本編第一部(完結済み)

「次郎さんの初陣の勝利を祝って、かんぱーい!!」
「乾杯」
「かんぱい、です」

 あちこちでカチンという陶器同士がぶつかる、涼やかな音が響く。祝われる方であるはずの次郎が、乾杯の音頭をとるという奇妙な形式ではあるものの、今更野暮な指摘を入れる者もいない。各々が掲げた湯飲み、おちょこ、グラスなどなどの中身を口にして、満足そうに笑い合っていた。
 彼らが囲んでいる食卓は、今までと異なり二つの長机を繋げたものになっていた。流石に大柄の次郎が顕現したあとも、一つの卓袱台で食事を済ますのは、至難の業だったからだ。
 その机の上には、大きな鍋が二つ置かれていた。取り囲むように置かれた皿の上には、切られたばかりの野菜、豆腐、あるいは練り物の類がある。少し離れた場所には、艶々とした脂がのった肉が盛られていた。見るからに、これから鍋料理をすると分かる整いっぷりだ。

「主が手ずから、野菜を切ってくれるなんてね。次郎が戻ったら宴会だと言ったときは、何を用意したものかと悩んでいたから助かったよ」
「歌仙達は、疲れているだろうと思ったから。僕が全部準備したら美味しいものはできないし、鍋ならすぐにできるし、焦がすこともないかなって」

 準備をしたのは、普段厨を牛耳っている歌仙ではなく、主である藤だった。戻ってきてすぐに、宴会だ酒だと嬉しそうに語る次郎を見た彼女は、報告を聞くのもそこそこに、厨にこもって野菜の支度をしていたのだ。
 出陣で疲労している歌仙たちにさせるわけにもいかず、しかし彼らの高揚した気持ちをもてなしたいという心情も、藤にはあった。今まで、何事もなく帰還してきたことはあったが、こういった宴を開いた例は一度もない。言われなかったからやらなかっただけであったが、たまにはいいかもしれないと、沸騰している鍋を見つめながら藤は思う。

(それに、今日は手入れもしていないから気分も悪くない)

 夏祭りの後からここ暫く、軽い手入れを行っただけでも具合が悪くなることが増えているのは、彼女の密かな悩みだった。酷いときは、胃の中に丸一日物を入れられないときもあるぐらいだ。
 それについては歌仙にも五虎退にも、誰にも教えていない。打ち明けるつもりもなかった。審神者の不調など、彼らを不安にさせてしまうだけなのだから。

「主。鍋というのは、鍋奉行というものがいると僕は以前書物で読んだのだが、それは誰がやるんだい」
「えっと……野菜の煮え具合とか、肉の煮え具合が分かる人だから、普段から料理している歌仙がいいんじゃないかな」
「え、鍋の惣領がいるのかい?」

 歌仙に菜箸を渡しながら、藤は声をかけてきた髭切に頷きかける。

「うん。今が食べていいときか、そうでないのかを判断する人。その人が食べていいって言ってから、具材をとるんだよ」
「それで、歌仙の旦那~。もう食べてもいいかい?」
「まだ入れたばかりだろう!」

 早速酒を呑んでいるのだろう、歌仙に呼びかける次郎の声はどこかゆらゆらしたものだった。対する歌仙の返事は、いつもと変わらずきびきびしている。
 五虎退は、虎の子たちが鍋に手を出さないよう、彼らを集めて注意を呼びかけている。髭切は、まるで煮える瞬間を見逃すまいと言わんばかりに、鍋の中に沈んでいく豆腐や野菜を見つめていた。
 そんな彼らを見守りながら、藤は小さく欠伸をする。

(お腹空いているはずなのに、なんだか眠くなってきた)

