短編置き場

「……あるじ、主! そろそろ起きたらどうなんだい?」

 ガクガクと肩を揺さぶられて、眠りに落ちたばかりの頭が覚醒される。
 この本丸の主である藤は、主にする扱いとは思えぬ遠慮ない揺さぶりによって、半ば強制的に瞼をこじ開けることになった。二、三度瞬きをすると、薄暗い廊下がまず目に入り、続けて見慣れた翡翠色の瞳と目が合う。

「……ん」
「ん、じゃない! おはよう、主」
「おはよう、歌仙」

 どこか怒気が孕んだ歌仙の声をモーニングコールとした藤は、未だ重たい瞼をごしごし擦る。

「ところで、何故朝から廊下に落ちているのか、教えてもらえるかな?」

 目の前の歌仙の笑顔を見て、これは怒っているなと藤は直感で判断した。
 場所は厨の扉前。時刻は朝五時半。
 廊下で寝てしまったせいか、腕や足の節々が痛い。加えて言うなら、布団を被らずに扉にもたれるように寝ていたので、つま先や指先だけでなく体の中心部まで冷えてしまっている。ごしごしと手で体中をこするようにして摩擦熱で暖をとりながら、藤は立ち上がった。
 そんな彼女を横目に、歌仙は藤が背にしていた厨の扉をがらりと開く。その音を聞いて、彼女は「あっ」と声を漏らした。

「いったい、何だいこれは」

 歌仙の不機嫌さが上限に達した声音を耳にして、主である彼女も恐る恐る中を覗く。そこには、いつものような整然と整えられた厨はなかった。所々に流し場から飛んだ水が残っているし、床に粉のようなものが飛び散っている。

「君は、朝から、一体何をしてたんだい」

 言葉の一つ一つに怒りを滲ませながらぐるりと振り返った歌仙の顔は、形だけを見るなら笑顔だった。だが、その目は全く笑っていない。その癖、なまじっか笑顔であるが故に、より一層の凄味が彼から滲み出ている。
 ずいずいと歌仙に顔を近づけられ、藤は反射的に目を逸らした。仕草だけ見ても、彼女が何か隠し事をしていることは明白だ。

「……別に。大したことじゃないよ」

 またその口癖だなと、歌仙は嘆息する。初めて会ったときから、彼女は言いたくないことがあったら誤魔化す所があった。彼女の「別に」は大したことある何かの裏返しだ。以前は額面通りに受け取っていたが、もう今の歌仙はその言葉で誤魔化されたりはしない。

「お腹が空いて何か作りたかったなら、僕に言えばいいだろうに」
「ごめんってば」

 謝ろうという気持ちはあるのだろう。ぺこりと頭を下げている藤の姿からは、申し訳ないという気持ちは伝わってきた。

「それで、何を作りたかったんだい? 言ってごらん」

 はぁ、とため息をつきながら、歌仙は尋ねる。態度とは裏腹に、彼は主のリクエストに応じてあげようという気持ちはあった。
 彼女は自他と共に認める食いしん坊だ。深夜に起きて食べたくなるような何かがあったのだろう、という彼なりの好意的な解釈だった。だが、大海のような広い心持ちで歌仙が尋ねたにも関わらず、予想に反して彼女はぴくりとも動かなくなってしまった。

「主?」
「もう食べたくないからいいよ。大丈夫だから」

 端的にそれだけを早口で告げて、藤は踵を返そうとする。だが、させじと歌仙の手が伸び、むんずと彼女の腕を掴む。

「大丈夫なわけないだろう。厨を夜中に使い倒してまで食べたかったものだっていうのに?」
「だからそれは謝るってば。一応綺麗にしたつもりなんだから。あと、朝ごはんは要らないから」

 それだけ言うと、彼女はその場を去るために脱兎のごとく駆け出そうとした。だが、そうは問屋がおろさなさい。今度は、歌仙の腕からすり抜けた彼女の襟首を、彼はがしりと掴んだ。

「何かあるんだろう。君が朝ごはんを要らないだなんて、何があったんだい」
「何もないんだってば!!」

 滅多に聞かない大声を彼女に出され、歌仙は目を丸くした。彼が驚いた隙をついて、力任せに彼を振りほどいて廊下の角を曲がる。歌仙が瞬きをしている間に、彼女の姿はあっという間に見えなくなってしまった。

