本編第一部(完結済み)
ふっと一瞬息が止まる。ほんの数秒が何分にも引き伸ばされたような時間の中、迫り来る切っ先を目で見るのではなく、感覚で掴む。首をほんの少し逸らせば、致命傷は難なく防ぐことができた。
対峙する相手にとって、その一撃は必殺のものだったのだろう。思いがけなく躱されたことで、相手の姿勢は大きく崩れていた。
それを黙って見過ごすことはしない。返す刃で、遠慮なく相手に斬りかかる。がら空きになったに自分の切っ先が届くかという時、相手も咄嗟に得物を脇に滑り込ませ、迎え撃った。
ガン、と硬いもの同士がぶつかる音が響く。ギリギリという、互いの得物が軋み合う音が空気を割る。力と力の押し合い。純粋に腕力の強いものがこの場を制する。
そして押し勝ったのは自分の方だった。木同士がぶつかり合う鋭い音と共に、相手の得物が勢いよく弾き飛ばされる。
力任せに押し切られた相手は、二、三度よろよろと後ろに下がり、姿勢を崩してその場にべしゃりとしゃがみこんだ。無論、立ち上がる暇は与えず、すぐさま切っ先を相手の顔に突きつける。
「……ここまででいいかい」
「うん。どう見ても負けだ」
降参、とこの本丸の主である人物──藤は両手をあげた。ぜぇはぁという荒い息を何度も吸って吐いてして、呼吸を整えている。
対して木刀の剣先を向けていた歌仙からは、わずかに早くなった呼気の音しかしなかった。
「やっぱり強いね」
「刀剣男士が主に負けているようじゃ、刀剣男士の名折れだからね」
「それもそうか」
尻餅をついていた藤は、よいしょと掛け声をつけて立ち上がる。続いて、慣れた所作で尻餅をついた弾みについた汚れを払い落とした。
二人がいるここは、本丸の敷地内にある道場だった。早朝の鍛錬を希望した歌仙に、それなら自分が相手になりたいと藤自らが手を挙げたのである。
その主は、出会った当初から着ていたシンプルなジャケットやズボンではなく、白と紺の剣道着姿に着替えていた。着替えが手早かったことから、それなりに経験はあるらしいというのは歌仙でも推測できたことだった。
とはいえ、刀として生まれた彼に敵うわけもない。基本の動きは悪くはないが、そこかしこに見える隙をつくことはそこまで難しくないことだった。
「主は随分と力が強いようだね。最後はすぐに押し切れるかと思ったのに、案外粘るから驚いたよ」
「まあね」
大の大人であり刀剣男士である歌仙の薙ぎ払いを、短い時間とはいえ藤は耐えた。どちらかというと細身の部類である主が、ここまで耐えるとは思っておらず、打ち合った瞬間、歌仙の内心では驚きが走っていた。
「何か特別に鍛えていたりしたのかな」
「そういうわけじゃないよ。生まれつき力は強いんだ。よく言われる」
「そういうことが人間にはあるんだね。一つ勉強になったよ」
道場の隅に置いてあったタオルで顔を拭いていた藤の手が、彼の言葉を聞いてぴたりと止まる。だが、自分の汗を拭き取ることに集中していた歌仙は、その僅かな静止に気がつくことはなかった。
タオルから顔を上げた彼女は、何か物言いたげにこちらを見ている。今の彼女の頭には、出会ったときの帽子ではなく、鉢巻きのようにして手拭いが巻かれていた。その額を覆う布に手を当て、何度も瞬きをしながら藤は歌仙を見つめていたものの、結局ふいと目を逸らしてしまった。
「そろそろ、朝ご飯にしようよ。僕、お腹が空いてしまって」
藤がそう言った刹那、歌仙が返事をするより主の腹の虫が元気よく鳴いたのだった。
***
歌仙兼定が人間の体を得て、藤という審神者に出会ってから早一週間が過ぎていた。
その間何もしていなかったかというと、当然そんなことはない。具体的には、まず本丸の大掃除という仕事が最初に待ち受けていた。
二人が住まうには広すぎる屋敷の中は、もちろん二人が掃除するにも広すぎる。まずはよく使うところから、続いて暫くは空き部屋になりそうだというところも、掃除用具を片手に彼らは右往左往することになった。
幸い季節は五月。掃除するには寒すぎず、かと言って暑すぎることもなかった。
「今日はどこの掃除をしようかな」
「残すところは、屋敷の外の離れを除けば東側の部屋だね。あそこは汚れも傷みもそこまで多くなかったから、すぐに終わるだろう。それが済んだら中庭の掃除をしよう」
「そっか」
「それと、政府の者が置いていった書類についてなんだけれど、きみはもう見たのかな。主の机の上に置いてあったものなんだが」
「……それって、どれのこと?」
「その前に君はその箸と茶碗を置いたらどうなんだい?」
トンという軽い音が響く。藤が言われたように、ちゃぶ台に茶碗を置いた音だった。それまで、主は話しながらもご飯を食べる瞬間を見つけようと言わんばかりに、茶碗を手に持ったままだったのだ。
食べている最中に話を進めた自分が悪いとも思うが、話を振ってきたのは主の方だと、歌仙は責任を目の前の藤に押し付ける。そもそも、歌仙はとうの昔に朝ごはんを食べ終えていた。
「一体、きみは何杯食べるつもりなんだい」
「だってこの茶碗が小さいから、ご飯が沢山入らないんだもの」
減らず口だけは達者に叩く主だ、と歌仙は思わず天を仰ぎたくなった。
ごほんと咳払いをして、気を取り直す。苦情を言われたことを反省してか、藤も残っていたご飯を急いで口の中に掻きこんでいた。
「それで、書類ってどれの書類のこと?」
口の端に米粒をつけたまま、藤が尋ねる。苦言を言う気もない歌仙は、ため息を吐き出したまま答えた。
「初めての鍛刀についての書類だよ。この一週間、僕らは掃除しかしていないが、そろそろ新しい仲間を呼んだ方がいいんじゃないかな。出陣するにしても、もう一振りはいたほうがいいだろうと僕も思うよ」
真面目に話を聞くつもりがあるのかないのか、藤は茶碗を持った姿勢のまま微動だにしていなかった。瞬きをすることも忘れたかのように、じっと歌仙を見つめている。
「何か変なことを言ったかい?」
「…………」
藤は答えない。代わりに箸を机に置き、鍛刀という言葉をご飯の代わりに咀嚼しているかのように、口元に手を当ててじっと考え込んでいた。そこに浮かぶ感情の機微は、流石の歌仙も読み取れなかった。
この主は、感情が顔に出やすい人物ではないらしいというのは、歌仙もこの一週間のやり取りで把握してはいた。けれども今は、常に比べて一段と顔の表情が固まっているように思えた。
数十秒後。何かの結論が出たのか、ゆっくりと顔を上げた藤は歌仙に尋ねた。
「……鍛刀って、どうするんだっけ」
「鍛刀のための部屋があったんだろう。そこにやり方についても覚書があったんじゃないかい」
「そっか。うん、そうだね」
再び茶碗に手を伸ばし、彼女は近くにあったお櫃からお代わりのご飯をよそった。あの量から察するに、一人で三人分くらい食べていることだろう。
