本編第一部(完結済み)
「髭切が、疲れてる?」
「疲れてると言うよりかは、元気がないと言うんだろうか。それより、主。何で庭に焚き火を?」
「焚き火じゃなくて焼き芋。秋といったらこれだよ」
歌仙の目の前にあるのは、こんもりと積み上げられた落ち葉だ。庭の片隅から黒煙が上がっているから、何事かと思いきや、主が芋を焼いていたというわけである。こんもりと積み上げられたお茶場から察するに、どうやら蒸し焼きにしているようだ。
「こうして熱くした灰の中に置いておくと、芋が蒸しあがるの。それより、髭切が元気がないってどういうこと?」
焼き芋の話を切り上げて、藤は歌仙の発言について尋ねる。
「いつもより、上の空になっている時間が、増えているように思うんだ。畑仕事の時は同じ所を何度も耕そうとしたりするし、手合わせのときも僕の木刀と自分の木刀を取り違えたりね。それで、何かあったんじゃないかと訊いても、何でもないと言うんだよ」
「普段からちょっとのんびり屋な所はあると思っていたけど、確かに変だね」
藤が言う通り、髭切は他の三人の刀剣男士に比べればマイペースな部分が多い。それが彼の性格なのだと、歌仙たちも既によく知っていた。
だが、のんびり屋でマイペースであっても、しょっちゅううっかりしているわけではない。ましてや、歌仙が言うような失態を何度も繰り返すのは、あまり髭切らしいと言えるものではなかった。
「季節が変わって眠りが浅くなることがあるとか、食欲がなくなるとか、主の方で何か心当たりはないかな」
「夏から秋だと、寧ろ食欲が出てきて食べ過ぎることの方が多いと思うけど……」
歌仙に言われて、藤は口元に手を当てて考える。
彼が懸念しているように、季節の変わり目は人間も体調を崩しがちだ。だが、刀の神様である刀剣男士に人間と同じような感覚が当てはまるのだろうか。
そこまで思考が行き着いたとき、藤はふと、数日前のことを思い出した。
「この前、夜中に髭切がうなされている声が聞こえてきたんだ。そのせいかも」
藤は、軍手で包まれた手で積み上げた落ち葉を整えながら、先日のことを歌仙に掻い摘まんで話す。
夜中に目が覚めてしまい、水でも飲もうと厨に向かう途中で、呻き声のようなものが聞こえたこと。それが髭切の声だと気がつき、思わず起こしてしまったということ。
「どんな夢を見ていたのか尋ねたら、昔のことだろうって言ってた」
藤の話を最後まで聞いていた歌仙は、秋風で冷えた手を煙に当て、暫く押し黙っていた。
丸々一分ほど、そうしていただろうか。貝の口をこじ開けるように、ゆっくりと歌仙の口が開く。
「……それは、僕らではどうにもならない話かもしれない」
「どういうこと? 何か歌仙は知っているの?」
歌仙の深刻そうな顔につられて、藤の顔に不安の色がにじみ出す。
「きみは僕に初めて出会ったとき、僕の逸話を語ってくれただろう。僕と同じように、刀剣男士はきっと何かの逸話――物語を抱えている」
「うん。物吉は持ち主に幸運を授けるとかで、確か五虎退は……」
「五匹の虎を退けた、と語り継がれているらしいよ。本人はそんなことしていないと、言っていたのだけれどね」
むしろ五匹の虎の子に遊ばれて半べそになっている少年の顔を思い出し、藤は口元を綻ばせる。
「髭切にも彼の物語がある。ただ、それを今の彼が受け入れられるかというと、刀のときようの簡単に受け止めることは難しいのかもしれない」
その言葉を聞いて、藤は唇を噤む。ぱちんと、熾火が燻る音だけがやけに大きく響いた。
秋の空を、名も知らない鳥が甲高い鳴き声と共に通り過ぎていく。ゆるりと通っていった冷たさを交えた風が、藤の額に巻かれたバンダナを微かに揺らした。
数分ほど経ってから、ようやく彼女は口を開く。
「……それは、鬼を斬ったこと?」
「それも、あるのかもしれない」
俯いた彼女の表情は、前髪に隠されて見えない。その様子を見て、歌仙は自分が話した内容が、彼女にとって喜ばしいとは言えないものである可能性に、遅まきながら気がつく。
その姿から、人間と認められなかったのだろう彼女にとって、鬼扱いを意識させるような話題を振るべきでは無かったはずだと思い至り、
「主は鬼じゃない。僕だけじゃ無くて、彼だってそれくらい理解している筈だよ」
取り繕うように、言葉を並べる。
歌を考えるときに参考にしている書物には、無数の美辞麗句が綴られているのに、今この瞬間では何の役にも立ってくれない。火の近くにいるというのに、体の芯が冷えるような不安を覚える。
何を言ったものかと思考を回転させる歌仙をよそに、程なくして藤は顔を上げた。その顔には、いつも通りの少しばかり口角を釣り上げた笑みがあった。
「やだなあ。どうしたの、怖い顔して。僕だって、髭切がそんな細かいことに拘ってないだろうって信じてるよ」
「そうだね。彼にもきみにも失礼なことを言ってしまった。申し訳ない」
「謝らなくていいよ。歌仙は優しい人だね」
焼き芋の具合を確かめるためか、落ち葉とその下の灰を押しのけた彼女は、銀紙で包まれた芋を掴み、軍手をはめた手で慎重にひっくり返し始める。
