本編第一部(完結済み)
「改めて、俺は鶴丸国永。こっちは俺の主の更紗に、同じ本丸の仲間の小烏丸だ」
鳥居から少し離れた所にあった高台。石段を登った先に広がる小さなスペースの一角で、鶴丸は再度自己紹介をしていた。対峙するように立っているのは、歌仙たち他三名の刀剣男士とその主である藤だ。
流石に鳥居の真ん前で火花を飛ばし合うな、と小烏丸に言われたため、一行は場所を移して状況を整理することにしていた。
最初こそ、状況証拠から鶴丸を警戒していた髭切も、
「同じ刀剣男士であるなら、この鶴丸国永が何者かも分かるであろう?」
と、小烏丸に窘められてしまい、無闇矢鱈と殺気を飛ばすような真似はしていない。ただ、主の両側には物吉と五虎退が控えており、何かあったらすぐさま彼女の手を引いて守れる体勢をとっていた。
「僕は……審神者の、藤。更紗ちゃんと小烏丸さんとは、ちょっとはぐれたときに出会って。その後、鳥居の向こうの森で迷子になって困っていたら、更紗ちゃんのお世話になっているって鶴丸って名乗った人が言ったから、てっきり」
状況を説明するために、藤は先ほどあった経験を掻い摘まんで語る。彼女の後を継いで、歌仙が口を開いた。
「だが、彼は僕らと話をしていた。主を助けに行っている様子もなかったし、初対面だと話していた」
「それに、今気がついたんだけど浴衣の柄が違う。僕が見た鶴丸さんは、真っ白の浴衣だった」
藤が指摘したように、今彼女らの前に立っている鶴丸の纏う浴衣は、波間を鶴が飛ぶという少々派手なものだ。到底、真っ白とは言えない代物である。
「つまり、そちらの主は誑かされたというわけよな」
ふっと薄い唇に笑みを浮かべた小烏丸は、つい、と首を高台から外へと向ける。そこから鳥居の向こう側にある景色を眺めると、丁度鳥居を境として不自然に繋がったどこかの町並みが見えていた。
「全ては明らかにならずとも、無事に戻ったというのなら気にすることもあるまい。事の全貌は、いずれ分かるだろう」
「そんな、いい加減な……」
歌仙の呆れた様子をよそに、小烏丸は目を細めて今度は藤に向き直る。
「そちらの主よ。鳥居の向こうには行かぬように我は伝えたつもりであったが、なにゆえ外に?」
「主。きみは鳥居の意味を知っていたのかい?」
歌仙にまで問われて、藤は少しだけ目を逸らす。小烏丸だけではない。いつしか、歌仙たちも彼女へ目を向けていた。
ここに来るまで、彼女が話した理由は「ちょっと気になることがあって」という曖昧なものだった。先ほどはその言いようが歌仙の逆鱗に触れてしまっていたが、今はもう彼も落ち着きを取り戻している。殊更にぼかすのは、何か言いづらい理由があるからだろう、と既に察してはいた。
「……知り合いに似た人影が見えたから。本物なのか、気になって」
「それで、そいつは本物だったのか?」
「分からない」
「分からないって、主。これはきみが思うより、大変なことかもしれないんだよ」
鶴丸の問いに首を振る藤。はっきりしない押し問答をまた続けるつもりなのかと、歌仙の声が再び大きくなりかける。
そのとき、トンと歌仙に勢いよく飛びつくものがいた。それは、水色の浴衣を着た少女の姿をしていた。小烏丸に抱きかかえられていた更紗が、飛び跳ねる魚のような勢いで歌仙へと飛び移ったのだ。
「なっ、なんだい」
そのまま、ずるずると歌仙の体を滑り落ちた彼女は、浴衣の袂に入れていたメモとペンを取り出す。さらさらと文字を書いて、まるで果たし状か何かのように、彼の眼前に突きつけていた。
歌仙の横から髭切が覗き込み、紙面に記された更紗の文字に目を通す。
「『ふじ いじめるな』だって。歌仙、怒られてしまったよ」
「別に、いじめているつもりはなかったんだが……」
更紗はくるりと振り返ると、同じようにメモを鶴丸と小烏丸にも突きつける。どうやら幼い更紗には、事態を把握するための質問ですらも、藤を追い詰めているように見えていたらしい。
「主がこう言うのであれば、我としてもこれ以上問い詰めることもできぬな。大方、祭りに寄せられたあやかしの仕業であろうし、これ以上話していても仕方あるまい」
話はこれで終わりとばかりに、小烏丸は軽く手を打つ。歌仙は未だ解明されぬ謎を思うと、少々不服そうな顔をしていた。
しかし小烏丸の告げたとおり、これ以上手がかりがあるわけでもない。答えの出ない問いを延々と続けていても、時間を徒に浪費するだけであることは、彼も承知していた。
「ともかく。主は僕らから決して離れないように」
「……うん」
藤が頷いたと同時に、ぐきゅるるるという音が響く。出所を一行が辿ると、その視線はいつの間にか再び藤に集まってしまった。
「あの、お腹が空いたんだけど」
おずおずと手を挙げる彼女の姿は、こちらが拍子抜けするほどいつも通りの姿だ。歌仙も毒気が抜かれて肩の力を抜き、口元にいつも通りの笑みを見せる。
「何か買ってくるよ。ただし、主はここで待っているように」
歌仙に向けて藤が唇を尖らせたのは、言うまでも無かった。
「あるじさま、見てください! これ、ヤキソバっていう料理です。こっちはお好み焼きにたこ焼き、鯛焼きもありました。これはじゃがいもを焼いたもので、こっちは、あめ……ええと、あめり……」
「アメリカンドッグ?」
「そう、それです!」
嬉しそうに物吉が藤の元に持ってきたのは、お祭りでは定番の品々だった。
空腹を訴えた藤、そして同じく『おなかがすいた』と主張する更紗のために、刀剣男士たちは三々五々、食べ物を屋台に求めて散らばっていったのだ。留守番を任されたのは、鶴丸国永と迷子の前科がある髭切だ。
これ以上迷子を増やさないように、と鶴丸から通信端末を借り受けて、はぐれたらすぐに連絡すると取り決めていた甲斐もあったのだろう。彼らは程なくして、誰一人欠けることなく戻ってきた。
「こ、こっちは……綿菓子、です。鈴の形をしたお菓子に、りんご飴に、綺麗な瓶に入った飲み物……らむね、というものです。あと、こんなのも……ありました」
五虎退がおずおずと差し出したのは、ビニール袋いっぱいに詰められた小さな玉のようなものだ。ビー玉より少し大きく、様々な色合いが混じっている様子は見る人を楽しい気持ちにさせてくれる。見覚えのある子供向けの玩具に、藤は懐かしさを潜ませた笑みを浮かべた。
「スーパーボール掬いをやっている屋台があったんだ。いっぱい取れたね」