「やれやれ……一体、何なんだい」
「歌仙?」

 トントンと、少し重みのある足音が近づいたことに気がつき、歌仙はぐるりと振り返る。そこには、歌仙と同じく厨をよく使う刀剣男士の一人――小豆長光の姿があった。

「いったいあさから、どうしたんだい?」
「主が厨を使って何かしてたらしいのだけれどね。口を割ってくれなくて」
「くりやを?」

 所々何か作ったらしいシミや飛び散った水がまだ残っている厨に小豆は足を踏み入れ、歌仙と同様に首を捻る。
 しかし、不意に息を呑むような音を唇から漏らし、小豆はやおら冷蔵庫に近づいて扉を開いた。続いて、乾燥物をしまっている棚の戸を開き、大きく息を吐き出す。

「なるほど。これは、わたしのしっさくかもしれないなぁ」
「失策?」

 棚から顔を出した小豆は、苦笑いを零していた。ばつが悪いといった表情は、彼が浮かべるには珍しいものだと歌仙は思う。

「このことはわたしがなんとかするから、歌仙はきにせずあさのじゅんびをしてほしい」

 そう言われれば、歌仙とてとりあえず矛を収めるしかない。納得はいかないものの、彼は不承不承頷いて朝餉の支度にとりかかった。


 ***


「おなか……すいたぁ……」

 か細い悲痛なうめき声が、静かな朝の部屋に響く。ごろりと寝台に転がって時計を見ると、まだ針は十時であることを示していた。
 朝ごはんは要らないなどと思い切ったことを言わなければよかった、と彼女は今になって後悔する。厨に行って食べるものをねだるのも、ああ言ってしまった手前ではやりにくい。食いしん坊云々以前に、意地というものが今日は珍しいことに彼女の中で優っていた。

「歌仙に悪いことしたなあ……」

 意地とは異なるもう一つの理由は、彼のことだった。歌仙を振りほどいて部屋に引きこもったはいいが、後から来るのは怒濤のような罪悪感だ。もう少しうまく誤魔化せなかったのか。他に言い方があっただろう、などとチクチクと心が苛まされる。
 以前はことを荒立てないように、というのをモットーに生きていたがために、このような気持ちを感じることはなかった。ある種の懐かしさを覚える痛みではあるが、同時に慣れたいとは思えない痛みである。
 外に出て、うっかり歌仙と顔を合わせるのも気まずい。それに、朝ご飯に顔を見せなかった主のことを、皆心配しているだろう。
 誰も部屋に訪れていないのは、勝手に部屋に入るのは良くないことだと皆が遠慮してくれているからだ。おかげで一人の空間を守ることはできるが、八方塞がりを継続したままにもなっていた。
 どうしよう、と終わりの無い疑問を抱きながら、毛布を体に巻きつけて、ごろごろと寝台の上を転がる。空腹とストレスからくる胃痛を紛らわすためだったが、

「あいてっ」

 勢い余ってそのまま寝台から転げ落ちて、強かに背中を打つことになった。

「……いいことないなぁ、もう」

 絡まり合った布団からずるずる出てきた藤は、寝不足の頭で机にあるものを見つめる。
 大皿に載せられたのは、茶色というより少し黒が混ざった、歪な円形の焼き菓子。俗にクッキーと呼ばれるものだった。美味しそうな焼き目を通り越して、半ば炭化しているそれは、あまり口にしたいとは思えないものだ。そのお菓子こそが、彼女が夜なべして厨を汚した原因だった。
 焦げたクッキーの山を見つめて、藤は重いため息をつく。ずるずると手を伸ばして、小さなものを一枚取り上げ、口の中に入れて齧る。

「苦い」

 言うほど強烈な苦さはないものの、甘さ二割苦さ八割は美味しいと言えないだろう。

「それに固い」

 薄めに焼いたせいで火が通り過ぎてしまい、ごりごりという菓子にあるまじき咀嚼音がする。これではクッキーというよりは、お煎餅に近い。
 それでも齧れば、空腹は紛らわされた。一枚食べきって、藤は何度目になるか分からない吐息をつく。

「絶対小豆の方が、お菓子を作るのうまいもんなぁ」
「わたしを、よんだかな」

 不意に口に出した当人の声が背後から聞こえ、ぎょっとして藤は振り返った。そこには襖を少し開き、体格のいい体を縮めるようにしながら入ってきた、小豆長光の姿があった。

「こえをかけたのだけれど、へんじがなかったから、かってにあけてしまったんだ。いいつけをやぶるかたちにはなってしまい、もうしわけない」
「いや、それは、返事をしなかった僕も悪いんだけど」

