本編第一部(完結済み)

 ふと目を覚ます。
 自分は寝ていたはずなのに、今眼前に広がっている景色は、布団に入る直前に見たものと全く異なった。
 耳にしたことがない笛の音、どこからか響く重い雷鳴のような音、それに人のざわめき、息づかい、気配。
 あちらこちらに見えるのは、天幕だろうか。色鮮やかなそこからは、威勢のいい声が聞こえる。
 天幕を横断するように渡された紐には、真っ赤な提灯飾りがあちらこちらに吊されていた。見上げる空だけが昔と変わりなく、星が点々とちりばめられている。
 辺りにあるものはあまりに彼にとって馴染みがなく、けれどもそんな場にいるにも関わらず、不自然なことに期待に胸が弾む。
 そこまで事態を把握して、彼は内心で小さく息を吐く。三度目ともなれば、ここがどこなのかは彼――髭切もすぐに気がついた。

(また、主の夢だろうね)

 以前見た灰色の廊下でもなければ、燃えるような夕焼けの中でもない。まるで起きているときの同じように、奇妙なほど現実味があった。
 周りに人はいるものの、彼らの顔は何故か霞がかかったように見えない。それでも、辺りから聞こえる声は笑い声や歓喜の叫びであり、決して危ない場ではないと髭切は理解する。
 視点の高さからして、また誰かの内側に自分が潜んでいるような形なのだろう。今回は子供のようではないが、と考えを進めていく。

(これも主の夢なんだろうか。歌仙たちは、こういう夢を見たことがあるんだろうか)

 取り留めもなく思考を巡らせてしまうのは、この夢にあまりにも変化が無かったからだ。
 通り過ぎる人は大勢いるが不自然に顔はぼやけているし、立ち並ぶ小さな露店のようなものに興味を惹かれるものの、体の持ち主がその場から全く動こうとしないのだ。
 何かを待っているように視線は落ち着き無くあちこちを見ているようだが、今いる場から歩き出す気配はまるでなかった。

(ねえ。僕はあっちに行ってみたいんだけど。聞こえてる?)

 無駄と知りながら、この体の持ち主――恐らくは髭切の主でもある人物に呼びかけてみるも、当然のように返事はない。仕方なく、髭切は視線のパターンを追ってみる。
 彼女はどうやら石畳が続く道から少しばかり外れて、柱のようなものの側で、あちこちに視線を巡らせることばかりを繰り返していた。
 石畳沿いに天幕が並んでいる様子から察するに、通り沿いに何かの催しをやっているのだろう。その入り口に陣取って、ひたすら道行く人を眺めている理由は何なのか。

(誰かを探してる?)

 よく見れば、彼女の視線は人の顔を追っているようだった。なら、待ち合わせをしていると考えるのが妥当だろうか。
 そこまで考えが至ったとき、彼女は手に持っている小さな鞄から薄い長方形の形をした、掌サイズの板のようなものを取りだした。以前、主が政府との連絡に使っていた端末に似ている。遠くの者と連絡が取れる機械、と髭切も聞いたことがある代物だ。
 彼女の視線が、その板へと落ちる。そこには、点々と黒い文字が綴られていた。

『急な用事が入って行けなくなった。ごめん。また今度遊ぼう』

 たったそれだけの文字が、妙にくっきりと髭切の目にも映った。

(ありゃ。待ち人は来てくれそうにないね)

 すぐに彼女は鞄に端末を戻す。はぁ、という小さなため息が髭切の耳にも聞こえていた。落胆しているのは、わざわざ考えるまでもなく明らかだ。

「……何か食べて帰ろう。お腹空いた」

 彼女はぽつりと呟く。耳にした声はやはり、藤のものと同じだった。
 彼女が足元を見たおかげで、その装いに髭切も気がついた。いつも彼女が纏っている簡素な洋服とは違う。赤の生地に、あちこちに色とりどりの朝顔を咲かせた柄の着物だ。先日万屋に買いに行った時に見かけた、浴衣というものだろうか。
 カランと下駄の音を響かせて、彼女は漸く歩き始める。けれども、先ほどは色鮮やかに見えた露店はどういうわけか、どれもこれも灰色へと変わり果てていた。あれほど真っ赤に輝いていた提灯も、ぼんやりとした灰色の光を点すだけだ。
 それでも、彼女が動いたおかげで、髭切は退屈を紛らわすことができた。初めて見る品があちこちに並び、そのどれもが彼の好奇心を擽る。
 しかし、彼の気持ちと彼女の気持ちはあまりにもかけ離れているようで、その足が止まることはなかった。