彼女の横顔には、先ほど歌仙が感じたような懸念は不要と思うほど、楽しそうな微笑が広がっていた。
「髭切は、自分の物語が嫌いなのかな」
芋を灰に埋め直した彼女は、深刻そうな顔をしてまだ熱を帯びた赤い灰を見つめていた。ゆらりと立ち上る煙は、彼女自身の疑念を表しているかのようだ。
「嫌いだろうが、好きだろうが、結局のところ僕はそこにさしたる意味はないように思う」
驚いたように顔を上げる藤に視線を合わせ、歌仙は強い意志をこめて言う。
「何故なら、僕らは主の刀だ」
一言一言、区切るように己という存在に刻みつけるように。
「今の僕にとって大事なのは、過去の逸話じゃない。この本丸の僕として、積み上げてきた物語だよ」
藤の目が微かに見開かれる。
「僕は歌仙兼定。かつては、細川忠興の……三斎様の刀だった。そして、今は――きみの刀だ」
誇らしげに胸を張る彼の佇まいは、いつもの姿であるにも関わらず堂々として見えた。
その姿に、思わず藤は言葉を失う。
自分が最初に選んだ刀が、他の誰でもなく今の主に仕えることを誇りとして語る。それ自体は、嬉しいもののはずなのに。
彼の心のあり方に、彼女は胸を鷲掴みにされたような苦しみを覚える。自分は、彼の信頼に応えられているのかという不安が生まれる。
歌仙にかける言葉を何とすべきか。相変わらず喉まで出かかった声は口の中で消えてしまい、結局浮かべたのはいつもの微笑だった。
「髭切も歌仙みたいに思ってくれれば、楽になるのかな」
「髭切は僕らより古い刀だ。その分、相応の物語や歴史が彼の中に降り積もっているからね。そう簡単にはいかないのだろう」
燻る灰から立ち上る煙に、歌仙も掌をかざす。じんわりと伝わってくる熱を感じながら、彼は言葉を続ける。
「でも、僕らはこうして人の姿と心を持ってここに在る。それは刀だったときには、できなかったことだ。主のおかげで、僕らは僕らの物語に向き合える。髭切も、きっと今は向き合っている途中なんだろう」
「……たとえ、それが嫌なことだったとしても、気がつけた方がよかったの?」
藤に問われて、歌仙は目を伏せる。
血の臭いと、落ちた首。その数をまことしやかに囁く声。昔の主の声がどんな声だったのかも、歌仙ははっきり覚えているわけではなかった。
きっと、出会えばすぐに分かるだろう。この目で顔を見ていなくとも、この耳で声を聞いておらずとも、この心で思いを交わせていなくとも、自分を扱ったという歴史が、彼の体に染みついていた。
けれども、裏を返せば、今こうして人の五感で前の主と触れ合ったことはないというのも、また事実であった。だから彼はまだ、前の主の具体像を思い浮かべられないのだ。
その逸話にふさわしく、気性の激しい荒々しい者だったのか。はたまた歌仙が愛するような、風流を解する男だったのか。良いも悪いも判断しかねる己の逸話を、心中で噛み締め、彼は瞼を押し開ける。
「――良かったさ。知らないままでいるより、断片であっても知ることができた方が、ずっといい。こうして主の隣にも立っていられるわけだしね」
きっぱりと断言する歌仙の顔は、秋の空のように晴れやかなものだった。
藤は彼の涼やかな横顔をじっと見つめてから、ふい、と視線を灰へと戻す。
「僕は、――のままの方が、良かったかも」
「え?」
藤が、がさがさと灰を掘り返してしまったため、言葉は雑音の中へと消えてしまった。歌仙が尋ねても言い直すことはなく、彼女は銀紙に包んだ芋を取り上げる作業に集中しているようだ。
「できた」
嬉しそうに紙を剥くと、湧き上がる煙を何倍も濃くしたような白い湯気が、灰の塊から沸き立つ。蒸された芋から漂う仄かな甘い香りは、横から覗き込んでいる歌仙のお腹も刺激していた。
「……あげないよ?」
「欲しいなんて言ってないだろう」
「目が言ってた」
まるで焼き芋が宝物か何かのように、藤はひし、とそれらを胸の中で抱きしめる。
先ほどまでの真面目な空気はどこへやら。年相応の食いしん坊ないつもの主の姿を見て、歌仙は肩を竦めた。この仕草も、もうすっかり板についてしまっている。
「髭切のこと、僕にできることなんて、ないかもしれないけど」
銀紙を破り、半分に焼き芋を折る。やや焦げた皮の中から現れた金色の中身は、今話題にしている彼の髪を彷彿させた。
「でも、探してみるよ。僕なりの方法を」
***
足を踏み出せば、ざくりという乾いた落ち葉が崩れる音が響く。夏に踏みしめたときは、湿った土と草が柔らかく足を受け止めていたものだと、髭切は季節の変化を思う。
「髭切、そんなところで足を止めてないで、こっちにおいでよ。凄いよ」
急くように聞こえたのは、自分を呼ぶ主の声だ。髭切は顔を上げて、小さくなっていく彼女の背中を追いかける。
藤が歌仙と芋を焼いていた、その次の日。髭切は朝から主に誘われて、裏山の散策に付き合わされていた。顕現する前には物吉が、夏祭りの直前には歌仙と登っていた、あの裏山である。