 本来、刀剣男士たちは許可なく勝手に主の部屋に入らないようにと、厳命されている。彼女にとっての私的な空間を守るための取り決めだった。
 しかし、声は聞こえているのにずっと無視をして考え事に耽っていた自分も悪い、と藤は思っていた。なので、この無断侵入について目くじらを立てるつもりはなかった。けれども、それ以上に今は間が悪かった。

「ちょっと、今はだめ」
「それがあるからかな?」

 机の上にある隠しようもないクッキーの山を見られて、藤は明らかな動揺を顔によぎらせた。口を数度ぱくぱくとさせ、自分の中で言葉を探す。
 焦げたクッキー。カレンダーの二月十四日。バレンタインデーという日があって、好きな人や大事な人にお菓子の贈り物をする日なのだと、先日話してしまった自分。
 きっと小豆長光は、すぐに気がつく。気がついてほしくないのに。そこまで思考が行き着いた瞬間、彼女の顔に仮面染みた笑顔が貼り付いた。

「うん。バレンタインデーって前に話したよね。だから、本丸の皆に贈り物をしたいな、とか思ってさ。だからって無意味に張り切ってみたんだけど、小豆みたいに上手くいかないね。こんなもの食べさせるわけにはいかないから、ここに置いていたわけ」

 微かに口角を上げた、一分の隙も見せない完璧の笑顔を彼女は見せていた。それは、相手の気遣いを受け入れ、自分の本心を折るための笑顔であり、他人にこれ以上干渉をさせないための拒絶の笑みだということは、もう本丸の誰もが知っていた。いわば彼女の本心を誤魔化す悪癖だ。

「あるじ、またわるいくせがでてしまっているぞ」

 けれども、その笑顔に騙されてあげるような優しさを、敢えて彼は持ち合わせないことにしていた。
 仮面の笑顔を浮かべている藤の肩に軽く手を置き、ぽんぽんと宥めるように軽く叩く。そうされると、まるで濡れた紙が剥がれ落ちるように彼女の笑顔があっさりと失せ、その裏にある曇った顔が露わになった。

「だって」

 口をへの字に曲げて、素顔をさらし出した藤は言う。

「僕が食べて欲しいって言ったら、皆は無理して食べるでしょう。それが、どれだけ美味しくないものだとしても。そんなの」

 言葉を一つ区切り、ひゅっと鋭く息を吸う。

「そんなの、迷惑でしょう。僕が食べてって言ったら、皆は断れないだろうから」

 藤の言葉は、相手の気持ちを考えているはずの言葉なのに、とても冷たく悲しいもののように小豆には聞こえた。
 まるで体中の気力を吐き出すように長々と息をついてから、彼女は顔を上げる。上げた視線の先には、部屋の片隅に吊されたカレンダーがある。
 二月十四日。バレンタインデー。
 大事な人にお菓子の贈り物をする日。そんな日だから、渡されたものを断ることができなくなる日。
 たとえそれが失敗作だとしても、ありがたく受け取るべきだと強要してしまうのが許されてしまう日。ただの友人同士でも、善意の押しつけが時によってまかり通ってしまう日。
 付け加えるなら、刀剣男士と主なら、主従という立場というものがある。主が食べてと頼んだら、刀剣男士がそれを断れるわけがない。

「僕は、そんなことがしたいわけじゃなかったのに。分かっていたのに、でも何かしてあげたいなんて思って、それに皆が応えてほしいって思ってしまって」

 苦渋を言葉に変えて、彼女は唇を強く噛んだ。噛み過ぎて、彼女の薄い唇からじんわりと血がにじみ出る。

「たしかに、むりやりたべさせるならそうなのかもしれない」

 申し訳なさと図々しさが絡まり合って、苦しそうな様子を見せている藤に、そっと小豆は語りかける。

「だけど、わたしたちにも、たべるかどうかのせんたくをさせてほしいな」

 彼の声を聞いても、彼女の視線は畳の上に落ちたままだ。ぎゅっと握りしめられた拳は、真っ白になって震えていた。

「つくったということをしって、たべるかどうかをえらんで、それをきみにおしえたいとおもうぞ。それなら、きみのいうような、おしつけにはならない」
「でも、僕が作ったってことだけで、君たち気を遣うでしょ」

