本編第一部(完結済み)

 静々、という言葉がまさに相応しいと言える趣で姿を見せた黒髪の人物は、更紗を見て「主」と呼んでいた。そのことから、彼は恐らくは刀剣男士の一人なのだろう、と藤は推測する。だが、自分が出会ったどの刀剣男士よりも、彼は異質だと彼女は感じていた。
 切りそろえられた黒髪は、提灯の灯りを受けているためか、どこか透き通っているようにも見える。目元には朱がさしてあり、髪の毛を結い上げている真っ赤な紐にはカラスの羽のような装飾がついていた。一方、夜のような黒髪とは対照的に、青年の肌はぞっとするほど白い。纏っている浴衣も黒と差し色の紅だけなので、尚更白さが際立ってしまう。
 ただ青年は姿を見せただけなのに、彼の佇まいは見ず知らずの藤でさえ思わず息を呑んでしまうほど、言葉に出来ない近寄りがたさがあった。魂を抜かれたように、藤が彼をじっと見つめていると、視界に再び更紗のメモが差し込まれる。

『からすさん』

 どうやら、あの黒髪の人物が、更紗と一緒にいた知り合いらしい。そのことに気がついた藤は、金縛りが解けたかのようにぎこちなく、こくりと一度頷いた。
 そうこうしている間にも、『からす』と呼ばれているらしい人物が二人の前へやってくる。

「主を見てくれておったのか? 礼を言うぞ、名も知らぬ審神者よ」

 青年の声は、やはり思わず姿勢を正したくなる厳粛さが滲んでいるように藤には聞こえた。
 藤の緊張などよそに、更紗はぶんぶんと首を横に振るとメモを数枚めくる。藤と更紗がたくさんの文字を書き綴った部分を開き、とある一点を『からす』に見えるように指した。

「どうした、主よ。……なになに、『藤』? そうか。この者は藤というのだな」
「あ……はい。初めまして」

 名を呼ばれて、ようやく藤はおずおずと彼に向けて頭を下げる。思わず挨拶の言葉を忘れてしまうほど、彼の空気に呑まれてしまったらしい。

「我の名は小烏丸。主の刀で、今は祭りの供もしておる。ただ、もう一振りおった供とは、はぐれてしまってな。全くどこに行っておるのやら」
(そのもう一人のお供の人、今も二人のことを探してるんじゃないかな)

 どちらがはぐれた側なのかわからない藤としては、掴み所のなさそうなこの人物の言葉に、ただただ頷くしかなかった。

「あの……更紗ちゃん、もしかして足を怪我してるかもしれません。僕が走ってる時にぶつかって……転ばせてしまったので」

 最初に伝えておかねばならなかったことを思い出し、藤は恐る恐ることの経緯について説明する。元を辿ればとてもお礼を言われる立場でなかったと、藤は居心地が悪くなり、少しばかり肩を縮こませた。
 だが、それを聞いた小烏丸は目を細め、藤を安心させるようにゆっくりと首を横に振る。

「それは、そなたのせいではなかろう。主は、元々歩くのが得意ではない。足の力が弱いのでな。ここまで運んでくれたのも、恐らくそなたであろう。礼を言うのはこの父の方というものよ」

 まるで貴人のような空気を纏う青年に頭を下げられて、藤は益々気まずくなって体を小さくさせる。

(この父って言っていたけど……更紗ちゃんのお父さん代わりなのかな)

 彼の空気に呑まれすぎないよう、藤は別事にわざと気を向ける。刀剣男士と審神者のあり方にも色々あるのだろうと、彼女は自分が生み出した疑問をひとまず棚上げした。
 そんな藤の様子に気がつくこともなく、小烏丸は慣れた手つきで更紗をよいしょと抱え上げる。浴衣の袖口から見える彼の腕は驚くほどほっそりとして白いものの、どこにそんな力があるのかと思うほど、しっかりと更紗を抱きかかえていた。抱えられる更紗も、安心しきったように小烏丸に体重を預けている。