 思えば、今日の出陣は早朝からだったこともあり早起きをしていた。その前の晩から、戻ってきた彼らが怪我をしていた場合を考え、なかなか眠れなかった。見送った後も、いつ帰ってくるのかと、気が休まらない時間を過ごしていたし、手入れのことが気になって、益々気持ちは落ち着かなくなっていった。
 加えて、無事に帰ってきた彼らを見て、今度は宴会の準備に勤しんでいたのだ。反動で眠いと感じてしまうのも、仕方ないというものである。

「主、そろそろ野菜が煮えたようだよ。肉ばかり食べていないで、野菜も食べるといい」
「…………あ、うん」

 どうやら少しうたた寝をしてしまっていたらしい。気がつけば、目の前には歌仙が用意してくれたらしい小さな器が、ちょこんと置かれていた。藤が準備したつゆの中には、まだ湯気が漂っている具が、溢れんばかりに盛られている。

「歌仙、熱いときに食べるのが美味しい料理だから、あんまり入れすぎない方がいいよ」
「そういうものかい? どうりで、随分と小さな取り皿を用意しているなと思っていたんだよ」

 藤から教えてもらったことをもとに、今度は少量の野菜を取り分けて、五虎退へと渡していく。すっかり鍋奉行が板についているようだ。
 得意げな歌仙を見守りながら、取り分けて貰った野菜の山へと、藤は箸を差し込む。ふーと息を吹きかけて冷ましながら、柔らかく煮えた白菜に歯を立てた。じんわりと広がるだしの味と、つゆの程よい酸っぱさが身に染み渡る。疲労が重なりすぎて、空腹かどうかすら曖昧な状態だが、この程度ならまだ問題なく食べられそうだ。
 もくもくと箸を進めていると、不意に藤は背後に気配を感じた。

「あ~る~じ!! ほら、呑んでるかい?」
「僕は食べる方が好きだから。それよりも次郎、五虎退から聞いたんだけど、今日は大活躍だったんだって?」
「そうなんです、あるじさま。次郎さんは、こーんな大きな敵も一回で真っ二つにして、凄かったんです」

 机の陰からぴょこんと顔を覗かせた五虎退が、興奮した様子で藤に話しかける。ちらりと当の本人を見つめていれば、ここぞとばかりに胸を張って、得意げに笑っていた。

「そうそう。次郎さんが並み居る敵をばったばったと薙ぎ倒してねえ!! 主にも見せたかったよ!!」
「う、うん。次郎、ちょっと飲み過ぎなんじゃない?」
「何言ってんのさ。これくらい、水飲んだようなもんだよ」

 バシバシと力強く肩を叩かれ、藤は少しばかり自分の肩がへこんだのではないかと思った。彼が座っていた席では、既に日本酒の一升瓶が空になっている。予算の問題もあるため、普段は晩酌で呑む酒は徳利一つ分に済ませるように努力している彼も、今日ばかりはその制限を取り払っているようだ。

「次郎がいると、敵も萎縮していたみたいだからねえ。僕としても斬りやすかったよ」
「おう、髭切。あんたもそう思うだろう?」
「ただ、僕も斬られそうになったけどね」

 嫌味なのか本音なのか、髭切が浮かべる笑顔はいつもとさして変わらない。そのはずなのに、次郎の隣に座る藤の背筋には、冷たい汗がたらりと流れ落ちていた。
 当の次郎が「ごめんごめん」と笑って済ませているのは、流石刀剣男士というべきだろうか。

「それを言うなら、アタシはあんたの声に驚かされたよ。あんな声出して斬りかかるなんて思わなくてね、一体自分の後ろに誰がいるのかと驚いたものさ。主、あんたは知ってたのかい?」
「髭切の声?」

 器に山盛りになった白菜を掻き込んでいた藤は、もごもごと口を動かしながら首を傾げる。

「そうそう。まるで鬼でもいるんじゃないかって、すごい声で――」

 次郎が何気なくそう言った瞬間、次郎以外の皆の間に緊張が走った。
 僅かな間ではあったが、暖かな白湯の中に冷たい水を一滴垂らしたような、気まずい沈黙が生まれる。
 次郎の笑顔の弧が、ほんの少し強張る。隣で見ていた主も、彼の変化には気がついていた。けれども、