 絞り出したような声は、まるで泣き出す直前のように震えていた。

「まずいものを美味しいと、言わせたいわけじゃない。楽しくもないのに、楽しい顔をさせたいわけじゃない」

 他人に気遣いを強要することに対しては、主は人一倍敏感になる。彼女自身、その気遣いによって己を磨り潰してきた人だからだ。だからこそ、よくある慰めではなかなか納得してくれそうになかった。
 小豆も藤とは違う意味で、細く長く息を吐く。彼女のこの反応に対する責任の一端は、自分にもあると思っていた彼は、別の切り口から語りかけることにした。

「あるじ。おいしいものをじゅんすいにたべたいとおもうのと、おいしくないものでもたべたいというのは、またべつのものだと、わたしはおもう」
「……何それ。第一、美味しくないものを食べたいわけないでしょう、普通は」
「なら、わたしがうっかりこがした、すいーとぽてとがあったとして、それをあるじはまずいからとすてるのかな?」

 たとえ話ではあったが、藤はその情景を想像してすかさず首を横に振った。落ちていた視線を上げ、小豆の優しげな瞳を今度は逸らすことなく見つめる。

「そんなわけないよ。小豆が作ったんだから、少しは食べたい。たとえその……すごく不味かったとしても」
「わたしがすてるといっても?」
「言っても食べる。だって、僕は小豆が作ったものを食べたいんであって、美味しいから食べたいってわけじゃ……あっ」

 そこまできっぱり言い切ってから、自分が自分を論破してしまったことに彼女は気がつく。
 不味いものが不味いのは、変えられない事実だ。だからと言って、好意を持っている相手が手ずから作ってくれたものを全く食べさせてもらえないことは、悲しいことである。そのことを、藤は自分自身が口にした言葉で導き出していた。

「そういうわけだから、これはみんなにみせて、みんながたべたがったらたべる、ということにしよう」
「でも! 小豆だって作ってたよね。冷蔵庫にガトーショコラがワンホールあったの、見つけたんだから」

 まるで我が儘な子供の駄々みたいだと、藤は思う。思ってはいたが、言葉は止まらなかった。

「あれ、小豆が作ったやつでしょう。お菓子、作るの上手だもんね。だから、皆はそっちの方が食べたいって思うよ。僕のなんかと並べたら、余計皆の気を遣わせてしまうから」
「ああ……そのことについては、ほんとうにあやまらなくてはならないとおもっていたんだ。もうしわけない」
「謝らなくていいよ。バレンタインデーだから小豆がお菓子を作るのは当たり前だ。それを推測しなかった僕が馬鹿なだけで」
「そうではないのだ、あるじ」
「だから、小豆が気にすることじゃないんだ」

 彼女は、また笑っていた。自分が必死に作ったものを、自分から嗤ってどうでもいいことにしようとしている。小豆が作ったものを自分のせいで台無しにしてはいけないと、彼女は己の努力の欠片を無かったことにしようとしていた。

「だから、ちがうのだ。ちゃんとわたしのはなしを、きいてほしい」

 そんな顔をさせたいわけではないと、小豆は彼女の肩を掴んで正対する。目を逸らされる前に、全て言い切ってしまおうと彼は昨日からの隠し事を話す決意をした。

「あれは、あるじへのおくりものだ。あるじにおくろうと、ほんまるにいたみんなで、あるじにないしょでつくったものだ」

 藤の顔が、一転してぽかんとしたものに変わる。ぱちぱちと数度、瞬きをして彼の顔を見つめていた。

「わたしが、みんなのためにつくったわけではない。あれは、あるじのためのものなのだ」

 彼女の口が、魚のようにぱくぱくと何度か開け閉めを繰り返す。言葉は喉の奥で迷子になってしまったようで、なかなか声という形をとってくれない。

「え。でも、ワンホールもあったのに?」

 ようやく出た声に、小豆は向日葵のような笑顔を彼女に見せた。

「まるっとぜんぶ、あるじのものだ」

 にこにこ笑っている小豆を見て、藤はぽかんとした様子を隠せずにいた。やがて、彼につられるように彼女の顔にも不恰好な笑顔が浮かぶ。先ほどの仮面とは異なる、自然に浮かんだものだった。