「からすさん、来てくれてよかったね」

 更紗にそっと声をかけると、彼女は指を二本立てて見せた。どうやら、ピースサインを送っているつもりらしい。

「うむ。しかし、二人とも。鳥居の側にまで来ているのは感心できぬな。もし外へ出ておったら、流石の父も肝が冷えておったろう」
「鳥居?」

 藤と、あわせて更紗まで首を傾げる。答える代わりに、小烏丸はそのほっそりとした指で通りの先――藤が走ってきた方向とは逆の方角を指差した。
 そこには、点々と吊された提灯の灯りをぼんやりと浴びて、朱塗りの鳥居が聳え立っていた。提灯の灯と夜の闇が混ざり合っているせいか、鳥居はこの世の物ではないような異様な空気を纏っている。

「ここって……神社だっけ」

 問いかける藤の声も、気配に圧されて微かに震えていた。

「鳥居の向こうは神の領域というのが、通説であろう。この祭りは、我ら付喪神と人の子が混じり合い、遊ぶもの。そこに悪しき存在が紛れ込まぬように、人の子が用意した境界よ」
「つまり、このお祭りの会場を、神社の内側に見立てているってこと?」
「その通り。この場を神が住まう社と見立て、鳥居を境として、神聖さを保っているというわけだ。まこと面白きことを、人の子は考えるものよな」

 小烏丸が声を押し殺して笑う様を横目に、藤は鳥居を見つめる。何度も瞬きをして、まるで吸い寄せられるように――食い入るように、見つめていた。

「そなたも、境を越えぬように気をつけるのだぞ。そなたの刀剣男士らの肝を冷やさぬようにな。いや、この場合、冷えるのは茎(なかご)と言うべきか?」

 小烏丸は冗談を交えながらも、更紗を抱いたままその場を立ち去ろうとした。が、更紗は彼の腕をぽんぽんと叩いて彼に対して無言の『まって』を伝える。
 足を止めた彼の肩越しに、更紗は藤に向けて掌をひらひらと振っていた。言葉が話せない彼女なりの、別れの挨拶なのだろう。

「またね、更紗ちゃん」

 同じように掌をひらひらと振り返すと、更紗の瞳にきらりとした星のような輝きが灯ったように見えた。
 立ち去る彼らの背中を見送った後、藤はくるりと振り返る。
 小烏丸が言っていた、境界となる鳥居。ただの柱であるはずなのに、見る者を圧倒させる気配を纏っている。だが、藤にとってそれは厳かな気持ちにさせるもの、だけではなかった。

(……ここが、神聖な場所なら)

 ぞくりと、背筋に嫌な気配が伝う。ノイズが混じった声が、耳の奥で響く。

『あなたは、ここにいては』

 歌仙の元から離れたときとは違う、体の内側から湧き上がる嫌悪感をもよおす何かが、内側から自分を蝕んでいく。急速に冷えていく己の自分の変調に見ないふりをして、藤は鳥居へと足を向ける。
 まるで、誘われるように――ではない。さながら、彼女はこの鳥居の内側という空間から逃げ出すように、足を動かしていた。


 ***


 半刻経ったら、戻ってくる約束だった。だから、歌仙は待つことを選んだ。
 けれども、今まさにその半刻が過ぎようとしている。じりじりと焦りが胸中を蝕むも、態度には出さないようにぐっと堪えて、歌仙は屋台の隅にかけられている時計を睨む。
 針のスピードはいくら睨んだところで変わるわけもないのだが、彼には他にすることが思いつかなかったのだ。

「主さんも髭切さんも……戻ってきませんね」

 五虎退の不安げな声が、焦燥を駆り立てていく。正直に言うと、主はともかくとして刀剣男士の髭切なら、すぐにこの場所を見つけ出すだろうと歌仙は考えていた。
 けれども、予想に反して彼はなかなか姿を見せなかった。折角全員分の綿菓子を買ってきてくれた物吉たちも、これでははしゃぐ気にもなれないようだ。