「アタシも今度は声を張り上げてみようか。そしたら時間遡行軍もびびって逃げ出すだろうさ!」

 次郎は、何も尋ねることなく、再び笑う。
 自分が何か触れてはいけないものに触れたのではないか、という疑念は、あの一瞬で確かに彼の中に生まれただろう。だが、わざわざ取り上げようとはしない。
 この宴を盛り上げたままでいるために、彼は敢えて道化を選んだのだと、隣に座る藤は理解した。その挙動は、自分にも覚えがあったからだ。

「こちらが隠れているときに、大声を出すんじゃないよ。ただでさえ、きみは大きいんだから。ほら、酒ばかり飲んでないで料理の方も食べるといい」

 次郎の気遣いを、歌仙も汲み取ったのだろう。豆腐と野菜をこんもり載せた取り皿を、次郎に突き出していた。よしきた、と次郎は皿を受け取り、再び和やかな団欒が生まれる。
 次郎太刀。
 ただ大きくてがさつなだけに見えた彼は、見かけによらず、気を利かせておどけた仕草で皆を笑わせてくれる人だと、藤は改めて知る。
 そんな彼の横顔を見ていると、ふと彼を顕現する数日前の出来事が、頭に浮かび上がる――。


 ***


 本丸の皆が、手合わせや畑仕事で建物の中にいないときを見計らったかのように、その狐は藤の元にやってきた。
 誰と問うまでもない。あの面妖な化粧の獣――こんのすけである。

「鍛刀をしていない?」
「ええ、事実そうでしょう」

 次郎太刀が顕現する一週間ほど前、部屋で政府から送られてきた諸々の資料に目を通していた彼女の前で、彼はそんなことを言ったのである。

「太刀を顕現してから、既に三ヶ月が経とうとしています」
「でも、わざわざ顕現しなくても、もう戦力は十分だと……思います」

 政府と繋がりのある者へ反論することに、やや不安を覚えながらも、おずおずと彼女は切り出す。
 実際、髭切の初陣で一度敗北を喫した以外に、敗戦結果を政府に提出した覚えはない。遠征も十分な結果を出しているし、戦績としては申し分の無いはずだ。
 だが、こんのすけは鼻を前足で撫でながら、ゆるりと首を横に振る。その仕草ときたら、人で言うならまるで鼻で笑ったかのような、不遜さが滲み出たものだった。

「戦績と顕現は別です。常に有事のために戦力は増やしておく。これも審神者としての責務というやつです」
「……鍛刀を定期的にしなければ、審神者として認められないというわけですか」
「そうですね。そう言いかえても差し支えないでしょう」

 この狐の言っていることも、ごもっともなのだろう、と藤は考える。戦績に曇りはなくとも、今の四人でどんな事態も解決できると思うほどの楽観視は、流石にしていなかった。
 ただ、むやみやたらと顕現をすることに対して、藤は懸念を抱えていた。だが、その懸念を――今もバンダナで隠している額の角のことを、狐に話すつもりはない。

「わかりました。鍛刀し続けねば、ならないんですね」
「お分かりいただけたようで、助かります。審神者様がその力を以て、人ならざるものへと定期的に働きかける。この一連の流れは、審神者様自身の成長にも繋がるでしょう」
「それは、どういうことですか」

 もったいぶった言い回しの意味が分からず、問いかけてみたものの、こんのすけは明後日の方向を見て黙ってしまった。
 今度は、神経質そうに髭を何度も前足で撫でている。まるで、うっかり失言をしてしまい、目を泳がせているようにも見えた。

「あなた様が気にすることではございません。私たちは、あなた様の成長を心より楽しみにしている。それだけです」
「それは……ご期待に添えるよう、頑張ります」

 唐突な激励に面食らいながらも、藤はぺこりと頭を下げる。こんのすけはそれで話は済んだと言わんばかりに、ひょいひょいと窓枠に前足をかけて、どこかへと去っていってしまった。

