本編第一部(完結済み)

「刀解するなら、もう手入れはしなくてもいいよね。どうせいなくなるんだし」

 突如投げつけられた言葉に、藤の思考は一度固まってしまった。
 聞かれていた。
 一番聞かれてはいけない相手に、一番聞かれてはいけない内容を聞かれてしまった。その事実が、彼女の思考の歯車を凍り付かせる。

「ごめんね。最初から最後まで、迷惑ばかりかけて。主にも怪我をさせてしまったし、歌仙たちも困らせてしまった」

 髭切の言葉は留まることなく藤の耳に届く。
 ――ごめんね。
 その言葉を耳にした瞬間、藤の頭の中の歯車がぎしりと軋みを上げて動き始める。

「もう、おしまいにしていいよ」

 決別の言葉を耳にして、彼女は顔色を変えることなく、寧ろ挑みかかるような目で髭切を見つめた。
 藤の視線に応じるかのように、髭切の内側でも何か熱い感情が爆ぜる。自分のものではない、と髭切は即座に断ずる。こんな激しい熱は、自分のものではない。
 だが、彼が違和感について思いを巡らせる間もなく、藤はきっぱりと告げる。

「髭切。悪いと思ってないなら、無理に謝らないで」

 ずばりと斬り伏せるような彼女の言葉に、髭切は少しばかり面食らう。いつも笑っている彼女の、ともすればなよなよしているとも言える所作とは程遠い、きっぱりとした断言であった。

「どうして、そう思うの」
「嘘をつきながら笑う顔は、見慣れているから」
「…………」

 彼女の真剣な表情に、髭切も笑顔を口元から消す。痛いほどの沈黙を挟み、口火を切ったのはやはり藤だった。

「僕を斬ったこと、歌仙に迷惑をかけたこと、全部が全部自分が悪いと思っているわけじゃないでしょう」

 唐突に投げかけられた言葉に、髭切は口を噤む。彼女の言葉は、彼の思いの片鱗を明らかにしたものではあった。
 主を斬ったこと自体は、歌仙の指摘通り『正しくない』ことだと分かっていた。刀が斬るのは敵であり、主ではない。物吉や五虎退が非難の目を向けるのも当然である。そんなことは、とうの昔に理解している。
 だが。
 しかし。
 髭切はその後に続ける言葉を持ち合わせ、しかし抱えたまま燻らせていた。その燻りを突然明らかにされたところで、すぐに応える言葉を彼は持ち合わせていない。

「だから、僕は君に謝罪しなきゃならない」

 とはいえ、続く彼女の言葉には、流石の髭切も表情を訝しげなものに変える。
 これが他の刀剣男士ならば、また別の感情が生まれたかもしれない。その感情が怒りか、喜びか、納得かは分からないが、少なくともこんな困惑ではなかったはずだ。

「どうして、主が謝ることになるの。主は何もしていないのに」
「しているよ。僕は間違えた。僕は君の誇りを、生きた道筋を踏みにじったのに、素知らぬ顔をし続けていた。たとえ知らなかったとしても、知らなかったは許されていい理由にはならない」

 文字通り鬼気迫る勢いすら感じつつも、普段通りの声音を維持しながら藤は言葉を続ける。

「君は、鬼を斬ったことは間違いとは思っていない。そうなんじゃないのかな。――鬼切丸」

 誰にも見せず。誰にも聞かせず。静かに燃やしていた怒りの内側に潜んでいた根を、彼女が暴く。

「君の名前って色々変わってきたことが、調べて分かったんだ。その中にこんな話もあった。都を荒らした鬼を屠った武士が持っていた刀。主に敵対した鬼の片腕を切り落とした刀。それが鬼切丸。別名は髭切。つまり、君だよね」

 髭切は、肯定も否定もしなかった。ただ、黙って主の瞳を見つめている。髭切という一人の刀に刺さった棘の意味を語る彼女を、試すように凝視している。

「君にとって、鬼は退治すべき敵だ。だから、斬った。君にとっては、よかれと思ったことをしただけだ」
「でも、君は僕の主だよね。主を斬るのは、僕だって間違っていると分かっているよ」
「それでも僕は、君の言い分を聞くべきだった。畑の草むしりと一緒だ」

