短編置き場
「何を書いてるの?」
ある晴れた日の夏の午後。
蝉の声を窓の向こうに締め出してエアコンを効かせた本丸の一室で、一人の子供がスケッチブックいっぱいに何かを描いていた。
子供の名は更紗。尋ねているのはこの本丸の主こと藤である。
更紗も藤も審神者であり、今日は藤本丸の畑で沢山採れた西瓜を、演練帰りに更紗に貰いにきてもらったのである。
来たついでに同行者の鶴丸国永が世間話に花を咲かせてしまい、彼を待つのに飽きてしまった更紗は、別室でお絵かきに勤しんでいた。そこに通りがかった藤が声をかけたのだ。
藤に問われて、更紗は無言でスケッチブックを机に立てて置く。
「これは、みんなの顔?」
無言で頷く更紗。
彼女は極端に無口なのではなく、どうやら何かの理由があって喋れないらしい。そのことは藤も知っていたので、彼女の返事がないことは気にしていなかった。
「よく描けてるね。更紗ちゃんは本当に皆が好きなんだね」
ぶんぶんと、首を縦に振る更紗。
彼女が描いていたのは、彼女の本丸の刀剣男士たちだ。子供らしい癖の強いタッチではあるものの、特徴が掴まれているので誰が誰か分からないということはない。
机を挟んで更紗の前にしゃがんだ藤は、彼女の暇つぶしに付き合うことにした。
「更紗ちゃんは、皆のどんなところが好きなの?」
『やさしい』
スケッチブックを一枚めくって、更紗は鉛筆でガリガリと返事を書く。
「……うん。なるほどね。他には?」
『いっぱい みんな いろいろ』
どうやら、それぞれに好きなところがあるから、誰のことを書けばいいのかわからない、と言いたいらしい。
「じゃあ、今日一緒に来た鶴丸さんの好きなところは?」
『きれい まっしろ』
たしかに、彼の雪のような白髪や白の装いは、見る者が息を呑むような美しさを持っている。要するに綺麗と表せるものだろうと藤も頷く。
『たいようみたい あかるい げんき やさしい なでなで』
「彼は朗らかで、元気が爆発してるような人だものね。最後のは、頭を撫でてくれるってこと?」
分かってもらえて嬉しいのか、激しくぶんぶんと首を縦に振る更紗。
『だっこも』
「そうなんだ。鶴丸さんは更紗ちゃんを、沢山可愛がってるんだね」
もう一度、激しく頷く更紗。
続いて、彼女はスケッチブックをもう一枚めくり、ビリビリと破くと藤に差し出した。ご丁寧に鉛筆まで添えてある。
「どうしたの?」
『ふじも すきなとこ かいて』
「僕が? 誰のを書けばいいかな」
突然問われても、藤は更紗ほど純粋に言葉の数々を生み出せない。
誰にしようかと鉛筆を持って躊躇っていると、更紗が机の向かい側から藤に渡した用紙に『ひげきりの すきなところ』と書いた。
「彼!? ま、まあ、うん……いいけど」
せめて歌仙や五虎退、あるいは堀川や和泉守などの方が良かったのにと、藤は内心で小さく悲鳴をあげる。
諸々のやり取りを経て、彼との距離は些か近すぎるような、少し面はゆい関係になってしまったのだ。決して悪い意味ではないのだが、近すぎる距離というのもまた考え物というものである。
普段は双方共に意識しすぎない態度をとれているものの、ふとした弾みで何が起きるかと思うと、恐ろしいような嬉しいような、複雑に混ざり合った感情に振り回されてしまう。
『すきなところ ない?』
「それは……あるよ」
改めて文字にするのは、恥ずかしいと思う。だが、無いのかと問われると、それはそれで違うという思いもある。
「例えば――髪の毛がふわふわしているとこ」
触ると気持ちよくて、雨の朝はいつも寝癖がすごいことになっている、と藤は続ける。
言葉にしながらも、彼女は鉛筆をさらさらと動かしていく。
「頭を撫でてくれる手が大きくて、でもしっかりしていて、頼もしくて」
自分より一回り背が高いのだから、その分だけ手も大きい。彼の手に撫でられると、いつも以上に背筋がくすぐったくなる。
しかし、同時に刀を握る彼の手は、一人の戦う者だということが分かる。それでも自分の手を掴んでくれた彼の手は、どこか温かかった。
「それに、とても綺麗で」
出会ってすぐにも思ったことだ。あの時は危うく殺されるところだったが、それでも光る刀身を見た感想は「美しい」の一言だった。
無論、人の姿の見目も思わず目を留めるものがある。つり目がかったアーモンド型の瞳は、光の加減によっては金にも見えるということを、藤は知っている。
「姿勢も良くて」
どの刀剣男士にも言えるが、彼らの佇まいは綺麗だ。見ているこちらが背筋を伸ばしたくなるような空気を、彼らはふとした折に見せてくれる。
「みんなにも優しくて、お兄さんみたいで」
弟の膝丸はもちろんのこと、本丸に長くいる彼は他の者の様子も気にかけてくれている。
「ちょっと天然なところもあって」
人の世に慣れていないからだとしても、思いがけずとんでもないことをしてくれるから、驚かされることもしばしばだ。
「声も好きで」
