短編置き場

「なんだろう、これ」

 本丸の自室で、藤は首を捻っていた。その手には、さらさらとした手触りの薄い布でできた服らしきものがあった。目の前には包装紙と散らかった衣類がいくつか。そのどれもが、肌着やパジャマの類である。
 夏のセールと銘打って寝間着の在庫処分セールをしているのを、万屋をぶらぶら歩いているときに見つけたのが今朝のこと。そこには季節外れの福袋も売っており、特に欲しい物もなかった彼女は値段の安さに惹かれてそれに手を出したのだ。
 思わぬ掘り出し物があったと鼻歌交じりに帰宅したのは丁度十数分前である。

「夏のワンピース……じゃないよね」

 彼女が手にしたのは、福袋の一番下に入っていた薄物のワンピースのようなものだ。上下分かれたつくりになっているので、正確には上衣とロングスカートと言うべきか。
 夏用に用意されたものだから薄手なのかもしれないが、それにしたってこれは薄すぎる──というのが下着の上からスカートをまず履いてみた彼女の感想だ。
 藤は自身の体格についてはまだ自信と呼べるものは未だ十分には持ち合わせていないが、例え抜群のプロポーションを持っていたとしても、この格好で出歩いてみたいとは思わない。
 それも当然、この服は下着の上に身につけているのに肝心の下着が透けて見えそうな薄さなのだ。

「これは所謂、ナイトガウン的なものかな?」

 全身が映る姿見──これも最近置いたものだ──を前にして、藤はくるくると回ってみせる。羽のようにスカートもひらりと後を追うが、まさに羽衣のような薄さのためどこか心もとない。足下がスースーするので、これでは何も身につけていないのと大差ない。
 今も上半身は下着のみ、下半身は下着とスカートという組み合わせなのに、気持ちとしては風呂上がりの下着姿と変わらない心持ちになる。

「……でも、可愛いかも」

 シフォン地のスカートに藤が胸に抱いているノースリーブの上衣は、普段着として見なければどこか大人びたい品のよさを兼ね備えているように見えなくもない。さながら、天蓋ベッドで眠る令嬢が夜着として纏うもののような、俗世から切り離された雰囲気を纏っていた。

「寝るときに着るなら、僕が着ても変じゃない……よね」

 どうせ誰も見ないし、と藤は誰ともなしに頷く。
 自分が可愛いと思った物を率先して身につけるには今でも少々心のハードルが高いが、寝るときなら誰もいないのだから問題ない。
 とりあえずスカートを脱いで押入れにしまおうと、上衣を胸に抱いたまま彼女は部屋の入り口近くにある押入れに手を伸ばす。そこが彼女にとって寝間着や寝具を仕舞うところでもあったからだ。
 しかし、現実とは常に予想外の出来事が起きるものである。
 スッと襖が開く音。
 だが、彼女の手はまだ押入れを開けていない。
 開いたのは、襖は襖でも出入り口の襖であり。

「えっ」
「あ」

 瞬きを数度して、彼女は硬直する。
 そこに立っていたのは、封筒を持った青年──髭切だった。



 遡ること数分前。髭切は両手に封筒を持って本丸の中を歩き回っていた。
 今日は遠征に万屋への買い出しが重なっているため、元々そこまで大所帯でもない本丸は静まりかえっている。どうやら、主も朝からどこかに出かけているらしいというのは、買い出しに出かける所で出くわした和泉守の談だ。

「こっちが弟の分、こっちが堀川たちの分」

 本丸に残された髭切が今配り歩いているのは、個人宛の書類だ。
 あまり数は多くないが、個々人が服や嗜好品を注文した場合、その連絡等はこうやってまとめて届くことがある。それを郵便屋よろしく、部屋の中に置いていっているというわけだった。

「残りは主宛のだね」

 今日、主は朝から出かけている。その考えが、髭切の気持ちをいつもより緩めてしまっていた。
 普段なら彼女の部屋に入るときは、襖の柱をノックすると言う決まりがある。彼女が一人になりたいときに、間違えて入らないようにするためだ。
 だが、流れ作業で部屋の出入りを続けていた髭切は、その過程の一つとして主の部屋のノックのことをすっかり忘れてしまっていた。
 だから、何の憚りも無く襖を開き、

