短編置き場

「ぴゃーっ!」

 ゴロゴロなどという表現は、生ぬるい。ドーンと何かが破裂したような音とともに、地面が揺れたような衝撃が辺りに走った。
 ここは山中であり、雷はいったい木のどこに落ちるか分かったものではない。子供はそんなことは知らなかったものの、雷の音だけでも彼女の恐怖を煽るには十分だった。堪らず、幼子は自分の家に向けて、一目散に駆け出していく。

「かあちゃ、かあちゃ、ぴかってしてドーンした!!」
「あーちゃん、どこ行ってたの! 雷が鳴ってるときは外に出てはダメよ」

 あーちゃんと呼ばれた子供は、小さな体をぶるぶる震わせながら母の腕の中に飛び込む。
 お母さんはいつだってどんな時だって、側にいたら絶対の安心をくれる。彼女は母親に向けて、子供独特の根拠のない、しかし絶対揺らがない確固とした信頼を持っていた。

「かみなり、おこってるの? おそと、まっくらになってる」
「大丈夫、大丈夫よ。雷さんはいつも怒ってるように見えるけど、あーちゃんが悪いことをしなければ何もしないで通って行くわ」
「ほんと?」
「本当よ」

 母親の言葉を聞いて彼女はほっとしたようで、にぱっと笑う。ぎゅうと母親の体に小さな腕を回し、ぐりぐりと顔を押しつけていた。
 幼い娘を安心させようと優しげな手つきで撫でながらも、母親は部屋の隅で嵐が通り過ぎるのを静かに待っていた。
 娘とは裏腹に、不安げな様子を顔に滲ませていたものの、胸に顔を埋めていた子供が気がつくことは無い。安心しきった彼女は母の腕の中で、いつの間にかすやすやと寝息を立てていた。


 ***

 
 そして十年といくつかの年が経ち。娘は大きく育ち、雷が来ても母親の腕の中に飛び込むようなことはなくなった。
 彼女は藤という仮の名と共に、本丸で審神者としての務めに日々追われている、立派な一人前の存在になっていたはずだった。

「ひゃっ」

 しかし、雷を聞いたら小さな悲鳴をあげることに、変わりはない。
 ゴロゴロと空の間を不吉な音が行き交ったと思ったら、不気味な雷鳴がめりめりと後に続く。
 時刻は既に、真夜中を過ぎて久しい。
 審神者として就任してから雷は何度かあったものの、真夜中にこんな大きな雷鳴を耳にしたのは初めてだ。雷の音に加えて雨が屋根を打つ騒音に驚いて、眠っていたはずの彼女の目は今やしっかりと開かれていた。

「嫌だなあ、こんな時に」

 ただでさえ、おどろおどろしい雷というものが、夜の闇の中では尚はっきりと見えてしまう。音はせずとも不意にピカッと光るだけでも、どきりとさせられてしまう。

「うう……さっさと、どっかに行けばいいのに」

 せめて明るい昼間に来てくれ、と思うものの、天気が藤のわがままを聞いてくれるわけもない。再びめりめりという音が響いたと思いきや、今度はまるで空が雷に耐えかねて割れたかのように、ドーンという大きな音まで轟いた。

「うわっ!!」

 腹の底まで響くような轟音に、藤は布団から思わず飛び出る。間接照明でぼんやりと照らされた室内が視界に広がったと思いきや、不意にそれらは明滅して闇の中へと彼女は放り出されてしまった。
 停電。その二文字が、すかさず頭をよぎる。

「え、ちょっと、なんでこんな時に」

 元々夜なのだから暗いのは当たり前なのだが、停電した部屋の暗さはそれを遥かに上回る。
 加えて、停電したからといって、不気味な雷光が無くなるわけでもない。再び不自然に明滅する稲光に照らされた室内は、見知った部屋のはずなのに、全く知らない場所にすら思えた。

「誰かの部屋に行けば、気も紛れるかも」

 雷に追い立てられるように、藤は部屋の入り口である襖にどうにかたどり着く。
 そーっと襖を開いて、しかし彼女は絶句した。部屋が真っ暗なら、廊下も真っ暗なのは当たり前のことである。加えて空間の広がりがそこまでないためか、おどろおどろしさは部屋よりも数倍増しであった。

「歌仙の部屋でも行って、夜通し話でもしていよう。それなら、雷もきっと気にならないだろうし」

 口で宣言してから、墨でも流したように真っ暗な廊下に藤は足を踏み出す。遠くから聞こえるごろごろという音は、止む気配がまるでない。家中を叩く雨の音も、さながら小石でもぶつかっているのではないかと想像してしまうほど、けたたましいものになっていた。
 数歩歩き出してみたものの、その足取りときたら亀の方がマシなのではないかと思うほど拙い。普段なら一分もかけずに飛び込める歌仙の部屋が、まるで何キロも向こうにあるのではないかと錯覚してしまう。

