短編置き場
ふと気がつけば、目の前が白に染まっていた。一体これはどうしたものかと目を凝らして、髭切はハッと気がつく。白い中に垣間見える落ち着いた緑。その位置を確認して、ここが本丸の庭だと理解を進めることができた。
濃い白い霞によって庭のほとんどが覆い尽くされてしまっている。そのせいか、本丸のはずなのにまるで異なる世界に迷い込んだような気持ちにさせられた。
夜に冷え込んだせいで、霧でも出ているのだろうか。手を伸ばしたら自分の手すら見えなくなるほどの霧だ。まるで、庭に濁った白湯を流し込みでもしたかのようだった
「……あれ、僕は何をしにきたんだっけ」
縁側に腰掛け、彼は真っ白に染まった庭を見ている。そのことは分かるのに、それまで何をしていたのかが分からない。まるで記憶の中にまで霞が入り込んできたようだ。どれだけ思い出そうとしても、直前まで自分がしていた行動を辿ることすらできなかった。
「ま、細かいことはいいよね」
いつものように思考を切り替えて、髭切はくるりと周りを見渡す。自分のそばに茶の一つもないということは、縁側でのんびりと日向ぼっこというわけではないのだろう。早起きをして庭を見つめている内にうたた寝でもしてしまったのだろうか。
きょろきょろと辺りを見回すついでに足元を見て、思わず髭切は目をぱちくりとさせる。庭を白く覆い隠していた霞は、いつのまにか彼の足元までやってきていた。そのせいで視線を落としても、膝より下が見えなくなってしまっている。
「…………」
同時に、得体の知れない寒気が足を伝うように上ってくる。自分という存在を丸ごと消されていくような不気味さに、思わず髭切は普段浮かべている笑みを引っ込める。さながら消しゴムで消されていく落書きのように、じわじわと存在そのものが削られていく。そんな錯覚を覚えるほどだ。
「……本当にここは本丸なの?」
取り戻した警戒心と共に、髭切は立ち上がろうとする。けれども金縛りにでもあっているかのように、それとも足そのものがすでに存在を無くしてしまったかのように、その場から動くことができない。誰かに掴まれているというよりも、まるで力を入れる対象自体が失われたかのようだった。
思ったよりも、まずいことに巻き込まれている。髭切がそう認識したとき、不意にぎしりと床板の木が軋む音がした。思わず振り返るとそこには本丸の最初の刀の歌仙、それに自分の半身のような存在──弟の膝丸がいた。
彼らはひどく落ち着き払った顔で、こちらを見ている。いつの間にか縁側にまで迫ってきた不気味な白い霞など、まるで眼中にないかのようだった。
「何をしてるんだい」
「歌仙、ちょうどよかった。何だか動けなくて。それにこの霞は何? 僕がうたた寝している間に何が起きたの」
問いかけると、歌仙は奇妙なものでも見るように髭切を見つめて首を傾げた。あまりに普段通りの彼の仕草が、今は何かとても不気味なものに思える。
「どこも何も、■■。何も変わったことはないだろう」
瞬間、ぞくりと背筋に怖気が走る。
呼びかけられた。頭ではそう認識しているのに、耳に入ったのは耳障りな雑音だけだった。彼が口にした音は聞こえることなく、ただ不自然なノイズにかき消されていく。
「歌仙、今のは」
「どうしたのだ、兄者。そんな顔をして」
隣にいる弟が座っている髭切に視線を合わせるようにしゃがみこむ。
「今、歌仙が僕の名前を呼んだのに聞こえなかったよね」
「名前? 兄者の名前は■■だろう」
再び不愉快な雑音が弟の言葉も塗りつぶしていく。
呼ばれたのはわかるのに、耳がそれを受け付けまいとしているかのように、音だけが届かない。
ならば、自分が口にすれば。
そう思い口を開いたのに、声は言葉にならずに消えていく。