「い、一体僕がどれだけ食べると、思ってるの」

 苦笑を浮かべた藤の目尻に、じんわりと透明な雫が浮かぶ。

「あるじは、あまいものがすきだからな」

 皆にちゃんと贈り物を用意してもらっていた嬉しさ、独りよがりで歌仙や小豆を傷つけた申し訳なさ、それでも見捨てずに声をかけ続けてくれた小豆への感謝。それら全ての感情が交ざり合って、彼女の頬に一筋の涙として流れ落ちた。

「ごめん、小豆。それに、ありがとう。みんなにも、僕が用意していたこと教えるよ」

 焦げちゃったけれど、と恥ずかしげに彼女は笑う。彼女が自然に零した花がほころぶような笑顔にあわせて、小豆も暖かな陽だまりのような微笑を返す。
 ぐいと涙を拭った藤は、机上の焦げたクッキーを改めて見つめ直す。そして、照れくさそうに頬を僅かに染めて、

「小豆、今度お菓子の上手な作り方を教えて」

 ささやかな願いを口にした。小豆は首をゆっくり縦に振って、その願いに応えた。


 ***


 その日の夕方。玄関の引き戸が開くがらがらという音が本丸に響いた。続いて姿を見せたのは、朝から所用のために本丸を空けていた刀剣男士たちだった。遠征の報告やら、ついでに万屋での買い出しやらと、何かと雑事が重なったために帰参する時刻が遅くなってしまったのである。

「おかえり、皆」

 帰ってきた彼らを迎えるために、藤はいそいそと玄関に姿を見せた。普段なら彼らを労うだけではあるが、今日の彼女の手にはいつもと違う物がある。
 それは、白いお皿に載せられたクッキーだった。朝方に彼女の部屋にあったときよりも、量はかなり減っている。

「ただいま! あれ、あるじさん。何持ってるの?」

 一番に駆け込んできた乱が、ちょいと首を傾げて皿の中を覗きこむ。彼の後ろからは、同じく遠征に行っていた五虎退と物吉が顔を見せていた。

「これって、クッキー……ですか?」

 すんすんと小さな鼻を動かして、五虎退も乱の後ろから大きな瞳で主特製のクッキーを見つめる。じっくりと見つめられて照れくさいのか、藤は短刀たちから目を逸らして後ろの廊下に目をやった。
 折よく、彼女の無言のメッセージを受け取ったかのように小豆が姿を見せる。

「すこしおそいが、きょうはあるじがおやつをよういしてくれたんだぞ」

 彼が顔を綻ばせて皆に告げた瞬間、乱と五虎退、物吉から爆発のような歓声があがった。

「本当!?」
「主様のおやつですか!?」
「あるじさまが、作ってくれたんですか……!」

 期待のこもった六つの瞳に面食らって、藤は数歩後ろに下がる。逃がすまいと、少年たちも空いた分だけ距離を詰めてくる。

「そんな大層なものじゃなくて、バレンタインデーだから、少し作ってみようかなって。……それに、焦げてるし」
「でも、あるじさんが用意してくれたんでしょ? ボク食べたい!」

 僕も僕もと矢継ぎ早に声をあげられ、手を伸ばされる。
 咄嗟に彼らが届かないように皿を掲げ持って藤が万歳の姿勢をとっていると、助け船を出すように小豆が皿を受け取ってくれた。

「こら。おやつはちゃんと、てをあらってからだぞ」
「わかりました! 主様、失礼しますね!」
「ボクも! 一番乗りはボクなんだからね!」
「あ、皆待って……!」

 乱、物吉、五虎退がわあわあと歓声をあげて、藤の横を通り過ぎていく。その後ろを、クッキーの皿を預かった小豆が追いかけていった。あの調子では、ここで待っているとすぐさま玄関に戻ってきて、玄関でお茶会となってしまうと予想したのだろう。
 彼に任せてよかった、と藤が肩を落としていると、もう一人入ってきた者が彼女に声をかけた。

「にぎやかだねえ。ただいま帰ったよ」
「おかえり、髭切。皆の引率、お疲れ様」

 遅れてやってきた古馴染みの太刀に、藤はねぎらいの言葉をかけた。

「主、お菓子を作ったんだね」
「うん。バレンタインデーだったから」
「たしか、お世話になっている人に贈り物をしあう日だったっけ?」

 髭切の大雑把なバレンタインデーの解釈に、藤は首肯で返す。

「本丸の皆も、昨日僕の分用意してくれていたんだ。ワンホールのガトーショコラなんて、いったいどれだけ食べると思われてるんだろう」
「そういえば、弟がそういうものを作るって話してたねえ。僕も参加したかったなあ」

