本編第一部(完結済み)
「更紗ちゃんの……?」
「そう、更紗って名前の子供の」
「あの子が話してた、鶴って人?」
「……まあ、そんなところだ」
藤に尋ねられて、彼は再び目を細めて笑う。弓なりに細くなった瞳は、さながら狐がほくそ笑んだようにも見えた。
「それで、何で君はここに? 審神者と刀剣男士は鳥居の向こうには行かない決まりって聞いてたんだが、俺の聞き違いだったか?」
人差し指でこちらを指す代わりだろうか、青年は手に持っていた提灯を藤に向けた。自分を照らす真っ赤な灯りが、あたかも言いつけを破った自分を叱っているようで、申し訳なさに藤は肩をすぼませた。
「……お母さんが」
そこまで話しかけて、すぐさま彼女は首を横に振る。言ったところで、更紗の刀剣男士が理解できるわけもない。万一相手が自分の刀剣男士だったとしても、教えようなどとは思わなかっただろう。
「ちょっと、気になることがあっただけ。もう戻るよ」
危ない、と警告した小烏丸の忠告も無視した彼女を、わざわざ追いかけてきてくれたのだろう。ならば彼の親切心を無下にしてはならないと、藤は木に掴まって立ち上がりかける。
だが、右足首から電流でも走ったかと思うほどの痛みが広がって、彼女は顔を顰めてへたり込んでしまった。足首から感じていた痛みは、先ほどより激しくなっているようだ。
「……うーん、その足、挫いたみたいだな。仕方ない。あまりやりたくはなかったんだが」
男は藤の側にしゃがみこむと、彼女が何か言う前に自分の左手を彼女の赤くなった足首に添えた。
「ほら。痛いの痛いの飛んでいけーってな」
子供だましのようなおまじないを唱えてから、彼はポンと藤の足を軽く叩く。当然、腫れが引いていく様子などは見られない。だが、鶴丸は得意げな笑みを浮かべてみせていた。
「動かしてみるといい。ただし、ゆっくりとな」
言われるがままに、そっと足を動かす。鋭い痛みが走るものと内心で身構えていたのに、不愉快な刺激を感じることはなかった。
目を見開いて思わず青年の顔を見ると、彼はおどけたようにパチンと片目を閉じた。
「なぁに、狐に化かされたと思ってくれればいいさ。ただ、無理はしないようにな。別に完治したわけじゃない」
彼が言うように、足の腫れが引いているようには見えない。まるで痛みという感覚だけが、すっぽりと無くなってしまったかのようだった。
立ち上がっても、先ほどのようにすぐしゃがみこまずに済むのは嬉しいが、ありがたいを通り越していっそ不気味にすら思える。
「さて、君は一人で帰れるのかい?」
「…………」
だが、疑念を問いかける前に、突然現実的な質問をぶつけられて、藤は思わず黙り込んでしまった。自分が後先を考えずに行動したことは、問われるまでもなく自覚していたからだ。
「やれやれ、考えなしに飛び出したってわけね。仕方ない。鳥居に続くところまでは案内しよう」
白髪の彼は提灯を片手に持ち直し、空いた片手でちょいちょいと藤に手招きをしてみせた。おっかなびっくり歩いてみたが、どうやら大丈夫そうだと確信した藤は、白い男の後を追いかける。
自分が短時間とはいえ面倒を見たあの子供――更紗の本丸の刀剣男士なら、恐らく悪いようにはしないだろう。そもそも刀剣男士は心根が良い神様ばかりなのだから、騙したり怖がらせたりするような真似はしないはずだ。
そのことは分かっているつもりなのに、彼の後を素直に追いかけていいものかという悩みが生まれる。嫌な気配が、青年から漂ってくる様子はなかった。だが、判断材料は彼の言葉と直感だけだ。躊躇してしまうのも、無理からぬと言えよう。
「あの、どうして僕が審神者って分かったの」
「こんな辺鄙な所をそんな格好で彷徨いている人間なんて、普通ならいるわけがない。つまり、祭りに参加してる人間ってことで審神者だって思ったワケさ」
鶴丸と名乗った彼は、ゆらゆらと提灯を揺らす。提灯の揺れに合わせて、真っ赤な光がゆらゆらと人魂のように動く。
「それに、更紗が世話になったからな。主の恩人が困ってるなら、刀剣男士っていうのは手伝うのが当たり前なんだろう?」
どこか有無を言わせない迫力を感じて、藤は思わず勢いに圧されて首を縦に振る。
納得したと捉えたのか、鶴丸はそれ以上の会話を続けることもなく迷いなく足取りを進めた。彼が持つ提灯の灯りを頼りにしながら、藤も後に続く。
走ってきた距離は然程大したものではないはずなのに、あまりに静かすぎる空間のせいで、藤は居心地の悪さを覚えていた。
「……あの」
長すぎる沈黙に耐えかねて、藤は思わず口を開く。
「ん、どうした?」
足を休めることはなかったが、鶴丸は返事をしてくれた。
「ここって、どこなんですか。鳥居の向こう、すごくあやふやで、よく分からない感じだったのに、こんな森に繋がってるなんて」
「こういう仕掛けに、俺は疎いんでね。ただ、境を弄っているらしいってのは聞いたな。外に出ればどこに出て、どこから戻れるか。その辺が曖昧になってるらしい」
「じゃあ……もう、あの人とは会えないんだ」
藤が漏らした言葉は、鶴丸への返事では無かった。
ここが何処なのかは案内人である彼も知らないし、またここに来ることができるかどうかも怪しい。それは、自分が追いかけていた人に再び会えるか分からない、ということでもある。
思わず足を止めて、藤は振り返る。当然ながら、月だけが唯一の照明である森の中から人影を見つけられるわけがない。
藤が足を止めたことに気がついて、鶴丸も案内を中断し、
「やめとけ」
ばっさりと、彼女の未練を言葉で斬り伏せた。
「そんなふわふわした気持ちで追いかけてたら、また転んで怪我をするぞ」
制止の言葉をかけられても尚、藤はじっと夜の闇を見つめ続ける。
「追いかけたら、話はできる? お祭りって、死んだ人にも会えるって聞くし、それなら僕は」
眉間に皺をよせ、唇を噛み、顔を歪ませて。それでも、涙だけは零さずに彼女は呟く。
「僕は、会いたい。会って、訊きたいことがあるんだ」
ざわりと、夜の風が草葉を揺らす。返事をしたのは、幽霊の声ではなく梟のホウという鳴き声だ。
「俺は、やめとけって言ったからな」
ぴしゃりと厳しい返事をされ、流石に藤も鶴丸へと向き直る。彼は不機嫌さを隠そうともせずに、こちらを半ば睨み付けてすらいた。
ただ主が少しばかり世話になったという縁だけを元に、わざわざこんな所まで迎えに来てくれたのだ。だというのに、あんな自ら迷子になろうとするような態度をとれば、鶴丸が怒るのも無理もない。
