本編第一部(完結済み)
「……今日の作業、終わりっと」
誰に言うわけでもない独り言を呟きながら、藤は庭外れの物置の戸を開く。畑仕事を終えた彼女は、いつものように道具の片付けをしていた。
暦の上では既に八月が過ぎ、九月に入ってからそれなりの日が経っている。蝉の鳴き声の代わりに、彼らの亡骸が目につく晩夏を過ぎ、秋という季節が訪れようとしていた。
うだるような蒸し暑さは弱まり、過ごしやすい涼風が吹く時期だ。今も火照った体を、ゆるりと涼しい空気が体を通り抜けていった。
「過ごしやすくなってきたし、久しぶりに体を動かしてみようかな」
肩をぐるりと回して、大きくのびをする。歌仙一人しかいなかったときに比べて、今は人数も十分に足りている。そのため、藤が刀剣男士たちの手合わせに混ざる回数は、ここ最近めっきり減っていた。
他にも、夏の暑さにすっかり参ってしまい、運動をする気になれなかった、というのも理由の一つだ。最後に手合わせをしたのは、夏祭りの少し前に髭切と軽く打ち合ったときであり、あれからもう一ヶ月は経っている。
「流派というか、戦い方がそれぞれ違うんだよね。普段、どんな風に刀を振るっているんだろう」
言いながら、藤は丁度手に握っていた竹箒を構えてみる。見よう見まねで歌仙や髭切の動きをなぞろうと、足を踏み出し、勢いよく箒で空気を払った。
木刀と異なり、重心が掃く部分にかかっているため、思うように動かすのは難しい。それでも久々の運動に気を良くして、何度も素振りを重ねていると、
「精が出るようですね、審神者様」
突然割り込んできた事務的な声に、藤は思わず身を固くする。この声には、聞き覚えがあった。
「……あなたは」
「お久しぶりです。お元気なようで、何よりですよ」
酷く事務的な声音は、彼女の足下から聞こえていた。視線を下にやると、そこには隈取りのような化粧で顔を彩った面妖な狐――こんのすけが座っていた。
箒を構えて中途半端な姿勢で固まっていた藤は、ばつが悪そうに顔を少し赤らめる。箒をそっと下ろして、何でも無い振りを装ってから、彼女は頭を下げた。
「今日は、どのようなご用でしょうか」
「いえ、ただ様子を見に来ただけです。夏祭りは楽しかったですか」
こんのすけと対面するのは、彼が太刀の顕現を勧めてきたとき以来である。であるにも関わらず、彼は当然のように、藤が夏祭りに赴いた前提で話を進めていた。
「……はい。それなりに」
彼女の返答は、ぎこちないものだった。
この狐は政府から来ている使者であるとは知っているし、丁重に扱うべきだと藤も頭では理解している。
しかし、心情としては苦手意識の方が先走ってしまう。どうにか笑顔を取り繕うのが、藤のできる精一杯だ。
「先にこう言うべきでしたね。遅くなりましたが、太刀の顕現、おめでとうございます。髭切を顕現されたようですね。色々と、問題は起こしてしまったようですが」
「…………ちゃんと、彼とは話をしましたから。もうあんなことは、起きません」
髭切の単独行動が、部隊に危機を招いた記憶はまだ新しい。また刀解の話でもされるのではないかと、藤はごくりと唾を呑んだ。
「それは重畳。あの後、別の審神者の部隊が出陣して、無事に敵を退けることができたと聞いています」
「そう……ですか。その審神者さんに、お礼を言いにいかねばいけませんね」
「いえ。あなた様を助けたのは事実かもしれませんが、あのような者に礼など不要ですよ」
自分の本丸から話題を逸らそうとしていた藤は、こんのすけの否定的な反応に「おや」と眉を顰める。
普段は何を考えているか分からないこの狐が、審神者に対して否定的な発言をするとは珍しいと思ったのだ。
「あのような?」
「悪い噂がついている者ですよ。審神者様が――藤様が、関わるような者ではございません」
「でも、僕と同じ審神者なんですよね」
「審神者にも色んな者がおります。彼は審神者の中でも、異端者です。ゆめゆめ接触しようなどとは、思われませぬように。分かりましたね」
「……はあ」
思わず気のない返事になってしまったのは、こんのすけの内側から、分かりやすいほどの嫌悪が滲み出ていたからだ。いつも人を食ったような態度ばかり見せているのに、今日に限って人間的な感情を突然ぶつけてきたので、面食らってしまったのである。
こんのすけ自身もそのことに気がついたのか、首を軽く振り、仕切り直すような仕草をとってから、
「それで。お祭りの際に、鳥居の向こうに行かれたと聞いていますが」
油断していた藤に、杭でも打ちこむかのように言葉を鋭く差し込んだ。
あまりに突然の発言に、彼女は思わずその場から一歩下がる。いきなり心臓を掴まれたような衝撃に、ごまかしの言葉すら迷子になってしまった。
「あの向こうで、何にお会いになったのですか?」
「…………何も。迷子になっていたところを、知人の審神者の刀剣男士に化けた何かが、僕を連れ戻してくれました。彼としか会っていません」
辛うじて、藤は森の中であったことの一部を掻い摘まんで語る。しかし、
「本当に?」
続いた言葉は、まるで彼女の言葉が全てを明らかにしていないと知っているかのような、確信が含まれていた。
藤が言葉を続けるのを待っているかのように、こんのすけは黒々とした瞳で彼女を見つめている。藤は思わず目を逸らして、辛うじて首を小さく横に振った。
「あの森は、それはもう古い時代、神(かん)奈(な)備(び)として祀られていたのですよ。故に、何か変わった者に会ったのではないかと、思ったのですよ」
「……そうなんですか。でも僕は……そんな変わった人は見ていません」
適当な相槌を打ってから、それでも藤は再び首を横に振る。
夏祭りから二週間が経とうとしているが、思い出そうとすれば、あの夜の森の光景は瞼の裏ですぐに蘇る。
木々の向こうに消えていく、懐かしい面影。黒い枝葉を煌々と照らし出す月。その下で笑う、鶴丸国永を名乗った何か。
小烏丸が言うように、祭りに寄せられたよくないものだったのかもしれない。何はともあれ、あれから不思議な事件に巻き込まれることはなかった。
「そうでしたか。また何かありましたら、是非知らせてくださいね」
「分かりました。あ、そうだ」
「何でしょう?」
踵を返しかけていたこんのすけは、藤に呼び止められて足を止める。
