本編第一部(完結済み)

 髭切が五虎退たちからはぐれている頃。藤と歌仙は、待ち合わせ場所から少し離れた屋台を眺めていた。
 正しくは、歌仙が屋台をじっと見ていて動こうとせず、藤は彼の背中を黙って見守っているといった形だ。屋台には『あめ細工』の文字が大きく書かれた暖簾がかけられていた。

(そんなにこのお店、面白いかな。もう十分以上見てるよね)

 一時間の間、ただ待っているだけでは楽しくなかろうと、藤が歌仙に屋台巡りを促したのが、ことの始まりだ。
 歌仙が立ち並ぶ屋台の数々に興味を持っていることは、何も言わずともその目が雄弁に物語っていた。自分が休んでいると宣言したせいで、彼の好奇心を満たしてあげられないのも気の毒だと彼女は考え、

「僕も色々気になるから、見て回ろうかな。歌仙、ついてきてくれる?」

 そんな言葉をかけて、主が屋台を巡るから歌仙が供をするという体裁で、彼に祭りを楽しんで貰おうと思ったのだ。案の定、歌仙はこうして飴細工の屋台を食い入るように見つめている。

(歌仙って芸術的な物が好きだから、ああいう小さくても繊細な職人技とか興味あるんだろうな)

 熱して溶かした飴を用いて動物や花を作る職人芸は、花より団子な性格の藤でも目を瞠るものがある。
 出来合いの品を置いているだけでなく、その場で注文を受けて加工もしてくれるようだ。見たこともない少年たち――恐らく別の本丸の刀剣男士たちが、我先にとリクエストを投げかけている。
 歌仙はというと、少年たちの勢いに気圧されてか、屋台の端に移動していた。どうやら観察に集中しているらしいが、その眼差しと言ったら子供とまるで変わらない。

(本当に、生まれて初めて見たかのような顔をして――そっか)

 藤は思わず笑いそうになるも、考えを改めて緩めかけた口元を噤ませる。あめ細工の屋台に来る前に買ったかき氷を口に運びながら、

(歌仙たちって、祭りを体験したことがないんだよね)

 今日この場に訪れた時の、四人の様子を思い返す。
 目を輝かせた少年たち、いつもより落ち着きのない様子の歌仙、あちこちへ視線をやって興味深げにしていた髭切。
 見た目は成人しているような者たちであっても、彼ら刀剣男士にとって、祭りは初めて見るものばかりのはずだ。

(それなら仕方ないよね。僕だってそうだったもの)

 思考を改め直し、藤は目を伏せて過去を思う。
 広場にずらりと並ぶ屋台に足を弾ませ、何か買っていいかと恐る恐る保護者に尋ねる自分。幼子に声をかけられた彼女は目元を細め、何が欲しいの、と聞き返してくれた。
 その時に買って貰ったものはもう覚えていないけれど、楽しい思い出があったということは心の中に焼き付いている。
 歌仙の姿は、まるで昔の自分を見ているようだと藤は微笑んだ。それは、彼女が普段浮かべるものとは違う、花がほころぶような優しげな微笑だった。

(他に歌仙が興味持ちそうなもの、あるかな)

 普段から、本丸のリーダー的な立場で頑張っている彼の息抜きをしてあげようと、藤はぐるりと周りを見渡す。その考えは、奇しくも藤の息抜きをしてあげようと考えていた歌仙と全く同じであるとは、彼女が到底知るわけもなかった。
 石畳沿いに広がる屋台は、食べ物がやはり多い。普段は目移りしてしまうそれらを今は見ないふりをして、彼女は歌仙が好みそうな風流なものがないかと、あちこち視線を移し、

「あっ」

 と、小さく声をあげた。
 屋台を見つけたのではない。彼女の視線の先に、見覚えのある顔があったからだ。
 短めの黒髪に、大人びた深い赤の浴衣を纏った女性。人好きされそうな、朗らかな笑顔を浮かべている彼女は、以前演練会場で言葉を交わした審神者だ。名前は――スミレだったか。

(こっち、気がつくかな。気がつかないなら、声でもかけてみようかな)

 折角だから、挨拶ぐらいはしておこうか。そのように考えた藤は、人混みの隙間から見えた彼女に呼びかけようとして、すんでの所で留まった。何故なら、スミレに向かって小走りで駆け寄る者がいたからだ。
 彼女より少しばかり高い背丈。肩から垂らした黒髪の細い房は、以前に対面したときと変わらない。臙脂色の浴衣が似合う彼は、スミレの近侍の加州清光だろう。