物吉と五虎退は度々ここで遊んでいるようだったが、髭切にとっては初めて足を踏み入れる場所だ。夏の間に裏山の周囲を潜り抜けて裏手に回ったことはあるが、この山道は髭切にとって未踏の地である。
藤に促されるままに歩みを始め、そして彼は息を呑む。
「……わぁ」
「うん。とても綺麗」
思わず感嘆の声が、唇から零れでる。後を追うように、藤も賛同の言葉を口にする。
彼らの頭上には、赤や黄色、橙で彩られた天蓋が広がっていた。色づいた木々の艶姿を初めて目にした髭切は、眼を見開いて鮮やかな秋の景色に、ただただ心を奪われる。
「秋になると、緑が赤に変わるんだね」
「うん。遠くから見ると山が真っ赤になって、まるで燃えているみたいでね。豪華な着物でも着てるみたいだって思ってた」
「この色、主の髪の毛と同じ色だね。綺麗な色合いだ」
夕焼け色の髪をあちこち跳ねさせた主と、丁度頭上に広がっていた名も知らぬ木々の色づいた葉を、髭切は見比べる。
ふと気がつくと、彼女は比べられるのを嫌がるように、顔を逸らしていた。その横顔は、辺りの木々の色が顔に映っているのだろうか、少しばかり紅潮しているように見えた。
(……でも)
朝の陽光を受けて赤く照らし出された色を前にして、髭切は数日前に見た夢を思い出す。
真っ赤に濡れた自分の姿を。
悲しいとも怒りとも言えない、言葉にできない感情を。
地面に積もった赤の絨毯は、まるで自分から流れ落ちた深紅の水――血のようにも、見えた。
(どうして、赤はこんなに苦しいのだろう)
ひらりと舞い落ちてきた赤の葉が、白い上着にへばりつく。それは日々を過ごすときに纏っている、軽装の上着ではない。今日は歩き回ることになるからと、髭切は自分にとって最も動きやすい戦装束をまとっていた。
白に張り付いた赤は、否応にも敗戦を喫した初陣を思い起こさせる。拭いきれない遣る瀬ない感情に逸り、傷を負っても腕が動かなくなっても戦おうとした、あの一戦を思い出す。
だからだろうか、赤が苦しいのは。
(違う)
自分で問いかけながら、髭切はかぶりを振る。夢の中の赤は、ただ負けたから悔しいというような単純なものではないと、髭切は自覚していた。
ならば、何が自分の胸を締め付けるのか。答えの出ない自問自答を繰り返していると、パタパタと落ち葉を足で蹴散らしながら、藤がやってきた。
「あ、髭切。頭にもみじがついてる。服にも」
「あれ、頭にもかい? 落ちてきて、へばりついちゃったみたいで」
「じゃあ、髭切にもお裾分けしてるんだね」
「え?」
藤はひらひらと舞い落ちる紅葉を掴もうとする。しかし、自由気ままな落ち葉は、彼女の手をすり抜けて、彼女の足元へと着地した。
残念そうに肩を落としてから、藤はくるりと髭切に向き直り微笑みかける。
「山が、自分のお化粧を髭切にお裾分けしてるんだね。きっと髭切が綺麗だから、もっと綺麗にしてあげようって思ったんだよ」
「おや、そういうものなのかい?」
「……って、昔言っていた人がいたんだ」
更にもう一度くるりと踵を返し、髭切に背を向けて、藤は山の中を軽やかな足取りで進んでいく。そんな彼女の様子を見ていると、あれほど心をざわつかせた赤が異なる意味を持って見えた。
主と同じ色。部屋の前で咲いていた、鬼百合と同じ色。
それなら――いいかもしれないと髭切は思う。
髭切から少し離れた場所で、藤は自分の背の向こうにいる彼にこっそりと視線を送っていた。
秋の山が珍しいのか、数歩歩けば足を止め、また数歩進んでは周りを見る、といったのろのろとした足取りで彼は散策を続けている。
けれども、のんびりとした様子であるにも拘わらず、普段目にしない戦装束を纏った髭切の姿は、周りの赤も相まってまるで一つの絵のように見えた。
「本当に、神様なんだなあ」
整った顔立ちも、無駄のない体つきも、確かに常人離れしたものではある。だが、藤が思わずそんな言葉を漏らしたのは、見目の麗しさだけが原因ではない。
漂う空気。その場にただ在るだけで、何の変哲もない山道すら、神々しい何かに変質させてしまうような気配。
彼という世界が、刀剣男士という存在が在る場が、そもそも凡百の人とは違うと藤は感じる。
歌仙たちと他愛のないお喋りをしたときよりも、戦のために傷だらけになって戦ってきた後よりも、真剣に向き合おうと見つめてくれているときよりも。
ずっと強く――違うと、感じる。
「……僕ができることなんて、あるのかな」
歌仙に言われて、髭切のために何かしてあげたいと考えて、思いついた案。結局それは「気晴らしに出かける」といった程度の、ありふれたものにしかならなかった。
本丸の外に出たところで、髭切が楽しめるかは分からない。万屋の散策も候補にあったが、先だっての夏祭りを思うと、二人して迷子になる可能性も否めない。結果、藤は自分の趣味でもある山の散策を彼に持ちかけたのだった。髭切は、よもや自分の気分転換に連れ出されたなどとは想像すらしていないだろう。
「綺麗なものを見たら、きっと髭切も少しはすっきりするよね」