結局、いつもより少し多めに時間をかけて、主は朝食をとり終えたのだった。
***
「まったく。ずぼらではないのだろうけれど、食い意地が張り過ぎるというのも考えものだね」
はたきを押し入れの隅に向けて振ると、面白いぐらい埃が零れ落ちる。
主に宣言したように、東側の部屋にやってきた歌仙は、掃除に取り掛かっていた。簡単に箒で畳を掃き、押し入れの中に押しこまれていた古い書物の類を破れないように取り出す。それらが済んだ後は、はたきで各所の埃を叩き落とす。そしてもう一度箒で埃を外に掃きだせば、くしゃみをしなくていい程度の綺麗さは取り戻すことができた。最初からはたきで叩き落とせばいいのだが、目に見える範囲に汚れがあるのに放置するというのは、歌仙に耐えかねる行為だったのだ。故に、結局こうしてわざわざ二度手間となる作業をしているのである。
口元に巻いていた布をおろし、歌仙は朝の陽光を受けて輝く部屋を前にして、満足そうに息を吐いた。
「もう一週間が経っているのだからね。鍛刀のことといい、主も審神者としての本分に立ち返っていい頃だろう」
決して藤が何もしていなかったわけではないが、していることといえば一に食事二に掃除である。およそ、審神者と刀剣男士がするべきことではない。せめて、空き部屋の掃除くらいはしてから家屋は渡してくれと、政府に文句の一つでも言いたいくらいだ。
それはともかくとしても、このままでは何のためにこの本丸にいるのか、主自身分からなくなってしまっているのではないかと、歌仙は考える。先の鍛刀の話に対する反応の鈍さは、藤の審神者としての自覚のなさが露呈したのではないかと思っていた。
それに、殊更に仲間が欲しいというわけではないが、二人きりというのは、この本丸の中では些か寒々しい。大抵の人間は一人でいるより、より多くの人間といるのを好むものであるはずだ。それは、この本丸の中で見つけた書籍を読んでいった中で身に着けた、歌仙の所見でもある。
「掃除はこれでいいとして。さて、主の方はどうかな。皿洗いを、今はしているはずだけれど──」
歌仙が厨の方に足を向けた瞬間、パリンという甲高い音が響いた。
「主!?」
明らかに陶器が割れる音に血相を変え、歌仙は厨に飛び込む。そこで彼が見た景色は、流し場に飛び散った茶碗の破片と、それをぼーっと眺めている主である藤だった。ざあっと流れ出る水道の音だけが、やたら耳の奥にまで強く響く。
慌てて主に駆け寄った彼は、ざっと流し場の様子を見る。桶の中には主の食器と自分の食器が、まだ汚れたまま浮かんでいた。どうやら歌仙が掃除をしている間、主はただ流し場に汚れた食器を浮かべたまま、見つめていたらしい。
「まったく、何をしているんだい」
声をかけると、まるで今目を覚ましたのようにびくりと肩を震わせて藤は歌仙を見上げた。歌仙を見つめる藤色の瞳には、動揺と緊張が走っている。これから何を言われるのだろうと、怯えているようにも見えた。
茶碗を割ったくらいで、目くじらをたてるほど歌仙も狭量ではない。だが、何か言わねばと彼が口を開きかけたとき、
「……歌仙。掃除は?」
機先を制して、薄い唇を震わせるようにして、そっと藤が声を発した。
「とっくの昔に終わったよ。君は皿を洗う前に水浴びをたっぷりさせるという趣味でもあるのかい」
「え? ああ……うん。そうだね」
心ここに在らずの藤の返事は無視して、割れた食器を片付けようと歌仙は主の手元に目を落として気が付く。主の濡れた指から、真っ赤な雫がぽたぽたと流れ落ちていた。
「怪我までしてるじゃないか。もしかしてまだ寝てるんじゃないだろうね? まったく──」
様子を見ようと、歌仙がその手を掴んだ時。
「──っ!」
鋭く息を呑む音。次いで、パンッという鋭く空気を割る音に思わず歌仙は数度瞬きをする。彼女の手が自分の手を振り払ったのだということに気がついたのは、数拍遅れてからだった。
再び厨に沈黙が落ちる。流し場で水流に弄ばれた器が、かちゃかちゃとぶつかり合う音だけが響いていた。
「…………あ」
藤の口から、言葉にならない声が漏れる。自分の手を胸に抱くようにして、数歩歌仙から距離を置いていた。
「もしかして、痛かったのかい」
「……うん。そう。びっくりして。ごめん」
「それだけ動かせるということなら、大事ないだろうね。皿洗いは僕がしておくよ」
歌仙に言われ、藤は小さく首を縦に振って踵を返した。
見えなくなる背中を見送ってから、歌仙は自分の手をじっと見つめる。
刀であった自分を思い、人間になった自分を振り返る。
けれども、生まれてから人間だったであろう主とは、根本的に何かは異なるだろう。その何かに触れたから、主はあれほどまで強く拒絶したのではないか。
「……力を入れすぎてしまったかな」
体格から見ても、単純な力ではきっと自分の方が上だ。鍛錬の話を蒸し返しても、結局最後には藤は力で彼に負けていた。
咄嗟のこととは言え、痛い思いを更にさせたのではと歌仙は数秒考え込む。しかし刀の彼がいくら人間の主について考えても、人間としての生活を始めて一週間の歌仙では分かることなど、たかが知れていた。
「……後で、主に訊いてからにしよう。とりあえず割れたものを片付けないとね」
結局、結論を先延ばしにして流し場を見つめ直す。そこには、無残な茶碗の破片が浮かんでいた。それは、朝食の時に「サイズが小さい」と藤が不平を漏らしていた茶碗だった。
***
「鍛刀するのは、まずは短刀からがいいと政府から貰った資料にあったね」
「うん。短刀の鍛刀を審神者が担当……ふふっ」
「あまり面白みのない冗談で、僕の周りを寒くするのはやめてくれないかな?」
ざっざっと草履が石畳を踏みしめる音が響く。その隣を、同じようにぱたぱたという小さな小気味よい音が追いかける。歩幅の大きい歌仙と、その後についていく藤の足音であった。場所は万屋の並ぶ道の途中、二人は買い物のため外に赴いていた。
「だって、三つも言葉をかけられたんだよ。和歌だってあるよね、掛詞というやつ」
「主の品性も風情も感じられない冗談と、詠み人が必死で考え抜いた掛詞を一緒にしないでもらえるかい?」
遠慮容赦のない歌仙の突っ込みに、主である藤は唇を軽く噛んで押し黙った。本人なりには傑作だと思ったらしい。
万屋に足を向けたのは割れた茶碗を買い直すためと、新しく鍛刀する予定の刀剣男士のために必要そうな最低限の品を揃えるためだった。このご時世、しかるべき所に頼めばすぐ本丸に荷物は届く。だが、仕事場の上司ともいえる政府とやらが用意した買い物の場――万屋というものに興味を持ったらしい主が、折角だからと言い張る手前、歌仙も断るつもりはなかった。
今朝、手を払わせるようなことをしてしまったという免罪として、少しは好きなことをさせてあげようという気持ちも歌仙の中にはあった。
