本編第一部(完結済み)

「すごい、すごいすごいすごい!!」

 歓喜の声が、彼の耳に飛び込む。くるりくるりと、朱の髪をした彼女が、蒼の世界を踊っている。
 その名の通り藤色の瞳をきらきらと輝かせて、今まで聞いたこともない笑い声をあげ、ひらひらと舞うように駆け抜けていく。

「――――っ」

 そんな彼女の姿と同時に、髭切の心の中に、暖かな光が一息にふわりと膨れ上がる。
 先程どんぐりを拾う主を目にしたときに感じた、弾むような思いよりも、何倍も大きく、何倍も眩しい。主の心の木霊が響いているだけのはずなのに、こちらまで思わず笑い出したくなる。
 見開かれた彼の黄金色の瞳に、藤の姿が映る。
 蒼穹の色をした花畑の中心で、無邪気に笑う彼女。
 その笑顔は今まで見たどんな笑顔よりも、輝いていた。


「これ、リンドウの花だよ! こんなに沢山咲いてるところ、初めて見た!!」

 ひとしきり駆け回った後、興奮を隠さず息を弾ませて、藤は髭切の元に戻ってきた。
 少しばかり紅潮した頬は、やはりこの光景に圧倒されたからだろう。星のような輝きを瞳の中に瞬かせている様子が、髭切の目にもはっきりと見て取れる。
 今まで過ごした二ヶ月ほどで、彼女のそんな顔は初めてだ。

「どうしたの? 僕の顔に何かついてる?」
「ううん。ただ、そっちの方がいいなあって」
「どういうこと?」

 脈絡の無い発言に、藤は首を傾げる。髭切は返事の代わりに、彼女の頭をぽんぽんと撫でた。まだ余韻として残る胸中の喜びを、どう表現していいか分からず、反射的にとった行動だった。
 そんなことを知らない彼女は、突然の行動に驚いてしまったのか、ひょいと首を竦めてしまう。その姿が太陽を見たもぐらのようで、髭切は口角を緩める。

「主は何だか嬉しそうだけど、リンドウという花が好きなのかな」
「この花が特別好きというわけじゃないけど、綺麗なものは自然に好きになるものだよ」

 藤は言いながら、しゃがんで手を蒼の花びらに伸ばす。

「特に、こういう山や森が自然に作り出した美しいものに偶然出会うと、まるで隠されていた宝物を見つけたみたいな気持ちになるんだ」
「宝物? その言葉は、値打ちがついている品に使うのだと思っていたよ」
「うん、そういうときもある。でも、お金じゃ決められない宝物もあるんだ」

 彼女の声に呼応するように、ざわりと花々が揺れる。さながら、地面に広がった空が動いたようだった。
 主に倣って、彼女の隣にしゃがんだ髭切は、主の横顔に浮かぶ笑顔を見つめる。先ほどの興奮は幾分か収まっていたが、やはり太陽のように眩しい笑顔が滲んでいた。自分が今まで見てきた主の微笑は、これに比べたら月のように小さく儚いもののように思えるほどだ。

「髭切を驚かせようと来たのに、僕がこの景色に驚かされちゃった」
「そうだったのかい? たしかに、びっくりしたけれど。それよりも」

 主がそんな風に笑うなんて、思わなかった。
 彼の言葉が音になるより先に、藤は不意に髭切の上着の裾を掴み、ぐいと引っ張った。
 思いがけない藤の挙動に目を丸くし、髭切は言おうとしかけていた言葉ではなく、驚きの声を漏らす。どうしたのかと思いきや、彼女は髭切本人ではなく、彼の服についている意匠を凝視していた。

「髭切、もしかして髭切が探していた花って」
「うん。僕もここに来てすぐに気がついたんだ。それに、何となく思い出したよ」

 上着に留められている金の飾りは、刀剣男士一人一人が持つ紋――俗に刀紋と呼ばれるものと、同じ形をしていた。
 髭切の紋は、三つの花に巴の紋章が添えられ、その下を笹のような細長い植物の葉が広がっている形をしている。五つの花びらを星のように広げた独特な形状の花は、丁度足下から海のように続いているリンドウの花によく似ていた。