「は、はい。こっちの玉が主様の色で、こっちが歌仙さんです。それで、この白いのが僕で……」
五虎退が目を輝かせて、ボールを指し示しながら説明をする。どうやら、彼は本丸の皆を意識してボールを掬ってきたらしい。嬉しそうに語る五虎退の頬は、夜であっても分かるほど綺麗なバラ色に染まっていた。
「主。ほら、君はよく食べるだろうから、多めに盛ってもらったよ」
ずいと横から差し出されたのは、歌仙と別れる前にも口にしていたかき氷だった。こんもりと砕いた氷が載っている器は、まるで小さな雪山のようである。彼の隣では、同様に持ってきて貰ったかき氷の山を髭切が、氷の山をしゃくしゃくと崩しているところだった。
「主、これって氷なんだよね。面白いねえ――いたたっ」
嬉しそうに語っていた髭切は、不意に目をぎゅっと瞑って頭に手を当て始めた。どうやら勢いよく食べ過ぎて、頭がキーンとするという独特の痛みを味わっているらしい。
その後ろでは、更紗が小烏丸に買ってきて貰ったラムネをごくごくと飲んでいる。五虎退と物吉はようやく念願の綿菓子を口に入れ、目をきらきらと星のように輝かせていた。
他愛のない祭りの一幕。それら全てを視界におさめて、藤は目を細めて笑う。
祭りを堪能する、幸せそうな彼らの姿。その輪の中にいるにも関わらず、彼女は意識して自分を蚊帳の外に置いて捉える。さながらスクリーンの向こうの観客のように、この景色を眺める側に立ち――彼女は、笑う。
(みんな、楽しそうでよかった。僕のせいで、折角のお祭りが台無しになったら悲しいものね)
かき氷が口の中で溶けていく。氷の冷たさの余韻に浸っていると、メロンの味だろうか、爽やかな甘味が喉を通り過ぎていく。
「先ほど髭切さんと見て回っていたときより、人の数が少なかったんです。どうしてでしょう」
物吉の話し声を耳にして、藤はかき氷を食べる手を止めることなく顔だけを上げる。彼の言うとおり、通りをゆく人影は先ほどよりは疎らに見えた。
「ああ、そりゃあ」
物吉の問いに答えようと、鶴丸が声をあげたとき。
ドォーン、と砲が火を噴いたような音が響いた。
同時に、夜が昼になったのかと思うほど辺りが明るくなる。何があったのかと驚く間もなく、真っ赤な大輪の花――花火が咲いた。
誰もが思わず、絢爛な夜の花に目を奪われて声を失う。とりわけ、藤の本丸の面々は皆揃って目を大きく見開いた。その間にも、ドォーンドォーンと空の上に光の花が次々と花開く。
緑。赤。金。あるいは紫、青。
どんな星よりも眩しく輝き、あっという間に燃え尽きる。
「……これは」
一分ほどして、ようやく口が利けるようになった歌仙が誰に問うでもなく、問いかける。
「花火だよ、歌仙。お祭りの最後に花火を打ち上げるっていうのは、風物詩みたいなものなんだ」
彼の疑問に答えるように、かき氷を崩し終えた藤が返事をした。彼らが話している間にも、再び無数の光の花が夜空を彩った。どーんと響く音に合わせて、「おおー」と声をあげたのは一人二人ではないだろう。
「どうだ、驚いただろう。ここは花火を見るにはうってつけの場所なんだ」
鶴丸が腰に手を当てて、得意げに語る。どうやら、彼はここで話をするのにかかる時間も鑑みて、花火が打ち上がる時間に差し掛かると判断して案内してくれたらしい。
剽軽な態度とは裏腹に、なかなか計算高い男だと、髭切と歌仙は花火を見上げながらも、鶴丸の評価を改める。
「あ、あるじさま。どうして、空に光の花が咲くんですか? それに、ドーン、バリバリってすごい音も……」
「五虎退。あれは本物の花じゃなくて、火薬なんだよ」
「火薬? 鉄砲に使うものですか?」
首を上に上げたまま、物吉も問いかける。空から響く音が少し怖いのか、五虎退は物吉の陰から隠れるようにして夜空を眺めていた。
「詳しいことは僕も知らない。学校じゃ、そういう雑学は教えてくれなかったから。今度、端末を貸してあげるから、二人で調べるといいよ」
こくこくと頷きながら、少年たちは花火を観賞し続けている。彼らだけではない。髭切も、歌仙も、鶴丸や小烏丸も空に何度も煌めく夜の花を見つめ続けている。
だが藤は、彼らのように瞳を輝かせて、いつまでも空を見てはいなかった。
高台にあったベンチに腰掛けて、空になったかき氷の器を脇に寄せ、買ってきて貰ったじゃがいもを囓る。バターが既に塗ってあるのだろう、油っぽさの中に漂うじゃがいも独特の甘みが口に広がる。
家で食べるならきっとなんでもない味だったのだろうが、祭りの空気はただのジャンクフードも絶好のご馳走に変えてくれる。そのはずだった。
(……あまり、美味しくないかも)
囓っても囓っても、口の中にもさもさした食感が際立って残ってしまう。花火の音は絶えることなく響いているものの、彼女は刀剣男士たちのように手放しにはしゃぐほど、無邪気ではなかった。
少し遅れながらも皆は夏祭りを満喫してくれている。そのこと自体は、藤も喜ばしく思っていた。
(でも……見たくないものを、見ちゃったし)
そんな風に言ってはいけないと分かってはいる。スミレが――自分の知り合いが、刀剣男士と多少特別な関係であったとして、藤には何ら関係のないことだ。
けれども、引き寄せられるように思い出した記憶は、あまり嬉しいとは言いがたいものだった。
(あの人影には、会えないって言われるし)
森の中へと消えていった面影が思考の端によぎり、彼女は気付かれないように唇をそっと噛む。見失ってしまったあの女性の後ろ姿を思い出すだけでも、胸が締め付けられる。
(歌仙にはいっぱい叱られるし)
怒られるのは、仕方ないと思う。自分のためと考えて叱ってくれていると分かってしまうからこそ、藤も強く言い返すことができない。
だが、そもそも夏祭りに来ること自体、彼女はあまり乗り気では無かった。とはいえ今更そんな言い訳をする気もないし、誰かにこの気持ちに気がついてもらおうなどとも思わない。
これでよかったのだ。そのように言い聞かせて、ともかく今は腹を満たそうと、今度は鈴の形をしたカステラに手を伸ばしたとき、
「あっ」
思いがけず小さな手が、藤に触れる。彼女と同じようにカステラを食べようとしていたのは、思いがけなく祭りを共にすることになった無表情の少女だった。
自分の退屈そうな顔で、彼女を残念がらせてはいけないと、咄嗟に藤は笑顔を口元に浮かべる。
「どうしたの。食べたいの?」