(彼も来ていたのか。まあ、当たり前――)

 そこで、藤の思考が凍り付く。
 加州は、屋台で買ってきたらしいリンゴ飴をスミレに差し出していた。受け取った彼女は、リンゴ飴に負けないぐらい頬を染め――そして、はにかんだ微笑みを見せた。
 彼女の恥ずかしそうな微笑みは、審神者が近侍に向けるという意味合いだけの笑顔ではないと、自分が歌仙に見せているようなものとは違うと、藤は直感で理解する。
 あの笑顔は、近侍と審神者という垣根を通り越したもの――想いを寄せる相手への笑顔だと、彼女は知る。
 否。
 知っていた。

「…………っ!」

 喉からせぐりあげるこの熱い感情を、一体何と形容すべきなのだろうか。
 スミレが加州へ見せている笑顔は、以前も見たことがあるものだ。
 だって、自分も浮かべたことがある。
 彼に向けて、浮かべたことがある。
 なのに。
 彼は――隣に来なかった。
 あの瞬間、笑顔を浮かべていたのは自分ではなかった。

「あ……」

 かけようとした声は、いつしかただの息へと変わり果てた。
 以前の祭りで目に焼き付ついてしまった光景が、何度も頭の奥から湧き上がる。思考が火で炙られたように焦げ付き、焼け落ちるかのようだった。見えない腕に首を締め上げられているかのように、呼吸すらも苦しくなる。
 そんな彼女の様子など知ることもなく、一通りの団欒を経たスミレが、こちらへと振り向こうとするのが目に入る。
 このままでは、気付かれる。自分の姿を見かけたら、きっと彼女は、こちらにやってくる。
 加州を連れて、幸せそうな笑顔を向けて、やってくる。
 そんな二人へと、自分は――笑わなくてはいけない。

(だめだ、できない)

 藤は、ゆるゆると首を横に振る。

(笑えない。だから――来ないで)

 ぽとりと、手に持っていたかき氷が器ごと地面に落ちる。砕けた氷は、地面に溶けて小さな染みへと変わり果てていく。
 気がつけば、足は勝手に反対方向を向いていた。二人を視界に入れまいという思いだけを胸に、彼女はその場から脱兎のごとく逃げ出すことを選んだ。
 もう何も、目に入れたくないと言わんばかりに。この空間そのものを、拒絶するように。


「主。折角だから僕らも何か作ってもらおうか」

 ひとしきり飴細工職人が生み出す芸術を堪能した歌仙は、翡翠色の瞳を輝かせて振り返った。
 そこには、先ほど買ったかき氷を食べている主がいるはず、だった。
 けれども、つい先ほどまで自分のすぐ後ろに立っていたはずの主は、まるで霞のように姿を消してしまっていた。

「主? 主!?」

 混んできたから場所を変えたのかと右を見て、左を見ても、彼女の姿はどこにもない。
 はぐれてしまった。その事実を認識して、歌仙の顔が一気に青ざめる。もう一度周りを見渡してみても、あの特徴的な朝焼け色の髪に藤色のバンダナを巻いた姿は、見つからない。

(もしかして、人に圧されて待ち合わせ場所に帰っているんじゃないだろうか)

 一縷の希望に縋るように、歌仙は半刻経ったら戻ると指示した場所に向かう。だが、そこにも彼女の姿は無かった。いよいよ、歌仙の内側で大きな焦燥が生まれる。

(落ち着け。主がこっちを目指しているかもしれないのに、僕が移動してしまっては駄目だ)

 何度か深く息を吸い、同じ回数だけ吐き出す。だが、深呼吸程度では、胃の奥が冷えていくような不安は消えてくれない。

(僕と違って、君は飽きっぽい所もあるからね。あの屋台以外に気になるものを見つけて、夢中になっているのかもしれない。ありそうな話だ。主は、全く気まぐれなんだから)

 軽口を心中で口にすることにより、どうにか歌仙の中に平常心に近いものが僅かなれど戻ってきた。
 もう一度、今度は落ち着いて辺りを見渡してみる。癖の多い朱色の髪が人混みに紛れていないものかと目で追ってみるものの、やはり該当する人物は見つからない。
 これがただの雑踏の只中だったなら、歌仙は刀剣男士と審神者の間に形作られる薄い縁のようなものを、辿ることができた。しかし、今この場には多くの刀剣男士や審神者がいる。それだけ複数の縁が絡み合っており、本丸にいる時よりも主の気配を探るのが困難になっていた。
 せめて、どうにかしてここに自分が戻ってきていることを知らせねばと思った矢先、