「……角を見たら、新しい刀剣男士がこれに驚いて、歌仙たちが心配して、僕に気を遣って、それで」

 その先にかけられる言葉や、目にすることになる反応を思うと、心の中で苦々しい気持ちを抱いてしまう。そんな自分を、見ない振りをすることは難しかった。
 何故ならこの気持ちは、髭切が顕現した後からだけでなく、その前からも、ずっと燻り続けていた思いだからだ。
 だが、審神者であるためには、続々と刀剣男士を顕現させることが、望まれているらしい。そうでなければ、審神者を辞めさせられてしまうかもしれない。

「それは、嫌だ」

 かぶりを振り、意を決して立ち上がる。部屋を出た藤は迷わず歌仙のもとに向かい、久々の鍛刀再開を告げた。


 ***


「あーるじ。どうしたんだい、ぼーっとして。嫌いなものでもあるのかい?」
「え、あ、ううん。ただ、ちょっと疲れてしまって」

 どうやら目を開いたまま、またうつらうつらしてしまっていたらしい。器の中に残っていた、少し冷めた肉に慌てて齧りつく。どちらかというとつゆの味が濃く染みこんで、肉の旨みはぼけてしまっているが、これもこれでありだろう。

(食べたら今日は早く寝よう。お腹にものが入ってくれない)

 体全体が物を食べるという機能を無くしたように、食事という行為そのものが、どこか軋んだ動きになっている。
 どうにかこうにか顎を動かし、喉の奥に食べ物を流し込んだが、空腹を満たす充足感が感じられない。折角のご馳走だというのに、という気持ちもあるが、体調だけは如何ともし難かった。
 それでも、周りを心配させるようなことはあってはならないと、藤はいつも通りを装ってゆっくりと箸を進める。幸い、鍋という珍しい料理に皆が夢中になっているおかげで、藤の様子に注意を払う者はいなかった。
 そうして半刻ほど経ち、用意していた食材も全て無くなった頃。次郎が、パンッと勢いよく膝を打って、立ち上がった。

「さて、良い感じに盛り上がってきたことだし。次郎さん、一つ舞ってみようかな!」
「おや、次郎太刀。君は舞ができるのかい?」
「ああ、そうさ! ほら、何のためにここに扇があると思うんだい?」

 問いかけた歌仙に向けて、次郎は自分の帯をぺしぺしと叩いてみせる。彼が纏う紫の着流しを締めている帯には、たしかに金の扇が挿されていた。
 それを抜き取り、パンッという軽い音とともに広げる。次郎の手つきはなるほど、手慣れた芸者を彷彿させるほど、堂に入ったものだった。

「誰か、歌か演奏の方をやってくれるかい? 流石に曲もなしじゃあ、アタシも興ざめしちまうよ」

 そこに居並ぶ面々を見つめながら、次郎は問いかけてみる。だが、歌仙たちは揃って顔を見合わせるばかりだ。
 それものそのはず、顕現してこのかた、彼らは歌を歌うこともなければ、楽器を奏でたこともなかった。楽器はそもそも本丸に存在しなかったからであり、歌は主があまり口にしていなかったからだ。
 音楽を耳にすることはあるが、始めから終わりまでを全て知っているものとなると、今は誰もいないと言って等しい。そうなれば、必然的に視線が集まる相手は絞られる。

「主様は、何か歌謡をご存じですか?」
「次郎が舞えるような歌ってことだよね」

 案の定、物吉に水を向けられて、藤は口元に手を当てて眉をきゅっと寄せる。

「あはは、突然言われちゃ主も困っちまったかね? アタシはどんな歌でも舞えるからさ、気構えずに好きな歌を歌っておくれよ」
「大丈夫。ちゃんと舞で使う歌、覚えてるから」