「……ごめんなさい。折角の君の親切を、無下にして」
「それもあるけどな。戻りたくないのか、君は。それとも、あちら側に行って帰らないつもりか?」
問われて、藤は思わずぶんぶんと首を横に振る。
「そんな。死にたいわけじゃない」
「そういう意味じゃないんだが……。まあ、分かってるならそれでいい。で、帰るんだな?」
「うん。僕は、戻らなきゃ。心配をかけるから」
言葉にはしたものの、藤は内心に渦巻く感情の渦を未だ整理できていなかった。
どうしたいのかと問われれば、追いかけたいと答える自分もいる。戻りたいと、答える自分もいる。
だが、どうすべきかと問われたら、答えは明確に一つに絞られた。
「なら、いいんだ。早くしないと、君のとこの神様たちまで境を超えてきちまう。そうなったらちょっと、厄介なんでね」
「それは、迷子になってしまうから?」
「単に俺が嫌いだから」
「え?」
再び歩み始めた藤は、鶴丸の突然の発言に思わず顔を上げる。見ると、彼はどこか慌てたように提灯を大袈裟に振っていた。
「いや、ほら、君みたいに迷子になってまた俺が探し回る、なんて面倒ごとは嫌いなんだよ」
背中越しでも分かるほど明らかに動揺が走っているが、藤は深くは訊こうとしなかった。彼の言っていることも、もっともであると思ったのも理由の一つであり、もう一つの理由は彼女の眼前にあった。
「そら。着いたぞ」
鶴丸が指し示さなければ、気がつけるかも怪しかっただろう。そこには朽ちた鳥居の残骸らしきものがひっそりと立っていた。蔦や新たに芽生えた木々が絡みついており、さながら倒壊しかけたアーチのように見える。
丁度、鳥居の通り道にあたる部分に彼が手をかざすと、その場に水面でもあるかのように空間が揺らいだ。
「ほら。今なら、君が来ていた祭りの会場に繋がっているだろうさ。さっさと戻るといい」
「ありがとう」
「それと、足は子供騙しみたいなもので痛みを誤魔化してるだけだ。しばらくすると、痛みがぶり返すだろうから、ちゃんと安静にしてるんだぞ」
「うん。あの」
言われるがままに鳥居を通り抜けようとしかけて、しかし藤は足を止める。首を傾げる鶴丸に向き直り、
「鶴丸さんは、戻らないの。更紗ちゃん、鶴と一緒に来てたって言ってたよ」
当然彼も共に帰るものと思って、藤は質問を投げかける。すると、鶴丸は何故か焦ったように目線を明後日の方向に逸らしてしまった。
「俺は、ちょっとここに用があるんだ。更紗には、よろしく言っておいてくれ」
「え、ちょっ」
まるで急かすようにトンと軽く背中を圧され、藤はつんのめるように鳥居をくぐり抜ける。慌てて首を後ろに捻っても、もはや前に倒れ込みかけた体が戻ることはない。
視界の端で鶴丸がひらひらと手を振っている。その姿は、別れる直前の更紗に似ている――と思った刹那、藤の耳にどっと祭りのざわめきと、
「もういい! 僕が主を探しに行く!!」
耳を劈かんばかりの歌仙の声が響いた。
「やれやれ、やーっと無事に戻ったみたいだね」
疲れをほぐすようにのびをしながら発した、鶴丸と名乗っていた青年の言葉。その口調は、先ほどまで話していたものよりは幾分か幼い。
彼は一仕事を終えたと言わんばかりに、がしがしと乱暴な手つきで頭を掻く。が、すぐに手を止めて森の暗がりをじっと見つめる。
彼は、ただ漠然と闇を凝視していたわけではない。そこから、薄ら滲み出た人影を睨み付けていた。
薄汚れた衣服に、朱色の癖の多い髪を肩まで伸ばした女性。彼女の面差しは、わざわざ確認するまでもなく、先ほど案内した迷い人に似ていた。
青年は不愉快そうに眉を顰めて、じっと女性を見つめ、
「そんな作り物みたいな笑顔じゃ、俺が止めるまでもなくあの子は気がついてたかもね」
彼の言葉を聞いても、女性は笑みを一ミリも崩さずに立っていた。彼の言うとおり、彼女の笑顔はまるで人形のように固まっており、生きた人間のものとは思えない不気味さが滲んでいた。
「あんた、どこの誰だか知らないけどさ。そんな人の弱みにつけ込むような姿で顔を出すの、やめなよ。あの子、あんたがその姿だったから、追いかけただけなんだろうから」
批難するような言葉を聞いても、女性は身じろぎ一つしない。ただ、微動だにせずに青年の顔を見つめている。その様子は、無言で彼を責めているようにも見えた。
「俺? 俺はいいんだって。だってさ、審神者って刀剣男士はすぐ信じるけど、それ以外のものって、そう簡単に信じてくれないじゃん」
先ほどまでの鶴丸国永を『演じていた』誰かは、にやりと笑ってみせる。彼の瞳は月を映した金色ではなく、今は手に持った提灯のようなくすんだ赤に染まっていた。
「とにかく。ちょっかいを出すのは控えておいたら? ちゃんとお話しして、納得させてから連れて行くなら別だけどさ」
相変わらず、女性の姿をした何かからの返事はない。ひときわ強い夏の夜風が、ざわりと木々を蠢かせる。
草木が再び寝静まる頃には、二人の姿は最初から無かったものであるかのように消えていた。
***
藤が鶴丸を名乗る誰かと別れを告げる少し前、丁度鳥居の前まで辿り着いた歌仙たちは激しい口論をしていた。
「主がここを通ったかもしれないのなら、僕らが探しに行くことの何が不満なんだ!!」
「だーかーらー! 刀剣男士だったとしても、きちんと縁を辿らないと、主と同じところに行けるか分からないって何遍も言っているだろう!」
唾を飛ばしかねない勢いで歌仙の相手をしているのは、どうにか彼らに追いついた鶴丸だ。
何か曰くありげなものだったとしても、主がこの先にいるなら阻む理由にならない。歌仙はそのように判断していたが、鶴丸曰く、ことはそう簡単ではないらしい。
もし本当に通り過ぎてしまったのなら、追いかけるには相応の手順を追う必要がある。そうでなければ、いたずらに迷子を増やすだけだというのが彼の言だった。
「主様がここを通った。或いはこの付近にいた……それは、確かなんですよね」
「うん。間違いないだろうね」
物吉の確認に、髭切はすぐさま頷く。この場に来てすぐ彼らが見つけたのは、藤が手首から提げていた巾着だった。中には、彼女の私物であるハンカチや財布が入っていた。それが、彼女がここを通ったという事実を彼らに告げていたのだ。
「大体、そんな危険な場所なら何故封鎖しておかないんだ!」