問いかけると、少女――更紗はゆっくりと首を縦に振る。
ならば、と鈴カステラを摘まんで差し出すと、彼女はリスのように両手で持って囓り始めた。その顔は相変わらず無表情だが、返さない様子から察するに美味しいのだろう。
「更紗ちゃんは、カステラが好き?」
彼女は再び、ゆるゆると頷く。全て食べ終えてから、メモを取り出してさらさらと再び何か書いた。
『あまい すき みんな すき』
「そっか。僕も甘い物は好きだよ」
『つるも からすも きつねも すき』
彼女は鉛筆をくるくると動かして、狐と思しきとんがり耳の獣を描いてみせる。
「鶴は鶴丸さんで、烏は小烏丸さんのことだよね。狐も刀剣男士?」
『とーけん も ちがうのも きつね ともだち』
二匹の狐を描いた彼女は、そのうちの一匹を真っ黒に塗りつぶした。どうやら彼女には、二匹の狐の友達がいるらしい。
庭に遊びにくるのだろうかと、藤は自分の本丸にも訪れている野良猫を思い出す。山奥なら狐が来ても、おかしくはないだろう。
「いいね、狐のお友達。今度僕にも紹介して欲しいな」
更紗はぶんぶんと首を縦に振る。頬が紅に染まってみえるのは、花火の光のせいだけではないだろう。相変わらず表情に変化はないが、彼女の目はどんな言葉よりも雄弁に喜びを見せていた。
「主、ちょっといい?」
更紗と話をしている藤の後ろから、不意に声をかける者がいた。見れば、りんご飴を片手に持った髭切が彼女の背後に立っていた。
「どうしたの?」
「うーんと……何か、嫌なことがあったりした?」
髭切が投げかけた質問はあまりに唐突で、藤は思わず首をこてんと傾げる。
髭切が鶴丸と出会ってすぐに感じた、冷たいざわめき。それは主から伝わってきたものと彼は察していたが、あの後に主が行方知れずになったために、落ち着いて本人に尋ねることもできなかった。
蒸し返すのも妙な話かもしれない。だが、気になっていることではあるので彼は藤に話を持ちかけた――というわけだが、藤には彼が突然そのような質問をした理由など、知る由もなかった。
「こう、胸が苦しくなるみたいな、寒い気持ちになったりとか」
「…………ううん。別に、特には」
彼女は笑いながら、ゆっくりと首を横に振る。いつも通り微笑みかければ、
「そうなんだ。じゃあ、僕の気にしすぎかな」
髭切も納得したように、話を打ち切った。
(……もし本当に怖い思いをしたとか、肝が冷えるような事件があったなら、主ももっと言うよね。あれ、でも)
そこまで考えかけて、髭切はふと思考を別の方向へと切り替える。何故なら、苦い思いを、何でもないふりで押し殺すという振る舞いには、覚えがあったからだ。
歌仙とまだ溝が出来ていたとき。自分はどんな顔で彼と相対していただろうか。端的に怒りや悲しみを示していただろうか。
(僕は、あのとき笑っていた。なら、主も)
「髭切。これ、食べる?」
それ以上思考を進める前に、目の前に団子が差し出される。普段目にする三色のものや、みたらしとは違う、花火に照らし出されたそれは、鮮やかな緑――あの、自分の心を揺らした青年の髪と同じ色のものだった。
途端に、髭切の頭の中は彼のことでいっぱいになっていく。懐かしくもあり、悲しくもあり、見ているだけで胸が苦しくなるあの青年の姿が、心の大部分を埋めていく。
突然黙りこくった彼に、藤は不安げな視線を投げかけた。
「髭切。大丈夫?」
「ああ……うん。これは?」
「ずんだ餅団子だって。食べてみる?」
「うん。貰おうかな」
団子の串を受け取り、黙々と口を動かす。既に彼の頭からは、主のことは掻き消えてしまっていた。
「あるじさま、見てください! あちらに金色の光でできた川が見えます!!」
五虎退たちに腕を引かれて、藤は腰を下ろしていたベンチから立ち上がる。彼女の横顔には、先ほどから揺るぎもしない笑顔が張り付いていた。
「…………」
その横顔を、物言えぬ審神者の少女はじっと見つめる。藤から視線を逸らさずにいる彼女の瞳は、何を語らずともどこか気遣わしげなものだった。
***
最後に大きく打ち上げられた花火の音も、もはや余韻としても聞こえない。遠くから響いていた人々のざわめきも、今は潮騒のように静かなものになっている。
「お祭り、楽しかったね。最後に花火も観れたし、五虎退たちが買ってきたご飯も美味しかったよ」
「あるじさまが気に入ってくれて……僕、嬉しいです」
「こっちは君が迷子になるから、探し回らなくちゃいけなくて、大変だったんだよ」
「と言いながら、歌仙さんもちゃんと食べてましたよね。綿菓子もですし、後から飴を買い足しに行ってたの、ボクは気がついていましたよ」
「物吉だって食べていただろう。それに折角来たのだから、何も口にしないというのも、風情に欠けるというものだよ」
わいわい騒ぎながらも、歌仙たちは手際よく片付けを進めていく。
「さて、俺たちもそろそろ帰るとしよう。またどこかで会ったら、よろしくな」
別れの挨拶を最初に切り出したのは、更紗を抱えた鶴丸だった。まだ幼い彼女は、既に鶴丸に抱かれたまま夢の世界に旅立っている。
「うん。更紗ちゃんにもよろしくね」
「今日は助かったよ、鶴丸。僕のことも、主のことも」
藤に続いて、髭切も鶴丸に向かって軽く会釈をする。
「いいってことさ。それじゃあ、またな」
ひらひらと手を振って、鶴丸は高台から道に繋がる石段を下りていく。もう一人の供である小烏丸も、優雅な一礼の後に静々と鶴丸の後を追って、夜の闇へと消えていった。
「さて、僕らも帰ろうか。色々あったが、まあ――概ね、良い時間を過ごせたと言えるんじゃないかな」
皆に向けて話しながらも、歌仙はちらりと藤を見る。元はと言えば、彼女の息抜きのために赴いた祭りだ。肝心の主自身の意見が気になるところだが、幸いなことに、彼女はいつものように笑っていた。
「物吉たちも、どうだった?」
藤に尋ねられ、物吉と五虎退は顔を見合わせて頷き、
「たのしかったです!」
「来年も、また来たいです!」
口々に感想を述べる。戦っているときは刀剣男士として凛とした佇まいを見せる彼らも、今この時ばかりは見た目と同じ子供のような反応をしていた。
「髭切はどう?」
「うーん……そうだね。色々、新しい発見があって面白かったよ」
曖昧に笑いながら返事をしつつ、髭切は高台の下に広がる屋台の通りをじっと見つめる。結局、祭りが終わるまでに、あの薄緑の髪の青年を見かけることはなかった。
