短編置き場
「主、そろそろ休む時間じゃないのかい」
「うーん、キリがいいところまで読むから」
時計が頂点を指す真夜中の頃。珍しく居間──普段は食卓を並べているところ──にいる主を見かけて、歌仙兼定は思わず声をかけた。
本丸の初期刀であり大黒柱でもある彼は、出陣や特別な当番が割り振られていない限りは床に着くのは最後のことが多い。その最後まで起きている彼が、珍しくまだ居間に灯りがついていることに気がついて顔を覗かせたのだ。
「一体何を読んでいるんだい」
「歴史の本。勉強してるの」
本丸の主である藤が見せた本は、古びた装丁の歴史書──というわけではない。その端には、高等学校指定教科書の文字がくっきりと印字されていた。なお、この主はその高等学校とやらを卒業していることは、歌仙にとっても既知のことである。
そういえば、部屋で一人で本を読んでいると眠くなるとか言っていたなと思い返しながら、歌仙は就寝前の最後の確認を進めていく。
「復習をしているんだね。それは感心なことだけれど、今日は夜に雨が降ると聞いている。冷えるだろうから、程々で休むんだよ」
「はーい」
顔も上げずに返事をする主の姿に、本当に聞いているのだろうかと歌仙は不安を覚える。とはいえ、主も子供ではない。適当な時間で休むだろうと、欠伸を噛み殺しながら彼は自室に向かった。
歌仙の足音が聞こえなくなってから、藤は教科書に顔を埋めるようにしながらぽそりと小声で呟く。
「授業中ほとんど寝てたから、勉強したけど記憶に残ってないとか言ったら怒られただろうなあ」
彼女にとって歴史の授業というものは、興味を持たなければ只々眠いだけのものだった。授業の時間というより睡眠時間として捉えていたくらいだ。けれども今、こうして歴史に関わる仕事をしているからこそ、以前は眠気と頭痛の物種だった教科書も意味のあるものに見える。
「もう少し、もう少しだけ読んでから……ふぁ」
大きな欠伸をして目をしょぼしょぼさせながら、彼女はページをめくる。
が、睡魔というものは読むものへの興味があっても平等に襲いかかってくるものであった。十分もしないうちに手から力は抜け、落ちかけていた瞼が完全に閉ざされる。そのまま、ずるずると彼女は眠りの中に引きずり込まれていった。
バタバタと雨が屋根を打つ音が響き、促されるように髭切はふ、と目を見開く。いつもの朝の日差しが目に入る様子がない。どうやらまだ夜のようだ。
視線を横に向ければ、隣で眠っている弟──名前は、今はすぐに出てこないが──の姿があった。眉間に深くしわを刻んで、何やら苦しそうな顔で、
「兄者……そっちはだめだ……その先は、崖だ……」
「おやおや、僕は夢の中で何をしてるのかな」
弟の寝言に、兄はくすりと笑う。えいえいと眉間のしわを伸ばすように指をぐいぐいと押しつけると、弟は嫌がるように寝返りを打ってしまった。
せっかく起きたのだから、水でも飲んでおこうかと彼は布団から身を起こす。弟を起こさないようにそっと抜けだし、慣れた足取りで厨に赴こうとした。が、彼は普段の夜の本丸では見かけないものを目にして足を止める。
(居間に灯りがついている……?)