「いや、いつもはここに見張りの刀剣男士がいて、近寄る連中を追い払うようにしていたはずなんだが……」
歌仙に言われるがままに、鶴丸は周りを見渡してみたものの、そのような人影は見当たらない。たまたま、迷い人が通りがかったときは席を外していたということだろうか、と彼は疑念に対して一旦の納得をする。
鶴丸にとって喫緊の問題は、どういうわけか不在の見張り番よりも、目の前にいる歌仙たちの方だった。
「ともかく。君たちは無茶な行動をとる前に祭りの管理者のところに行って、結界を張った奴に事情を話してだな」
「た、ただ、通るだけじゃ、だめなんですか。僕、気配を辿るのは……得意、なんです」
今度は歌仙ではなく、彼の後ろで右往左往していた五虎退が声をあげる。
「こうしている間にも、あるじさま……迷子になって、困っていると思って……だから……」
泣きそうな声で言われると、まるで己が悪人になったかのような気持ちにさせられる。だが、鶴丸は今このときばかりは首を縦に振るわけにはいかなかった。
「偵察に優れているならば尚のこと、近づけばはっきり分かるだろう。ここから先は絡まった糸みたいに、縁がぐちゃぐちゃになっているんだ」
鶴丸に促され、五虎退は一歩前に出る。刀剣男士であり付喪神でもある彼には、近寄ったところで主ほど鳥居から威圧感や不思議な迫力は感じない。ただ、通常の建物より少しばかり風変わりな気配だとは思っていた。
敵の気配を探る時のように息を吸い込み、ゆっくりと吐き出す。神経を研ぎ澄まして余分な情報を頭から弾き出し、目では見えないものを掴みとろうとする。
主の縁は、触れるといつも少し暖かいと、五虎退は感じていた。それと同時に、奥深くまで辿れば微かな冷たさも覚える。細くてしなやかな藤色の糸。五虎退は主との縁を、そのような姿で捉えていた。
自分たちが歩いてきた方角から鳥居まで、糸は一直線のまま伸びていき、鳥居を通って更に――。
「……!」
「気がついたか?」
五虎退の顔色が変わったことを察知した鶴丸が、真剣味を帯びた声で尋ねる。五虎退は声も無く、ゆっくりと首肯した。
「……五虎退。どうなんだい」
「歌仙さん、たしかに僕たちだけじゃ、あるじさまの後を追うのは……難しいかも、しれません」
鶴丸が言ったように、この鳥居をくぐり抜けた先は各地に散らばる様々な鳥居と繋がっている、と五虎退は直感で察していた。ここを無闇に潜り抜ければ、繋がった鳥居のどれか一つから飛び出ることになるだろうが、そこに主がいるという保障はどこにもない。
何故、そんな形になっているのか。その理由は、これだけの数の刀剣男士と審神者が集まっているという状況そのものにあった。
刀剣男士は物から生まれた付喪神として、人とは一線を置いた先の存在である。更に、審神者という者は刀剣男士と縁を結べるだけあって、常人とは違うナニカの目に留まりやすいという噂があり、それは眉唾物とは言いがたい事実でもあった。
祭りという陽の気は、良くも悪くもいろいろなモノを集めてしまう。人ではない刀剣男士の気配に誘われた『良くないもの』が、審神者たちに手を出さないように警戒するための境。だから、外から見ても、中に在る者たちの姿を曖昧にする必要があった。境の出入り口を次々と切り替えて、所在をわざと不確かにしているのも、そのような理由あってのことだった。
五虎退はそこまで詳しい事情に精通しているわけではないが、この辺りは感覚的に彼も察してはいる。だが、五虎退を驚かせたのはそれだけではない。
(あるじさまの気配……追おうとすると、何だか痛くなって、逃げようとしているみたいで……。まるで――来て欲しくない、みたいな感じです。だからいつもよりずっと、追うのが難しい……気がします)
気配を辿れば何もかもが分かるわけでもないが、彼女の気配は跡を辿られるのを拒否しているように、五虎退には感じられた。しかし、そのことを口にするより前に鶴丸が大きなため息と共に、
「分かっただろう。偵察能力が高い刀剣男士も、こう言っているんだ。管理者のところまでの案内はしてやるから、軽はずみな行動はやめてくれ」
「だが!!」
「うーん。でも、今見えている先の風景って町の中だよね。人がいる所に繋がっているのなら、主が迷子になっても危ないことはないんじゃないかな」
「そ、そうですね」
今にも鶴丸に掴みかからんばかりに興奮している歌仙を宥めるように、髭切は現実的な推測を述べる。だが、彼は同時に「おや」と思った。まさか自分の言葉に五虎退が追従するとは予想していなかったのだ。
髭切が視線を下に向けると、五虎退は落ち着き無くあちこちに視線を彷徨わせている。当然、彼は五虎退が狼狽している理由を知らない。
「どうしたんだい」
「あの……いえ、何でもないんです」
すぐさま首を横に振る五虎退。それ以上、髭切も問い詰めようとはしなかった。
「主も迷子になったって分かったら、その場にいてくれると思うよ。だから僕らは落ち着いて、その管理とやらの人に話を聞きに行こう」
「そうですね。安全な場所に繋がっている可能性が高いなら、ボクらも……」
髭切に呼応して物吉も考えを改めようとしたとき、ゆらりと景色が歪む。そして続いて現れた風景を見て、その場にいた五人は絶句した。
「……おかしいね。僕には人が暮らす町では無く、森が見えるのだが」
「人が歩ける場所でも……なさそうですね」
フォローをしていた筈の物吉も、歌仙の爆発寸前の緊張感を孕ませる声を否定する術までは、持ち合わせていなかった。
それもこれも、鳥居の向こうに映し出された景色が、月の灯りが唯一の照明となっているような森の中なのだから、無理もないだろう。一方で鶴丸は、先ほどまでと明らかに異なる焦りを顔に見せていた。
「……こんな所、繋げる予定はなかったはずだ。いつの間に?」
歌仙を止めていた鶴丸が狼狽を露わにしたこともあり、彼は最早座して待つのは無駄と判断したらしい。
「もういい。僕が主を探しに行く!!」
勢いよく宣言をした後、彼は鳥居に向けて足を一歩踏み出す。その瞬間、鳥居で区切られた入り口がまるで水面に石を投げ込んだかのようにゆらりと揺れる。
「えっ!?」
驚きの声をあげたのは五虎退だが、驚愕を顔に浮かべたのは物吉も髭切も同様だ。
さながら水中から顔を出した魚のように、真っ先に現れたのは顔だった。癖のある朱色の髪の毛、その名の通りの藤色の瞳が髭切たちの目にうつる。