物吉も歌仙も言葉を奪われた、あの丘のことを思い出して、藤は決意を新たにする。秋の澄んだ空は、初夏や盛夏の頃とは違う景色を見せてくれるだろう。
自分自身、登り切った先の景色を楽しみにしながら、藤は歩みを再開しかけて足を止める。
「あっ」
彼女の足下には、小さな茶色い木の実が転がっていた。
秋の山の彩りを十分に目に焼き付けた髭切は、藤の姿を探し始め、思わず眉を顰めた。
何故なら、主がぴょんぴょんと屈んだり立ち上がったりを、繰り返しているからだ。忙しない後ろ姿は、たまに畑で見かける鼠を思わせるものがある。
「主。何をしているんだい」
「どんぐりが落ちていたんだ。ほら、そんなにまだ傷んでない」
藤がつまみあげた丸々とした木の実は、確かに傷や凹みのようなものはない。一体どこからやってきたのかと、髭切が首を上に向ければ、小さな粒が集まっている木の枝があちらこちらにあった。
「主はどんぐりが食べたいの?」
「昔はよく食べていたけど、どっちかというと栗や胡桃の方が好みかな。結構渋いんだよね」
言いながらも、しゃがんでは綺麗などんぐりを拾うという一連の動作を、彼女は落ち着きなく繰り返していた。
ひとしきり拾い集めた後、彼女は掌を髭切に見せる。その中には、彼女が集めた小さな秋の落とし物が、身を寄せ合っていた。
大ぶりのもの。小ぶりのもの。小さいもの。膨らんでいるもの。細いもの。
何の変哲も無い木の実と思っていたが、改めて見てみると興味を惹かれる。
藤は、その一つ一つがまるで宝物でもあるかのように、にっこりと微笑みながら指で摘まみあげ、
「こっちの小さいのは五虎退で、こっちの大きいのが髭切。細くてすらっとしてるのが物吉で、如何にも優等生って感じで綺麗なのが歌仙」
「じゃあ、こっちの僕より大きいのは?」
「うーん。それは特に考えてなかったな」
言いつつ、彼女はポケットの中に入れていた袋に、ざらざらとどんぐりを移していく。
その様子を見ている髭切の胸に、不意にポンと暖かな光が灯ったような柔らかな気持ちが混ざり込む。自分の意思とは関係なく灯されたこの明かりは、まず間違いなく主のものだろう。
(でも、これは初めてだ)
いつもはちくちくと針でつつかれるような痛みや、氷水のような冷たさを伴って彼女の感情は流れ込んでくる。
けれども今は、身を委ねたくなるような暖かさが髭切の中に満ちていた。それでいて、思わず駆け出したくなるような、声をあげて笑い出したくなるような気持ちも混ざっていく。
この気持ちが何かを考えるより先に、腕がぐいと引かれ、彼は視線を主に向けた。
「髭切、早く奥に行こう。もっと色んなものがあるよ」
彼女に誘われるままに、髭切は歩いて行く。黄色のトンネルをくぐり抜け、赤の世界を通り過ぎる。
「見て。ススキがこんなに伸びてる」
足を止めた彼女は、金色に光る穂を指さした。澄み切った青空に揺れる背の高い草は、まるで自分たちを歓迎しているかのようだった。
「ほら。川の水が冷たくて気持ちいいよ」
山道から少し外れた川縁では、ひんやりとした秋の水に足を浸した。すいすいと泳ぐ魚を捕まえようとして、思わず主がひっくり返りそうになっていた。
「もっと上に行くとね。凄く綺麗な所があるんだ」
心なしか弾んだ声で、彼女は先へ先へと歩いて行く。そんな主の姿を、髭切は初めて見た。
普段から彼女は笑っている筈なのに、今自分が目にしている笑顔は、それとはどことなく違う。何がどう違うとはっきり分かるわけではないものの、本丸にいる時の彼女より今の彼女はよく動き回り、跳ね回っている。声も、平時より高揚感があらわになっている気がする。
山というのはそういう気持ちにさせるものなのかもしれないと、人として生きた経験の浅い髭切は思う。或いは、単純に主がこういった山道を行く散歩が好きということだろうか。
けれども、彼女の笑顔があるから――降り注ぐ赤の葉も、今はもうそこまで気にならない。
「ここを登ったら休憩しよう」
彼女が指し示した坂道は、多少今までより傾斜がきついものではあった。だが、刀剣男士として鍛えられている髭切には、この程度の坂は苦労の内に入らない。
十分もしないうちに、彼は所々紅で彩られた坂道を通り抜ける。まばらとはいえ、道に沿うように生えている木々をくぐり抜け、その先にある景色が彼の視界に飛び込む。
「――――!」
瞬間。
全ての言葉が、彼の中から消えていった。
一気に開けた視界。
藤が予想していたように、彼の視界を澄んだ青空が余す所なく埋め尽くす。
だが、空は一つではなかった。
地面に広がるのは、もう一つの空。
頭上のそれよりも、ずっと深く濃い蒼の空。
藤ですら想像していなかった光景が、そこにはあった。
「――見つけた」
思わず口にした言葉。
どうしてそんなことを呟いたのかも、髭切には分からない。
無限に続いているのではと思うような、地上の蒼穹は、風に吹かれてざわりと揺れる。
青空よりも尚濃い空の正体は、笹のような葉の上から空へと伸びる蒼の花だ。
その花の姿は、髭切が纏う装束の紋と、大事なものとも繋がっていると主に語った意匠と、同じ形をしていた。