(主、足を止めないと何も見えないよ。何かを食べるんじゃないの)

 髭切の思いが通じたのだろうか、藤の足がぴたりと止まる。その視線は、露店に向けられたもの──ではない。
 彼女は真っ直ぐに、どこかを見つめている。どこを見ていたかは、髭切もすぐに気がついた。
 何故なら、色をなくした世界でそこだけが、まるで雲間から差した光のように照らされていたのだから。
 光の下にいたのは、一人の人間だった。
 その人間の顔は、道行く通行人と異なり、はっきりと顔立ちが分かるほどよく見えた。この曖昧な世界において、その有り様は寧ろ不自然に見えるほどだ。だから、髭切はそこにいるのが、自分が見たこともない少年だと気がついた。
 彼女の足が一歩、前に出る。
 その一歩は、ただ黙々と歩いていた一歩とは違う。これから駆け出さんとする一歩であり、だが続く二歩は――あまりに、呆気なく小さなものだった。

(彼の隣に、誰かいる?)

 差し込んだ光が広がり、もう一人の姿を露わにする。
 黒い髪を一つに束ねて、鮮やかな赤の浴衣を纏った少女。こちらも見たことはない人物だ。
 ただ、見たことが無かったのは、髭切だけのようだった。

「……どうして」

 震えた声が、髭切の耳に入る。一瞬声の主が誰か分からなくなるほど、その声はあまりに多種多様の感情を含んでいた。
 他人事の筈なのに、彼自身も充てられたように心が揺れる。響いてきた感情の奔流は、多くの混乱に満ちていた。
 気がつくと、彼女は最早二人組の方を向いてはいなかった。ただ、真っ直ぐ今まで歩いてきた道を、走り抜けていた。
 人にぶつかるのも気にせず、まるでその場にいることを拒絶するかのように、自分が見たものを否定するかのように。
 石畳を駆け抜け、人混みが消えてぼんやりとした灯りだけが照らす人気のない道を走り、階段を駆け下りようとして、不意にふわりと体が浮く。

(あぶな――――)

 踏み外した。
 髭切がその事実に気がつく間もなく、視界が真っ暗になる。
 世界がひっくり返る。意識がどんどん遠くなる――。


 ***


「危ない!!」

 がばりと跳ね起きた髭切は、いつもと変わらない自室の風景を目にする。まだ走っているかのように彼の息は乱れ、体中が脈を打っているようだった。
 ぐるりと周りを見ても、こちらも普段と変化はないようだ。初夏の朝の日差しが、自室をぼんやりと照らし出している。
 だが、ぼうっとしていたのも数秒。髭切は布団から体を起こし、襖を開く。嫌な胸騒ぎが、体の奥にずっと残っているようだった。
 早朝ということもあり静かな本丸の廊下を、髭切は足早に歩く。
 あんなものは、ただの夢だ。主が階段から落ちる夢を見たからと言って、彼女が本当に落下したわけではない。そもそも、この本丸は平屋であり、階段らしい階段が存在しないのだから。
 分かっているのに、彼は衝動に突き動かされるままに歩みを進める。何度目かの曲がり角を曲がった時、

「わっ」

 どん、と音がして、髭切に誰かがぶつかる。声からすると、それは主であるというのは明白だった。

「髭切、こんな時間にどうしたの。もう一時間は寝ている時間じゃない?」

 髭切にぶつけてしまったらしい額に手を当てながら、彼の前に姿を見せた藤が尋ねる。当たり前のことではあるが、彼女が怪我をしている様子はどこにもない。
 藤が無事な様子を見て、張り詰めていた緊張が一気に解ける。勢い込んでいた気持ちのやり場を失って、髭切は誤魔化すように笑ってみせた。

「ちょっと、目が覚めちゃって。少しうろうろしていただけだよ」
「そう。じゃあ」

 言葉少なに返事を残し、髭切の横を藤が通り過ぎる。声をかける間もなく、彼女は廊下の角を曲がって行ってしまった。その後を追いかけることは、髭切にはできなかった。そうしたところで、一体彼女に何と言えばいいか分からなかったからだ。
 あの夢が示唆していたのは、主にとって何か不愉快な事件があったということだ。それは、彼女や周りの人間の装いから察するに、きっと五虎退たちが持ちかけた『夏祭り』というもので起きたに違いない。