続いて青い花を散らした浴衣の柄が見え、少々前のめりになってつんのめるようにしながら主が――藤が、姿を見せた。
「主!!」
真っ先に我に返って声を上げたのは、やはり歌仙だった。
「あるじさま!!」
「主様、無事ですか!?」
続いて五虎退が彼女に飛びつき、物吉が駆け寄る。突然少年たちの勢いづいた抱擁を受けて、彼女は危うく尻餅をつきそうになった。
「うんうん。何事も無かったみたいでよかったよ」
「はい。きっとボクの幸運がお役に立ったんです」
髭切の言葉を受けて、物吉が少しばかり胸を反らして得意げに目を輝かせた。
その間にも、五虎退にしがみつかれ、歌仙に質問攻めにあってしまっている肝心の探し人は、目を白黒させている。どうやら、いきなり皆からあれこれ言われて頭が追いついていないらしい。
「歌仙、五虎退。離れてあげないと、主が困ってるよ」
髭切に窘められて、ようやく歌仙も五虎退も彼女から距離をとる。が、歌仙の眦が明らかにつり上がっていることに気付いた藤は、思わず首を竦めてしまった。
言いつけを守らずにあちこち歩き回って迷子になって、発見されてしまったときの子供の気分だ、と藤は思う。要するに、とてもばつが悪い。
「どうして、僕に声もかけずにいなくなったんだい」
「ちょっと……色々、気になるものがあって」
「気になるもの? それは、僕らから離れて、こんなにも心配をかけてまで、気にする必要があったものなのかい」
人気が少ないといえ、祭りの会場という人目がある場だからこそ歌仙の声も抑えられている。だが、びりびりと伝わる怒気は、近くにいる五虎退すら思わず涙目になるものだった。慌てて髭切と物吉の元に逃げ込んだのも、無理もないことである。
一方、真正面から歌仙の怒りを受けた藤は、言葉を濁した回答を続けていた。それが、益々歌仙の怒りを買っていく。
「歌仙さん、怖いです……」
「それ程までに心配だったんですよ。初対面の鶴丸さんに、あんなに食ってかかっていたぐらいですから」
「それはそれとして。主は、何で彼から離れたんだろう」
髭切は誰ともなしに呟くが、当然物吉や五虎退にその原因が分かるわけもない。髭切だけが、彼女に何か嫌なことがあったらしい、と察している。しかし、今はそれを聞きに行ける状況とは言えないだろう。
歌仙の叱責は留まることを知らないようだ。彼の説教を聞きながら、藤は顔を軽く下に向けて目を伏せていた。
「歌仙。そのくらいにしてあげたら?」
流石に見かねて、髭切が未だにがみがみと叱っている歌仙に声をかける。
「いいや、今回ばかりは何も咎めないというわけにはいかないよ。今までとはわけが違う」
「……ごめん」
歌仙の傍で視線を床に落としていた藤は、小さく頭を下げる。それだけを見るなら、反省している姿にしか見えない。だが、髭切は彼女が頭を下げる姿に既視感を覚えずにはいられなかった。
(何だか、僕に似ているなあ)
ほんの数週間前の自分のように、頭を下げながらも幾つもの感情や言葉を抑え込んでいる姿。考えすぎかもしれないが、髭切は彼女の謝罪をそのように捉えていた。
「主も反省してるみたいだよ。折角のお祭りなんだから、怒るのはこれくらいにしたら。五虎退も物吉も、怖がっちゃってるよ」
「……そうだね。でも、もう僕らから勝手に離れないように」
流石に仲間の不安を煽ってまで、叱り続けるつもりはないらしい。最後に歌仙が強く言い含めた言葉に、藤も小さく頷き返す。
これにて一件落着かと思った折、
「何はともあれ、見つかって良かったな」
こちらに向けて声をかけたのは、歌仙たちに遠慮してか少し距離を置いていた鶴丸だった。下駄を鳴らして戻ってきた彼に、歌仙は軽く頭を下げる。
「ありがとう。元はと言えば君のおかげで、主の手がかりを見つけられたようなものだからね。改めて紹介しよう。こちらが僕らの主の藤。それでこっちが」
「……鶴丸さん」
歌仙が説明するよりも先に、藤は目の前の青年の名を口にする。目を瞬かせ、彼女は鶴丸をじっと見つめていた。見知らぬ審神者から突然凝視され、鶴丸は少しばかり驚いたような顔を見せる。
「よかった。鶴丸さんも、こっちに戻ってきていたんだね。さっきはありがとう」
「え?」
驚きの声をあげたのは、鶴丸本人だけではない。歌仙たちも、揃って顔を見合わせて、思わず藤と鶴丸を交互に何度か見てしまった。
周りの様子が妙だと気が付いた藤本人も、自分がおかしいことを口走ったのかと徐々に不安を顔に滲ませる。
「さっき、森の中で迷子になっている僕を見つけてくれたよね。更紗ちゃんの刀剣男士の鶴丸だって言って、道案内をしてくれて」
「確かに俺の主の名は更紗だが、君とは初対面の筈だぞ。どういうことだ?」
もしかしたら別の本丸の鶴丸国永かもしれないという予想も、この様子では違うらしいと歌仙たちは察する。
「鶴丸さんは、髭切さんと一緒にいたんですよね」
「そうだよ、物吉。僕がその……ちょっと迷子になっちゃったときに出会って、それからずっと一緒だったはずだよ」
「じゃあ、時間を考えると、迷子の主様を見つけてくれる余裕はないですよね」
物吉の言葉を聞いて、スゥと髭切の目が細まる。会話を交わしている主と鶴丸の間に割って入るように歩み寄り、
「ねえ。どっちが僕らを騙しているのかな」
触れれば斬れるような殺気が、一瞬二人の間を通り過ぎていく。思わず鶴丸は身構え、藤は気配に圧されるように一歩後ずさった。
ただならぬ気配が空気をびりびりと震わせる。髭切と相対することになった鶴丸の頬を、暑さとは違う汗が自分の頬を流れ落ちていく。
「ひ、髭切さん。あるじさまは、本物です。ちゃんと……縁が繋がってます」
五虎退に言われずとも、藤の刀剣男士である髭切は彼女が姿を見せてからすぐに気がついていた。自分と主の間にある縁が、より強く感じることができている。
ならば、目の前にいる主は本物だ。それに、主が初対面の刀剣男士と、わざわざ顔見知りという嘘をつく必要はない。
だとすれば、消去法で疑いの目は一人に向けられる。
「鶴丸国永。君は、何なんだい」
疑心暗鬼が膨らみ、一触即発の空気が辺りを漂う。あわや双方が刀を抜くのではないかと思うほどの不穏さが、空気に滲んだとき、
「こらこら。子らよ。こんな場所で何を殺気立っておるのだ」
ゆるりと謡うような声が、張り詰めた空気にふわりと入り込む。
声の主を辿るように髭切と鶴丸が思わず顔を向けた先には、更紗を抱いた小烏丸が、足音も立てずにこちらに向かってくる所だった。