「あなたは、他の審神者についても詳しいんですよね。更紗という名前の審神者のこと、ご存じではないですか」
あの夏祭りで出会った子供の審神者とは、連絡先を聞き忘れたせいであれ以来交流がない。彼ならば、何か知っているのではと、この狐への苦手意識も忘れて、藤は一縷の望みを抱く。
しかし、こんのすけは目を眇め、そしてにべもなく告げた。
「あなたが知る必要は、ないことですよ」
***
「はああぁっ!!」
歌仙の気迫のこもった声とともに、容赦ない突きが髭切の目に迫る。咄嗟に腰を落として躱し、
「きえええああぁぁっ!!」
気合いを入れた声と共に返す刀で切り上げ――かけて、右手の感覚が一瞬無くなった、気がした。
そのせいで握り込みが浅くなり、勢いが殺される。
そこに出来た隙を逃す歌仙ではない。難なく躱し、立ち位置をずらした彼の横薙ぎが、姿勢を崩した髭切の脇腹めがけて迫る。
ダンッと道場の床を踏みしめる音を最後に、音がなくなったかのような沈黙が辺りを支配した。
「……降参だよ」
口火を切ったのは、髭切だ。
木刀の切っ先を下げ、息を吐き出してから頭を垂れる。対峙していた歌仙も彼に倣い、寸止めをしていた木刀を下ろした。
暦の上では夏は通り過ぎたものの、激しい打ち合いをしたこともあって、彼らの額からはパタパタと汗が流れ落ちていた。
「先ほどの動き、少し乱れがあったように見えたね。まだ、腕に痺れが?」
「たまに、だけどね。感覚が無くなってるようなときとか、思ったように動かないときがあって」
言いつつ、髭切は右手を開いたり、手首を捻ったりしてみる。見た目だけなら、異常は見られない。ただ、先ほどのように、ふとした弾みで動きが鈍るときがある。
その鈍りは、時として致命的なものになるということは、歌仙も髭切も知っていた。夏祭りを終えてから、出陣の連絡が来ていないのは、彼にとっては好都合だったと言えよう。
「主に手入れを頼まないのかい?」
「わざわざ手を煩わせるようなことでもないかなって」
言いながらも髭切は、少しばかり目を伏せる。
歌仙にはこう返したものの、主には手入れをお願いしていなかったわけではない。ただ、その話題を出した時、彼女の顔が強張ったように見えたのだ。
手入れが不十分だったことが、それほどまでに心苦しかったのかと思ったが、ともかく彼女の表情が気になって、髭切の方から手入れを断ってしまっていた。
「ちょっと不調なぐらいで主に手入れを頼んでいたら、主も疲れてしまうよ」
「そうだね。僕らの手入れが終わった後、彼女は長めに休んでいるようだ。あまり無理はさせない方がいいだろうね」
今は畑で日課の水やりをしている主を思いながら、歌仙は言う。
ただ、彼女が単純に寝ているだけでなく、布団の中で吐き気や頭痛と悪戦苦闘していることは、二人は依然知らないままだった。
「さて、そろそろ片付けを……」
手合わせを終えて、少し弛緩した空気が流れていただろうか。歌仙は言葉を中途で切り、口元に手を当てて小さく欠伸をした。
「眠いのかい?」
「これは恥ずかしい所を。昨晩はちょっと夢見が悪くてね。実はあまり寝ていないんだ」
「夢ってどんな?」
何気なく問いかけたものの、髭切の瞳には微かな好奇心を覗かせていた。
もし歌仙が見た夢が時々自分が見ている夢――主の夢をのぞき見するような形のものなら、互いに情報を共有できるかもしれないと思ったからだ。
「大したものじゃないよ。……僕自身に関する夢だ」
どうやら主の夢ではないようだとわかり、髭切は少しばかり肩を落とす。だが、続く歌仙の言葉を聞いて髭切は再び、彼の話に耳を傾け始めた。
「僕の逸話の夢を見たんだ。知っての通り、僕の名前の由来は、前の主が三十六人の家臣を手討ちにしたという逸話から来ていてね」
「へえ。それはまた、凄い話だね」
「……そうだね。主も、あれは後世の創作だろうって話していたし、僕もわざわざ口にするような逸話でもないかと考えていたけれども。断片的でも実際に見ると、また思う所があって」
三十六人もの人を斬って尚、名刀と謳われ続ける。髭切としては、その来歴は素直に凄いと言えるものだった。
歌仙自身、顕現した直後なら特に気に留めようとはしなかった。自分が刀であり続けたのなら、或いは堂々と成果を誇っていたかもしれない。
ただ、今の歌仙兼定は、もうただの名刀という「物」だけではなかった。
「人を斬ったことを、誇っていいものなのかどうか」
瞼の裏に蘇るのは、鬼のような姿の侍に斬り殺された村娘の姿。奇遇にも主と同じ名を持つ、歴史の端役に過ぎない女性の面影。
思い悩む歌仙の様子に気がついた髭切は、じっと彼を見つめる。見つめられていると察し、歌仙は顔を上げて慌てて取り繕った笑顔を見せた。
「決して、この名を嫌っているわけではないんだ。もう少し、僕も考える時間が欲しいと思っただけで」
「何人斬った話があろうと、僕の知っている歌仙兼定は今ここに立っている歌仙兼定だけだよ。何を斬ったかとか、細かいことはどうでもいいんじゃない?」
「……はは。参ったね。君にそう言われてしまうとは」
歌仙の顔に浮かんでいた取り繕った笑顔が、緩やかに異なるものに変わる。自分の心を覆い隠すためのただの仮面から、肩の大きな荷物を少し下ろせたかのような穏やかなものへと。
「……これも、主が慧眼だったということかな」
「主がどうかしたの?」
「いや、きみが顕現する前にあった話なんだが」
歌仙は、数ヶ月前の記憶を紐解いていく。
遠征から帰った歌仙に向けて、藤は「頼れる刀剣男士が欲しいのではないか」と持ちかけた。
五虎退や物吉の前では、歌仙も気を張ってしまうだろうという彼女なりの配慮であるとは、その時に既に気がついていた。
そして、今。
歌仙は髭切に自分の悩みの一端を吐露し、髭切の言葉のおかげで、心の重荷を少しばかり下ろすことができた。主が言ったように、結果的に刀剣男士同士で支え合う関係が生まれているというわけだ。
「主は何でもお見通しだなと、思ったんだよ」
「そうだねえ。でも、それなら主の悩みは誰が聞いてくれるのかな」
「それは当然、僕らだろう」
何を当たり前のことを、と歌仙は言う。
「あの年で親と死に別れ、審神者の使命があるからと墓に参る時間も作れず、それでも弱音一つ吐かずに笑顔でいる。そんな彼女が僕らを頼ったのなら、その分支えるのは僕らの役目だろう?」