「背丈がわかってから服は選んだ方がいいから、それ以外となると食器とか歯ブラシとか……」
刀である自分たちは極端な話ではあるが、人間のような生活を必要としていない。有事以外は、刀に姿を変えて放置しておいても全く問題ない。
それをわざわざ生活環境から整えようと考えるのは、単に刀剣男士と人間を混同しているからか、それとも刀であろうと人のように扱おうとする優しさからか。どちらにしても、歌仙兼定という個人からすると、主のその考え方は好ましいと思えた。
「とか何とか言いながら、君のその片手にあるものについて聞いてもいいかい」
「団子」
「財布は僕が持った方が良さそうだね」
ひょいと彼女の手に握られていたがま口を取り上げると、ついでとばかりに藤は歌仙の片手にまだ食べていない団子の串を押し付けた。たっぷりとかけられたみたらしが、焦げ目のついた団子の表面でてらてらと光っている。
「よかったら食べて。結構美味しかった」
唐突に何を言い出しのかと歌仙が眉をひそめたとき、
「今朝、手を払ってごめん。突然触られて驚いただけだから、気にしないで」
彼から顔を背けた主から謝罪の言葉を投げられた。どうやら、主は主で自分が悪いことをしたと思っていたようだ。
「そういうことなら、ありがたく受け取っておこうか。ただ僕は、どちらかというと団子より花の人間でね」
「僕はどちらかというと花より団子だ」
「それはこの一週間で嫌という程知ったよ」
初日の炭混じりの料理を経て、歌仙兼定は自分の舌を満足させるために、早急に料理の腕を向上させる必要性に迫られた。その結果、自分でも満足できる代物ができるようになった頃には、主はすっかり彼に餌付けされてしまったというわけだ。この一週間、三食毎日お代わりを強請られるような日々を過ごせば、彼女の食に対する好みや傾向も嫌というほど分かるというものである。
渡された団子を、道端に置かれていた長椅子に腰掛けて口に入れる。どこで買ったのかは知らないが、口に入れると焦げ目と甘辛いタレの絶妙な調和が舌へと広がっていく。
ふと隣の主に目をやると、当の本人は明後日の方向を見ていた。視線の先には、どこにでもありそうな雑貨屋が一つある。その前では、店先に並べられてある品を見ながら、あれこれ話しているらしい男女がいた。
「おや、あれは……」
「歌仙の知り合い、じゃないよね」
「まさか。男性の方は刀剣男士だなと思ってね」
腰に一振りの打刀を挿していることからも、間違いない。万屋は政府公認の商店街のようなものであるし、刀剣男士がいること自体はさして珍しいことではない。
隣に立つ女性は主である審神者というところだろうか。こざっぱりとしたジャケットやパンツを身に着けており、身なりだけを見れば歌仙の隣に座る主とさして変わらなかった。刀剣男士の方は、黒い髪に黒いコートを纏っていた。首元からかけたマフラーや袖に付けられている手甲が、夜闇に咲く椿のように真っ赤な彩りを与えている。
「彼も刀剣男士なんだ。歌仙と随分違うね」
「刀が違えば、見目も変わるというものだよ」
「……そう」
歌仙以外の刀剣男士が物珍しいのか、じっと主は二人を視線で追っていた。主の刀である歌仙としては少しばかり面白くないが、かと言って邪魔をするのも子供っぽい。言いようのないもやもやは、物としての嫉妬と形容してもよかったが、歌仙にはその感情を言語化できるほど、己と主の関係に対する理解がまだなかった。
団子が彼の口の中に全て無くなった頃、ようやく藤は観察をやめて口を開く。
「刀剣男士、なんだよね」
「僕の目利きに間違いがあるとでも?」
少しむっとしたように尋ねると、彼女はゆるゆると首を横に振る。
「ううん。そうじゃなくて」
「じゃあ何だと?」
「……なんでもない」
すでに店前での会話を終えて、その二人連れは別の店舗へと向かっていた。主もようやく視線で彼らを追うのをやめて、長椅子から立ち上がる。
二人連れが立っていた店舗にすたすたと歩み寄り、看板を見上げてから、主は満足そうに一つ頷いた。
「ここ、雑貨屋だよね。茶碗もあるかも」
そういえば、茶碗を買いに来ていたのだったか。
当初の目的を思い出し、歌仙も串を近くの屑箱に入れて藤と共に店内へと入った。
***
お店の中は広くもなく、かといって狭くもない、程よい規模のものだった。丁寧に種別された陳列棚には、品々が整然と並べられており、ただ見て回るだけでも楽しめる。だが、品々に目移りするよ先に、問題が発生した。
「僕としたことが失念していたよ。子供のような主のことだから、こんな所に来ればすぐにどこかに行ってしまうだろうことは想像できたはずなのに」
まばらに立つ人をすり抜けて食器売り場に真っ直ぐ行ったはずなのに、気がつけば連れの主は行方不明になっていた。
この売り場に、食べ物は売っているのだろうか。そこまで考えてから、思考がいつしか主の色に染まっていることに気がつき、歌仙は今日で何度目になるか分からないため息をつく。
「三つ四つの子供じゃないんだ。僕の方で目利きをしておこうかな」
答える人がいない独り言は、いつも以上にどこか空々しく聞こえた。
それから五分ほど。歌仙のお眼鏡にかなう食器を見繕った頃に、彼はぐいと外套が引かれるのを感じた。振り向けばいつもの澄ました顔の主が、そこに立っていた。
「こんなさして広くもない店でも、勝手にふらふらしてはいけないだろう」
「色々あったから。つい」
「色々?」
「……駄菓子とか?」
「二言目には食べ物の話しかできないのかい、きみは」
藤が指を指した先には、色とりどりの粒が鮮やかな金平糖が大きなビンに入っていた。
「それよりほら、きみにうってつけの茶碗があったよ」
歌仙は言いつつ、大きめのどんぶりにも使えそうな茶碗を彼女の目の前にずいと突き出した。サイズもさることながら、それには淡い紫で藤の花が点々と描かれている。
「君の名前は藤だろう? 本名ではないのだろうけれど、嫌いではなさそうだったからね」
「そんなこと、話したっけ?」
「狭野方の花の話をしたとき、笑っていただろう」
鳩が豆鉄砲を食らったような顔をして、主はぱちくりと一度瞬きをして歌仙を見つめる。やがて、その時のことを思い出したのか、「うん」と小さく頷いた。まるで何か恥ずかしがるように、口元をもごもごさせているが、結局彼女の口からそれ以上の言葉は無かった。
「顕現する予定の短刀には、少し小さいものを用意したよ。覚え書きによると、彼らは総じて小柄らしいからね」
「ありがとう。そうだ、歌仙。歌仙は何か欲しいものはないの?」
「僕が? いや、唐突に言われてもね」
「歌仙は歌が好きだよね。自分で詠んでみたら?」
不意にそう言われて、歌仙は今日までの自分の在り様を振り返った。
