなんだが」

 歌仙が思っていた通り、話題が変わったことで、藤の気持ちも別の方へと向けられたようだった。

「次郎に何かあったの?」
「今日の宴の際に、少し気まずい空気を作ったことを先ほど謝罪されてね」

 歌仙曰く、雑炊を藤の元に運びにいくとき、縁側を通りがかった次郎が呼び止めたのだという。彼は酒に酔った様子を見せながらも、申し訳なさそうにこう言った。

「『何か気に障るようなことでも言っちまったと思うんだよね。主に詫びといてくれよ』と。鬼の話をしたとき、僕らも少し……態度に出してしまったからね」

 一拍置いて、藤が神妙な顔でこちらを見ているのを確かめてから、言葉を続ける。

「君は、彼にその……これのことは話さないのかい」

 歌仙にしては珍しく言葉を濁しながら、彼は藤の額のあたりを指さした。ここまで仄めかされれば、歌仙が何の話をしようとしているかは自ずと分かる。

「ここ数日間彼を見てきていたが、次郎太刀は一見軽薄そうでも、周りのことも考えられる者のようだ。きみの額の角を目にしても、きみを否定するような態度はとらないだろう」

 彼女のこれまで生きてきたであろう環境を、思いやっているからだろう。歌仙の声は普段と比べれば、随分と優しいものだった。未だ消えない傷にそっと寄り添うように、かさぶたの残る傷に手当をするように。
 だが、藤は俯いたまま、返事をしない。

(少し早計だっただろうか。無理もない。人間は自分と違う容姿のものを、差別することが多いらしい。主も、恐らくは)

 髭切に鬼だと言われ、刀を突きつけられたときの彼女の表情を思い返せば、彼女も同様に奇異と蔑視の視線を受けていたのだろうと想像はできる。人間としての姿を持った今だからこそ、人間の社会で育った彼女の苦労に思いを巡らすことができるのだ。
 髭切は逸話に沿って、彼女を鬼と見なした。けれども彼自身の主観では、鬼だろうが人間だろうが、主であるならば頓着はしないようだった。故に、辛うじて彼女の心の平安は保たれた。
 だが、もし次郎が鬼の姿をした主を、人間だと認めなかったら。相応しくないと判断してしまったら。彼女はまた、心に傷を負うのだろうと歌仙は懸念していた。

「彼は見た目だけで、誰かを差別するような者ではないと僕は思っている。きみの目から見た彼は、どうなんだい」
「…………」

 藤はやはり、ぴくりともせずに俯いている。恐らく苦悩を表情に浮かべているのだろうと、歌仙は推測する。
 わざわざ、覗き込む必要も無い。そう思った歌仙は、ただ黙って藤を見つめていた。
 だが、もし彼が彼女の顔を覗き込んでいたら、驚かされたことだろう。
 そこに浮かんでいた表情は、諦念でもなければ恐怖でもない。明白な怒りだった。

「僕を、否定するようなことはしない……」

 辛うじて感情の全てを押し殺し、彼女は歌仙の言葉を繰り返す。
 次郎の底抜けの明るさから生まれた笑顔は、きっと角を見ても変わらないだろう。確信といってもいい。彼は優しい神様だ。彼も、歌仙達と同じことを言う。
 ――同じ言葉で、『否定』する。

(だけど、それは仕方ないんだ。だって、私の方が間違っている。だって私は)

 深呼吸を一つ。間を置いてもう一つ。
 浮かべてしまった怒りの感情を完全に消し去ってから、藤は顔を上げた。彼女の口角は微かにつり上がり、そこにはいつもの笑顔が浮かんでいた。

「言わなくてもいいよ。無理に驚かせることもないし、次郎から切り出したらその時に話す。心配してくれて、ありがとう」

 彼女の口から紡がれる言葉は、さながら用意された台本を読み上げるように淀みなく、すらすらと述べられたものだった。

「そうかい。なら、僕はきみの指示に従うよ」

 伸ばされた彼の手は、再び雑炊を頬張り始めた主の頭を優しく撫でる。彼の手の優しさを知っているからこそ、藤は笑顔を崩さなかった。
 何の下心も無い、純粋な心配り。それを否定するわけにはいかないと、藤は心の中で小さく呟いた。


 お腹が満たされ、休むために一人きりにしてもらった藤はごろりと寝台の上に転がる。食べてすぐ眠ると体に良くないとは知っていたが、何も考えずにさっさと夢の世界に旅立ちたかった。
 しかし、願いとは裏腹に、取り留めもなく思考は回転し続ける。夢という言葉に引きずられてか、数ヶ月前の夢の内容が克明に思い出されていく。
 夢を見たのは、髭切が顕現した直後。額の角のことが歌仙達に知られたその日の夜だった。
 無論、夢をのぞき見ていた人物がいたことなど、当然藤が知る由もない。