「……僕が感じていたモヤモヤしたものは、このせい?」

 尋ねたところで、既に姿を消した主から返事があるわけもない。とはいえ、わざわざ本人が嫌だろうと思っていることを聞きにもいけない。
 結局髭切は自室に戻り、はっきりとしない思いを抱えたまま、まんじりともせずに他の皆が目を覚ますのを待つしかなかった。
 何故彼女が起きていたのかも、ついには訊くことはできなかった。


 ***


 髭切が早朝に飛び起き、藤に出くわしていたその日の昼。五虎退は弾むような足取りで、藤の部屋に向かっていた。
 ここ数日、彼はいつもこんな調子だ。何かを待ち遠しく思うというのは、その何かが来る瞬間と同じくらい楽しいものなのだと、五虎退は毎日噛み締めるように実感していた。夏祭りというイベントの開催日までの一週間を、五虎退と物吉は待ちきれないという気持ちを、あたかも風船のように膨らませて過ごしていた。
 無論そうは言っても、彼らとて刀剣男士だ。自分らのありようを完全に忘れたわけではない。手合わせも欠かしていないし、戦術について意見を求められれば部隊長の歌仙と何時間でも話し合うこともあった。
 だが、それとは別に大きなイベントを楽しむという感情も当然のようにある。
 そして、今。五虎退の子猫のように弾む気持ちは最高潮に達していた。
 その理由は、夏祭りの日がいよいよ今夜に差し迫ったから、だけではない。彼の足が宙に浮きかねないほどわくわくしていたのは、もう一つ別の理由が隠されていた。

「あるじさま。失礼しますね」

 あまりに気持ちが浮き足立っていたこともあり、返事も待たずに五虎退は襖を開く。彼の足下に纏わり付いた虎の子たちは、我先にと扉の隙間から中への侵入を試みる。

「五虎退、どうしたの。何だかとても楽しそうだね」

 彼の失礼を叱ろうともせず、机の前に座って仕事をしていた藤がやってきた虎の子の一匹を抱え上げた。

「は、はい。だって、いよいよ今日ですから」
「そうだね。そういえば、浴衣は結局どうしたの?」
「歌仙さんからお財布借りて、ちゃんと、買ってきましたっ!」
「そっか。よかったね」

 藤は五虎退に微笑みかける。彼女の様子を見て、五虎退は一つの懸念事項を払拭するためにおずおずと口を開く。

「あるじさまは、何を着ていくんですか?」

 その答えを、彼は固唾を呑んで待っていた。
 浴衣を買いに物吉と髭切と出かける日、彼女は自分の分のことは一切口にしなかった。歌仙ですら買い物に行く際に、この浴衣を買うようにと指定してきたのに、藤はまるで他人事のように一切口を挟まなかった。

(あるじさま、最初に話が出たときも自分の分はなくてもいいって、話してたんですよね)

 彼女がわざわざ断った理由は、歌仙にねだった時に口にしていたように、金銭面のことを気にしてだろう。だが、それではあんまりだ。そう思った五虎退と物吉は、店主に頼んで藤の分もこっそり購入していた。
 しかし、この贈り物には一つ欠点がある。藤が既に別口で用意していた場合、行き場の無くなった浴衣が一つ生まてしまうという点だ。

「着ていくもの? いつもの格好かな。ほら、別にめかしこむ必要もないし」

 果たして、彼女が口にしたのは五虎退にとっては理想的な回答だった。同時に、一抹の寂しさを伴う彼女の謙虚さを表す答えでもある。
 いてもたってもいられず、五虎退は藤の手をいつの間にかとっていた。

「どうしたの、五虎退」
「あの。見せたいものが……あるんです」

 そのまま彼女の手を引いて、五虎退は部屋を出る。虎の子を抱えた藤は、彼に引っ張られて転びそうになりながらも、大人しくついてきていた。少年の後ろを、残りの四匹の虎たちが小さな同伴者として後を追う。