もちろん歌仙兼定の本分は刀だ。しかし、それ以外に歌仙兼定の人間としての要素に強く影響を与えているのは、歌というものだろう。名がそのまま体を形作ったように、彼の中で歌というものは、他の事象よりやや特別な位置付けがされているものだった。
「僕が、自分で?」
「他の人が詠んだのを覚えるのって眠くなるから、それなら自分で詠んだ方が楽しいかなって」
「きみじゃないんだから、先人の言葉をちゃんと味わうことはできるよ。でも、そうか。僕が詠むというのは考えたことがなかったな」
主に促され、その思考を進める。
日々の移ろいを眺め、生活を見つめ、その時感じたものを歌という形にする。その日々は、自分が当初思っていた以上に心を浮き足立たせる――楽しいものに思えた。
「じゃあ、筆と硯と唄のための短冊と……」
「僕はここで待ってるから持ってきたら?」
「本当に、どこにも行かないだろうね」
「行かないよ。僕ってそんなに好き勝手にふらふらする人だと思われてるの?」
「きみは自分の胸に手を当てて、よく聞いてみたらどうだい?」
不服そうに口をへの字に曲げた主は脇に置いて、歌仙は筆記用具の売り場に足を向ける。この売り場の先客は二人だけだった。人混みが少ないおかげでゆっくり見ることができそうだと、歌仙は頬を緩ませる。
「失礼するよ」
先客である黒髪の幼子と、その連れらしい刀剣男士に一礼して、歌仙は筆売り場に並べられている品々を一つ一つ手にとっていく。ただ選ぶという工程だけを取っても、胸の奥が弾むような気持ちになる。なるほど、人の姿を楽しむとはこういうことなのかと、彼は改めて主の勧めに感謝した。
これぞというものを手にとり、短冊や硯など必要そうなものや、参考になりそうな本を手にして踵を返そうとしたときだった。くい、と外套が引かれる感覚に、歌仙は思わず振り返った。
「主、ふらふらしないようにと言っただろう……あっ」
声が途中から尻すぼみになり、驚きのそれに変わったのは、自分の外套を引いていたのが主ではなかったからだ。先客としてここに立っていた幼子の小さな手が、くいくいと引っ張っていたのである。
「ああ、きみ。だめじゃないか、余所の刀剣男士の服を引っ張っては」
すぐ側に立っていた刀剣男士と思しき青年、髪から纏う着物まで真っ白の彼が少女を抱き上げる。肝心の子供の方は、むすっとした顔で歌仙を見つめてから、自分を抱き上げた刀剣男士の手をとって、何やら指で文字を綴っている。
「ん……? ああ、そういうことか。そこの歌仙兼定、少しいいだろうか」
「構わないが、どうしたんだい?」
「きみは、あっちに立っている者の刀剣男士か?」
あっちと手で示された方向には、ぽつねんと立ち尽くしている朱色のぴょんぴょんと跳ねた毛が見えた。間違いなく、主のことだろう。
「ああ、そうだよ。主が何か?」
「きみの主に、お礼を言ってもらえるだろうか」
不意に告げられた伝言に、歌仙は首を傾げる。
「実は、俺たちは先ほどまで装飾品売り場の方にいたんだがな。俺の主が言うには、丁度、俺の主ときみの主が同時に同じ物を手に取ったらしい。だが、ざっと見た限り、売り場に同じ物はない。どうしたものかと思ったら、彼女が俺の主に譲ってくれたんだそうだ」
先ほどはぐれていた間に、どうやら主は白い刀剣男士が抱いている子供と、出会っていたらしい。青年は申し訳なさそうに眉を下げて、
「お礼を言おうとしたんだが、それより先にふらりといなくなってしまったんだそうだ。それでもってよくよく見れば、きみ達が話しているのを見て声をかけようとしたが、どうしたらいいか分からずに困っていた……と主が言っていたというわけさ」
白髪の青年は、自分が抱え上げている幼子をちらと見る。肝心の彼女は、歌仙の視線から外れるように顔を逸らしている。見知らぬ刀剣男士にじろじろと見られるのが、恥ずかしいという素振りにも見えた。
ひょっとしたら、自分から直接行かなかったのも、人見知りのためかもしれないと歌仙は思う。その気持ちは、少し彼にも分かった。自分とて、全く知らない相手に対して、いきなり意気揚々と声をかけたいとは思わない。
「そういうことなら、僕から言っておくよ。わざわざありがとう」
その言葉を聞き、初めて少女はこちらをじっと見つめてからぺこりと頭を下げた。それで話は終わり、と思っていた歌仙は、しかし純粋なる興味から、二人へと一つ質問することにした。
「もし良かったら訊きたいんだが、主は一体何を買おうとしてたんだい?」
少女は、自分の手の中にあるそれを歌仙に見せた。それを目にして、彼の翡翠と同じ色をした瞳が見開かれる。少女の手の中にあるそれを眺め、歌仙はきっかり十秒、その場に立ち尽くした。
やがて感謝の言葉を二人に告げ、歌仙は主のもとに向かった。微かに残った疑問を、頭の隅に置きながら。
***
炉の日が爆ぜる音が、遠くで聞こえる。パチリと火花が飛び散り、新たに生まれた銀がそれを反射する。薄暗い部屋を照らすものは、それらだけだった。
鍛刀のための部屋には、今生まれたばかりの小さな刀が在った。歌仙のものと比べれば短い、短刀と呼ばれるものだ。生まれたての刃は、今は白布を被せられた台座の上に厳かに載っている。
「本当にできた……」
「まだ最後の大事な作業が残っているよ」
歌仙に促されるまでもなく、藤は唇をぎゅっと噛んで静かに手を伸ばした。その手が震えているのは緊張からか、それともそれ以外の感情からか。主の背中越しに短刀を見つめている歌仙に、彼女の思いを知ることなどできるわけがなかった。
主の小さな手が短刀に触れるか触れないかという時、パァっと辺りを薄紫の花びらが舞う。その花は藤の花に似ていて、歌仙は自分が顕現したときのことを思い出す。薄い紫に、ところどころ混じる濃い紫。ふわりと風が舞い、澄んだ香りが歌仙の鼻を通り過ぎていく。
時間にして僅か数秒。藤の花が宙に溶けて消えたとき、ふわりと小さな人影が部屋に舞い降りた。
まず目に入ったのは、白布に負けず劣らずの白い柔らかそうな髪。その肌も、まるで触れれば壊れそうなほどな透き通った白だ。辛うじて点々と鼻の上に散るそばかすが、その者が人の形をしているのだ、ということを見ている者に思い出させてくれる。
ほっそりとした肢体を包むのは、濃紺の装束。ぴったりとした袖は洋風のものであり、現世の服装に詳しい者ならば、学校の制服のようだと言ったことだろう。
人影の足が地に着いた瞬間、そこから跳ねた五枚の花弁が、それぞれ小さな塊となっていく。光は、子猫のような大きさに膨らんだかと思いきや、真っ白な毛並みに黒い縞模様が鮮やかな虎の子と変じた。
色素の薄い睫毛が震え、現れた者の瞼が開く。薄い唇が震え、己の名を音とする。
「僕は、五虎退です。あの……しりぞけてないです、すみません」