「疲れてると言うよりかは、元気がないと言うんだろうか。それより、主。何で庭に焚き火を?」
「焚き火じゃなくて焼き芋。秋といったらこれだよ」
歌仙の目の前にあるのは、こんもりと積み上げられた落ち葉だ。庭の片隅から黒煙が上がっているから、何事かと思いきや、主が芋を焼いていたというわけである。こんもりと積み上げられたお茶場から察するに、どうやら蒸し焼きにしているようだ。
「こうして熱くした灰の中に置いておくと、芋が蒸しあがるの。それより、髭切が元気がないってどういうこと?」
焼き芋の話を切り上げて、藤は歌仙の発言について尋ねる。
「いつもより、上の空になっている時間が、増えているように思うんだ。畑仕事の時は同じ所を何度も耕そうとしたりするし、手合わせのときも僕の木刀と自分の木刀を取り違えたりね。それで、何かあったんじゃないかと訊いても、何でもないと言うんだよ」
「普段からちょっとのんびり屋な所はあると思っていたけど、確かに変だね」
藤が言う通り、髭切は他の三人の刀剣男士に比べればマイペースな部分が多い。それが彼の性格なのだと、歌仙たちも既によく知っていた。
だが、のんびり屋でマイペースであっても、しょっちゅううっかりしているわけではない。ましてや、歌仙が言うような失態を何度も繰り返すのは、あまり髭切らしいと言えるものではなかった。
「季節が変わって眠りが浅くなることがあるとか、食欲がなくなるとか、主の方で何か心当たりはないかな」
「夏から秋だと、寧ろ食欲が出てきて食べ過ぎることの方が多いと思うけど……」
歌仙に言われて、藤は口元に手を当てて考える。
彼が懸念しているように、季節の変わり目は人間も体調を崩しがちだ。だが、刀の神様である刀剣男士に人間と同じような感覚が当てはまるのだろうか。
そこまで思考が行き着いたとき、藤はふと、数日前のことを思い出した。
「この前、夜中に髭切がうなされている声が聞こえてきたんだ。そのせいかも」
藤は、軍手で包まれた手で積み上げた落ち葉を整えながら、先日のことを歌仙に掻い摘まんで話す。
夜中に目が覚めてしまい、水でも飲もうと厨に向かう途中で、呻き声のようなものが聞こえたこと。それが髭切の声だと気がつき、思わず起こしてしまったということ。
「どんな夢を見ていたのか尋ねたら、昔のことだろうって言ってた」
藤の話を最後まで聞いていた歌仙は、秋風で冷えた手を煙に当て、暫く押し黙っていた。
丸々一分ほど、そうしていただろうか。貝の口をこじ開けるように、ゆっくりと歌仙の口が開く。
「……それは、僕らではどうにもならない話かもしれない」
「どういうこと? 何か歌仙は知っているの?」
歌仙の深刻そうな顔につられて、藤の顔に不安の色がにじみ出す。
「きみは僕に初めて出会ったとき、僕の逸話を語ってくれただろう。僕と同じように、刀剣男士はきっと何かの逸話――物語を抱えている」
「うん。物吉は持ち主に幸運を授けるとかで、確か五虎退は……」
「五匹の虎を退けた、と語り継がれているらしいよ。本人はそんなことしていないと、言っていたのだけれどね」
むしろ五匹の虎の子に遊ばれて半べそになっている少年の顔を思い出し、藤は口元を綻ばせる。
「髭切にも彼の物語がある。ただ、それを今の彼が受け入れられるかというと、刀のときようの簡単に受け止めることは難しいのかもしれない」
その言葉を聞いて、藤は唇を噤む。ぱちんと、熾火が燻る音だけがやけに大きく響いた。
秋の空を、名も知らない鳥が甲高い鳴き声と共に通り過ぎていく。ゆるりと通っていった冷たさを交えた風が、藤の額に巻かれたバンダナを微かに揺らした。
数分ほど経ってから、ようやく彼女は口を開く。
「……それは、鬼を斬ったこと?」
「それも、あるのかもしれない」
俯いた彼女の表情は、前髪に隠されて見えない。その様子を見て、歌仙は自分が話した内容が、彼女にとって喜ばしいとは言えないものである可能性に、遅まきながら気がつく。
その姿から、人間と認められなかったのだろう彼女にとって、鬼扱いを意識させるような話題を振るべきでは無かったはずだと思い至り、
「主は鬼じゃない。僕だけじゃ無くて、彼だってそれくらい理解している筈だよ」
取り繕うように、言葉を並べる。
歌を考えるときに参考にしている書物には、無数の美辞麗句が綴られているのに、今この瞬間では何の役にも立ってくれない。火の近くにいるというのに、体の芯が冷えるような不安を覚える。
何を言ったものかと思考を回転させる歌仙をよそに、程なくして藤は顔を上げた。その顔には、いつも通りの少しばかり口角を釣り上げた笑みがあった。
「やだなあ。どうしたの、怖い顔して。僕だって、髭切がそんな細かいことに拘ってないだろうって信じてるよ」
「そうだね。彼にもきみにも失礼なことを言ってしまった。申し訳ない」
「謝らなくていいよ。歌仙は優しい人だね」
焼き芋の具合を確かめるためか、落ち葉とその下の灰を押しのけた彼女は、銀紙で包まれた芋を掴み、軍手をはめた手で慎重にひっくり返し始める。