「……なんだか、寂しいですね」
五虎退が人知れず呟いた言葉に、皆が一瞬、手を止める。
先ほどまで鶴丸が騒ぎ、歌仙が小言を並べ、五虎退と物吉が跳ね回り、藤と髭切が語らっていたこの場所も、今は虫の音が心地よく響くほど静かだ。
祭りの後は、言い知れない寂寥感が場を支配する。参加したことがある者にはおなじみの空気ではあったが、今回が初めての彼らには、まるで世界の終わりのようにすら感じられるのかもしれない、と彼女は思う。
「祭りは来年もあるよ。また一緒に来て、一緒に遊ぼう」
「そう……ですね。その時は、今度はもっともっとあるじさまと、遊びたい……です」
「いいよ。いっぱいボール掬いしようか」
藤がにこりと笑いかけると、つられて五虎退も微笑む。笑顔の輪が二人の間から広がり、他の三人の口元にも微笑が自然と浮かんでいた。
「さあ、僕らも帰るとしよう。夜が遅くなると、明日に響くからね」
気持ちを切り替えるように、歌仙が石段に向かいながら告げる。五虎退も物吉も賛同するように頷き、彼の後に続いて高台から降りる階段に足をかける。
藤も、彼らの背を追うように一歩を踏み出したとき、
「主」
「どうしたの、髭切」
呼び止められて、彼女は足を止めた。見れば、隣に立っていた髭切が、石段の前で躊躇するような素振りを見せている。
藤は知らぬことではあるが、髭切は今朝見た夢を、この光景から思い出さずにはいられなかった。走って行った主が、坂道を駆け抜け、階段を駆け降りようとして、踏み外し、落ちていく姿を。
「……足元が悪いから、一緒に行こうか。前みたいに転んだら、危ないよ」
「うん。それはいいけど」
彼女は髭切が差し出した手こそ掴まなかったものの、彼のゆったりとした歩調に合わせるように石段を下りていく。
一段一段踏みしめるように歩いて行く様子を見て、髭切は内心でほっと安堵の息を吐いた。これなら、足を滑らせて転ぶようなことはないはずだ、と。
「髭切。言いそびれたけど、その浴衣、似合ってるね」
「そういうものかい? 着心地はいいからね。また着てみようかな」
「部屋着にすると丁度いいかも」
「主も部屋着にするのかい?」
「僕はやめておく。帯が苦しいから、ご飯が入らなくなっちゃうから」
他愛のない会話を続けながら、階段の半ばを通り過ぎていく。下では、歌仙たちが二人が降りてくるのを待っているのが見えた。
「主。鳥居の向こうはどんなところだったんだい」
「森があっただけで、大した物は」
なかった。
彼女はそのように続けようとしたかったのだろう。だが、
「痛っ」
小さな悲鳴と同時に、藤の体が傾ぐ。
中途半端に崩れた姿勢を、咄嗟に立て直すこともできず、体が宙に投げ出され――
「主!」
しかし、そのまま階段を滑り落ちはしなかった。すかさず伸ばされた髭切の手が、彼女の腕をしっかりと掴んでいたからだ。
「ほら、足元が悪いって言ったよね」
「…………ありが、とう」
突然のことで驚いたのだろう。藤は呼吸を整えることもままならないようで、乱れた息のまま辿々しいお礼の言葉を返す。
もう大丈夫だからと、自分の腕を掴んでいる髭切から彼女はやんわりと距離を置こうとした。しかし体を動かしたかと思いきや、彼女はすぐにその場にしゃがみ込んでしまった。
「立てる?」
「…………」
返事はない。何かあったのかと髭切もしゃがみこみ、彼女の足に目をやる。ぼんやりとした薄闇の中でもはっきりわかるほど、藤の足首は腫れていた。
「今、捻ったのかい」
「ううん。森の中を歩いてるときに転んで……でも、鶴丸さんが――鶴丸さんの姿をした誰かが、治してくれて」
自分が足首を捻った時に、彼がかけてくれたおまじないのようなものについて、藤はかいつまんで髭切に説明する。足の痛みがすっかり引いていたために、先ほど話したときに伝えるのをすっかり忘れてしまっていたのだ。
そうこうしている間にも、歌仙たちが石段を駆け上がってきた。
「主、今度は一体何があったんだい」
「足が痛いんだって。立ち上がることはできる?」
髭切が彼女の腕を軽く引いてみるも、藤はなかなか腰を上げようとはしなかった。
「歩けないなら、おぶって行く?」
立てない上に歩けないと言うのなら、それしか方法はないと髭切が歌仙に持ちかけると、
「待って。別に歩けないわけじゃ、ない。そんなに痛くもないし」
肝心の本人から、待ったがかかった。髭切の腕に捕まってどうにか足首を曲げないように立った主は、やはり痛みを覚えるのか、嫌な冷や汗をかいている。お世辞にも、口で言うほど「痛くない」ようには見えない。
「主様。肩をお貸ししますね。それなら、大丈夫ですか?」
見るに堪えかねたのだろう。物吉が藤に駆け寄り、彼女の腕を肩に回す。同じ背丈の自分なら負担も少ないと、彼は判断したらしい。
藤はぎこちなく頷いて、物吉に付き添われながらゆっくりと歩き始めた。その側を、万が一転んだときのために、五虎退が寄り添っている。
「……それにしても、帰り際に足を捻るなんて、ついていない」
「主が言うには、鳥居の向こうをうろうろしてる間に、挫いてたらしいよ。鶴丸に化けていた誰かに、治してもらったって」
「え?」
髭切の説明を聞いて、歌仙のなだらかな額に皺が刻まれる。
「痛いの痛いの飛んでいけー、だってさ。僕たちもやったら、できるかな?」
「まさか、できるわけがないだろう」
歌仙が否定するまでもなく、髭切もそんなことは簡単にできるものではないとは知っていた。
そもそも、刀剣男士の多くは何かを斬った逸話から生じているものであり、傷つけるならともかく、刀という道具の性質として、傷ついた者を癒やすのには向いていない。
ならば、鶴丸に化けた誰かは、やはり刀剣男士ではない何かだったのだと考えられるだろう。
「……彼女は、一体誰に会っていたのだろうか」
歌仙が問いかけてみたところで、髭切が答えを知るわけもない。気にはなるが、それ以上考えても仕方ないと、奇妙な二人三脚をしている主と物吉たちのもとに、二人は向かう。
(主、きみは誰を、追いかけようとしていたんだい)
物吉と話しながらびっこをひきつつ歩く主を見て、歌仙は目を伏せる。
結局、彼女は歌仙とはぐれた理由を具体的に語ってはいなかった。けれども、蒸し返して問うことも彼にはできないままだった。