言葉にするために思い出そうとすればするほど、頭の隅からどんどん、名前というものが零れ落ちていく。
まるで、穴の空いた桶に水を注ぎ込むように、ポタポタと記憶が抜け落ちていく。
名前。
そんなものはどうでもいいと、語った記憶はあるのに。
それでも大事にした方がいいと言われた思い出はあるのに。
何と答えたのか、何と呼ばれたいと話したのか、思い出せない。
「主は」
そこまで口にして、髭切はハッとする。この異常な現象に主が巻き込まれてるなら、彼女の元に行かなければならない。
だというのに、主のことを思い出そうとすればするほど彼女が自分の中から消えていく。彼女の姿が、顔が、名前が、存在が薄くなっていき幻と散っていく。
気がついてみれば、いつの間にか霞は髭切の胸まで迫ってきている。歌仙の姿も膝丸の姿も、幻のように消えてしまって彼は一人きりで縁側に取り残されていた。
手も足も既に見えなくなり、動かそうとしても失せた感覚では何もできようがない。まるで、自分という存在が元から幻だったかのように、何もかもが白く塗りつぶされていく。
(ああ、でも僕はもともと──)
どこかで分かっていたことなのかもしれない。
物語で語られ、名を転々とした、古い古い刀。
そんな『■■』という存在は、形もない曖昧でぼんやりとしたもので、きっとこの霞のようなものなのではないかと。
今はもう唯一動かせるもの――自分の瞳で白く煙る庭を見つめる。
霞が濃いミルクのように覆い尽くす世界で、微かな綻びが生まれていた。その隙間から見えたのは、本丸にある藤棚だ。
春になれば薄紫のカーテンで視界を覆い、日々の疲れを癒やす憩いの場。その花の姿を思い出した時、彼は目を見開く。
「…………藤」
言葉に引きずられるように、一気に記憶が溢れかえる。花と同じ名を持つ、誰かのことを。
──主のことを。
途端、まるで朝日が差し込むように強烈な光が彼の周りを霞ごと包んで行く。霞より鮮烈な、目映い白に溶けて何もかもが見えなくなっていく。
「髭切!」
ただ一つ、耳に届く声が聞こえた。
「────」
彼は、唇を動かす。
思い浮かぶ一つの名を呼ぶ。
そして意識すら光に溶かされ、何もかもが消えていく──。
ひゅっと鋭く息をのむ音と共に、視界が急速に色づいていく。いつもは落ち着いた色合いに見える天井の木目が、今日はやけに鮮やかに彼の瞳に飛び込んでくる。
どうやら自分は眠っていたらしい。なら、あれは夢だろうか。
そこまで考えたとき、口の中へと空気が一気に入り込んできて彼は噎せ返ってしまった。げほげほと咄嗟に入りすぎた空気を吐き出していると、
「髭切、髭切っ」
自分を呼ぶ声がする。
先ほどのように不快な雑音に消されてはいない。耳にしっかり届いた『髭切』が、寝起きではっきりしない頭にじんわりと染み込んでいく。
「……主?」
まだ焦点の定まらない視界に、にゅっと主の顔が現れる。だが彼女はくしゃりと顔を歪めると、その場でぼろぼろと泣き出した。髭切の顔の上にしょっぱい雨がぽたぽたと落ちてくる。
「主、どうしたの?」
「どうしたも何も、出陣から帰ってきたら急に、倒れて、目が覚めなくてっ」
声にならない声でどうにか説明してから、彼女は髭切の首の辺りに飛びついてただただ嗚咽を漏らし始めた。
しゃくりあげる主を宥めながら、どうにか髭切は頭の中で記憶を整理する。あの霞みがかった空間では全く思い出せなかったことが、今はするすると振り返ることができた。
(時間遡行軍を倒しきったと思って、帰ろうとしていた。でも、転送間際に敵の気配がして──)
本丸に転移するときに、時間遡行軍が紛れ込んだら当然彼らを本丸に連れ帰ることになる。そんなことを許すわけにはいかないと、咄嗟に無理な姿勢で迎撃をした。そのため、敵から一撃は貰ったが傷は浅かったはずだ。