(灰色の廊下を歩いてたな……懐かしい。あれ、施設のだ)

 施設。
 その単語に引きずられるように、藤は己の過去を振り返る。
 あの灰色の廊下は、夢の中の産物ではない。実際には白い廊下ではあったが、あそこは現実にあった場所だ。
 数ヶ月とはいえ、お世話になっていた養護施設。行き場の無くなった子供を育てる場所で、藤もその一人だった。頼れる大人も保護者も当時既に亡くなっていた彼女は、故郷から都会に放り出されて、一人きりだった身を保護された。

(先生達、僕が審神者をしてるって聞いたら驚くかな)

 施設の大人に、悪い人はいなかった。少なくとも、子供に対して、そうであるべきという模範を示す大人としての態度を彼らはとっていた。要するに、自分たちの立場を弁えていた人たちだったのだと、藤は大きくなった今でも思う。
 先生たちは、多くのことを教えてくれた。読み書き計算以外の知識――故郷の田舎とは違う、街の中で人と交わって暮らすための知識だ。
 沢山の人たちにも出会った。故郷の人以外の大人。自分と同い年、或いは年上や年下の子供。

「あーちゃん」

 母や村の人が使っていた愛称を、彼らも使ってくれた。夢の中の自分も、施設に遊びにきたボランティアのおばさんに、そう呼びかけられていた。
 ただ、同い年くらいの少年達は、彼女の角を見てこう呼んだ。

「おい、鬼女(おにおんな)」

 その呼び方を聞いた大人は、いつも困ったように顔を顰めて、揃って少年達を叱った。

「あーちゃんのこと、鬼って呼ぶなっていつも言っているでしょう!」
「そんな呼び方をしたら、可哀想でしょう」

 続けて、彼らは決まって、藤を見て申し訳なさそうに謝るのだ。

「ごめんね。鬼なんて言われて、嫌でしょう。我慢して偉いわね」

 藤は、いつも笑って、先生や大人の言葉を聞いていた。だけれど、何故自分にそのような言葉をかけられるのかは、最初全く分からなかった。
 だが、理解できなかったことも、少年達が求める反応が、大人が求める対応が分かってしまったら、わけないことだ。
 少年たちは自分を虐げようとして、大人たちは自分を庇護しようとしている。子供でありながらも、他人の望むあり方を察しようと努力していた藤は、すぐにそのことに気が付いた。
 ただ、疑問はどこかに残り続けていた。
 藤にとって、街での生活は故郷と違うところが沢山あった。固い鉄のようなものでできた、箱の形をした建物。雨が降っても、ぬかるむことのない道。
 だが、一番馴染みが無いと思ったのは、灰色の町並みでもなければ、緑のない硬い道でもない。

 ――鬼と呼ばれるのは、良くないこと。

 それが、何より彼女を戸惑わせた常識(もの)だった。


 布団の上に転がっていたせいか、漸くずるずると眠気が訪れてきた。無意識で掴んだ布団を体に巻き付け、藤は自分を抱きしめるように微睡みの世界を漂う。
 微かに頭痛がする。やはり歌仙が言うように疲れているのだろう。睡魔との戦いには早々に白旗を揚げ、藤は瞼をゆっくりと閉じた。


 ***


ぼんやりとした意識の中、上も下もない世界を彷徨っていると、
 
「あーちゃん」

 懐かしい呼びかけに、思わず顔を上げる。次いで、自分の手が見えた。小さな手だ。きっとまた子供の頃の夢だろうと、客観的に夢を捉えていた藤は理解する。
 顔を上げた先には、一人の女性が立っていた。質素な服を着た、優しげな顔の女性。黒い長い髪を後ろでひっつめて、一つにまとめている姿に見覚えがある。前髪も後ろに流しているせいで、つやつやしたおでこがよく見えた。
 どうしてその髪型なのか、聞いたような気もする。あのときは何と答えてくれたのだろう。思い出そうとしても、記憶に靄がかかったみたいで、どうにもはっきりとしない。
 彼女が誰かを、藤は知っている。施設に頻繁に遊びに来てくれたボランティアの女性で、最終的に保護者のいない自分を引き取ってくれた人だ。ただ、記憶の中の面影よりは、今は幾分か若く見えた。