「主」と呼びかける声が、優しいときもあるし、厳しいときもある。今はどちらが多いのだろうか、と藤はふと考えた。できるなら、彼を失望させるような真似はもうしたくない。
「強くて、でも真面目なところもあって」
刀剣男士としての強さはもちろん備えているものの、手合せを怠る日はほぼない。
普段は暢気そうに見えていても、戦いに赴く姿勢は弟に負けず劣らず真摯なものだと、彼女は知っている。
「些細なことにも、気がついてくれて」
自分でも気がつかないような変化を見つけて、言葉にしてくれる。おかげで、彼にはとても助けられた。
見ないふりをしていた己の願いを掬い上げ、見つめ直す手伝いをしてくれたのは、他ならぬ彼なのだから。
「私のことを、ずっと気にしていてくれて」
色々と、迷惑はかけたという自覚はある。それでも、彼は隣にいることを選んでくれた。更に言えば、こんな自分に好意を抱いてくれているのだという。それが今は、何よりもありがたく尊いものだと思える。
「そんな所が、好きだと思う」
気がついたら、スケッチブックには彼の好きなところが文字として沢山散りばめられていた。
更紗はなんだか嬉しそうな気配を瞳に映して、じーっとこちらを見つめている。
「こ、この話はここまでにしようよ。それに、髭切だけじゃなくて他の皆だって僕は」
「僕がどうかしたの?」
「うわぁっ!?」
突然後ろから噂の本人が現れて、藤は声を裏返してその場でひっくり返りそうになる。
振り向けば、髭切だけではなく鶴丸も姿を見せていた。どうやら、ようやく世間話は終わったらしい。
「お、何を書いてたんだ? どれどれ……」
鶴丸は更紗の後ろに回り込み、彼女がスケッチブックに書いた『鶴丸国永の好きなところ』を読み上げていく。
「綺麗、真っ白、太陽みたい……もしかして、これは俺のことかい?」
鶴丸が更紗に尋ねると、彼女はこくこくと頷く。
「こりゃ嬉しい驚きだ。主は俺のことをこんな風に思ってたんだな!!」
鶴丸は嬉しい感情を爆発させるかのように、更紗を抱え上げる。高い高いをしてもらって彼女も嬉しいのか、更紗は手をパチパチと叩いていた。
「へえ、良かったねえ。主も何か書いてたの?」
「え、あ、ちょっと」
藤の前にあった用紙を、髭切は屈んでひょいと手に取る。
不意打ちだったため、藤の思いが赤裸々に綴られた紙は、あっという間に髭切の手に収まってしまった。
「ひげきりさんの、すきなとこ……僕?」
更紗が用紙の隅に走り書きで綴った言葉が、他ならぬ彼のことを書いてしまったという事実を、隠しようもないくらいはっきりと示してしまっていた。
「『髪の毛がふわふわしてるところ』」
「読み上げないで!」
ようやくショックから立ち直った藤が立ち上がったものの、ここに何が記されているかわかってしまった髭切は、腕を伸ばして藤の手が紙に届かないようにしてしまった。
「主、僕の髪の毛まで好きなんだね。『手が大きいところ』。へえ、そうなんだ。知らなかったなあ」
「かーえーしーてー!」
珍しくムキになってぴょんぴょんしている藤と、気にすることなく紙に書かれた内容を音読していく髭切。
その様子を横目で見ていた鶴丸は、
「さて、俺たちはお邪魔なようだから、ここで失礼しよう」
藤の様子を横目で見守りながら、帰り支度を始めていた。
背丈が髭切と同じくらいの鶴丸なら、髭切の手から紙を奪い取ることも容易いはずなのに、彼は手伝う素振りすら見せていない。
「藤殿の幸運を祈るとしようかな。ああ、見送りは不要さ。面白いものを見せてもらったからな」
「ちょっと!」
にやにや笑いを隠すこともせずに、鶴丸は更紗を抱えたまま退散していく。
何を思ったか、更紗は握り拳を振り上げていた。どうやら頑張ってのポーズらしい。
「卑怯者ー!」
「あ、綺麗って書いてある。主は僕のどの辺りが綺麗だと思ってるのかなあ」
「髭切は読み上げるのやめて!」
思い切り背伸びをしてみるも、肝心の髭切との身長差は頭一つ分あるし、彼がさらに腕を伸ばせばどれだけ頑張っても藤の手が届くことはない。
それでも何とかして紙を取り戻そうと、藤は精一杯の努力を試みる。
「『ちょっと天然』。うーん、そんなに言われるほど天然かなあ。膝丸もよく言うんだよね」
だが努力むなしく、髭切の音読は進んでいく。むしろ、彼は紙を取り返そうと藤がぴょんぴょんしている様を見て、
(なんだか可愛いことしてるなあ)
と思っているなどとは、当の本人が知る由も無い。
藤が返却を求めて跳ねている間も彼の読み上げは続き、
「『私のことをずっと気にしてくれていたこと』。何だか改めて見ると、嬉しいなあ」
「恥ずかしい……」
結局全てを読み上げられ、羞恥のあまり藤は机に顔を埋めて崩れ落ちていた。
「読み終わったなら返してよ……」
「これ、部屋に飾っちゃダメ?」
「だめ!! 捨てる!!」
「じゃあ、返せないな」
ガバリと起きて、屈んでいた彼から紙を奪い取ろうとしたものの、ひらりと身を翻されて躱されてしまう。
