本編第一部(完結済み)
空が、とても高い。
思わず手を伸ばしてみても、当然届くことはない。空に手が届かないことなんて、とうの昔に知っているはずのことなのに、ここならばあるいは届くのではないかと期待し――やはり、虚空を掴むばかりだった。
「歌仙、何してるの?」
隣に立つ主が、怪訝そうな声で尋ねる。空に手が届きそうだったと答えるのは流石に恥ずかしく、虫がいたからと適当にごまかしてから、改めて目の前の風景に歌仙は目をやる。
ここは本丸の裏手の山。主が以前物吉と遊びに来て、泥だらけになって帰ってきたところだ。
今日は、季節が夏に変わってから怠っていた山道の整備をしたいと言い出した主の付き添いで、歌仙が彼女の供をしていた。前回山登りをした際に、手に木屑を大量に刺して戻ってきたことは記憶に新しく、彼女に万一のことが起きないように、歌仙がついて来たのである。
実は崖から滑落しかけたことについては、彼の怒りが怖くて物吉と藤の間だけの秘密になっていた。
「僕はこの辺で一度休むつもりなんだけど、歌仙はどうする?」
「…………」
「歌仙ってば」
彼女に軽く小突かれて、歌仙ははっとする。
殊更に彼がぼーっとしていたわけではない。ただ、眼下に広がる景色に目を奪われていたのだ。
開けた斜面の上に延々と続く緑、そして山の稜線に切り取られた、抜けるような青い空。
斜面のてっぺんにいる形となっている歌仙が、つい空に手を伸ばしたくなるほど、そこは空が近いように思えた。以前、物吉と藤が来た時が目にした絶景は、歌仙からも言葉を奪っていったのだ。
「……こんな場所があるなんて、思わなかったよ」
「素敵な場所だよね。景色もいいし、夏でも風が通りやすいから涼しいみたいだ。ちょっと滑りやすいのが、玉に瑕かな」
転がり落ちた物吉の姿を思い返して、藤はくすりと笑う。
歌仙の袖を引いて誘導しながら、藤は宣言通り木陰に腰掛けて休息を取り始めた。歌仙も彼女に倣い、腰を下ろす。
夏の茹だるような暑さは、高所独特の気温差のおかげでほんの少し和らいではいるものの、やはり穏やかに過ごすには厳しい蒸し暑さであることには違いない。藤の隣に座った歌仙は、暑気を体から追い出すかのような長いため息を吐いた。
「どこにいても、夏はやっぱり暑いね。髭切に畑仕事を任せてきちゃったけど、倒れてないといいな」
汗を持ってきたタオルで拭いながら、彼女は誰ともなしに言う。頬と首にあった傷はすでに塞がり、歌仙が予想したように跡形も無くなっていた。だが、あの時に起きたことは、その後のやり取りも含めて、簡単に忘れられるものはない。
「主は、どうして髭切の悩みを気がつけたんだい。同じ刀剣男士の僕らでも、彼があんなことを考えていたなんて想像もつかなかったよ」
気がつけば、いつのまにかそんな問いを歌仙は口にしていた。
「刀帳を読んで、何となくそうかなって」
「それだけで分かるものでは無いと思うよ。きみは、彼をよく見ていたんだね」
「たまたまだよ」
藤は首を横に振り、歌仙の賛辞を否定する。
戦いの際に肩を並べていた歌仙でさえ、髭切の心中を推測して、彼が苛立っているという発想にすら至らなかった。あれから膝を突き合わせて話はしたが、今でもわだかまりを完全に消せたようには歌仙には思えていない。
髭切自身は「もう気にしなくていい」と言ってはくれている。けれども、部隊を預かる刀として、主の最初の刀としてという前提を抜いて考えても、この言葉にし難い感情を綺麗に整理することはできていない。
そもそも気がつかない内に人を傷つけたということが――自分が意識して傷つけようとしたわけでも無いのに、知らず知らず人を傷つけていたという事実が、歌仙の心中に重くのしかかっていた。
「……分からないものだね」
「髭切のこと?」
「いいや。彼のこともだが、こんな気持ちになるなんて思わなかったんだよ。彼が言うように、僕は自分の選択を誤っていたとは思わない。今でも、主を守るために、彼と対峙したことは間違いではなかったと考えている。だけど――何なんだろうね」
髭切がかつてそうしていたように、歌仙もまた自分の胸に手を当てる。
「正しいことをしていたはずなのに、ここが痛いような気がするんだ」
「…………」
顔をしかめている彼の瞳は、普段の澄んだ色合いに今は薄らと陰がよぎっていた。
「いや、今はこの話はやめようか。ともあれ、主のおかげで僕らは仲間を失わずに済んだようだ。感謝しているよ」
「うん。髭切が思い直してくれてよかったよ」
実際のところ、刀解してもいいという言葉は、気持ちのやり場を失った彼が自棄になって発した言葉のようであり、諸処の事情が解決すれば消えたいと思う理由も共に無くなっていた。
そこまで予想できていても、死ぬことを口にすれば心穏やかではいられないのだろう。髭切は藤から何度か念押しで、刀解はしないと言われていた。
「せっかくの絶景なんだ。いい歌も思いつきそうなことだし、少し散策してこようかと思うんだが、主はどうするんだい?」
「僕はもう少し休んでる。腰を下ろしたら、立ち上がるのが億劫になっちゃったよ」
「そんなことを言ってると、今にお尻が地面にくっついたまま離れなくなるよ」
「まさか」
軽口を叩いて、どちらからとも知れずくすりと笑い合う。
やがて小さくなっていく歌仙の背中を見送りながら、彼女はゆっくりと木にもたれかかり、今までのことに思いを馳せた。
七月の頭に起きた髭切の顕現から伴う一連の事件から、既に三週間以上が過ぎている。暦の数字は七から八に切り替わり、留まることを知らない真夏の太陽が容赦なく本丸も照りつけていた。
幸い、山が近いからか、本丸の窓を全て開放して風を通していれば、朝と夜に関しては暑気を耐え忍ぶことができる。昼もエアコンをつけていれば、外の暑さを室内から追い出すのは容易い。
審神者として、刀剣男士としての仕事の方に関しては、出陣の際に生じた被害を考慮してか、あれから出陣の命令は下っていない。一度遠征の要請はあったが、それも単なる哨戒任務であり、歌仙たちの報告でもその時代の人間と関わるようなことはなかった、とあった。
ひと時の休息。この数週間を端的に述べる表現としては、これ以上に相応しいものはないだろう。
「……歌仙、いなくなったかな」
彼の姿が木立の隙間に消えていくのを完全に見届けてから、藤は長く長く息を吐く。額にかかる前髪をかきあげようとして、しかし額に巻いたバンダナに触れてしまい、あげかけた手を下ろしてしまう。
角が露見した後も、藤は未だにこの額に巻いたものを取らなかった。その理由を誰かが聞くことはなく、藤が語ることもなかった。
さわさわと、八月の風が彼女の髪を揺らしていく。程よい疲労感が、彼女の瞼を重くしていく。
「…………歌?」
風のざわめきが奏でる音はまるで、誰かが子守唄を歌っているように聞こえた。けれども、ただの木々が揺れる音と気がついた彼女はゆっくりと首を横に振る。
「そういえば、最近も誰かが歌っているようなのを聞いたような……夢の中だったかなあ。あんな歌声、聞いたことないと思うんだけど」
記憶を辿ったところで答えに辿り着くことができず、藤は考えるのをやめて再び睡魔に体を委ねる。
「なんだか、疲れたなあ……」
誰が聞いているわけでもないからと、唇から剥がれ落ちたような小さな声を発してから、彼女は瞳を閉じた。風がざわめかせた木々によって在りし日の歌を思い返し、藤は縋るような微かな囁きを漏らす。
「……会いたいなあ、お母さん」
蒸し暑い空気を漂う一筋の涼風が、彼女の言葉を攫っていった。
「……やっぱり、疲れていたのか」
藤が眠っている木陰の下から少し離れた場所で、歌仙もまた人知れずため息をつく。丁度よく草があまり伸びていない部分があったのでそこに腰掛け、眼下に広がる緑をぼんやりと見つめる。
藤に話していたように、歌を詠みにここでこうしているわけではない。最初はそのつもりもあったが、彼女の漏らした言葉が耳に入ってしまい、そんな気持ちも雲散霧消してしまった。
「髭切のこともあったし、手入れも続いていたからね。疲れが溜まるのも仕方ない……か」
新しくやってきた彼のことは、先ほど主と話した通りだが、その後も出陣時の傷を癒やすために藤は不眠不休で手入れを行い続けていた。ほぼ半日をかけて手入れを行い、終わった頃には日が昇りきり、既に時計の針は正午近くを指していたほどだ。