 苗と雑草を見分けられずに抜いたときのことが、彼の中に蘇る。あの時彼女は、間違ったことをしてしまったとはいえ、その言い分を聞かれずに否定ばかりされれば怒りを覚える、ということを教えてくれた。
 だから、あの時分かった。
 歌仙らと対峙した時に湧き上がる、この黒い感情の名を。
 鬼を斬った言い分を聞かれず、謝罪だけを要求され、行き場を無くした激情の名を。
 鬼は斬るべきである、鬼を斬ったからこその自分であるという存在の根幹を否定された。
 それが故の怒りだということが、分かった。

「だというのに、歌仙が君を批難するのを僕は止めなかった。君が何も主張すること無く頭を下げるのを、見過ごしてしまった。君が周りを気遣って大人の振る舞いを選んだとしても、僕は止めるべきだった」
「たとえ主の言っていることが正しいとしても、僕はもういいんだよ」

 感情の名も、その原因も既に分かっている。しかし、髭切は髭切で同時にある決意もしてしまっていた。
 即ち、見ないふり。口癖のようについて出る言葉に沿わせた選択だ。

「こんな細かいこと、もうどうでもいいんだよ」

 だが、髭切が言葉を言い終わるか終わらないかのうちに、藤は首を横に振る。

「どうでもよくない。どうでもよくしちゃ、駄目なことだ」

 徐々に激しい熱を帯びた声が、髭切に向けて真っ直ぐにぶつけられる。

「鬼を斬ることが君の誇りなら、その誇りを君がどうでもいいことにしていいわけがない。誇りを傷つけられれば、心が痛い。そんなの、当たり前じゃないか」
「…………」
「君の痛みは、どうでもいいことにしていいものじゃない」

 最早噛みつくような勢いで、彼女は髭切の否定を一つずつ打ち消していく。
 けれども諦念という名の毒で麻痺した彼の心は、そんな彼女の姿を見ても簡単には動かない。寧ろ、別種の苛立ちすら新たに生まれてすらいた。
 今更何を言うのだろう。過ぎ去って、埋めた感情を掘り返して、分かった気になって。それが、何になるというのだろう。

「気にしても仕方ないよ。今さら歌仙たちに言ってもどうにかなるものでもないし、蒸し返したって彼らが困るだけだからね。だからやっぱり、どうでもいいことにした方がいい」

 駄々っ子に言い聞かせるように、彼はゆるゆると首を横に振る。元々刀なのだ。こんな感情がある方がおかしいのだと思おうとする。
 だが、心というものを無視しようとして、結局できなかったことを思い出して彼は顔を少しばかり顰めた。
 彼の矛盾に気がついたように、髭切の吐き出した言葉を打ち消さんと、強い語調で藤は言う。

「どうだってよくない。君だってそう思っていたんじゃないの。どうだっていいんだったら、歌仙の言うことを聞かずに敵の只中に突っ込んだりしないよね。どうだっていいんだったら、そんな顔はしないはずだ。その顔は、心が痛がってる顔だ」

 藤は髭切の顔を両手で挟むように掴み、まるで今にも自分が泣き出しそうな顔で彼と対面する。
 観念したように髭切は息を吐き出してから、漸く否定以外の言葉を紡ぐ。

「……言ったとして、それでどうするの。歌仙たちは、それでも納得しないかもしれないよ」

 いつもの優しげな声音ではなく、不機嫌さを隠しきれない低い声。けれども、物怖じすることなく藤は髭切を見つめ、

「それなら――そのときは、そんな彼らこそ、君にとってどうだっていいんだ」
「どうだっていいって、君の刀じゃないの?」
「僕の刀かもしれない。でも、君の刀じゃない」