確認するように怪我をした箇所──左胸のあたりに意識をやると、主が治してくれたのか痛みは少しも感じられなかった。
けれども本丸に戻った瞬間、どういうわけか急に気が遠くなり──その後から、覚えていない。
「手入れが終わって、皆元気になったのに君だけ起きないから心配してたんだよ! しかも丸一日!」
ようやく落ち着いたのか、首に絡ませていた腕を緩めた主は、泣きながら怒ったような顔でぺしぺしと髭切の腕を軽く叩いた。彼女なりに心配への抗議らしい。
たしかに、最後に見た時より主の顔は少しばかり疲れているように見える。ならば安心させねばと手を伸ばして頭を撫でると、彼女の涙腺は再び決壊寸前になった。
「きっと、怪我をしたところが良くなかったのかもね。夢を見ていたんだ。でも、何故だか名前が思い出せなくて」
あの夢が何なのかは分からないが、あのままではきっと起きられなかったかもしれない。白い靄に自分も溶け込んで、消えてしまっていただろう。確かなのは主が呼ぶ声が引き戻してくれたということだ。
「だから起き方が分からなくて、迷子になっていたのかも」
「だったら、何度でも呼ぶから。髭切、髭切、髭切髭切っ」
ずず、と鼻をすすりながら彼女は嗚咽混じりの声で名前を連呼する。呼ばれるたびに、自分という存在がこの世界という場所に根を張っていくような不思議な安心感が芽生えていく。
だから、彼女にお礼を言わねばと髭切は口を開く。
「ありがとう、狭野方の花」
返す言葉を聞き、彼女はハッと顔を上げた。
それは、普段は『主』としか呼ばない彼が、万感の思いを込めて呼びかけるときの名だ。
藤の花の異名であり、彼女の愛称でもある名を耳にして、主──藤は、ふわりとはにかんでみせる。
夢の中で差し込んだ光のように、朝日のような暖かい笑顔だった。
「どういたしまして、髭切」
再び髭切にしがみついた彼女が、涙で濡れた声で囁く。
「おかえりなさい」
「ただいま」
濃い白い霞によって庭のほとんどが覆い尽くされてしまっている。そのせいか、本丸のはずなのにまるで異なる世界に迷い込んだような気持ちにさせられた。
夜に冷え込んだせいで、霧でも出ているのだろうか。手を伸ばしたら自分の手すら見えなくなるほどの霧だ。まるで、庭に濁った白湯を流し込みでもしたかのようだった
「……あれ、僕は何をしにきたんだっけ」
縁側に腰掛け、彼は真っ白に染まった庭を見ている。そのことは分かるのに、それまで何をしていたのかが分からない。まるで記憶の中にまで霞が入り込んできたようだ。どれだけ思い出そうとしても、直前まで自分がしていた行動を辿ることすらできなかった。
「ま、細かいことはいいよね」
いつものように思考を切り替えて、髭切はくるりと周りを見渡す。自分のそばに茶の一つもないということは、縁側でのんびりと日向ぼっこというわけではないのだろう。早起きをして庭を見つめている内にうたた寝でもしてしまったのだろうか。
きょろきょろと辺りを見回すついでに足元を見て、思わず髭切は目をぱちくりとさせる。庭を白く覆い隠していた霞は、いつのまにか彼の足元までやってきていた。そのせいで視線を落としても、膝より下が見えなくなってしまっている。
「…………」
同時に、得体の知れない寒気が足を伝うように上ってくる。自分という存在を丸ごと消されていくような不気味さに、思わず髭切は普段浮かべている笑みを引っ込める。さながら消しゴムで消されていく落書きのように、じわじわと存在そのものが削られていく。そんな錯覚を覚えるほどだ。
「……本当にここは本丸なの?」