「あーちゃん、そっちに行ってはだめよ」
「どうして?」

 幼い自分は、どうやら彼女が禁じている場所に行こうとしているらしい。
 夢を観察している自分がいるのに、自分の想像とは異なる動きをする、子供の自分も存在する。奇妙なものだと、藤はぼんやりとした思考のまま、小さな自分の中で、夢の世界を観察していた。

「そっちは神社よ。神様がいらっしゃるところに、あなたが行ってはいけないわ」

 女性は制止の言葉を投げかけたにも関わらず、子供の藤は首をある方向に向ける。そこには、彼女が言うように大きな鳥居があった。
 歴史を感じさせるごつごつとした石畳に、少しばかり塗装が剥げた朱色の鳥居。鳥居をくぐった先には、古めかしい作りの建物が建っている。恐らくは社殿か本殿だろう。

「神様? 神様はどこにいるの?」
「神様は、神社の本殿にお住まいなのよ。神社は神様のお家なの。だから、あなたは行っちゃだめ」

 幼い藤は女性の忠告などどこ吹く風で、きゅっと目を凝らす。鳥居の陰、あるいはその向こうの建物の側に、ちらりほらりと人影が見えた。

(……あ、歌仙だ。それにあっちは物吉)

 子供の自分の中にいる大人の藤は、人影の正体に気がつく。
 鳥居の向こう、賽銭箱のすぐそばでは歌仙が境内の木々に目を向けていた。季節は秋なのだろうか。色づいた葉を見ては目を細めている。
 手水舎のあたりで、虎の子たちと戯れているのは五虎退だ。おみくじを結んでいる場所では、物吉がにこにこしながらおみくじを眺めている。
 神楽を舞う舞台らしき場所では、豪奢な装束をまとった次郎が柱に凭れていた。そして鳥居のすぐ側には、門番のように髭切が立っている。

「ほんとだ、おばさん。神様がいるね。神様は私と遊んでくれるかな。お話ししにいってもいい?」
「良い子にしていたら遊んでくれるかもしれないけど、あーちゃんはだめよ。絶対だめ」
「どうして? 私、悪い子なの?」
「だって、あなたは」

 会話をしていたはずなのに、不意にぶつりと世界から音が消える。目の前の彼女が何かを話しているのは見えるのに、それを聞き取る方の自分の耳が、おかしくなってしまったみたいだ。
 けれども、音が切れたのは数秒。すぐさま続く女性の言葉が耳に飛び込む。

「だから、あーちゃんは神社に入っちゃいけないの。神様が怒ってしまうから」
「でも、やってみなきゃわからないよ」

 幼い藤は女性の手を振りほどき、神社の鳥居に向かって一目散に駆けていく。今では然程珍しいと思いもしないが、子供の時分は、神社というのは故郷にない未知の存在の一つだった。
 既に年は十を超えていたというのに、彼女はまるで七つか八つの、あどけなさを残した子供のように走って行く。
 門番のように鳥居の側に立っている髭切は、鳥居をくぐり抜けてきた小さな子供に気がついたようだった。
 子供の自分と今の自分が混ざり合い、藤は彼の姿に安堵を覚える。手を伸ばし、夢の中の幻と分かっていても、その体に触れようとする。
 けれども、髭切はその手を避けるように、身を引いた。

(えっ)

 日頃から端正に整っていると思っていた顔が、明らかに嫌悪で歪められている。なまじっか容姿が端麗だからこそ、自分に向けられた蔑視の目は、想像以上に藤の心に突き刺さった。

「そんな汚い手で、触らないでくれる?」
「手?」

 彼の声に誘導されるように、藤は自分のふっくらした掌を見る。
 先ほどまで女性と結ばれていた、柔らかな手。だが、夢だと分かっているのに、藤は思わず悲鳴をあげそうになった。
 何故なら、彼女の小さな手は、黒い泥のようなものがべっとりと、こびりついていたのだから。

「じゃ、じゃあ、洗ってくる。それならいいよね」

 転んでもただでは起きない子供時代の藤は、てくてくと手水舎に向かう。手水舎にいた五虎退も、まるで藤が何か汚いものかのように、近づく彼女を見てそそくさと離れていった。
 少年の仕草に胸が痛みながらも、幼い方の彼女は愚直に手を洗うことを優先しようとする。流れている水に手を突っ込み、ざぶざぶと指の先まで水を通していく。妙に実感の伴う水の冷たさのせいで、すぐに手の感覚は無くなっていった。
 それでも、手の汚れは消えてくれない。どれだけ洗っても剥がれ落ちてくれない。
 すっかり困り果てて、辺りを見渡すと、藤を引き留めていた女性がすぐ近くに来ていた。