「歌仙は、随分と主のことを知っているんだね」
「ま、まあね。たまたま機会があっただけだよ」
歌仙は視線を髭切から少しばかり逸らし、ごほんとわざとらしい咳払いをしてみせる。まさか、主への手紙を盗み見てしまったなどとは、言えるわけがなかった。
けれども、髭切は歌仙の思わせぶりな態度から、別のことを類推する。
「主の夢でも見たの?」
自分と同じように、彼も主の夢をのぞき込んでいるのではないかと、髭切は考えた。
しかし、髭切の予想に反して歌仙はきょとんとした顔をしてみせる。どうやら違うらしいと、髭切はすぐに自分の考えを否定した。
「ともかく。親そのものにはなれなくても、家族ぐらいなら僕らでもなれると思うんだ。人間にとって最初にふれあう共同体であると、書物にも書いてあってね」
「歌仙は色々と主のために、気を回しているんだね」
「そうでもないよ。ただ少しばかり息抜きをさせてあげられたらと、あれこれ手を回すことしかできていない。あの夏祭りでそれが出来たら良かったんだけれど、あんな事件が起きるとは」
「それでも、主は楽しんでいたと思うよ」
適当に相槌を打ちながらも、髭切は歌仙のいう「家族」というものに思いを馳せる。
親とやらがいないのだから、代わりを務めようというのは心情としては当たり前なのだろうか。髭切には、いまいち分かりかねる感情だった。
そこまで考えて、彼はあの祭りの夜を思い出す。
自分と同じ顔の存在に、「兄者」と呼びかけた薄緑の髪をした青年のことを――――。
(……彼が、僕の家族のようなものだってことかな)
言葉だけを捉えれば、そうなるのだろう。
彼のことを思うと、自分に穴が開いて、中から何かこぼれ落ちたような虚無感に襲われてしまう。それは、歌仙のいうような、暖かな気配りとは異なるものだ。
隣にいないと落ち着かないようなこの感覚が、家族がいないために生じるのなら、歌仙が主のそれを埋めようとするのも納得というものである。
「髭切? なんだか疲れた顔をしているようだけれど、大丈夫かい」
「ああ。大丈夫。何ともないよ」
言いながら、髭切はいつも通りに笑う。今日も、心の隅の空白は埋まりそうに無かった。
***
かーん。かーん。
槌で硬いものを打つような、澄んだ音が響き渡る。
最初は一つ。やがて二つ。混じり合い、溶け合っていく。最初こそ少しずれていた音も、いつしか、ぴったり重なっていた。
(いつもとは違う夢だ)
意識を浮上させる。自分が何かをはっきりさせるために、彼はまず己の内側に問いかける。
(僕は、髭切。審神者、藤の刀。今はこうして人の形を得て、本丸で過ごしている)
自分という輪郭を、明確にしたからだろう。より客観的に、髭切は夢に向き合うことができた。
延々と広がる暗闇。その中を響き渡る音は、金属に金属を打ち付けるような音。
どこか聞き覚えがあり、落ち着く音でもある。
(まるで、刀が生まれるときのような音だ)
髭切の意識に連動するように、視界に二つのものが現れる。
暗闇に横たわる、鈍く光る二振りの刀。
一つは手にとるまでもなく、馴染みのものだと分かる。何故なら、それは自分自身でもあるからだ。
もう一つは、似ているようで違うと感じる。刃長も反りも同じなのに、異なるものだと直感が囁く。
けれども、心の片隅が震えるような歓喜に満ちていく。失った片割れを見つけたと、言葉にできない感情がこみ上げていく。
「――――」
声がする。恐らくそれは、自分を呼ぶ声だと、髭切は自覚する。
「――――」
もう一つ、声がする。これは自分を呼ぶ声では無い。
ならば、この片割れを呼ぶ声だ。
「ねえ。彼は何という名前なんだい」
髭切の問いかけに応えるように、呼びかける声が増える。けれども、その声は曇りガラスの向こうからのようにくぐもって、はっきりとしない。
加えて、声は一つではなかった。三つか、四つか、はたまた、もっとか。
声が告げる呼び名も、全く異なる言葉だ。重なり合って互いを打ち消し合ってしまい、曖昧なまま小さくなっていく。
やがて、ふ、と声が全て消えた。
痛いほどの沈黙の中、今度は髭切の前に人影が現れる。
初夏の緑を写し取ったような、薄い緑の髪。自分のものに似た意匠の、黒い衣服。顔立ちも、どこか己に似通っているように思う。
そこにいるのは、髭切と同じような背丈の青年だった。
ただ、彼の瞳はまるで眠っているかのように閉ざされ、髭切を見てはいなかった。
「天下を守るべき者、良き太刀を持つべしと」
曖昧な世界の中で、声無き声が響く。
「長さ二尺七寸――天下を守護し、ひとたび振るえば靡かぬ草木は無く」
「これは、僕自身の夢……?」
歌仙が言っていたように、髭切という刀に宿った逸話を見ているのかもしれないと、髭切は考える。ならば、目の前に立っている青年は、やはり自分の逸話に深く関わるものなのだろう。
手を伸ばしてはみたものの、まるで影に触ったかのように髭切の手がするりと通り抜ける。顔を顰める彼の意図など知らぬように、声は響き続ける。
「鬼を斬った」
「鬼の片腕を」
「茨城童子を」
「いいや、戻橋の橋姫を」
「――ならば、名は鬼切丸と」
その名を聞いた瞬間、髭切は夢の中で感じないはずの冷や汗が背筋を伝ったように思った。
鬼。
顕現した直後に見た、額に角を生やした主の姿。
あの時は、斬らねばなるまいと体が勝手に動いてしまった。
主のことを考えたからだろうか。闇の中に、ぼんやりと主の姿が現れる。いつものように額を布で隠してはおらず、剥き出しになったそこには、薄緑の小さな角があった。
「――僕は、この鬼は斬らない」
声を否定するように首を横に振ると、主の姿は霞のように姿を消していった。彼女が消えるのと同時に、再び声が響く。
「夜中に吼えたという」
「片方は――のように、片方は獅子のように」
「ならば、名は獅子の仔と」
「……そんな声を出したような覚えは、ないんだけど」
思わず返事をしてみたところで、声は髭切を無視するように黙りこくる。変わらず自分の前に立つ薄緑の髪をした彼も、唇を閉ざしたままだ。
彼の名は何なのか。
そう思った刹那、彼の姿もまるで蜃気楼のように、ゆらりと揺れる。
「待って」
消えてしまう。
