本編第一部(完結済み)
夜も更け、既に時計の針は頂点を通り過ぎている。本丸で刀剣男士たちの帰還を待っていた藤は、うつらうつらと船を漕いでいた。
だが、まるで何かに呼ばれたような気がして、彼女は重くなっていた瞼をこじ開け、そして息を呑む。
「…………っ!」
漂う血臭が、本丸の中にいても気がつくほど濃い。もとより血の臭いには、人より敏感になっている節がある。故に、藤は彼らの帰還にすぐ気がつくことができた。
だが齎された臭いはあまりに、濃密だ。返り血程度では済まないほどに今も強く香ってくる。
くらくらするほどに。或いは、惹きつけられるほどに。
ぶんぶんと激しく首を横に振り、藤は足音荒く外に出る。サンダルに足をつっかける時間すらもどかしく、庭から続く時間遡行の場として用意された祠に向かう。
息が乱れ、夏の蒸し暑い空気が体にまとわりつく。足が縺れて転びそうになりながらも、嫌な予感は杞憂に過ぎないと心に言い聞かせて、彼女はひた走る。
そして、絶句する。
「主、通信の準備をしてくれ! 敵の数が多すぎた、増援が必要だ!」
歌仙に告げられた敗北を示す内容が、藤の頭にはまるで壁一枚隔てたように入ってこない。
彼女の視界は、ある部分を懸命に見まいとした。
土埃に巻かれたのか、白い髪を薄茶に染めている五虎退。同じく、泥か返り血かわからない汚れをあちこちに散らしている物吉。以前の出陣よりはいくらかましだが、それでも腕や頬に血を滲ませている歌仙。
彼らを見つめることは、まだできた。
けれども、その端にいる人を見ることを無意識に拒んでいる。
「あの、手入れ部屋の準備も、お願いしますっ」
五虎退の必死な声で、藤は我に返る。
以前の出陣の時は、心の準備をすることもなく歌仙の無残な姿を目の当たりにさせられた。動揺しまいと努力したものの、頭をぶん殴られたような衝撃は受けた。
だから今回は、深呼吸を小さく一つ。意を決して彼女は、彼を視界に収める。
「――髭切」
声をかけると、彼はゆるりとこちらに顔を向けた。頭のてっぺんから爪先まで真っ赤――と言っても大げさではないほど、彼はその全身を血で濡らしていた。
立っているのが不思議なくらいなほど傷があちこちにあるというのに、髭切は誰かの肩を借りようともしない。ただ、淀んだ金茶の目が藤の瞳を見つめていた。
「主。政府と連絡を取ってくれ。その後に彼の手入れを頼みたい。僕の言っていることがわかるかい」
肩を軽く歌仙に揺さぶられ、藤はハッとする。以前とは違う連絡の内容に、彼女はことここに至ってようやく気がついた。
「政府に……どうして?」
「仕留めきれなかった。……僕らは撤退してきたんだ。あのままでは、あの時代の歴史が変えられてしまうかもしれない」
戦闘状態から続く興奮で言葉が荒くならないように、歌仙は意識して喋るピードを落として藤に伝える。
硬直しかかっていた彼女の頭はようやく回り始め、藤は歌仙の言葉を頭で咀嚼していく。それに伴い、心が冷静さを取り戻していく。
――審神者はこの程度で動じてはならない。
自分にかけた誓いのような戒めを、掛け直す。もう一呼吸置いた彼女は、冷静さという鉄の仮面を既に付け直していた。
「わかった。すぐに連絡する。五虎退と物吉は髭切の手当てをしてあげて。連絡が終わったらすぐにいくから。歌仙、状況を伝えるために一緒に来てもらってもいい?」
「もとより、そのつもりだよ」
段取りが決まれば話は早い。藤は歌仙を伴い、足早に自室へと向かった。
特に連絡を取りたいことがなければ、藤にとって政府というのは何だか縁がない、遠い世界のようなものという印象が強かった。だから、政府から貰った連絡用の小型端末も、個人的な調べ物以外でほとんど使ったことがなかった。
彼女にとっての政府は、学校の中における職員室、あるいは校長室のようなものだ。名前だけは馴染みはあるが、率先して入っていきたい場所でもない。
しかし、今はそんな好き嫌いを言っている場合ではなかった。慣れない手つきで、教えられた政府用の緊急連絡先を呼び出すボタンを押す。
「君は……富塚が担当している藤、という審神者様だね。一体どうしたんだい?」
入電のための通知音が聞こえたと思ったら、半透明の画面が端末から浮かび上がる。投影された画面から相手の顔を見つつ会話ができるホログラム通信という技術は、歴史修正主義者の戦いの場においては、こうして当たり前のように使われていた。
藤の連絡に出たのは、受付係らしい初老の男性だ。夜更けということもあって、彼の顔には疲労の色が滲んでいたが、相手に遠慮をしている場合では無かった。
「本日の出陣で敵を仕留めきれず、刀剣男士が撤退をしたため、増援をお願いしたいんです」
声がひっくり返りそうになるも、どうにか堪える。努めて冷静でいようとしたのが、功を奏したようだ。
与えられた情報を耳にして、男性の顔は厳しいものに切り替わる。悠長に構えている場合ではない事態と分かってくれたようだ。
「数は? 撤退した刀剣男士の負傷状況は?」
「ざっと見た限り打刀一名中傷、短刀と脇差それぞれ一名ずつ軽傷。太刀一名……重傷、です」
「待ってくれ。今確認する。……つまり、全振りに損害ありか。そこに見えるのは、部隊に参加していた者かな。状況を教えてもらえるかい」
声をかけられた歌仙が、今度は藤の代わりに口を開く。彼の報告を聞きながら、藤は正座した膝に載せている手をぎゅっと握りしめた。
ともすれば、耳を塞いで拒絶したくなるほど、歌仙の戦況報告には生々しさが滲んでいた。自分が送り出した先にあるものを、言葉だけとはいえ耳にするのはそれ相応の覚悟が必要だ。けれども二十歳にも満たない年の彼女に、戦場の現場指揮官と同等の覚悟を求めるのは、到底無理な話だった。だから彼女は拳を白くなるまで握りしめて、ただ耐えることを選ぶ。
「なるほど、状況は理解した。おーい、相模国の本丸にいる彼を叩き起こしてこい! あそこなら今日は非番で、おまけにベテランのはずだ。遅れはとらないだろう」
通信越しに、ドタバタという荒々しい足音や掛け声が聞こえる。画面越しからも、緊急事態である様子がひしひしと伝わってきた。
しばらく通信の向こうでのやり取りに耳を澄ませていた藤のもとに、改めて通信相手の声が戻る。
「こちらの調査不足で無理を命じてしまったようだ。申し訳ない。手配は済ませておいたから、今は刀剣男士の手入れの方に力を入れてくれ」
藤の顔が、あまりに青ざめて見えたからだろう。通信相手は、安心させるように優しい笑顔を浮かべる。
「大丈夫。彼らは神様だ。そんな簡単に折れたりはしないよ」
その言葉を聞き、藤は一度だけ小さく頷いた。折れるという言葉から連想される『死』を意識すまいと、彼女は表情を殺して俯く。
対面していた男は更に二つ三つ歌仙から確認を取ると、手短な別れの挨拶と共に通信を切った。後に残ったのは、痛いほどの夜の沈黙と歌仙の微かな息づかいだけだ。
「主。僕や五虎退たちの手入れは後回しで構わない。髭切が単身敵の只中に突っ込んでいったせいで、酷い怪我をしている。彼を見てやってくれないか」
「…………」
「主?」
放心状態のような彼女を軽く揺さぶると、ようやく藤はピクリと肩をはねさせ、顔を上げた。
「……ごめん。呆けてたかも」
「突然のことだからね。無理もない」
言ってから、歌仙は気まずそうに顔を逸らす。視線を畳に落とす彼の顔には、申し訳なさが滲み出ていた。
「……髭切にあんな無茶をさせたのは、僕の責任でもあるかもしれない」
「歌仙が?」
「僕にはそのつもりはなくても、彼はまだ主を傷つけたことを許されてないと思っていたかもしれない。……それに勢いに任せて、酷いことを言ってしまった」
撤退間際に、継戦の意思を明らかにした髭切へぶつけた言葉。あれは十分、彼に対しての嫌味になるものだ。
気がついた時には既に遅い。謝罪をする余裕も無く、結局あの後、彼とまともに言葉を交わすことはなかった。
だが、藤は首を横に振って歌仙の言葉を否定する。