「あ、歌仙さんっ」

 聞き慣れた五虎退の声に、歌仙は藁にも縋る思いで彼らへと視線を向ける。
 だが、歌仙の願いも虚しく、そこにいたのは五虎退と物吉だけだった。主が彼らと合流していたという可能性に僅かな望みを掛けていた歌仙は、改めて落胆しかける。
 しかし、二人の姿を見て、歌仙は彼らの側にいるはずだったもう一人の姿が影も形もないことに、遅まきながら気付いた。

「……きみたちだけかい。髭切は、どこに?」
「すみません。髭切さん、戻ってきてませんか?」

 口を開いたのは、二人同時だった。
 物吉が口にした言葉が、新たな迷子の知らせであると悟った歌仙は、一瞬気が遠くなりかけてしまった。


 ***


 薄緑の髪の彼を目にしたあの瞬間、さながら吹き荒れる嵐のような感情が髭切の中に渦巻き、通り過ぎていった。
 
「…………」

 その余波が残っているせいだろう。自分がはぐれてしまったという事実を自覚しても、彼の足はなかなか動いてくれなかった。
 けれども、人混みというのは流動的なものである。まるで風のように、留まることを知らない人波の只中で立ち尽くしていれば、続いて何が起きるかは明白だった。
 ドン、と誰かにぶつかった衝撃が、髭切に走る。たまらず、彼はその場で転びかけた。本来なら転ぶよりも先に姿勢を立て直せるはずなのに、薄緑の青年が与えた衝撃はあまりに髭切にとって大きすぎたのだ。
 地面に倒れる。そう思いかけた刹那、

「すまん、大丈夫か!?」

 声と共に、腕を掴まれる。どうにか尻餅をつくことを回避した髭切は、ようやく我に返ってバランスを取り直して立ち上がった。
 自分の腕を掴んでいる手を辿ると、

「よかった。怪我はしていないようだな」

 そこには、夜の薄闇を切り抜いたかのような真っ白な人物がいた。
 真っ白な髪に、提灯の赤を写し取るような同じく白い肌。瞳は空に浮かぶ月のように鮮やかな金色だ。着ている浴衣はくすんだセピア色に、荒波と鶴が描かれたものである。波間を鶴が飛び交うという、一風変わった派手な柄であるにも関わらず、白一色の彼にはよく似合って見えた。その背丈は、髭切と同じくらいだろうか。

「ぼーっとして、大丈夫か? もしかしたら、やっぱりどこか痛むのか?」
「ううん。平気だよ。ありがとう」

 ひとまず無事を相手に伝えると、白い彼はホッとした顔を見せた。
 また誰かにぶつかられては、かなわないと思ったのだろう。白髪の青年は髭切の腕を引いて道の脇に移動して、

「ぶつかった俺が言うのも何だが、あんな所でぼうっとしていたら危ないぞ。この祭りは下手をすると、演練会場より審神者も刀剣男士も集まるんだからな」

 ぴっと人差し指を立てて、髭切に注意の言葉を投げかける。

「へえ、詳しいんだね」
「昔、警備を任されたことがあってね。少しばかりこの辺りの事情には明るいのさ」

 言いつつ、青年は背伸びをして人混みを見渡す。その仕草は、髭切が夢の中で見た、待ち人を探す主によく似ていた。

「……何してるの?」
「いやな。主と、その連れと一緒にいたんだが、どうにも二人揃って迷子になってしまったらしいんだ。このくらいの背丈の女の子を見かけなかったか? 水色の浴衣に赤い帯をしている筈なんだ」

 青年が示した背丈は、ちょうど五虎退と同じくらいの高さだ。
 しかし、そんな子供は髭切は見ていない。そもそも、先ほどまで、あの薄緑の髪の青年以外、まるで目に入っていなかったのだ。
 素直に首を横に振ると、白髪の青年は残念そうにため息を吐いた。

「早く見つかるといいね」
「ありがとう。ま、連れがいるから危ないことに巻き込まれはしないだろうが……っと、そういえばそっちはどうしたんだ?」
「どうって?」
「ほら。誰かと来ていないのか? 髭切が単独行動をしているなんて、珍しいと思ってな」