 食い気味に吐き出され続ける言葉は淀みがなく、まるで何年も何年も言おうと練習してきた言葉のようだった。小さく息継ぎをしてから、彼女は絞り出すような声で更に続ける。

「物語に記されるような正しい君の誇りは、やっぱり正しく守られるべきだ。主張していいものだ。だから、どうだっていいものじゃない」

 そんな彼女が発した感情の本流に充てられてなお、髭切は自嘲気味に笑う。今まで燃やし続けていた黒い感情は、他者の理解を得たことで異なる姿を見せる。
 普段の彼ならば、源氏の重宝であり刀剣男士としての誇りも持つ彼ならば、そんなみっともない心に身を任せることはなかっただろう。けれども、半ば自棄になっていた髭切は彼女の理解すら、体のいい掌返しと受け取る。
 自分の頬を挟んでいる主の手をぐいと乱暴にどかし、彼は目を細め、その薄暗い感情に心を委ねる。

「どうして主が、そんな分かったような口をきけるの。主は僕じゃないし、刀剣男士でもないのに」

 こんなものは、ただのあてつけだ。敵の中に単身突っ込んで暴れていったときと同じものだと、口にしながらも彼は理解していた。
 いや、敵を滅多斬りにするより尚タチが悪い。言葉の刃は、どんな刀よりも鋭いと嫌というほど自覚させられたはずなのに。それでも、どんな反応を示すのかと薄暗い興味を覚えた彼は、

「……同じだから」

 掠れるような、彼女の声を耳にする。それ以上を問う前に、藤は更に続ける。

「……謝っても許されないことをした。君が戦場で無茶をしたのも、結果的には僕の責任だ。でも、今の僕にはどうすれば償えるか分からない。だからこうとしか言えない」

 そこまで言って、彼女は深々と頭を下げる。

「――ごめんなさい」

 彼女は理解しているのだと、髭切は悟る。
 単身敵の只中に飛び込んで我が身を厭わずに戦った理由の発端が、言葉にできない苛立ちから生じていたことも。
 消えてもいいと思うほどの諦念が身を蝕んだのも、言葉にできない怒りが腐ったせいだということも。
 彼女は全てを推測し、理解し、後悔したのだと彼もまた理解する。
 悟り、理解し、ではその後は。

「それで、謝って、主はどうするつもりなの」
「…………」

 返事は、ない。
 問いかけてはみたものの、髭切自身どうしてほしいという願望のようなものは、見えていなかった。
 再び、数秒の沈黙。そして、

「……君が、正しいと思うことを、してほしい」

 消え入りそうな主の声が紡いだ内容は、あまりに不明瞭すぎた。
 髭切にとって、あの瞬間正しいと感じたことはたった一つ。だが、同時に藤にとっても到底看過できない正しさでもある。そうと知りながらも、敢えて髭切は問うことを選ぶ。

「……じゃあ、僕が鬼切丸として君を斬るのが正しいってまだ思ってるとしたら、君はどうするの」

 この問いは、ただの意地悪ではない。僻みでも妬みでも嫉みでもない。
 いいや、多少はその感情も交ざっていることを認めよう。確かにこの人間の体に宿る心というものは、理解を得ても感情の奔流を止められない。
 だが、同時に彼は、事実を知った彼女の判断を問いたかった。器の広さを測れるような度量が自分にあるかは定かではないが、彼女が他者の誇りと自分の死を天秤に掛けて、何を選ぶのかを知りたかった。
 そして。

「構わないよ。それが君の正しさなら、僕を斬ればいい」

 彼女は『自分の死に繋がる他者の誇り』を、あっさり肯定した。

「本当に、斬っちゃうよ?」
「……いいよ」

 恐怖からだろうか。藤の声は、微かに震えて聞こえた。

「私は知っていたから、決めていたんだ。誰かの誇りを踏みにじって平然としているような人間には、絶対なりたくないって」

 その震えは、恐怖とは違う震えを帯び、

「……知ってたのに、分かっていたのに!!」

 爆ぜるような感情の激流へと、姿を変える。
 彼女の叫ぶような主張を耳にして、髭切は一瞬硬直する。普段の藤からは想像もできないほどの気持ちの高ぶりようは、彼女自身をも驚かせていたようだった。一瞬乱れた吐息をどうにか整えてから、藤はゆっくりと再度髭切に頭を下げる。