手を伸ばして、必死に彼の体を掴もうとしても、彼はやはり霞のように髭切の指を通り抜けていってしまう。そればかりではなく、勢い余った髭切の体は宙に投げ出され、その場に倒れ込んでしまった。
夢の中だからだろう。痛みを覚えることはない。しかし、
「写しを斬った」
「自分の写しを」
「ならば、名は友切と」
「この刀の名は」
「名は」
わんわんと頭の中を言葉が響き渡る。自分を呼ぶ声が幾重にも木霊する。だというのに、その声は自分を呼んでいないようにも思う。
最早頭痛すら覚えるほどの言葉の奔流。
あまりに多くの名が頭に注ぎ込まれているようで、自分が何なのかも分からなくなる。
もう限界だ。
そう思いかけたと同時に、声がぴたりと止んだ。
ひらりと、鼻の天辺に冷たい物が触れる。立ち上がって周りを見渡しても、ぼんやりとした暗闇の中にいることは変わらない。
だが、その暗闇を彩るように、白い欠片が点々と上から落ちてきた。
(なんだか、寂しい景色だね)
ちらちらと絶え間なく舞い落ちる白は美しく思うのに、もの悲しさがどこかに感じられる。彼がそんなことを考えていると、再び声が響く。
「剣の力は既に失われたのか。我らは見捨てられたのか」
悲痛さを覚える内容だったが、その言葉はまるで定められた文を読み上げているだけのように、どこか無機質だった。
「いいえ、見捨ててなどいません。あなた方が剣の名を変えたからです。まして、友切などという名をつけたのだから」
友を――同胞を斬るようなことに。
忠告めいた言葉も、やはり感情がこもっているようには思えなかった。けれども、言葉が示した意味は髭切の感情を大きく揺さぶる。
「なら、僕の名は何がいいのかな。何を名乗れば、僕の加護は衰えずに済む? どんな名前なら、僕が僕でいられる?」
髭切が問いかけても、返事は無い。
ひらひらと舞っている白い欠片も、いつしか止んでしまった。追い求めていた薄緑の彼の姿も、主の姿も見えないままだ。
「僕は」
口を開き変えた折。
びしゃりと、体に何かがかけられる。ぽたりぽたりと垂れる雫の音で、自分が濡れていることに気がつく。
「……あれ」
思わず手元を見て、彼は絶句する。
赤、赤、赤が。
いつしか全身を赤に染め上げられ、彼はその場に立ち尽くしていた。
体に染みこむ赤が何かを知っている気がして、髭切は息を飲む。
この赤は、敵が流す赤ではない。きっと、自分が守るべき何かが流したものだ。
「……っ」
声をあげたい。誰かを呼びたい。
なのに、誰を呼べばいいかもわからない。そもそも自分が何なのかも、分からない。
まるで頭に手を突っ込まれ、ぐちゃぐちゃにかき混ぜられてしまったように、何も考えられない。
「きり、髭切!!」
声がする。聞き慣れた声がする。
声に導かれるように、彼は顔を上げ、そして――
***
「髭切!!」
耳元で大声を出されて、驚いた髭切は目を見開く。
ガバリと跳ね起きると、彼の側で「うわぁ」という気の抜けた驚きの声と、どたんと何かがひっくり返るような音が聞こえた。
先ほど目に入った光景が不意に思い出され、髭切は咄嗟に自分の手を見つめる。あの凄惨な赤は、どこにもない。部屋の隅で灯された灯りが照らす掌は、汚れ一つない綺麗なままだった。
ほっと安堵の息を吐き、くるりと辺りを見渡す。障子越しに見える庭は、まだ薄暗い。どうやら夜明け前のようだ。
「……夢、だよね」
「大丈夫? 凄くうなされている声が聞こえてきたから、思わず起こしちゃったんだけど」
首を少し動かすと、枕元に座り直している主の姿が目に入った。先ほど間抜けな声をあげてひっくり返ったのは、主だったようだ。寝間着姿の彼女は、眠そうに目をこすっている。
「どんな夢を見ていたの?」
「僕のことを、少しだけ。多分、昔にあった話かなあ」
背中に冷や汗が流れているような不愉快さは、依然として残っているし、まるで全力疾走をしてきたかのように、内側に響く鼓動がうるさい。
けれども、それもこちらを覗く主の顔を見ていたら、徐々に収まっていった。夢の余韻を押し出すように、小さくため息を吐くと、
「嫌な夢を見たなら、寝直して忘れた方がいいよ。ほら、まだ夜明け前だから」
何を勘違いしたのか、主にぐいぐいと押されて体を横にさせられてしまった。彼女に言われるがままに目を閉じてみるものの、眠気は一向にやってこない。
「主。そうは言っても、眠くないんだよね」
彼は瞼を押し開けて、隣に座る主の膝を眺めながら目が冴えていることを伝える。
「それでも目を瞑っていれば、そのうち眠くなるよ」
そういうものだろうか、とぎゅっと瞼に力を込める。けれども、視界の情報を閉ざすと、今度はやたらと頭が余計なことを考えてしまう。
例えば、あの青年は自分の何なのか、とか。
例えば、どうしてこんな胸騒ぎがしたのか、とか。
ぐるぐると思考を巡らせてしまい、到底眠気などやってきそうにもない。やはり起きようと主に伝えるべく口を開きかけたとき、
「……ねんねんころりよ おころりよ」
小さな唄が、聞こえた。髭切にかけられた薄手の布団を、一定のリズムで優しく叩きながら主が歌っている。
彼女の歌声に耳を傾けていた髭切は、巡らせていた思考が、いつの間にか止まっていることに気がついた。
ねんねんころりよ おころりよ
坊やはよい子だ ねんねしな
何度も何度も、同じフレーズが繰り返される。おかげで、取り留めの無い考えは、歌に押し流されるように消えていった。
やがて、ゆったりとした声に導かれるように、暖かな眠気が訪れる。
「ねん、ね……」
主の唄につられるように動いていた髭切の唇から、いつしか穏やかな寝息が漏れるようになる。再びやってきた眠りは、先ほどよりはずっと静かなものだった。
***
温かいお湯の中を揺蕩っているように、彼は再び夢を彷徨う。先ほどのような暗闇では無く、霧のかかった道を歩いているように、白く濁った世界が延々と続いていた。
けれども、不思議と不安はない。毛布にくるまれたような暖かさだけが、髭切の周囲を包んでいた。
主と似ている声が、主が口にしているような唄を口ずさんでいるのが聞こえる。
ねんねんころりよ おころりよ
おひいはよい子だ ねんねしな
おひいのお守りは どこへ行った
お角を生やして 山へ行った
山のめぐみに 何もろうた
狭野方の花に あけみの実
(主が歌っていたのとは、違う……?)