「……多分、そういうのとは違うと思う。きっと僕が、気がつくべきことだったんだ」
「主だからといって、何でも責任を負うものじゃないよ」
「そういうつもりじゃないんだけど……」
藤の言葉に、歌仙は首を振って否定するも、藤は更に否定を返しただけだ。いったい彼女が何を言いたいのか、歌仙には全く分からなかった。
けれども、彼女はそれ以上は語らず手入れ部屋へ向かうために部屋の外へと姿を消した。残された歌仙には、はっきりしない形の疑問と不安が、尾を引くように残り続けていた。
手入れ部屋に向かっていた藤は、部屋の前にいる二人組の姿を見つけて、急くように動かしていた足を止める。二人組とは言うまでも無い、五虎退と物吉のことだ。
彼らは揃って、困ったようにその場でうろうろとし続けていた。手には、どういうわけか中途半端な長さの包帯が握られている。
「二人とも、何をしているの?」
「あの……髭切さんの手当をしようとしたんですけど」
「けど?」
「断られてしまったんです」
言葉を詰まらせる五虎退の代わりに、物吉が残りを引き取る。握り締められた包帯は、中断された手当の名残だろう。
「片腕だから……大変だろうと思ったんですけど。『君たちは自分の手当をしていればいい、僕は一人で大丈夫だから』って」
「片腕?」
「右腕の傷がひどくて、動かすのも痛そうにしてたんです」
その話を聞いて、藤は眉をひそめる。彼の言葉が本当なら、髭切は今もこの扉の向こうでろくな手当もできずに、ただ主が来るのを待っていることになる。
「……わかった。僕が中で手入れしてるから、二人は絶対入ってこないでね。歌仙の手当をしてあげて」
物吉と五虎退にいつもより厳しく言い含めると、藤は手入れ部屋の障子をゆっくりと開いた。
まず彼女を迎えたのは、いつもより濃く感じる血の匂い。思わずくらりとしそうになるも、彼らが帰ってきたときと同じように頭を横に振って冷静さを取り戻す。だが、顔を上げて目に入ったものを理解した瞬間、藤は声を失いかけてしまった。
「……ごめん」
髭切には聞こえないように、口を突いて出かけた謝罪の言葉は唇の形だけに留めておく。
布団の上に足を投げ出して座っていた髭切は、まるでそのまま意識を失っているかのようだった。半眼の瞳には光は点っておらず、まるでよくできた彫像のようだ。
けれども、彫像ではない証拠に彼の体のあちこちからは真っ赤なものが流れ落ちている。思わず目を背けたくなるほど、その有様は凄惨だった。
「手入れしに来たから、怪我を見せてくれる?」
どうにか揺れる心を落ち着かせ、髭切に声をかける。彼女の声に反応して、髭切はゆるりと顔を上げた。
「……ああ、うん。そうだね」
返事をして、彼は笑う。主を安心させるために笑っているのだと、彼女は彼の笑顔をそのように解釈していた。体中に傷があるにも関わらず、痛みなど感じていないかのような穏やかな笑顔は、いっそ不気味ですらある。
髭切は自分の服を脱ごうとするが、固まった血が服と傷口をくっつけてしまったようで、引っ張るだけで痛みが走ってしまったらしい。微かに彼が顔を引き攣らせているのを見て、
「もう、それ切っちゃうから。どのみちボロボロなんだから、繕っても使えないだろうし」
藤は救急箱から鋏を持ち出し、彼の服を遠慮なく切り剥がしていく。
露わになった肌には、見るものが顔をしかめたくなるほどの傷があちこちに刻まれていた。先だっての手入れの時に見た歌仙の傷と同じほどの深手に、藤は思わずくらっとした。だからといって、このまま気を失っているわけにもいかない。
「ねえ、主」
「何?」
手入れのために、藤は髭切の肌に手を添えながら返事をする。思考を傷口の方に向けていたため、生返事になっていた彼女の耳に、
「どうしたら、この感情は無くなるの」
ぞっとするほど、虚無的な声が響く。
思わず顔を上げると、彼の金色の瞳と目が合う。まるで洞穴のように底が見えない暗闇を宿した目が、彼女を見つめている。
「……髭切」
「なんだか、疲れちゃったんだよね。もう」
そこまで言うと、彼の瞼がゆっくりと落ちていく。髭切の瞳が閉じていくのを見て、藤は嫌な想像に駆られて思わず口元に手を翳した。
彼の口から微かな寝息を感じて、ひとまずほっと胸をなで下ろす。どうやら、疲労と出血のあまり眠ってしまったようだ。
「……疲れるよね。そうやって、笑ってるのは」
藤はそれだけ呟くと、手入れを再開した。
治したいという思いを込めて、傷口の近くに手を置いて目を瞑る。霊力がどうとか、審神者になるときに細かい説明は受けたものの、結局藤は理解できていなかった。
ただ、強く念じれば思いは伝わる。思いが伝われば、結果になる。
藤にとって手入れとは、そういうものだった。
(神様のために僕が祈る。これじゃ何だか、あべこべだよね)
怪我の一つを塞ぎ終わったときに、ふとそんなことを考え、何故か不意に寒気を覚える。指先の感覚が、失われていっているような、足先がじんわりと冷え込む冬の日のような、そんな寒気だった。まるで、丁度貧血にでもなったかのようだ。
以前歌仙の手入れをしたときよりも、血の気が引くのは早いように思える。しかし、自身の体調に構うことなく、今度は背面の衣服を切り剥がすことに集中する。
そこに刻まれた刀傷に手を添えて、同じ要領で傷を塞いだ頃には、藤の頭にはまるで小さな罅でも入ったような疼痛が生まれていた。
「これで体を横にできるよ」
まだ細かい切り傷は残っているが、今はそれは後回しにする。包帯と消毒薬を含んだガーゼを使って応急処置を済ませてから、座ったまま眠りに落ちている彼の上体を横にした。
一息を入れるために彼女が深呼吸したとき、不意に上着の中に入れていた携帯用の端末から、けたたましい着信音が響いた。
「ちょっと、こんなときにっ!」
寝ている彼を起こすまいと、かけてきた相手を確認することなく藤は端末の受信ボタンを押す。
ブン、という電子的な音ともに浮かび上がったホログラム映像に映っていたのは、先だって鍛刀のための札を持ってきた政府の役人――富塚の顔だった。見知った顔ではあったことに、藤は一旦安堵の息を吐き出してから、
「あの、どうしたんですか?」
不機嫌そうな顔にならないように細心の注意を払って、けれども不快な気持ちは隠せていない声で尋ねた。
「どうしたもこうしたも、出陣した刀剣男士が撤退したと聞いて慌てて連絡したんだよ。大丈夫なのかい?」
「全員無事です。大きな怪我も……一人だけです」
藤は端末を持って、髭切を起こさないように手入れ部屋を出る。興奮している役人の声で、彼を起こさないためだ。
「ああ、先ほど聞いたよ。太刀が一振り重傷ということだね。部隊長の歌仙兼定の話では、単騎で突撃をした結果の負傷とのことだが」
「そうみたいですね。初陣だったので、焦ってしまったのかも」
適当に返事をしながらも、藤は内心さっさと端末の電源を切りたいという気持ちでいっぱいになっていた。しかし、
「その太刀というのは、君を斬った太刀だろう?」
不意打ちのように割って入った言葉に、藤の生返事が止まる。一体どこでそんな情報を仕入れてきたのやらと、藤は顔を顰めそうになった。
あの狐といい、どうやらこの本丸の様子は監視されているらしい。安全のためかもしれないが、あまりいい顔はできなかった。
「そうです。でも、それはただの……考えの行き違いみたいなものです」
「撤退を考えている歌仙の言うことを聞かずに、継戦を訴えたとも渡された報告書にあった。滅多なことを言うものでは無いかもしれないが、撤退の際に敵に乱入され、結果として時間遡行軍が本丸に侵入してしまい、本丸そのものが壊滅したという話も聞く。彼の行為は、非常に危険な結果につながっていたかもしれない」
富塚の話を聞いて、これには藤も背筋に寒いものを覚える。時間遡行軍というものが具体的に何かは知らないが、剣の腕前は一流の歌仙たちにあれだけの傷を負わせる存在だ。実際に出会ってしまったら、ひとたまりもないだろう。
「……でも、そんなことは起きていません」