 藤が深く頷いたのを目にしたからか、次郎は食卓から離れ、少しばかり空いた空間へと移動する。
 主の歌を待つ彼の表情は、先ほどまでの酔っ払った気のいい青年の面影が、嘘のようにない。澄み切った山奥の清流のように、静けさだけを纏って彼はそこに在った。

(……また、この感じだ)

 秋の山で髭切が一人立っているときと、似たような気配だ、と藤は思う。普段は誰よりも人間くさいのに、ふとした瞬間に、彼らが自分より遠い存在だと実感するのだ。
 痛いほどの沈黙が自分を待つためのものだと気がつき、我に返った藤は居住まいを正す。
 すぅと一つ、深呼吸。そして、唇を開く。

 ――あけの雲わけ うらうらと
 
 彼女の歌が、何かに呼びかけるのように優しく響く。それに合わせるように、次郎の足が、扇が、静から動へと移り変わる。

 ――豊栄昇る 朝日子を

 派手な動きはなく、歌に寄り添うような穏やかな舞。逸ることもせず、落ち着いた動きに沿って、彼の長い黒髪もさざ波のようにゆるりと舞う。

 ――神のみかげと拝めば

 舞手が操る金扇もまた、小さな鳥が羽ばたくようにひらりひらりと宙を舞う。特段の準備をしたわけでもない部屋の一角が、あたかも不可侵の神聖な領域に変わっていくようだった。
 彼を見守る四人は、思わず言葉を無くして、次郎の一挙一動に目を奪われる。

 ――その日その日の 尊しや

 藤の歌はさして長いわけではなく、程なくして彼女は歌の終節の音を唇から紡ぎ終える。何の打ち合わせもしていないように、示し合わせたように次郎も金扇を閉じた。
 着座した彼は、観客であった四人に静々と頭を下げる。

「……驚いたね。見蕩れてしまったよ」

 今まで金縛りにかかっていたかのように、歌仙が口を開くのに数秒を要していた。
 素直な賞賛の言葉を受けた次郎は、がばりと顔を上げる。先ほどまでの浮き世離れた空気はどこへやら、にこりと人なつっこい笑みを見せていた。

「そうだろう? 次郎さん、やるときゃやるんだよ」
「ボクも、息をするのを忘れてしまいました。それに主様もとても綺麗な歌でした! あれは何という歌なんですか?」

 物吉はきらきらと瞳を輝かせ、主に詰め寄る。物吉の背後からは次郎も顔を覗かせ、

「そうそう。あの歌、当世風の歌謡曲ってわけじゃあないだろう? どこかで聞いたことがあったような気がしてね。何の舞で歌われる歌なんだい?」

 二人分の詰問に押されるかのように、藤は思わず目を逸らす。
 次郎の言うように、たまに万屋で耳にする今時の歌と、彼女が口にした歌は趣が違う。歌仙たちにもどこか聞き馴染みがあると思わせる、古い歴史を踏襲しようとした先人の思いが残った歌に聞こえたのだ。

「……友達が舞の練習してるとき、流れてるのを聞いてたら覚えたんだ。それだけだよ」
「へえ! じゃあ、あんたはこの歌に合わせた舞がどんなのかわかるんだね? それなら今度は、主が舞ってみせてくれないかい」
「だめだよ」

 次郎の提案が終わるよりも早く、藤はかぶりを振る。

「ごめん、だめなんだ。それはだめって言われたから。だって」
「だめってどういうことだい?」

 問われて、藤自身が困惑したように眉を下げる。彼女自身、どうしてそんな言葉を自分が口にしたのか、まるで理解していないような表情だった。

「……ちょっと、喉渇いちゃった。水飲んでくるね」

 口早にそれだけを言い残すと、そそくさと席を立って襖の向こうへと消えてしまう。
 残された刀剣男士達は、揃って顔を見合わせた。何とも言いがたい気まずい空気が、宴会の陽気な空気を払拭してしまっていた。