 そう言われて、髭切は自分の胸の奥にざわめきが生まれるのに気がついた。この青年は、言外にあの名も知らぬ薄緑の青年と『髭切』は一緒にあるべきだ、と暗黙のうちに認識している――そのように、聞こえたからだ。

「……ちょっと、はぐれちゃって」

 見ず知らずの人物に、自分の心中を吐露するわけにもいかない。言葉を濁すと、訳ありと察したのか、男性はそれ以上深く尋ねようとはしなかった。

「そりゃ大変だ。待ち合わせ場所は分かるか?」
「大体は。雲みたいなものを売ってる所から、少し歩いたところ」
「綿菓子のことだな。丁度いい。そっちの方角なら、俺もまだ探していなかったんだ。ついでだから、案内してやろう」

 髭切が良いとも悪いとも言い出さないうちに、彼は髭切の腕を掴んでずんずんと歩き始める。

「ちょ、ちょっと」
「俺の知る限り、髭切を一人にしておくと迷子になっている確率は七割と言っていい。放っておいて、また迷子になっていました、なんてことになったら寝覚めが悪いからな」

 髭切自身が知らない統計を口にして、彼は人波の間をすり抜けるように進んでいく。その動きたるや、五虎退たちについて行っていたときでさえも、あちこち誰かとぶつかっていた髭切とは大違いだ。

「僕は一人でも戻れるよ。幼子じゃないんだから」
「いいっていいって、気にするな。それに、そんな顔をしている奴を、俺はどうも放っておけなくてね」

 青年は話しながらも、屋台の店主から焼いたトウモロコシを購入し、ずいと髭切の前に差し出した。

「ほら。きみ、まるで親とはぐれた子供みたいな顔をしてたぞ」
「……?」

 そう言われても、一体それがどんな顔か分からない髭切は、渡されたトウモロコシをおずおずと受け取る。
 香ばしい香りが髭切の鼻をくすぐり、口の中に自然と唾が生まれる。考えてみれば、ここに来てまだ食べ物らしい食べ物は口にしていなかった。

「そら。それはがぶっと食べればいいんだよ。さっきぶつかった詫びだ。遠慮せず食え食え」

 言いつつ、青年は見本を示すように自分の分のトウモロコシにかぶりつく。
 彼の真似をしてがぶりと一部を囓ると、途端にトウモロコシ独特の甘みと塗っていたタレの甘辛い風味が混ざり合って、一気に口の中に広がった。
 思わず目を丸くして青年の方を見ると、上手いだろうと言わんばかりの顔で彼はにっこりと髭切に笑いかけ、

「そういえば、まだ名前を名乗っていなかったな。俺は、鶴丸国永」

 腰に手をあてて、彼は名乗りを上げる。

「ま、見れば分かることだけどな。俺じゃない俺と会ったこともあるだろう」
「ううん。僕はまだ、他のどの君も目にしたことがないよ」

 彼の言葉から察するに、鶴丸国永という男は刀剣男士なのだろうと髭切は推測する。もっとも、彼が刀剣男士であることは出会った直前から直感で気が付いてはいた。
 対する鶴丸の方は、髭切の言葉を聞いて猫のような金色の目を丸くした。

「こりゃ驚いたな。きみ、顕現したのはいつだ?」
「えーっと……まだ一ヶ月経ったかどうかってところ」
「なるほど。それならはぐれるのも仕方ない。ならこの俺が、祭り慣れしていないきみを、責任持って待ち合わせの場に連れて行こう」
「鶴丸は、主を探さなくていいの?」

 トウモロコシを囓りつつ尋ねると、鶴丸はひらひらと片手を振りながら、

「連れがいるって言っただろう? あれでもうちの本丸の長老だから、大丈夫だろうさ」
「ふうん。おじいさんがいるんだ」
「ま、俺が言えたクチでもないがな」

 彼は己の真っ白な髪を指さし、にやりと笑ってみせる。つられて、髭切は笑いかけ――しかし、その笑みは広がりきることはなかった。

「……髭切?」
「――主に」

 胸の奥に薄い刃でも差し込まれたような、ずきりとした痛みが走る。

「主に、何か、あった」

 まるで冷気を吸い込んだように、言い知れない不安が一息の間に全身に広がる。けれども、これは自分のものではないと髭切は既に理解している。
 ならば。

「主が、困ってる」
「困っている?」
「ねえ。早く、僕を待ち合わせ場所に連れて行ってくれる? 何だか、嫌な予感がする」

 先ほどまでの狼狽ぶりはどこへやら。髭切は目の前にいる鶴丸に相対して、真剣な面持ちで言葉を紡ぐ。
 あまりに突然のことで、事情を知らない鶴丸は目をぱちくりとさせる。
 が、それも数秒。すぐに、不敵な笑みを浮かべて彼は言う。