「君が信じるものを土足で踏みにじったんだ。それだけのことをする権利が君にはあると、僕は思う」
「――それが、主の結論なんだね」

 そこまで言ってから、髭切は立ち上がる。彼が座っていた布団の隣に添えるように置かれていた己自身を――嘗て鬼切丸と名付けられ、今は髭切と呼ばれるその刀を手にする。
 鞘から現れた刀身には、まだ刃毀れや罅が残っていたが、鬼の首一つ獲る程度なら問題ないはずだ。
 そのとき、彼の心にちらりと底冷えするような冷たさが湧き上がる。頭の天辺が急速に冷えていき、一歩を踏み出すことすら躊躇うこの感情もやはり、自分のものではない。
 ふと、こちらを見据えている主の様子が目に入る。膝の上に置かれた藤の手は、真っ白になるほど強く握りしめられていた。
 微かに震える様子から窺えるものは、明確な恐怖。髭切の中に突然生まれた、自分のものではない感情と同じもの。

(……ああ。これは、主のものだったんだね)

 彼女と共にいたとき、不自然に喜んだり忌避感を覚えたり、或いは怒ったりこうして恐れたりする感情は、髭切自身から生まれたものではない。
 いつの間にか、彼女の感情が水面に映る像のように彼の中に写し取られていた、というだけのことだ。垣間見る夢も、恐らくはこの繋がりから生じたものだろう。
 原因は定かではないが、今はこの一方的な感情の共有もそっと心の片隅へと追いやってしまう。自分のものではないと分かれば、意識しないようにすることも驚くほど簡単にできてしまった。
 改めて、正座をしている藤の前に髭切は向き直る。
 彼の手には、刀。
 まるで顕現したときの、焼き直しのようだった。

「……いいんだね」

 念を押すような問いかけにも、藤は身じろぎ一つしない。
 その目にはありありと恐怖が浮かべ、歯の根が震えないように必死に歯を食いしばっているにも関わらず、彼女はただ黙って髭切の瞳だけを見つめている。恐れに負けぬように意思の力を持って、彼女はそこにいることを選んでいると髭切は理解する。
 まだ傷のせいで硬直が残る右腕を支えるように両の手で柄を握り、ひと思いに刀身を振り上げ――

「主、一体何が――!!」

 襖を開く音。歌仙の叫ぶような声。
 それら全ての余分な要素を、けれども髭切は意に介さない。藤も、まるで彼らが存在しないかのように髭切から目線を逸らさない。

「――――!!」

 やめろという声か、それとも何か他の言葉だったのだろうか。
 だが、何者もそれを止めることはできず。
 銀の軌跡が走る。
 

 ふっと空気が斬れる音が藤の耳を通り抜け――しかし、予想していたような痛みは訪れなかった。恐る恐る顔を上げれば、振り下ろす中途で止められた刀が藤の視界の端に映る。

「髭切?」

 問いかけの返事の代わりに、切っ先がゆっくりと下がる。
 自分の正しさを信じて鬼の首を落とすと宣言したはずなのに、何故彼は刀を下げたのか。藤は疑問を抱きながら、髭切を見つめる。
 居合わせることになった歌仙たちですら、すぐに口を挟むこともできずに、ただその場に固まっていた。それ程までに痛い沈黙が、この場を支配していた。