取り戻した警戒心と共に、髭切は立ち上がろうとする。けれども金縛りにでもあっているかのように、それとも足そのものがすでに存在を無くしてしまったかのように、その場から動くことができない。誰かに掴まれているというよりも、まるで力を入れる対象自体が失われたかのようだった。
思ったよりも、まずいことに巻き込まれている。髭切がそう認識したとき、不意にぎしりと床板の木が軋む音がした。思わず振り返るとそこには本丸の最初の刀の歌仙、それに自分の半身のような存在──弟の膝丸がいた。
彼らはひどく落ち着き払った顔で、こちらを見ている。いつの間にか縁側にまで迫ってきた不気味な白い霞など、まるで眼中にないかのようだった。
「何をしてるんだい」
「歌仙、ちょうどよかった。何だか動けなくて。それにこの霞は何? 僕がうたた寝している間に何が起きたの」
問いかけると、歌仙は奇妙なものでも見るように髭切を見つめて首を傾げた。あまりに普段通りの彼の仕草が、今は何かとても不気味なものに思える。
「どこも何も、■■。何も変わったことはないだろう」
瞬間、ぞくりと背筋に怖気が走る。
呼びかけられた。頭ではそう認識しているのに、耳に入ったのは耳障りな雑音だけだった。彼が口にした音は聞こえることなく、ただ不自然なノイズにかき消されていく。
「歌仙、今のは」
「どうしたのだ、兄者。そんな顔をして」
隣にいる弟が座っている髭切に視線を合わせるようにしゃがみこむ。
「今、歌仙が僕の名前を呼んだのに聞こえなかったよね」
「名前? 兄者の名前は■■だろう」
再び不愉快な雑音が弟の言葉も塗りつぶしていく。
呼ばれたのはわかるのに、耳がそれを受け付けまいとしているかのように、音だけが届かない。
ならば、自分が口にすれば。
そう思い口を開いたのに、声は言葉にならずに消えていく。
言葉にするために思い出そうとすればするほど、頭の隅からどんどん、名前というものが零れ落ちていく。
まるで、穴の空いた桶に水を注ぎ込むように、ポタポタと記憶が抜け落ちていく。
名前。
そんなものはどうでもいいと、語った記憶はあるのに。
それでも大事にした方がいいと言われた思い出はあるのに。
何と答えたのか、何と呼ばれたいと話したのか、思い出せない。
「主は」
そこまで口にして、髭切はハッとする。この異常な現象に主が巻き込まれてるなら、彼女の元に行かなければならない。
だというのに、主のことを思い出そうとすればするほど彼女が自分の中から消えていく。彼女の姿が、顔が、名前が、存在が薄くなっていき幻と散っていく。
気がついてみれば、いつの間にか霞は髭切の胸まで迫ってきている。歌仙の姿も膝丸の姿も、幻のように消えてしまって彼は一人きりで縁側に取り残されていた。
手も足も既に見えなくなり、動かそうとしても失せた感覚では何もできようがない。まるで、自分という存在が元から幻だったかのように、何もかもが白く塗りつぶされていく。
(ああ、でも僕はもともと──)
どこかで分かっていたことなのかもしれない。
物語で語られ、名を転々とした、古い古い刀。
そんな『■■』という存在は、形もない曖昧でぼんやりとしたもので、きっとこの霞のようなものなのではないかと。
今はもう唯一動かせるもの――自分の瞳で白く煙る庭を見つめる。
霞が濃いミルクのように覆い尽くす世界で、微かな綻びが生まれていた。その隙間から見えたのは、本丸にある藤棚だ。
春になれば薄紫のカーテンで視界を覆い、日々の疲れを癒やす憩いの場。その花の姿を思い出した時、彼は目を見開く。
「…………藤」
言葉に引きずられるように、一気に記憶が溢れかえる。花と同じ名を持つ、誰かのことを。
──主のことを。
途端、まるで朝日が差し込むように強烈な光が彼の周りを霞ごと包んで行く。霞より鮮烈な、目映い白に溶けて何もかもが見えなくなっていく。