疑問に思いながらも、髭切は唄に身を任せる。声の後を追うように口ずさみながら、右も左も分からない白の世界を歩いて行く。
どこかでころころと笑う、幼い子供の声が聞こえる。唄声の主が、子供と話している声もする。
「あけみの実! あけみの実! あーちゃんといっしょだ!」
「そうよ。昔の人はアケビのことをあけみの実って呼んだのよ」
「かあちゃ、じゃあ、あけみのお花はなんて言うの?」
「それはね」
彼女たちの話し声が空間にゆったりと響き渡り、やがて溶けていくように小さくなっていく。
子守歌は、もう聞こえない。けれども、最早先ほどの夢で味わった苦しさはどこにもない。あの、寒気を覚える赤は遠くへ行ってしまった。
自分を包む温かな白に身を委ね、髭切はゆっくりと目を閉じた。
誰に言うわけでもない独り言を呟きながら、藤は庭外れの物置の戸を開く。畑仕事を終えた彼女は、いつものように道具の片付けをしていた。
暦の上では既に八月が過ぎ、九月に入ってからそれなりの日が経っている。蝉の鳴き声の代わりに、彼らの亡骸が目につく晩夏を過ぎ、秋という季節が訪れようとしていた。
うだるような蒸し暑さは弱まり、過ごしやすい涼風が吹く時期だ。今も火照った体を、ゆるりと涼しい空気が体を通り抜けていった。
「過ごしやすくなってきたし、久しぶりに体を動かしてみようかな」
肩をぐるりと回して、大きくのびをする。歌仙一人しかいなかったときに比べて、今は人数も十分に足りている。そのため、藤が刀剣男士たちの手合わせに混ざる回数は、ここ最近めっきり減っていた。
他にも、夏の暑さにすっかり参ってしまい、運動をする気になれなかった、というのも理由の一つだ。最後に手合わせをしたのは、夏祭りの少し前に髭切と軽く打ち合ったときであり、あれからもう一ヶ月は経っている。
「流派というか、戦い方がそれぞれ違うんだよね。普段、どんな風に刀を振るっているんだろう」
言いながら、藤は丁度手に握っていた竹箒を構えてみる。見よう見まねで歌仙や髭切の動きをなぞろうと、足を踏み出し、勢いよく箒で空気を払った。
木刀と異なり、重心が掃く部分にかかっているため、思うように動かすのは難しい。それでも久々の運動に気を良くして、何度も素振りを重ねていると、
「精が出るようですね、審神者様」
突然割り込んできた事務的な声に、藤は思わず身を固くする。この声には、聞き覚えがあった。
「……あなたは」
「お久しぶりです。お元気なようで、何よりですよ」
酷く事務的な声音は、彼女の足下から聞こえていた。視線を下にやると、そこには隈取りのような化粧で顔を彩った面妖な狐――こんのすけが座っていた。
箒を構えて中途半端な姿勢で固まっていた藤は、ばつが悪そうに顔を少し赤らめる。箒をそっと下ろして、何でも無い振りを装ってから、彼女は頭を下げた。
「今日は、どのようなご用でしょうか」
「いえ、ただ様子を見に来ただけです。夏祭りは楽しかったですか」
こんのすけと対面するのは、彼が太刀の顕現を勧めてきたとき以来である。であるにも関わらず、彼は当然のように、藤が夏祭りに赴いた前提で話を進めていた。
「……はい。それなりに」
彼女の返答は、ぎこちないものだった。
この狐は政府から来ている使者であるとは知っているし、丁重に扱うべきだと藤も頭では理解している。
しかし、心情としては苦手意識の方が先走ってしまう。どうにか笑顔を取り繕うのが、藤のできる精一杯だ。
「先にこう言うべきでしたね。遅くなりましたが、太刀の顕現、おめでとうございます。髭切を顕現されたようですね。色々と、問題は起こしてしまったようですが」
「…………ちゃんと、彼とは話をしましたから。もうあんなことは、起きません」
髭切の単独行動が、部隊に危機を招いた記憶はまだ新しい。また刀解の話でもされるのではないかと、藤はごくりと唾を呑んだ。
「それは重畳。あの後、別の審神者の部隊が出陣して、無事に敵を退けることができたと聞いています」
「そう……ですか。その審神者さんに、お礼を言いにいかねばいけませんね」
「いえ。あなた様を助けたのは事実かもしれませんが、あのような者に礼など不要ですよ」
自分の本丸から話題を逸らそうとしていた藤は、こんのすけの否定的な反応に「おや」と眉を顰める。
普段は何を考えているか分からないこの狐が、審神者に対して否定的な発言をするとは珍しいと思ったのだ。
「あのような?」
「悪い噂がついている者ですよ。審神者様が――藤様が、関わるような者ではございません」
「でも、僕と同じ審神者なんですよね」
「審神者にも色んな者がおります。彼は審神者の中でも、異端者です。ゆめゆめ接触しようなどとは、思われませぬように。分かりましたね」
「……はあ」
思わず気のない返事になってしまったのは、こんのすけの内側から、分かりやすいほどの嫌悪が滲み出ていたからだ。いつも人を食ったような態度ばかり見せているのに、今日に限って人間的な感情を突然ぶつけてきたので、面食らってしまったのである。
こんのすけ自身もそのことに気がついたのか、首を軽く振り、仕切り直すような仕草をとってから、
「それで。お祭りの際に、鳥居の向こうに行かれたと聞いていますが」
油断していた藤に、杭でも打ちこむかのように言葉を鋭く差し込んだ。
あまりに突然の発言に、彼女は思わずその場から一歩下がる。いきなり心臓を掴まれたような衝撃に、ごまかしの言葉すら迷子になってしまった。
「あの向こうで、何にお会いになったのですか?」
「…………何も。迷子になっていたところを、知人の審神者の刀剣男士に化けた何かが、僕を連れ戻してくれました。彼としか会っていません」
辛うじて、藤は森の中であったことの一部を掻い摘まんで語る。しかし、
「本当に?」
続いた言葉は、まるで彼女の言葉が全てを明らかにしていないと知っているかのような、確信が含まれていた。
藤が言葉を続けるのを待っているかのように、こんのすけは黒々とした瞳で彼女を見つめている。藤は思わず目を逸らして、辛うじて首を小さく横に振った。
「あの森は、それはもう古い時代、神(かん)奈(な)備(び)として祀られていたのですよ。故に、何か変わった者に会ったのではないかと、思ったのですよ」
「……そうなんですか。でも僕は……そんな変わった人は見ていません」
適当な相槌を打ってから、それでも藤は再び首を横に振る。
夏祭りから二週間が経とうとしているが、思い出そうとすれば、あの夜の森の光景は瞼の裏ですぐに蘇る。
木々の向こうに消えていく、懐かしい面影。黒い枝葉を煌々と照らし出す月。その下で笑う、鶴丸国永を名乗った何か。