「よし。それならこの鶴丸様に任せておけ」

 再び髭切の腕を掴んで人波に向かおうとした彼は、一歩を踏み出す前に髭切の方にちらと視線を送り、

「髭切。きみの今の顔、さっきよりずっといいぞ」

 金の瞳を細め、ニヤリと笑ってみせた。


 ***


 全速力で走ったのは、いつ以来だろう。このまま駆け続けてしまったら、息が止まりそうだ。
 足も思うように、動いてくれない。何故、と問うまでもなく、その理由の一つを藤は知っていた。
 今の装いは浴衣だ。当然、普段のように歩けるわけもない。大股で走るのも御法度だ。
 けれども、藤は自分のできる限りの力を振るって、その場から遠ざかることを選んだ。
 スミレがこちらに向かってきたら、彼女にどんな顔を見せればいいか分からないから、だけではない。
 心臓をいきなり握り潰されたかのような、胸の内の苦しさも原因の一つだろう。この痛みは、どれだけ足を動かしても消えそうになかった。
 ――あの時も、こうだった。
 二年前と寸分違わぬ痛みが突然ぶり返したようだ、と藤は振り返る。直視するのも困難な苦い思いが、走っても走っても離れてくれない。
 誰かにぶつかった数は、最早数え切れない。その度に謝罪もそこそこに、彼女はまた走ることを選ぶ。
 喉の奥から湧き上がる熱いものは、必死に体の底へと送り返す。顔が歪んで、叫び出したいような思いがあって、しかし叫ぶことを彼女は許さない。
 だから、代わりに走り続ける。
 今この瞬間、歌仙のことも、五虎退のことも、物吉のことも、髭切のことも、刀剣男士という存在のことも、審神者という立場のことも、全て彼女の頭の中から吹き飛んでいた。
 だが、

「わっ」

 ドン、と足元に誰かがぶつかる衝撃と共に、藤の逃避行が強制的な中断を迎える。
 ぶつかった弾みで足下がふらつき、どすんと尻餅をつく。石畳でお尻を打ったせいで、一瞬痺れるような痛みが走った。

「いたた……あれ、ここって」

 ほんの数秒とはいえ痛覚に意識が支配されてしまうも、気を持ち直して藤は辺りを見渡した。
 気がつけば、人の気配はうんと少なくなっている。提灯の灯りだけがぼんやりと石畳を照らしていて、遠くから聞こえる喧噪は一層寂しげな空気をその場に与えていた。

(どこまで来ちゃったんだろう。会場のはずれかな)

 そこまで考えたとき、藤は自分の視界の端で同じように尻餅をついている少女を見つける。状況から察するに、自分がぶつかったのは彼女なのだろう。

「……ごめん。大丈夫?」

 咄嗟に謝罪を口にしながらも、藤は彼女に駆け寄った。彼女の声に反応して、少女は顔を上げる。
 提灯の赤が照らし出した顔は、奇妙なまでに無表情だった。見た目から推測する限り、恐らく十かそこらの年頃だろう。黒に近い栗色の髪を緩やかに腰まで流し、水色の浴衣には見るも鮮やかな真っ赤な帯が巻かれていた。

「怪我はしてない? 痛いところは?」

 藤が尋ねると、彼女はゆるゆると首を横に振る。相変わらず、少女の顔は仮面でも貼り付けたように固まって動くことがなかった。

(怒っているのかな……)

 藤が不安を抱いているのをよそに、尻餅をついていた彼女はよろよろと立ち上がろうとする。けれども、思い通りに足に力が入らないのか、ぺたんとその場に座り込んでしまった。彼女の様子を見て、藤は血相を変える。

(まずい。小さな子供だから気がついていないだけで、本当は骨とか折れてるのかも)