べしゃりと畳の上に潰れてしまった藤は、恨みがましそうな目で髭切をにらんだ後、何も言わずに立ち上がって部屋から出て行ってしまった。
(いじめすぎたかなあ)
反省はしてみるものの、紙に記された主の文字を見ると髭切の気分はつい高揚してしまう。
あの主は照れ屋なのか、それとも意識をされていないのか、あまり表だって好意を口にしない。だからこそ、文字だけでも髭切にとっては、思いがけない宝を見つけたような気持ちになるのだ。
思わず慣れない鼻歌まで歌いそうになっていると、今度はどすどすという荒々しい足音――恐らく主の足音が響いてきた。その後ろを沿うように歩く足音は、髭切にとっても聞き馴染みのあるものである。
「兄者、主がずいぶんな剣幕で『君の兄をなんとかして!』と言ってきたのだが、どうしたのだ」
はたして、姿を見せたのは予想通り弟の膝丸だ。彼の後ろではまるで全身の毛を逆立てて威嚇する猫のように、ふーっと唸っている藤がいる。
「主が僕の好きなところを、たくさん書いてくれたんだよ」
「おお。主が直々に兄者の素晴らしさを文字にしたのか。それで、主は何を怒っているんだ?」
「この天然兄弟がー!」
怒りと恥ずかしさで顔を真っ赤にしている藤をよそに、髭切は見て見てと弟を誘い出す始末である。
藤としては公開処刑も同然だったが、立ち上がっている髭切と覗き込む膝丸の間に割って入って紙を取り上げるのは、先ほどよりも尚難しかった。
「膝丸、それを髭切から取り返して。恥ずかしいから捨てたいのに、返してくれないの」
「どうしてだ? むしろ俺もできることなら主から称賛の言葉を貰いたいくらいだが」
「それぐらいなら、今でも言うよっ。膝丸は、刀身も綺麗で反りも見事だと思うし、髪の毛もすっごく素敵な緑だなって思うし、礼儀正しくて、それでいて雄々しい人だなって思ってる! だから、今は髭切からその紙を取り上げて欲しいんだってば!!」
変にヘソを曲げられても困るからと、藤は膝丸に思っていることを言葉にしてみたが、膝丸は不意打ちに浴びせられた自分の賞賛しか耳に入っていなかったようだった。
膝丸の歓喜に満ちた表情を見て、藤が肩を落としていると、
「ねえ」
がしりと、膝丸の腕が髭切に掴まれる。
「兄者?」
「主から直々に褒めてもらえて、良かったねえ」
言葉では祝福しているのに、膝丸の腕に髭切の指がギリギリと食い込んでいた。
「兄者、何を怒っているんだ!?」
「別に。でも僕は文字にしてもらったからね。これなら、いつまでも残っているものね」
髭切は紙をくるくると丸めて、大事そうに抱える。当然ながら、主に返そうという様子はこれっぽっちもない。
「髭切、返してってば!」
藤がまた飛びつこうとすると、今度は頭を片手で軽く抑えられてしまった。
やんわりとした手つきではあるものの、どうしてだか近寄らせまいという強い意思が感じられる。そのせいもあって、藤は顔に困惑を滲ませて立ち尽くしてしまった。
「返してほしかったら、僕の部屋まで取りにおいで」
にこにこ笑いながら、部屋を出て行く髭切。
だが付き合いの長い主と弟である膝丸は、顔とは裏腹に彼が不機嫌になっているらしいことに気がついていた。
「膝丸。僕、髭切に何か悪いことをしちゃったかな」
「……多分、兄者も主から言葉を欲しかったのではないか」
髭切が掴んでいた自分の腕に手を添えて、膝丸は自分自身の考えを整理するように、ゆっくりと言葉を形にする。
「言葉が欲しい? あんなに文字で書いて嬉しそうに読んでいたのに」
「たしかに我ら兄弟は、文字によりその逸話を記された身だ。主が記した文字に嘘はないだろうし、兄者もそれはそれで嬉しかったのだろう。だが、言葉と文字はまた別だ。俺たちはこうして人の形を得たことで、刀として生きてきた俺たちが受けた評価や賞賛、或いは逸話を文字という形で受け取ることができた」
神妙な顔つきで、藤は膝丸の言葉を聞く。更紗が残していった鉛筆を手にとり、膝丸は少しばかり目を伏せてから、
「だが、俺たちは人の耳で、嘗ての主が俺たちを賞賛する言葉を聞くことはできなかった。それは、今この瞬間でしか体験できないもので、今の主にしかできないことだ。……こう言ってはなんだが」
咳払いを一つして、膝丸は続ける。
「俺ばかり先に言葉を賜ってしまったからな。兄者も、主から直々に言葉を賜りたかったのではないかと思う」
そんな子供じゃあるまいし、と言いかけて藤は口をつぐむ。
自分の価値観が、相手と同じものであるとは限らない。誰よりも、藤自身が知っていることだ。
「ありがとう、膝丸。ちょっと様子を見てくるよ」
頭を下げて、彼女は髭切の部屋へと足早に向かった。
髭切個人の部屋は、実は最近はあまり使われていない。
普段は、膝丸の部屋に顔を出しているからだ。細々とした私物だって多くはそちらに移している。