「どうしたの、五虎退。そんなに急いで。もしかして、何か大変なことでも起きたの」
「そういう、わけじゃ、ないですっ」

 話しながらも到着したのは、五虎退の私室だ。六畳の小さな和室には、相部屋の物吉の私物もちらほら見られる。
 そういえば、主を部屋に招いたことはなかったと思いながら、五虎退は部屋の隅に寄せていた紙袋の元まで彼女を連れて行く。袋の端から見える紺や白の布地を見て、漸く藤も彼が何を見せたいかを理解したようだった。

「買った浴衣を見せてくれるなら、そう言ってくれればいいのに。五虎退はどんな柄にしたの?」
「僕は、その、白に動物が描かれてるもの……です」
「五虎退によく似合うと思うよ。何なら、着付けも手伝ってほしい?」
「は、はい。そうしてもらえると、すっごく嬉しい、です。でも……今は、それじゃなくて」

 五虎退は紙袋の底に置かれていた自分の贈り物を、漸く引っ張り出すことができた。虎の子と片手間に戯れていた彼女に、特別に包装してもらった袋をずいと差し出す。

「これが、五虎退の浴衣?」
「え、と……そういうわけでは、ないんです。あの……これを、開けてください」

 口元にのぼろうとする笑みに、ほんの少しだけ待ってほしいと五虎退は心の中で伝える。笑うのは、主がこの贈り物を見て微笑んでからだ。
 五虎退から渡された袋の包装を、藤はゆっくりと解き、目を見開いた。
 袋から現れたのは、青い花をあちこちにあしらった生成りの浴衣だ。要所要所に紫の花も散っており、お互いの色を違和感なく引き立て合っている。添えられた帯は、主の瞳よりも尚深い紫の色だ。浴衣自体のデザイン自体に奇抜さはなかったが、藤にとっては惹きつけられるものであった。
 問題は、そこではなく。

「……これは、誰の分?」

 口にした言葉が震えていないか、不自然な感情が載っていないか、藤は殊更に意識ながら問いかける。

「あるじさまの、分です」

 どこか恥ずかしそうに、それでいて誇らしげに少年は言う。彼の予想なら、主は自分への予想外の贈り物に驚きはするものの必ず笑ってくれる筈だった。
 だが、彼女は困惑を顔に滲ませて、浴衣と五虎退の間で何度か視線を往復させていた。

「……僕、浴衣が欲しいって言ったっけ」
「い、いえ。でも、あるじさまだけ無しなんて、そんなの……僕は、嬉しくないです。折角楽しいことなら、一緒に……楽しみたいです」
「…………」

 祭りそのものは十分楽しいものだろう。けれども、彼女に僅かとはいえ我慢を強いてしまっていたのなら、きっと本当に楽しむことはできなくなってしまう。
 五虎退も物吉も、この点に関しては全く同じ感情を抱いていた。歌仙も髭切も、否定はしないだろう。
 だが、贈られた当の本人はじっと浴衣に目を落としたまま黙りこくっていた。彼女の態度は、お世辞にも手放しで喜んでいるようには見えない。
 もしかしたら気に入らなかったのかと、五虎退の顔が不安で青くなるほどの間、藤は沈黙を続けていた。やがて、

「……ありがとう、嬉しいよ。ちょっと突然でびっくりしちゃった」

 ゆっくりと、彼女は笑顔を見せた。
 口元に緩やかな弧を描く、いつも通りの笑顔だ。五虎退がいつも目にしている、彼女の笑顔だ。
 その様子を見て、五虎退は安心から思わず小さく息を吐き出した。

「どうして、これにしたの?」
「あるじさまが、お店の紙を見たときに、この浴衣のことじっと見てたので……その、好きなものかと思ったんです」
「よく分かったね」

 彼女が喜んでいるらしいと分かって、五虎退の口はいつもより饒舌になる。
 広告を見せてもらった一瞬、彼女が目を留めた部分。それは広告の中でも女性ものの浴衣の部分であり、その中の一点を注視した時間が長いことを、五虎退は刀剣男士ならではの視力と直感で察知していた。

「物吉さんも、気がついていなかったんですよ」

 少しばかり得意げに話す少年の頬は、敬愛する主を喜ばすことができたという嬉しさで桜色に染まっていた。
 お店の人とどんな会話をしたかを、興奮でつっかえながら語っている五虎退を、藤は笑顔を崩すこと無く相槌を混ぜながら聞いていた。