「髭切!」
ただ一つ、耳に届く声が聞こえた。
「────」
彼は、唇を動かす。
思い浮かぶ一つの名を呼ぶ。
そして意識すら光に溶かされ、何もかもが消えていく──。
ひゅっと鋭く息をのむ音と共に、視界が急速に色づいていく。いつもは落ち着いた色合いに見える天井の木目が、今日はやけに鮮やかに彼の瞳に飛び込んでくる。
どうやら自分は眠っていたらしい。なら、あれは夢だろうか。
そこまで考えたとき、口の中へと空気が一気に入り込んできて彼は噎せ返ってしまった。げほげほと咄嗟に入りすぎた空気を吐き出していると、
「髭切、髭切っ」
自分を呼ぶ声がする。
先ほどのように不快な雑音に消されてはいない。耳にしっかり届いた『髭切』が、寝起きではっきりしない頭にじんわりと染み込んでいく。
「……主?」
まだ焦点の定まらない視界に、にゅっと主の顔が現れる。だが彼女はくしゃりと顔を歪めると、その場でぼろぼろと泣き出した。髭切の顔の上にしょっぱい雨がぽたぽたと落ちてくる。
「主、どうしたの?」
「どうしたも何も、出陣から帰ってきたら急に、倒れて、目が覚めなくてっ」
声にならない声でどうにか説明してから、彼女は髭切の首の辺りに飛びついてただただ嗚咽を漏らし始めた。
しゃくりあげる主を宥めながら、どうにか髭切は頭の中で記憶を整理する。あの霞みがかった空間では全く思い出せなかったことが、今はするすると振り返ることができた。
(時間遡行軍を倒しきったと思って、帰ろうとしていた。でも、転送間際に敵の気配がして──)
本丸に転移するときに、時間遡行軍が紛れ込んだら当然彼らを本丸に連れ帰ることになる。そんなことを許すわけにはいかないと、咄嗟に無理な姿勢で迎撃をした。そのため、敵から一撃は貰ったが傷は浅かったはずだ。
確認するように怪我をした箇所──左胸のあたりに意識をやると、主が治してくれたのか痛みは少しも感じられなかった。
けれども本丸に戻った瞬間、どういうわけか急に気が遠くなり──その後から、覚えていない。
「手入れが終わって、皆元気になったのに君だけ起きないから心配してたんだよ! しかも丸一日!」
ようやく落ち着いたのか、首に絡ませていた腕を緩めた主は、泣きながら怒ったような顔でぺしぺしと髭切の腕を軽く叩いた。彼女なりに心配への抗議らしい。
たしかに、最後に見た時より主の顔は少しばかり疲れているように見える。ならば安心させねばと手を伸ばして頭を撫でると、彼女の涙腺は再び決壊寸前になった。
「きっと、怪我をしたところが良くなかったのかもね。夢を見ていたんだ。でも、何故だか名前が思い出せなくて」
あの夢が何なのかは分からないが、あのままではきっと起きられなかったかもしれない。白い靄に自分も溶け込んで、消えてしまっていただろう。確かなのは主が呼ぶ声が引き戻してくれたということだ。
「だから起き方が分からなくて、迷子になっていたのかも」
「だったら、何度でも呼ぶから。髭切、髭切、髭切髭切っ」
ずず、と鼻をすすりながら彼女は嗚咽混じりの声で名前を連呼する。呼ばれるたびに、自分という存在がこの世界という場所に根を張っていくような不思議な安心感が芽生えていく。
だから、彼女にお礼を言わねばと髭切は口を開く。
「ありがとう、狭野方の花」
返す言葉を聞き、彼女はハッと顔を上げた。
それは、普段は『主』としか呼ばない彼が、万感の思いを込めて呼びかけるときの名だ。
藤の花の異名であり、彼女の愛称でもある名を耳にして、主──藤は、ふわりとはにかんでみせる。
夢の中で差し込んだ光のように、朝日のような暖かい笑顔だった。
「どういたしまして、髭切」
再び髭切にしがみついた彼女が、涙で濡れた声で囁く。
「おかえりなさい」
「ただいま」