手入れが済むや否や、彼女は「休む」と言い残して部屋に籠もってしまった。絶対入るなと言われた手前、中を覗いて様子をうかがうこともできず、歌仙たちは不安と心配を抱えながら一晩を過ごした。
もっとも彼らの不安は杞憂であり、翌日けろっとした顔で食卓に姿を見せた彼女の言うところによると、単に丸一日眠っていただけとのことだった。
人間にとって睡眠というのは体力と気力、共に回復させるために大事な行いだと聞く。ならば、彼女が一日中眠りについていたのは、枯渇したそれらを回復するためなのだろう。
そこまで考えていたところで、微かに藤の声が彼の耳に届く。
『……会いたいなあ、お母さん』
普段は耳にすることがない細い声に、歌仙ははっと目を見開き、そして目を伏せた。
「……八月は里帰りの季節というそうだし、主も故郷が恋しいと思うこともあるんだろうね」
書物で得た知識によると、八月は主たちの時代では里帰りの季節にあたるらしい。たとえそうでなかったとしても、と歌仙は更に続ける。
「親しい人物と離れるというものは、寂しいと思うものなのだろう。僕にはまだ、よく分からないが」
顕現するまで刀として在り続けた時分には、感じることもなかった自分という存在。
人間としての感覚は身につけてきた、と思ってはいるものの、十数年とはいえ確かに人間として暮らしてきた主とは、胸中に過るものもまた違う。
それに、と歌仙は延々と広がる痛いほどの緑を見つめながら、言葉を紡ぐ。
「先日、故郷から便りも届いていたようだからね」
本来目を通すべきではないと思いつつ、歌仙はついその書面を隅から隅まで読んでしまったのだ。
その内容を彼は思い返す――。
***
「また机の上を散らかして。きみはズボラなんだから」
開け放たれた窓から吹き込む夏の風に遊ばれ、藤の部屋の机上に置かれていた紙が、がさりと動く。微かな抵抗も虚しく、バサバサと床に広がって落ちるそれらを目にして、歌仙は嘆息する。
「ああ、全く。こういうことになるから片付けは必要なんだよ」
部屋に入ってきた歌仙は小言を並べ立てるも、肝心の聞く相手である藤はいない。当然だ。彼女は今畑仕事に精を出しており、部屋を空けている。
仕方なく、部屋の主の代わりに歌仙が落ちた紙束を拾い上げていく。多くは政府から送られた審神者向けの通知であったが、中には出陣に関する主の報告書の下書きのようなものまで見受けられた。
大事な書簡は、見る人も限られなければならないものであるということは、歌仙も知っている。とはいえ、ここまで開けっぴろげにしておいて、今更見る人を限るも何もない話ではあった。最低限の配慮として、なるべく文字に視線を落とさないようにして、片付けを進めていく。
ほぼ全ての書類を拾い集め、机上のそれらに文鎮を置いて、歌仙が一息ついたときだった。ガサリと足元で音がして、彼は自分が何かを踏んでいることに気がつく。
「いけない。破くところだったよ」
知らずに踏んでしまっていた紙も慎重に取り出し、そこで歌仙は目を留めてしまった。
『■■へ』
不自然に塗りつぶされた宛名の次に続いた言葉は、他愛のない時節の挨拶であった。興味を惹かれてしまい、良くないことだと思いながらも、歌仙は好奇心に負けて、文字を目で追っていってしまう。
政府のものからにしては随分と砕けた調子の文が、恐らくは宛先である藤に向けて綴られている。彼女の部屋にあったのだ。名前が消されていたとしても、彼女に宛てたものと判断して間違いないだろう。
一体、この手紙の差出人は誰なのかと歌仙が眉をひそめた頃、
『君が家を出てからまだ数ヶ月しか経っていないとは、未だに信じられないものがある。月日の流れが随分早く感じられていたのだと思い知らされたものだ』
そのような一文を見て、歌仙は確信する。この文は、主の家から届いたものなのだ、と。
無論、歌仙とて審神者になる前に主が一般人として平凡な生活を送っていたことは、頭では理解していた。けれども、こうして実際に生きていた道筋の片鱗を見せつけられると、言い知れない寂しさと、好奇心が疼く。彼女が以前のの生活について、一切今まで歌仙たちに語らなかったのも、この気持ちを生み出した要因だろう。
気がつけば、歌仙は恐る恐るではなくしっかりと、文章に目を通し始めていた。
一人で暮らしていると、家の広さを妙に感じてしまうらしいということ。
彼女と同じ学び舎に通っていた者も、それぞれの仕事や勉学に励んでいるらしいということ。
彼女が実家に残したものは、差出人の手によってまだ家に保管されており、必要ならば送ることも可能だということ。
他愛のない内容の続きに記された文字を見て、歌仙は視線をそこで止める。
『富塚という名前の人物が、政府の人間として君の担当になっているはずだ。あれは私の後輩で、少々お節介が過ぎるところがあるが悪い男ではないことは保証する。私の代わりに、君の助けになるだろう』
その名は書面にある通り、確かに彼女の仕事を補佐する役目を担っている人間だ。彼がこの本丸に訪れた折、主は彼が「自分の保護者の知り合い」と説明していた。ならば、手紙の差出人は、主の保護者ということになる。
(恐らくは主のご両親――筆跡からして、男性だから父君だろうか)
女性が書いた割にはやや力強さを感じる筆跡に、歌仙は推理を走らせる。そう考えると、今までの文章に対する見方というものも自ずと変わっていく。
手紙も終わりの方になると、今度は彼女の体調や生活に対する心配が綴られていた。
ご飯は食べているか。風邪をひいてはいないか。怪我はしていないか。
定型句のような文章ではあったが、その文面を見て歌仙の顔は物憂げなものに変わる。
「料理に関して不便を感じさせたことはないはずだが、風邪と怪我については……」
先月は山歩きの末にずぶ濡れになって帰ってきて、風邪をひいて藤は寝込んでしまっていた。そんな状態であるにも関わらず、遠征から戻ってきた自分を励ましてくれたことを歌仙はまだ覚えている。
怪我については思い返すだけでも、苦々しい感情が蘇る。髭切を顕現したとき、彼女は危うく殺されるところだった。髭切にも言い分があると理解し、彼との話も既に一段落してはいたが、藤が怪我をしたのは紛れも無い事実だ。こんな有様では、彼女の父親には合わせる顔がない。
そう思い、更に文字を目で辿ると、歌仙はある記述で目を留める。
『そちらに行く前に話していた件についてだが、今も■■が頼めばすぐに手配はするつもりだ。私の知り合いの医師も、問題ないと言ってくれている』
「……話していた件? 医師に?」
言葉だけ見るならば、まるで藤が何か病を患っているようにもとれる。
とはいえ、彼女がそのような素振りを見せたことはない。風邪をひいたとき以外は健康そのものであり、重篤な病に身を蝕まれているようには到底見えない。
何か別のことだろうかと歌仙が首をひねり、折り重なった手紙のうち最後の紙に記された文字を見て、歌仙は微かに目を見開く。
『お母さんの墓参りに帰ってきてほしいと思っているのだが、やはり難しいだろうか。君が顔を見せたら清子も喜ぶだろう。もう今年で一年が経ったんだな。本当に時間の流れというものは、早いものだ』
そのような文字に歌仙は小さく息を飲む。この文が示すことは即ち、彼女の母親が既に故人であるということだったからだ。
戦の時代ならともかく、現在の平穏な時代で親を亡くすというのは、ありふれた出来事というわけではないだろう。ならば、藤にとって少なからず心の傷となっているはずだ。
(だから、僕らが怪我をすると、彼女は必死に手入れをするのだろうか)
死ぬことがどんな意味を持つか、身近な存在で知ってしまっているから。彼女は寝る間も惜しんで、手入れに必死になるのかと歌仙は考える。
『■■は近所の夏祭りが好きだっただろう。去年は勉強で行けなかったことだし、帰省ができるなら墓参りがてら今年は羽を伸ばしてみるのもいいかと思うのだが、その辺の融通は利くのだろうか。また連絡をしてほしい』
後に続いたのは、よくある結びの言葉と別れの挨拶だった。結局、手紙の最後まで読み終えてしまってから、歌仙は人知れず息を吐く。