「そう、更紗って名前の子供の」
「あの子が話してた、鶴って人?」
「……まあ、そんなところだ」
藤に尋ねられて、彼は再び目を細めて笑う。弓なりに細くなった瞳は、さながら狐がほくそ笑んだようにも見えた。
「それで、何で君はここに? 審神者と刀剣男士は鳥居の向こうには行かない決まりって聞いてたんだが、俺の聞き違いだったか?」
人差し指でこちらを指す代わりだろうか、青年は手に持っていた提灯を藤に向けた。自分を照らす真っ赤な灯りが、あたかも言いつけを破った自分を叱っているようで、申し訳なさに藤は肩をすぼませた。
「……お母さんが」
そこまで話しかけて、すぐさま彼女は首を横に振る。言ったところで、更紗の刀剣男士が理解できるわけもない。万一相手が自分の刀剣男士だったとしても、教えようなどとは思わなかっただろう。
「ちょっと、気になることがあっただけ。もう戻るよ」
危ない、と警告した小烏丸の忠告も無視した彼女を、わざわざ追いかけてきてくれたのだろう。ならば彼の親切心を無下にしてはならないと、藤は木に掴まって立ち上がりかける。
だが、右足首から電流でも走ったかと思うほどの痛みが広がって、彼女は顔を顰めてへたり込んでしまった。足首から感じていた痛みは、先ほどより激しくなっているようだ。
「……うーん、その足、挫いたみたいだな。仕方ない。あまりやりたくはなかったんだが」
男は藤の側にしゃがみこむと、彼女が何か言う前に自分の左手を彼女の赤くなった足首に添えた。
「ほら。痛いの痛いの飛んでいけーってな」
子供だましのようなおまじないを唱えてから、彼はポンと藤の足を軽く叩く。当然、腫れが引いていく様子などは見られない。だが、鶴丸は得意げな笑みを浮かべてみせていた。
「動かしてみるといい。ただし、ゆっくりとな」
言われるがままに、そっと足を動かす。鋭い痛みが走るものと内心で身構えていたのに、不愉快な刺激を感じることはなかった。
目を見開いて思わず青年の顔を見ると、彼はおどけたようにパチンと片目を閉じた。
「なぁに、狐に化かされたと思ってくれればいいさ。ただ、無理はしないようにな。別に完治したわけじゃない」
彼が言うように、足の腫れが引いているようには見えない。まるで痛みという感覚だけが、すっぽりと無くなってしまったかのようだった。
立ち上がっても、先ほどのようにすぐしゃがみこまずに済むのは嬉しいが、ありがたいを通り越していっそ不気味にすら思える。
「さて、君は一人で帰れるのかい?」
「…………」
だが、疑念を問いかける前に、突然現実的な質問をぶつけられて、藤は思わず黙り込んでしまった。自分が後先を考えずに行動したことは、問われるまでもなく自覚していたからだ。
「やれやれ、考えなしに飛び出したってわけね。仕方ない。鳥居に続くところまでは案内しよう」
白髪の彼は提灯を片手に持ち直し、空いた片手でちょいちょいと藤に手招きをしてみせた。おっかなびっくり歩いてみたが、どうやら大丈夫そうだと確信した藤は、白い男の後を追いかける。
自分が短時間とはいえ面倒を見たあの子供――更紗の本丸の刀剣男士なら、恐らく悪いようにはしないだろう。そもそも刀剣男士は心根が良い神様ばかりなのだから、騙したり怖がらせたりするような真似はしないはずだ。
そのことは分かっているつもりなのに、彼の後を素直に追いかけていいものかという悩みが生まれる。嫌な気配が、青年から漂ってくる様子はなかった。だが、判断材料は彼の言葉と直感だけだ。躊躇してしまうのも、無理からぬと言えよう。
「あの、どうして僕が審神者って分かったの」
「こんな辺鄙な所をそんな格好で彷徨いている人間なんて、普通ならいるわけがない。つまり、祭りに参加してる人間ってことで審神者だって思ったワケさ」
鶴丸と名乗った彼は、ゆらゆらと提灯を揺らす。提灯の揺れに合わせて、真っ赤な光がゆらゆらと人魂のように動く。
「それに、更紗が世話になったからな。主の恩人が困ってるなら、刀剣男士っていうのは手伝うのが当たり前なんだろう?」
どこか有無を言わせない迫力を感じて、藤は思わず勢いに圧されて首を縦に振る。
納得したと捉えたのか、鶴丸はそれ以上の会話を続けることもなく迷いなく足取りを進めた。彼が持つ提灯の灯りを頼りにしながら、藤も後に続く。
走ってきた距離は然程大したものではないはずなのに、あまりに静かすぎる空間のせいで、藤は居心地の悪さを覚えていた。
「……あの」
長すぎる沈黙に耐えかねて、藤は思わず口を開く。
「ん、どうした?」
足を休めることはなかったが、鶴丸は返事をしてくれた。
「ここって、どこなんですか。鳥居の向こう、すごくあやふやで、よく分からない感じだったのに、こんな森に繋がってるなんて」
「こういう仕掛けに、俺は疎いんでね。ただ、境を弄っているらしいってのは聞いたな。外に出ればどこに出て、どこから戻れるか。その辺が曖昧になってるらしい」
「じゃあ……もう、あの人とは会えないんだ」
藤が漏らした言葉は、鶴丸への返事では無かった。
ここが何処なのかは案内人である彼も知らないし、またここに来ることができるかどうかも怪しい。それは、自分が追いかけていた人に再び会えるか分からない、ということでもある。
思わず足を止めて、藤は振り返る。当然ながら、月だけが唯一の照明である森の中から人影を見つけられるわけがない。
藤が足を止めたことに気がついて、鶴丸も案内を中断し、
「やめとけ」
ばっさりと、彼女の未練を言葉で斬り伏せた。
「そんなふわふわした気持ちで追いかけてたら、また転んで怪我をするぞ」
制止の言葉をかけられても尚、藤はじっと夜の闇を見つめ続ける。
「追いかけたら、話はできる? お祭りって、死んだ人にも会えるって聞くし、それなら僕は」
眉間に皺をよせ、唇を噛み、顔を歪ませて。それでも、涙だけは零さずに彼女は呟く。
「僕は、会いたい。会って、訊きたいことがあるんだ」
ざわりと、夜の風が草葉を揺らす。返事をしたのは、幽霊の声ではなく梟のホウという鳴き声だ。
「俺は、やめとけって言ったからな」
ぴしゃりと厳しい返事をされ、流石に藤も鶴丸へと向き直る。彼は不機嫌さを隠そうともせずに、こちらを半ば睨み付けてすらいた。
ただ主が少しばかり世話になったという縁だけを元に、わざわざこんな所まで迎えに来てくれたのだ。だというのに、あんな自ら迷子になろうとするような態度をとれば、鶴丸が怒るのも無理もない。