「…………主を斬るのが間違っていることは、僕だって気がついていたよ」

 凍り付いた時間が動き始めたのは、彼が漏らしたそんな言葉が引き金だった。

「おかしいよね。僕は刀だから、敵を斬れば忘れられると思ったのに。どれだけ斬っても、ずっと残っているんだ」

 彼は包帯で覆われた自身の胸に手を当て、微かに爪を立てる。まるで、その内側にある心に手を伸ばし引き抜こうとでも言わんばかりに。

「髭切。きみは一体今、何をしようとしたんだ」
「…………」

 場の空気に飲まれかかっていた歌仙がようやく我に返り問いかけるも、髭切はいつものように沈黙を守る。薄く笑みを浮かべて、何でもないことのように笑う。

「答えるんだ、髭切! 僕はきみを一度許すと言った。けれど、同じことをしたら二度目も許すとは」
「歌仙。黙って」

 激しく問い詰めんとする歌仙に言葉を被せたのは、今まさに斬られようとした主の方だった。

「けれど、主!」
「歌仙が僕のことを気遣ってくれることは分かってる。でも、僕は君がまた、誰かを傷つけるようなことを言うのを聞いていたくない。物吉も、五虎退もだよ」
「……それは、一体どういう」

 戸惑いを隠しきれない三人を、藤は微かに睨む。その視線は髭切のためというよりは寧ろ、彼女自身の怒りが込められたような強烈なものだった。
 かける言葉を失ってしまい、歌仙たちが黙ったのを見てから藤は髭切へと視線をずらす。

「君が感じたものは、そう簡単に消えるものじゃないんだよ。どれだけ見ないふりをしていても、残ってしまうんだ」
「じゃあ、どうすれば消えるのか、主は知っているの」

 帰る家を見失った子供のような、どこか不安げな沈痛な表情が髭切の顔に浮かぶ。その様子を見て、ただ何の考えも無く彼が刀を向けたわけではないと、歌仙たちも理解したらしい。だが、相変わらず三人は強い当惑を顔に浮かべていた。

「知っている。君も、もう気がついているんだと思う」
「…………」
「でも、どうするかを選ぶのは髭切だよ」

 先ほどまでの恐れはどこへやら。いつの間にか立ち上がった藤が、彼の目を見て緩く首を横に振る。てっきり彼女が自分に伝えたことを歌仙に言うのかと思いきや、彼女は視線で訴えかけるに留めていた。
 こんな展開になると思わなかった髭切は、数秒とはいえ逡巡する。言いようのない怒りも、僻みも、主に刃を振り下ろしきれなかったあの一瞬から鳴りを潜めている。
 顕現した直後ですらないほど、真っ白な感情で己の内側にある心というものを見つめ直し。
 そして――髭切は選ぶ。

「僕の名前は、今は髭切って名乗っているけどね。昔は違う名前だったんだ」

 自分の中にある思いを、真っ直ぐにぶつけてみる選択肢を彼は掴む。たとえ、それで歌仙たちを傷つけることになろうと、或いは自分が傷つこうとも構わない。
 もし理解を得られなかったのだとしたら、その時は理解しなかった彼らこそを自分の関わる場から切り離す。
 先ほどかけられた藤の言葉に背中を押されるように、彼は言葉を紡ぐ。

「僕には、鬼切丸って言う名前もついていたらしいんだよ」
「鬼切り? ……まさか」

 一瞬眉を顰めるが、すぐに歌仙は気がつく。
 刀の名には逸話から由来した名がつけられることも多い。歌仙自身の名も、三十六歌仙に因んで名付けられているものである。五虎退や物吉も、それぞれ名にまつわる伝説を持っていた。
 髭切が口にした名は、刀の名の中でももっと分かりやすい意味が明瞭に示されていた。
 鬼を切った。故に――鬼切丸。

「うん。まあ、都を荒らす悪い鬼退治に使われたっていう話があるからなんだけどね。だから、鬼が目に入ったら退治しなくちゃって思ったんだ。ただ、どうやら僕が思っていたより事情が複雑で、その鬼は主だったってわけ」
「それが、髭切さんのここに……残っていることなんですか?」

 五虎退が自分の胸に手を当て、髭切と同じような姿勢をとる。自分の中の正義を信じて疑わなかった少年の目には、まだ戸惑いの色が強いものの、頑なな思い込みで曇ってはいないようだった。