か細い少年の声が、部屋の静けさを破った。
五虎退。それが、この本丸で二振り目となる刀の名であった。
対峙する相手にとって、その一撃は必殺のものだったのだろう。思いがけなく躱されたことで、相手の姿勢は大きく崩れていた。
それを黙って見過ごすことはしない。返す刃で、遠慮なく相手に斬りかかる。がら空きになったに自分の切っ先が届くかという時、相手も咄嗟に得物を脇に滑り込ませ、迎え撃った。
ガン、と硬いもの同士がぶつかる音が響く。ギリギリという、互いの得物が軋み合う音が空気を割る。力と力の押し合い。純粋に腕力の強いものがこの場を制する。
そして押し勝ったのは自分の方だった。木同士がぶつかり合う鋭い音と共に、相手の得物が勢いよく弾き飛ばされる。
力任せに押し切られた相手は、二、三度よろよろと後ろに下がり、姿勢を崩してその場にべしゃりとしゃがみこんだ。無論、立ち上がる暇は与えず、すぐさま切っ先を相手の顔に突きつける。
「……ここまででいいかい」
「うん。どう見ても負けだ」
降参、とこの本丸の主である人物──藤は両手をあげた。ぜぇはぁという荒い息を何度も吸って吐いてして、呼吸を整えている。
対して木刀の剣先を向けていた歌仙からは、わずかに早くなった呼気の音しかしなかった。
「やっぱり強いね」
「刀剣男士が主に負けているようじゃ、刀剣男士の名折れだからね」
「それもそうか」
尻餅をついていた藤は、よいしょと掛け声をつけて立ち上がる。続いて、慣れた所作で尻餅をついた弾みについた汚れを払い落とした。
二人がいるここは、本丸の敷地内にある道場だった。早朝の鍛錬を希望した歌仙に、それなら自分が相手になりたいと藤自らが手を挙げたのである。
その主は、出会った当初から着ていたシンプルなジャケットやズボンではなく、白と紺の剣道着姿に着替えていた。着替えが手早かったことから、それなりに経験はあるらしいというのは歌仙でも推測できたことだった。
とはいえ、刀として生まれた彼に敵うわけもない。基本の動きは悪くはないが、そこかしこに見える隙をつくことはそこまで難しくないことだった。
「主は随分と力が強いようだね。最後はすぐに押し切れるかと思ったのに、案外粘るから驚いたよ」
「まあね」
大の大人であり刀剣男士である歌仙の薙ぎ払いを、短い時間とはいえ藤は耐えた。どちらかというと細身の部類である主が、ここまで耐えるとは思っておらず、打ち合った瞬間、歌仙の内心では驚きが走っていた。
「何か特別に鍛えていたりしたのかな」
「そういうわけじゃないよ。生まれつき力は強いんだ。よく言われる」
「そういうことが人間にはあるんだね。一つ勉強になったよ」
道場の隅に置いてあったタオルで顔を拭いていた藤の手が、彼の言葉を聞いてぴたりと止まる。だが、自分の汗を拭き取ることに集中していた歌仙は、その僅かな静止に気がつくことはなかった。
タオルから顔を上げた彼女は、何か物言いたげにこちらを見ている。今の彼女の頭には、出会ったときの帽子ではなく、鉢巻きのようにして手拭いが巻かれていた。その額を覆う布に手を当て、何度も瞬きをしながら藤は歌仙を見つめていたものの、結局ふいと目を逸らしてしまった。
「そろそろ、朝ご飯にしようよ。僕、お腹が空いてしまって」
藤がそう言った刹那、歌仙が返事をするより主の腹の虫が元気よく鳴いたのだった。
***
歌仙兼定が人間の体を得て、藤という審神者に出会ってから早一週間が過ぎていた。
その間何もしていなかったかというと、当然そんなことはない。具体的には、まず本丸の大掃除という仕事が最初に待ち受けていた。
二人が住まうには広すぎる屋敷の中は、もちろん二人が掃除するにも広すぎる。まずはよく使うところから、続いて暫くは空き部屋になりそうだというところも、掃除用具を片手に彼らは右往左往することになった。
幸い季節は五月。掃除するには寒すぎず、かと言って暑すぎることもなかった。
「今日はどこの掃除をしようかな」
「残すところは、屋敷の外の離れを除けば東側の部屋だね。あそこは汚れも傷みもそこまで多くなかったから、すぐに終わるだろう。それが済んだら中庭の掃除をしよう」
「そっか」
「それと、政府の者が置いていった書類についてなんだけれど、きみはもう見たのかな。主の机の上に置いてあったものなんだが」
「……それって、どれのこと?」
「その前に君はその箸と茶碗を置いたらどうなんだい?」
トンという軽い音が響く。藤が言われたように、ちゃぶ台に茶碗を置いた音だった。それまで、主は話しながらもご飯を食べる瞬間を見つけようと言わんばかりに、茶碗を手に持ったままだったのだ。
食べている最中に話を進めた自分が悪いとも思うが、話を振ってきたのは主の方だと、歌仙は責任を目の前の藤に押し付ける。そもそも、歌仙はとうの昔に朝ごはんを食べ終えていた。
「一体、きみは何杯食べるつもりなんだい」
「だってこの茶碗が小さいから、ご飯が沢山入らないんだもの」
減らず口だけは達者に叩く主だ、と歌仙は思わず天を仰ぎたくなった。
ごほんと咳払いをして、気を取り直す。苦情を言われたことを反省してか、藤も残っていたご飯を急いで口の中に掻きこんでいた。
「それで、書類ってどれの書類のこと?」
口の端に米粒をつけたまま、藤が尋ねる。苦言を言う気もない歌仙は、ため息を吐き出したまま答えた。
「初めての鍛刀についての書類だよ。この一週間、僕らは掃除しかしていないが、そろそろ新しい仲間を呼んだ方がいいんじゃないかな。出陣するにしても、もう一振りはいたほうがいいだろうと僕も思うよ」
真面目に話を聞くつもりがあるのかないのか、藤は茶碗を持った姿勢のまま微動だにしていなかった。瞬きをすることも忘れたかのように、じっと歌仙を見つめている。
「何か変なことを言ったかい?」
「…………」
藤は答えない。代わりに箸を机に置き、鍛刀という言葉をご飯の代わりに咀嚼しているかのように、口元に手を当ててじっと考え込んでいた。そこに浮かぶ感情の機微は、流石の歌仙も読み取れなかった。
この主は、感情が顔に出やすい人物ではないらしいというのは、歌仙もこの一週間のやり取りで把握してはいた。けれども今は、常に比べて一段と顔の表情が固まっているように思えた。
数十秒後。何かの結論が出たのか、ゆっくりと顔を上げた藤は歌仙に尋ねた。
「……鍛刀って、どうするんだっけ」
「鍛刀のための部屋があったんだろう。そこにやり方についても覚書があったんじゃないかい」
「そっか。うん、そうだね」
再び茶碗に手を伸ばし、彼女は近くにあったお櫃からお代わりのご飯をよそった。あの量から察するに、一人で三人分くらい食べていることだろう。
結局、いつもより少し多めに時間をかけて、主は朝食をとり終えたのだった。