「今日はこの辺でお開きにしよう。主は疲れてるだろうから、片付けは僕たちでやらないとね」

 その場の空気を切り替えるように、歌仙が皆に声をかける。そうして、今度は片付けのための音に居間は包まれていった。


 木製の床の冷たさが、今はまるで自分を拒絶しているように思えるのは何故だろうか。風が、いつも以上に冷たく感じるのは、ただの思い込みだろうか。
 厨から持ってきた、グラスに入った水を口につけながら、藤は縁側に腰掛けていた。先ほどから疲労のせいか、頭痛までしてきている。これは本格的にさっさと休むべきだろうとは思うが、宴会の熱はまだ抜けきっていなかった。故に、こうして外の空気で、ほとぼりを冷ましていたのだ。

「次郎の舞、綺麗だったな。即興だっていうのに洗練されてたし、透き通った水みたいに美しくて、男の人みたいに女の人みたいで」

 瞼を閉じれば、彼の艶姿が目に浮かぶ。だが、同時に忘れようとした古傷の如き疼きが走る。

「僕は、あんな風に綺麗にはなれないな」

 胸の辺りに手を当て、ぐっと爪をたてる。そこから生え出てくる黒いものを鎮めるかのように、彼女はぎゅっと目を瞑る。
 一分ほどそうしてから、彼女は目を開いた。細く長く息を吐き、気持ちの整理を終えた彼女の耳に、ぎしりと床板を軋ませる音が響く。音に重なるように、月に照らされた影が視界に飛び込んだ。

「誰?」
「はいはーい、次郎さんだよー。できあがっちゃった次郎さんだよー」

 隣に腰掛けてきたのは、自ら名乗った通り次郎太刀だった。彼は片手にお猪口を二つ、もう片方の手には徳利を持っている。

「まだ呑むの?」
「ここなら、月見酒ができるんじゃないかと思ってね。邪魔していいかい?」

 おどけたような調子で次郎はずいずいと顔を近寄せる。とはいえ、彼のことだ。一人で席を立った自分を、彼なりに気遣っているのだろうと藤は察していた。

「あんた、酒は呑めるかい?」
「呑んだことはないよ。小さいときに呑もうとしたら、お母さんに怒られたんだ」
「あっはっは。そりゃ、子供の飲み物じゃないからね。でも、主はもう大人だろう? ほら」

 ぐいと渡されたお猪口を受け取ると、次郎は慣れた手つきで徳利から酒を注ぐ。独特の香りが薄く漂い、鼻の奥を掠めていく。濁りのない水面には、空の月が映っていた。さながら、月がお猪口の中に沈んでいるようだ。

「酒は気付け薬にもなるって言うだろう。疲れてる時にも効くもんかと思ってさ」

 ああ、それで、と藤は納得する。どこか上の空だった主の疲労に気がつき、薬になるものを彼なりに持ってきたつもりなのだろう。
 気付け薬と疲労回復は、用途が違うような気もするが、彼の心配りは素直に嬉しい。ならば、それに応えるのが道理というものだと、彼女の理念が囁く。

(一杯くらいで、酔い潰れたりはしないよね)

 覚悟を決めて、酒という未知の飲み物をぐいと呷る。途端に喉が焼けるような、かっとした熱いものが通り過ぎ、思わずげほげほと噎せ返ってしまった。

「……お酒って、思ったより美味しくない?」
「おや、主にはまだ早かったかい? ほら、こうやって呑むんだよ」

 手本を見せるように、次郎もお猪口を一息で呑んでみせる。彼は噎せ返るようなことはなく、気持ちよさそうにふう、と息を吐き出していた。
 にっと笑ってみせる次郎に、藤も釣られてはにかんでみせる。お酒のおかげだろうか、それとも彼の陽気さにあてられたのだろうか。程よい眠気と酒が残していった熱さの余韻が、体を包んでいるように思えた。