それでも、髭切にとってこの部屋は特別だ。顕現してからここで過ごしていた時間は、決して少なくない。顕現した初めての朝を過ごしたのもここだ。だから、大事なものは、この部屋に持って行くことにしていた。
そして今、彼は文机の上にスケッチブックを切り離した紙を広げ直していた。少々癖のある主の筆跡で書かれている内容は、主から見た髭切の好きなところ――らしい。
(でも主は知られるのが嫌そうだったなあ。あんなに必死になるなんて)
文字をそっと指でなぞる。
古めかしい書物に仰々しく綴られたどんな逸話よりも、今はこの自分しか持ちえない『主から見た髭切という物語』が、何よりも愛おしく思えた。
ただ、当の本人の口からは聞けずじまいだ。むしろ、膝丸の方が先に言葉にしてもらったほどである。
そこまで考えて、髭切はため息を小さく吐く。
(嫉妬は良くないよ。あやかしになるから)
自分を戒めるように、口癖でもある言葉を己に投げかける。
ここに綴られた言葉だけでも十分すぎるほど嬉しいはずなのだから――と、再度文字を指でなぞった時。
「髭切、入っていい?」
思っていたより早く、主の声が部屋の外からした。あの慌てっぷりなら、もうすこし時間がかかるかと思ったが。
そんなことを考えつつ「いいよ」と返事をすると、妙に真剣そうな面持ちの藤が部屋に入ってきた。
「取り返しに来たの?」
「それもできればしたいけど……そうじゃなくて、文字じゃなくても、その、ちゃんと言った方がいいかと思って」
目をぱちくりとさせている間に、藤はずんずんと部屋の中に入り、髭切の前に座る。
「その、髭切のいいところを、僕から見て君の好きなところを、きちんと言葉で聞きたいかなって、思ったの」
あまり表だってこのような話をしない彼女にしては珍しく、彼女は背筋を伸ばして、正面から髭切に相対して慣れない話題を口にしていた。
「え?」
流石の髭切も面食らって何度か目を瞬かせるが、藤はお構いなしに言葉を続ける。
「僕は……その、髭切の刀身は綺麗だって見た時から思ってるし。反りだって、すらってしてて、美しいなって初めて会ったときから思ってる。髪の毛だってふわふわしてて、触るのが好きで。でも寝癖で爆発してるのを見るのもなんだか楽しくて。手だって、いつも撫でてくれるのが好きで、僕が危ないときは握ってくれて、頼もしくて」
紙に書かれた文字の補足をするように、似た内容を言葉にしてはいるものの、言いながら彼女の目線はどんどん下に向いてしまっている。
嫌々なのだろうかと一瞬不安がよぎるが、癖の多い髪の間から覗く耳が真っ赤になっているのを見つけて、髭切は思わず口元を緩める。どうやら、照れているだけのようだ。
「ちょっとうっかりしているところもあって、でも時々驚くぐらい真面目な所も見せることもあって。本丸でも、皆のこと考えてくれて、僕のことも――ずっと気にかけてくれてて。いっぱい大事にしてくれて。君のそういうところが、僕は好きだと、思う」
言いながら、彼女はうずくまるのではないかと思うほど、体を縮こませてしまった。
たまらず、髭切は声を上げて笑い出してしまう。
「ちょっと、人が頑張って伝えてるのに!」
「ごめんごめん。ちゃんと聞いてるよ」
顔を上げて、今度は怒りで顔を赤くしている藤の頭を撫でる。彼女が先ほど好きだと言った手つきのはずだ。
途端に、彼女は先ほどの剣幕は何処へやら、肩を縮ませてくすぐったそうに目を瞑ってしまった。
「ありがとう。嬉しいよ――狭野方の花」
「どう、いたしまして」
藤にとって特別な呼び名を口にすると、彼女は蚊の鳴くような声で返事をした後、じっと黙って撫でられていた。
やがて、頭から手が離れるとようやく顔を上げて、
「あの、いっぱい言ったわけだから、あの紙は返してくれる?」
「ん、だめ」
「えっ!?」
「だって、これはこれで大事にしたいからね。僕の名前が書いてあるから、僕のものってことでいいんだよね?」
「良くない!」
すかさず藤は文机の上の紙に手を伸ばすも、髭切の動きの方が一枚上手だった。
彼は紙を指でつまんで、くるくると丸めてまた抱えてしまった。こうなると、もう手を出すことはできない。
「ほらほら。せっかくお裾分けするくらい西瓜が取れたんだから、食べに行こう?」
「その前に、それを返してってば」
「歌仙にも自慢しようかなと思ってるんだ。彼はどこにいるのかな」
「人の話を聞いてよ」
藤の抗議を無視して、髭切は微笑を浮かべながら厨へと足を向ける。
歩きながらも、彼は自分が抱えている主からのメッセージが記された紙をちらっと見る。そこに綴られた文字の一つ一つに、今なら主の声や思いも宿っているように思えた。
(これは、僕だけの物語だ)
源氏の重宝としての物語にも勝るとも劣らぬ、この時代のこの自分のためだけに綴られた思い。思いがけなく得られた宝は、後ろで唇を尖らせている主が贈ってくれたものだ。
隠しきれない歓喜を漂う空気に滲ませながら、彼はゆっくりと歩いて行く。
隣に追いついた藤と話しながら歩を進める彼の後ろを、季節外れの桜の花びらが一片舞っていった。