「だとしても、君に叛意を示したのは事実だ。言いたくはないんだが……大事になる前に、刀解した方がいいんじゃないか」
さらりと告げられた言葉があまりに自然だったからこそ、藤は最初何を言われたのか理解できなかった。彼女の表情にあまりに変化がないからか、重ねて富塚は言う。
「たまにいるらしいんだ。顕現した審神者の言うことを聞かずに自分勝手な行動を取り続けた結果、審神者に害を成したり本丸を壊滅に引き込んだりしてしまう、そんな刀剣男士が」
「……刀解って、刀に戻して、消してしまうことですよね」
「単純に本体の付喪神に還すだけだ。彼らは所詮、分裂した付喪神の一欠片に過ぎない。もっとも神様は分裂したところで力が劣ったりするわけではないらしいが、まあ今はそれはいい。ともかく、別に人間と違って死ぬわけじゃないんだから、そこは気にすることじゃない」
彼は言い含めるように優しく言うが、藤の耳にはそれが死ぬこととどう違うのか分からなかった。個々という認識を消して、全体という意識の中へと消していく。人間なら、それは死と言い表すのではないか。
「貴重な戦力を惜しむ気持ちはわかる。でも君のためを思って敢えて言うなら、そんな危険分子は排除するべきだ」
――君のためを思って。
その言葉を聞いた瞬間、反射的に端末の電源を切りたい衝動に駆られる。耳の奥で、ざわざわとノイズが走ったような異音が聞こえた気がした。
彼女は、過去の亡霊が紡ぐ音を必死に振りほどく。沸き立つ感情の激流に必死に堰を作って押し込み、震える唇でどうにか言葉を紡ぐ。
「……どうするかは、僕が決めます。手入れの途中なので、これで」
無難な返答をした後、彼女は通信を切った。瞬間、手入れをした後遺症のような吐き気が、目眩が、不意にぶり返したように彼女を襲う。それでもよろよろと立ち上がり、藤は障子を開いた。
髭切はこちらに背中を向けて眠っているようだ。来た時よりは傷も塞がっているが、まだ手入れは終わっていない。ふらつく足を叱咤しながら、彼女は彼に近づいた。
(――刀解)
主に手入れの続きをしてもらいながら、髭切は目を閉じて思う。別に寝たふりをしていたわけではない。起きてしまったのだ。
何かとてつもない感情の高ぶりに頭を殴りつけられたような衝撃が走り、否が応でも意識が覚醒してしまった。自分以外の誰かが、自分の中で勝手に感情を爆発させている。髭切はそのように受け取っていた。
(危険分子は排除。まあ、そうだよね)
髭切にそんな意図はまるでなかったが、言ったところで主が決めたことに逆らうつもりもない。それに、彼自身『消える』ということへの忌避感は驚くほどなかった。
寧ろ、ストンと心が落ち着いてしまった。
受け入れてしまった。
主にこぼした「疲れた」という言葉は、嘘ではない。
時間が経てばこの感情は――怒りは、薄れるのかもしれない。けれども、顕現したばかりの髭切には到底楽観視できるものではなかった。
(それでも、別にいいかなあ)
惜しむほどの悔いもない。
それでも、忘れかけていた夏の青空が、ふと彼の瞼の裏に広がる。その下で揺れる朱の花が、同じ色の髪の彼女が、彼の心に滲んで浮かぶ。
(僕がいなくなったら、あの花は枯れちゃうかな)
今も部屋の前に揺れているのだろう、一輪の鬼百合。浮上した意識はその花を最後に思い浮かべて、ゆっくりと沈んでいく。
***
――ねんねんころりよ、おころりよ
微かに歌声が聞こえる。女性の優しげな声だ。聞いているだけで心が落ち着くような彼女の歌に、髭切はしばし身を任せる。
(また、夢?)
自分が聞いたこともないはずの声なのに、不思議と心が落ち着くのを髭切は感じていた。
ふと、自分の頭をそっと誰かが撫でる。その感触を味わう暇もなく、己の体は勝手に上体を起こした。どうやらまた誰かの体に乗り移っているような状態らしい。
数日前の靄がかかった景色ではなく、今日は辺り一面は燃えんばかりの夕焼けに包まれていた。
「あら、あーちゃん。起きちゃったの?」
歌はやみ、代わりに優しげな声が聞こえる。あーちゃんという呼ばれ方からすると、乗り移っている人物は数日前と同じだろうか。彼女が振り向いた先には、
(……主?)
主に似た容貌の女性が、微笑みながらこちらを見ていた。癖の強い、明け方の空を思わせる色の髪が、夕日の中に溶け込んでいる。ただ、主のものと違って彼女の髪は肩よりも長く、背丈も主よりも大きいように思える。
それに、主と明確に違う部分として彼女には、角がなかった。代わりに、角が生えているだろう場所には小さなこぶのようなものが見える。
「……かあちゃ、とうちゃは?」
女性の顔を見つめていると、少し癖のある発音の声が口から勝手に飛び出ていた。以前の夢で聞いたものよりもずっと幼い声だ。よく見れば、視界も随分低い。どうやら前回の時よりも随分小さい頃の、しかし同じ『彼女』に乗り移っているらしい。
かあちゃ、と呼ばれた女性は、薄い微笑みを浮かべていたが、少女に問いかけられると悲しそうに眉を下げた。
「父ちゃんはね。この下にいるのよ」
女性が傍らにある地面を指さす。そこには小高く盛られた土でできた山があった。真っ赤な夕焼けに照らされている盛り土は、どこか寂寥感を見る者に覚えさせる。知らず知らずのうちに、髭切も胸が締め付けられるような気持ちに襲われていた。
「とうちゃ、土の下じゃかわいそだよ。だしてあげて」
「だめだよ。もう、起きないんだから」
「何で、何で?」
少女は疑問を重ね、女性を軽く揺さぶる。けれども女性は、首を何度も横に振るだけだった。
(駄目だよ。誰かは知らないけど、墓の下の者を暴くのはよくない)
より客観的に、髭切は駄々をこねる少女の内側で状況を把握する。
この盛り土は墓標の代わりで、どうやら亡くなっているのはこの娘の父親らしい。母親はそれを理解しているが、幼い娘はまだ現実を認められない。ざっとそんなところだろうと思っていると、今度は幼子の視界がじんわりと滲み出す。
「それは、あーちゃんのせい?」
「違う、違うよ。あーちゃんは何も悪くない。何も悪くないよ」
泣き出したらしい少女を、母親らしき女性はぎゅうと抱きしめる。夢の中なのに、妙に実を伴った熱が体を伝わってきた。
「かあちゃは、どこにもいかない?」
「行かないよ。どこにも行かない」
「他のみんなも?」
「もちろん。みんな、あーちゃんと一緒よ」
他のみんな、と少女が口にした途端、にわかに周りに気配を感じる。微かな息遣いやざわめき。そこにあるのは、たしかに人の気配だ。
見ず知らずの他人に囲まれれば不安を覚えるはずだが、今の髭切には――そして恐らく少女にも、恐怖の気持ちはない。あるのは、誰かに見守られているということへの安堵だけ。
少女は安心したように顔を上げ、
「え…………」
声を失う。
確かにそこにいたはずなのに、母親と思しき女性の姿はまるで霞のように消えていた。
代わりに、また一つ。小さな盛り土が彼女の前にある。
慌てて周りを見ても、先ほどまで感じていた人々の気配すら微塵もない。見渡すばかり、広がっているのは小さな土の山だけだ。
(墓……)
髭切が思うまでもなく、そこにある盛り土が誰のためのものかは明白だった。
いつしか、燃えるような夕焼けは沈み、辺りはまるで黒い布で空を包んだかのような夜に包まれている。
ざわざわと風が通り過ぎる。けれども、人の気配はしない。右を向いても左を向いても、誰かがいた痕跡一つ残っていない。
「だれか、だれかいないの!?」
子供の声はいつしか悲鳴のようなものになっていた。
彼女は駆ける。息を切らし、喉を枯らせて、叫びながら尚走る。
その先に人影が見える。背の高いあれは、男性のものだろうか。
いつのまにか自分の視点も高くなっている。走っている間に少女が大人になったような、不自然なはずなのに自然に受け入れられる奇妙な変化だった。
背丈が伸びた彼女が見つめているのは、真っ暗な世界に不自然に浮かび上がっている男の人影。一体誰がいるのかと目を凝らし、
(あれは、僕?)