***
「まったく。ずぼらではないのだろうけれど、食い意地が張り過ぎるというのも考えものだね」
はたきを押し入れの隅に向けて振ると、面白いぐらい埃が零れ落ちる。
主に宣言したように、東側の部屋にやってきた歌仙は、掃除に取り掛かっていた。簡単に箒で畳を掃き、押し入れの中に押しこまれていた古い書物の類を破れないように取り出す。それらが済んだ後は、はたきで各所の埃を叩き落とす。そしてもう一度箒で埃を外に掃きだせば、くしゃみをしなくていい程度の綺麗さは取り戻すことができた。最初からはたきで叩き落とせばいいのだが、目に見える範囲に汚れがあるのに放置するというのは、歌仙に耐えかねる行為だったのだ。故に、結局こうしてわざわざ二度手間となる作業をしているのである。
口元に巻いていた布をおろし、歌仙は朝の陽光を受けて輝く部屋を前にして、満足そうに息を吐いた。
「もう一週間が経っているのだからね。鍛刀のことといい、主も審神者としての本分に立ち返っていい頃だろう」
決して藤が何もしていなかったわけではないが、していることといえば一に食事二に掃除である。およそ、審神者と刀剣男士がするべきことではない。せめて、空き部屋の掃除くらいはしてから家屋は渡してくれと、政府に文句の一つでも言いたいくらいだ。
それはともかくとしても、このままでは何のためにこの本丸にいるのか、主自身分からなくなってしまっているのではないかと、歌仙は考える。先の鍛刀の話に対する反応の鈍さは、藤の審神者としての自覚のなさが露呈したのではないかと思っていた。
それに、殊更に仲間が欲しいというわけではないが、二人きりというのは、この本丸の中では些か寒々しい。大抵の人間は一人でいるより、より多くの人間といるのを好むものであるはずだ。それは、この本丸の中で見つけた書籍を読んでいった中で身に着けた、歌仙の所見でもある。
「掃除はこれでいいとして。さて、主の方はどうかな。皿洗いを、今はしているはずだけれど──」
歌仙が厨の方に足を向けた瞬間、パリンという甲高い音が響いた。
「主!?」
明らかに陶器が割れる音に血相を変え、歌仙は厨に飛び込む。そこで彼が見た景色は、流し場に飛び散った茶碗の破片と、それをぼーっと眺めている主である藤だった。ざあっと流れ出る水道の音だけが、やたら耳の奥にまで強く響く。
慌てて主に駆け寄った彼は、ざっと流し場の様子を見る。桶の中には主の食器と自分の食器が、まだ汚れたまま浮かんでいた。どうやら歌仙が掃除をしている間、主はただ流し場に汚れた食器を浮かべたまま、見つめていたらしい。
「まったく、何をしているんだい」
声をかけると、まるで今目を覚ましたのようにびくりと肩を震わせて藤は歌仙を見上げた。歌仙を見つめる藤色の瞳には、動揺と緊張が走っている。これから何を言われるのだろうと、怯えているようにも見えた。
茶碗を割ったくらいで、目くじらをたてるほど歌仙も狭量ではない。だが、何か言わねばと彼が口を開きかけたとき、
「……歌仙。掃除は?」
機先を制して、薄い唇を震わせるようにして、そっと藤が声を発した。
「とっくの昔に終わったよ。君は皿を洗う前に水浴びをたっぷりさせるという趣味でもあるのかい」
「え? ああ……うん。そうだね」
心ここに在らずの藤の返事は無視して、割れた食器を片付けようと歌仙は主の手元に目を落として気が付く。主の濡れた指から、真っ赤な雫がぽたぽたと流れ落ちていた。
「怪我までしてるじゃないか。もしかしてまだ寝てるんじゃないだろうね? まったく──」
様子を見ようと、歌仙がその手を掴んだ時。
「──っ!」
鋭く息を呑む音。次いで、パンッという鋭く空気を割る音に思わず歌仙は数度瞬きをする。彼女の手が自分の手を振り払ったのだということに気がついたのは、数拍遅れてからだった。
再び厨に沈黙が落ちる。流し場で水流に弄ばれた器が、かちゃかちゃとぶつかり合う音だけが響いていた。
「…………あ」
藤の口から、言葉にならない声が漏れる。自分の手を胸に抱くようにして、数歩歌仙から距離を置いていた。
「もしかして、痛かったのかい」
「……うん。そう。びっくりして。ごめん」
「それだけ動かせるということなら、大事ないだろうね。皿洗いは僕がしておくよ」
歌仙に言われ、藤は小さく首を縦に振って踵を返した。
見えなくなる背中を見送ってから、歌仙は自分の手をじっと見つめる。
刀であった自分を思い、人間になった自分を振り返る。
けれども、生まれてから人間だったであろう主とは、根本的に何かは異なるだろう。その何かに触れたから、主はあれほどまで強く拒絶したのではないか。
「……力を入れすぎてしまったかな」
体格から見ても、単純な力ではきっと自分の方が上だ。鍛錬の話を蒸し返しても、結局最後には藤は力で彼に負けていた。
咄嗟のこととは言え、痛い思いを更にさせたのではと歌仙は数秒考え込む。しかし刀の彼がいくら人間の主について考えても、人間としての生活を始めて一週間の歌仙では分かることなど、たかが知れていた。
「……後で、主に訊いてからにしよう。とりあえず割れたものを片付けないとね」
結局、結論を先延ばしにして流し場を見つめ直す。そこには、無残な茶碗の破片が浮かんでいた。それは、朝食の時に「サイズが小さい」と藤が不平を漏らしていた茶碗だった。
***
「鍛刀するのは、まずは短刀からがいいと政府から貰った資料にあったね」
「うん。短刀の鍛刀を審神者が担当……ふふっ」
「あまり面白みのない冗談で、僕の周りを寒くするのはやめてくれないかな?」
ざっざっと草履が石畳を踏みしめる音が響く。その隣を、同じようにぱたぱたという小さな小気味よい音が追いかける。歩幅の大きい歌仙と、その後についていく藤の足音であった。場所は万屋の並ぶ道の途中、二人は買い物のため外に赴いていた。
「だって、三つも言葉をかけられたんだよ。和歌だってあるよね、掛詞というやつ」
「主の品性も風情も感じられない冗談と、詠み人が必死で考え抜いた掛詞を一緒にしないでもらえるかい?」
遠慮容赦のない歌仙の突っ込みに、主である藤は唇を軽く噛んで押し黙った。本人なりには傑作だと思ったらしい。
万屋に足を向けたのは割れた茶碗を買い直すためと、新しく鍛刀する予定の刀剣男士のために必要そうな最低限の品を揃えるためだった。このご時世、しかるべき所に頼めばすぐ本丸に荷物は届く。だが、仕事場の上司ともいえる政府とやらが用意した買い物の場――万屋というものに興味を持ったらしい主が、折角だからと言い張る手前、歌仙も断るつもりはなかった。
今朝、手を払わせるようなことをしてしまったという免罪として、少しは好きなことをさせてあげようという気持ちも歌仙の中にはあった。
「背丈がわかってから服は選んだ方がいいから、それ以外となると食器とか歯ブラシとか……」