結びの言葉と共に記された月日を見る限り、この手紙が書かれてから既に一ヶ月は過ぎている。届くのに時間がかかったのか、それとも単に主が手紙を放ったらかしにしていたのか。
真相は定かではないが、歌仙としては手紙の返事をどうしたのかと訊くわけにもいかない。そんなことをしたら、盗み見てしまったと主にバレてしまうかもしれないからだ。
結局何をすることもできず、元あった場所に手紙を戻して、彼は立ち去ることを選んだ。
***
山中に響く蝉の声が、歌仙を現実へと引き戻す。木陰の下にいる小さな藤の姿を見て、歌仙は知らず知らずの間に沈鬱な表情になっていた。
「審神者が里帰りをしている間に何かあったらと思うと、ここを長く離れることは許されないのだろうが」
そこまで言いつつ、たとえ許されたとしても、主が首を縦に振るかどうかと歌仙は考える。
普段はいい加減なくせに、審神者としての責任感は持っている彼女のことだ。そんな仕事を投げ出すようなことを、自分に許すとは想像しづらい。
しかし、先の言葉を聞いてしまった以上、何もしないままでもいいと思えるような人物ではないのが、この本丸の歌仙兼定という者だった。
――母を恋しいと思う気持ちを押し殺して日々を過ごし、墓に参ることすら職務が許さないのなら。
――せめて、手紙にあったように羽を伸ばす機会ぐらいは与えてあげたい。彼女が審神者になるために失った日常を、少しだけでも取り戻してあげたい。
そこに意味があるのかは定かでないが、自然と歌仙はそのように考えていた。
「これでは、到底歌も詠めそうにないね。こんなにも良い眺めだというのに」
歌仙は、今日何度目になるか分からないため息を吐く。主の午睡を守るために、彼は暫し一人風に吹かれることを選んだ。
***
空が、とても高い。
奇しくも同じ感想を歌仙が抱いているとも知らず、髭切はぼんやりと空を眺めていた。
雲が一つも出ていないおかげで、澄んだ青を邪魔するものは何もない。太陽を真正面から見ると、目を刺すような痛みが走り、髭切は思わず目を瞑った。
茹だるような暑気のせいで、こうして立っているだけでもじんわりと汗が浮かぶ。首から引っ掛けた麦わら帽子をかぶり直し、彼は同じく首にさげていたタオルで汗を拭った。
視線を空から地面に戻すと、今日の仕事の成果が広がっていた。すなわち、彼が撒いた水により、生き生きと葉を広げる植物たちである。
主の怪我が治った後も、髭切はなし崩し的に畑仕事を手伝うようになっていた。今日は留守番ついでに、全ての作業を彼が一手に担っていたのだ。
「主に言われた通りにしたから、今度は怒られなくて済むよね」
視線を少しずらせば、まるで小さな太陽のように花を咲かせた向日葵が見える。太陽を追いかけるように花の向きを変えるというこの植物は、他の草花よりも背が高い。自分の背丈でも見上げなくてはいけないものがあると思うと、些か不思議な気持ちである。
本日の畑仕事を無事に終えた彼は、片付けもすんで一息を入れていた。
「髭切さーん」
そんな折、聞いた覚えのある少年の声が彼の耳に入る。
しゃがみかけていた彼が立ち上がると、ちょうど白髪の少年と琥珀色の髪の少年――五虎退と物吉が、こちらに向かって走ってくるところだった。
「五虎退、物吉。お疲れ様」
万屋へとお使いを頼まれた二人は、髭切のもとにやってくると、揃って笑顔を見せる。彼らに向けて、髭切も同様に笑いかける。
主を斬り付けた一件については、歌仙と同じく、彼らとも言葉を交わし合っていた。髭切にも髭切なりの言い分があり、五虎退たちにもまた、言い分がある。同じ刀剣男士同士ということもあって、一度お互いの考えが明らかになってしまえば、相互理解はそこまで難しいものではなかった。
五虎退も物吉も、心中はともかくとしても、殊更にあの話題を蒸し返して、執拗に髭切を責めるようなことはしなかった。一週間ほどは互いに気まずさが残っていたが、今はもう、それも解消した話である。
駆け寄ってきた二人は、傍らに咲く向日葵に負けないぐらい輝いた笑顔を髭切に見せていた。
「何だか楽しそうだね、二人とも。美味しいものでも食べてきたの?」
「違いますよ、髭切さん! 実は」
「あ、ぼ、僕が言います。言わせてくださいって頼んだのに、物吉さんったら酷いです」
「あはは、ごめんなさい。じゃあ五虎退、どうぞ!」
何故か大袈裟に一礼をしてから、物吉は言葉を譲るように、わざとらしく手を五虎退へと広げる。二人が何を言い出すのかと髭切は首を傾げ、五虎退が満を持して口を開きかけた時。
「ただいま帰ったよ」
ザクザクと畑の通り道を歩いて、二人分の影が差した。
「あるじさま!」
「主様、おかえりなさい」
「おかえり、主」
それぞれが出迎えの挨拶をする相手は当然、この本丸の主の藤にである。彼女は薄く笑みを浮かべて、皆からの言葉を受け取る。その後ろには、服や髪のあちこちに草葉をつけた歌仙が立っていた。
「夏の山は、どんな感じだったの?」
「草がすごいね。通り道も埋もれかけてたから、手入れしておいたよ」
髭切に問われ、藤は後ろに広がる山を人差し指で指す。彼女たちが出入り口代わりに使っている部分は、行きよりは幾らか人が通れる空間が確保されているようだった。
「きみが日本刀で草刈りはできないか、と聞いてきたときは、本当にどうしてやろうかと思ったよ」
「だって切れ味が自慢だって話してたじゃん」
藤が膨れっ面を見せると、草刈り鎌代わりにされた歌仙はやれやれと言わんばかりに肩を落とした。その様子を見て、髭切と五虎退、物吉は思わず笑い声をあげる。
「それは歌仙が可哀想だよ、主。彼の名前が雑草切り兼定になってしまう」
「そうか。それは確かに駄目だね」
「主様、あそこには行きましたか?」
「うん、勿論」
物吉の言う場所が、彼と以前見つけた眺めの良い丘陵のようになっている所というのは、藤もすぐに理解した。
「歌仙、折角の絶景だったんだから歌の一つでも詠めばいいのに。そこら辺ぐるっとしただけで、戻ってきたんだよ」
「……そういうわけにもいかなくてね」
何か思うところでもあるのか、歌仙は目を逸らす。藤は首を傾げたが、歌仙としては真実を言うわけにもいかず、黙っているしかなかった。
そんな彼の葛藤など露知らぬ髭切は、
「五虎退。そういえば、何か話そうとしている途中だったよね」
話の続きを五虎退に促す。「そ、そうでした」と気を取り直した彼は、藤の方を見てどういうわけかキラキラと瞳を輝かせる。
「あ、あの。実は今度万屋がある商店街通りで、夏祭りをやるそうなんです。お店の人が『良かったら、遊びにおいで』って、言ってました。他の本丸の人も、刀剣男士も、たくさんたくさん、来るんだそうです」
腕を広げて、自分の中の喜びをこれでもかとアピールする五虎退。抑えてはいるものの、物吉からも隠しきれない高揚感が滲み出ていた。
「あの、僕たちも、その……行っても、いいでしょうか」
こんなにも期待の色を滲ませながらも、五虎退は主の許可を得るという手順は、きちんと踏もうとしていた。無論、藤も彼らが何を望んでいるかは、ここまで言われれば大体察する。
「僕は構わないよ。ただ、後ろの怖い顔した人がなんて言うかは」
「誰が怖い人だい」
茶化すような言葉とともに、ちらと歌仙を見つめる藤。それに応じながら、彼は藤の頭に載った帽子の上から軽く小突く。
からかい合いながらも、歌仙はこの五虎退の提案を好機と捉えていた。
髭切の顕現から続いて色々と心労も溜まっているだろう主の息抜きに、夏祭りはうってつけと言えるだろう。何せ彼女の父親曰く、彼女は昔、祭りをとても楽しんでいたそうなのだから。
そんな思惑は歌仙は露ほども滲ませず、しれっといつもの表情を装った。
「僕も構わないよ。主が一緒なわけだし、何かあったとしても皆で行動していれば大丈夫だろうからね。それに」
「えっ」
驚きの声を漏らしたのは、先ほどまで笑っていた藤だった。どうしたのかと皆が彼女に視線を送ると、
「……僕も、行くの?」
五虎退たちにとっては暗黙の了解であったことを、改めて彼女が問いかける。
これには、五虎退や歌仙だけでなくにこにこ様子を見守っていた髭切までも、一瞬驚きを露わにしていた。
「あ、あの……もしかして、あるじさまは、お祭りが嫌いですか?」