彼女の横顔には、先ほど歌仙が感じたような懸念は不要と思うほど、楽しそうな微笑が広がっていた。
「髭切は、自分の物語が嫌いなのかな」
芋を灰に埋め直した彼女は、深刻そうな顔をしてまだ熱を帯びた赤い灰を見つめていた。ゆらりと立ち上る煙は、彼女自身の疑念を表しているかのようだ。
「嫌いだろうが、好きだろうが、結局のところ僕はそこにさしたる意味はないように思う」
驚いたように顔を上げる藤に視線を合わせ、歌仙は強い意志をこめて言う。
「何故なら、僕らは主の刀だ」
一言一言、区切るように己という存在に刻みつけるように。
「今の僕にとって大事なのは、過去の逸話じゃない。この本丸の僕として、積み上げてきた物語だよ」
藤の目が微かに見開かれる。
「僕は歌仙兼定。かつては、細川忠興の……三斎様の刀だった。そして、今は――きみの刀だ」
誇らしげに胸を張る彼の佇まいは、いつもの姿であるにも関わらず堂々として見えた。
その姿に、思わず藤は言葉を失う。
自分が最初に選んだ刀が、他の誰でもなく今の主に仕えることを誇りとして語る。それ自体は、嬉しいもののはずなのに。
彼の心のあり方に、彼女は胸を鷲掴みにされたような苦しみを覚える。自分は、彼の信頼に応えられているのかという不安が生まれる。
歌仙にかける言葉を何とすべきか。相変わらず喉まで出かかった声は口の中で消えてしまい、結局浮かべたのはいつもの微笑だった。
「髭切も歌仙みたいに思ってくれれば、楽になるのかな」
「髭切は僕らより古い刀だ。その分、相応の物語や歴史が彼の中に降り積もっているからね。そう簡単にはいかないのだろう」
燻る灰から立ち上る煙に、歌仙も掌をかざす。じんわりと伝わってくる熱を感じながら、彼は言葉を続ける。
「でも、僕らはこうして人の姿と心を持ってここに在る。それは刀だったときには、できなかったことだ。主のおかげで、僕らは僕らの物語に向き合える。髭切も、きっと今は向き合っている途中なんだろう」
「……たとえ、それが嫌なことだったとしても、気がつけた方がよかったの?」
藤に問われて、歌仙は目を伏せる。
血の臭いと、落ちた首。その数をまことしやかに囁く声。昔の主の声がどんな声だったのかも、歌仙ははっきり覚えているわけではなかった。
きっと、出会えばすぐに分かるだろう。この目で顔を見ていなくとも、この耳で声を聞いておらずとも、この心で思いを交わせていなくとも、自分を扱ったという歴史が、彼の体に染みついていた。
けれども、裏を返せば、今こうして人の五感で前の主と触れ合ったことはないというのも、また事実であった。だから彼はまだ、前の主の具体像を思い浮かべられないのだ。
その逸話にふさわしく、気性の激しい荒々しい者だったのか。はたまた歌仙が愛するような、風流を解する男だったのか。良いも悪いも判断しかねる己の逸話を、心中で噛み締め、彼は瞼を押し開ける。
「――良かったさ。知らないままでいるより、断片であっても知ることができた方が、ずっといい。こうして主の隣にも立っていられるわけだしね」
きっぱりと断言する歌仙の顔は、秋の空のように晴れやかなものだった。
藤は彼の涼やかな横顔をじっと見つめてから、ふい、と視線を灰へと戻す。
「僕は、――のままの方が、良かったかも」
「え?」
藤が、がさがさと灰を掘り返してしまったため、言葉は雑音の中へと消えてしまった。歌仙が尋ねても言い直すことはなく、彼女は銀紙に包んだ芋を取り上げる作業に集中しているようだ。
「できた」
嬉しそうに紙を剥くと、湧き上がる煙を何倍も濃くしたような白い湯気が、灰の塊から沸き立つ。蒸された芋から漂う仄かな甘い香りは、横から覗き込んでいる歌仙のお腹も刺激していた。
「……あげないよ?」
「欲しいなんて言ってないだろう」
「目が言ってた」
まるで焼き芋が宝物か何かのように、藤はひし、とそれらを胸の中で抱きしめる。
先ほどまでの真面目な空気はどこへやら。年相応の食いしん坊ないつもの主の姿を見て、歌仙は肩を竦めた。この仕草も、もうすっかり板についてしまっている。
「髭切のこと、僕にできることなんて、ないかもしれないけど」
銀紙を破り、半分に焼き芋を折る。やや焦げた皮の中から現れた金色の中身は、今話題にしている彼の髪を彷彿させた。
「でも、探してみるよ。僕なりの方法を」
***
足を踏み出せば、ざくりという乾いた落ち葉が崩れる音が響く。夏に踏みしめたときは、湿った土と草が柔らかく足を受け止めていたものだと、髭切は季節の変化を思う。
「髭切、そんなところで足を止めてないで、こっちにおいでよ。凄いよ」
急くように聞こえたのは、自分を呼ぶ主の声だ。髭切は顔を上げて、小さくなっていく彼女の背中を追いかける。
藤が歌仙と芋を焼いていた、その次の日。髭切は朝から主に誘われて、裏山の散策に付き合わされていた。顕現する前には物吉が、夏祭りの直前には歌仙と登っていた、あの裏山である。