「これは、笹竜胆という名前の紋章に似ているんだって。きっと、僕が源氏の重宝だから、僕自身にもこの紋が刻まれているんだろう」
「源氏の人たちって、髭切に関係ある人たちのことだよね。その人たちの紋なの?」
「そうなんじゃないかな?」
「そんな適当な。大事なものに繋がっているって言ってたじゃないか」

 顕現した直後、髭切は主と畑仕事をしているときに、自身の紋の花を探していることを、彼女に伝えていた。その紋が『大事なものに繋がるためのもの』とは、彼自身が口にした言葉だ。

「……うん。なんて言えばいいかな」

 髭切は、どう答えるべきか悩み、彼らしくない曖昧な答えを返す。
 顕現してすぐの頃には、まだはっきりとしていなかったが、今ならその大事なものが何かが分かる。
 夏祭りで見かけた、あの薄緑の髪の青年。夢でも影を追い、掴もうとして掴めなかった後ろ姿。
 相棒。友人。親友。沢山の言葉を、顕現してから髭切は学んだ。
 けれども、彼と自分の関係を一言で表す最もふさわしい単語を、髭切はもう知っている。

「――弟」

 兄者と呼ばれた瞬間、まるでずっと探し求めていた絡繰りの部品を見つけたかのように、ぱちりと何かが噛み合ったと思えた。

「僕には、弟がいるんだ」

 噛み合って見つけた言葉を、口にする。
 自分の中に染みこませるように。青年(おとうと)との繋がりを、より確かに感じるために。

「そうだったんだ。弟は何ていう名前なの?」
「それは」

 何気なく投げかけられた主の問いに、しかし髭切は返す言葉を持ち合わせていない。

「覚えてないんだよね。うーん……何ていったかな」

 ここまで理解を得て尚、髭切は彼の名を思い出すことができていなかった。調べれば分かることなのかもしれないが、兄であると自覚しながら弟の名すら覚えてないというのも、何だか釈然としないものを感じる。
 けれども同時に、それも仕方ないのではと言う、ある種の納得も彼の中にはあった。
 夢で多数の名で呼ばれていたのは、恐らく自分だけではない。様々な持ち主の元を点々としていた二振りの刀は、それだけ多くの名をつけられたということだ、と彼は解釈していた。ならば、ただの記号である名前に頓着しても、意味があるようには思えない。

「弟なのに、名前が分からないの?」
「そうみたいなんだよね。でも、名前なんてどうでもいいことだよ。僕も沢山名前があったみたいだから、自分の名前も、どうでもいいかなあって思うんだよね」

 口にすれば、そんなものかという得心も生まれる。名前のことは気にする必要がないのだと、彼が自分なりに結論を出そうとした。その矢先、

「それは違うよ」

 彼の納得を遮るように、藤の言葉が割って入る。彼女は真っ直ぐに髭切を見つめて、かぶりを振っていた。

「名前は大事だよ。誰にどう呼ばれたいかは、僕はすごく重要なことだと思う」
「そんなに大事なものかな。ええと、確か四度だっけ、もっとあったかもしれない。それくらい何度も名を変えられてきたけれど、それでも僕は僕だよ?」
「君がそう思うなら、それでもいい。でも、今ここに居る君の名前は一つしかないと僕は思うし、だからこそ名前はやっぱり大事だよ」

 彼女は、自分の胸のあたりをぎゅっと握りしめていた。まるで、内側から破裂しそうな感情を抑え込むように。

「だって君は――髭切と、僕らに名乗った」

 顕現した時に最初に口にした言葉を、彼は思い返す。「源氏の重宝、髭切さ」と。他のどの名でもない、その名を無意識に選んだ理由は、彼自身よく分からなかった。

「偉い人たちや凄い人たちが、君の名前を変えてきたのかもしれないけど、そんなことは今はどうでもいい。今の髭切は、なんて名乗りたいの。どう呼ばれたいの」

 まるで食らいつかんばかりに身を乗り出している藤に、髭切は彼女にしては珍しいと思う。
 この様子は、あの時と似ている。自棄になって刀解されてもいいやと口にした、数ヶ月前の夜のように。さながら、自分が望まない形で、名を変えなければならなかったことでもあったかのように、彼女は問う。