「だって、ほら。鬼退治は僕の一部で、僕が在った証拠みたいなものだから。それを無碍にされてしまったせいで、何だか嫌な気持ちになってしまって」

 その言葉を耳にして、刀剣男士である三人はそれぞれが目を見開く。
 逸話に基づいて己の正しさを貫こうとした同胞を、彼らは真っ向から否定した。藤が物吉に言い聞かせたような、前向きな否定ですら無い。
 事ここに至って髭切の考えを汲み取り、しかし同時に歌仙たちにも当然の言い分が浮かび上がる。

「だったら、言ってくれればよかっただろう。きみにも事情があったと」
「言ったところで、君たちの方が正しいことは変わらなかっただろうから。さっきも言ったけど、僕も別に主を斬りたかったわけじゃない。その意見に関しては、君たちと同じなんだよ」

 自分が間違っていると分かっていて、それでも言い訳を聞いてくれ、などという要求は図々しいと言えば図々しいものだ。まして、あの緊迫した状況でそんな話をされたところで、大人しく聞く耳を持ったか。
 歌仙も物吉も五虎退も自分に問いかける。答えはすぐに見つかった。その後の自分たちの態度や抱いた気持ちが、既にもう答えそのものだ。

「……あの瞬間は、確かに僕らも気が立っていたからね。きみの言い分に対して冷静になれる余裕は、確かになかっただろう。でも、次の日なら」
「それなら君はできるのかな。頭を下げてしまって既に許された後に、それでも自分の言い分を口にしようなんていうことが」

 戦闘の最中に感情的になってぶつけてしまった嫌味の返礼のように、髭切の辛辣な言葉が歌仙の耳朶を打つ。
 自分自身でも己の行動が間違っていると分かっていて、それでも尚譲れないものがあったとして。周りに謝意を示してしまった後に、己の矜持を認めて欲しいと声高に主張することができるか。

「…………」

 問いかけるまでもなく、その答えも明白に「否」だ。そんな振る舞いは、ただの自己満足な八つ当たりにしか見えない。みっともないうえに、相手を困らせるだけなのが目に見えている。
 歌仙だけではなく物吉も五虎退も、その様を想像して言葉を失う。髭切もそのことを理解したが故に何も言わず笑っていることを選んだのだと、言葉にせずとも彼らは刀剣男士同士であるが故に悟る。
 もっとも、分かっていても尚、今現在彼らを困らせる選択をとったのだと、髭切は更に一歩進んで自らを捉えていた。

「うん。でも、今はもういいかな。その顔を見てたら、何だか色々考えてたのが落ち着いちゃったよ」

 どうでもいいとは、言わない。
 燻り続けた自分を見つけ出してくれた主が、どうでもよくないと言った感情だからだ。
 だが、今まで残っていた淀んだ思いがすぅっと静まったのもまた事実だった。
 歌仙たちが、漸く自分の内側に抱えていたものに気がついたからだけではない。誰にも言わずに伏せていたものに気付いてもらい、口にすることを促してもらった。誰に憚ることなく主張していいのだと主に認めてもらったことが、恐らく一番大きな要因だろう。

「だから、もう気にしなくていいよ。ただ、僕にはそういう理由があったってことは知ってほしかっただけなんだ」

 自分の正しさで相手を打ち負かしたいわけではない。頭を下げさせて、謝罪を要求したいわけではない。被害者面で責め立てたいわけではない。
 ただ、認めて、受け入れてほしかった。
 言葉にすれば、こんなにもあっさりと終わることに今まで固執していたのかと、髭切は小さく息を吐いた。
 これで話は終わったと思いきや、不意に片腕をぐいぐいと引かれる。見れば、藤が心配を通り越して恐れすら浮かべた目で髭切を見つめていた。

「……主?」
「もう、死んでもいいなんて思ってないよね?」
「え? ああ……いや、ううん。もうそこまでは」

 自分の言葉を紡ぎ出すのに必死になって刀解のことはすっかり忘れていた、とは流石に言えなかった。言われてみれば、今の結びの言葉では今生の別れに繋がると取られてもおかしくない。