「……ごめんなさい。折角の君の親切を、無下にして」
「それもあるけどな。戻りたくないのか、君は。それとも、あちら側に行って帰らないつもりか?」
問われて、藤は思わずぶんぶんと首を横に振る。
「そんな。死にたいわけじゃない」
「そういう意味じゃないんだが……。まあ、分かってるならそれでいい。で、帰るんだな?」
「うん。僕は、戻らなきゃ。心配をかけるから」
言葉にはしたものの、藤は内心に渦巻く感情の渦を未だ整理できていなかった。
どうしたいのかと問われれば、追いかけたいと答える自分もいる。戻りたいと、答える自分もいる。
だが、どうすべきかと問われたら、答えは明確に一つに絞られた。
「なら、いいんだ。早くしないと、君のとこの神様たちまで境を超えてきちまう。そうなったらちょっと、厄介なんでね」
「それは、迷子になってしまうから?」
「単に俺が嫌いだから」
「え?」
再び歩み始めた藤は、鶴丸の突然の発言に思わず顔を上げる。見ると、彼はどこか慌てたように提灯を大袈裟に振っていた。
「いや、ほら、君みたいに迷子になってまた俺が探し回る、なんて面倒ごとは嫌いなんだよ」
背中越しでも分かるほど明らかに動揺が走っているが、藤は深くは訊こうとしなかった。彼の言っていることも、もっともであると思ったのも理由の一つであり、もう一つの理由は彼女の眼前にあった。
「そら。着いたぞ」
鶴丸が指し示さなければ、気がつけるかも怪しかっただろう。そこには朽ちた鳥居の残骸らしきものがひっそりと立っていた。蔦や新たに芽生えた木々が絡みついており、さながら倒壊しかけたアーチのように見える。
丁度、鳥居の通り道にあたる部分に彼が手をかざすと、その場に水面でもあるかのように空間が揺らいだ。
「ほら。今なら、君が来ていた祭りの会場に繋がっているだろうさ。さっさと戻るといい」
「ありがとう」
「それと、足は子供騙しみたいなもので痛みを誤魔化してるだけだ。しばらくすると、痛みがぶり返すだろうから、ちゃんと安静にしてるんだぞ」
「うん。あの」
言われるがままに鳥居を通り抜けようとしかけて、しかし藤は足を止める。首を傾げる鶴丸に向き直り、
「鶴丸さんは、戻らないの。更紗ちゃん、鶴と一緒に来てたって言ってたよ」
当然彼も共に帰るものと思って、藤は質問を投げかける。すると、鶴丸は何故か焦ったように目線を明後日の方向に逸らしてしまった。
「俺は、ちょっとここに用があるんだ。更紗には、よろしく言っておいてくれ」
「え、ちょっ」
まるで急かすようにトンと軽く背中を圧され、藤はつんのめるように鳥居をくぐり抜ける。慌てて首を後ろに捻っても、もはや前に倒れ込みかけた体が戻ることはない。
視界の端で鶴丸がひらひらと手を振っている。その姿は、別れる直前の更紗に似ている――と思った刹那、藤の耳にどっと祭りのざわめきと、
「もういい! 僕が主を探しに行く!!」
耳を劈かんばかりの歌仙の声が響いた。
「やれやれ、やーっと無事に戻ったみたいだね」
疲れをほぐすようにのびをしながら発した、鶴丸と名乗っていた青年の言葉。その口調は、先ほどまで話していたものよりは幾分か幼い。
彼は一仕事を終えたと言わんばかりに、がしがしと乱暴な手つきで頭を掻く。が、すぐに手を止めて森の暗がりをじっと見つめる。
彼は、ただ漠然と闇を凝視していたわけではない。そこから、薄ら滲み出た人影を睨み付けていた。
薄汚れた衣服に、朱色の癖の多い髪を肩まで伸ばした女性。彼女の面差しは、わざわざ確認するまでもなく、先ほど案内した迷い人に似ていた。
青年は不愉快そうに眉を顰めて、じっと女性を見つめ、
「そんな作り物みたいな笑顔じゃ、俺が止めるまでもなくあの子は気がついてたかもね」
彼の言葉を聞いても、女性は笑みを一ミリも崩さずに立っていた。彼の言うとおり、彼女の笑顔はまるで人形のように固まっており、生きた人間のものとは思えない不気味さが滲んでいた。
「あんた、どこの誰だか知らないけどさ。そんな人の弱みにつけ込むような姿で顔を出すの、やめなよ。あの子、あんたがその姿だったから、追いかけただけなんだろうから」
批難するような言葉を聞いても、女性は身じろぎ一つしない。ただ、微動だにせずに青年の顔を見つめている。その様子は、無言で彼を責めているようにも見えた。
「俺? 俺はいいんだって。だってさ、審神者って刀剣男士はすぐ信じるけど、それ以外のものって、そう簡単に信じてくれないじゃん」
先ほどまでの鶴丸国永を『演じていた』誰かは、にやりと笑ってみせる。彼の瞳は月を映した金色ではなく、今は手に持った提灯のようなくすんだ赤に染まっていた。
「とにかく。ちょっかいを出すのは控えておいたら? ちゃんとお話しして、納得させてから連れて行くなら別だけどさ」
相変わらず、女性の姿をした何かからの返事はない。ひときわ強い夏の夜風が、ざわりと木々を蠢かせる。
草木が再び寝静まる頃には、二人の姿は最初から無かったものであるかのように消えていた。
***
藤が鶴丸を名乗る誰かと別れを告げる少し前、丁度鳥居の前まで辿り着いた歌仙たちは激しい口論をしていた。
「主がここを通ったかもしれないのなら、僕らが探しに行くことの何が不満なんだ!!」
「だーかーらー! 刀剣男士だったとしても、きちんと縁を辿らないと、主と同じところに行けるか分からないって何遍も言っているだろう!」
唾を飛ばしかねない勢いで歌仙の相手をしているのは、どうにか彼らに追いついた鶴丸だ。
何か曰くありげなものだったとしても、主がこの先にいるなら阻む理由にならない。歌仙はそのように判断していたが、鶴丸曰く、ことはそう簡単ではないらしい。
もし本当に通り過ぎてしまったのなら、追いかけるには相応の手順を追う必要がある。そうでなければ、いたずらに迷子を増やすだけだというのが彼の言だった。
「主様がここを通った。或いはこの付近にいた……それは、確かなんですよね」
「うん。間違いないだろうね」
物吉の確認に、髭切はすぐさま頷く。この場に来てすぐ彼らが見つけたのは、藤が手首から提げていた巾着だった。中には、彼女の私物であるハンカチや財布が入っていた。それが、彼女がここを通ったという事実を彼らに告げていたのだ。
「大体、そんな危険な場所なら何故封鎖しておかないんだ!」