 先ほどまでの焼け付くような苦しさはどこかに行き、藤の中には別種の焦りが生まれる。慌てて彼女の体に怪我がないかと目で確認をしてみるも、見たところ外傷は見当たらない。もっとも、打ち身なら目で見ただけでは気づけない部分も多い。

「ちょっと失礼するね」

 一言断りを入れてから、少女の足にそっと触れる。不自然に腫れている場所や、熱を帯びている所はなさそうだった。その様子を彼女は何も言わず、表情一つ変えることなくじっと見守っていた。

「痛くない?」

 藤の質問に、首を横に振る子供。どうしたものかと堂々巡りの思考を続けていると、少女が両手を広げてこちらを意味ありげに見つめていた。

「え、何?」

 また無言。ただ、何かを急かすように彼女は広げた両手を小さく動かしている。まるで、抱っこをねだる子供のように。

「……抱き上げてほしいの?」

 今度は、首肯が返ってきた。
 ぶつかったこちらに非があるし、子供を一人放り出して立ち去るほど、藤は薄情な心根の持ち主ではない。
 おっかなびっくり少女の脇の下に手を入れて、よいしょと小さな体を抱え上げる。子供一人とはいえ、それなりの重みが藤の両腕にのし掛かってきた。
 だが、藤も普段から伊達に畑仕事をしているわけではない。大の大人ならいざ知らず、年端もいかぬ子供一人なら抱き上げるのは、そこまで難しいことではなかった。

「お父さんかお母さん、どこにいるか分かる?」

 周りを見ても保護者のような人物が見えなかったので、藤は反射的に両親について尋ねた。ここが審神者や刀剣男士が楽しむための祭りの場であり、それならこの子供も本丸に関係する人物の可能性がある、という考えは、まだ彼女の中で馴染んではいなかった。
 果たして、子供はゆっくりと首を横に振った後、ある場所を指した。視線を追うと、通り沿いに置かれたベンチが目に入る。

「座りたいの?」

 またしても、沈黙と同時に首を縦に振る動き。

(随分と無口な子だなあ)

 そんな感想を抱きながら、言われるがままに彼女をベンチまで連れて行き、腰を下ろさせる。ついでに自分も腰掛け、ようやく藤は一息をついた。

(迷子かなあ。それなら迷子センターとかなら連れて行かないと……そもそも迷子センターってあるんだっけ)

 藤がそのようなことを考えていると、ぐいぐいと浴衣の袖が引かれる。今度はなんだと思って子供に顔を向けると、どこから取り出したのか、少女の手の中には開かれたメモ帳があった。
 ずいとメモ帳が差し出され、一体何のつもりかと藤は白いページに視線を落とし、

『ありがとう』

 書かれている文字を見て、思わず首を傾げる。
 言葉の意味は分かる。疑問に思ったのは、何故それを直接口にしないのか、ということだ。
 そこまで考えが至って、ようやく藤はハッとした。

「話せないの? もしかして、耳も聞こえないんじゃ……。ど、どうしよう」

 動揺する藤に、彼女は再び首を横に振って否定を表す。よく考えれば、つい先程まで意思疎通自体はできていたのだが、あまりに突然の事態に、藤の中で頭の整理が追いつかなかったのである。

『きこえてる』

 わざわざメモに追記されて、ようやく藤は彼女が口をきけないらしいものの、聞く分には問題ないようだということを理解した。

「そ、そう……。一緒に来た人とかは近くにいないの?」
『いっしょ からすさん でも さっき いなくなった』
「?」

 子供らしい歪な文字が記した言葉を見る限り、誰かと一緒にはいたらしい。もっとも、『からすさん』が文字通り鳥のカラスでなかったらの話ではあるが。

『ここ まってる そのうち もどる』
「待っていたら戻ってくるんだね。それなら、良かった」

 少女は藤の言葉を肯定するように、もう一度深く頷いた。その間も、少女はにこりともしなかった。かといって、不安で顔を歪ませもせず、出会った当初から彼女は変わることなく鉄面皮を貫いている。あまりに表情がない点は気になるが、そういう性格なのだろうと藤は思い直すことにした。

(それとも、怒らせちゃってるのかな)

 そのように考えると、胸中がざわついてしまう。彼女を怪我させたと思ったときとは、まったく別の動揺が生まれてくる。どうにか顔に出すまいと、口角に力を入れて釣り上げた。そうすれば、笑顔だけは作ることができるからだ。
 藤の葛藤をよそに、彼女はメモを一枚めくって新たな文字を綴る。