小烏丸が言うように、祭りに寄せられたよくないものだったのかもしれない。何はともあれ、あれから不思議な事件に巻き込まれることはなかった。
「そうでしたか。また何かありましたら、是非知らせてくださいね」
「分かりました。あ、そうだ」
「何でしょう?」
踵を返しかけていたこんのすけは、藤に呼び止められて足を止める。
「あなたは、他の審神者についても詳しいんですよね。更紗という名前の審神者のこと、ご存じではないですか」
あの夏祭りで出会った子供の審神者とは、連絡先を聞き忘れたせいであれ以来交流がない。彼ならば、何か知っているのではと、この狐への苦手意識も忘れて、藤は一縷の望みを抱く。
しかし、こんのすけは目を眇め、そしてにべもなく告げた。
「あなたが知る必要は、ないことですよ」
***
「はああぁっ!!」
歌仙の気迫のこもった声とともに、容赦ない突きが髭切の目に迫る。咄嗟に腰を落として躱し、
「きえええああぁぁっ!!」
気合いを入れた声と共に返す刀で切り上げ――かけて、右手の感覚が一瞬無くなった、気がした。
そのせいで握り込みが浅くなり、勢いが殺される。
そこに出来た隙を逃す歌仙ではない。難なく躱し、立ち位置をずらした彼の横薙ぎが、姿勢を崩した髭切の脇腹めがけて迫る。
ダンッと道場の床を踏みしめる音を最後に、音がなくなったかのような沈黙が辺りを支配した。
「……降参だよ」
口火を切ったのは、髭切だ。
木刀の切っ先を下げ、息を吐き出してから頭を垂れる。対峙していた歌仙も彼に倣い、寸止めをしていた木刀を下ろした。
暦の上では夏は通り過ぎたものの、激しい打ち合いをしたこともあって、彼らの額からはパタパタと汗が流れ落ちていた。
「先ほどの動き、少し乱れがあったように見えたね。まだ、腕に痺れが?」
「たまに、だけどね。感覚が無くなってるようなときとか、思ったように動かないときがあって」
言いつつ、髭切は右手を開いたり、手首を捻ったりしてみる。見た目だけなら、異常は見られない。ただ、先ほどのように、ふとした弾みで動きが鈍るときがある。
その鈍りは、時として致命的なものになるということは、歌仙も髭切も知っていた。夏祭りを終えてから、出陣の連絡が来ていないのは、彼にとっては好都合だったと言えよう。
「主に手入れを頼まないのかい?」
「わざわざ手を煩わせるようなことでもないかなって」
言いながらも髭切は、少しばかり目を伏せる。
歌仙にはこう返したものの、主には手入れをお願いしていなかったわけではない。ただ、その話題を出した時、彼女の顔が強張ったように見えたのだ。
手入れが不十分だったことが、それほどまでに心苦しかったのかと思ったが、ともかく彼女の表情が気になって、髭切の方から手入れを断ってしまっていた。
「ちょっと不調なぐらいで主に手入れを頼んでいたら、主も疲れてしまうよ」
「そうだね。僕らの手入れが終わった後、彼女は長めに休んでいるようだ。あまり無理はさせない方がいいだろうね」
今は畑で日課の水やりをしている主を思いながら、歌仙は言う。
ただ、彼女が単純に寝ているだけでなく、布団の中で吐き気や頭痛と悪戦苦闘していることは、二人は依然知らないままだった。
「さて、そろそろ片付けを……」
手合わせを終えて、少し弛緩した空気が流れていただろうか。歌仙は言葉を中途で切り、口元に手を当てて小さく欠伸をした。
「眠いのかい?」
「これは恥ずかしい所を。昨晩はちょっと夢見が悪くてね。実はあまり寝ていないんだ」
「夢ってどんな?」
何気なく問いかけたものの、髭切の瞳には微かな好奇心を覗かせていた。
もし歌仙が見た夢が時々自分が見ている夢――主の夢をのぞき見するような形のものなら、互いに情報を共有できるかもしれないと思ったからだ。
「大したものじゃないよ。……僕自身に関する夢だ」
どうやら主の夢ではないようだとわかり、髭切は少しばかり肩を落とす。だが、続く歌仙の言葉を聞いて髭切は再び、彼の話に耳を傾け始めた。
「僕の逸話の夢を見たんだ。知っての通り、僕の名前の由来は、前の主が三十六人の家臣を手討ちにしたという逸話から来ていてね」
「へえ。それはまた、凄い話だね」
「……そうだね。主も、あれは後世の創作だろうって話していたし、僕もわざわざ口にするような逸話でもないかと考えていたけれども。断片的でも実際に見ると、また思う所があって」
三十六人もの人を斬って尚、名刀と謳われ続ける。髭切としては、その来歴は素直に凄いと言えるものだった。
歌仙自身、顕現した直後なら特に気に留めようとはしなかった。自分が刀であり続けたのなら、或いは堂々と成果を誇っていたかもしれない。
ただ、今の歌仙兼定は、もうただの名刀という「物」だけではなかった。
「人を斬ったことを、誇っていいものなのかどうか」
瞼の裏に蘇るのは、鬼のような姿の侍に斬り殺された村娘の姿。奇遇にも主と同じ名を持つ、歴史の端役に過ぎない女性の面影。
思い悩む歌仙の様子に気がついた髭切は、じっと彼を見つめる。見つめられていると察し、歌仙は顔を上げて慌てて取り繕った笑顔を見せた。
「決して、この名を嫌っているわけではないんだ。もう少し、僕も考える時間が欲しいと思っただけで」
「何人斬った話があろうと、僕の知っている歌仙兼定は今ここに立っている歌仙兼定だけだよ。何を斬ったかとか、細かいことはどうでもいいんじゃない?」
「……はは。参ったね。君にそう言われてしまうとは」
歌仙の顔に浮かんでいた取り繕った笑顔が、緩やかに異なるものに変わる。自分の心を覆い隠すためのただの仮面から、肩の大きな荷物を少し下ろせたかのような穏やかなものへと。
「……これも、主が慧眼だったということかな」
「主がどうかしたの?」
「いや、きみが顕現する前にあった話なんだが」
歌仙は、数ヶ月前の記憶を紐解いていく。
遠征から帰った歌仙に向けて、藤は「頼れる刀剣男士が欲しいのではないか」と持ちかけた。
五虎退や物吉の前では、歌仙も気を張ってしまうだろうという彼女なりの配慮であるとは、その時に既に気がついていた。
そして、今。
歌仙は髭切に自分の悩みの一端を吐露し、髭切の言葉のおかげで、心の重荷を少しばかり下ろすことができた。主が言ったように、結果的に刀剣男士同士で支え合う関係が生まれているというわけだ。
「主は何でもお見通しだなと、思ったんだよ」
「そうだねえ。でも、それなら主の悩みは誰が聞いてくれるのかな」
「それは当然、僕らだろう」
何を当たり前のことを、と歌仙は言う。
「あの年で親と死に別れ、審神者の使命があるからと墓に参る時間も作れず、それでも弱音一つ吐かずに笑顔でいる。そんな彼女が僕らを頼ったのなら、その分支えるのは僕らの役目だろう?」