「僕は」

 主に気圧されるように、唇が動く。
 己につけられた名は、いくつかあったらしいとは既に知っている。鬼切丸。獅子ノ仔。或いは友切。そして夢の中の声は言っていた。名を変えるから、刀の加護が衰えたのだと。
 ならば、

「――髭切、がいいな」

 名が何であろうと、何かが変わることもないのだろうと、髭切は思っていた。
 だが、どうせ名乗るのならば、嘘か真かわからずとも、主を守れる力があると言われていた頃の名の方がいい。自分を真っ赤に染めあげていった、あのおぞましい夢からは遠い名が望ましい。

「うん、わかった」

 彼女は、己の中に彼の名を刻み込むかのように、深く深く頷いた。

「君は、髭切なんだね」

 応えるために、顎先を微かに動かす。ただそれだけのことなのに、今までよりもどこか地に足がついたような確かさを、髭切は覚えた。

「主は、呼ばれたい名前があるの?」

 先ほどの彼女らしくない真剣な様子を思い返し、髭切の中で興味が湧き上がる。藤は彼の言葉を聞き、少しばかり目を丸くする。表情が強張ったように見えるのは、気のせいだろうか。

「僕は」

 言いかけて、彼女は顔の緊張を解き、笑った。

「審神者の藤、だよ。僕は、それでいいんだ」

 その笑顔は先ほどとは違う、今にも消えそうな月の笑顔だった。


 主にとって、一面の花畑という風景は何時間見ていても飽きないものらしい。彼女は見事な蒼の斜面を見つめ、もう半刻ほども、ただぼうっと座っているだけの時間を過ごしていた。
 髭切も特に急いで何かをするわけでもなし、彼女に付き合って一面に広がる蒼穹を眺めていた。
 このまま昼寝でもしてみようか。それも悪くないなどと彼が考えていると、

「髭切にとって、弟はどんな人?」

 風以外の音を耳にして、髭切は顔を上げる。藤は変わらず、リンドウが咲き乱れる野原を眺めていた。

「どんなって言われても、よく分からないんだよね。僕はこの姿で彼と沢山話をしたわけじゃないから」
「え? あ……、そっか。髭切は」

 そこまで口にしかけて、藤は口を噤んだ。続く言葉は、髭切も予想できた。
 ――髭切は、刀剣男士だから。
 弟という存在が、血縁関係のある家族に使う呼称であると定義するならば。人のように、同じ存在から血を分けて生まれ出でることがない彼らにとっては、本来不適切な言葉のはずだった。
 弟とは言っても、所詮は家族の真似事であり、当てはまる単語が他に思いつかなかっただけ。けれども、彼女はそれを指摘しなかった。それが彼女なりの優しさから生まれたものなのか、と髭切は思う。

「主にとって、家族ってどんな人?」

 だから、この問いは彼にとってごく自然なものだった。丁度、先日の演練で歌仙と家族の話をしたからかもしれない。一番身近な共同体。息抜きができるようにと、気を回してあげるような間柄。
 そのような関係だろうと、髭切も大まかに捉えていたが、主の意見も聞いてみたかった。

「うーん……側に居ると居心地が良くて、色々相談とかもできる人たち、かな」
「それじゃあ僕にとっての弟も、歌仙たちとあまり変わらないのかなあ」
「勿論、僕の意見だから、髭切にとっては違うかもしれないよ。それに家族っていうのは、どんなことでも受け入れてくれる人たちって僕は思ってる」

 風が冷たいのか、膝を抱え込んだ藤の声はくぐもって聞こえた。

「そういうものなんだ。でもそれなら歌仙たちは、主の家族になろうと思えば、なれるんだね」

 主の思い描く家族の中には、血縁という言葉は混ざっていなかった。ならば、歌仙が思い描いているような、家族という形になることはできるのだろう。
 髭切はそのように考えたが、隣に座る藤は予想に反して首を小さく横に振った。