『いそぎ?』

 少女は藤を指さし、続けてメモを指さす。どうやら藤が走っていたことを思い出して、どこかへ急ぎの用があったのかと問いかけているらしい。

「ううん。急いでいたわけじゃなくて……」

 そこまで言いかけて、藤は少し前まで抱いていた苦い感情を思い浮かべる。
 加州に微笑んでいたスミレの横顔が、自分が浮かべることができなかった笑顔が、心臓を鷲掴みにするような痛みを藤に与える。先ほど作り上げた笑顔が、思わず歪みかける。
 ほんの微かな変化。けれども藤の様子に気がついたのか、少女は彼女の浴衣の裾を再び軽く引いた。

『だいじょうぶ?』
「あ、大したことじゃないんだ。僕もちょっとはぐれちゃって、心配だなって」

 慌てて笑みを取り繕い直し、大げさに手を振って誤魔化す。こんな幼子にまで心配をかけるものではないという気持ちが、藤の口角を無理矢理釣り上げさせる。
 もっとも、肝心の幼子の方は、相も変わらず無表情でこちらを見ているだけだった。ただ、彼女は藤の浴衣の裾をぎゅっと握っていた。

『いたそう』

 ずいと差し出されたメモを見て、否定するために藤は首を横に振る。だが、少女はメモに新たな文字を綴る。

『ぶつかるまえ いたそうなかお』
「慣れない運動をしたせいだね。こんな格好で、無茶をするものじゃないよ」

 自分の胸中の痛みを、このような見ず知らずの子供に話したところで、とても理解できないだろう。藤はそのように判断して、適当な誤魔化しの言葉を口にした。
 果たして、少女はじーっと藤の瞳を見つめてからページを捲って、

『ゆかた きれい』
「五虎退――僕の、友達が……選んでくれたんだ。綺麗な浴衣だよね。僕には勿体ないぐらいだ」

 そんな少々自虐的な言葉が、藤の口からついて出る。少女は何か言おうとしたかのように、唇を僅かばかり開く。だが、言葉が出せないからだろう、代わりに首をぶんぶんと横に振った。

「どうしたの? ああ、君の浴衣も綺麗だよ。真っ赤な帯が金魚みたいだ。よく似合ってる」
『ありがとう でも』

 少女は何を思ったのか、メモの端に鉛筆をぐるぐると走らせる。文字を書くでもなく鉛筆を動かしたせいで、メモの隅には小さな黒雲のようなものができてしまった。

「でも?」
『ゆかた にあってる』
「うん、君によく似合ってるよね。君に浴衣をくれた人は、いいセンスをしているよ」

 少女は何故か小さく頬を膨らませ、再び紙の端に小さな黒雲を作り上げ、

『なまえ なに』

 次のページを捲ってから、新たな言葉を書いて見せた。

「僕? 僕は…………藤、だよ。審神者の、藤」

 そのように名乗りを上げると、少女は何故か慌てたように次のページに文字を綴る。

『わたし さらさ さにわ いっしょ』
「君が、審神者?」

 見せられた文字を見て、藤は目を見開く。
 こんな子供が、と喉まで出かかった言葉は一旦飲み込んでおく。何故なら、少女――更紗の顔には僅かの変化もなかったのに、彼女の瞳に誇らしさのようなものが垣間見えたからだ。

「さらさ……って、どんな字で書くの?」

 代わりに別の質問を投げかけると、彼女はやや歪んだ文字でゆっくりと大きく、

『更紗』

 と、綴った。
 再び顔を上げて、藤をじっと見つめる更紗。殊更に笑っているわけでもないのに、夜空を映す少女の瞳は星のようにキラキラと輝いて見えた。
 続いて、更紗はメモの端に小さな山のようなものを書いてみせた。山の上半分に波線を横断させると、得意げな気持ちを瞳から覗かせ、改めて藤に熱い視線を送っている。

「それ、富士山のつもり?」

 肯定する更紗。藤は思わず口元を緩ませ、

「ふふ、違うよ。ふじはふじでも、富士山の富士じゃなくて、藤の花の藤」
『?』

 藤は更紗から鉛筆を受け取り、落書きや文字だらけのメモの端に「藤」と書く。その隣に藤の花の絵も描いてみたものの、歌仙が見ていたら蛇とでも称されそうな、ぐにゃぐにゃした線の塊のような出来になってしまった。