ある晴れた日の夏の午後。
蝉の声を窓の向こうに締め出してエアコンを効かせた本丸の一室で、一人の子供がスケッチブックいっぱいに何かを描いていた。
子供の名は更紗。尋ねているのはこの本丸の主こと藤である。
更紗も藤も審神者であり、今日は藤本丸の畑で沢山採れた西瓜を、演練帰りに更紗に貰いにきてもらったのである。
来たついでに同行者の鶴丸国永が世間話に花を咲かせてしまい、彼を待つのに飽きてしまった更紗は、別室でお絵かきに勤しんでいた。そこに通りがかった藤が声をかけたのだ。
藤に問われて、更紗は無言でスケッチブックを机に立てて置く。
「これは、みんなの顔?」
無言で頷く更紗。
彼女は極端に無口なのではなく、どうやら何かの理由があって喋れないらしい。そのことは藤も知っていたので、彼女の返事がないことは気にしていなかった。
「よく描けてるね。更紗ちゃんは本当に皆が好きなんだね」
ぶんぶんと、首を縦に振る更紗。
彼女が描いていたのは、彼女の本丸の刀剣男士たちだ。子供らしい癖の強いタッチではあるものの、特徴が掴まれているので誰が誰か分からないということはない。
机を挟んで更紗の前にしゃがんだ藤は、彼女の暇つぶしに付き合うことにした。
「更紗ちゃんは、皆のどんなところが好きなの?」
『やさしい』
スケッチブックを一枚めくって、更紗は鉛筆でガリガリと返事を書く。
「……うん。なるほどね。他には?」
『いっぱい みんな いろいろ』
どうやら、それぞれに好きなところがあるから、誰のことを書けばいいのかわからない、と言いたいらしい。
「じゃあ、今日一緒に来た鶴丸さんの好きなところは?」
『きれい まっしろ』
たしかに、彼の雪のような白髪や白の装いは、見る者が息を呑むような美しさを持っている。要するに綺麗と表せるものだろうと藤も頷く。
『たいようみたい あかるい げんき やさしい なでなで』
「彼は朗らかで、元気が爆発してるような人だものね。最後のは、頭を撫でてくれるってこと?」
分かってもらえて嬉しいのか、激しくぶんぶんと首を縦に振る更紗。
『だっこも』
「そうなんだ。鶴丸さんは更紗ちゃんを、沢山可愛がってるんだね」
もう一度、激しく頷く更紗。
続いて、彼女はスケッチブックをもう一枚めくり、ビリビリと破くと藤に差し出した。ご丁寧に鉛筆まで添えてある。
「どうしたの?」
『ふじも すきなとこ かいて』
「僕が? 誰のを書けばいいかな」
突然問われても、藤は更紗ほど純粋に言葉の数々を生み出せない。
誰にしようかと鉛筆を持って躊躇っていると、更紗が机の向かい側から藤に渡した用紙に『ひげきりの すきなところ』と書いた。
「彼!? ま、まあ、うん……いいけど」
せめて歌仙や五虎退、あるいは堀川や和泉守などの方が良かったのにと、藤は内心で小さく悲鳴をあげる。
諸々のやり取りを経て、彼との距離は些か近すぎるような、少し面はゆい関係になってしまったのだ。決して悪い意味ではないのだが、近すぎる距離というのもまた考え物というものである。
普段は双方共に意識しすぎない態度をとれているものの、ふとした弾みで何が起きるかと思うと、恐ろしいような嬉しいような、複雑に混ざり合った感情に振り回されてしまう。
『すきなところ ない?』
「それは……あるよ」
改めて文字にするのは、恥ずかしいと思う。だが、無いのかと問われると、それはそれで違うという思いもある。
「例えば――髪の毛がふわふわしているとこ」
触ると気持ちよくて、雨の朝はいつも寝癖がすごいことになっている、と藤は続ける。
言葉にしながらも、彼女は鉛筆をさらさらと動かしていく。
「頭を撫でてくれる手が大きくて、でもしっかりしていて、頼もしくて」
自分より一回り背が高いのだから、その分だけ手も大きい。彼の手に撫でられると、いつも以上に背筋がくすぐったくなる。
しかし、同時に刀を握る彼の手は、一人の戦う者だということが分かる。それでも自分の手を掴んでくれた彼の手は、どこか温かかった。
「それに、とても綺麗で」
出会ってすぐにも思ったことだ。あの時は危うく殺されるところだったが、それでも光る刀身を見た感想は「美しい」の一言だった。
無論、人の姿の見目も思わず目を留めるものがある。つり目がかったアーモンド型の瞳は、光の加減によっては金にも見えるということを、藤は知っている。
「姿勢も良くて」
どの刀剣男士にも言えるが、彼らの佇まいは綺麗だ。見ているこちらが背筋を伸ばしたくなるような空気を、彼らはふとした折に見せてくれる。
「みんなにも優しくて、お兄さんみたいで」
弟の膝丸はもちろんのこと、本丸に長くいる彼は他の者の様子も気にかけてくれている。
「ちょっと天然なところもあって」
人の世に慣れていないからだとしても、思いがけずとんでもないことをしてくれるから、驚かされることもしばしばだ。
「声も好きで」