「えっ」
「あ」

 思わず、その場で固まってしまった。
 いないはずの主がいた。それだけならまだいい。
 彼女は肩を剥き出しにして胸元に薄い布の固まりを抱えているだけの姿で、目の前に立っていた──ように見えた。

「なっ、え、ちょ」

 藤の口から出たのは、もはや言葉になっていない音の羅列。強いて言語化するなら、何で、ちょっとまって、だろうか。
 彼女の言葉を聞いて、一瞬凍り付いた髭切の思考が鈍く歯車を回し始める。
 着替え中のときに、誤って入ってしまった。ならば、自分が言うべき妥当な言葉が何かは流石に分かる。

「ごめん。また後にするね」

 口早にそれだけ言って髭切は踵を返そうとした。
 だが、動揺はどうやら彼からスマートにUターンする余裕すら奪ってしまったらしい。思うように動かない足が、よりにもよって自分の足に躓き、

「うわっ!」
「ええっ!?」

 彼は受け身も取れず、バタンと前向きに転んでしまった。
 あるまじき失態に更なる失態が重なり、流石に動揺してる自分を髭切は自覚せずにはいられない。まったく、惣領の刀が情けない限りである。

(弟に見られたら笑われちゃうよ。主がただ、その、少しばかり)

 そこまで思考が進みかけた瞬間、視界に入ってしまった主の剥き出しの肩やちらりと見えた腰、妙に目に焼き付いた首筋や胸元がやけに鮮やかに思い出される。
 そんなことを考えてしまっている自分に気がつき、髭切は内心で自分を殴りつけたくなった。こんなときに、一体何を思いだしているというのか。
 とりあえず、今すぐ起き上がってすぐに部屋を出る。謝罪については、一旦襖越しにすれば良い。段取りを頭でつけて、髭切は起き上がろうと床に手をつこうとして、

「ふぎゃ」

 主の珍妙な悲鳴を耳にすることになった。
 その悲鳴は、どうやら倒れ伏した自分の体の下から聞こえたような気がした。

「…………」

 微かに体を起こしたせいで、彼は更に気がつく。
 自分の体の下に、押し倒されるようにして主が倒れていることに。ついでに手をつこうとしたところは、よりにもよって主の胸元だった。
 あまりの間の悪さに、普段は飄々とした態度をとっている髭切も流石に声を無くす。
 恐る恐る──或いはほんの少しの期待も混ざっていたのかもしれないが──主を見やると、彼女は徐々に顔を赤くしているところだった。さすがに事態の把握は髭切よりも遅かったようだが、ことここに至って呆けているほど彼女も朴念仁ではない。

「うう」

 ただ、漏れる声は最早泣いてるのか怒ってるのかわからない呻き声だが。

「……ごめん、主。痛くなかった? 押し倒すつもりはなかったんだけど」
「わざわざ、言わなくて、いいっ」

 体を起こしながらどうにか平静を装って謝ってみるも、逆に叱られてしまった。
 こればかりは、もう黙って頭を下げるしかない。頭では、そう思ってはいるはずなのに。

(これは、ちょっと困ったなあ……)

 どういうわけか、胸の内でこの状況に喜んでいる自分がいることを、髭切は自覚せずにはいられなかった。
 隠す意味もないようなくらいの薄物の服を胸に抱えて、俯いている彼女。その姿だけ見れば、本来感じるべきは罪悪感だということは少し世間に疎い所がある髭切でも分かる。

(どうしよう。凄く──)

 それ以上の感情を考えてはいけない、と髭切は頭を小さく横に振る。
 と、同時に、痛いほどの沈黙を打ち破る微かな声が耳に入る。それはどうやら、主が漏らした嗚咽のようだった。

(……流石に、これは泣いちゃうよね)