思わず声をあげそうになる。が、喉から音が出ることはない。
立っている自分は、自分自身であるはずなのに違和感を覚える。刀としては当たり前のことかもしれないが、その髭切は、まるで死んでいるような目をしていた。
彼女は髭切の姿を認めると、走る速さを緩める。手を恐る恐る伸ばして彼に触れるかという刹那、不意に自分の――髭切の影は、まるで焼き物を叩き割ったように砕けて、消えた。
(――――!)
いくら夢の中の虚像とはいえ、自分の姿が砕けるのを見るのは気持ちの良いものではない。顔には出すことはできないが内心で思わず眉根を寄せていると、
「……ごめんなさい。ごめんなさい」
嗚咽交じりに濡れた声が、暗闇に響く。気がつくと、彼女は座り込んでいて、無限に続くとも知れない暗闇に目を落としていた。
「私が気づかなきゃ、いけなかったのに。私が一番やりたくなかったことなのに。私が一番、知っていたのに」
彼女の言葉が何を示すものか、髭切には分からない。言葉の真意を考える時間も与えられることはなく、ふ、と彼の意識は浮上していった。
***
「…………」
意識が戻ったということは、まだ自分は砕けたわけではないらしい。目覚めた髭切が一番に考えたことは、そんなことだった。
(別にもう、どっちでもいいんだけどなあ)
変わらない諦念を抱きながら顔を横に向ければ、部屋の畳が眠る前と変わり映えすることなく広がっている。どうやら、手入れ部屋から移動はしていないようだ。
纏っていたシャツは眠る前にされたように切り取られて、あちこちに布片となって落ちていた。露わになった肌には、何重も包帯が巻かれており、素肌の部分の方が少ないほどだ。手入れのおかげだろうが、体の痛みはあちこちに残っていても動かすこと自体に支障はない。
そこまで状態を確認して、髭切は寝転がっている自分の腹に不自然な重みを感じた。上体を起こし、流石の髭切も一瞬言葉を失う。
「んー…………」
はたして、髭切の腹の上まで引き上げられた毛布を枕に、主が突っ伏して寝ていた。眉間に小さく皺を刻んだ横顔は安眠とは程遠そうだが、手入れの最中に寝てしまったというところだろうか。
「主」
呼びかけてみても、言葉になっていない寝言ばかり聞こえる。よくよく見れば、あまり顔色も良いとはいえない。
時計を見やれば、時刻は丑三つ時といってもいい頃合いだ。普段の彼女なら、とうに寝ている時刻である。
「…………君は、何を謝っていたの」
夢の中の子供が主と同じ保証はまだないが、しかし髭切は問いかけてみる。
返事は、当然ない。
呆然と見つめる髭切と、寝心地悪そうにもぞもぞと頭の角度を変えている藤。彼女の様子は、あの燃えるような夕焼けの中で見た親子の姿に似ていた。
だからだろうか。
思わず彼の唇から、歌がこぼれる。
「――ねんねんころりよ おころりよ」
耳になどしたことのないはずの子守唄が、低く柔らかく、揺蕩うように広がっていく。どんな想いがそこに込められているかも知らず、どんな願いが向けられていたかも分からない。
けれども、あの子供の不安が主のものなら、彼女を慈しむように抱きしめていた女性の歌で少しでも安らぐのではと、思いはした。
言い知れない寂しさを共有した自分ができるのは、その程度のことだろうという思い。彼女に特別な親愛を抱いているわけではないが、彼女の裏側にある何かに触れたのだから何かするべきだ、という言葉にならない直感が髭切を突き動かし、彼の唇から意味も分からない旋律を奏でさせる。
そうして壊れたオルゴールのように、同じフレーズを何度も何度も、彼は口にした。
「……ん、あれ。僕、寝てた?」
頭をゆるりと上げて、寝ぼけ眼の視線を髭切に送る藤。彼女が起きたのを見て、髭切も子守歌を口ずさむのをぴたりと止めた。
まだ開ききっていない藤色の瞳が、時計と窓、そして髭切を見つめている。数度の瞬きを経て、彼女は目を大きく見開いた。
「ごめん。手入れの途中だったのに、寝てしまうなんて」
「いいよ。別に」
笑顔を返しながらも、髭切は眠る前に考えていたことを思い返す。睡眠を間に挟んだ所で、事態が何か解決したわけではない。寧ろ睡眠によって冴えた思考は、髭切の思考にある一つの方向性を与えてしまってすらいた。
その結果として、手入れのために改めて彼に向けて伸びる藤の手を、髭切は怪我をしていない左手でやんわりと押し返す。
「どうしたの、髭切」
「刀解するなら、もう手入れはしなくてもいいよね。どうせいなくなるんだし」
不意打ちのように告げられた言葉は、どんな刀よりも鋭く藤の胸を貫く。けれども、それは髭切が知る由もないことだ。
今はまだ鎮まっている内側にある怒りも、また歌仙たちを目にすれば燻るのだろう。
言い知れないこの感情に行き場を与えることはできない。それは、身勝手で子供じみたものだと理解しているから。故に、誰にもぶつけることはできない激情は再び溜まり続ける。
そんなものに振り回され続けながら在ることに、意味は見いだせない。
「ごめんね。最初から最後まで、迷惑ばかりかけて。主にも怪我をさせてしまったし、歌仙たちも困らせてしまった」
この感情は、いずれ結果的に主たちを危険に晒す。あの通信相手の誰かに言われるまでもなく、戦場に立った実感として髭切は理解していた。だから、
「もう、おしまいにしていいよ」
――終わりにしてしまおう。
誰にも問われなかった、己の誇りに固執するのも。
ついに分からなかった、己の欠落に縋り付くのも。
髭切の言葉を聞き、藤は驚愕に目を見開き――けれども、覚悟を決めたように目を据わらせ、そして、唇を開いた。
***
コチコチ。コチコチ。
時計の秒針が足早に刻む音が、今日はやけにうるさく響く。
手入れ部屋にこもって髭切の手入れを始めた藤の邪魔をしないように、歌仙と五虎退、物吉は空き部屋の一角で自分たちの手当を進めていた。審神者の手入れには及ばないものの、血をぬぐってガーゼを押し当てて包帯を巻けば止血にはなる。
本質的に刀である彼らにとって、審神者の手入れを待てば止血も消毒も無用の存在だ。だが、傷口を曝け出していれば痛みも走る。流れ出た血が本丸を汚すし、見た目としても決して気持ちがいいものではない。ならば、取る選択肢は必然的に絞られる。
「主様、遅いですね。手入れというものは、時間がかかるものなんですか?」
歌仙は物吉に質問をされるも、困ったような笑顔を浮かべるしかなかった。前回の手入れの時は、歌仙は手入れを受ける側だった。故に、彼が時間の経過について詳しく知るはずもない。代わりに、五虎退に視線を投げ渡すと、
「多分……これくらいは……かかってたと思います」
そこまで言いかけて、五虎退はキュッと唇を噛んでから震える声で続ける。
「でも、どうしましょう。もし」
「五虎退。滅多なことを言うものじゃないよ」
涙目になりながら暗い予想を口にしかけた少年を、歌仙がそっと諌める。
満身創痍とはいえ、手入れ部屋で別れた髭切にはまだ意識があった。それなら、彼の回復の見込みは十分にある。歌仙のときよりも希望が持てる、と言っていいほどだ。
「……ボクたちのせいなんでしょうか。髭切さんが頑張りすぎたのって」
ぽそりと、物吉が包帯を巻く手を止めて呟く。
「どうして、そう思うんだい」
「ボクたちは……ボクは、歌仙さんのように彼をすぐに許すことができませんでした。髭切さんがしたことを、なかったことにできなかったんです」
畑で主と会話をしたときも、彼は髭切を批難する自分を許してしまった。正しさは自分の側にあると思っていたからこそ、主を守る自分という立場を分かっていたからこそ、髭切の所業を完全に許して、彼を受け入れることができなかった。
「口には出さなくても、気付いていたんじゃないでしょうか」
物吉の告白に、歌仙は口を一文字に引き結ぶ。彼の言葉は、そのまま歌仙が懸念していたものでもあった。
歌仙自身、髭切とは溝を埋められたと胸を張って言える自信はない。物吉の悔恨は、歌仙の悔恨でもある。
「ボクだったら、それならせめて戦いで認めてほしいって思います。だから、無茶な戦い方をしていたんでしょうか」
じょきりと包帯を切り落とす音が、やけにはっきりと部屋に響く。
「……どうだろうね。真実は、髭切に聞かなければわからないことだ」
「な、なら、ちゃんと聞きます。僕、どんな話だって、聞きます。聞かなきゃいけないんです。あるじさまのときと……同じです」
感情が溢れて涙交じりになっている声で、けれどもきっぱりと五虎退は言う。藤に距離を置かれたように感じて、必死で彼女に言葉を投げかけたのはほんの数日前のことである。
その甲斐があってか、髭切が顕現したあの日、藤は三人に話をしようと決意してくれた。それは、五虎退にとって自分の言動に意味があったと認められる出来事だった。
「主にも、何か考えはあるみたいだったよ。この手入れが終わったら皆で話し合う機会を設けようか」
そうして歌仙が話をまとめようとしたとき。
「――――ったんだ!! ――――のに!!」
誰かが言い争うような声が、静寂の間隙に挟まれる。三人は、即座に得物を持って畳を蹴るように立ち上がる。
これは、主の声だ。彼女は普段、声を荒らげることはしない。
つまり、これは。
――主に、何かあった。
(手入れをしていたんじゃなかったのか!?)