「主」と呼びかける声が、優しいときもあるし、厳しいときもある。今はどちらが多いのだろうか、と藤はふと考えた。できるなら、彼を失望させるような真似はもうしたくない。
「強くて、でも真面目なところもあって」
刀剣男士としての強さはもちろん備えているものの、手合せを怠る日はほぼない。
普段は暢気そうに見えていても、戦いに赴く姿勢は弟に負けず劣らず真摯なものだと、彼女は知っている。
「些細なことにも、気がついてくれて」
自分でも気がつかないような変化を見つけて、言葉にしてくれる。おかげで、彼にはとても助けられた。
見ないふりをしていた己の願いを掬い上げ、見つめ直す手伝いをしてくれたのは、他ならぬ彼なのだから。
「私のことを、ずっと気にしていてくれて」
色々と、迷惑はかけたという自覚はある。それでも、彼は隣にいることを選んでくれた。更に言えば、こんな自分に好意を抱いてくれているのだという。それが今は、何よりもありがたく尊いものだと思える。
「そんな所が、好きだと思う」
気がついたら、スケッチブックには彼の好きなところが文字として沢山散りばめられていた。
更紗はなんだか嬉しそうな気配を瞳に映して、じーっとこちらを見つめている。
「こ、この話はここまでにしようよ。それに、髭切だけじゃなくて他の皆だって僕は」
「僕がどうかしたの?」
「うわぁっ!?」
突然後ろから噂の本人が現れて、藤は声を裏返してその場でひっくり返りそうになる。
振り向けば、髭切だけではなく鶴丸も姿を見せていた。どうやら、ようやく世間話は終わったらしい。
「お、何を書いてたんだ? どれどれ……」
鶴丸は更紗の後ろに回り込み、彼女がスケッチブックに書いた『鶴丸国永の好きなところ』を読み上げていく。
「綺麗、真っ白、太陽みたい……もしかして、これは俺のことかい?」
鶴丸が更紗に尋ねると、彼女はこくこくと頷く。
「こりゃ嬉しい驚きだ。主は俺のことをこんな風に思ってたんだな!!」
鶴丸は嬉しい感情を爆発させるかのように、更紗を抱え上げる。高い高いをしてもらって彼女も嬉しいのか、更紗は手をパチパチと叩いていた。
「へえ、良かったねえ。主も何か書いてたの?」
「え、あ、ちょっと」
藤の前にあった用紙を、髭切は屈んでひょいと手に取る。
不意打ちだったため、藤の思いが赤裸々に綴られた紙は、あっという間に髭切の手に収まってしまった。
「ひげきりさんの、すきなとこ……僕?」
更紗が用紙の隅に走り書きで綴った言葉が、他ならぬ彼のことを書いてしまったという事実を、隠しようもないくらいはっきりと示してしまっていた。
「『髪の毛がふわふわしてるところ』」
「読み上げないで!」
ようやくショックから立ち直った藤が立ち上がったものの、ここに何が記されているかわかってしまった髭切は、腕を伸ばして藤の手が紙に届かないようにしてしまった。
「主、僕の髪の毛まで好きなんだね。『手が大きいところ』。へえ、そうなんだ。知らなかったなあ」
「かーえーしーてー!」
珍しくムキになってぴょんぴょんしている藤と、気にすることなく紙に書かれた内容を音読していく髭切。
その様子を横目で見ていた鶴丸は、
「さて、俺たちはお邪魔なようだから、ここで失礼しよう」
藤の様子を横目で見守りながら、帰り支度を始めていた。
背丈が髭切と同じくらいの鶴丸なら、髭切の手から紙を奪い取ることも容易いはずなのに、彼は手伝う素振りすら見せていない。
「藤殿の幸運を祈るとしようかな。ああ、見送りは不要さ。面白いものを見せてもらったからな」
「ちょっと!」
にやにや笑いを隠すこともせずに、鶴丸は更紗を抱えたまま退散していく。
何を思ったか、更紗は握り拳を振り上げていた。どうやら頑張ってのポーズらしい。
「卑怯者ー!」
「あ、綺麗って書いてある。主は僕のどの辺りが綺麗だと思ってるのかなあ」
「髭切は読み上げるのやめて!」
思い切り背伸びをしてみるも、肝心の髭切との身長差は頭一つ分あるし、彼がさらに腕を伸ばせばどれだけ頑張っても藤の手が届くことはない。
それでも何とかして紙を取り戻そうと、藤は精一杯の努力を試みる。
「『ちょっと天然』。うーん、そんなに言われるほど天然かなあ。膝丸もよく言うんだよね」
だが努力むなしく、髭切の音読は進んでいく。むしろ、彼は紙を取り返そうと藤がぴょんぴょんしている様を見て、
(なんだか可愛いことしてるなあ)
と思っているなどとは、当の本人が知る由も無い。
藤が返却を求めて跳ねている間も彼の読み上げは続き、
「『私のことをずっと気にしてくれていたこと』。何だか改めて見ると、嬉しいなあ」
「恥ずかしい……」
結局全てを読み上げられ、羞恥のあまり藤は机に顔を埋めて崩れ落ちていた。
「読み終わったなら返してよ……」
「これ、部屋に飾っちゃダメ?」
「だめ!! 捨てる!!」
「じゃあ、返せないな」
ガバリと起きて、屈んでいた彼から紙を奪い取ろうとしたものの、ひらりと身を翻されて躱されてしまう。