 昨日の朝に遠征で帰ってきた髭切は、その後すぐに報告内容をまとめる必要に駆られていたために、参加することができなかったのだ。
 同様の境遇であった乱たちは、髭切が仕事をしてくれたおかげで参加することができたと、今日の外出時に髭切に感謝を述べていた。

「……髭切は、僕が作ったやつは興味ない?」

 食べに行かないの、という押し付けがましい言い方は避けて彼女は問いかける。
 髭切は少年たちの背中が消えていった廊下の奥をちらと見てから、軽く肩を竦めてみせた。

「多分、もう食べられちゃってるんじゃないかな」

 少年達の足は髭切よりも速い。あのつむじ風のような動きを見る限り、既に残り少なかったクッキーは彼らの口の中に消えていることだろう。
 少し残念そうな彼の顔を前にして、藤はこっそりと自分のポケットへと手を伸ばした。


 主が、クッキーを作ってくれていた。それは、髭切にとって意表を突くものではあった。
 けれど、彼女が用意したクッキーは見るからにもう残り少ないもので、主からの贈り物ということもあって目を輝かせている子供たちを押しのけてまで、食べようとは思わなかった。
 髭切は見た目だけで言うなら、成人した男性の姿をしている。刀剣男士に年齢は関係ないという意見もあるらしいが、それでもこの本丸の中において五虎退たちは子供で、髭切は大人なのだ。だから、たかがお菓子くらいで目くじらを立てるものではない、と最初は思っていた。

「仕方ないよね。間が悪かったって思うことにするよ」

 本来なら、それだけで済む話だった。これが小豆の作ったお菓子を食べそびれたというだけなら、髭切も特に気にかけることもなかっただろう。
 だが、どういうわけか今日に限っては、彼の中にちくちくと自分を苛むものがあった。

「えっと、これだけじゃ物足りないかもしれないけど」

 その気持ちを読んだかのように、藤はごそごそとポケットを漁り、簡素なビニールの包装に包まれたクッキーを一枚取り出した。
 凝った装飾などついていない、ただの丸いクッキーだ。薄めに焼かれたせいで固いし、焦げ目も所々についている。作った本人も美味しいと思っていないだろうということは、彼女のやや申し訳なさそうな顔からも分かる。

「えっと……その、もしよかったらでいいんだけど、いらなかったらいらないって言ってくれれば」
「これを、僕に?」

 けれども、突如諦めていたものが目の前に差し出され、髭切は歓喜と驚きのあまり何度もクッキーと藤の間に視線を往復させた。
 照れくさそうに視線をあちこち動かしていた彼女は、意を決して髭切の手の上にちょこんとそれを載せる。

「ありがとう、主。嬉しいよ」

 ただそれだけのことなのに、自分の内側にぽっと灯りが点ったような暖かさを髭切は覚えていた。
 包装を解き、菓子にしては硬すぎる歯ごたえを感じながら、髭切は主の手作りクッキーを口の中へと入れていく。ごりごりという咀嚼音といい、舌の上に広がる苦みといい、お世辞にも美味しいとは言えない。

「やっぱり、苦いよね。ちょっと、オーブンの温度とかよく分からなくて、適当にやっちゃったから」
「うん。美味しくはないね」

 髭切はぺろっと舌を出して口の周りについた食べ残しまで舐めとってから、とても嬉しそうに微笑んだ。

「でも、僕は何だか凄く嬉しいな。だって、誰に言われたわけでもなくて、主が僕たちのために作りたくて作ったって味がするもの」

 命じられたから作ったのではなく、まして良い主としてそうするべきだろうと思ったから作ったのではなく、ただ心の内から湧き出る刀たちへの好意を形にしたものだと、髭切は気がついていた。
 だから、苦くても嬉しい。他者のために心を磨り潰していた彼女が選んだ、自発的に何かしたいと思ってくれた相手――それが、自分たちのためだということが分かったのが、彼にとっては何より嬉しかった。

「……うん。皆が、喜んでくれたらいいなって。でも、もうちょっと精進しないとね。歌仙も次郎も膝丸も他の皆も、喜んではくれたけど苦笑いって感じだったもの」
「そうだね。主は甘い物を食べるのが好きだから、きっと楽しいんじゃないかな」
「自分だけで食べたりしないよ。作るなら、皆の分も作るんだから」