祭りの提灯が、一つずつ消えていく。こうして、一筋の不穏な風を残して、彼らの夏祭りは終わりを告げた。
鳥居から少し離れた所にあった高台。石段を登った先に広がる小さなスペースの一角で、鶴丸は再度自己紹介をしていた。対峙するように立っているのは、歌仙たち他三名の刀剣男士とその主である藤だ。
流石に鳥居の真ん前で火花を飛ばし合うな、と小烏丸に言われたため、一行は場所を移して状況を整理することにしていた。
最初こそ、状況証拠から鶴丸を警戒していた髭切も、
「同じ刀剣男士であるなら、この鶴丸国永が何者かも分かるであろう?」
と、小烏丸に窘められてしまい、無闇矢鱈と殺気を飛ばすような真似はしていない。ただ、主の両側には物吉と五虎退が控えており、何かあったらすぐさま彼女の手を引いて守れる体勢をとっていた。
「僕は……審神者の、藤。更紗ちゃんと小烏丸さんとは、ちょっとはぐれたときに出会って。その後、鳥居の向こうの森で迷子になって困っていたら、更紗ちゃんのお世話になっているって鶴丸って名乗った人が言ったから、てっきり」
状況を説明するために、藤は先ほどあった経験を掻い摘まんで語る。彼女の後を継いで、歌仙が口を開いた。
「だが、彼は僕らと話をしていた。主を助けに行っている様子もなかったし、初対面だと話していた」
「それに、今気がついたんだけど浴衣の柄が違う。僕が見た鶴丸さんは、真っ白の浴衣だった」
藤が指摘したように、今彼女らの前に立っている鶴丸の纏う浴衣は、波間を鶴が飛ぶという少々派手なものだ。到底、真っ白とは言えない代物である。
「つまり、そちらの主は誑かされたというわけよな」
ふっと薄い唇に笑みを浮かべた小烏丸は、つい、と首を高台から外へと向ける。そこから鳥居の向こう側にある景色を眺めると、丁度鳥居を境として不自然に繋がったどこかの町並みが見えていた。
「全ては明らかにならずとも、無事に戻ったというのなら気にすることもあるまい。事の全貌は、いずれ分かるだろう」
「そんな、いい加減な……」
歌仙の呆れた様子をよそに、小烏丸は目を細めて今度は藤に向き直る。
「そちらの主よ。鳥居の向こうには行かぬように我は伝えたつもりであったが、なにゆえ外に?」
「主。きみは鳥居の意味を知っていたのかい?」
歌仙にまで問われて、藤は少しだけ目を逸らす。小烏丸だけではない。いつしか、歌仙たちも彼女へ目を向けていた。
ここに来るまで、彼女が話した理由は「ちょっと気になることがあって」という曖昧なものだった。先ほどはその言いようが歌仙の逆鱗に触れてしまっていたが、今はもう彼も落ち着きを取り戻している。殊更にぼかすのは、何か言いづらい理由があるからだろう、と既に察してはいた。
「……知り合いに似た人影が見えたから。本物なのか、気になって」
「それで、そいつは本物だったのか?」
「分からない」
「分からないって、主。これはきみが思うより、大変なことかもしれないんだよ」
鶴丸の問いに首を振る藤。はっきりしない押し問答をまた続けるつもりなのかと、歌仙の声が再び大きくなりかける。
そのとき、トンと歌仙に勢いよく飛びつくものがいた。それは、水色の浴衣を着た少女の姿をしていた。小烏丸に抱きかかえられていた更紗が、飛び跳ねる魚のような勢いで歌仙へと飛び移ったのだ。
「なっ、なんだい」
そのまま、ずるずると歌仙の体を滑り落ちた彼女は、浴衣の袂に入れていたメモとペンを取り出す。さらさらと文字を書いて、まるで果たし状か何かのように、彼の眼前に突きつけていた。
歌仙の横から髭切が覗き込み、紙面に記された更紗の文字に目を通す。
「『ふじ いじめるな』だって。歌仙、怒られてしまったよ」
「別に、いじめているつもりはなかったんだが……」
更紗はくるりと振り返ると、同じようにメモを鶴丸と小烏丸にも突きつける。どうやら幼い更紗には、事態を把握するための質問ですらも、藤を追い詰めているように見えていたらしい。
「主がこう言うのであれば、我としてもこれ以上問い詰めることもできぬな。大方、祭りに寄せられたあやかしの仕業であろうし、これ以上話していても仕方あるまい」
話はこれで終わりとばかりに、小烏丸は軽く手を打つ。歌仙は未だ解明されぬ謎を思うと、少々不服そうな顔をしていた。
しかし小烏丸の告げたとおり、これ以上手がかりがあるわけでもない。答えの出ない問いを延々と続けていても、時間を徒に浪費するだけであることは、彼も承知していた。
「ともかく。主は僕らから決して離れないように」
「……うん」
藤が頷いたと同時に、ぐきゅるるるという音が響く。出所を一行が辿ると、その視線はいつの間にか再び藤に集まってしまった。
「あの、お腹が空いたんだけど」
おずおずと手を挙げる彼女の姿は、こちらが拍子抜けするほどいつも通りの姿だ。歌仙も毒気が抜かれて肩の力を抜き、口元にいつも通りの笑みを見せる。
「何か買ってくるよ。ただし、主はここで待っているように」
歌仙に向けて藤が唇を尖らせたのは、言うまでも無かった。
「あるじさま、見てください! これ、ヤキソバっていう料理です。こっちはお好み焼きにたこ焼き、鯛焼きもありました。これはじゃがいもを焼いたもので、こっちは、あめ……ええと、あめり……」
「アメリカンドッグ?」
「そう、それです!」
嬉しそうに物吉が藤の元に持ってきたのは、お祭りでは定番の品々だった。
空腹を訴えた藤、そして同じく『おなかがすいた』と主張する更紗のために、刀剣男士たちは三々五々、食べ物を屋台に求めて散らばっていったのだ。留守番を任されたのは、鶴丸国永と迷子の前科がある髭切だ。
これ以上迷子を増やさないように、と鶴丸から通信端末を借り受けて、はぐれたらすぐに連絡すると取り決めていた甲斐もあったのだろう。彼らは程なくして、誰一人欠けることなく戻ってきた。
「こ、こっちは……綿菓子、です。鈴の形をしたお菓子に、りんご飴に、綺麗な瓶に入った飲み物……らむね、というものです。あと、こんなのも……ありました」
五虎退がおずおずと差し出したのは、ビニール袋いっぱいに詰められた小さな玉のようなものだ。ビー玉より少し大きく、様々な色合いが混じっている様子は見る人を楽しい気持ちにさせてくれる。見覚えのある子供向けの玩具に、藤は懐かしさを潜ませた笑みを浮かべた。
「スーパーボール掬いをやっている屋台があったんだ。いっぱい取れたね」