単なるつけ忘れだろうか、はたまた泥棒の類か。
前者なら主が日頃から言っている『セツデン』のために消しておいた方がいいだろうし、後者の場合は不埒な侵入者を叩きのめさなければならない。
足音を極力殺して居間を覗き込んだ髭切は、しかしどちらの予想とも違う光景を目の当たりにして、思わずぽかんと口を開く。
「主、何をしているの?」
そこに、主が落ちていた。
肌寒いのか自分の体を抱えるようにしている。どうやら眠っているようだった。硬い畳の上では寝心地はそこまで良くないだろう。彼女の眉間には弟そっくりのしわができていた。
「うーん……」
「ほら、寝るなら自分の部屋の方がいいよ」
彼女に近寄り、声をかけてみる。反応が薄いため側にしゃがみこんでもう一度声をかけようとした矢先、髭切は側に落ちている教科書に気がついた。この様子から察するに、どうやら勉強しながら眠さに負けてそのまま眠ってしまったようだ。
「もうちょっと、あと百分だけ……」
「おやおや、随分と長い時間だねえ」
そうは言われても、彼女の言葉に合わせて律儀に百分待つつもりはない。髭切は教科書を脇に退け、しゃがみこんでゆさゆさと藤の肩を揺さぶる。
「このままでは体が冷えてしまうよ。布団の中は暖かいよ」
「んんん」
声にならない抗議とともに、ごろりと寝返りを打つ藤。寝返りを打ちながら器用にも彼女はしっかりと髭切の手を掴み、自分の両手にぎゅっと挟み込んだ。まるで母親を見つけた子供のように、彼の手を握ると藤は嬉しそうに口元を緩める。
「主、もしかしてまだ寝てるのかい」
「んー……ううん……」
言葉だけ取るなら否定だが、これは間違いなく寝ていると判断していいだろう。
事態を把握した髭切は、彼女を前にしてうーんと考え込む。これは一体どうしたものだろうか、いっそこのまま放っておくべきだろうか。
けれども揺すった時に触れた彼女の体は、布団の中で温まっていた髭切に比べたらずっと冷たかった。今日は雨が降っているせいで、本丸の空気がしんしんと冷え込んでいる。このままでは、翌朝には体調を崩してしまうかもしれない。
「主の部屋の方が、ゆっくり休めるよ」
掴まれていない片手でもう一度ゆさゆさと揺さぶるも、返ってきたのは「うにゃむにゃ」という言葉になっていない寝言だけだった。
(これは甘えてるつもり──なのかなぁ)
時折感触を楽しむように何度か彼の手を握り直している主を見て、髭切は戸惑いと嬉しさを混ぜたような気持ちに襲われていた。普段は誰かにおおっぴらに甘えることのない彼女にこんな姿を見ると、愛おしいという気持ちがじわじわと生まれてくる。だが、同時にその甘え方はどちらかというと子供が親に向けるような態度ではないかと思わないでもない。どちらにせよ、こうして幸せそうな顔で眠っている主を見ていると、無理に起こすのも悪いことのように思うという点は変わりない。
仕方ないと気持ちを切り替え、髭切は一旦自分の手を掴んでいる指を一つ一つ剥がしていく。どこか名残惜しいと思うが、今は主の健康と安眠が第一だ。自由になった両手で、髭切は彼女の背中と膝裏に手を差し入れ、
「ほら、寝台に行くよ」
言いつつ、ひょいと抱え上げる。横抱きにされたにも関わらず、藤は「んー」という返事か何かわからない声を相変わらず漏らすだけだった。
両手が塞がっているので灯りを消すことはできないが、それはまあいいかと流して、髭切は彼女の自室に向かおうとして──再び、足を止める。
(主の布団って冷たいままだよね。それなら僕らの部屋の方がいいかな。二人居れば暖まるのもきっと早いよね)
来た道を戻り部屋に辿り着いた彼は、自分の布団と弟の布団の真ん中、丁度二人の布団を跨ぐような位置に彼女を横たえた。元々並べて布団を敷いているおかげで、少し狭いが川の字になって寝ることもできるのだ。
「主、少し詰めてくれるかい」
声をかけると、無意識に言葉の意味を理解したのだろうか、彼女はごろごろと転がって弟に近寄った。布団の暖かさが心地よいのか、彼女の口元は先ほど以上に緩みっぱなしだ。
折良く寝返りを打った弟と向き合う形になった彼女の手に、弟の手が丁度重なる。大きな手に触れているのが心地よいのだろう、先ほど髭切にしたように彼女はきゅっと重なった左手で彼の手を握った。