刀である自分たちは極端な話ではあるが、人間のような生活を必要としていない。有事以外は、刀に姿を変えて放置しておいても全く問題ない。
それをわざわざ生活環境から整えようと考えるのは、単に刀剣男士と人間を混同しているからか、それとも刀であろうと人のように扱おうとする優しさからか。どちらにしても、歌仙兼定という個人からすると、主のその考え方は好ましいと思えた。
「とか何とか言いながら、君のその片手にあるものについて聞いてもいいかい」
「団子」
「財布は僕が持った方が良さそうだね」
ひょいと彼女の手に握られていたがま口を取り上げると、ついでとばかりに藤は歌仙の片手にまだ食べていない団子の串を押し付けた。たっぷりとかけられたみたらしが、焦げ目のついた団子の表面でてらてらと光っている。
「よかったら食べて。結構美味しかった」
唐突に何を言い出しのかと歌仙が眉をひそめたとき、
「今朝、手を払ってごめん。突然触られて驚いただけだから、気にしないで」
彼から顔を背けた主から謝罪の言葉を投げられた。どうやら、主は主で自分が悪いことをしたと思っていたようだ。
「そういうことなら、ありがたく受け取っておこうか。ただ僕は、どちらかというと団子より花の人間でね」
「僕はどちらかというと花より団子だ」
「それはこの一週間で嫌という程知ったよ」
初日の炭混じりの料理を経て、歌仙兼定は自分の舌を満足させるために、早急に料理の腕を向上させる必要性に迫られた。その結果、自分でも満足できる代物ができるようになった頃には、主はすっかり彼に餌付けされてしまったというわけだ。この一週間、三食毎日お代わりを強請られるような日々を過ごせば、彼女の食に対する好みや傾向も嫌というほど分かるというものである。
渡された団子を、道端に置かれていた長椅子に腰掛けて口に入れる。どこで買ったのかは知らないが、口に入れると焦げ目と甘辛いタレの絶妙な調和が舌へと広がっていく。
ふと隣の主に目をやると、当の本人は明後日の方向を見ていた。視線の先には、どこにでもありそうな雑貨屋が一つある。その前では、店先に並べられてある品を見ながら、あれこれ話しているらしい男女がいた。
「おや、あれは……」
「歌仙の知り合い、じゃないよね」
「まさか。男性の方は刀剣男士だなと思ってね」
腰に一振りの打刀を挿していることからも、間違いない。万屋は政府公認の商店街のようなものであるし、刀剣男士がいること自体はさして珍しいことではない。
隣に立つ女性は主である審神者というところだろうか。こざっぱりとしたジャケットやパンツを身に着けており、身なりだけを見れば歌仙の隣に座る主とさして変わらなかった。刀剣男士の方は、黒い髪に黒いコートを纏っていた。首元からかけたマフラーや袖に付けられている手甲が、夜闇に咲く椿のように真っ赤な彩りを与えている。
「彼も刀剣男士なんだ。歌仙と随分違うね」
「刀が違えば、見目も変わるというものだよ」
「……そう」
歌仙以外の刀剣男士が物珍しいのか、じっと主は二人を視線で追っていた。主の刀である歌仙としては少しばかり面白くないが、かと言って邪魔をするのも子供っぽい。言いようのないもやもやは、物としての嫉妬と形容してもよかったが、歌仙にはその感情を言語化できるほど、己と主の関係に対する理解がまだなかった。
団子が彼の口の中に全て無くなった頃、ようやく藤は観察をやめて口を開く。
「刀剣男士、なんだよね」
「僕の目利きに間違いがあるとでも?」
少しむっとしたように尋ねると、彼女はゆるゆると首を横に振る。
「ううん。そうじゃなくて」
「じゃあ何だと?」
「……なんでもない」
すでに店前での会話を終えて、その二人連れは別の店舗へと向かっていた。主もようやく視線で彼らを追うのをやめて、長椅子から立ち上がる。
二人連れが立っていた店舗にすたすたと歩み寄り、看板を見上げてから、主は満足そうに一つ頷いた。
「ここ、雑貨屋だよね。茶碗もあるかも」
そういえば、茶碗を買いに来ていたのだったか。
当初の目的を思い出し、歌仙も串を近くの屑箱に入れて藤と共に店内へと入った。
***
お店の中は広くもなく、かといって狭くもない、程よい規模のものだった。丁寧に種別された陳列棚には、品々が整然と並べられており、ただ見て回るだけでも楽しめる。だが、品々に目移りするよ先に、問題が発生した。
「僕としたことが失念していたよ。子供のような主のことだから、こんな所に来ればすぐにどこかに行ってしまうだろうことは想像できたはずなのに」
まばらに立つ人をすり抜けて食器売り場に真っ直ぐ行ったはずなのに、気がつけば連れの主は行方不明になっていた。
この売り場に、食べ物は売っているのだろうか。そこまで考えてから、思考がいつしか主の色に染まっていることに気がつき、歌仙は今日で何度目になるか分からないため息をつく。
「三つ四つの子供じゃないんだ。僕の方で目利きをしておこうかな」
答える人がいない独り言は、いつも以上にどこか空々しく聞こえた。
それから五分ほど。歌仙のお眼鏡にかなう食器を見繕った頃に、彼はぐいと外套が引かれるのを感じた。振り向けばいつもの澄ました顔の主が、そこに立っていた。
「こんなさして広くもない店でも、勝手にふらふらしてはいけないだろう」
「色々あったから。つい」
「色々?」
「……駄菓子とか?」
「二言目には食べ物の話しかできないのかい、きみは」
藤が指を指した先には、色とりどりの粒が鮮やかな金平糖が大きなビンに入っていた。
「それよりほら、きみにうってつけの茶碗があったよ」
歌仙は言いつつ、大きめのどんぶりにも使えそうな茶碗を彼女の目の前にずいと突き出した。サイズもさることながら、それには淡い紫で藤の花が点々と描かれている。
「君の名前は藤だろう? 本名ではないのだろうけれど、嫌いではなさそうだったからね」
「そんなこと、話したっけ?」
「狭野方の花の話をしたとき、笑っていただろう」
鳩が豆鉄砲を食らったような顔をして、主はぱちくりと一度瞬きをして歌仙を見つめる。やがて、その時のことを思い出したのか、「うん」と小さく頷いた。まるで何か恥ずかしがるように、口元をもごもごさせているが、結局彼女の口からそれ以上の言葉は無かった。
「顕現する予定の短刀には、少し小さいものを用意したよ。覚え書きによると、彼らは総じて小柄らしいからね」
「ありがとう。そうだ、歌仙。歌仙は何か欲しいものはないの?」
「僕が? いや、唐突に言われてもね」
「歌仙は歌が好きだよね。自分で詠んでみたら?」
不意にそう言われて、歌仙は今日までの自分の在り様を振り返った。