「大事にするね。汚さないように気をつけないと」
「じゃ、じゃあ、僕も気をつけます」
「五虎退は思い切り楽しむといいよ。初めてなんでしょう?」

 薄く微笑みを浮かべながら、彼女は改めて浴衣を抱え直す。
 この夜に続くお楽しみを思うと、五虎退はそわそわする気持ちを隠せそうになかった。


 ***


 どこからか遠く、笛の音が聞こえる。見上げれば、西日が空に最後の光を投げかけて、紺と朱が混ざり合った美しい彩りを見せていた。

(主の夢で見たのと同じだ)

 空に浮かび上がるように吊されている赤提灯も、耳に入ってくる威勢のいい声も、やはり今日の夢と同じものだと髭切は振り返る。
 時刻は十八時も半ばの頃。藤と歌仙、五虎退、物吉、それに髭切は、約束通り万屋の通りで行われる祭りに参加していた。それぞれの装いは、五虎退たちが希望していた浴衣姿である。
 五虎退は白地に藍色の筆で猫が描かれた浴衣、物吉は白地に薄い金がかった色で葵の紋様をあちこちに散らしたものだった。歌仙は、落ち着いた深い紫に葡萄の柄を意匠とした一品を纏っており、対照的に髭切の浴衣は黒や金、朱の菊を咲かせたやや派手なものだった。藤は言わずもがな、五虎退が渡してくれた青花の浴衣を纏っている。
 祭りの場所こそ、勝手知ったる商店街通りではあるものの、その入り口をくぐり抜けた先はまるで別世界が広がっていた。

「すごいです、あるじさま! いつもと全然違います!!」
「そうだね。ここはこんな感じになるんだ」

 五虎退が興奮するのも無理はない。歌仙ですら、思わず足を止めて目の前に広がる光景に圧倒されかけていた。
 まず目に飛び込むのは、人、人、人。万屋の通りはいつも誰かがいることが多いが、ここまでの人の数を彼らはまだ目にしたことがなかった。
 続いて視界に飛び込むのは、通りに並ぶ露店とも天幕とも似た店。これが屋台というものかと、少年たちは目を輝かせる。
 一方、冷静さを一旦取り戻した歌仙は、通りの入り口に貼られている紙を注視していた。

「歌仙、どうしたんだい」
「いや、注意書きがあってね。今日は人が多いし、祭りという空気にあてられて良くないものが来てしまいやすいらしい。対策として結界を張っているから、そこから出ないように、と」

 歌仙に声をかけた髭切は、彼が指す注意書きに目を留める。果たして、そこには彼が言うように『鳥居の外から出ないように』という記述があった。

「そういえば、ここに浴衣を買いにきたときと、今日は出る先が違ったよね。お祭りだから、その辺りも特別仕様ってことなのかな」

 髭切が言うように、万屋の通りに向かうときは、徒歩で行っているというわけではない。本丸の庭に敷設している、政府が用意した移動用の施設を使用しているのである。
 時間遡行をするときは異なる時代且つ本丸とは違う場所に転移するが、この場合は同じ時代且つ違う場所に転移するようになっていた。これなら主も同伴は可能なので、演練会場に赴く際にも度々利用している代物だ。
 何でも、この時代にいるかもしれない歴史修正主義者に移動中襲われるリスクを排するためや、単純な移動時間の短縮として便利だから使用されているものらしい。ただ、当然出入り口は政府によって指定されてしまうので、どこに出るかは行ってからしか分からない、という不便な部分もある。

「この人混みだ。同じ入り口ばかりを使わせていたら、混雑で大変なことになるよ」
「なるほど。色々考えなきゃいけないんだねえ」

 歌仙の指摘を受けて、髭切は納得したように頷いた。
 彼らがそうやって話している間にも、早速藤は五虎退と物吉と共に少し離れた屋台を覗いていた。

「あるじさま、これは何ですか?」
「これはかき氷だよ。砕いた氷に果物の味をした調味料を垂らして甘くして食べるやつ」
「主様、あちらに鉄砲が置いてありました!」
「それは射的。的当てをするゲームだよ。何だか、意外とやることは普通なんだね」

 矢継ぎ早に質問を投げられている彼女は、早速二人にねだられて屋台の団子を買って頬張り始めていた。

(うん。主は夢のこと、もう気にしていないみたいだ)