「ううん。そういうつもりでいるのは、君たちに失礼だから」
「そうかい?」

 無言のまま、彼女は頷いた。丁度風が二人の横を通り過ぎ、なびいた髪が彼女の表情を隠してしまった。風が収まったときには、既に藤はいつものように、髭切に笑いかけていた。

「でも、それと君の弟の話は別だよ。やっぱり兄弟が別れていると、寂しいものね」
「寂しいのかなあ」
「違うの?」

 藤に問われて、髭切は首を捻る。今まであったものが無くなったのなら、確かに寂しいという感情も持つだろう。けれども、今まで彼が感じ続けた感情は、単純に寂しいという言葉だけでは、表せないものだった。

「寂しいとは少し違うんだけど。なんだか、収まりが悪いというのかな。この辺りが寒くなる、みたいな」

 自分の胸に手を当てて、彼は弟のことを思うと感じる空虚を、訥々と語る。

「彼がいたら、ここも埋まるのかなあって。ああ、もちろん、主や歌仙たちといて楽しくないってことじゃ、ないからね。ただ、弟がいたら、もっと違うものがあるのかなって思うだけで」

 藤を安心させるためにも、髭切は微笑む。とはいえ、今の自分の言葉に嘘は無いはずだ。
 主とこうして言葉を交わす瞬間も、大事な時間の一つだと思える。
 五虎退や物吉と共に童のように遊び、歌仙と手合わせをして己を磨き、時折主から与えられた任務をこなす。派手な戦に赴くことは少ないけれども、充実しているといえる日々を送っている。
 けれども、同時に心中をよぎる虚ろさは消えない。自分の隣に立っていてほしい何かがない。そんな気持ちが何処かにあるのも、また嘘ではない。

「それを寂しいって表すんじゃないの?」
「そうなのかもしれない。でも、何というか、僕と弟は二人で一つみたいなもので」

 そこまで口にした瞬間、髭切の中である言葉が浮かび上がる。

「――二振一具、だから」

 二つあってからこその、一つ。だから、欠けていては気持ちが落ち着かない。
 蝶の片翅がもげているように。体の半身がないように。右手があって左手がないように。足りないという思いが、どこかで燻り続ける。
 彼の言葉を聞いて、藤は首を傾げていた。それも当たり前だろうと髭切は思う。
 彼女は人であるが故に、あるいは――見た目通り鬼であるとも言うのかもしれないが、二人いなければ成立しないということはない。一人いれば、それで彼女は完結するのだ。誰かと揃っていないと完成できない『物』とは違う。
 そこまで考えていると、不意に胸に当てていた手に温もりを感じた。見れば、自分の手を包むように彼女の小さな手が重ねられていた。やんわりと手を握る彼女の五指は、山中で見かけた赤いもみじを思い起こさせる。

「……代わりになるかも、わからないけれど」

 どう話そうか迷うように口を開いた彼女の言葉は、どこか辿々しいものだった。

「その、弟が来るまで……少しくらい、僕がここを埋めれるように頑張るよ」
「それは、主が弟の代わりになるってこと?」
「そういうつもりじゃないよ。誰かが誰かの代わりになることはできない。でも、気持ちだけでも寄り添ってくれる人がいたら、何か違うのかと思っただけで」

 彼女はパッと手を離して、隠しきれない迷いを浮かべた瞳で髭切を見つめ続ける。

「勿論、嫌じゃなかったらだけど」
「ううん。ありがとう」

 髭切のお礼に、藤は口元の緊張を緩めて笑いかける。
 彼女はああ言ったものの、髭切は弟の代わりが主にできるなどとは当然思っていない。
 主は主で、弟は弟だ。
 藤は刀剣男士ではない。刀として生まれてきたわけではない。彼女自身、自分で言ったように、代わりになれるものではないと分かっているのだろう。
 それでも、向けられた思いは決して嘘ではない。髭切は、そのように思う自分を、他者の心に寄り添おうとする主自身を、信じることにした。

「じゃあ、今日から主は僕の半分だね」

 風が、ふわりと青の世界を動かしていく。リンドウの優しい香りが、二人の鼻を柔らかくかすめていった。
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