「どうしよう、おばさん。汚いまんまで綺麗にならないの」
「それは仕方ないわ。だってそれは外側の問題じゃなくて、内側のものが原因なんだもの」

 彼女は心配そうに眉根を下げて、藤のそばにしゃがみこむ。聞き分けの無い子供をなだめようと、頭を撫でる手は、優しさを感じさせるものだった。
 いつしか彼女の側には、門に立っていた髭切もいる。相変わらず、彼の目は氷のように冷えていた。

「でも、困ったことになったわね。あーちゃん、きっと怒られてしまうわ」
「怒られる? どうして?」
「だって、汚い手で神様に触ろうとしたでしょう」

 彼女が指す方向には、変わらず冷たい目でこちらを見下ろしている髭切が立っていた。縋るように藤は周りを見渡し、更にぞっとする。
 歌仙も、次郎も、五虎退も、物吉も、まるで清浄な世界を荒らす侵入者でも見るかのように、蔑んだ目で藤を見つめていた。まさに神様らしき超然とした瞳で、幼い彼女を――その中に混ざり合う今の彼女をも、射貫いていく。
 不意に、胃の奥がざわりと蠢くような不快感に、藤は体をくの字に折ってしゃがみこんだ。内側から内臓を揺さぶられるような衝動に突き動かされ、喉の奥から何かを吐き出そうとする。
 だというのに、口から出てくるものは何もない。腹痛と同時に、ガンガンと割れ鐘が鳴るように頭が痛み始め、これが現実なのか夢なのかも分からなくなっていく。
 手入れをした後に似ている症状だと、頭の片隅で気がつくも、今はそれ以上を考える余裕がない。何度か床に向けて喉の奥を震わせ、何も吐き出されないと分かってから、藤はよろよろと顔を上げる。

「神様が、悪い子のあーちゃんに怒って罰を下すから、ここには入っちゃいけないって言ったのよ。よしよし、かわいそうに。辛いでしょう、苦しいでしょう。でも、それは仕方のないことなのよ」

 朦朧とした視界の中で、女性が今にも倒れそうな自分に向かって、手を伸ばしているのが見えた。背中をさすってくれているのは、彼女なりに哀れんでいるからなのだろう。
 悲しいことにまるで効果は無いが、その気持ちだけで十分に嬉しい。嬉しいと思うべきだと、心が囁いていた。

(こんなやり取り、前にあったのかな……。おばさんに、神社に連れていってもらったことはあった……かもしれないけど、その後は――)

 記憶を遡ろうとするより先に、再び頭が割れるのではないかという頭痛に襲われて、藤は頭を抱えてうずくまる。
 何十分、何時間そうしていただろう。悪夢の中で意識を朦朧とさせている内に、ふと周りが暗くなったように思えた。
 激しい痛みにも幾分か慣れ、藤は曖昧な意識をどうにか保ち、顔を上げる。上げた先にあったものを見て、彼女は再度、背筋が凍り付くような恐ろしさに身を震わせた。

「――髭切」

 忘れるはずもない、銀の切っ先。鼻先にあるそれは、今にも自分を一刀両断しそうな、鬼気迫る迫力を漂わせていた。
 現実でも二度向けられた刃を持っているのは、やはり刃本人――髭切だ。

「君は、人間だよね」

 問われたにも関わらず、藤は答えない。ただ黙して見つめていると、不意に刀を握っている人物の輪郭が滲む。その姿に、藤は思わず息を呑んだ。
 まるで鏡を見ているように、同じ顔をした存在が──彼女自身がこちらを睥睨していたのだ。
 鏡の向こう側のようなもう一人の自分は、笑っていた。口元を微かに釣り上げた、いつもの微笑。それが、今はぞっとするほど恐ろしい。

「僕は人間であるべきだ。君も、そう思うよね?」
「私は、私は――」
「人間といえないのなら、君は間違っているよ」

 藤を写した何かは、にべもなくそう告げると、持っている太刀を振り下ろす。割れるような頭痛を引きずりながら、三度目の銀光を前にして、彼女は思わず目を閉じる。
 けれども、恐れていたような痛みはない。夢だからだろうかと恐る恐る顔を上げると、藤の目の前には先ほどまではいなかった人影があった。