 勝手な行動をしている三人を見失うまいと、歌仙が急いで駆け寄る。彼の後ろを、髭切がゆったりとした足取りでついていく。ぬるい夏の夜風が、彼のうなじをそっと掠めていった。


「あるじさま、あっちにあるのは何ですか?」
「あれは鯛焼きだね。普段は万屋の窓口でも売ってるやつ」
「あんな大きな鉄板で焼くんですね……。作るところ、初めて見ました」
「主様、雲を食べている人がいました。どうやって空から持ってきたんでしょう」
「物吉、あれは綿飴だよ。雲みたいな見た目をしてるけど、たしか砂糖でできてるはず」

 少年たちも矢継ぎ早の質問は、団子一つを口にしたくらいで止むことはなかった。髭切も歌仙も、五虎退や物吉がいるから遠慮をしているものの、内心では好奇心が疼いていることに変わりは無い。
 とはいえ、五虎退たちは藤の足取りに合わせて歩みを遅くしているため、主を置いてけぼりにするということにはならなかった。だが、内心走り回ってあちこちの屋台に首を突っ込みたい様子が、黙っていてもひしひしと藤に伝わってきていた。

「物吉、五虎退。気になるものがあるなら、お財布貸してあげるから買っておいで」

 流石に、うずうずしている二人に我慢させるのは気の毒かと思い、藤は巾着の中に押し込んでいたがま口を物吉に渡す。

「でも、あるじさまは……」
「ほら、僕はこの格好だもの。人混みをかき分けたら、着崩れしちゃう。代わりに、二人が僕の分も何か買ってきて」
「お任せください!」
「二人とも、待つんだ。こんな人混みの中で、待ち合わせ場所も決めずに別れるのはよした方がいいだろう」

 まるで鉄砲玉のように飛び出しかねない二人に、歌仙が制止を呼びかける。ぐるりと辺りを見渡して、丁度良く屋台と屋台の切れ目になっている小さな空間を見つけて、歌仙は他の皆を誘導した。

「待ち合わせ場所はこの場所にしよう。はぐれたら、ここに向かうように。いいね?」
「じゃあ、半刻後に集まるということにしましょう」

 歌仙が辺り一帯を手で示し、物吉が時刻について提案をする。彼のいう半刻というのは今で言う一時間だったかと、藤は以前歌仙から聞いた話を思い返す。

「それなら、僕は物吉と五虎退についていこうかな。主はどうする?」

 髭切に話を持ちかけられて、藤は小さく首を横に振る。折良く片隅に置いてあったベンチにすとんと腰を下ろして、

「僕はここで休んでる。歌仙も遊びに行ったら?」
「主がふらふらしないように、僕はここに残っておくよ。何かあったら危ないからね」
「刀剣男士と審神者と万屋の店員さんしかいない場所じゃ、何もないと思うんだけど。歌仙も興味があるんじゃないの?」

 もう一度店巡りを促してみるも、歌仙は首を横に振る。けれども、口ではそう言いつつも先ほどから歌仙の視線が屋台のあちこちを飛び移っていることに、藤は気がついていた。
 とはいえ、歌仙にも刀剣男士としての建前もあるのだろう。そのように考え、彼女はそれ以上あれこれ勧めるのは止めることにした。代わりに、弾むような足取りで去って行く五虎退と物吉、彼らの後ろを寄り添うように歩く髭切を彼女はじっと見つめていた。

 
 ***


 政府が万屋として指定している場所は、基本的には刀剣男士たちや審神者を商売対象として経営をしている地域一帯を指す。審神者たち以外が利用することのないよう、場所は一般人から隠され、従業員や商品の多くは政府の施設を経由して出入りしていると言われている。
 見た目こそ古風なつくりにしているものの、建物自体はこの場所を商業施設として運用するにあたって作られたもので、そこまで歴史があるわけでもない。
 だが、提灯が吊され、露店が建ち並べばそこはあっという間に、さながら異なる世界に迷い込んだかのような、独特の空気を作り出していく。人混みを形成する刀剣男士や審神者の一人一人すらも、この場の不可思議な空間を構成する要素となっていた。
 そんな異世界じみた祭りの場を、五虎退と物吉はいそいそと駆けていく。

「やっぱり、すごいです。人もたくさんで、お店もたくさんで、見たことないものがいっぱいで!」
「主様が好きな食べ物ってなんでしょう。折角だから、合流する前に買っておきたいですよね」
「は、はい。でも、暖かいものなら、冷めないように直前に買った方がいいと、思います。お留守番してる虎くんたちにも、何かお土産を持って帰れないかな……」