 息巻く主を見守りながら、髭切はおや、と思う。
 主が作ってくれたお菓子を食べることができた。それ自体は嬉しいのに、どういうわけかまだ引っかかっているものがある。
 彼女が皆のために作ってくれた焼き菓子。本丸の皆が好きだから、作ってくれたお菓子。それは、いいことのはずなのに。

「……主。お願いがあるんだけれど」
「何?」
「お菓子ができたら、最初に味見をするのは僕がいいな」

 節分のときは、弟が主が作った料理を先に貰っていて、むかむかした感情がこみ上げてきてしまった。それは、嫉妬なのではないかと弟は言っていた。
 髭切という者にとって、嫉妬は良くないもののはずなのに。だけれど、嫉妬してしまうのなら仕方ない。主にとって一番の存在でありたいというのは、物として当然の気持ちだろう。だから、こうして一番手を名乗り出ておけば、と髭切は思っていた。

「皆より先に食べたいだなんて、髭切は食いしん坊だね」

 主は特に気にすることもなく引き受けてくれたというのに、髭切の心にはまだ消えない何かが残っていた。何をすれば、このもやもやした不愉快な感情は消えてくれるのだろうか。髭切が顎に手を当てて考え込んでいると、

「どうしたの?」

 普段はにこやかに微笑んでいる髭切が悩んでいる様子が気になったのか、藤が顔を覗き込むようにして彼の顔色を窺っていた。

「何だかね。主がお菓子を作ってくれたのに、妙にもやもやした感じがするんだ。物足りないというか、もっと違う形のものが欲しいというか」
「よく分からないけれど、物足りないなら作れる種類を増やしておくね」

 そういうものではない、と思っていたが髭切は曖昧に頷いて、今は笑っておくことにした。
 二人で笑顔を交わしながら居間に向かうと、そこには案の定空になった皿が置かれていた。髭切の予想通り、既に少年たちの手によってクッキーは全て食べられてしまったらしい。
 部屋に入ってきた二人に気がついて、乱は向日葵のような笑顔を見せながらぶんぶんと彼女に手を振る。

「あるじさん、クッキー作ってくれてありがとう! 今度はボクがお返しするね!」
「食べてくれてありがとう。お礼は嬉しいけど、もうガトーショコラを貰ったんだから十分だよ」
「ボクだけのお返しをしたいの! その方が特別って感じがするでしょ?」

 二人の他愛のないやり取りを聞いて、髭切の中で閃くものがあった。すぐ側に立つ藤の袖を軽く引き、こちらを向いた彼女に向けて、思いついた案を忘れてしまう前にすかさず口にする。

「僕も何か主に送るね。僕だけ、主へのお菓子作りに参加していなかったし、それに」

 ――自分だけの贈り物の方が、特別なんでしょう。
 そこまで口にして、髭切は再びはっとする。
 今日渡されたお菓子は、あくまで主が皆のために作った物だ。当然、彼だけのために特別に用意したものではない。

(僕は、そのことが気になっているのかな)

 同じ立場のものが特別に目をかけられれば、嫉妬を生むだけなのに。自分は、自ら嫉妬を向けられるような対象になりたがっていると言うのか。
 自分のあり方と相反する感情ではある。しかし、『髭切』として相応しくないものだからという理由だけで、彼は排斥しない。この不可解な感情から、彼は目を逸らさない。

(もし、主が僕のためだけに、特別にお菓子を用意していたとしたら)

 それは、凄く嬉しいことだ。敵を多く討って褒められたときよりも、力をつけて強くなったと実感できたときよりも、尚嬉しいことだ。
 この感情につける名はまだ知らずとも、髭切はそれが自分の求めているものだと見定めた。その決意表明を兼ねて、無邪気にこちらを見つめる主に、今度ははっきりと歓喜の微笑を送る。

「贈り物、楽しみにしていてね」

 当面の目標は、自分だけの特別を主に贈ることだ。そこで主が見せてくれる感情も、喜びも、特別なものだったらいいのだが。
 何も知らない藤がこくこくと頷いているのを見つめ、彼は目を細める。『恋』を知らない一振りの刀は、ただ愚直に自分なりの特別を探し始めたのだった。
3/41ページ
スキ