物吉と五虎退は度々ここで遊んでいるようだったが、髭切にとっては初めて足を踏み入れる場所だ。夏の間に裏山の周囲を潜り抜けて裏手に回ったことはあるが、この山道は髭切にとって未踏の地である。
藤に促されるままに歩みを始め、そして彼は息を呑む。
「……わぁ」
「うん。とても綺麗」
思わず感嘆の声が、唇から零れでる。後を追うように、藤も賛同の言葉を口にする。
彼らの頭上には、赤や黄色、橙で彩られた天蓋が広がっていた。色づいた木々の艶姿を初めて目にした髭切は、眼を見開いて鮮やかな秋の景色に、ただただ心を奪われる。
「秋になると、緑が赤に変わるんだね」
「うん。遠くから見ると山が真っ赤になって、まるで燃えているみたいでね。豪華な着物でも着てるみたいだって思ってた」
「この色、主の髪の毛と同じ色だね。綺麗な色合いだ」
夕焼け色の髪をあちこち跳ねさせた主と、丁度頭上に広がっていた名も知らぬ木々の色づいた葉を、髭切は見比べる。
ふと気がつくと、彼女は比べられるのを嫌がるように、顔を逸らしていた。その横顔は、辺りの木々の色が顔に映っているのだろうか、少しばかり紅潮しているように見えた。
(……でも)
朝の陽光を受けて赤く照らし出された色を前にして、髭切は数日前に見た夢を思い出す。
真っ赤に濡れた自分の姿を。
悲しいとも怒りとも言えない、言葉にできない感情を。
地面に積もった赤の絨毯は、まるで自分から流れ落ちた深紅の水――血のようにも、見えた。
(どうして、赤はこんなに苦しいのだろう)
ひらりと舞い落ちてきた赤の葉が、白い上着にへばりつく。それは日々を過ごすときに纏っている、軽装の上着ではない。今日は歩き回ることになるからと、髭切は自分にとって最も動きやすい戦装束をまとっていた。
白に張り付いた赤は、否応にも敗戦を喫した初陣を思い起こさせる。拭いきれない遣る瀬ない感情に逸り、傷を負っても腕が動かなくなっても戦おうとした、あの一戦を思い出す。
だからだろうか、赤が苦しいのは。
(違う)
自分で問いかけながら、髭切はかぶりを振る。夢の中の赤は、ただ負けたから悔しいというような単純なものではないと、髭切は自覚していた。
ならば、何が自分の胸を締め付けるのか。答えの出ない自問自答を繰り返していると、パタパタと落ち葉を足で蹴散らしながら、藤がやってきた。
「あ、髭切。頭にもみじがついてる。服にも」
「あれ、頭にもかい? 落ちてきて、へばりついちゃったみたいで」
「じゃあ、髭切にもお裾分けしてるんだね」
「え?」
藤はひらひらと舞い落ちる紅葉を掴もうとする。しかし、自由気ままな落ち葉は、彼女の手をすり抜けて、彼女の足元へと着地した。
残念そうに肩を落としてから、藤はくるりと髭切に向き直り微笑みかける。
「山が、自分のお化粧を髭切にお裾分けしてるんだね。きっと髭切が綺麗だから、もっと綺麗にしてあげようって思ったんだよ」
「おや、そういうものなのかい?」
「……って、昔言っていた人がいたんだ」
更にもう一度くるりと踵を返し、髭切に背を向けて、藤は山の中を軽やかな足取りで進んでいく。そんな彼女の様子を見ていると、あれほど心をざわつかせた赤が異なる意味を持って見えた。
主と同じ色。部屋の前で咲いていた、鬼百合と同じ色。
それなら――いいかもしれないと髭切は思う。
髭切から少し離れた場所で、藤は自分の背の向こうにいる彼にこっそりと視線を送っていた。
秋の山が珍しいのか、数歩歩けば足を止め、また数歩進んでは周りを見る、といったのろのろとした足取りで彼は散策を続けている。
けれども、のんびりとした様子であるにも拘わらず、普段目にしない戦装束を纏った髭切の姿は、周りの赤も相まってまるで一つの絵のように見えた。
「本当に、神様なんだなあ」
整った顔立ちも、無駄のない体つきも、確かに常人離れしたものではある。だが、藤が思わずそんな言葉を漏らしたのは、見目の麗しさだけが原因ではない。
漂う空気。その場にただ在るだけで、何の変哲もない山道すら、神々しい何かに変質させてしまうような気配。
彼という世界が、刀剣男士という存在が在る場が、そもそも凡百の人とは違うと藤は感じる。
歌仙たちと他愛のないお喋りをしたときよりも、戦のために傷だらけになって戦ってきた後よりも、真剣に向き合おうと見つめてくれているときよりも。
ずっと強く――違うと、感じる。
「……僕ができることなんて、あるのかな」
歌仙に言われて、髭切のために何かしてあげたいと考えて、思いついた案。結局それは「気晴らしに出かける」といった程度の、ありふれたものにしかならなかった。
本丸の外に出たところで、髭切が楽しめるかは分からない。万屋の散策も候補にあったが、先だっての夏祭りを思うと、二人して迷子になる可能性も否めない。結果、藤は自分の趣味でもある山の散策を彼に持ちかけたのだった。髭切は、よもや自分の気分転換に連れ出されたなどとは想像すらしていないだろう。
「綺麗なものを見たら、きっと髭切も少しはすっきりするよね」