 はぐれないように、手を繋いで歩く五虎退と物吉。その姿はまるで仲の良い兄弟のようだと、藤が見ていたなら思ったことだろう。
 ちらりと後ろを振り向くと、彼らから数歩離れた場所を髭切が歩いていた。ついてきているよ、と言わんばかりに緩く手を振っているのが見える。

「髭切さんも、この人混みの中だと、はぐれてしまいそうです……」
「大丈夫ですよ。髭切さん、背が高いですから」

 言いつつも、物吉は自分たちの周りにいる人たちが、髭切に負けず劣らずの上背の持ち主がいることに気がついていた。普段の本丸なら背の高い彼は遠くから探してもすぐ見つかるが、この人の山の中では髭切といえど、油断すればその姿は埋もれてしまう。
 注意せねばと思いつつも、視線を上げた先に見えたものに、物吉はすぐさま心を奪われてしまった。

「五虎退。あの雲みたいなお菓子を売っているお店があります!」
「本当ですか!? 僕、見に行きたいですっ」

 自分より背が低い五虎退で見つけられないのだろうと、物吉は少年の手を引いて人の群れを掻き分けていく。
 数名の刀剣男士や審神者の間をくぐり抜けて、雲のお菓子を扱っている屋台の目の前に出ることに二人は成功した。店主の鮮やかな手つきに、目をきらきらと星のように輝かせ、その一挙手一投足に注目する。ただの棒の切れ端のようなものに、あっという間に雲が絡み付いていく様子に、二人の視線はあっという間に吸い寄せられていった。

「す、すごい……」
「これ、食べられるんですよね……」

 二人が揃って感嘆のため息を漏らしていると、

「おう、勿論食べられるぞ!」

 大きな声の店主が、屋台の軒先に吊り下げられている袋を手で示す。袋の中には、件の雲のようなお菓子が入っていた。貼り付けられている値札に記された額は、二人が借りた財布の中身で十分買えるものである。

「あ、あの。それなら……」

 髭切の分も頼もうかと振り返った五虎退は、「あっ」と小さく声を漏らした。
 すぐに見つかるだろうと思っていた秋の草と同じ色合いをした彼の頭が、どこにも見当たらなかったのである。


 ***


 その頃、髭切は一つの背中を追いかけていた。
 最初は自分から言い出した通り、彼は五虎退と物吉の背中を見つめながら、人混みに押し流されないように歩いていただけだった。
 いくら見た目は幼子といえど、五虎退も物吉も刀剣男士である。簡単にはぐれはしないだろう。それにしても、この祭りというものは見慣れない品があちこちにあって、夢で見るときよりも更に面白い。そんなことを考えながら足を動かしている時、

「――――え」

 彼は人混みの中で、ある者の背中を見つけた。
 夏の深緑よりは薄い、淡い緑の髪をした誰かの背中。背丈は丁度自分くらいで、夜の空と同じ紺色の浴衣を纏っている。
 ただの人混みを構成する一人に過ぎない――それだけのはずなのに、髭切は自分の中に唐突に湧き起こった感情を無視できなかった。
 失くしていたものを見つけたような、ずっと探していた大事な何かにに巡り会えたような。
 嬉しくて、なのに胸の奥が鷲掴みにされているように、とても苦しい。
 気がつけば彼の視界に五虎退と物吉は無く、髭切の足は名も知らない誰かをただただ追いかけていた。あの薄緑の髪の彼を見失うまいと、人混みを押しのけるように、やがて早足になりながら、彼は追う。

(間違いない。僕が、ずっと探していたのは)

 顕現したときから、髭切に付き纏っていたある感覚。まるで、右腕に対して左腕がないような、あるべきものがそこにないという欠落感。
 歌仙たちに抱いていた怒りとは異なる、目を覚ました瞬間から長く尾を引いていた言葉にならない感情の一つ。隣に並び立ち、呼吸を合わせてくれる存在がいないという空虚さ。
 それを埋めてくれるのは今追いかけている彼だと、言葉になできない確信が髭切の背中を押す。