未だ傷みが残る己の分身を片手に握り、歌仙は廊下を駆ける。物吉や五虎退も、すかさず彼の後ろに続く。荒々しく足音を立てて手入れ部屋に向かった彼は、勢いよく障子を開いた。
「主、一体何が――!!」
そして、今日何度目になるかわからない絶句を覚える。
見慣れた手入部屋で、幽鬼と見紛わんばかりにゆらりと立った髭切が、正座をしている主に向けて刀を向けて立っていた。
まるで罪人を裁く処刑人のように――罅割れた銀の切っ先が、主に向けて振り下ろされんとしていた。
だが、まるで何かに呼ばれたような気がして、彼女は重くなっていた瞼をこじ開け、そして息を呑む。
「…………っ!」
漂う血臭が、本丸の中にいても気がつくほど濃い。もとより血の臭いには、人より敏感になっている節がある。故に、藤は彼らの帰還にすぐ気がつくことができた。
だが齎された臭いはあまりに、濃密だ。返り血程度では済まないほどに今も強く香ってくる。
くらくらするほどに。或いは、惹きつけられるほどに。
ぶんぶんと激しく首を横に振り、藤は足音荒く外に出る。サンダルに足をつっかける時間すらもどかしく、庭から続く時間遡行の場として用意された祠に向かう。
息が乱れ、夏の蒸し暑い空気が体にまとわりつく。足が縺れて転びそうになりながらも、嫌な予感は杞憂に過ぎないと心に言い聞かせて、彼女はひた走る。
そして、絶句する。
「主、通信の準備をしてくれ! 敵の数が多すぎた、増援が必要だ!」
歌仙に告げられた敗北を示す内容が、藤の頭にはまるで壁一枚隔てたように入ってこない。
彼女の視界は、ある部分を懸命に見まいとした。
土埃に巻かれたのか、白い髪を薄茶に染めている五虎退。同じく、泥か返り血かわからない汚れをあちこちに散らしている物吉。以前の出陣よりはいくらかましだが、それでも腕や頬に血を滲ませている歌仙。
彼らを見つめることは、まだできた。
けれども、その端にいる人を見ることを無意識に拒んでいる。
「あの、手入れ部屋の準備も、お願いしますっ」
五虎退の必死な声で、藤は我に返る。
以前の出陣の時は、心の準備をすることもなく歌仙の無残な姿を目の当たりにさせられた。動揺しまいと努力したものの、頭をぶん殴られたような衝撃は受けた。
だから今回は、深呼吸を小さく一つ。意を決して彼女は、彼を視界に収める。
「――髭切」
声をかけると、彼はゆるりとこちらに顔を向けた。頭のてっぺんから爪先まで真っ赤――と言っても大げさではないほど、彼はその全身を血で濡らしていた。
立っているのが不思議なくらいなほど傷があちこちにあるというのに、髭切は誰かの肩を借りようともしない。ただ、淀んだ金茶の目が藤の瞳を見つめていた。
「主。政府と連絡を取ってくれ。その後に彼の手入れを頼みたい。僕の言っていることがわかるかい」
肩を軽く歌仙に揺さぶられ、藤はハッとする。以前とは違う連絡の内容に、彼女はことここに至ってようやく気がついた。
「政府に……どうして?」
「仕留めきれなかった。……僕らは撤退してきたんだ。あのままでは、あの時代の歴史が変えられてしまうかもしれない」
戦闘状態から続く興奮で言葉が荒くならないように、歌仙は意識して喋るピードを落として藤に伝える。
硬直しかかっていた彼女の頭はようやく回り始め、藤は歌仙の言葉を頭で咀嚼していく。それに伴い、心が冷静さを取り戻していく。
――審神者はこの程度で動じてはならない。
自分にかけた誓いのような戒めを、掛け直す。もう一呼吸置いた彼女は、冷静さという鉄の仮面を既に付け直していた。
「わかった。すぐに連絡する。五虎退と物吉は髭切の手当てをしてあげて。連絡が終わったらすぐにいくから。歌仙、状況を伝えるために一緒に来てもらってもいい?」
「もとより、そのつもりだよ」
段取りが決まれば話は早い。藤は歌仙を伴い、足早に自室へと向かった。
特に連絡を取りたいことがなければ、藤にとって政府というのは何だか縁がない、遠い世界のようなものという印象が強かった。だから、政府から貰った連絡用の小型端末も、個人的な調べ物以外でほとんど使ったことがなかった。
彼女にとっての政府は、学校の中における職員室、あるいは校長室のようなものだ。名前だけは馴染みはあるが、率先して入っていきたい場所でもない。
しかし、今はそんな好き嫌いを言っている場合ではなかった。慣れない手つきで、教えられた政府用の緊急連絡先を呼び出すボタンを押す。
「君は……富塚が担当している藤、という審神者様だね。一体どうしたんだい?」
入電のための通知音が聞こえたと思ったら、半透明の画面が端末から浮かび上がる。投影された画面から相手の顔を見つつ会話ができるホログラム通信という技術は、歴史修正主義者の戦いの場においては、こうして当たり前のように使われていた。
藤の連絡に出たのは、受付係らしい初老の男性だ。夜更けということもあって、彼の顔には疲労の色が滲んでいたが、相手に遠慮をしている場合では無かった。
「本日の出陣で敵を仕留めきれず、刀剣男士が撤退をしたため、増援をお願いしたいんです」
声がひっくり返りそうになるも、どうにか堪える。努めて冷静でいようとしたのが、功を奏したようだ。
与えられた情報を耳にして、男性の顔は厳しいものに切り替わる。悠長に構えている場合ではない事態と分かってくれたようだ。
「数は? 撤退した刀剣男士の負傷状況は?」
「ざっと見た限り打刀一名中傷、短刀と脇差それぞれ一名ずつ軽傷。太刀一名……重傷、です」
「待ってくれ。今確認する。……つまり、全振りに損害ありか。そこに見えるのは、部隊に参加していた者かな。状況を教えてもらえるかい」
声をかけられた歌仙が、今度は藤の代わりに口を開く。彼の報告を聞きながら、藤は正座した膝に載せている手をぎゅっと握りしめた。
ともすれば、耳を塞いで拒絶したくなるほど、歌仙の戦況報告には生々しさが滲んでいた。自分が送り出した先にあるものを、言葉だけとはいえ耳にするのはそれ相応の覚悟が必要だ。けれども二十歳にも満たない年の彼女に、戦場の現場指揮官と同等の覚悟を求めるのは、到底無理な話だった。だから彼女は拳を白くなるまで握りしめて、ただ耐えることを選ぶ。
「なるほど、状況は理解した。おーい、相模国の本丸にいる彼を叩き起こしてこい! あそこなら今日は非番で、おまけにベテランのはずだ。遅れはとらないだろう」
通信越しに、ドタバタという荒々しい足音や掛け声が聞こえる。画面越しからも、緊急事態である様子がひしひしと伝わってきた。
しばらく通信の向こうでのやり取りに耳を澄ませていた藤のもとに、改めて通信相手の声が戻る。
「こちらの調査不足で無理を命じてしまったようだ。申し訳ない。手配は済ませておいたから、今は刀剣男士の手入れの方に力を入れてくれ」
藤の顔が、あまりに青ざめて見えたからだろう。通信相手は、安心させるように優しい笑顔を浮かべる。