「主、きみは祭りというものが好きなのではないのかい」
思いがけぬ主の問いかけに、五虎退の問いに重ねて歌仙すらも思わず口を滑らせる。
幸い、藤は不審がる様子もなく、「そういうわけじゃない」と首を横に振った。
「嫌いじゃないよ。美味しいものも売ってるし、いつもと違う感じの空気が楽しいし。でも、その」
その次に何と言おうとしたのかは、彼女が口ごもったことで分からずじまいになってしまった。だが、歌仙には彼女が「僕は審神者だから」と言おうとしたように思えた。
責任を持った故に、楽しいことも控えようと自分に言い聞かせているのではないか。しかし、歌仙としてはその責任感は尊敬に値するとしても、今は不要と考えていたものだ。
「いいじゃないか。羽を伸ばす丁度いい機会なんだから」
「……そうだね。うん、そうする」
歌仙に促され、彼女は漸くいつもの笑みを皆に見せた。
口角を上げて、ゆるく弧を浮かべた笑み。彼女の、普段通りの笑顔だ。
「あの、それで、夏祭りって何をする所なんですか?」
話がまとまったかと思いきや、根本的な質問を五虎退から投げかけられ、今度は藤が目を丸くした。
「その説明は受けてなかったんだね。屋台や出店っていう、露店みたいなものが沢山並ぶんだよ。花火が上がったり、盆踊り大会なら櫓の周りで踊ったりね。万屋の夏祭りなら、普段の商店街がもう少し賑やかになる感じかな」
彼女の説明を聞き、それぞれが思い思いの光景を思い浮かべる。けれども実際に参加したことのない彼らにとっては、いつもの万屋が賑やかになるということしか想像することはできなかった。
「それと、浴衣を着るんですよね。ボク、お店の人から安くするよって言われたんです」
商売上手の店主から預かってきたらしい広告の紙を、物吉はいそいそと目の前の主に渡す。
どうやら、彼が訪問した雑貨屋は、夏祭りに向けて浴衣の取り扱いも始めたらしい。刀剣男士向けに男物の品が多く載せられているが、紙の端には審神者向けと思える女性ものの華やかな浴衣も並んでいた。
藤の視線はある一点のところで止まり、それから顔を上げて今度は歌仙の方をじーっと見る。
「……なんだい?」
「お金、使ってもいいかなって、視線で気持ちを訴えてみてる。僕の分はなくても構わないけれど、五虎退たちの分だけでもそれなりにするかと思って」
「そんな言い方をしなくても、駄目とは言わないよ。物吉、五虎退。明日、そのお店に行って僕らの浴衣も見繕ってきてくれるかい」
「は、はい! 髭切さんは、どうしますか?」
勢いよく頷いた五虎退は、先ほどから黙りこくっている髭切に声をかける。ひょっとしたら彼は行くことが嫌なのかと心配に思っていたが、
「僕も一緒について行こうかな。万屋でゆっくり買い物をしたことはまだないんだよね」
笑みとともに同行を申し出る髭切に、五虎退はほっと胸をなでおろす。
しかし、彼は少年に返事をした後、何故かじっと藤の方を見つめていた。視線に気がついた藤が、首を傾げる。
「髭切?」
「……ううん、何でも無い。主、片付けしたら手合わせに付き合ってくれないかな」
「いいよ。珍しいね、髭切からなんて」
「うん。ちょっと気になることがあって」
言葉を濁し、彼は道場へと足を向ける。藤も彼の後ろをとんとんと軽い足取りでついていった。その後ろ姿からは、何の懸念も心配事もなさそうに歌仙たちには見えた。
***
ビュンッと空気のうなり声と共に、トンッという鈍い音が響く。
「──痛っ」
小さな悲鳴。続いて、ドスンという尻餅をつく音。カランというのは、藤の手から落ちた木刀が床へと跳ね返った音だった。
軽い手合わせのつもりで髭切が振るった木刀が、思った以上に強く藤の肩に当たり、その弾みで彼女が転んでしまったのである。
「ごめん。寸止めしたはずなんだけど」
慌てて木刀を下げて、髭切は肩を撫でている藤の元に駆け寄る。
本来なら、主との手合わせは刀剣男士同士の手合わせと異なり、寸止めをするべきである。そのことを忘れていたわけではない。実際、先の動きも勢い余ったというよりは、振るう得物の制御を十全にしきれていなかったのが原因だ。
「大袈裟な声を出してごめん。そんなに痛くないよ。ちょっと当たっただけだから」
彼女がいう通り、腫れたり内出血のようなものができたりはしていないのだろう。髭切がぺたぺた肩に触ってみても、彼女が顔を顰めるようなことはなかった。代わりに、ぴょんと肩を跳ねさせて藤は髭切からすこし距離を置いた。
「どうしたの?」
「急に触るからびっくりしたの。痛くはないよ」
「それなら良かった」
主の無事を確かめてから、髭切は自分が刀を握る右手を開いたり閉じたりを繰り返す。じっと見つめる彼の様子は、まさに真剣そのものだ。
「……まだ、痺れるの?」
「少しね。大丈夫。敵に対して寸止めする必要はないから、気にすることはないよ」
「そう……」
髭切が言うように、敵相手に直前で刃を止めるようなことはないだろう。けれども、やはり思うように得物を振るえないというのは落ち着くものではあるまい。藤が気遣うような視線を送ってみるが、変わらず髭切は笑顔を浮かべるだけだった。
今の手合わせも、本当なら更に上――首元を狙ったはずなのに、当たったのは肩だった。その点からも、まだ本調子ではないことは髭切も分かっている。
とはいえ、ここで彼女と手合わせをしているのは、不調を彼女に知ってもらいたかったからではない。もっと別の話を、主としたかったからである。
さて、どう切り出したものかと彼が思案していると、
「ちょっと休憩しようか」
丁度良くかけられた彼女の誘いに乗り、髭切は道場の端に腰を下ろす。
夏の暑さは冷たい空気を送り込む絡繰り──冷房というもののおかげで感じることはないが、体を動かせば汗もでる。
藤がタオルで顔を拭っているのを横目に、髭切は自分の汗を拭くこともなくじっと彼女を見つめていた。
「……僕の顔に何かついてる?」
「顔にはついてないね。ただ、聞きたいことがあって」
「うん?」
見当もつかないと言う顔をしている藤に、髭切はどう切り出したものかと考える。
彼だけが、五虎退、物吉、歌仙らの夏祭り談義にあまり口を挟まなかった理由。それは、彼らが話している間に髭切の胸の内によぎった苦い何かが原因だった。
別に、髭切が歌仙たちに悪感情を抱いたわけではない。それは、彼自身が分かっている。なぜなら、その苦い何かはまるで誰かの思いを勝手に覗き込んでしまったように、予兆も無く浮かび上がったものだからだ。
(この前の直感が正しければ、これは主が感じた気持ちだと思うんだけど)
以前、主と正面から言葉をぶつけ合ったとき、彼女の恐怖が自分に反響するように伝わったことを、髭切は覚えている。今回の不自然な気持ちの揺らぎも、まずそれが原因だろう。
もっとも、その苦々しさ自体も、今はすっかりなりを潜めている。
わざわざ蒸し返すものではないかもしれない。ただの気のせいかもしれない。けれども、髭切は無視することができず、感情の本来の持ち主である主に向けて尋ねることを選んだ。
「主は、やっぱり夏祭りが嫌いなのかい」
「へ? そんなことないよ。美味しいもの食べられるし、夜中に出かけるなんてなかなかないことだし、好きだよ」
彼女はけろりとした様子で、寧ろ好感を抱いていることを述べる。
ならば、何か別の理由があるのかと考えるものの、自分の感情に素直に向き合ったのすら数週間前が初めてという髭切には、この問題はあまりに荷が重いものだった。どうにかこうにか別のことが原因ではないかと思案し、ようやく導き出した答えは、
「じゃあ――物吉たちのことが、嫌い?」
「……嫌いじゃないよ。髭切、もしかして話題に入れなくて拗ねてるの?」
あっという間に否定をされてしまい、髭切は思考の行き止まりにぶつかってしまった。
ならば、あの苦い感情はもっと普遍的なものが原因だったのだろうか。単に外が暑いから疲れたとか、お腹が空いたとか、そういうものが理由だったのだろうか。
何を勘違いしたのか、「髭切も子供っぽいところがあるんだね」と藤に言われながら、五虎退がされるようにわしゃわしゃと頭を撫で回されてしまった。
なすがままになっていた髭切は、自分の中の問答に必死で気がつくことが無かった。
藤の顔の笑顔が、いつも以上に一分の隙もないものだったということに。