「歌仙は、随分と主のことを知っているんだね」
「ま、まあね。たまたま機会があっただけだよ」
歌仙は視線を髭切から少しばかり逸らし、ごほんとわざとらしい咳払いをしてみせる。まさか、主への手紙を盗み見てしまったなどとは、言えるわけがなかった。
けれども、髭切は歌仙の思わせぶりな態度から、別のことを類推する。
「主の夢でも見たの?」
自分と同じように、彼も主の夢をのぞき込んでいるのではないかと、髭切は考えた。
しかし、髭切の予想に反して歌仙はきょとんとした顔をしてみせる。どうやら違うらしいと、髭切はすぐに自分の考えを否定した。
「ともかく。親そのものにはなれなくても、家族ぐらいなら僕らでもなれると思うんだ。人間にとって最初にふれあう共同体であると、書物にも書いてあってね」
「歌仙は色々と主のために、気を回しているんだね」
「そうでもないよ。ただ少しばかり息抜きをさせてあげられたらと、あれこれ手を回すことしかできていない。あの夏祭りでそれが出来たら良かったんだけれど、あんな事件が起きるとは」
「それでも、主は楽しんでいたと思うよ」
適当に相槌を打ちながらも、髭切は歌仙のいう「家族」というものに思いを馳せる。
親とやらがいないのだから、代わりを務めようというのは心情としては当たり前なのだろうか。髭切には、いまいち分かりかねる感情だった。
そこまで考えて、彼はあの祭りの夜を思い出す。
自分と同じ顔の存在に、「兄者」と呼びかけた薄緑の髪をした青年のことを――――。
(……彼が、僕の家族のようなものだってことかな)
言葉だけを捉えれば、そうなるのだろう。
彼のことを思うと、自分に穴が開いて、中から何かこぼれ落ちたような虚無感に襲われてしまう。それは、歌仙のいうような、暖かな気配りとは異なるものだ。
隣にいないと落ち着かないようなこの感覚が、家族がいないために生じるのなら、歌仙が主のそれを埋めようとするのも納得というものである。
「髭切? なんだか疲れた顔をしているようだけれど、大丈夫かい」
「ああ。大丈夫。何ともないよ」
言いながら、髭切はいつも通りに笑う。今日も、心の隅の空白は埋まりそうに無かった。
***
かーん。かーん。
槌で硬いものを打つような、澄んだ音が響き渡る。
最初は一つ。やがて二つ。混じり合い、溶け合っていく。最初こそ少しずれていた音も、いつしか、ぴったり重なっていた。
(いつもとは違う夢だ)
意識を浮上させる。自分が何かをはっきりさせるために、彼はまず己の内側に問いかける。
(僕は、髭切。審神者、藤の刀。今はこうして人の形を得て、本丸で過ごしている)
自分という輪郭を、明確にしたからだろう。より客観的に、髭切は夢に向き合うことができた。
延々と広がる暗闇。その中を響き渡る音は、金属に金属を打ち付けるような音。
どこか聞き覚えがあり、落ち着く音でもある。
(まるで、刀が生まれるときのような音だ)
髭切の意識に連動するように、視界に二つのものが現れる。
暗闇に横たわる、鈍く光る二振りの刀。
一つは手にとるまでもなく、馴染みのものだと分かる。何故なら、それは自分自身でもあるからだ。
もう一つは、似ているようで違うと感じる。刃長も反りも同じなのに、異なるものだと直感が囁く。
けれども、心の片隅が震えるような歓喜に満ちていく。失った片割れを見つけたと、言葉にできない感情がこみ上げていく。
「――――」
声がする。恐らくそれは、自分を呼ぶ声だと、髭切は自覚する。
「――――」
もう一つ、声がする。これは自分を呼ぶ声では無い。
ならば、この片割れを呼ぶ声だ。
「ねえ。彼は何という名前なんだい」
髭切の問いかけに応えるように、呼びかける声が増える。けれども、その声は曇りガラスの向こうからのようにくぐもって、はっきりとしない。
加えて、声は一つではなかった。三つか、四つか、はたまた、もっとか。
声が告げる呼び名も、全く異なる言葉だ。重なり合って互いを打ち消し合ってしまい、曖昧なまま小さくなっていく。
やがて、ふ、と声が全て消えた。
痛いほどの沈黙の中、今度は髭切の前に人影が現れる。
初夏の緑を写し取ったような、薄い緑の髪。自分のものに似た意匠の、黒い衣服。顔立ちも、どこか己に似通っているように思う。
そこにいるのは、髭切と同じような背丈の青年だった。
ただ、彼の瞳はまるで眠っているかのように閉ざされ、髭切を見てはいなかった。
「天下を守るべき者、良き太刀を持つべしと」
曖昧な世界の中で、声無き声が響く。
「長さ二尺七寸――天下を守護し、ひとたび振るえば靡かぬ草木は無く」
「これは、僕自身の夢……?」
歌仙が言っていたように、髭切という刀に宿った逸話を見ているのかもしれないと、髭切は考える。ならば、目の前に立っている青年は、やはり自分の逸話に深く関わるものなのだろう。
手を伸ばしてはみたものの、まるで影に触ったかのように髭切の手がするりと通り抜ける。顔を顰める彼の意図など知らぬように、声は響き続ける。
「鬼を斬った」
「鬼の片腕を」
「茨城童子を」
「いいや、戻橋の橋姫を」
「――ならば、名は鬼切丸と」
その名を聞いた瞬間、髭切は夢の中で感じないはずの冷や汗が背筋を伝ったように思った。
鬼。
顕現した直後に見た、額に角を生やした主の姿。
あの時は、斬らねばなるまいと体が勝手に動いてしまった。
主のことを考えたからだろうか。闇の中に、ぼんやりと主の姿が現れる。いつものように額を布で隠してはおらず、剥き出しになったそこには、薄緑の小さな角があった。
「――僕は、この鬼は斬らない」
声を否定するように首を横に振ると、主の姿は霞のように姿を消していった。彼女が消えるのと同時に、再び声が響く。
「夜中に吼えたという」
「片方は――のように、片方は獅子のように」
「ならば、名は獅子の仔と」
「……そんな声を出したような覚えは、ないんだけど」
思わず返事をしてみたところで、声は髭切を無視するように黙りこくる。変わらず自分の前に立つ薄緑の髪をした彼も、唇を閉ざしたままだ。
彼の名は何なのか。
そう思った刹那、彼の姿もまるで蜃気楼のように、ゆらりと揺れる。
「待って」
消えてしまう。
手を伸ばして、必死に彼の体を掴もうとしても、彼はやはり霞のように髭切の指を通り抜けていってしまう。そればかりではなく、勢い余った髭切の体は宙に投げ出され、その場に倒れ込んでしまった。
夢の中だからだろう。痛みを覚えることはない。しかし、
「写しを斬った」
「自分の写しを」
「ならば、名は友切と」
「この刀の名は」
「名は」
わんわんと頭の中を言葉が響き渡る。自分を呼ぶ声が幾重にも木霊する。だというのに、その声は自分を呼んでいないようにも思う。