べしゃりと畳の上に潰れてしまった藤は、恨みがましそうな目で髭切をにらんだ後、何も言わずに立ち上がって部屋から出て行ってしまった。
(いじめすぎたかなあ)
反省はしてみるものの、紙に記された主の文字を見ると髭切の気分はつい高揚してしまう。
あの主は照れ屋なのか、それとも意識をされていないのか、あまり表だって好意を口にしない。だからこそ、文字だけでも髭切にとっては、思いがけない宝を見つけたような気持ちになるのだ。
思わず慣れない鼻歌まで歌いそうになっていると、今度はどすどすという荒々しい足音――恐らく主の足音が響いてきた。その後ろを沿うように歩く足音は、髭切にとっても聞き馴染みのあるものである。
「兄者、主がずいぶんな剣幕で『君の兄をなんとかして!』と言ってきたのだが、どうしたのだ」
はたして、姿を見せたのは予想通り弟の膝丸だ。彼の後ろではまるで全身の毛を逆立てて威嚇する猫のように、ふーっと唸っている藤がいる。
「主が僕の好きなところを、たくさん書いてくれたんだよ」
「おお。主が直々に兄者の素晴らしさを文字にしたのか。それで、主は何を怒っているんだ?」
「この天然兄弟がー!」
怒りと恥ずかしさで顔を真っ赤にしている藤をよそに、髭切は見て見てと弟を誘い出す始末である。
藤としては公開処刑も同然だったが、立ち上がっている髭切と覗き込む膝丸の間に割って入って紙を取り上げるのは、先ほどよりも尚難しかった。
「膝丸、それを髭切から取り返して。恥ずかしいから捨てたいのに、返してくれないの」
「どうしてだ? むしろ俺もできることなら主から称賛の言葉を貰いたいくらいだが」
「それぐらいなら、今でも言うよっ。膝丸は、刀身も綺麗で反りも見事だと思うし、髪の毛もすっごく素敵な緑だなって思うし、礼儀正しくて、それでいて雄々しい人だなって思ってる! だから、今は髭切からその紙を取り上げて欲しいんだってば!!」
変にヘソを曲げられても困るからと、藤は膝丸に思っていることを言葉にしてみたが、膝丸は不意打ちに浴びせられた自分の賞賛しか耳に入っていなかったようだった。
膝丸の歓喜に満ちた表情を見て、藤が肩を落としていると、
「ねえ」
がしりと、膝丸の腕が髭切に掴まれる。
「兄者?」
「主から直々に褒めてもらえて、良かったねえ」
言葉では祝福しているのに、膝丸の腕に髭切の指がギリギリと食い込んでいた。
「兄者、何を怒っているんだ!?」
「別に。でも僕は文字にしてもらったからね。これなら、いつまでも残っているものね」
髭切は紙をくるくると丸めて、大事そうに抱える。当然ながら、主に返そうという様子はこれっぽっちもない。
「髭切、返してってば!」
藤がまた飛びつこうとすると、今度は頭を片手で軽く抑えられてしまった。
やんわりとした手つきではあるものの、どうしてだか近寄らせまいという強い意思が感じられる。そのせいもあって、藤は顔に困惑を滲ませて立ち尽くしてしまった。
「返してほしかったら、僕の部屋まで取りにおいで」
にこにこ笑いながら、部屋を出て行く髭切。
だが付き合いの長い主と弟である膝丸は、顔とは裏腹に彼が不機嫌になっているらしいことに気がついていた。
「膝丸。僕、髭切に何か悪いことをしちゃったかな」
「……多分、兄者も主から言葉を欲しかったのではないか」
髭切が掴んでいた自分の腕に手を添えて、膝丸は自分自身の考えを整理するように、ゆっくりと言葉を形にする。
「言葉が欲しい? あんなに文字で書いて嬉しそうに読んでいたのに」
「たしかに我ら兄弟は、文字によりその逸話を記された身だ。主が記した文字に嘘はないだろうし、兄者もそれはそれで嬉しかったのだろう。だが、言葉と文字はまた別だ。俺たちはこうして人の形を得たことで、刀として生きてきた俺たちが受けた評価や賞賛、或いは逸話を文字という形で受け取ることができた」
神妙な顔つきで、藤は膝丸の言葉を聞く。更紗が残していった鉛筆を手にとり、膝丸は少しばかり目を伏せてから、
「だが、俺たちは人の耳で、嘗ての主が俺たちを賞賛する言葉を聞くことはできなかった。それは、今この瞬間でしか体験できないもので、今の主にしかできないことだ。……こう言ってはなんだが」
咳払いを一つして、膝丸は続ける。
「俺ばかり先に言葉を賜ってしまったからな。兄者も、主から直々に言葉を賜りたかったのではないかと思う」
そんな子供じゃあるまいし、と言いかけて藤は口をつぐむ。
自分の価値観が、相手と同じものであるとは限らない。誰よりも、藤自身が知っていることだ。
「ありがとう、膝丸。ちょっと様子を見てくるよ」
頭を下げて、彼女は髭切の部屋へと足早に向かった。
髭切個人の部屋は、実は最近はあまり使われていない。
普段は、膝丸の部屋に顔を出しているからだ。細々とした私物だって多くはそちらに移している。
それでも、髭切にとってこの部屋は特別だ。顕現してからここで過ごしていた時間は、決して少なくない。顕現した初めての朝を過ごしたのもここだ。だから、大事なものは、この部屋に持って行くことにしていた。