「死んでもいい、って……だめです、そんなの……だめ、です!」

 藤だけではなく、五虎退までもが部屋にパタパタと入って髭切に飛びつく。青ざめたせいで、彼の白い肌はますます白く見えた。

「僕、まだ色々と、頭の中ぐちゃぐちゃで、なんてお話ししたらいいかわからないんですけど……でも、ちゃんと、聞きますから。髭切さんのお話、聞きますから。だから、いなくなるのは……嫌ですっ」

 少年の真っ直ぐな裏表のない言葉に、髭切は瞬時面食らう。今まで反感を抱いたままでしか彼を見ていなかった髭切にとって、無垢で真摯な気持ちを五虎退から彼に向けてぶつけられるというのは新鮮なものだった。
 同時に今までは、その真摯さが主に向けられていたのだろうということも理解する。だからこそ彼はあのとき髭切を糾弾し、主を庇う側に立った。
 無垢で真っ直ぐな彼が譲れないもの。それが、主だったということだ。

(君たちはたしかに、僕の存在の一部を無碍にしたのかもしれない。だけど)

 顔を上げれば、真正面に立っている歌仙の顔には申し訳なさが滲んでいた。
 それでもその場から逃げるような真似はせず、自分を擁護するための言葉を口にすることもなく、視線を逸らさずにこちらを向いた姿は、彼の誠実さをどんな言葉よりも雄弁に表している。

(僕も、君たちの本質を見ていたわけじゃ、なかったんだろうね)

 相手の言葉や態度ばかりを目にして、更に奥に潜んでいる彼ら自身の本質からは目を逸らしていた。この点においては、きっとお互い様だ。
 そのことを理解し、髭切は――笑った。
 無理にとってつけたような笑顔ではなく、自然に口元が緩んでいた。
 誰にとっても譲れないものがある。自分自身にすら、譲っていけないものがある。そのことに気付かせてくれたのは、今も片腕にしがみついている主だ。

「……ありがとう、主」
「…………うん」

 彼女は、いつもの浮かべるような笑顔を漸く髭切に見せた。その顔も今日は少しだけ、いつもと違って見えた。


 ***


「他に痛い所は残ってない? もう動かしても平気?」
「痛くはないね。ほら、こうしても大丈夫」

 手入部屋の布団の上に座った髭切は、一番深い傷があった右手を開いたり閉じたりしながらその動きを確認する。
 あれから、まだ手入れが済んでいないということもあり、歌仙たちはそれぞれの部屋に戻っていった。積もる話はまだあったが、今はまずは髭切の途中になった手入れが最優先だ。
 そうして数十分を手入れに費やしたおかげで、髭切の体から傷は全て無くなっていた。藤は一安心といった顔で息を吐き出してから、残り少ない包帯を救急箱に放り込み、汚れたガーゼをゴミ箱にぽいぽいと入れる。その横顔は睡眠不足のせいか、少し白く見えた。

「手入れをさせておいてこう言うのもなんだけど、一度休んだ方がいいんじゃないかい」
「歌仙たちも怪我してることには変わりないんだから、先に手入れをするよ。それから寝るから平気」

 振り返った彼女の顔色は、先ほどより多少ましになっているようにも見えるが、やはり良いとは言えない。眠気に押し負けそうになっているというよりは、血の気が引いているといった様子が近い。

(あれだけの血を見たんだものね。この時代は戦とは縁遠いと言うし、そのせいかな)

 そう考えてみれば、死んでもおかしくないほどの量の血を見ても顔色を変えるだけで済んでいるというのは、大したことなのだろう。

「主は、肝が据わった惣領だよね」
「肝が据わったって、そんなにどっしり構えるようなことをした覚えはないんだけど」
「ほら、血を見ても平気そうな顔してるし」

 何気なく口にした言葉に、藤は少し目を逸らした。構わず、髭切は続ける。

「それに自分が殺されるかもしれないっていうのに、逃げ出さなかっただろう?」

 正直なことを言うのならば、あの瞬間に立ち上がって彼女が背中を向けていたなら、追いかけて、その背中を斬っていたかもしれなかった。
 或いは手を出すことはなかったとしても、消えぬ失望を抱えていただろう。所詮口だけの主だったのか、と。