「待っ――――」

 もう少しで彼の肩に手が届く。その時。

「ああ、よかった。ここにいたんだね。迷子になっちゃったのかと思ったよ」
「迷子になっていたのは俺ではない、兄者の方だぞ。まったく……」

 髭切の手が、止まる。
 薄緑の髪の青年は、髭切と全く同じ顔をした青年に声をかけられて足を止めていた。
 無論、突然その場に鏡が現れたわけではない。そこにいるのは、別の本丸で顕現した髭切だ。
 刀剣男士というものは、刀から生まれた付喪神の総称である。だが、本来刀は一つしかない。要するに、人の身を写したこの体は、一種の分霊なのである。
 神の本質は一つであったとしても、その力は分けることができる。つまるところ、同じ見た目、同じような性格の、自分と同一だけれど違う存在がいるということだ。そのことは、頭では理解していた。

「…………」

 そして薄緑の彼は、もう一人の髭切にとっても必要なものなのだと即座に彼は悟る。
 全く同じ存在だからこそ、分かってしまう。

「あれ、そっちの彼は?」

 あちらの髭切も、こちらの存在に気がついたのだろう。薄緑の彼と同色の紺地の浴衣に身を包んだ彼は、自分と同一の金茶色の瞳を向けていた。
 薄緑の青年もこちらを振り向く。その顔立ちは、どこか自分に似ているように見えた。片目を隠す長い前髪によって表情の全貌を知ることはできないが、彼の様子からもこちらを察知したことは分かる。

「ああ、別の本丸の兄者だな。どうかしたのか?」

 まるで他人行儀な――実際他人なのだが――振る舞いに、髭切は続く言葉を失う。
 焼きつくような強い思いを持って追いかけていたところで、薄緑の青年にとっては自分は赤の他人だと分かったから――だけではない。
 兄者という呼び名から察するに、自分は彼の兄という存在らしい。だというのに、今こうして呼ばれたところで自分の中でしっくりときていないことにも、髭切は気がついていた。
 あんなにも求めていたのに、いざ対面するとちぐはぐな所ばかりが見つかってしまい、何と言えばいいのかも分からなくなってしまったのだ。
 やり場のない感情をどうすることもできず、伸ばしかけていた手は、ぱたりと落ちてしまった。

「……ごめん。人違いをしていたみたいだ」
「そうか。それでは、失礼する。兄者、向こうの屋台を見に行こう」

 辛うじて絞り出した声に、やはりその青年は特に感情を動かそうとはしなかった。
 自分の目の前を立ち去る、名も知らぬ彼。どこか自分と噛み合わない彼。
 しかし、今を逃せば彼とまた離れてしまう。それは嫌だと、反射的に再び手が伸びかけたとき。
 ぐいとその腕が横から掴まれる。視線を辿れば、そこには自分と同じ顔をした者がいた。

「だめだよ」

 にこりと微笑み、対峙したもう一人の髭切はすぐに手を離した。だが、微かに掴まれた腕には、指が食い込んだ跡が残っている。
 ほんの一言だったが、彼から感じる圧に気圧されて思わず数歩後ずさりしそうになるのを、髭切は堪える。代わりに、ぐっと目に力を込めて同じ顔をした彼を睨みつけた。

「そんなに睨まないでほしいなあ。ほら、嫉妬は良くないよ。鬼になっちゃうからね。それぐらい、僕なら分かるよね?」
「…………」

 ふと、思考の端に主の横顔が過る。今、彼女がこの場にいたらどんな顔をしたのだろうと考えるも、答えが出るより先に、もう一人の髭切が彼の横を通り過ぎていってしまった。

「君の所にも、早く来てくれるといいね」

 すれ違いざま、そんな声が聞こえる。まるでこちらを励ましているようだったが、そこに込められた意味は違うと髭切は直感で理解する。
 同じだからこそ分かる。
 あれは、「お前に譲るつもりはない」という宣言だ。

「…………」

 自分があの青年に対して強い思いを抱くの同じように、あの髭切も彼を必要としている。横取りをするような真似はできないし、するつもりもない。
 理解してはいるが、しかし髭切は溜め込んだ思いを吐き出すような息を吐く。
 長く長く、自分を駆り立てた衝動を外に追い出すようなため息の後に、髭切はようやく周りを見る余裕を得た。

「……ここ、どこだっけ」

 五虎退たちとはぐれてしまったことに、彼はそのときになってやっと気が付いたのだった。
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