「…………」
ただそれだけだというのに、妙に反骨心のようなものが生まれるのはなぜだろうか。自分でも知らないうちに、髭切の顔は普段はあまり見られない不機嫌そうなものに変わる。
「主はこっち」
弟と向き合っている藤の体を、自分の方に向けるようにぐいと寝返りを打たせる。彼女は「うーん」という寝言だけ漏らして変わることなく眠ったままだった。
続けて、弟の手を握っていない方の手──右手に自分の手を添える。まるで猫をじゃらすかのように指で彼女の手に軽く触れてみると、彼の仕草に誘われるように藤は再び髭切の手を柔く握りしめた。
「うん、これでいいよね」
何がいいかは、自分でもはっきりとはしない。けれども、こうして嬉しそうにしている主を見ているとこちらまで暖かい気持ちになる。
主に自分の布団の半分を与えてから、髭切は再び寒気から隔絶された暖かさの中に戻る。顔を横に向ければ、ちょうど主の寝顔と向き合う形になった。
「おやすみ、主」
瞼を閉じれば、心地よい眠気が押し寄せてくる。三人分の寝息を、雨の音がそっとかき消していく。
兄弟に挟まれて眠る彼女の顔は、とても幸せに満ちたものだった。
「うーん、キリがいいところまで読むから」
時計が頂点を指す真夜中の頃。珍しく居間──普段は食卓を並べているところ──にいる主を見かけて、歌仙兼定は思わず声をかけた。
本丸の初期刀であり大黒柱でもある彼は、出陣や特別な当番が割り振られていない限りは床に着くのは最後のことが多い。その最後まで起きている彼が、珍しくまだ居間に灯りがついていることに気がついて顔を覗かせたのだ。
「一体何を読んでいるんだい」
「歴史の本。勉強してるの」
本丸の主である藤が見せた本は、古びた装丁の歴史書──というわけではない。その端には、高等学校指定教科書の文字がくっきりと印字されていた。なお、この主はその高等学校とやらを卒業していることは、歌仙にとっても既知のことである。
そういえば、部屋で一人で本を読んでいると眠くなるとか言っていたなと思い返しながら、歌仙は就寝前の最後の確認を進めていく。
「復習をしているんだね。それは感心なことだけれど、今日は夜に雨が降ると聞いている。冷えるだろうから、程々で休むんだよ」
「はーい」
顔も上げずに返事をする主の姿に、本当に聞いているのだろうかと歌仙は不安を覚える。とはいえ、主も子供ではない。適当な時間で休むだろうと、欠伸を噛み殺しながら彼は自室に向かった。
歌仙の足音が聞こえなくなってから、藤は教科書に顔を埋めるようにしながらぽそりと小声で呟く。
「授業中ほとんど寝てたから、勉強したけど記憶に残ってないとか言ったら怒られただろうなあ」
彼女にとって歴史の授業というものは、興味を持たなければ只々眠いだけのものだった。授業の時間というより睡眠時間として捉えていたくらいだ。けれども今、こうして歴史に関わる仕事をしているからこそ、以前は眠気と頭痛の物種だった教科書も意味のあるものに見える。
「もう少し、もう少しだけ読んでから……ふぁ」
大きな欠伸をして目をしょぼしょぼさせながら、彼女はページをめくる。
が、睡魔というものは読むものへの興味があっても平等に襲いかかってくるものであった。十分もしないうちに手から力は抜け、落ちかけていた瞼が完全に閉ざされる。そのまま、ずるずると彼女は眠りの中に引きずり込まれていった。
バタバタと雨が屋根を打つ音が響き、促されるように髭切はふ、と目を見開く。いつもの朝の日差しが目に入る様子がない。どうやらまだ夜のようだ。
視線を横に向ければ、隣で眠っている弟──名前は、今はすぐに出てこないが──の姿があった。眉間に深くしわを刻んで、何やら苦しそうな顔で、
「兄者……そっちはだめだ……その先は、崖だ……」
「おやおや、僕は夢の中で何をしてるのかな」
弟の寝言に、兄はくすりと笑う。えいえいと眉間のしわを伸ばすように指をぐいぐいと押しつけると、弟は嫌がるように寝返りを打ってしまった。
せっかく起きたのだから、水でも飲んでおこうかと彼は布団から身を起こす。弟を起こさないようにそっと抜けだし、慣れた足取りで厨に赴こうとした。が、彼は普段の夜の本丸では見かけないものを目にして足を止める。
(居間に灯りがついている……?)