物吉も歌仙も言葉を奪われた、あの丘のことを思い出して、藤は決意を新たにする。秋の澄んだ空は、初夏や盛夏の頃とは違う景色を見せてくれるだろう。
自分自身、登り切った先の景色を楽しみにしながら、藤は歩みを再開しかけて足を止める。
「あっ」
彼女の足下には、小さな茶色い木の実が転がっていた。
秋の山の彩りを十分に目に焼き付けた髭切は、藤の姿を探し始め、思わず眉を顰めた。
何故なら、主がぴょんぴょんと屈んだり立ち上がったりを、繰り返しているからだ。忙しない後ろ姿は、たまに畑で見かける鼠を思わせるものがある。
「主。何をしているんだい」
「どんぐりが落ちていたんだ。ほら、そんなにまだ傷んでない」
藤がつまみあげた丸々とした木の実は、確かに傷や凹みのようなものはない。一体どこからやってきたのかと、髭切が首を上に向ければ、小さな粒が集まっている木の枝があちらこちらにあった。
「主はどんぐりが食べたいの?」
「昔はよく食べていたけど、どっちかというと栗や胡桃の方が好みかな。結構渋いんだよね」
言いながらも、しゃがんでは綺麗などんぐりを拾うという一連の動作を、彼女は落ち着きなく繰り返していた。
ひとしきり拾い集めた後、彼女は掌を髭切に見せる。その中には、彼女が集めた小さな秋の落とし物が、身を寄せ合っていた。
大ぶりのもの。小ぶりのもの。小さいもの。膨らんでいるもの。細いもの。
何の変哲も無い木の実と思っていたが、改めて見てみると興味を惹かれる。
藤は、その一つ一つがまるで宝物でもあるかのように、にっこりと微笑みながら指で摘まみあげ、
「こっちの小さいのは五虎退で、こっちの大きいのが髭切。細くてすらっとしてるのが物吉で、如何にも優等生って感じで綺麗なのが歌仙」
「じゃあ、こっちの僕より大きいのは?」
「うーん。それは特に考えてなかったな」
言いつつ、彼女はポケットの中に入れていた袋に、ざらざらとどんぐりを移していく。
その様子を見ている髭切の胸に、不意にポンと暖かな光が灯ったような柔らかな気持ちが混ざり込む。自分の意思とは関係なく灯されたこの明かりは、まず間違いなく主のものだろう。
(でも、これは初めてだ)
いつもはちくちくと針でつつかれるような痛みや、氷水のような冷たさを伴って彼女の感情は流れ込んでくる。
けれども今は、身を委ねたくなるような暖かさが髭切の中に満ちていた。それでいて、思わず駆け出したくなるような、声をあげて笑い出したくなるような気持ちも混ざっていく。
この気持ちが何かを考えるより先に、腕がぐいと引かれ、彼は視線を主に向けた。
「髭切、早く奥に行こう。もっと色んなものがあるよ」
彼女に誘われるままに、髭切は歩いて行く。黄色のトンネルをくぐり抜け、赤の世界を通り過ぎる。
「見て。ススキがこんなに伸びてる」
足を止めた彼女は、金色に光る穂を指さした。澄み切った青空に揺れる背の高い草は、まるで自分たちを歓迎しているかのようだった。
「ほら。川の水が冷たくて気持ちいいよ」
山道から少し外れた川縁では、ひんやりとした秋の水に足を浸した。すいすいと泳ぐ魚を捕まえようとして、思わず主がひっくり返りそうになっていた。
「もっと上に行くとね。凄く綺麗な所があるんだ」
心なしか弾んだ声で、彼女は先へ先へと歩いて行く。そんな主の姿を、髭切は初めて見た。
普段から彼女は笑っている筈なのに、今自分が目にしている笑顔は、それとはどことなく違う。何がどう違うとはっきり分かるわけではないものの、本丸にいる時の彼女より今の彼女はよく動き回り、跳ね回っている。声も、平時より高揚感があらわになっている気がする。
山というのはそういう気持ちにさせるものなのかもしれないと、人として生きた経験の浅い髭切は思う。或いは、単純に主がこういった山道を行く散歩が好きということだろうか。
けれども、彼女の笑顔があるから――降り注ぐ赤の葉も、今はもうそこまで気にならない。
「ここを登ったら休憩しよう」
彼女が指し示した坂道は、多少今までより傾斜がきついものではあった。だが、刀剣男士として鍛えられている髭切には、この程度の坂は苦労の内に入らない。
十分もしないうちに、彼は所々紅で彩られた坂道を通り抜ける。まばらとはいえ、道に沿うように生えている木々をくぐり抜け、その先にある景色が彼の視界に飛び込む。
「――――!」
瞬間。
全ての言葉が、彼の中から消えていった。
一気に開けた視界。
藤が予想していたように、彼の視界を澄んだ青空が余す所なく埋め尽くす。
だが、空は一つではなかった。
地面に広がるのは、もう一つの空。
頭上のそれよりも、ずっと深く濃い蒼の空。
藤ですら想像していなかった光景が、そこにはあった。
「――見つけた」
思わず口にした言葉。
どうしてそんなことを呟いたのかも、髭切には分からない。
無限に続いているのではと思うような、地上の蒼穹は、風に吹かれてざわりと揺れる。
青空よりも尚濃い空の正体は、笹のような葉の上から空へと伸びる蒼の花だ。
その花の姿は、髭切が纏う装束の紋と、大事なものとも繋がっていると主に語った意匠と、同じ形をしていた。