「ごめん、上手く描けないや。藤の花って綺麗な花なんだよ。別名は狭野方の花って言うんだって。歌仙に教えてもらったんだ」
『さのかた?』
「うん。昔はそう呼ばれてたこともあって、何で皆そんな風に呼ぶのかって、僕にはよく分からなくて。でも、とても可愛がってもらうときの呼び名だから、『狭野方の花』は特別なんだ」

 彼女は目を細めて、言葉を続ける。

「『狭野方の花の姫さん』ってね、呼んで貰ってたの。僕しか、村に子供がいなかったからなんだけどね。君よりももっとずっと、小さいときの話だよ」
『おひめさま』
「今は違うよ。もう大きくなっちゃったし」
『おおきくても おひめさま』
「違うって。僕はもう、ただの審神者だ。お姫様にはなれない。どう頑張ったって、なれっこないんだ」

 掌をひらひらと振りながら否定しつつ、藤は笑う。

「君の『更紗』っていう単語は、布の種類から来ているの? 審神者としての名前だよね?」

 更紗は首をぶんぶんと横に振り、

『きんぎょ』

 文字の隣に、魚のようなものを描いてみせる。もっとも、その絵も藤の絵と同じくらい滑稽な出来ではあったが、必死に描いたものであることは藤には伝わっていた。

「金魚の名前なんだ。品種かな」

 更紗は、首をこてんと傾けてみせる。どうやら、更紗自身も詳しいことは理解していないようだ。

『ふじ おまつり だれと?』
「僕は本丸の皆と。皆が行きたがってたから。僕は別に」

 そこまで言いかけて、藤は口を閉ざす。軽く唇を噛み、出かかった言葉を喉の奥へと送り返す。ごくりと小さく唾を呑んでから、

「更紗ちゃんは? 審神者なら刀剣男士の誰かとかな」
『つる と からす』
「鶴さんと烏さんと一緒なんだね」

 ぶんぶんと首を縦に振る更紗。彼女の本丸は、刀剣男士たちを鳥になぞらえて呼ぶ習慣でもあるのだろうかと、藤は内心で首を傾げていた。

『たのしい?』
「うん、歌仙や五虎退たちは楽しいみたいだ。僕の本丸の刀剣男士はお祭りが初めてでね、もうわくわくしているのが隠しきれてなくって。歌仙なんて『興味ありません』って感じだったのに、飴細工に夢中になってたんだよ」

 そこまで言いかけて、藤はようやく自分の刀剣男士たちのことを思い出す。振り返って主が消えていたら、歌仙はきっと血相を変えるだろう。

(あのまま、僕のことなんか忘れてくれればいいのに――ってわけにもいかないか。歌仙だものね。五虎退も、物吉も、髭切も、僕がいなくなったら心配するんだろうな)

 主はどこに行ったのだと探し回る彼らの様子が、目に浮かぶようだった。このままでは、折角の楽しい彼らの息抜きの時間を台無しにしてしまう。それを思うと、藤の心に暗雲が立ちこめる。
 けれども、戻ったらあの二人とまた顔を合わせるかもしれない。ひょっとしたら、歌仙たちと合流しているかもしれない。

(そんな所に居合わせたら、僕はまだ、上手く笑えない)

 更紗と話をしているときは、笑顔を作り上げることは容易かった。彼女はこちらが笑っていようといまいと、無表情を貫いているということもあって、気を遣わねばという気構えも幾ばくか収まっていた。先ほど出会ったばかりの子供だから、というのも原因の一つだろう。
 だが、歌仙たちは違う。彼らが不安に顔を曇らせてしまったらと思うと、胸の奥から絶え間なく湧き出る罪悪感に体が蝕まれていくようだった。
 ――戻らなければ。
 ――でも、戻りたくない。
 相反する二つの感情がせめぎ合い、藤の口は続く言葉が止まる。更紗が『どうしたの』とメモに書いているのも気がつかず、彼女の視線は膝の上に落ちたままだった。
 風の音が聞こえるほどの静寂が、二人の間を流れていく。
 だが、

「主よ。このような場まで来ておったのか。この父を、あまり困らせないでほしいな」

 沈黙を打ち破ったのは、謡うような静かな――それでいて、居住まいを正したくなるような声。
 思わず藤が顔を上げると、そこには夜闇から滲み出たような黒の浴衣を纏った、烏の濡れ羽色の髪を結い上げた細身の青年が立っていた。
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