思わず手を伸ばしてみても、当然届くことはない。空に手が届かないことなんて、とうの昔に知っているはずのことなのに、ここならばあるいは届くのではないかと期待し――やはり、虚空を掴むばかりだった。
「歌仙、何してるの?」
隣に立つ主が、怪訝そうな声で尋ねる。空に手が届きそうだったと答えるのは流石に恥ずかしく、虫がいたからと適当にごまかしてから、改めて目の前の風景に歌仙は目をやる。
ここは本丸の裏手の山。主が以前物吉と遊びに来て、泥だらけになって帰ってきたところだ。
今日は、季節が夏に変わってから怠っていた山道の整備をしたいと言い出した主の付き添いで、歌仙が彼女の供をしていた。前回山登りをした際に、手に木屑を大量に刺して戻ってきたことは記憶に新しく、彼女に万一のことが起きないように、歌仙がついて来たのである。
実は崖から滑落しかけたことについては、彼の怒りが怖くて物吉と藤の間だけの秘密になっていた。
「僕はこの辺で一度休むつもりなんだけど、歌仙はどうする?」
「…………」
「歌仙ってば」
彼女に軽く小突かれて、歌仙ははっとする。
殊更に彼がぼーっとしていたわけではない。ただ、眼下に広がる景色に目を奪われていたのだ。
開けた斜面の上に延々と続く緑、そして山の稜線に切り取られた、抜けるような青い空。
斜面のてっぺんにいる形となっている歌仙が、つい空に手を伸ばしたくなるほど、そこは空が近いように思えた。以前、物吉と藤が来た時が目にした絶景は、歌仙からも言葉を奪っていったのだ。
「……こんな場所があるなんて、思わなかったよ」
「素敵な場所だよね。景色もいいし、夏でも風が通りやすいから涼しいみたいだ。ちょっと滑りやすいのが、玉に瑕かな」
転がり落ちた物吉の姿を思い返して、藤はくすりと笑う。
歌仙の袖を引いて誘導しながら、藤は宣言通り木陰に腰掛けて休息を取り始めた。歌仙も彼女に倣い、腰を下ろす。
夏の茹だるような暑さは、高所独特の気温差のおかげでほんの少し和らいではいるものの、やはり穏やかに過ごすには厳しい蒸し暑さであることには違いない。藤の隣に座った歌仙は、暑気を体から追い出すかのような長いため息を吐いた。
「どこにいても、夏はやっぱり暑いね。髭切に畑仕事を任せてきちゃったけど、倒れてないといいな」
汗を持ってきたタオルで拭いながら、彼女は誰ともなしに言う。頬と首にあった傷はすでに塞がり、歌仙が予想したように跡形も無くなっていた。だが、あの時に起きたことは、その後のやり取りも含めて、簡単に忘れられるものはない。
「主は、どうして髭切の悩みを気がつけたんだい。同じ刀剣男士の僕らでも、彼があんなことを考えていたなんて想像もつかなかったよ」
気がつけば、いつのまにかそんな問いを歌仙は口にしていた。
「刀帳を読んで、何となくそうかなって」
「それだけで分かるものでは無いと思うよ。きみは、彼をよく見ていたんだね」
「たまたまだよ」
藤は首を横に振り、歌仙の賛辞を否定する。
戦いの際に肩を並べていた歌仙でさえ、髭切の心中を推測して、彼が苛立っているという発想にすら至らなかった。あれから膝を突き合わせて話はしたが、今でもわだかまりを完全に消せたようには歌仙には思えていない。
髭切自身は「もう気にしなくていい」と言ってはくれている。けれども、部隊を預かる刀として、主の最初の刀としてという前提を抜いて考えても、この言葉にし難い感情を綺麗に整理することはできていない。
そもそも気がつかない内に人を傷つけたということが――自分が意識して傷つけようとしたわけでも無いのに、知らず知らず人を傷つけていたという事実が、歌仙の心中に重くのしかかっていた。
「……分からないものだね」
「髭切のこと?」
「いいや。彼のこともだが、こんな気持ちになるなんて思わなかったんだよ。彼が言うように、僕は自分の選択を誤っていたとは思わない。今でも、主を守るために、彼と対峙したことは間違いではなかったと考えている。だけど――何なんだろうね」
髭切がかつてそうしていたように、歌仙もまた自分の胸に手を当てる。
「正しいことをしていたはずなのに、ここが痛いような気がするんだ」
「…………」
顔をしかめている彼の瞳は、普段の澄んだ色合いに今は薄らと陰がよぎっていた。
「いや、今はこの話はやめようか。ともあれ、主のおかげで僕らは仲間を失わずに済んだようだ。感謝しているよ」
「うん。髭切が思い直してくれてよかったよ」
実際のところ、刀解してもいいという言葉は、気持ちのやり場を失った彼が自棄になって発した言葉のようであり、諸処の事情が解決すれば消えたいと思う理由も共に無くなっていた。
そこまで予想できていても、死ぬことを口にすれば心穏やかではいられないのだろう。髭切は藤から何度か念押しで、刀解はしないと言われていた。
「せっかくの絶景なんだ。いい歌も思いつきそうなことだし、少し散策してこようかと思うんだが、主はどうするんだい?」
「僕はもう少し休んでる。腰を下ろしたら、立ち上がるのが億劫になっちゃったよ」
「そんなことを言ってると、今にお尻が地面にくっついたまま離れなくなるよ」
「まさか」
軽口を叩いて、どちらからとも知れずくすりと笑い合う。
やがて小さくなっていく歌仙の背中を見送りながら、彼女はゆっくりと木にもたれかかり、今までのことに思いを馳せた。
七月の頭に起きた髭切の顕現から伴う一連の事件から、既に三週間以上が過ぎている。暦の数字は七から八に切り替わり、留まることを知らない真夏の太陽が容赦なく本丸も照りつけていた。
幸い、山が近いからか、本丸の窓を全て開放して風を通していれば、朝と夜に関しては暑気を耐え忍ぶことができる。昼もエアコンをつけていれば、外の暑さを室内から追い出すのは容易い。
審神者として、刀剣男士としての仕事の方に関しては、出陣の際に生じた被害を考慮してか、あれから出陣の命令は下っていない。一度遠征の要請はあったが、それも単なる哨戒任務であり、歌仙たちの報告でもその時代の人間と関わるようなことはなかった、とあった。
ひと時の休息。この数週間を端的に述べる表現としては、これ以上に相応しいものはないだろう。
「……歌仙、いなくなったかな」
彼の姿が木立の隙間に消えていくのを完全に見届けてから、藤は長く長く息を吐く。額にかかる前髪をかきあげようとして、しかし額に巻いたバンダナに触れてしまい、あげかけた手を下ろしてしまう。
角が露見した後も、藤は未だにこの額に巻いたものを取らなかった。その理由を誰かが聞くことはなく、藤が語ることもなかった。
さわさわと、八月の風が彼女の髪を揺らしていく。程よい疲労感が、彼女の瞼を重くしていく。
「…………歌?」
風のざわめきが奏でる音はまるで、誰かが子守唄を歌っているように聞こえた。けれども、ただの木々が揺れる音と気がついた彼女はゆっくりと首を横に振る。
「そういえば、最近も誰かが歌っているようなのを聞いたような……夢の中だったかなあ。あんな歌声、聞いたことないと思うんだけど」
記憶を辿ったところで答えに辿り着くことができず、藤は考えるのをやめて再び睡魔に体を委ねる。
「なんだか、疲れたなあ……」
誰が聞いているわけでもないからと、唇から剥がれ落ちたような小さな声を発してから、彼女は瞳を閉じた。風がざわめかせた木々によって在りし日の歌を思い返し、藤は縋るような微かな囁きを漏らす。
「……会いたいなあ、お母さん」
蒸し暑い空気を漂う一筋の涼風が、彼女の言葉を攫っていった。
「……やっぱり、疲れていたのか」
藤が眠っている木陰の下から少し離れた場所で、歌仙もまた人知れずため息をつく。丁度よく草があまり伸びていない部分があったのでそこに腰掛け、眼下に広がる緑をぼんやりと見つめる。
藤に話していたように、歌を詠みにここでこうしているわけではない。最初はそのつもりもあったが、彼女の漏らした言葉が耳に入ってしまい、そんな気持ちも雲散霧消してしまった。
「髭切のこともあったし、手入れも続いていたからね。疲れが溜まるのも仕方ない……か」
新しくやってきた彼のことは、先ほど主と話した通りだが、その後も出陣時の傷を癒やすために藤は不眠不休で手入れを行い続けていた。ほぼ半日をかけて手入れを行い、終わった頃には日が昇りきり、既に時計の針は正午近くを指していたほどだ。