 とぼけたふりをして怪我でもしたのかと問うべきか、それとも何事もなかったかのように退出するべきか。
 それなりに書物も読んできたし、多くの交流を経て人間の機微を理解できるほどの成長はしたと自負していても、こんな時にかけるべき言葉のレパートリーは髭切の中にない。
 だが、彼が悩んでいる間にも時間は進む。ぐしぐしと目をこすった彼女は顔を上げて、

「ご、めん。急に、怒ったりして」

 何故かこちらが謝られてしまった。
 彼女は半分泣きながらも、引き攣った笑顔を無理矢理作っていた。その姿に既視感を覚えて、髭切は嫌な予感を覚える。
 あれは、相手の心に安心を与えるために主が見せる──嘘の笑顔だ。

「髭切だって、見たくて見たわけじゃないのにね。気にしなくていいよ、僕の体なんて見てもどうせ」

 そこまで言葉が聞こえた瞬間、どんな言葉をかけるかなどという瑣末事は頭の中から吹き飛んでしまった。
 髭切は反射的に普段肩にかけているジャージを脱ぎ、涙のせいで顔を真っ赤にしている藤の体にかける。
 彼女が何かを言う前に、彼はそのまま力強く抱き寄せていた。先ほどのような事故ではなく、明確な意思を持った接近に藤は目を丸くする。

「ごめんね。それ以上は、聞きたくない」

 謝りながらも確固とした物言いに、服越しでもわかるほど彼女の体はピクリと震える。怒られていると思ってしまったのだろうか。

「あと、もう一つごめんね。急に入って来たりして。それに、倒れ込んだりして」
「…………」

 返事はない。代わりに肩に顔を埋めているような気配はする。
 とはいえ、彼女の頭まで抱え込んでしまったから、今は顔を見ることはできない。
 でも、その方が良かったと髭切は思う。こうでもしてなかったら、彼女の物言いを聞いて我慢ができなくなってしまうところだった。

(こんなにも、君のことを思っているのに。どうして君はいつも)

 よりにもよって一番好きな相手の否定を本人自身からされるのは、我慢ならなかった。
 この怒りは以前感じたものでもある。だが、以前と違ってそれ以外にも髭切は恐れていることがあった。

(……どうかしてる。こんなに思っても、どうしても分かってくれないなら、いっそのこと)

 大人しく堪えるのをやめて、形振り構わず行動をしたら──などと考えてしまうのは、彼女の今の格好のせいだろうか。それとも、己の浅ましさのせいだろうか。
 今まで慣れ親しんだ怒りとは違う、抑えるのも難しいこの激しい思いが今は何より恐ろしい。だからこそ湧き上がる激情をどうにか鎮めたくて、髭切は抱きしめる腕に力を少しこめる。

「……髭切」
「うん」

 応えるように、涙で濡れているらしい声が腕の中から聞こえた。

「……ごめんね。今、わけわかんなくて」
「うん」
「恥ずかしくて、ちょっと申し訳なくて。でも……髭切が怒ってくれたことが、何だか、嬉しくて」
「それなら、怒った甲斐があったかな」

 いつものように、何でも無いような調子の声は出せただろうか。今しがみついている相手が何を考えているか、彼女に伝わっていないだろうか。

「…………もう少しだけ、こうしていたい」
「……いいよ」

 ズズ、と鼻の啜る音がする。顔を隠したいのか、ますます強く頭を押し付けられた。
 宥めるように背中にかけてあげた上着の上から、彼女の背をトントンと叩く。強張っていた彼女の体の緊張が、すこし解けた気がした。

「……ありがとう」
「どういたしまして。こんな程度ならいくらでも」

 くぐもった声での謝礼に返事をしながらも、髭切は自分で選んだはずのこの体勢が、激情を鎮めるどころか駆り立てるような危険なものであると言うことに気がつき始めた。

(……こんなこと、考えてるなんて知られたら、主は僕を怖がるかな)