「いや、いつもはここに見張りの刀剣男士がいて、近寄る連中を追い払うようにしていたはずなんだが……」
歌仙に言われるがままに、鶴丸は周りを見渡してみたものの、そのような人影は見当たらない。たまたま、迷い人が通りがかったときは席を外していたということだろうか、と彼は疑念に対して一旦の納得をする。
鶴丸にとって喫緊の問題は、どういうわけか不在の見張り番よりも、目の前にいる歌仙たちの方だった。
「ともかく。君たちは無茶な行動をとる前に祭りの管理者のところに行って、結界を張った奴に事情を話してだな」
「た、ただ、通るだけじゃ、だめなんですか。僕、気配を辿るのは……得意、なんです」
今度は歌仙ではなく、彼の後ろで右往左往していた五虎退が声をあげる。
「こうしている間にも、あるじさま……迷子になって、困っていると思って……だから……」
泣きそうな声で言われると、まるで己が悪人になったかのような気持ちにさせられる。だが、鶴丸は今このときばかりは首を縦に振るわけにはいかなかった。
「偵察に優れているならば尚のこと、近づけばはっきり分かるだろう。ここから先は絡まった糸みたいに、縁がぐちゃぐちゃになっているんだ」
鶴丸に促され、五虎退は一歩前に出る。刀剣男士であり付喪神でもある彼には、近寄ったところで主ほど鳥居から威圧感や不思議な迫力は感じない。ただ、通常の建物より少しばかり風変わりな気配だとは思っていた。
敵の気配を探る時のように息を吸い込み、ゆっくりと吐き出す。神経を研ぎ澄まして余分な情報を頭から弾き出し、目では見えないものを掴みとろうとする。
主の縁は、触れるといつも少し暖かいと、五虎退は感じていた。それと同時に、奥深くまで辿れば微かな冷たさも覚える。細くてしなやかな藤色の糸。五虎退は主との縁を、そのような姿で捉えていた。
自分たちが歩いてきた方角から鳥居まで、糸は一直線のまま伸びていき、鳥居を通って更に――。
「……!」
「気がついたか?」
五虎退の顔色が変わったことを察知した鶴丸が、真剣味を帯びた声で尋ねる。五虎退は声も無く、ゆっくりと首肯した。
「……五虎退。どうなんだい」
「歌仙さん、たしかに僕たちだけじゃ、あるじさまの後を追うのは……難しいかも、しれません」
鶴丸が言ったように、この鳥居をくぐり抜けた先は各地に散らばる様々な鳥居と繋がっている、と五虎退は直感で察していた。ここを無闇に潜り抜ければ、繋がった鳥居のどれか一つから飛び出ることになるだろうが、そこに主がいるという保障はどこにもない。
何故、そんな形になっているのか。その理由は、これだけの数の刀剣男士と審神者が集まっているという状況そのものにあった。
刀剣男士は物から生まれた付喪神として、人とは一線を置いた先の存在である。更に、審神者という者は刀剣男士と縁を結べるだけあって、常人とは違うナニカの目に留まりやすいという噂があり、それは眉唾物とは言いがたい事実でもあった。
祭りという陽の気は、良くも悪くもいろいろなモノを集めてしまう。人ではない刀剣男士の気配に誘われた『良くないもの』が、審神者たちに手を出さないように警戒するための境。だから、外から見ても、中に在る者たちの姿を曖昧にする必要があった。境の出入り口を次々と切り替えて、所在をわざと不確かにしているのも、そのような理由あってのことだった。
五虎退はそこまで詳しい事情に精通しているわけではないが、この辺りは感覚的に彼も察してはいる。だが、五虎退を驚かせたのはそれだけではない。
(あるじさまの気配……追おうとすると、何だか痛くなって、逃げようとしているみたいで……。まるで――来て欲しくない、みたいな感じです。だからいつもよりずっと、追うのが難しい……気がします)
気配を辿れば何もかもが分かるわけでもないが、彼女の気配は跡を辿られるのを拒否しているように、五虎退には感じられた。しかし、そのことを口にするより前に鶴丸が大きなため息と共に、
「分かっただろう。偵察能力が高い刀剣男士も、こう言っているんだ。管理者のところまでの案内はしてやるから、軽はずみな行動はやめてくれ」
「だが!!」
「うーん。でも、今見えている先の風景って町の中だよね。人がいる所に繋がっているのなら、主が迷子になっても危ないことはないんじゃないかな」
「そ、そうですね」
今にも鶴丸に掴みかからんばかりに興奮している歌仙を宥めるように、髭切は現実的な推測を述べる。だが、彼は同時に「おや」と思った。まさか自分の言葉に五虎退が追従するとは予想していなかったのだ。
髭切が視線を下に向けると、五虎退は落ち着き無くあちこちに視線を彷徨わせている。当然、彼は五虎退が狼狽している理由を知らない。
「どうしたんだい」
「あの……いえ、何でもないんです」
すぐさま首を横に振る五虎退。それ以上、髭切も問い詰めようとはしなかった。
「主も迷子になったって分かったら、その場にいてくれると思うよ。だから僕らは落ち着いて、その管理とやらの人に話を聞きに行こう」
「そうですね。安全な場所に繋がっている可能性が高いなら、ボクらも……」
髭切に呼応して物吉も考えを改めようとしたとき、ゆらりと景色が歪む。そして続いて現れた風景を見て、その場にいた五人は絶句した。
「……おかしいね。僕には人が暮らす町では無く、森が見えるのだが」
「人が歩ける場所でも……なさそうですね」
フォローをしていた筈の物吉も、歌仙の爆発寸前の緊張感を孕ませる声を否定する術までは、持ち合わせていなかった。
それもこれも、鳥居の向こうに映し出された景色が、月の灯りが唯一の照明となっているような森の中なのだから、無理もないだろう。一方で鶴丸は、先ほどまでと明らかに異なる焦りを顔に見せていた。
「……こんな所、繋げる予定はなかったはずだ。いつの間に?」
歌仙を止めていた鶴丸が狼狽を露わにしたこともあり、彼は最早座して待つのは無駄と判断したらしい。
「もういい。僕が主を探しに行く!!」
勢いよく宣言をした後、彼は鳥居に向けて足を一歩踏み出す。その瞬間、鳥居で区切られた入り口がまるで水面に石を投げ込んだかのようにゆらりと揺れる。
「えっ!?」
驚きの声をあげたのは五虎退だが、驚愕を顔に浮かべたのは物吉も髭切も同様だ。
さながら水中から顔を出した魚のように、真っ先に現れたのは顔だった。癖のある朱色の髪の毛、その名の通りの藤色の瞳が髭切たちの目にうつる。