「暗闇なんて、そんなに怖いと思ったことないのにうひゃあ!!」

 再度、ばりばりと耳を劈くような雷鳴が辺りに響く。やはり部屋に戻ろうかと思うものの、踵を返して部屋に戻るには再び暗い廊下を歩いて行かねばならない。そのことを考えると、ただでさえ震えていた足は、全く用をなさなくなってしまった。
 その場にへなへなとしゃがみ込み、藤は壁に背をつけて身を縮ませる。雨の音も雷の音も、さながら小さくなっている藤の身をがりがりと削り落としているかのように聞こえた。
 だというのに、隣には誰も居ない。嘗ての子供の頃のように、飛び込んで安心できる場所は遙か遠くにある。
 胃の底が冷えるような、言い知れない寒さが彼女を蝕んでいく。ゴロゴロと響き渡る雷は、まるで自分を狙っている得体の知れない獣のうなり声のようだ。
 真夜中であることに加えて、文明の利器である電気を全て追い払う停電という事象、そしてこの轟音。それら全てが噛み合って、彼女の孤独感を増していっていた。

「歌仙、和泉守、次郎……誰か来ないかなぁ……」

 停電になったのだから、異常事態に気がついて本丸にいる皆が自分を探しに来てくれるかもしれない。藤が抱いた一縷の望みは、けれども無慈悲な雷鳴しか聞こえないという事実によって儚く消える。
 再び地面が裂けたのではないかというほどの落雷の音に、藤は悲鳴すらあげることもできず、膝を抱えて益々小さくなった。

「誰か……膝丸、堀川、――髭切」

 本丸にいる刀剣男士の名を次々に呼んでいた藤は、ある刀剣男士の名の所で今までと違う思いを抱く。
 彼が来てくれたのなら、他の誰よりも安心できる。そのような思いが胸の中からこみ上げてくるのに、人が通り過ぎる気配はやはりない。

「髭切、髭切、髭切」

 何度も何度も繰り返すものの、言葉だけでは寂しさは埋まらない。けれども、彼を探しに行くなどということは今は到底できそうにもなかった。何度目になるか分からない、世界を割るような轟音が稲光と共に本丸を揺らす。

「ううっ」

 このままこうして一晩過ごすしかないのか。そう思ったとき。

「主!?」

 驚いたような声が、藤の頭上から振ってきた。
 夜よりもなお暗い闇の中でも、薄ら輝いている柔らかそうな金髪。こちらを見つめる、不安と驚きを交えた金茶の瞳。それに、聞き慣れた優しげな柔らかい、日だまりのような声。

「……髭切」

 何度も名を呼んだ彼の姿が、彼女の目の前にあった。
 彼を目の前にした瞬間、今まで辛うじて押しとどめていた感情が一気に爆発しかける。縋り付いて子供のようにわんわんと泣き出しそうになる。
 それほどまでに不安を覚えていた己を認識し、自分のことでありながら藤は驚きを感じてすらいた。

「主、大丈夫かい。どこか怪我でも?」
「違う、違うよ。ただ、怖くて、歩けなくなって」

 藤が反射的に伸ばした手を、髭切はしっかりと掴む。彼の手からじんわりと伝わる熱が、藤の中に巣くっていた黒々とした不安をあっという間に溶かしていく。
 それ以上の言葉を必要とせず、髭切は彼女を抱き寄せた。自分の腕の中に、藤という存在を閉じ込めるように力一杯抱きしめる。人の身で得た熱を、震えている彼女に少しでも多く分け与えたいとでも言わんばかりに。

「主は、雷が怖いのかな。昼間の雷雨はそこまで気にしていないように見えたから、平気なものだと思っていたよ」
「……うん。僕も、普段は平気なのに。でも、どうしてだろう」

 彼の寝間着からふんわりと漂う香の薫りに身を委ねながら、彼女は己の心中を吐露する。

「皆いなくて、一人だったからかな……。何だか、まるで僕に向かって落ちてきているみたいで――怖かった」

 未だに震える手で、髭切の寝間着を掴む。そこに彼がいることを確かめるかのように、力を込めて握りしめ続ける。

「雷は神様の怒りって言うから。僕は間違ったことをいっぱいしてきたから、いつか僕に向かって罰を下すのかもしれないって」

 そんな風に脅かされたのは、いつのことだったか。思い出そうとしても、千々に乱れた思考では、ろくに記憶を振り返ることもできなかった。

「大丈夫だよ。もし落ちてきたとしても、僕が斬り落としてしまうから」
「髭切は、雷も斬っちゃうの?」
「うん。主をいじめるなら、雷だって斬っちゃうよ」

 まるで当たり前のことを問われたかのように、髭切はけろりとした調子で答える。傲岸不遜ともとれる言葉を、あまりにいつも通りに発するものだから、藤の口元に思わずふっと笑みが浮かんだ。