「……仕方ない。これ以上待っても」
「おーい」

 歌仙が次なる行動について口を開きかけたとき、伸びやかな青年の声が三人の耳に入る。聞き間違えるはずもない。それは、髭切の声だった。
 弾かれたように顔を上げると、人混みをかき分けてあのくすんだ金褐色の頭が見える。

「髭切さん!」

 たまらず五虎退は走り出し、髭切に飛びつく。突然の彼の行動に、驚いたように髭切は足を止めた。
 視線を上に向けると、不安と幾ばくかの期待を込めてこちらを見つめている歌仙や物吉と目が合う。もしかしたら主と合流しているのでは、という意味での期待であるが、髭切にそんなことが分かるはずもない。

「ありゃ、一体どうしたんだい」
「髭切さんが、見つからなくて……どうしたのかと……。それに、あるじさまが……!」

 涙を滲ませている少年の後半の言葉に、髭切は眉を顰める。思わず歌仙の方を見ると、彼は苦虫を噛み潰したような顔をしていた。

「主が、どうしたの」
「主様が歌仙さんとはぐれて、いなくなっちゃったんです。髭切さん、見ていませんか」

 今日はよく人に迷子について問われる日だと思いながら、髭切はゆっくりと首を横に振る。
 胸の内に到来した冷たい痛みは、今はもう感じない。ならば、彼女の感情が激しく揺れるような事態は起きていないのだろう。姿が見えないのは気になるが、一旦は生死に関わるほどの急務ではなさそうだと髭切は考える。

「半刻は……もう、経っちゃったね」

 歌仙に倣って髭切も時計を見つめ、針が指す位置から察するにここで別れてから丁度長針が一周したことを理解する。髭切の言葉を聞き、歌仙は無意識に唇を強く噛んだ。
 無論、彼とて主が自力で戻ってこられない可能性を、予想しなかったわけではない。
 髭切を待たねばならなかったから。ここで待たないと、主がもし戻ってきたとき行き違いになってしまうから。
 積極的に探しに行かなかった理由は、確かにある。ただ、歌仙は内心で己を叱責せずにはいられなかった。
 即ち、主が待ち合わせ場所に戻ってくるという一縷の可能性に、ただ縋っていたかっただけではないのか――と。
 ここを離れてしまったら、何の手がかりもないという状況に突き落とされてしまう。そのことに、自分は気がつきたくなかっただけなのだろう――と。
 一時の楽しさに目を眩ませ、主の護衛という大事な役割を放棄した事実を認めたくないだけではないのか――と。

「……僕の責任だ。祭りに浮かれて、主から目を離してしまった。本当に、申し訳ない」

 湧き上がる思いを全て飲み込んで、歌仙は頭を下げる。突然のことに、五虎退も物吉も、慌てて「そんなことはない」と口々に言う。
 幼い見た目の彼らが遊ぶ代わりに、歌仙が主の面倒を見る役を買ってくれていたのだと、二人の少年は気が付いていた。

「……歌仙」

 頭を下げ続ける歌仙の頭上から、固い声が響く。それは、髭切の声だった。あたかも歌仙を咎めるような気配に、五虎退は思わず髭切の浴衣の裾を掴む。
 顕現したあの日とは、まるで逆の状況だ。けれども、髭切に意趣返しをされたところで今は文句も言えない。
 頭を垂れたまま、続く言葉を歌仙が待っていると、

「そう簡単に頭を下げるものじゃないよ。後から苦しくなっちゃうから」

 いつものように穏やかな声が、歌仙の頭上からかけられる。思わず顔を上げると、髭切は真剣さを帯びた瞳を向けてはいたが、口元にはいつもの微笑を浮かべていた。

「僕も五虎退たちも、君一人に責任を負わせるつもりはないよ。主は、僕ら皆の主なんだから。それに、歌仙が祭りを楽しんだことを悪いとも思わない」

 髭切は屋台を巡る刀剣男士たちの姿を見て、目を細める。

「人の身を得た、僕らと同じ刀剣男士たちがあんなにも楽しそうにしているのに、君だけ楽しんじゃいけないっていう道理はないと思うなあ」
「そうですよ。ボクたちだって、はしゃいで髭切さんとはぐれちゃったわけですし。もしかしたらボクたちの方が、迷子になってたかもしれません」