 彼女は安心しきって顔を埋めてくれているが、今の藤は上半身は胸を覆う下着一枚しか身につけていないと言っていい。その上から上着はかけたものの、伝わる熱はいつもふざけてじゃれ合っているときよりずっと生々しい。
 そうでなくても、少しでも油断すると一瞬目に入った彼女の肢体が脳裏にちらついてしまうのだ。刀の時分なら斬りやすそうな体としか思わなかったであろう、ほっそりとした腕や肩が、滑らかな腰の線や首筋の稜線すらも、今は全く別の意味を持っている。
 それが何故かは、もう気がついている。

(僕は、主が信頼している刀の一つなんだから。主を傷つけるようなことは、しちゃいけないよね)

 頭では分かっている。理性も、何をすべきか分かっている。
 このままそっと体を離し、何でも無いように立ち去る。それが最善だ。
 だというのに、生まれたばかりのもう一つの感情は今すぐにでも彼女の体にかけている上着を剥ぎ取ってみたいと主張してくる。
 普段目にすることのない露わになった素肌を、今一度目にしてみたい。あわよくば、その素肌に自分が触れた痕を残したい。
 以前のような刀で作った傷ではなく、今度はもっと違うやり方で、と。

「髭切。もう、大丈夫だから。ありがとう」
「……うん。それなら、よかった」

 それら全ての獣じみた欲求を心の中で何度も切り刻み、何でもない顔を装って髭切は藤から体を離した。
 幸い彼女は髭切が貸してくれた上着で前をしっかり隠していたので、切り刻んだ不埒な思いに余計な刺激を与えずに済んだ。

「じゃあ、封筒は置いておくから。本当にごめんね」
「う、ん」

 何でもないように会話を続け、髭切はその場から立ち上がる。そのまま何事もなかったかのように去ろうとしたが、

「あの、髭切」
「どうしたんだい」
「これ、変……かな。似合わないかな」

 蚊の鳴くような声でそんなことを問われて、髭切は反射的に振り返って再び理性を総動員させる必要があった。
 自分が普段着ている上着を肩にかけ、未だ涙のせいで少し赤くなった顔で主がこちらを見つめている。しかも立っている髭切に座ったままの彼女が声をかけているのだから、自然に上目遣いになっていた。

「……可愛いと思うよ。でも」
「でも?」
「あまり見てると──食べたくなるかも」

 この程度なら、ぎりぎり許容範囲内だろうという言葉を告げる。
 すると、主は口を微かに開けてまさしくポカンとした、といった顔をして髭切が出て行く様子を見守っていた。
 対する彼は、主の部屋から出るとそそくさと足の赴くままに任せて歩き続ける。廊下をいくつか曲がり、見慣れた部屋の襖を勢いよく開いて、どさりと畳の上に寝転がった。

「あれは……危なかったなあ」

 彼女から伝わるあの熱は、目に焼き付いてしまったあの姿は──危険だ。だからといって、もう見たくないと思っているわけでもない。それがまた厄介だと、髭切はごろりと畳に顔をつけながら思い悩む。
 何度も何度もその場をごろごろと転がっていた髭切は、暫くして襖が再び開く音を耳にした。

「兄者、ただいま戻ったぞ……兄者!?」

 うつ伏せになってごろごろと転がっている兄を心配する膝丸の声を聞き、髭切は弟が帰ってきたことを自覚する。
 そういえば見慣れた部屋ではあるがこの部屋は元々膝丸の部屋だったなと、髭切はぼんやりとした頭で考える。

「どうしたのだ、兄者!? 病か、それとも怪我でもしたのか?!」
「……ああ、ちょうどよかった」

 顔だけを上げた、髭切は自分と同じ色の弟の瞳を見据え、

「お前って、煩悩も切れるんだっけ?」
「たしかに、俺の中に煩悩切りとして使われた経歴が薄らあったような気もするが……一体、誰の煩悩を切るつもりなんだ?」

 首を捻る弟は、要領を得ない兄の言葉の真意を当然知るわけもない。
 再びごろごろを再開した髭切は、なかなか瞼の裏から離れてくれない残像に向けて思わず物憂げな息を吐く。

「……こればかりは、お前に切られても忘れられそうにないかなあ」

 畳に顔を伏せた髭切が、再び身を起こすにはそれから四半刻を要したのだった。
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