「は、はい。こっちの玉が主様の色で、こっちが歌仙さんです。それで、この白いのが僕で……」
五虎退が目を輝かせて、ボールを指し示しながら説明をする。どうやら、彼は本丸の皆を意識してボールを掬ってきたらしい。嬉しそうに語る五虎退の頬は、夜であっても分かるほど綺麗なバラ色に染まっていた。
「主。ほら、君はよく食べるだろうから、多めに盛ってもらったよ」
ずいと横から差し出されたのは、歌仙と別れる前にも口にしていたかき氷だった。こんもりと砕いた氷が載っている器は、まるで小さな雪山のようである。彼の隣では、同様に持ってきて貰ったかき氷の山を髭切が、氷の山をしゃくしゃくと崩しているところだった。
「主、これって氷なんだよね。面白いねえ――いたたっ」
嬉しそうに語っていた髭切は、不意に目をぎゅっと瞑って頭に手を当て始めた。どうやら勢いよく食べ過ぎて、頭がキーンとするという独特の痛みを味わっているらしい。
その後ろでは、更紗が小烏丸に買ってきて貰ったラムネをごくごくと飲んでいる。五虎退と物吉はようやく念願の綿菓子を口に入れ、目をきらきらと星のように輝かせていた。
他愛のない祭りの一幕。それら全てを視界におさめて、藤は目を細めて笑う。
祭りを堪能する、幸せそうな彼らの姿。その輪の中にいるにも関わらず、彼女は意識して自分を蚊帳の外に置いて捉える。さながらスクリーンの向こうの観客のように、この景色を眺める側に立ち――彼女は、笑う。
(みんな、楽しそうでよかった。僕のせいで、折角のお祭りが台無しになったら悲しいものね)
かき氷が口の中で溶けていく。氷の冷たさの余韻に浸っていると、メロンの味だろうか、爽やかな甘味が喉を通り過ぎていく。
「先ほど髭切さんと見て回っていたときより、人の数が少なかったんです。どうしてでしょう」
物吉の話し声を耳にして、藤はかき氷を食べる手を止めることなく顔だけを上げる。彼の言うとおり、通りをゆく人影は先ほどよりは疎らに見えた。
「ああ、そりゃあ」
物吉の問いに答えようと、鶴丸が声をあげたとき。
ドォーン、と砲が火を噴いたような音が響いた。
同時に、夜が昼になったのかと思うほど辺りが明るくなる。何があったのかと驚く間もなく、真っ赤な大輪の花――花火が咲いた。
誰もが思わず、絢爛な夜の花に目を奪われて声を失う。とりわけ、藤の本丸の面々は皆揃って目を大きく見開いた。その間にも、ドォーンドォーンと空の上に光の花が次々と花開く。
緑。赤。金。あるいは紫、青。
どんな星よりも眩しく輝き、あっという間に燃え尽きる。
「……これは」
一分ほどして、ようやく口が利けるようになった歌仙が誰に問うでもなく、問いかける。
「花火だよ、歌仙。お祭りの最後に花火を打ち上げるっていうのは、風物詩みたいなものなんだ」
彼の疑問に答えるように、かき氷を崩し終えた藤が返事をした。彼らが話している間にも、再び無数の光の花が夜空を彩った。どーんと響く音に合わせて、「おおー」と声をあげたのは一人二人ではないだろう。
「どうだ、驚いただろう。ここは花火を見るにはうってつけの場所なんだ」
鶴丸が腰に手を当てて、得意げに語る。どうやら、彼はここで話をするのにかかる時間も鑑みて、花火が打ち上がる時間に差し掛かると判断して案内してくれたらしい。
剽軽な態度とは裏腹に、なかなか計算高い男だと、髭切と歌仙は花火を見上げながらも、鶴丸の評価を改める。
「あ、あるじさま。どうして、空に光の花が咲くんですか? それに、ドーン、バリバリってすごい音も……」
「五虎退。あれは本物の花じゃなくて、火薬なんだよ」
「火薬? 鉄砲に使うものですか?」
首を上に上げたまま、物吉も問いかける。空から響く音が少し怖いのか、五虎退は物吉の陰から隠れるようにして夜空を眺めていた。
「詳しいことは僕も知らない。学校じゃ、そういう雑学は教えてくれなかったから。今度、端末を貸してあげるから、二人で調べるといいよ」
こくこくと頷きながら、少年たちは花火を観賞し続けている。彼らだけではない。髭切も、歌仙も、鶴丸や小烏丸も空に何度も煌めく夜の花を見つめ続けている。
だが藤は、彼らのように瞳を輝かせて、いつまでも空を見てはいなかった。
高台にあったベンチに腰掛けて、空になったかき氷の器を脇に寄せ、買ってきて貰ったじゃがいもを囓る。バターが既に塗ってあるのだろう、油っぽさの中に漂うじゃがいも独特の甘みが口に広がる。
家で食べるならきっとなんでもない味だったのだろうが、祭りの空気はただのジャンクフードも絶好のご馳走に変えてくれる。そのはずだった。
(……あまり、美味しくないかも)
囓っても囓っても、口の中にもさもさした食感が際立って残ってしまう。花火の音は絶えることなく響いているものの、彼女は刀剣男士たちのように手放しにはしゃぐほど、無邪気ではなかった。
少し遅れながらも皆は夏祭りを満喫してくれている。そのこと自体は、藤も喜ばしく思っていた。
(でも……見たくないものを、見ちゃったし)
そんな風に言ってはいけないと分かってはいる。スミレが――自分の知り合いが、刀剣男士と多少特別な関係であったとして、藤には何ら関係のないことだ。
けれども、引き寄せられるように思い出した記憶は、あまり嬉しいとは言いがたいものだった。
(あの人影には、会えないって言われるし)
森の中へと消えていった面影が思考の端によぎり、彼女は気付かれないように唇をそっと噛む。見失ってしまったあの女性の後ろ姿を思い出すだけでも、胸が締め付けられる。
(歌仙にはいっぱい叱られるし)
怒られるのは、仕方ないと思う。自分のためと考えて叱ってくれていると分かってしまうからこそ、藤も強く言い返すことができない。
だが、そもそも夏祭りに来ること自体、彼女はあまり乗り気では無かった。とはいえ今更そんな言い訳をする気もないし、誰かにこの気持ちに気がついてもらおうなどとも思わない。
これでよかったのだ。そのように言い聞かせて、ともかく今は腹を満たそうと、今度は鈴の形をしたカステラに手を伸ばしたとき、
「あっ」
思いがけず小さな手が、藤に触れる。彼女と同じようにカステラを食べようとしていたのは、思いがけなく祭りを共にすることになった無表情の少女だった。
自分の退屈そうな顔で、彼女を残念がらせてはいけないと、咄嗟に藤は笑顔を口元に浮かべる。
「どうしたの。食べたいの?」
問いかけると、少女――更紗はゆっくりと首を縦に振る。