「大丈夫。彼らは神様だ。そんな簡単に折れたりはしないよ」
その言葉を聞き、藤は一度だけ小さく頷いた。折れるという言葉から連想される『死』を意識すまいと、彼女は表情を殺して俯く。
対面していた男は更に二つ三つ歌仙から確認を取ると、手短な別れの挨拶と共に通信を切った。後に残ったのは、痛いほどの夜の沈黙と歌仙の微かな息づかいだけだ。
「主。僕や五虎退たちの手入れは後回しで構わない。髭切が単身敵の只中に突っ込んでいったせいで、酷い怪我をしている。彼を見てやってくれないか」
「…………」
「主?」
放心状態のような彼女を軽く揺さぶると、ようやく藤はピクリと肩をはねさせ、顔を上げた。
「……ごめん。呆けてたかも」
「突然のことだからね。無理もない」
言ってから、歌仙は気まずそうに顔を逸らす。視線を畳に落とす彼の顔には、申し訳なさが滲み出ていた。
「……髭切にあんな無茶をさせたのは、僕の責任でもあるかもしれない」
「歌仙が?」
「僕にはそのつもりはなくても、彼はまだ主を傷つけたことを許されてないと思っていたかもしれない。……それに勢いに任せて、酷いことを言ってしまった」
撤退間際に、継戦の意思を明らかにした髭切へぶつけた言葉。あれは十分、彼に対しての嫌味になるものだ。
気がついた時には既に遅い。謝罪をする余裕も無く、結局あの後、彼とまともに言葉を交わすことはなかった。
だが、藤は首を横に振って歌仙の言葉を否定する。
「……多分、そういうのとは違うと思う。きっと僕が、気がつくべきことだったんだ」
「主だからといって、何でも責任を負うものじゃないよ」
「そういうつもりじゃないんだけど……」
藤の言葉に、歌仙は首を振って否定するも、藤は更に否定を返しただけだ。いったい彼女が何を言いたいのか、歌仙には全く分からなかった。
けれども、彼女はそれ以上は語らず手入れ部屋へ向かうために部屋の外へと姿を消した。残された歌仙には、はっきりしない形の疑問と不安が、尾を引くように残り続けていた。
手入れ部屋に向かっていた藤は、部屋の前にいる二人組の姿を見つけて、急くように動かしていた足を止める。二人組とは言うまでも無い、五虎退と物吉のことだ。
彼らは揃って、困ったようにその場でうろうろとし続けていた。手には、どういうわけか中途半端な長さの包帯が握られている。
「二人とも、何をしているの?」
「あの……髭切さんの手当をしようとしたんですけど」
「けど?」
「断られてしまったんです」
言葉を詰まらせる五虎退の代わりに、物吉が残りを引き取る。握り締められた包帯は、中断された手当の名残だろう。
「片腕だから……大変だろうと思ったんですけど。『君たちは自分の手当をしていればいい、僕は一人で大丈夫だから』って」
「片腕?」
「右腕の傷がひどくて、動かすのも痛そうにしてたんです」
その話を聞いて、藤は眉をひそめる。彼の言葉が本当なら、髭切は今もこの扉の向こうでろくな手当もできずに、ただ主が来るのを待っていることになる。
「……わかった。僕が中で手入れしてるから、二人は絶対入ってこないでね。歌仙の手当をしてあげて」
物吉と五虎退にいつもより厳しく言い含めると、藤は手入れ部屋の障子をゆっくりと開いた。
まず彼女を迎えたのは、いつもより濃く感じる血の匂い。思わずくらりとしそうになるも、彼らが帰ってきたときと同じように頭を横に振って冷静さを取り戻す。だが、顔を上げて目に入ったものを理解した瞬間、藤は声を失いかけてしまった。
「……ごめん」
髭切には聞こえないように、口を突いて出かけた謝罪の言葉は唇の形だけに留めておく。
布団の上に足を投げ出して座っていた髭切は、まるでそのまま意識を失っているかのようだった。半眼の瞳には光は点っておらず、まるでよくできた彫像のようだ。
けれども、彫像ではない証拠に彼の体のあちこちからは真っ赤なものが流れ落ちている。思わず目を背けたくなるほど、その有様は凄惨だった。
「手入れしに来たから、怪我を見せてくれる?」
どうにか揺れる心を落ち着かせ、髭切に声をかける。彼女の声に反応して、髭切はゆるりと顔を上げた。
「……ああ、うん。そうだね」
返事をして、彼は笑う。主を安心させるために笑っているのだと、彼女は彼の笑顔をそのように解釈していた。体中に傷があるにも関わらず、痛みなど感じていないかのような穏やかな笑顔は、いっそ不気味ですらある。
髭切は自分の服を脱ごうとするが、固まった血が服と傷口をくっつけてしまったようで、引っ張るだけで痛みが走ってしまったらしい。微かに彼が顔を引き攣らせているのを見て、
「もう、それ切っちゃうから。どのみちボロボロなんだから、繕っても使えないだろうし」
藤は救急箱から鋏を持ち出し、彼の服を遠慮なく切り剥がしていく。
露わになった肌には、見るものが顔をしかめたくなるほどの傷があちこちに刻まれていた。先だっての手入れの時に見た歌仙の傷と同じほどの深手に、藤は思わずくらっとした。だからといって、このまま気を失っているわけにもいかない。
「ねえ、主」
「何?」
手入れのために、藤は髭切の肌に手を添えながら返事をする。思考を傷口の方に向けていたため、生返事になっていた彼女の耳に、
「どうしたら、この感情は無くなるの」
ぞっとするほど、虚無的な声が響く。
思わず顔を上げると、彼の金色の瞳と目が合う。まるで洞穴のように底が見えない暗闇を宿した目が、彼女を見つめている。
「……髭切」
「なんだか、疲れちゃったんだよね。もう」
そこまで言うと、彼の瞼がゆっくりと落ちていく。髭切の瞳が閉じていくのを見て、藤は嫌な想像に駆られて思わず口元に手を翳した。
彼の口から微かな寝息を感じて、ひとまずほっと胸をなで下ろす。どうやら、疲労と出血のあまり眠ってしまったようだ。
「……疲れるよね。そうやって、笑ってるのは」
藤はそれだけ呟くと、手入れを再開した。
治したいという思いを込めて、傷口の近くに手を置いて目を瞑る。霊力がどうとか、審神者になるときに細かい説明は受けたものの、結局藤は理解できていなかった。
ただ、強く念じれば思いは伝わる。思いが伝われば、結果になる。
藤にとって手入れとは、そういうものだった。
(神様のために僕が祈る。これじゃ何だか、あべこべだよね)
怪我の一つを塞ぎ終わったときに、ふとそんなことを考え、何故か不意に寒気を覚える。指先の感覚が、失われていっているような、足先がじんわりと冷え込む冬の日のような、そんな寒気だった。まるで、丁度貧血にでもなったかのようだ。
以前歌仙の手入れをしたときよりも、血の気が引くのは早いように思える。しかし、自身の体調に構うことなく、今度は背面の衣服を切り剥がすことに集中する。
そこに刻まれた刀傷に手を添えて、同じ要領で傷を塞いだ頃には、藤の頭にはまるで小さな罅でも入ったような疼痛が生まれていた。