手入れが済むや否や、彼女は「休む」と言い残して部屋に籠もってしまった。絶対入るなと言われた手前、中を覗いて様子をうかがうこともできず、歌仙たちは不安と心配を抱えながら一晩を過ごした。
もっとも彼らの不安は杞憂であり、翌日けろっとした顔で食卓に姿を見せた彼女の言うところによると、単に丸一日眠っていただけとのことだった。
人間にとって睡眠というのは体力と気力、共に回復させるために大事な行いだと聞く。ならば、彼女が一日中眠りについていたのは、枯渇したそれらを回復するためなのだろう。
そこまで考えていたところで、微かに藤の声が彼の耳に届く。
『……会いたいなあ、お母さん』
普段は耳にすることがない細い声に、歌仙ははっと目を見開き、そして目を伏せた。
「……八月は里帰りの季節というそうだし、主も故郷が恋しいと思うこともあるんだろうね」
書物で得た知識によると、八月は主たちの時代では里帰りの季節にあたるらしい。たとえそうでなかったとしても、と歌仙は更に続ける。
「親しい人物と離れるというものは、寂しいと思うものなのだろう。僕にはまだ、よく分からないが」
顕現するまで刀として在り続けた時分には、感じることもなかった自分という存在。
人間としての感覚は身につけてきた、と思ってはいるものの、十数年とはいえ確かに人間として暮らしてきた主とは、胸中に過るものもまた違う。
それに、と歌仙は延々と広がる痛いほどの緑を見つめながら、言葉を紡ぐ。
「先日、故郷から便りも届いていたようだからね」
本来目を通すべきではないと思いつつ、歌仙はついその書面を隅から隅まで読んでしまったのだ。
その内容を彼は思い返す――。
***
「また机の上を散らかして。きみはズボラなんだから」
開け放たれた窓から吹き込む夏の風に遊ばれ、藤の部屋の机上に置かれていた紙が、がさりと動く。微かな抵抗も虚しく、バサバサと床に広がって落ちるそれらを目にして、歌仙は嘆息する。
「ああ、全く。こういうことになるから片付けは必要なんだよ」
部屋に入ってきた歌仙は小言を並べ立てるも、肝心の聞く相手である藤はいない。当然だ。彼女は今畑仕事に精を出しており、部屋を空けている。
仕方なく、部屋の主の代わりに歌仙が落ちた紙束を拾い上げていく。多くは政府から送られた審神者向けの通知であったが、中には出陣に関する主の報告書の下書きのようなものまで見受けられた。
大事な書簡は、見る人も限られなければならないものであるということは、歌仙も知っている。とはいえ、ここまで開けっぴろげにしておいて、今更見る人を限るも何もない話ではあった。最低限の配慮として、なるべく文字に視線を落とさないようにして、片付けを進めていく。
ほぼ全ての書類を拾い集め、机上のそれらに文鎮を置いて、歌仙が一息ついたときだった。ガサリと足元で音がして、彼は自分が何かを踏んでいることに気がつく。
「いけない。破くところだったよ」
知らずに踏んでしまっていた紙も慎重に取り出し、そこで歌仙は目を留めてしまった。
『■■へ』
不自然に塗りつぶされた宛名の次に続いた言葉は、他愛のない時節の挨拶であった。興味を惹かれてしまい、良くないことだと思いながらも、歌仙は好奇心に負けて、文字を目で追っていってしまう。
政府のものからにしては随分と砕けた調子の文が、恐らくは宛先である藤に向けて綴られている。彼女の部屋にあったのだ。名前が消されていたとしても、彼女に宛てたものと判断して間違いないだろう。
一体、この手紙の差出人は誰なのかと歌仙が眉をひそめた頃、
『君が家を出てからまだ数ヶ月しか経っていないとは、未だに信じられないものがある。月日の流れが随分早く感じられていたのだと思い知らされたものだ』
そのような一文を見て、歌仙は確信する。この文は、主の家から届いたものなのだ、と。
無論、歌仙とて審神者になる前に主が一般人として平凡な生活を送っていたことは、頭では理解していた。けれども、こうして実際に生きていた道筋の片鱗を見せつけられると、言い知れない寂しさと、好奇心が疼く。彼女が以前のの生活について、一切今まで歌仙たちに語らなかったのも、この気持ちを生み出した要因だろう。
気がつけば、歌仙は恐る恐るではなくしっかりと、文章に目を通し始めていた。
一人で暮らしていると、家の広さを妙に感じてしまうらしいということ。
彼女と同じ学び舎に通っていた者も、それぞれの仕事や勉学に励んでいるらしいということ。
彼女が実家に残したものは、差出人の手によってまだ家に保管されており、必要ならば送ることも可能だということ。
他愛のない内容の続きに記された文字を見て、歌仙は視線をそこで止める。
『富塚という名前の人物が、政府の人間として君の担当になっているはずだ。あれは私の後輩で、少々お節介が過ぎるところがあるが悪い男ではないことは保証する。私の代わりに、君の助けになるだろう』
その名は書面にある通り、確かに彼女の仕事を補佐する役目を担っている人間だ。彼がこの本丸に訪れた折、主は彼が「自分の保護者の知り合い」と説明していた。ならば、手紙の差出人は、主の保護者ということになる。
(恐らくは主のご両親――筆跡からして、男性だから父君だろうか)
女性が書いた割にはやや力強さを感じる筆跡に、歌仙は推理を走らせる。そう考えると、今までの文章に対する見方というものも自ずと変わっていく。
手紙も終わりの方になると、今度は彼女の体調や生活に対する心配が綴られていた。
ご飯は食べているか。風邪をひいてはいないか。怪我はしていないか。
定型句のような文章ではあったが、その文面を見て歌仙の顔は物憂げなものに変わる。
「料理に関して不便を感じさせたことはないはずだが、風邪と怪我については……」
先月は山歩きの末にずぶ濡れになって帰ってきて、風邪をひいて藤は寝込んでしまっていた。そんな状態であるにも関わらず、遠征から戻ってきた自分を励ましてくれたことを歌仙はまだ覚えている。
怪我については思い返すだけでも、苦々しい感情が蘇る。髭切を顕現したとき、彼女は危うく殺されるところだった。髭切にも言い分があると理解し、彼との話も既に一段落してはいたが、藤が怪我をしたのは紛れも無い事実だ。こんな有様では、彼女の父親には合わせる顔がない。
そう思い、更に文字を目で辿ると、歌仙はある記述で目を留める。
『そちらに行く前に話していた件についてだが、今も■■が頼めばすぐに手配はするつもりだ。私の知り合いの医師も、問題ないと言ってくれている』
「……話していた件? 医師に?」
言葉だけ見るならば、まるで藤が何か病を患っているようにもとれる。
とはいえ、彼女がそのような素振りを見せたことはない。風邪をひいたとき以外は健康そのものであり、重篤な病に身を蝕まれているようには到底見えない。
何か別のことだろうかと歌仙が首をひねり、折り重なった手紙のうち最後の紙に記された文字を見て、歌仙は微かに目を見開く。
『お母さんの墓参りに帰ってきてほしいと思っているのだが、やはり難しいだろうか。君が顔を見せたら清子も喜ぶだろう。もう今年で一年が経ったんだな。本当に時間の流れというものは、早いものだ』
そのような文字に歌仙は小さく息を飲む。この文が示すことは即ち、彼女の母親が既に故人であるということだったからだ。
戦の時代ならともかく、現在の平穏な時代で親を亡くすというのは、ありふれた出来事というわけではないだろう。ならば、藤にとって少なからず心の傷となっているはずだ。
(だから、僕らが怪我をすると、彼女は必死に手入れをするのだろうか)
死ぬことがどんな意味を持つか、身近な存在で知ってしまっているから。彼女は寝る間も惜しんで、手入れに必死になるのかと歌仙は考える。
『■■は近所の夏祭りが好きだっただろう。去年は勉強で行けなかったことだし、帰省ができるなら墓参りがてら今年は羽を伸ばしてみるのもいいかと思うのだが、その辺の融通は利くのだろうか。また連絡をしてほしい』
後に続いたのは、よくある結びの言葉と別れの挨拶だった。結局、手紙の最後まで読み終えてしまってから、歌仙は人知れず息を吐く。