続いて青い花を散らした浴衣の柄が見え、少々前のめりになってつんのめるようにしながら主が――藤が、姿を見せた。
「主!!」
真っ先に我に返って声を上げたのは、やはり歌仙だった。
「あるじさま!!」
「主様、無事ですか!?」
続いて五虎退が彼女に飛びつき、物吉が駆け寄る。突然少年たちの勢いづいた抱擁を受けて、彼女は危うく尻餅をつきそうになった。
「うんうん。何事も無かったみたいでよかったよ」
「はい。きっとボクの幸運がお役に立ったんです」
髭切の言葉を受けて、物吉が少しばかり胸を反らして得意げに目を輝かせた。
その間にも、五虎退にしがみつかれ、歌仙に質問攻めにあってしまっている肝心の探し人は、目を白黒させている。どうやら、いきなり皆からあれこれ言われて頭が追いついていないらしい。
「歌仙、五虎退。離れてあげないと、主が困ってるよ」
髭切に窘められて、ようやく歌仙も五虎退も彼女から距離をとる。が、歌仙の眦が明らかにつり上がっていることに気付いた藤は、思わず首を竦めてしまった。
言いつけを守らずにあちこち歩き回って迷子になって、発見されてしまったときの子供の気分だ、と藤は思う。要するに、とてもばつが悪い。
「どうして、僕に声もかけずにいなくなったんだい」
「ちょっと……色々、気になるものがあって」
「気になるもの? それは、僕らから離れて、こんなにも心配をかけてまで、気にする必要があったものなのかい」
人気が少ないといえ、祭りの会場という人目がある場だからこそ歌仙の声も抑えられている。だが、びりびりと伝わる怒気は、近くにいる五虎退すら思わず涙目になるものだった。慌てて髭切と物吉の元に逃げ込んだのも、無理もないことである。
一方、真正面から歌仙の怒りを受けた藤は、言葉を濁した回答を続けていた。それが、益々歌仙の怒りを買っていく。
「歌仙さん、怖いです……」
「それ程までに心配だったんですよ。初対面の鶴丸さんに、あんなに食ってかかっていたぐらいですから」
「それはそれとして。主は、何で彼から離れたんだろう」
髭切は誰ともなしに呟くが、当然物吉や五虎退にその原因が分かるわけもない。髭切だけが、彼女に何か嫌なことがあったらしい、と察している。しかし、今はそれを聞きに行ける状況とは言えないだろう。
歌仙の叱責は留まることを知らないようだ。彼の説教を聞きながら、藤は顔を軽く下に向けて目を伏せていた。
「歌仙。そのくらいにしてあげたら?」
流石に見かねて、髭切が未だにがみがみと叱っている歌仙に声をかける。
「いいや、今回ばかりは何も咎めないというわけにはいかないよ。今までとはわけが違う」
「……ごめん」
歌仙の傍で視線を床に落としていた藤は、小さく頭を下げる。それだけを見るなら、反省している姿にしか見えない。だが、髭切は彼女が頭を下げる姿に既視感を覚えずにはいられなかった。
(何だか、僕に似ているなあ)
ほんの数週間前の自分のように、頭を下げながらも幾つもの感情や言葉を抑え込んでいる姿。考えすぎかもしれないが、髭切は彼女の謝罪をそのように捉えていた。
「主も反省してるみたいだよ。折角のお祭りなんだから、怒るのはこれくらいにしたら。五虎退も物吉も、怖がっちゃってるよ」
「……そうだね。でも、もう僕らから勝手に離れないように」
流石に仲間の不安を煽ってまで、叱り続けるつもりはないらしい。最後に歌仙が強く言い含めた言葉に、藤も小さく頷き返す。
これにて一件落着かと思った折、
「何はともあれ、見つかって良かったな」
こちらに向けて声をかけたのは、歌仙たちに遠慮してか少し距離を置いていた鶴丸だった。下駄を鳴らして戻ってきた彼に、歌仙は軽く頭を下げる。
「ありがとう。元はと言えば君のおかげで、主の手がかりを見つけられたようなものだからね。改めて紹介しよう。こちらが僕らの主の藤。それでこっちが」
「……鶴丸さん」
歌仙が説明するよりも先に、藤は目の前の青年の名を口にする。目を瞬かせ、彼女は鶴丸をじっと見つめていた。見知らぬ審神者から突然凝視され、鶴丸は少しばかり驚いたような顔を見せる。
「よかった。鶴丸さんも、こっちに戻ってきていたんだね。さっきはありがとう」
「え?」
驚きの声をあげたのは、鶴丸本人だけではない。歌仙たちも、揃って顔を見合わせて、思わず藤と鶴丸を交互に何度か見てしまった。
周りの様子が妙だと気が付いた藤本人も、自分がおかしいことを口走ったのかと徐々に不安を顔に滲ませる。
「さっき、森の中で迷子になっている僕を見つけてくれたよね。更紗ちゃんの刀剣男士の鶴丸だって言って、道案内をしてくれて」
「確かに俺の主の名は更紗だが、君とは初対面の筈だぞ。どういうことだ?」
もしかしたら別の本丸の鶴丸国永かもしれないという予想も、この様子では違うらしいと歌仙たちは察する。
「鶴丸さんは、髭切さんと一緒にいたんですよね」
「そうだよ、物吉。僕がその……ちょっと迷子になっちゃったときに出会って、それからずっと一緒だったはずだよ」
「じゃあ、時間を考えると、迷子の主様を見つけてくれる余裕はないですよね」
物吉の言葉を聞いて、スゥと髭切の目が細まる。会話を交わしている主と鶴丸の間に割って入るように歩み寄り、
「ねえ。どっちが僕らを騙しているのかな」
触れれば斬れるような殺気が、一瞬二人の間を通り過ぎていく。思わず鶴丸は身構え、藤は気配に圧されるように一歩後ずさった。
ただならぬ気配が空気をびりびりと震わせる。髭切と相対することになった鶴丸の頬を、暑さとは違う汗が自分の頬を流れ落ちていく。
「ひ、髭切さん。あるじさまは、本物です。ちゃんと……縁が繋がってます」
五虎退に言われずとも、藤の刀剣男士である髭切は彼女が姿を見せてからすぐに気がついていた。自分と主の間にある縁が、より強く感じることができている。
ならば、目の前にいる主は本物だ。それに、主が初対面の刀剣男士と、わざわざ顔見知りという嘘をつく必要はない。
だとすれば、消去法で疑いの目は一人に向けられる。
「鶴丸国永。君は、何なんだい」
疑心暗鬼が膨らみ、一触即発の空気が辺りを漂う。あわや双方が刀を抜くのではないかと思うほどの不穏さが、空気に滲んだとき、
「こらこら。子らよ。こんな場所で何を殺気立っておるのだ」
ゆるりと謡うような声が、張り詰めた空気にふわりと入り込む。
声の主を辿るように髭切と鶴丸が思わず顔を向けた先には、更紗を抱いた小烏丸が、足音も立てずにこちらに向かってくる所だった。