そして今、彼は文机の上にスケッチブックを切り離した紙を広げ直していた。少々癖のある主の筆跡で書かれている内容は、主から見た髭切の好きなところ――らしい。
(でも主は知られるのが嫌そうだったなあ。あんなに必死になるなんて)
文字をそっと指でなぞる。
古めかしい書物に仰々しく綴られたどんな逸話よりも、今はこの自分しか持ちえない『主から見た髭切という物語』が、何よりも愛おしく思えた。
ただ、当の本人の口からは聞けずじまいだ。むしろ、膝丸の方が先に言葉にしてもらったほどである。
そこまで考えて、髭切はため息を小さく吐く。
(嫉妬は良くないよ。あやかしになるから)
自分を戒めるように、口癖でもある言葉を己に投げかける。
ここに綴られた言葉だけでも十分すぎるほど嬉しいはずなのだから――と、再度文字を指でなぞった時。
「髭切、入っていい?」
思っていたより早く、主の声が部屋の外からした。あの慌てっぷりなら、もうすこし時間がかかるかと思ったが。
そんなことを考えつつ「いいよ」と返事をすると、妙に真剣そうな面持ちの藤が部屋に入ってきた。
「取り返しに来たの?」
「それもできればしたいけど……そうじゃなくて、文字じゃなくても、その、ちゃんと言った方がいいかと思って」
目をぱちくりとさせている間に、藤はずんずんと部屋の中に入り、髭切の前に座る。
「その、髭切のいいところを、僕から見て君の好きなところを、きちんと言葉で聞きたいかなって、思ったの」
あまり表だってこのような話をしない彼女にしては珍しく、彼女は背筋を伸ばして、正面から髭切に相対して慣れない話題を口にしていた。
「え?」
流石の髭切も面食らって何度か目を瞬かせるが、藤はお構いなしに言葉を続ける。
「僕は……その、髭切の刀身は綺麗だって見た時から思ってるし。反りだって、すらってしてて、美しいなって初めて会ったときから思ってる。髪の毛だってふわふわしてて、触るのが好きで。でも寝癖で爆発してるのを見るのもなんだか楽しくて。手だって、いつも撫でてくれるのが好きで、僕が危ないときは握ってくれて、頼もしくて」
紙に書かれた文字の補足をするように、似た内容を言葉にしてはいるものの、言いながら彼女の目線はどんどん下に向いてしまっている。
嫌々なのだろうかと一瞬不安がよぎるが、癖の多い髪の間から覗く耳が真っ赤になっているのを見つけて、髭切は思わず口元を緩める。どうやら、照れているだけのようだ。
「ちょっとうっかりしているところもあって、でも時々驚くぐらい真面目な所も見せることもあって。本丸でも、皆のこと考えてくれて、僕のことも――ずっと気にかけてくれてて。いっぱい大事にしてくれて。君のそういうところが、僕は好きだと、思う」
言いながら、彼女はうずくまるのではないかと思うほど、体を縮こませてしまった。
たまらず、髭切は声を上げて笑い出してしまう。
「ちょっと、人が頑張って伝えてるのに!」
「ごめんごめん。ちゃんと聞いてるよ」
顔を上げて、今度は怒りで顔を赤くしている藤の頭を撫でる。彼女が先ほど好きだと言った手つきのはずだ。
途端に、彼女は先ほどの剣幕は何処へやら、肩を縮ませてくすぐったそうに目を瞑ってしまった。
「ありがとう。嬉しいよ――狭野方の花」
「どう、いたしまして」
藤にとって特別な呼び名を口にすると、彼女は蚊の鳴くような声で返事をした後、じっと黙って撫でられていた。
やがて、頭から手が離れるとようやく顔を上げて、
「あの、いっぱい言ったわけだから、あの紙は返してくれる?」
「ん、だめ」
「えっ!?」
「だって、これはこれで大事にしたいからね。僕の名前が書いてあるから、僕のものってことでいいんだよね?」
「良くない!」
すかさず藤は文机の上の紙に手を伸ばすも、髭切の動きの方が一枚上手だった。
彼は紙を指でつまんで、くるくると丸めてまた抱えてしまった。こうなると、もう手を出すことはできない。
「ほらほら。せっかくお裾分けするくらい西瓜が取れたんだから、食べに行こう?」
「その前に、それを返してってば」
「歌仙にも自慢しようかなと思ってるんだ。彼はどこにいるのかな」
「人の話を聞いてよ」
藤の抗議を無視して、髭切は微笑を浮かべながら厨へと足を向ける。
歩きながらも、彼は自分が抱えている主からのメッセージが記された紙をちらっと見る。そこに綴られた文字の一つ一つに、今なら主の声や思いも宿っているように思えた。
(これは、僕だけの物語だ)
源氏の重宝としての物語にも勝るとも劣らぬ、この時代のこの自分のためだけに綴られた思い。思いがけなく得られた宝は、後ろで唇を尖らせている主が贈ってくれたものだ。
隠しきれない歓喜を漂う空気に滲ませながら、彼はゆっくりと歩いて行く。
隣に追いついた藤と話しながら歩を進める彼の後ろを、季節外れの桜の花びらが一片舞っていった。