ならば、と鈴カステラを摘まんで差し出すと、彼女はリスのように両手で持って囓り始めた。その顔は相変わらず無表情だが、返さない様子から察するに美味しいのだろう。
「更紗ちゃんは、カステラが好き?」
彼女は再び、ゆるゆると頷く。全て食べ終えてから、メモを取り出してさらさらと再び何か書いた。
『あまい すき みんな すき』
「そっか。僕も甘い物は好きだよ」
『つるも からすも きつねも すき』
彼女は鉛筆をくるくると動かして、狐と思しきとんがり耳の獣を描いてみせる。
「鶴は鶴丸さんで、烏は小烏丸さんのことだよね。狐も刀剣男士?」
『とーけん も ちがうのも きつね ともだち』
二匹の狐を描いた彼女は、そのうちの一匹を真っ黒に塗りつぶした。どうやら彼女には、二匹の狐の友達がいるらしい。
庭に遊びにくるのだろうかと、藤は自分の本丸にも訪れている野良猫を思い出す。山奥なら狐が来ても、おかしくはないだろう。
「いいね、狐のお友達。今度僕にも紹介して欲しいな」
更紗はぶんぶんと首を縦に振る。頬が紅に染まってみえるのは、花火の光のせいだけではないだろう。相変わらず表情に変化はないが、彼女の目はどんな言葉よりも雄弁に喜びを見せていた。
「主、ちょっといい?」
更紗と話をしている藤の後ろから、不意に声をかける者がいた。見れば、りんご飴を片手に持った髭切が彼女の背後に立っていた。
「どうしたの?」
「うーんと……何か、嫌なことがあったりした?」
髭切が投げかけた質問はあまりに唐突で、藤は思わず首をこてんと傾げる。
髭切が鶴丸と出会ってすぐに感じた、冷たいざわめき。それは主から伝わってきたものと彼は察していたが、あの後に主が行方知れずになったために、落ち着いて本人に尋ねることもできなかった。
蒸し返すのも妙な話かもしれない。だが、気になっていることではあるので彼は藤に話を持ちかけた――というわけだが、藤には彼が突然そのような質問をした理由など、知る由もなかった。
「こう、胸が苦しくなるみたいな、寒い気持ちになったりとか」
「…………ううん。別に、特には」
彼女は笑いながら、ゆっくりと首を横に振る。いつも通り微笑みかければ、
「そうなんだ。じゃあ、僕の気にしすぎかな」
髭切も納得したように、話を打ち切った。
(……もし本当に怖い思いをしたとか、肝が冷えるような事件があったなら、主ももっと言うよね。あれ、でも)
そこまで考えかけて、髭切はふと思考を別の方向へと切り替える。何故なら、苦い思いを、何でもないふりで押し殺すという振る舞いには、覚えがあったからだ。
歌仙とまだ溝が出来ていたとき。自分はどんな顔で彼と相対していただろうか。端的に怒りや悲しみを示していただろうか。
(僕は、あのとき笑っていた。なら、主も)
「髭切。これ、食べる?」
それ以上思考を進める前に、目の前に団子が差し出される。普段目にする三色のものや、みたらしとは違う、花火に照らし出されたそれは、鮮やかな緑――あの、自分の心を揺らした青年の髪と同じ色のものだった。
途端に、髭切の頭の中は彼のことでいっぱいになっていく。懐かしくもあり、悲しくもあり、見ているだけで胸が苦しくなるあの青年の姿が、心の大部分を埋めていく。
突然黙りこくった彼に、藤は不安げな視線を投げかけた。
「髭切。大丈夫?」
「ああ……うん。これは?」
「ずんだ餅団子だって。食べてみる?」
「うん。貰おうかな」
団子の串を受け取り、黙々と口を動かす。既に彼の頭からは、主のことは掻き消えてしまっていた。
「あるじさま、見てください! あちらに金色の光でできた川が見えます!!」
五虎退たちに腕を引かれて、藤は腰を下ろしていたベンチから立ち上がる。彼女の横顔には、先ほどから揺るぎもしない笑顔が張り付いていた。
「…………」
その横顔を、物言えぬ審神者の少女はじっと見つめる。藤から視線を逸らさずにいる彼女の瞳は、何を語らずともどこか気遣わしげなものだった。
***
最後に大きく打ち上げられた花火の音も、もはや余韻としても聞こえない。遠くから響いていた人々のざわめきも、今は潮騒のように静かなものになっている。
「お祭り、楽しかったね。最後に花火も観れたし、五虎退たちが買ってきたご飯も美味しかったよ」
「あるじさまが気に入ってくれて……僕、嬉しいです」
「こっちは君が迷子になるから、探し回らなくちゃいけなくて、大変だったんだよ」
「と言いながら、歌仙さんもちゃんと食べてましたよね。綿菓子もですし、後から飴を買い足しに行ってたの、ボクは気がついていましたよ」
「物吉だって食べていただろう。それに折角来たのだから、何も口にしないというのも、風情に欠けるというものだよ」
わいわい騒ぎながらも、歌仙たちは手際よく片付けを進めていく。
「さて、俺たちもそろそろ帰るとしよう。またどこかで会ったら、よろしくな」
別れの挨拶を最初に切り出したのは、更紗を抱えた鶴丸だった。まだ幼い彼女は、既に鶴丸に抱かれたまま夢の世界に旅立っている。
「うん。更紗ちゃんにもよろしくね」
「今日は助かったよ、鶴丸。僕のことも、主のことも」
藤に続いて、髭切も鶴丸に向かって軽く会釈をする。
「いいってことさ。それじゃあ、またな」
ひらひらと手を振って、鶴丸は高台から道に繋がる石段を下りていく。もう一人の供である小烏丸も、優雅な一礼の後に静々と鶴丸の後を追って、夜の闇へと消えていった。
「さて、僕らも帰ろうか。色々あったが、まあ――概ね、良い時間を過ごせたと言えるんじゃないかな」
皆に向けて話しながらも、歌仙はちらりと藤を見る。元はと言えば、彼女の息抜きのために赴いた祭りだ。肝心の主自身の意見が気になるところだが、幸いなことに、彼女はいつものように笑っていた。
「物吉たちも、どうだった?」
藤に尋ねられ、物吉と五虎退は顔を見合わせて頷き、
「たのしかったです!」
「来年も、また来たいです!」
口々に感想を述べる。戦っているときは刀剣男士として凛とした佇まいを見せる彼らも、今この時ばかりは見た目と同じ子供のような反応をしていた。
「髭切はどう?」
「うーん……そうだね。色々、新しい発見があって面白かったよ」
曖昧に笑いながら返事をしつつ、髭切は高台の下に広がる屋台の通りをじっと見つめる。結局、祭りが終わるまでに、あの薄緑の髪の青年を見かけることはなかった。