最早頭痛すら覚えるほどの言葉の奔流。
あまりに多くの名が頭に注ぎ込まれているようで、自分が何なのかも分からなくなる。
もう限界だ。
そう思いかけたと同時に、声がぴたりと止んだ。
ひらりと、鼻の天辺に冷たい物が触れる。立ち上がって周りを見渡しても、ぼんやりとした暗闇の中にいることは変わらない。
だが、その暗闇を彩るように、白い欠片が点々と上から落ちてきた。
(なんだか、寂しい景色だね)
ちらちらと絶え間なく舞い落ちる白は美しく思うのに、もの悲しさがどこかに感じられる。彼がそんなことを考えていると、再び声が響く。
「剣の力は既に失われたのか。我らは見捨てられたのか」
悲痛さを覚える内容だったが、その言葉はまるで定められた文を読み上げているだけのように、どこか無機質だった。
「いいえ、見捨ててなどいません。あなた方が剣の名を変えたからです。まして、友切などという名をつけたのだから」
友を――同胞を斬るようなことに。
忠告めいた言葉も、やはり感情がこもっているようには思えなかった。けれども、言葉が示した意味は髭切の感情を大きく揺さぶる。
「なら、僕の名は何がいいのかな。何を名乗れば、僕の加護は衰えずに済む? どんな名前なら、僕が僕でいられる?」
髭切が問いかけても、返事は無い。
ひらひらと舞っている白い欠片も、いつしか止んでしまった。追い求めていた薄緑の彼の姿も、主の姿も見えないままだ。
「僕は」
口を開き変えた折。
びしゃりと、体に何かがかけられる。ぽたりぽたりと垂れる雫の音で、自分が濡れていることに気がつく。
「……あれ」
思わず手元を見て、彼は絶句する。
赤、赤、赤が。
いつしか全身を赤に染め上げられ、彼はその場に立ち尽くしていた。
体に染みこむ赤が何かを知っている気がして、髭切は息を飲む。
この赤は、敵が流す赤ではない。きっと、自分が守るべき何かが流したものだ。
「……っ」
声をあげたい。誰かを呼びたい。
なのに、誰を呼べばいいかもわからない。そもそも自分が何なのかも、分からない。
まるで頭に手を突っ込まれ、ぐちゃぐちゃにかき混ぜられてしまったように、何も考えられない。
「きり、髭切!!」
声がする。聞き慣れた声がする。
声に導かれるように、彼は顔を上げ、そして――
***
「髭切!!」
耳元で大声を出されて、驚いた髭切は目を見開く。
ガバリと跳ね起きると、彼の側で「うわぁ」という気の抜けた驚きの声と、どたんと何かがひっくり返るような音が聞こえた。
先ほど目に入った光景が不意に思い出され、髭切は咄嗟に自分の手を見つめる。あの凄惨な赤は、どこにもない。部屋の隅で灯された灯りが照らす掌は、汚れ一つない綺麗なままだった。
ほっと安堵の息を吐き、くるりと辺りを見渡す。障子越しに見える庭は、まだ薄暗い。どうやら夜明け前のようだ。
「……夢、だよね」
「大丈夫? 凄くうなされている声が聞こえてきたから、思わず起こしちゃったんだけど」
首を少し動かすと、枕元に座り直している主の姿が目に入った。先ほど間抜けな声をあげてひっくり返ったのは、主だったようだ。寝間着姿の彼女は、眠そうに目をこすっている。
「どんな夢を見ていたの?」
「僕のことを、少しだけ。多分、昔にあった話かなあ」
背中に冷や汗が流れているような不愉快さは、依然として残っているし、まるで全力疾走をしてきたかのように、内側に響く鼓動がうるさい。
けれども、それもこちらを覗く主の顔を見ていたら、徐々に収まっていった。夢の余韻を押し出すように、小さくため息を吐くと、
「嫌な夢を見たなら、寝直して忘れた方がいいよ。ほら、まだ夜明け前だから」
何を勘違いしたのか、主にぐいぐいと押されて体を横にさせられてしまった。彼女に言われるがままに目を閉じてみるものの、眠気は一向にやってこない。
「主。そうは言っても、眠くないんだよね」
彼は瞼を押し開けて、隣に座る主の膝を眺めながら目が冴えていることを伝える。
「それでも目を瞑っていれば、そのうち眠くなるよ」
そういうものだろうか、とぎゅっと瞼に力を込める。けれども、視界の情報を閉ざすと、今度はやたらと頭が余計なことを考えてしまう。
例えば、あの青年は自分の何なのか、とか。
例えば、どうしてこんな胸騒ぎがしたのか、とか。
ぐるぐると思考を巡らせてしまい、到底眠気などやってきそうにもない。やはり起きようと主に伝えるべく口を開きかけたとき、
「……ねんねんころりよ おころりよ」
小さな唄が、聞こえた。髭切にかけられた薄手の布団を、一定のリズムで優しく叩きながら主が歌っている。
彼女の歌声に耳を傾けていた髭切は、巡らせていた思考が、いつの間にか止まっていることに気がついた。
ねんねんころりよ おころりよ
坊やはよい子だ ねんねしな
何度も何度も、同じフレーズが繰り返される。おかげで、取り留めの無い考えは、歌に押し流されるように消えていった。
やがて、ゆったりとした声に導かれるように、暖かな眠気が訪れる。
「ねん、ね……」
主の唄につられるように動いていた髭切の唇から、いつしか穏やかな寝息が漏れるようになる。再びやってきた眠りは、先ほどよりはずっと静かなものだった。
***
温かいお湯の中を揺蕩っているように、彼は再び夢を彷徨う。先ほどのような暗闇では無く、霧のかかった道を歩いているように、白く濁った世界が延々と続いていた。
けれども、不思議と不安はない。毛布にくるまれたような暖かさだけが、髭切の周囲を包んでいた。
主と似ている声が、主が口にしているような唄を口ずさんでいるのが聞こえる。
ねんねんころりよ おころりよ
おひいはよい子だ ねんねしな
おひいのお守りは どこへ行った
お角を生やして 山へ行った
山のめぐみに 何もろうた
狭野方の花に あけみの実
(主が歌っていたのとは、違う……?)
疑問に思いながらも、髭切は唄に身を任せる。声の後を追うように口ずさみながら、右も左も分からない白の世界を歩いて行く。
どこかでころころと笑う、幼い子供の声が聞こえる。唄声の主が、子供と話している声もする。
「あけみの実! あけみの実! あーちゃんといっしょだ!」
「そうよ。昔の人はアケビのことをあけみの実って呼んだのよ」
「かあちゃ、じゃあ、あけみのお花はなんて言うの?」
「それはね」
彼女たちの話し声が空間にゆったりと響き渡り、やがて溶けていくように小さくなっていく。
子守歌は、もう聞こえない。けれども、最早先ほどの夢で味わった苦しさはどこにもない。あの、寒気を覚える赤は遠くへ行ってしまった。
自分を包む温かな白に身を委ね、髭切はゆっくりと目を閉じた。