もちろん歌仙兼定の本分は刀だ。しかし、それ以外に歌仙兼定の人間としての要素に強く影響を与えているのは、歌というものだろう。名がそのまま体を形作ったように、彼の中で歌というものは、他の事象よりやや特別な位置付けがされているものだった。
「僕が、自分で?」
「他の人が詠んだのを覚えるのって眠くなるから、それなら自分で詠んだ方が楽しいかなって」
「きみじゃないんだから、先人の言葉をちゃんと味わうことはできるよ。でも、そうか。僕が詠むというのは考えたことがなかったな」
主に促され、その思考を進める。
日々の移ろいを眺め、生活を見つめ、その時感じたものを歌という形にする。その日々は、自分が当初思っていた以上に心を浮き足立たせる――楽しいものに思えた。
「じゃあ、筆と硯と唄のための短冊と……」
「僕はここで待ってるから持ってきたら?」
「本当に、どこにも行かないだろうね」
「行かないよ。僕ってそんなに好き勝手にふらふらする人だと思われてるの?」
「きみは自分の胸に手を当てて、よく聞いてみたらどうだい?」
不服そうに口をへの字に曲げた主は脇に置いて、歌仙は筆記用具の売り場に足を向ける。この売り場の先客は二人だけだった。人混みが少ないおかげでゆっくり見ることができそうだと、歌仙は頬を緩ませる。
「失礼するよ」
先客である黒髪の幼子と、その連れらしい刀剣男士に一礼して、歌仙は筆売り場に並べられている品々を一つ一つ手にとっていく。ただ選ぶという工程だけを取っても、胸の奥が弾むような気持ちになる。なるほど、人の姿を楽しむとはこういうことなのかと、彼は改めて主の勧めに感謝した。
これぞというものを手にとり、短冊や硯など必要そうなものや、参考になりそうな本を手にして踵を返そうとしたときだった。くい、と外套が引かれる感覚に、歌仙は思わず振り返った。
「主、ふらふらしないようにと言っただろう……あっ」
声が途中から尻すぼみになり、驚きのそれに変わったのは、自分の外套を引いていたのが主ではなかったからだ。先客としてここに立っていた幼子の小さな手が、くいくいと引っ張っていたのである。
「ああ、きみ。だめじゃないか、余所の刀剣男士の服を引っ張っては」
すぐ側に立っていた刀剣男士と思しき青年、髪から纏う着物まで真っ白の彼が少女を抱き上げる。肝心の子供の方は、むすっとした顔で歌仙を見つめてから、自分を抱き上げた刀剣男士の手をとって、何やら指で文字を綴っている。
「ん……? ああ、そういうことか。そこの歌仙兼定、少しいいだろうか」
「構わないが、どうしたんだい?」
「きみは、あっちに立っている者の刀剣男士か?」
あっちと手で示された方向には、ぽつねんと立ち尽くしている朱色のぴょんぴょんと跳ねた毛が見えた。間違いなく、主のことだろう。
「ああ、そうだよ。主が何か?」
「きみの主に、お礼を言ってもらえるだろうか」
不意に告げられた伝言に、歌仙は首を傾げる。
「実は、俺たちは先ほどまで装飾品売り場の方にいたんだがな。俺の主が言うには、丁度、俺の主ときみの主が同時に同じ物を手に取ったらしい。だが、ざっと見た限り、売り場に同じ物はない。どうしたものかと思ったら、彼女が俺の主に譲ってくれたんだそうだ」
先ほどはぐれていた間に、どうやら主は白い刀剣男士が抱いている子供と、出会っていたらしい。青年は申し訳なさそうに眉を下げて、
「お礼を言おうとしたんだが、それより先にふらりといなくなってしまったんだそうだ。それでもってよくよく見れば、きみ達が話しているのを見て声をかけようとしたが、どうしたらいいか分からずに困っていた……と主が言っていたというわけさ」
白髪の青年は、自分が抱え上げている幼子をちらと見る。肝心の彼女は、歌仙の視線から外れるように顔を逸らしている。見知らぬ刀剣男士にじろじろと見られるのが、恥ずかしいという素振りにも見えた。
ひょっとしたら、自分から直接行かなかったのも、人見知りのためかもしれないと歌仙は思う。その気持ちは、少し彼にも分かった。自分とて、全く知らない相手に対して、いきなり意気揚々と声をかけたいとは思わない。
「そういうことなら、僕から言っておくよ。わざわざありがとう」
その言葉を聞き、初めて少女はこちらをじっと見つめてからぺこりと頭を下げた。それで話は終わり、と思っていた歌仙は、しかし純粋なる興味から、二人へと一つ質問することにした。
「もし良かったら訊きたいんだが、主は一体何を買おうとしてたんだい?」
少女は、自分の手の中にあるそれを歌仙に見せた。それを目にして、彼の翡翠と同じ色をした瞳が見開かれる。少女の手の中にあるそれを眺め、歌仙はきっかり十秒、その場に立ち尽くした。
やがて感謝の言葉を二人に告げ、歌仙は主のもとに向かった。微かに残った疑問を、頭の隅に置きながら。
***
炉の日が爆ぜる音が、遠くで聞こえる。パチリと火花が飛び散り、新たに生まれた銀がそれを反射する。薄暗い部屋を照らすものは、それらだけだった。
鍛刀のための部屋には、今生まれたばかりの小さな刀が在った。歌仙のものと比べれば短い、短刀と呼ばれるものだ。生まれたての刃は、今は白布を被せられた台座の上に厳かに載っている。
「本当にできた……」
「まだ最後の大事な作業が残っているよ」
歌仙に促されるまでもなく、藤は唇をぎゅっと噛んで静かに手を伸ばした。その手が震えているのは緊張からか、それともそれ以外の感情からか。主の背中越しに短刀を見つめている歌仙に、彼女の思いを知ることなどできるわけがなかった。
主の小さな手が短刀に触れるか触れないかという時、パァっと辺りを薄紫の花びらが舞う。その花は藤の花に似ていて、歌仙は自分が顕現したときのことを思い出す。薄い紫に、ところどころ混じる濃い紫。ふわりと風が舞い、澄んだ香りが歌仙の鼻を通り過ぎていく。
時間にして僅か数秒。藤の花が宙に溶けて消えたとき、ふわりと小さな人影が部屋に舞い降りた。
まず目に入ったのは、白布に負けず劣らずの白い柔らかそうな髪。その肌も、まるで触れれば壊れそうなほどな透き通った白だ。辛うじて点々と鼻の上に散るそばかすが、その者が人の形をしているのだ、ということを見ている者に思い出させてくれる。
ほっそりとした肢体を包むのは、濃紺の装束。ぴったりとした袖は洋風のものであり、現世の服装に詳しい者ならば、学校の制服のようだと言ったことだろう。
人影の足が地に着いた瞬間、そこから跳ねた五枚の花弁が、それぞれ小さな塊となっていく。光は、子猫のような大きさに膨らんだかと思いきや、真っ白な毛並みに黒い縞模様が鮮やかな虎の子と変じた。
色素の薄い睫毛が震え、現れた者の瞼が開く。薄い唇が震え、己の名を音とする。
「僕は、五虎退です。あの……しりぞけてないです、すみません」
か細い少年の声が、部屋の静けさを破った。
五虎退。それが、この本丸で二振り目となる刀の名であった。