 ばつが悪そうに、物吉は肩を竦めてみせる。彼らしくない子供っぽい態度は、歌仙の心を軽くするためのものであることは明白だ。

「ま、そういうわけだから。ちょっとくらい、肩の荷を貸して貰えるかな」
「歌仙さんばっかり持って……ずるい、です」
「ずるいって……まったく、きみたちは」

 唇を尖らせる五虎退につられて、歌仙の表情が少しばかり緩まる。長く息を吐き出すと、髭切が言うように肩に入っていた力も抜けていく気がした。

「大丈夫ですよ、歌仙さん。何せ、この物吉貞宗は幸運を運ぶ刀なんですから。幸運は、いつもボクの手の中にあります!」

 勢いよく腰に手をあてて、物吉は高らかに宣言する。何の根拠もない言葉だったとしても、思わず周りに希望を抱かせてしまう魅力を彼は持っている。だからだろう。つられて、歌仙の口元が緩む。

「ほら、歌仙さん。難しそうな顔をしていたら、怒られるのが怖くて主様が逃げちゃいますよ」

 そんな時ではないと分かっていても、物吉は笑顔を見せる。彼の笑顔に引っ張られるように、歌仙も笑う。つい数分前に漂っていた不安げな空気は、まるで嘘のように吹き飛んでいた。
 気を取り直して、改めて彼らが各々の意見を述べようと口を開きかける。

「おーい。そっちも何かあったのかい」

 その折、歌仙たちには聞き馴染みのない青年の声と、声の主である者が、割って入ってきた。だが髭切だけは、声の主が誰であるかを知っていた。

「ええと、鶴丸。君は主を探しに行ったんじゃないの?」

 約束通り、待ち合わせ場所まで案内してくれた鶴丸は、迷子になった主と、そのお供の刀剣男士を探しに行くと言って髭切と別れたのだ。

「ああ。さっき連れの方と連絡が取れたからな。あのじいさん、どうやら端末の電源をうっかり消してしまって、付け直す方法が分からないもんだから連絡が取れなくなってただけだとよ」

 鶴丸は言いつつ、自分の片手に握った小さな機械を見せる。板状のそれは、髭切も見たことがある通信端末というものだった。

「髭切。彼は?」
「紹介するよ、歌仙。彼は鶴丸国永。僕が五虎退たちとはぐれた後、ここまで道案内してくれた刀剣男士だよ」
「よろしくな、御三方」

 軽く手を上げて挨拶する鶴丸。つられて三人は会釈をするが、今はそれどころではないと思い返す。

「鶴丸国永、と言ったね。君は髭切と会う前に僕らの主を見かけなかったかな? 僕より頭一つ分は小さくて、ここにいる物吉と同じくらいの背丈の女性でね。髪の毛は夕焼けのような朱色、青い花模様の浴衣を着ているはずなんだ」
「……残念ながら、俺は見てないな」

 芳しくない返事に、歌仙は残念そうに肩を落とす。

「俺も気をつけて探しておこう。名前は何というんだ」
「あるじさまのお名前は、藤って、いいます」

 五虎退の言葉を聞き、鶴丸は細い眉を顰める。彼の表情の変化に目聡く気がついた五虎退は、「何か知っているんですか!?」と声をあげた。

「人違いかもしれないし、何なら聞き間違いかもしれないが……。俺の主は、連れとも少しの間はぐれていたらしいんだ。連れが言うには、はぐれているときに、別の審神者と知り合いになっていたという話なんだが、そのとき一緒にいた審神者の名前が――藤、という名らしい」