「僕の形を借りて、勝手なことをしないでくれるかな」
「……髭、切?」

 再び朦朧とし始めた視界に、確かに彼の纏う純白の上着が見えたような気がした。だが、それを確認するかしないかの内に、意識が遠くなっていく。

「主。すぐにそっちに行くから」

 最後に聞こえた声を最後に、彼女の意識はぶつりと電源が落とされた機械のように、呆気なく切れた。


 ***


 がばりと跳ね起きた髭切は、周りを即座に見渡した。
 部屋の障子から漏れ出ている朝日。微かに耳に届く小鳥の囀り。手を動かせば思い通りに動く。首を捻れば思った場所を向くことができる。
 それだけ確認して、髭切はここは現実だと確信した。

(ひどい夢だった。主がもし何か悪いものに憑かれてるなら、追い払わないと)

 刀掛けに置いてある刀(じぶん)を掴み、寝間着のまま、髭切は足音荒く主の部屋へと向かう。
 最初、見慣れない景色が目に入ったとき、彼は「また主の夢に迷い込んだ」と即座に理解した。ここ暫くは見ていなかったからこそ、理解が早かったとも言える。
 だが、いつもは主の中に自分がいるような感覚なのに、今日は少し離れた場所に自分という存在があった。さながら、劇の一幕を鑑賞している観客のような立場だったのだ。
 主が動けば、引きずられるように勝手に足が前に進み、夢の主役である彼女を追いかける。主が首を動かせば、同じように首が動く。まるで主という操り主に操られた、人形になったようだった。
 だが、夢の中では自分以外の髭切もいた。そして、その彼は本人とはまるで似ても似つかぬ態度を、主にとってみせたのだ。

(僕らは、主をあんな風に見たりはしない。主だってそれを知ってるはずだ。ああいう悪夢を見せる、あやかしの類だろうか)

 源氏の重宝であり、あやかし退治の経歴を持つ刀でありながら何たる不覚、と髭切は内心で歯がみする。
 自分の幻が主に冷たくあたる所を見たとき、自分でも驚くほどの強い怒りに駆られたことは、目が覚めた今でも覚えている。
 得体の知れない痛みに苦しむ主に、手を伸ばし、声をかけたかった。なのに、最後の最後まで体を動かすことすら、ままならなかった。その歯痒さは、夢の中とはいえ、彼の心に焼き付いていた。

(それにあの女性、主と親しいようだったけれど……何だろう。すごく、嫌な感じがした)

 今まで彼女の夢で目にしていた女性とは、また別の人物だ。主と似た髪色の女性の声音は、髭切ですら居心地がいいと思う優しさを纏っていた。
 けれども、今日の夢にいた女性は何か違う。どこがどうとは言えないが、薄ら寒いものを感じたのだ。
 無論、ただの夢の中のことだ。主が無意識に彼女を悪いように捉えているだけなのかもしれない。だけど、もしあれが事実なら。

(何で彼女は、あんなことを主に言ったんだろうか)

 考えていても仕方ないと、髭切はかぶりを振って彼女の部屋へ向かう足を急がせる。
 よりにもよって髭切(じぶん)を模した幻覚が、主を傷つけようとするとは。咄嗟に割って入ることはできたが、主は目を覚ますことができただろうか。
 不安を心に纏わり付かせたまま、髭切は主の部屋の襖を勢いよく開いた。

「主!!」

 起こすつもりで呼びかけた声だったが、熟睡しているのか、寝台の上の小さな膨らみは、一向に動く気配を見せない。
 つかつかと主に歩み寄り、それらしい魔性のものが隠れていないか警戒を張り巡らせる。だが、

「……いない?」

 どれだけ辺りを見渡しても、本丸の外に向けて自分という存在を伸ばすように気配を探ってみても、それらしい不審な存在はおろか、痕跡すら見つけられなかった。
 ならば、意味する事実は一つ。あの夢は彼女自身が生み出した悪夢、ということだ。

「主、起きて。あれは良くない夢だよ」

 ゆさゆさと布団を揺さぶると、ごろりと寝返りを打った主の顔と目が合う。薄ら開かれた藤色の瞳は、髭切のくすんだ黄金色の瞳を見ても、どこか焦点が合っていないようだった。

「……ごめんなさい。僕が、間違ってました」

 一言それだけ呟くと、藤は再び目を閉じる。どうやらまた寝入ってしまったらしい。
 投げ出された彼女の手を髭切がとると、ふっとその寝顔に張り詰めていた緊張が抜ける。今度こそ悪夢を退けてくれていればいいのだがと願いつつ、髭切は藤が起きるまで手を握り続けていた。

(主が、間違ってる? いったい何に対して……?)

 胸の内に、隠しきれない疑問と不安を抱きながら。
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