「さっきの舞、綺麗だったね。次郎は凄いな」
「なんだいなんだい、次郎さん褒めてもお酒しか出ないよ?」

 豪快に笑いながら、次郎は藤の頭をポンポンと撫でる。歌仙や髭切のそれとは違う、少し乱暴で髪の毛がくしゃくしゃになるような撫で方だ。

「アタシが踊ったのは即興だからね。あんたが歌ってくれた歌の意味には程遠いだろうさ」

 舞を披露することで、歌や曲に込められた意味を体で示すというのなら、彼が見せた舞は即興であるがゆえに本来の意味からは遠くなる。次郎が言っているのは、そういう話だというのは、藤も多少なれど覚えがあった。

「あれ、本当は神楽舞の歌だろう?」

 だが、続く言葉を耳にして、藤は硬直する。

「どこかで聞いたことがあるような気がしたんだよねえ。アタシはこう見えても、神社暮らしが長くてさ」

 言われて、藤は改めて次郎をまじまじと見つめる。酒を片手に、女もかくやという派手な装束で豪快に大太刀を操る姿は、神社に所縁があるとはとても思えない。藤の気持ちを読んだかのように、次郎は唇を尖らせる。

「その顔は疑ってるね? ま、アタシは現世寄りだと自分でも思うよ」
「現世寄り?」
「そ。ほら、見ての通りの酔っ払いの歌舞伎者。神社暮らしが長い刀には、確かに見えないだろうね」

 お猪口を縁側に置き、次郎は庭へと足を下ろす。
 月の細い光を受けて、射干玉の黒の髪がきらきらと上等な絹物のように輝く。背丈は二メートルに届くかという巨漢ではあれど、彼は美しく、神々しかった。その上背の高さすら、人の手に届かぬ境地に至ったものが故の姿ではないかと、錯覚するほどに。

「でも次郎は、神様みたいだ」
「あっはっは、面白いこと言うねえ。みたいも何もアタシたち、付喪神だろう?」

 からっと笑う彼の姿につられて、藤も笑みを返す。返しながらも、彼に知られないように膝の上で握りしめた手をもう一つの手で包み隠す。
 彼らが神様だということは、審神者になるときに既に知っていた。だというのに、今更すぎる実感が強く湧き上がる。

(本当に、神様なんだ)

 秋の山で髭切を見つめた際も、普段の穏やかな彼とは隔絶された何かを感じた。そして今の次郎からも、彼自身は気さくな笑顔を浮かべているのに、どこか遠いと思わされるものがある。
 歌仙たちにも、いずれそのような気持ちを抱く瞬間があるのかもしれない。今はまだ気がついていないだけで、彼らもまた遠い世界の存在なのだと――神様なのだ、と知る日が来るのだろう。
 その日を思えば思うほど、どういうわけか握りしめた手の震えが止まらなくなる。
 恐怖ではない。畏怖でもない。ただ、言いがたい不安が押し寄せてくる。胃の底がひっくり返るような気持ち悪さがこみ上げてくる。自分がその時、隣にいていいのかという不安が、夏祭りの鳥居を見たときと同種の気持ちが、震えとなって全身を覆う。その理由も、定かではないというのに。
 まるで、誰かにずっとそう言われ続けてきたかのような、違和感を帯びた不安だった。

「おーい、主。おーいってば」

 がくがくと肩を揺さぶられて、藤ははっと顔を上げる。気がつくと、紅を引いた次郎の顔が目の前にあった。

「大丈夫かい?」
「……ちょっとお酒に酔ったのかも。少し横になるね」

 先ほど感じた言い知れない寒気を忘れるために、藤はごろりと体を横倒しにする。座っていたときより地面の匂いが近くなり、そのおかげか、気持ち悪さが紛らわされていった。
 目を閉じれば、待ちかねていたかのように、眠気が押し寄せてくる。今更になって空腹の虫が小さな主張をし始めたが、お構いなしに彼女は眠りに集中した。
 自分の頭に載せられた大きな手にも気がつくことなく、藤はひとときの安らぎへと身を委ねていった。
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