「褒められるような大したことを、したつもりはないんだけど」
「いやいや、大したものだよ。それとも、斬られたかったの?」
「まさか。痛いのは嫌いだもの」

 首をぶんぶんと横に振る藤。その顔には先ほどまで覗かせていた激しい感情は、全く見つけられなかった。

「右手の指先、まだちょっと震えてるみたいだね」
「そうだね。思ったように動かすのは難しそうだよ」
「……神経までは、治るのに時間がかかるのかな」

 何度かペタペタと腕に触れてみる藤の様子は、真剣そのものだ。
 見た限り、血も傷跡もない。ただ、動かした時に動きが自分の予想より少しずれてしまうのが気になるという程度だ。戦闘ではその少しが命取りだろうが、少なくとも今すぐなんとかしなければならない、というほどでもない。
 そのように説明すると、藤は何故か口元を少し緩ませて微笑を見せた。

「……髭切。あのとき、斬るつもりはなかったんだね」
「何のこと?」
「何でもない」

 細かいズレが生じてしまうような状態で刀を振るうということは、寸止めをすることもできないということだ。
 だから、彼は主に刀を向けながらも完全に振り下ろしきる前に腕を止めた。斬ってもいいと思っているなら、ぶれが多少あっても、構わず振り下ろしきってしまえばよかったのだ。
 その行動を選んだことそのものが、彼がそもそも自分を斬り捨てるつもりはなかったということを明らかにしていると、彼女は捉えていた。

「君は優しくて、いい人だ」
「主には僕がそう見えるのかい」
「うん。歌仙も、五虎退も、物吉も、髭切も。刀剣男士は、優しくて、いい神様ばかりだ」

 藤は口元をほころばせ、花のような笑みを浮かべた。
 けれども、髭切の胸中には何故か、寒々しい空虚感が通り過ぎた。これも自分の感情ではない。ならば主がこの感情を抱いたとして、何故そんな思いが彼女の中に生まれたのか。
 だが、髭切が問いかけようとしたときには、彼女は救急箱を片手に立ち上がる所であった。

「じゃあ、歌仙たちの手入れをしてくるね。彼らも、怪我をしていただろうから」

 トントンと軽い足取りで襖の向こうに消えていく背中を見送ってから、髭切は敷かれた布団にごろりと寝転がった。先ほど過った感情は、既にもう感じなくなっている。
 あれこれ考えようにも体の内側に溜まった疲労感が、彼を再び眠りに誘っていた。

「まさか、こんなことになっちゃうなんてね」

 今日も明日も明後日も、ずっと続くと思えた黒い感情は今はすっかり大人しくなっていた。
 無くなっていたわけではない。でも、もう振り回されたりはしない。何故なら、自分の思いを口にしたからだ。
 あの時躊躇を抱きながらも、歌仙たちの正しさに向き合いながらも言葉を口にできたのは、

「そんな相手、どうだっていい、か」

 歌仙らに気遣う必要はないと言い切ったのは、藤の思い切りの良い言葉だった。
 これで嫌われても構わない。それなら、その相手の方を切り捨てればいい。自分の心は無視しなくていい。
 彼女に言われたからこそ、向き合えた。言われたからこそ、見落としていたものに気がつけた。

「なんだか、今までのことが馬鹿らしく……あれ」

 気がつけば、頬を暖かな何かが流れ落ちていた。思わずぎこちなく動く右手を伸ばして触れると、そこにはわずかな水がついていた。

「……何だろう、これ」

 溢れる水は拭っても拭っても留まらず、仕方なく彼は頬を流れるがままに任せる。
 だが、悪い気持ちではない。
 ついに限界に達した疲労に負け、髭切は目を瞑る。

 溢れ出る感情の発露。
 それが涙というものであると、彼はまだ知らなかった。
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