 鶴丸の言葉を聞き、四人の目が大きく見開かれる。真っ先に動いたのは、やはり歌仙だった。

「どこにいたんだ!?」
「おわッ!?」

 突然食ってかからんばかりに距離を詰められて、肝を冷やしたらしい鶴丸の目が丸くなる。

「俺が聞いた話によると、この通りをまっすぐ東に向けて行ったところだ。鳥居の近くのベンチで休んでいたと」
「――鳥居」

 どうにか平静を取り戻して鶴丸が発した言葉に、髭切と歌仙は思わず顔を見合わせた。
 その単語は、今日ここに来てすぐ見かけたものではなかったか。曰く、悪いものが入ってくるかもしれないからと、祭りの場を守るために張られた境の目印。裏を返せば、そこを抜ければ何があるか分からないと言ってもいい。
 そして主は恐らく――このことを、知らない。

「ありがとう、鶴丸国永。行こう!!」

 先陣を切る歌仙に、五虎退と物吉がすかさず後を追う。髭切だけが申し訳程度に鶴丸に会釈をしたものの、すぐさま顔を前に向けて走っていった。
 残された鶴丸は、嵐のように通り過ぎた四人を見送っていたが、

「……待てよ。君たち、鳥居の先に行く気じゃないだろうな!! あそこは刀剣男士だって、ほいほいと通り抜けて良い場所じゃないんだぞ!?」

 慌てて声をあげるも、四人の姿は既に小さくなりつつある。彼らに声が届いていなさそうだと気がついた鶴丸は、はぁと大きくため息をついた。

「あんなに心配されてるなんて、あの本丸の審神者は愛されてるねえ。全く、こっちの言うことなんてまるで聞いちゃいない!!」

 薄い唇に笑みを浮かべながらも、鶴丸も歌仙たちの後を追いかけ始めた。


 ***


 小烏丸という刀剣男士がいなくなってからすぐ、藤は彼が指し示した鳥居の前に立っていた。

「……大きい」

 天を衝かんばかりにそびえ立つ朱塗りの柱を前にして、藤の口から漏れた感想は、そんな短いものだった。
 大きな神社の入り口にあるような、立派な代物であり、この先に本殿まで続く石畳が延々と並べられていても、違和感は無かっただろう。
 だが、鳥居の向こうには、藤が予想していたような境内はない。木で作られた四角い入り口の向こうには、アスファルトの舗装がされた道が街灯に照らされて広がっている。

「万屋の外って、意外と都会だったりするのかな」

 そういえば、万屋がどこにあるかも知らなかった、と藤は思い返す。ならば、万屋から外側の世界に行くことも可能なのだろうかと考えた矢先に、眼前に広がっていた道がぼんやりと滲む。まるで風で水面が揺れたかのように、景色が変わる。

「え……?」

 再び表面のさざ波が収まったときには、先ほどとは異なる風景が続いていた。さながら人知れず森の中に佇む社のように、鳥居の先には林道が続いている。木々の手入れはされているようだが、点々と立っている街灯は寧ろ寂しさを強調するばかりだ。
 だが、この光景もどこか非現実的であり、まるで写真から切り取って鳥居にはめ込んだような、継ぎ接ぎな印象を藤は受けた。

「色んな所の鳥居が、ここに繋がっている……?」

 受けたままの印象を口にしてみるも、藤はこの手の摩訶不思議な存在に対して全く詳しくない。どういう原理で眼前のような景色が見えるのかは、さっぱり分からなかった。

「外が鳥居からのぞき込めるものなら、やっぱりここは鳥居の内側で」

 そこまで考えた瞬間、彼女の背筋に冷たいものが這う。小烏丸と別れて、訳もなくここに向かって駆けだしたときと同じ感覚だ。

「鳥居の内側は、神様が住まう社があって」

 まるで誰かが口を勝手に動かしているかのように、藤の唇は震える声で言葉を紡ぐ。

「汚してはいけないところで、いつも綺麗にしてなくちゃいけなくて、だから僕は入っちゃいけなくて、入ったら神様が嫌な思いをするから、汚い手で触ったと怒られてしまうから、怒られたら天罰が下るから、天罰が下ると苦しくなってしまうから、だからだからだから」