「これで体を横にできるよ」
まだ細かい切り傷は残っているが、今はそれは後回しにする。包帯と消毒薬を含んだガーゼを使って応急処置を済ませてから、座ったまま眠りに落ちている彼の上体を横にした。
一息を入れるために彼女が深呼吸したとき、不意に上着の中に入れていた携帯用の端末から、けたたましい着信音が響いた。
「ちょっと、こんなときにっ!」
寝ている彼を起こすまいと、かけてきた相手を確認することなく藤は端末の受信ボタンを押す。
ブン、という電子的な音ともに浮かび上がったホログラム映像に映っていたのは、先だって鍛刀のための札を持ってきた政府の役人――富塚の顔だった。見知った顔ではあったことに、藤は一旦安堵の息を吐き出してから、
「あの、どうしたんですか?」
不機嫌そうな顔にならないように細心の注意を払って、けれども不快な気持ちは隠せていない声で尋ねた。
「どうしたもこうしたも、出陣した刀剣男士が撤退したと聞いて慌てて連絡したんだよ。大丈夫なのかい?」
「全員無事です。大きな怪我も……一人だけです」
藤は端末を持って、髭切を起こさないように手入れ部屋を出る。興奮している役人の声で、彼を起こさないためだ。
「ああ、先ほど聞いたよ。太刀が一振り重傷ということだね。部隊長の歌仙兼定の話では、単騎で突撃をした結果の負傷とのことだが」
「そうみたいですね。初陣だったので、焦ってしまったのかも」
適当に返事をしながらも、藤は内心さっさと端末の電源を切りたいという気持ちでいっぱいになっていた。しかし、
「その太刀というのは、君を斬った太刀だろう?」
不意打ちのように割って入った言葉に、藤の生返事が止まる。一体どこでそんな情報を仕入れてきたのやらと、藤は顔を顰めそうになった。
あの狐といい、どうやらこの本丸の様子は監視されているらしい。安全のためかもしれないが、あまりいい顔はできなかった。
「そうです。でも、それはただの……考えの行き違いみたいなものです」
「撤退を考えている歌仙の言うことを聞かずに、継戦を訴えたとも渡された報告書にあった。滅多なことを言うものでは無いかもしれないが、撤退の際に敵に乱入され、結果として時間遡行軍が本丸に侵入してしまい、本丸そのものが壊滅したという話も聞く。彼の行為は、非常に危険な結果につながっていたかもしれない」
富塚の話を聞いて、これには藤も背筋に寒いものを覚える。時間遡行軍というものが具体的に何かは知らないが、剣の腕前は一流の歌仙たちにあれだけの傷を負わせる存在だ。実際に出会ってしまったら、ひとたまりもないだろう。
「……でも、そんなことは起きていません」
「だとしても、君に叛意を示したのは事実だ。言いたくはないんだが……大事になる前に、刀解した方がいいんじゃないか」
さらりと告げられた言葉があまりに自然だったからこそ、藤は最初何を言われたのか理解できなかった。彼女の表情にあまりに変化がないからか、重ねて富塚は言う。
「たまにいるらしいんだ。顕現した審神者の言うことを聞かずに自分勝手な行動を取り続けた結果、審神者に害を成したり本丸を壊滅に引き込んだりしてしまう、そんな刀剣男士が」
「……刀解って、刀に戻して、消してしまうことですよね」
「単純に本体の付喪神に還すだけだ。彼らは所詮、分裂した付喪神の一欠片に過ぎない。もっとも神様は分裂したところで力が劣ったりするわけではないらしいが、まあ今はそれはいい。ともかく、別に人間と違って死ぬわけじゃないんだから、そこは気にすることじゃない」
彼は言い含めるように優しく言うが、藤の耳にはそれが死ぬこととどう違うのか分からなかった。個々という認識を消して、全体という意識の中へと消していく。人間なら、それは死と言い表すのではないか。
「貴重な戦力を惜しむ気持ちはわかる。でも君のためを思って敢えて言うなら、そんな危険分子は排除するべきだ」
――君のためを思って。
その言葉を聞いた瞬間、反射的に端末の電源を切りたい衝動に駆られる。耳の奥で、ざわざわとノイズが走ったような異音が聞こえた気がした。
彼女は、過去の亡霊が紡ぐ音を必死に振りほどく。沸き立つ感情の激流に必死に堰を作って押し込み、震える唇でどうにか言葉を紡ぐ。
「……どうするかは、僕が決めます。手入れの途中なので、これで」
無難な返答をした後、彼女は通信を切った。瞬間、手入れをした後遺症のような吐き気が、目眩が、不意にぶり返したように彼女を襲う。それでもよろよろと立ち上がり、藤は障子を開いた。
髭切はこちらに背中を向けて眠っているようだ。来た時よりは傷も塞がっているが、まだ手入れは終わっていない。ふらつく足を叱咤しながら、彼女は彼に近づいた。
(――刀解)
主に手入れの続きをしてもらいながら、髭切は目を閉じて思う。別に寝たふりをしていたわけではない。起きてしまったのだ。
何かとてつもない感情の高ぶりに頭を殴りつけられたような衝撃が走り、否が応でも意識が覚醒してしまった。自分以外の誰かが、自分の中で勝手に感情を爆発させている。髭切はそのように受け取っていた。
(危険分子は排除。まあ、そうだよね)
髭切にそんな意図はまるでなかったが、言ったところで主が決めたことに逆らうつもりもない。それに、彼自身『消える』ということへの忌避感は驚くほどなかった。
寧ろ、ストンと心が落ち着いてしまった。
受け入れてしまった。
主にこぼした「疲れた」という言葉は、嘘ではない。
時間が経てばこの感情は――怒りは、薄れるのかもしれない。けれども、顕現したばかりの髭切には到底楽観視できるものではなかった。
(それでも、別にいいかなあ)
惜しむほどの悔いもない。
それでも、忘れかけていた夏の青空が、ふと彼の瞼の裏に広がる。その下で揺れる朱の花が、同じ色の髪の彼女が、彼の心に滲んで浮かぶ。
(僕がいなくなったら、あの花は枯れちゃうかな)
今も部屋の前に揺れているのだろう、一輪の鬼百合。浮上した意識はその花を最後に思い浮かべて、ゆっくりと沈んでいく。
***
――ねんねんころりよ、おころりよ
微かに歌声が聞こえる。女性の優しげな声だ。聞いているだけで心が落ち着くような彼女の歌に、髭切はしばし身を任せる。
(また、夢?)
自分が聞いたこともないはずの声なのに、不思議と心が落ち着くのを髭切は感じていた。
ふと、自分の頭をそっと誰かが撫でる。その感触を味わう暇もなく、己の体は勝手に上体を起こした。どうやらまた誰かの体に乗り移っているような状態らしい。
数日前の靄がかかった景色ではなく、今日は辺り一面は燃えんばかりの夕焼けに包まれていた。
「あら、あーちゃん。起きちゃったの?」
歌はやみ、代わりに優しげな声が聞こえる。あーちゃんという呼ばれ方からすると、乗り移っている人物は数日前と同じだろうか。彼女が振り向いた先には、
(……主?)