「じゃあ、髭切の側にいたら雷も平気だね」
「うん、そうだよ。それで主、少しは落ち着けた?」

 問われて、藤は改めて自分の今の姿勢を認識する。恐怖が先走ったために気がつくことがなかったが、彼女は今、髭切の腕の中で彼に必死にしがみついているところだった。彼から抱き寄せてくれたからとは思うものの、途端に彼女の頭は恥ずかしさで爆発しそうになる。

「お、落ち着いた! 落ち着いたから、もう離れても」
「じゃあ、皆の所に行こうか」

 ぐるんと、視界が回ったと思いきや視界が一気に高くなる。思わず悲鳴をあげたが、今度ばかりは雷のせいではない。
 無我夢中で髭切にしがみつくと、彼の顔がいつもよりずっと近くに見えた。どうやら、彼に抱え上げられたらしいと気がついて、藤の顔は暗闇でもはっきりと分かるほど桜色に染まっていた。

「雷の夜が怖いのは、主だけじゃないみたいでね。短刀の子たちも、僕らの部屋にやってきていたんだ。だから、皆で居間に集まってお話でもしてようかって話になってたんだ」
「それで、僕も呼ぶために髭切はこっちに来たの?」
「それもあるけど、何だか主に呼ばれているような気がしたから」

 彼の言葉に、藤は顔を見られないように顔を俯けた。
 恥ずかしさも無論あったが、自分の声を彼が聞き取ってくれたと言ってもらえたようで、歓喜の表情が顔に浮かんでしまうからだ。そんな顔をしていると気付かれるのは、少し気恥ずかしい。

「あり……がとう」
「どういたしまして」

 たどたどしいお礼をどうにか絞り出すと、いつもの調子で彼から返事を貰う。どこか彼も嬉しそうに聞こえるのは、気のせいだろうか。
 髭切に横抱きにされたまま、ぐらりと視界が揺れる。どうやら歩き出したらしい。

「あの、このまま皆の所に行くつもり?」
「そうだけど、ダメだったかい? ああ、それとも二人だけでもう少しいたかったとか」
「そういうわけじゃなくてっ」

 咄嗟に否定をしながらも、それでも構わないという思いはちらりと脳裏によぎる。そう思うほど、彼の腕の中は嘗てしがみついていた場所に似ていた。

「その、なんだか情けなく見えるから。別に抱き上げてもらわなくても、一人で歩ける」
「僕はこうしたいんだけどなあ。だめ?」
「う……だめじゃない」
「じゃあ、このまま行こう」
「やっぱり下ろして! 皆に見られたら恥ずかしい!」

 大声でわいわいやり取りを交わしているうちに、皆のいるらしい部屋が近づいたようだ。夕飯時のような彼らのざわめきが、嵐の音を遠くへ押しやって行く。いつしか雷の音は彼女の意識の遠くへと消えていた。

(僕は、一人じゃないんだね)

 雷に驚いて逃げ込む先は、母親ではなくなってしまった。けれども、帰る場所は形を変えても、確かにあることを藤は改めて気がつく。

「主」
「どうしたの、髭切」

 顔を彼に向けると、横抱きにされているせいでいつもより近くに見える彼の横顔が、優しげにこちらを見つめていた。母親に似た眼差し、しかしそれでいてどこか違う暖かさも湛えた瞳で彼は言う。

「呼んでくれたら、僕はどこにでも駆けつけるからね」
「うん。頼りにしてる」

 恥ずかしくても今度は顔を逸らさず、藤も髭切に笑いかける。
 部屋に入る前にようやく下ろしてもらった彼女は、自分の帰る場所でもある刀剣男士たちの元へと、一目散に駆けて行く。
 主から今度こそ恐怖が完全にぬぐい去られたのを見守りながら、髭切は先ほどと同じような視線で彼女を見つめる。

「できれば、僕を一番に呼んでね。主」

 母親のような優しげなものとは異なる、彼女に想いを寄せる者の笑み。それを髭切はそっと忍ばせて、ゆっくりと敷居を越えて部屋に入った。
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