 動悸がどんどん速くなっていく。蒸し暑いはずなのに冷たい汗が流れ落ちていく。なのに、声は止まらない。

「――だから」

 そこまで口にして、藤は漸く我に返ったように口を閉じる。まるで、小さい頃にずっと聞かされていた言葉が、知らない間に口をついて出たような不気味さを、今更ながら覚える。
 訳も分からず、ただ纏わり付く嫌な気配を振りほどこうと首をぶんぶんと横に振ったとき、

『あなたは、ここに入っちゃダメよ。だってあなたは』
「――――っ!!」

 まるで、耳元で囁かれたように。はっきりと、声が頭の奥まで響く。
 その声は、幼子を注意するような、優しいものに聞こえたにも拘わらず、藤は思わず呼吸を止めてしまった。提げていた巾着が冷や汗のせいだろうか、するりと彼女の腕から滑り落ちる。
 咄嗟に振り向いたところで、当然後ろに誰かがいる気配もない。しかし、早鐘のような鼓動は、湧き上がってきたえも言われぬ不安は、明らかに藤を蝕んでいた。

「僕は──ここに、いてはいけない」

 言葉を口にした瞬間、遠くに浮かぶ祭りの景色が、自分には酷く不釣り合いなものに見えた。ここに立つ自分が、場違いで恥知らずな存在に思えてしまった。
 さながらこの場から逃げ出すように、彼女の足が鳥居の向こう側へと進みかける。しかし、小烏丸と名乗った、あの不思議な空気を纏った刀剣男士の言葉が、不意に彼女の中に蘇る。

『そなたも、境を越えぬように気をつけるのだぞ。そなたの刀剣男士らの肝を冷やさぬようにな』

 同時に、脳裏にはここ数ヶ月で会った四人の刀剣男士の顔が思い浮かぶ。
 彼らを心配させてはいけない。
 ──何故なら、自分は審神者だから。
 自分は、彼らの前で笑っていなければならない。
 ──何故なら、彼らはそれだけ自分の笑顔を望んでいるから。
 彼らを、笑わせる存在でなくてはいけない。
 ──何故なら、彼らの向けてくれた親切に応えないといけないから。
 そんな思いが藤の中で芽生え、鳥居の向こうへと行きかけた足が止まる。
 だが、

「……人?」

 ふと、鳥居の向こうの森の中にほっそりとした人影が映る。動物とは違う、明らかに人と思われるそれは、月明かりの下ではっきりとその姿を藤に見せた。
 それは、薄汚れた衣服を纏った女性だ。藤と同じ朱色の髪をしているが、彼女に対して丁度背を向けているために、その顔は見えない。
 だが、藤の中には、予感めいたものがあった。

「あなたは……」

 藤の言葉に応えるように、人影はゆっくりとこちらを振り向き――彼女は、思わず息をするのも忘れて、その姿に目を瞠らせた。

「――お母さん」

 口にした言葉は、自分でも予想できずに零れ落ちたものだった。けれども、一度自覚してしまえば、もう無視することはできない。
 彼女が母と呼んだ人影は、くるりと踵を返して夜闇へと姿を消してしまった。