単なるつけ忘れだろうか、はたまた泥棒の類か。
前者なら主が日頃から言っている『セツデン』のために消しておいた方がいいだろうし、後者の場合は不埒な侵入者を叩きのめさなければならない。
足音を極力殺して居間を覗き込んだ髭切は、しかしどちらの予想とも違う光景を目の当たりにして、思わずぽかんと口を開く。
「主、何をしているの?」
そこに、主が落ちていた。
肌寒いのか自分の体を抱えるようにしている。どうやら眠っているようだった。硬い畳の上では寝心地はそこまで良くないだろう。彼女の眉間には弟そっくりのしわができていた。
「うーん……」
「ほら、寝るなら自分の部屋の方がいいよ」
彼女に近寄り、声をかけてみる。反応が薄いため側にしゃがみこんでもう一度声をかけようとした矢先、髭切は側に落ちている教科書に気がついた。この様子から察するに、どうやら勉強しながら眠さに負けてそのまま眠ってしまったようだ。
「もうちょっと、あと百分だけ……」
「おやおや、随分と長い時間だねえ」
そうは言われても、彼女の言葉に合わせて律儀に百分待つつもりはない。髭切は教科書を脇に退け、しゃがみこんでゆさゆさと藤の肩を揺さぶる。
「このままでは体が冷えてしまうよ。布団の中は暖かいよ」
「んんん」
声にならない抗議とともに、ごろりと寝返りを打つ藤。寝返りを打ちながら器用にも彼女はしっかりと髭切の手を掴み、自分の両手にぎゅっと挟み込んだ。まるで母親を見つけた子供のように、彼の手を握ると藤は嬉しそうに口元を緩める。
「主、もしかしてまだ寝てるのかい」
「んー……ううん……」
言葉だけ取るなら否定だが、これは間違いなく寝ていると判断していいだろう。
事態を把握した髭切は、彼女を前にしてうーんと考え込む。これは一体どうしたものだろうか、いっそこのまま放っておくべきだろうか。
けれども揺すった時に触れた彼女の体は、布団の中で温まっていた髭切に比べたらずっと冷たかった。今日は雨が降っているせいで、本丸の空気がしんしんと冷え込んでいる。このままでは、翌朝には体調を崩してしまうかもしれない。
「主の部屋の方が、ゆっくり休めるよ」
掴まれていない片手でもう一度ゆさゆさと揺さぶるも、返ってきたのは「うにゃむにゃ」という言葉になっていない寝言だけだった。
(これは甘えてるつもり──なのかなぁ)
時折感触を楽しむように何度か彼の手を握り直している主を見て、髭切は戸惑いと嬉しさを混ぜたような気持ちに襲われていた。普段は誰かにおおっぴらに甘えることのない彼女にこんな姿を見ると、愛おしいという気持ちがじわじわと生まれてくる。だが、同時にその甘え方はどちらかというと子供が親に向けるような態度ではないかと思わないでもない。どちらにせよ、こうして幸せそうな顔で眠っている主を見ていると、無理に起こすのも悪いことのように思うという点は変わりない。
仕方ないと気持ちを切り替え、髭切は一旦自分の手を掴んでいる指を一つ一つ剥がしていく。どこか名残惜しいと思うが、今は主の健康と安眠が第一だ。自由になった両手で、髭切は彼女の背中と膝裏に手を差し入れ、
「ほら、寝台に行くよ」
言いつつ、ひょいと抱え上げる。横抱きにされたにも関わらず、藤は「んー」という返事か何かわからない声を相変わらず漏らすだけだった。
両手が塞がっているので灯りを消すことはできないが、それはまあいいかと流して、髭切は彼女の自室に向かおうとして──再び、足を止める。
(主の布団って冷たいままだよね。それなら僕らの部屋の方がいいかな。二人居れば暖まるのもきっと早いよね)
来た道を戻り部屋に辿り着いた彼は、自分の布団と弟の布団の真ん中、丁度二人の布団を跨ぐような位置に彼女を横たえた。元々並べて布団を敷いているおかげで、少し狭いが川の字になって寝ることもできるのだ。
「主、少し詰めてくれるかい」
声をかけると、無意識に言葉の意味を理解したのだろうか、彼女はごろごろと転がって弟に近寄った。布団の暖かさが心地よいのか、彼女の口元は先ほど以上に緩みっぱなしだ。
折良く寝返りを打った弟と向き合う形になった彼女の手に、弟の手が丁度重なる。大きな手に触れているのが心地よいのだろう、先ほど髭切にしたように彼女はきゅっと重なった左手で彼の手を握った。
「…………」
ただそれだけだというのに、妙に反骨心のようなものが生まれるのはなぜだろうか。自分でも知らないうちに、髭切の顔は普段はあまり見られない不機嫌そうなものに変わる。
「主はこっち」
弟と向き合っている藤の体を、自分の方に向けるようにぐいと寝返りを打たせる。彼女は「うーん」という寝言だけ漏らして変わることなく眠ったままだった。
続けて、弟の手を握っていない方の手──右手に自分の手を添える。まるで猫をじゃらすかのように指で彼女の手に軽く触れてみると、彼の仕草に誘われるように藤は再び髭切の手を柔く握りしめた。
「うん、これでいいよね」
何がいいかは、自分でもはっきりとはしない。けれども、こうして嬉しそうにしている主を見ているとこちらまで暖かい気持ちになる。
主に自分の布団の半分を与えてから、髭切は再び寒気から隔絶された暖かさの中に戻る。顔を横に向ければ、ちょうど主の寝顔と向き合う形になった。
「おやすみ、主」
瞼を閉じれば、心地よい眠気が押し寄せてくる。三人分の寝息を、雨の音がそっとかき消していく。
兄弟に挟まれて眠る彼女の顔は、とても幸せに満ちたものだった。