「……なんだか、寂しいですね」
五虎退が人知れず呟いた言葉に、皆が一瞬、手を止める。
先ほどまで鶴丸が騒ぎ、歌仙が小言を並べ、五虎退と物吉が跳ね回り、藤と髭切が語らっていたこの場所も、今は虫の音が心地よく響くほど静かだ。
祭りの後は、言い知れない寂寥感が場を支配する。参加したことがある者にはおなじみの空気ではあったが、今回が初めての彼らには、まるで世界の終わりのようにすら感じられるのかもしれない、と彼女は思う。
「祭りは来年もあるよ。また一緒に来て、一緒に遊ぼう」
「そう……ですね。その時は、今度はもっともっとあるじさまと、遊びたい……です」
「いいよ。いっぱいボール掬いしようか」
藤がにこりと笑いかけると、つられて五虎退も微笑む。笑顔の輪が二人の間から広がり、他の三人の口元にも微笑が自然と浮かんでいた。
「さあ、僕らも帰るとしよう。夜が遅くなると、明日に響くからね」
気持ちを切り替えるように、歌仙が石段に向かいながら告げる。五虎退も物吉も賛同するように頷き、彼の後に続いて高台から降りる階段に足をかける。
藤も、彼らの背を追うように一歩を踏み出したとき、
「主」
「どうしたの、髭切」
呼び止められて、彼女は足を止めた。見れば、隣に立っていた髭切が、石段の前で躊躇するような素振りを見せている。
藤は知らぬことではあるが、髭切は今朝見た夢を、この光景から思い出さずにはいられなかった。走って行った主が、坂道を駆け抜け、階段を駆け降りようとして、踏み外し、落ちていく姿を。
「……足元が悪いから、一緒に行こうか。前みたいに転んだら、危ないよ」
「うん。それはいいけど」
彼女は髭切が差し出した手こそ掴まなかったものの、彼のゆったりとした歩調に合わせるように石段を下りていく。
一段一段踏みしめるように歩いて行く様子を見て、髭切は内心でほっと安堵の息を吐いた。これなら、足を滑らせて転ぶようなことはないはずだ、と。
「髭切。言いそびれたけど、その浴衣、似合ってるね」
「そういうものかい? 着心地はいいからね。また着てみようかな」
「部屋着にすると丁度いいかも」
「主も部屋着にするのかい?」
「僕はやめておく。帯が苦しいから、ご飯が入らなくなっちゃうから」
他愛のない会話を続けながら、階段の半ばを通り過ぎていく。下では、歌仙たちが二人が降りてくるのを待っているのが見えた。
「主。鳥居の向こうはどんなところだったんだい」
「森があっただけで、大した物は」
なかった。
彼女はそのように続けようとしたかったのだろう。だが、
「痛っ」
小さな悲鳴と同時に、藤の体が傾ぐ。
中途半端に崩れた姿勢を、咄嗟に立て直すこともできず、体が宙に投げ出され――
「主!」
しかし、そのまま階段を滑り落ちはしなかった。すかさず伸ばされた髭切の手が、彼女の腕をしっかりと掴んでいたからだ。
「ほら、足元が悪いって言ったよね」
「…………ありが、とう」
突然のことで驚いたのだろう。藤は呼吸を整えることもままならないようで、乱れた息のまま辿々しいお礼の言葉を返す。
もう大丈夫だからと、自分の腕を掴んでいる髭切から彼女はやんわりと距離を置こうとした。しかし体を動かしたかと思いきや、彼女はすぐにその場にしゃがみ込んでしまった。
「立てる?」
「…………」
返事はない。何かあったのかと髭切もしゃがみこみ、彼女の足に目をやる。ぼんやりとした薄闇の中でもはっきりわかるほど、藤の足首は腫れていた。
「今、捻ったのかい」
「ううん。森の中を歩いてるときに転んで……でも、鶴丸さんが――鶴丸さんの姿をした誰かが、治してくれて」
自分が足首を捻った時に、彼がかけてくれたおまじないのようなものについて、藤はかいつまんで髭切に説明する。足の痛みがすっかり引いていたために、先ほど話したときに伝えるのをすっかり忘れてしまっていたのだ。
そうこうしている間にも、歌仙たちが石段を駆け上がってきた。
「主、今度は一体何があったんだい」
「足が痛いんだって。立ち上がることはできる?」
髭切が彼女の腕を軽く引いてみるも、藤はなかなか腰を上げようとはしなかった。
「歩けないなら、おぶって行く?」
立てない上に歩けないと言うのなら、それしか方法はないと髭切が歌仙に持ちかけると、
「待って。別に歩けないわけじゃ、ない。そんなに痛くもないし」
肝心の本人から、待ったがかかった。髭切の腕に捕まってどうにか足首を曲げないように立った主は、やはり痛みを覚えるのか、嫌な冷や汗をかいている。お世辞にも、口で言うほど「痛くない」ようには見えない。
「主様。肩をお貸ししますね。それなら、大丈夫ですか?」
見るに堪えかねたのだろう。物吉が藤に駆け寄り、彼女の腕を肩に回す。同じ背丈の自分なら負担も少ないと、彼は判断したらしい。
藤はぎこちなく頷いて、物吉に付き添われながらゆっくりと歩き始めた。その側を、万が一転んだときのために、五虎退が寄り添っている。
「……それにしても、帰り際に足を捻るなんて、ついていない」
「主が言うには、鳥居の向こうをうろうろしてる間に、挫いてたらしいよ。鶴丸に化けていた誰かに、治してもらったって」
「え?」
髭切の説明を聞いて、歌仙のなだらかな額に皺が刻まれる。
「痛いの痛いの飛んでいけー、だってさ。僕たちもやったら、できるかな?」
「まさか、できるわけがないだろう」
歌仙が否定するまでもなく、髭切もそんなことは簡単にできるものではないとは知っていた。
そもそも、刀剣男士の多くは何かを斬った逸話から生じているものであり、傷つけるならともかく、刀という道具の性質として、傷ついた者を癒やすのには向いていない。
ならば、鶴丸に化けた誰かは、やはり刀剣男士ではない何かだったのだと考えられるだろう。
「……彼女は、一体誰に会っていたのだろうか」
歌仙が問いかけてみたところで、髭切が答えを知るわけもない。気にはなるが、それ以上考えても仕方ないと、奇妙な二人三脚をしている主と物吉たちのもとに、二人は向かう。
(主、きみは誰を、追いかけようとしていたんだい)
物吉と話しながらびっこをひきつつ歩く主を見て、歌仙は目を伏せる。
結局、彼女は歌仙とはぐれた理由を具体的に語ってはいなかった。けれども、蒸し返して問うことも彼にはできないままだった。
祭りの提灯が、一つずつ消えていく。こうして、一筋の不穏な風を残して、彼らの夏祭りは終わりを告げた。