「待って!!」

 たまらず、彼女は声をあげて止めていた足を動かす。
 一歩、続いて二歩、更に三歩。気がつけば藤は、境界を越えていた。
 境を潜り抜けた瞬間、林の中に点々と街灯が映っていた景色は、ぐにゃりと歪む。まるで水面に飛び込んだかの如く、ひんやりとした膜を押しのけるような感触の後、藤の目の前に広がっていたのは、漆黒と言ってもいいほどの闇だった。
 月明かりが、辛うじて木々の葉を照らし出す程度の闇。夜すら照らす灯りに慣れてしまった人々にとって、思わず踏み出すのを躊躇してしまう、墨を流し込んだような夜本来の世界があった。
 けれども、そんなことは些事であると言わんばかりに、彼女は走る。
 目にしていたものが、ただの祭りが見せた泡沫の幻であっても構わない。彼女の足を動かしていたのは、瞳に焼き付いてしまった母の姿。そして、彼女が駆り立てる郷愁の思いと、あそこにいてはいけないという最早脅迫染みた居心地の悪さだった。
 だから、今走っている場所がどれだけ暗い山道でも、知らない場所であったとしても、藤は躊躇わなかった。

(なんだか、久しぶりだ)

 寧ろ、山は彼女の望郷の思いを強くする。幼い頃、こうやって故郷の山の中を駆け回った思い出も、鮮やかに蘇る。同い年ぐらいの子供は村にいなかったら、山で遊ぶときはいつも一人だった。
 だから、寂しいとは思わない。怖いとも、思わない。
 歩きにくい下駄は脱いで片手に持ち直し、裸足のまま今にも消えそうな人影を追う。ひんやりとした土と草の感触が、この瞬間に限っては心地よくすらある。
 そうはいっても、彼女が野山を駆けまわったのも昔の話だ。まして、浴衣姿は決して山道の散策に向いているとは言えない。息は徐々に乱れ、いつしか視界も歪み、ちゃんと人影を追えているかも怪しくなっていく。
 やがて、足下すらも覚束なくなっていき、

「ひゃっ」

 彼女の足が何かに引っかかって、思わず小さな悲鳴をあげる。恐らくは張り出した木の根か何かに躓いたのだろう。突然の浮遊感と急速に近づく地面に、咄嗟に目を瞑ったとき、

「おっと。大丈夫かい」

 耳にしたことのない男性の声と共に、腕がぐいと掴まれる。そのおかげだろう。予想していたような衝撃はなかった。
 恐る恐る瞳を開けてみるも、雲が月を隠しているせいか、自分を支えてくれた人物の顔はよく見えなかった。

「あ、ありがとう」

 お礼を言ってから、いつまでも他人の手を借りているわけにもいかない、と姿勢を立て直そうとする。だが、藤は立ち上がりかけるも、すぐにその場にしゃがみこんでしまった。

「痛――っ」
 
 足に力を入れた瞬間、足首を激しい痛みが走ったのだ。顔を歪めてそこをさすると、腫れてはいないがじんじんとした嫌な熱の持ち方をしている。どうやら、挫いてしまったらしい。
 顔を上げて辺りを見渡すも、追いかけていたはずの人影は見えなかった。今から再び姿を探すのは、難しいと言えるだろう。

「――あれを追うか追わないかは、もう少しゆっくり考えてからにした方がいいと思うぞ」

 まるで藤の思いを見透かしたかように、藤を助けてくれた誰かの声が上から降ってくる。折良く、月が雲から顔を出して、その人物に惜しみなく光を降り注いでいた。照らし出された彼の姿を見て、藤は思わず息を呑む。
 そこにいたのは、声から予想していた通り一人の青年だった。真っ白の髪に、月をそのままはめ込んだかのような金の瞳。万年雪を集めて人としたら、こうなるのではないかと思うほど、髪だけでなく纏っている着流しも、肌も、彼は余すところなく白で構成されていた。

「……君は、誰」

 震える声で、藤が尋ねる。

「俺か? 俺の名前は――そうだな。今は、鶴丸と名乗っておこうか」

 まるで祭りの会場からそのまま持ってきたような真っ赤な提灯を軽く振って、鶴丸と名乗った男はおどけたように笑う。

「更紗っていう名前の子供に、世話になったことがある者だ」

 薄い唇をニッと釣り上げて、彼は人なつっこそうな笑顔を藤に向けた。
24/50ページ
スキ