結びの言葉と共に記された月日を見る限り、この手紙が書かれてから既に一ヶ月は過ぎている。届くのに時間がかかったのか、それとも単に主が手紙を放ったらかしにしていたのか。
真相は定かではないが、歌仙としては手紙の返事をどうしたのかと訊くわけにもいかない。そんなことをしたら、盗み見てしまったと主にバレてしまうかもしれないからだ。
結局何をすることもできず、元あった場所に手紙を戻して、彼は立ち去ることを選んだ。
***
山中に響く蝉の声が、歌仙を現実へと引き戻す。木陰の下にいる小さな藤の姿を見て、歌仙は知らず知らずの間に沈鬱な表情になっていた。
「審神者が里帰りをしている間に何かあったらと思うと、ここを長く離れることは許されないのだろうが」
そこまで言いつつ、たとえ許されたとしても、主が首を縦に振るかどうかと歌仙は考える。
普段はいい加減なくせに、審神者としての責任感は持っている彼女のことだ。そんな仕事を投げ出すようなことを、自分に許すとは想像しづらい。
しかし、先の言葉を聞いてしまった以上、何もしないままでもいいと思えるような人物ではないのが、この本丸の歌仙兼定という者だった。
――母を恋しいと思う気持ちを押し殺して日々を過ごし、墓に参ることすら職務が許さないのなら。
――せめて、手紙にあったように羽を伸ばす機会ぐらいは与えてあげたい。彼女が審神者になるために失った日常を、少しだけでも取り戻してあげたい。
そこに意味があるのかは定かでないが、自然と歌仙はそのように考えていた。
「これでは、到底歌も詠めそうにないね。こんなにも良い眺めだというのに」
歌仙は、今日何度目になるか分からないため息を吐く。主の午睡を守るために、彼は暫し一人風に吹かれることを選んだ。
***
空が、とても高い。
奇しくも同じ感想を歌仙が抱いているとも知らず、髭切はぼんやりと空を眺めていた。
雲が一つも出ていないおかげで、澄んだ青を邪魔するものは何もない。太陽を真正面から見ると、目を刺すような痛みが走り、髭切は思わず目を瞑った。
茹だるような暑気のせいで、こうして立っているだけでもじんわりと汗が浮かぶ。首から引っ掛けた麦わら帽子をかぶり直し、彼は同じく首にさげていたタオルで汗を拭った。
視線を空から地面に戻すと、今日の仕事の成果が広がっていた。すなわち、彼が撒いた水により、生き生きと葉を広げる植物たちである。
主の怪我が治った後も、髭切はなし崩し的に畑仕事を手伝うようになっていた。今日は留守番ついでに、全ての作業を彼が一手に担っていたのだ。
「主に言われた通りにしたから、今度は怒られなくて済むよね」
視線を少しずらせば、まるで小さな太陽のように花を咲かせた向日葵が見える。太陽を追いかけるように花の向きを変えるというこの植物は、他の草花よりも背が高い。自分の背丈でも見上げなくてはいけないものがあると思うと、些か不思議な気持ちである。
本日の畑仕事を無事に終えた彼は、片付けもすんで一息を入れていた。
「髭切さーん」
そんな折、聞いた覚えのある少年の声が彼の耳に入る。
しゃがみかけていた彼が立ち上がると、ちょうど白髪の少年と琥珀色の髪の少年――五虎退と物吉が、こちらに向かって走ってくるところだった。
「五虎退、物吉。お疲れ様」
万屋へとお使いを頼まれた二人は、髭切のもとにやってくると、揃って笑顔を見せる。彼らに向けて、髭切も同様に笑いかける。
主を斬り付けた一件については、歌仙と同じく、彼らとも言葉を交わし合っていた。髭切にも髭切なりの言い分があり、五虎退たちにもまた、言い分がある。同じ刀剣男士同士ということもあって、一度お互いの考えが明らかになってしまえば、相互理解はそこまで難しいものではなかった。
五虎退も物吉も、心中はともかくとしても、殊更にあの話題を蒸し返して、執拗に髭切を責めるようなことはしなかった。一週間ほどは互いに気まずさが残っていたが、今はもう、それも解消した話である。
駆け寄ってきた二人は、傍らに咲く向日葵に負けないぐらい輝いた笑顔を髭切に見せていた。
「何だか楽しそうだね、二人とも。美味しいものでも食べてきたの?」
「違いますよ、髭切さん! 実は」
「あ、ぼ、僕が言います。言わせてくださいって頼んだのに、物吉さんったら酷いです」
「あはは、ごめんなさい。じゃあ五虎退、どうぞ!」
何故か大袈裟に一礼をしてから、物吉は言葉を譲るように、わざとらしく手を五虎退へと広げる。二人が何を言い出すのかと髭切は首を傾げ、五虎退が満を持して口を開きかけた時。
「ただいま帰ったよ」
ザクザクと畑の通り道を歩いて、二人分の影が差した。
「あるじさま!」
「主様、おかえりなさい」
「おかえり、主」
それぞれが出迎えの挨拶をする相手は当然、この本丸の主の藤にである。彼女は薄く笑みを浮かべて、皆からの言葉を受け取る。その後ろには、服や髪のあちこちに草葉をつけた歌仙が立っていた。
「夏の山は、どんな感じだったの?」
「草がすごいね。通り道も埋もれかけてたから、手入れしておいたよ」
髭切に問われ、藤は後ろに広がる山を人差し指で指す。彼女たちが出入り口代わりに使っている部分は、行きよりは幾らか人が通れる空間が確保されているようだった。
「きみが日本刀で草刈りはできないか、と聞いてきたときは、本当にどうしてやろうかと思ったよ」
「だって切れ味が自慢だって話してたじゃん」
藤が膨れっ面を見せると、草刈り鎌代わりにされた歌仙はやれやれと言わんばかりに肩を落とした。その様子を見て、髭切と五虎退、物吉は思わず笑い声をあげる。
「それは歌仙が可哀想だよ、主。彼の名前が雑草切り兼定になってしまう」
「そうか。それは確かに駄目だね」
「主様、あそこには行きましたか?」
「うん、勿論」
物吉の言う場所が、彼と以前見つけた眺めの良い丘陵のようになっている所というのは、藤もすぐに理解した。
「歌仙、折角の絶景だったんだから歌の一つでも詠めばいいのに。そこら辺ぐるっとしただけで、戻ってきたんだよ」
「……そういうわけにもいかなくてね」
何か思うところでもあるのか、歌仙は目を逸らす。藤は首を傾げたが、歌仙としては真実を言うわけにもいかず、黙っているしかなかった。
そんな彼の葛藤など露知らぬ髭切は、
「五虎退。そういえば、何か話そうとしている途中だったよね」
話の続きを五虎退に促す。「そ、そうでした」と気を取り直した彼は、藤の方を見てどういうわけかキラキラと瞳を輝かせる。
「あ、あの。実は今度万屋がある商店街通りで、夏祭りをやるそうなんです。お店の人が『良かったら、遊びにおいで』って、言ってました。他の本丸の人も、刀剣男士も、たくさんたくさん、来るんだそうです」
腕を広げて、自分の中の喜びをこれでもかとアピールする五虎退。抑えてはいるものの、物吉からも隠しきれない高揚感が滲み出ていた。
「あの、僕たちも、その……行っても、いいでしょうか」
こんなにも期待の色を滲ませながらも、五虎退は主の許可を得るという手順は、きちんと踏もうとしていた。無論、藤も彼らが何を望んでいるかは、ここまで言われれば大体察する。
「僕は構わないよ。ただ、後ろの怖い顔した人がなんて言うかは」
「誰が怖い人だい」
茶化すような言葉とともに、ちらと歌仙を見つめる藤。それに応じながら、彼は藤の頭に載った帽子の上から軽く小突く。
からかい合いながらも、歌仙はこの五虎退の提案を好機と捉えていた。
髭切の顕現から続いて色々と心労も溜まっているだろう主の息抜きに、夏祭りはうってつけと言えるだろう。何せ彼女の父親曰く、彼女は昔、祭りをとても楽しんでいたそうなのだから。
そんな思惑は歌仙は露ほども滲ませず、しれっといつもの表情を装った。
「僕も構わないよ。主が一緒なわけだし、何かあったとしても皆で行動していれば大丈夫だろうからね。それに」
「えっ」
驚きの声を漏らしたのは、先ほどまで笑っていた藤だった。どうしたのかと皆が彼女に視線を送ると、
「……僕も、行くの?」
五虎退たちにとっては暗黙の了解であったことを、改めて彼女が問いかける。
これには、五虎退や歌仙だけでなくにこにこ様子を見守っていた髭切までも、一瞬驚きを露わにしていた。
「あ、あの……もしかして、あるじさまは、お祭りが嫌いですか?」
「主、きみは祭りというものが好きなのではないのかい」
思いがけぬ主の問いかけに、五虎退の問いに重ねて歌仙すらも思わず口を滑らせる。
幸い、藤は不審がる様子もなく、「そういうわけじゃない」と首を横に振った。
「嫌いじゃないよ。美味しいものも売ってるし、いつもと違う感じの空気が楽しいし。でも、その」
その次に何と言おうとしたのかは、彼女が口ごもったことで分からずじまいになってしまった。だが、歌仙には彼女が「僕は審神者だから」と言おうとしたように思えた。
責任を持った故に、楽しいことも控えようと自分に言い聞かせているのではないか。しかし、歌仙としてはその責任感は尊敬に値するとしても、今は不要と考えていたものだ。
「いいじゃないか。羽を伸ばす丁度いい機会なんだから」
「……そうだね。うん、そうする」
歌仙に促され、彼女は漸くいつもの笑みを皆に見せた。
口角を上げて、ゆるく弧を浮かべた笑み。彼女の、普段通りの笑顔だ。
「あの、それで、夏祭りって何をする所なんですか?」
話がまとまったかと思いきや、根本的な質問を五虎退から投げかけられ、今度は藤が目を丸くした。
「その説明は受けてなかったんだね。屋台や出店っていう、露店みたいなものが沢山並ぶんだよ。花火が上がったり、盆踊り大会なら櫓の周りで踊ったりね。万屋の夏祭りなら、普段の商店街がもう少し賑やかになる感じかな」
彼女の説明を聞き、それぞれが思い思いの光景を思い浮かべる。けれども実際に参加したことのない彼らにとっては、いつもの万屋が賑やかになるということしか想像することはできなかった。
「それと、浴衣を着るんですよね。ボク、お店の人から安くするよって言われたんです」
商売上手の店主から預かってきたらしい広告の紙を、物吉はいそいそと目の前の主に渡す。
どうやら、彼が訪問した雑貨屋は、夏祭りに向けて浴衣の取り扱いも始めたらしい。刀剣男士向けに男物の品が多く載せられているが、紙の端には審神者向けと思える女性ものの華やかな浴衣も並んでいた。
藤の視線はある一点のところで止まり、それから顔を上げて今度は歌仙の方をじーっと見る。
「……なんだい?」
「お金、使ってもいいかなって、視線で気持ちを訴えてみてる。僕の分はなくても構わないけれど、五虎退たちの分だけでもそれなりにするかと思って」
「そんな言い方をしなくても、駄目とは言わないよ。物吉、五虎退。明日、そのお店に行って僕らの浴衣も見繕ってきてくれるかい」
「は、はい! 髭切さんは、どうしますか?」
勢いよく頷いた五虎退は、先ほどから黙りこくっている髭切に声をかける。ひょっとしたら彼は行くことが嫌なのかと心配に思っていたが、
「僕も一緒について行こうかな。万屋でゆっくり買い物をしたことはまだないんだよね」
笑みとともに同行を申し出る髭切に、五虎退はほっと胸をなでおろす。
しかし、彼は少年に返事をした後、何故かじっと藤の方を見つめていた。視線に気がついた藤が、首を傾げる。
「髭切?」
「……ううん、何でも無い。主、片付けしたら手合わせに付き合ってくれないかな」
「いいよ。珍しいね、髭切からなんて」
「うん。ちょっと気になることがあって」
言葉を濁し、彼は道場へと足を向ける。藤も彼の後ろをとんとんと軽い足取りでついていった。その後ろ姿からは、何の懸念も心配事もなさそうに歌仙たちには見えた。
***
ビュンッと空気のうなり声と共に、トンッという鈍い音が響く。
「──痛っ」
小さな悲鳴。続いて、ドスンという尻餅をつく音。カランというのは、藤の手から落ちた木刀が床へと跳ね返った音だった。
軽い手合わせのつもりで髭切が振るった木刀が、思った以上に強く藤の肩に当たり、その弾みで彼女が転んでしまったのである。
「ごめん。寸止めしたはずなんだけど」
慌てて木刀を下げて、髭切は肩を撫でている藤の元に駆け寄る。
本来なら、主との手合わせは刀剣男士同士の手合わせと異なり、寸止めをするべきである。そのことを忘れていたわけではない。実際、先の動きも勢い余ったというよりは、振るう得物の制御を十全にしきれていなかったのが原因だ。
「大袈裟な声を出してごめん。そんなに痛くないよ。ちょっと当たっただけだから」
彼女がいう通り、腫れたり内出血のようなものができたりはしていないのだろう。髭切がぺたぺた肩に触ってみても、彼女が顔を顰めるようなことはなかった。代わりに、ぴょんと肩を跳ねさせて藤は髭切からすこし距離を置いた。
「どうしたの?」
「急に触るからびっくりしたの。痛くはないよ」
「それなら良かった」
主の無事を確かめてから、髭切は自分が刀を握る右手を開いたり閉じたりを繰り返す。じっと見つめる彼の様子は、まさに真剣そのものだ。
「……まだ、痺れるの?」
「少しね。大丈夫。敵に対して寸止めする必要はないから、気にすることはないよ」
「そう……」
髭切が言うように、敵相手に直前で刃を止めるようなことはないだろう。けれども、やはり思うように得物を振るえないというのは落ち着くものではあるまい。藤が気遣うような視線を送ってみるが、変わらず髭切は笑顔を浮かべるだけだった。
今の手合わせも、本当なら更に上――首元を狙ったはずなのに、当たったのは肩だった。その点からも、まだ本調子ではないことは髭切も分かっている。
とはいえ、ここで彼女と手合わせをしているのは、不調を彼女に知ってもらいたかったからではない。もっと別の話を、主としたかったからである。
さて、どう切り出したものかと彼が思案していると、
「ちょっと休憩しようか」
丁度良くかけられた彼女の誘いに乗り、髭切は道場の端に腰を下ろす。
夏の暑さは冷たい空気を送り込む絡繰り──冷房というもののおかげで感じることはないが、体を動かせば汗もでる。
藤がタオルで顔を拭っているのを横目に、髭切は自分の汗を拭くこともなくじっと彼女を見つめていた。
「……僕の顔に何かついてる?」
「顔にはついてないね。ただ、聞きたいことがあって」
「うん?」
見当もつかないと言う顔をしている藤に、髭切はどう切り出したものかと考える。
彼だけが、五虎退、物吉、歌仙らの夏祭り談義にあまり口を挟まなかった理由。それは、彼らが話している間に髭切の胸の内によぎった苦い何かが原因だった。
別に、髭切が歌仙たちに悪感情を抱いたわけではない。それは、彼自身が分かっている。なぜなら、その苦い何かはまるで誰かの思いを勝手に覗き込んでしまったように、予兆も無く浮かび上がったものだからだ。
(この前の直感が正しければ、これは主が感じた気持ちだと思うんだけど)
以前、主と正面から言葉をぶつけ合ったとき、彼女の恐怖が自分に反響するように伝わったことを、髭切は覚えている。今回の不自然な気持ちの揺らぎも、まずそれが原因だろう。
もっとも、その苦々しさ自体も、今はすっかりなりを潜めている。
わざわざ蒸し返すものではないかもしれない。ただの気のせいかもしれない。けれども、髭切は無視することができず、感情の本来の持ち主である主に向けて尋ねることを選んだ。
「主は、やっぱり夏祭りが嫌いなのかい」
「へ? そんなことないよ。美味しいもの食べられるし、夜中に出かけるなんてなかなかないことだし、好きだよ」
彼女はけろりとした様子で、寧ろ好感を抱いていることを述べる。
ならば、何か別の理由があるのかと考えるものの、自分の感情に素直に向き合ったのすら数週間前が初めてという髭切には、この問題はあまりに荷が重いものだった。どうにかこうにか別のことが原因ではないかと思案し、ようやく導き出した答えは、
「じゃあ――物吉たちのことが、嫌い?」
「……嫌いじゃないよ。髭切、もしかして話題に入れなくて拗ねてるの?」
あっという間に否定をされてしまい、髭切は思考の行き止まりにぶつかってしまった。
ならば、あの苦い感情はもっと普遍的なものが原因だったのだろうか。単に外が暑いから疲れたとか、お腹が空いたとか、そういうものが理由だったのだろうか。
何を勘違いしたのか、「髭切も子供っぽいところがあるんだね」と藤に言われながら、五虎退がされるようにわしゃわしゃと頭を撫で回されてしまった。
なすがままになっていた髭切は、自分の中の問答に必死で気がつくことが無かった。
藤の顔の笑顔が、いつも以上に一分の隙もないものだったということに。