主に似た容貌の女性が、微笑みながらこちらを見ていた。癖の強い、明け方の空を思わせる色の髪が、夕日の中に溶け込んでいる。ただ、主のものと違って彼女の髪は肩よりも長く、背丈も主よりも大きいように思える。
それに、主と明確に違う部分として彼女には、角がなかった。代わりに、角が生えているだろう場所には小さなこぶのようなものが見える。
「……かあちゃ、とうちゃは?」
女性の顔を見つめていると、少し癖のある発音の声が口から勝手に飛び出ていた。以前の夢で聞いたものよりもずっと幼い声だ。よく見れば、視界も随分低い。どうやら前回の時よりも随分小さい頃の、しかし同じ『彼女』に乗り移っているらしい。
かあちゃ、と呼ばれた女性は、薄い微笑みを浮かべていたが、少女に問いかけられると悲しそうに眉を下げた。
「父ちゃんはね。この下にいるのよ」
女性が傍らにある地面を指さす。そこには小高く盛られた土でできた山があった。真っ赤な夕焼けに照らされている盛り土は、どこか寂寥感を見る者に覚えさせる。知らず知らずのうちに、髭切も胸が締め付けられるような気持ちに襲われていた。
「とうちゃ、土の下じゃかわいそだよ。だしてあげて」
「だめだよ。もう、起きないんだから」
「何で、何で?」
少女は疑問を重ね、女性を軽く揺さぶる。けれども女性は、首を何度も横に振るだけだった。
(駄目だよ。誰かは知らないけど、墓の下の者を暴くのはよくない)
より客観的に、髭切は駄々をこねる少女の内側で状況を把握する。
この盛り土は墓標の代わりで、どうやら亡くなっているのはこの娘の父親らしい。母親はそれを理解しているが、幼い娘はまだ現実を認められない。ざっとそんなところだろうと思っていると、今度は幼子の視界がじんわりと滲み出す。
「それは、あーちゃんのせい?」
「違う、違うよ。あーちゃんは何も悪くない。何も悪くないよ」
泣き出したらしい少女を、母親らしき女性はぎゅうと抱きしめる。夢の中なのに、妙に実を伴った熱が体を伝わってきた。
「かあちゃは、どこにもいかない?」
「行かないよ。どこにも行かない」
「他のみんなも?」
「もちろん。みんな、あーちゃんと一緒よ」
他のみんな、と少女が口にした途端、にわかに周りに気配を感じる。微かな息遣いやざわめき。そこにあるのは、たしかに人の気配だ。
見ず知らずの他人に囲まれれば不安を覚えるはずだが、今の髭切には――そして恐らく少女にも、恐怖の気持ちはない。あるのは、誰かに見守られているということへの安堵だけ。
少女は安心したように顔を上げ、
「え…………」
声を失う。
確かにそこにいたはずなのに、母親と思しき女性の姿はまるで霞のように消えていた。
代わりに、また一つ。小さな盛り土が彼女の前にある。
慌てて周りを見ても、先ほどまで感じていた人々の気配すら微塵もない。見渡すばかり、広がっているのは小さな土の山だけだ。
(墓……)
髭切が思うまでもなく、そこにある盛り土が誰のためのものかは明白だった。
いつしか、燃えるような夕焼けは沈み、辺りはまるで黒い布で空を包んだかのような夜に包まれている。
ざわざわと風が通り過ぎる。けれども、人の気配はしない。右を向いても左を向いても、誰かがいた痕跡一つ残っていない。
「だれか、だれかいないの!?」
子供の声はいつしか悲鳴のようなものになっていた。
彼女は駆ける。息を切らし、喉を枯らせて、叫びながら尚走る。
その先に人影が見える。背の高いあれは、男性のものだろうか。
いつのまにか自分の視点も高くなっている。走っている間に少女が大人になったような、不自然なはずなのに自然に受け入れられる奇妙な変化だった。
背丈が伸びた彼女が見つめているのは、真っ暗な世界に不自然に浮かび上がっている男の人影。一体誰がいるのかと目を凝らし、
(あれは、僕?)
思わず声をあげそうになる。が、喉から音が出ることはない。
立っている自分は、自分自身であるはずなのに違和感を覚える。刀としては当たり前のことかもしれないが、その髭切は、まるで死んでいるような目をしていた。
彼女は髭切の姿を認めると、走る速さを緩める。手を恐る恐る伸ばして彼に触れるかという刹那、不意に自分の――髭切の影は、まるで焼き物を叩き割ったように砕けて、消えた。
(――――!)
いくら夢の中の虚像とはいえ、自分の姿が砕けるのを見るのは気持ちの良いものではない。顔には出すことはできないが内心で思わず眉根を寄せていると、
「……ごめんなさい。ごめんなさい」
嗚咽交じりに濡れた声が、暗闇に響く。気がつくと、彼女は座り込んでいて、無限に続くとも知れない暗闇に目を落としていた。
「私が気づかなきゃ、いけなかったのに。私が一番やりたくなかったことなのに。私が一番、知っていたのに」
彼女の言葉が何を示すものか、髭切には分からない。言葉の真意を考える時間も与えられることはなく、ふ、と彼の意識は浮上していった。
***
「…………」
意識が戻ったということは、まだ自分は砕けたわけではないらしい。目覚めた髭切が一番に考えたことは、そんなことだった。
(別にもう、どっちでもいいんだけどなあ)
変わらない諦念を抱きながら顔を横に向ければ、部屋の畳が眠る前と変わり映えすることなく広がっている。どうやら、手入れ部屋から移動はしていないようだ。
纏っていたシャツは眠る前にされたように切り取られて、あちこちに布片となって落ちていた。露わになった肌には、何重も包帯が巻かれており、素肌の部分の方が少ないほどだ。手入れのおかげだろうが、体の痛みはあちこちに残っていても動かすこと自体に支障はない。
そこまで状態を確認して、髭切は寝転がっている自分の腹に不自然な重みを感じた。上体を起こし、流石の髭切も一瞬言葉を失う。
「んー…………」
はたして、髭切の腹の上まで引き上げられた毛布を枕に、主が突っ伏して寝ていた。眉間に小さく皺を刻んだ横顔は安眠とは程遠そうだが、手入れの最中に寝てしまったというところだろうか。
「主」
呼びかけてみても、言葉になっていない寝言ばかり聞こえる。よくよく見れば、あまり顔色も良いとはいえない。
時計を見やれば、時刻は丑三つ時といってもいい頃合いだ。普段の彼女なら、とうに寝ている時刻である。
「…………君は、何を謝っていたの」
夢の中の子供が主と同じ保証はまだないが、しかし髭切は問いかけてみる。
返事は、当然ない。
呆然と見つめる髭切と、寝心地悪そうにもぞもぞと頭の角度を変えている藤。彼女の様子は、あの燃えるような夕焼けの中で見た親子の姿に似ていた。
だからだろうか。
思わず彼の唇から、歌がこぼれる。
「――ねんねんころりよ おころりよ」
耳になどしたことのないはずの子守唄が、低く柔らかく、揺蕩うように広がっていく。どんな想いがそこに込められているかも知らず、どんな願いが向けられていたかも分からない。
けれども、あの子供の不安が主のものなら、彼女を慈しむように抱きしめていた女性の歌で少しでも安らぐのではと、思いはした。
言い知れない寂しさを共有した自分ができるのは、その程度のことだろうという思い。彼女に特別な親愛を抱いているわけではないが、彼女の裏側にある何かに触れたのだから何かするべきだ、という言葉にならない直感が髭切を突き動かし、彼の唇から意味も分からない旋律を奏でさせる。
そうして壊れたオルゴールのように、同じフレーズを何度も何度も、彼は口にした。
「……ん、あれ。僕、寝てた?」
頭をゆるりと上げて、寝ぼけ眼の視線を髭切に送る藤。彼女が起きたのを見て、髭切も子守歌を口ずさむのをぴたりと止めた。
まだ開ききっていない藤色の瞳が、時計と窓、そして髭切を見つめている。数度の瞬きを経て、彼女は目を大きく見開いた。
「ごめん。手入れの途中だったのに、寝てしまうなんて」
「いいよ。別に」
笑顔を返しながらも、髭切は眠る前に考えていたことを思い返す。睡眠を間に挟んだ所で、事態が何か解決したわけではない。寧ろ睡眠によって冴えた思考は、髭切の思考にある一つの方向性を与えてしまってすらいた。
その結果として、手入れのために改めて彼に向けて伸びる藤の手を、髭切は怪我をしていない左手でやんわりと押し返す。
「どうしたの、髭切」
「刀解するなら、もう手入れはしなくてもいいよね。どうせいなくなるんだし」
不意打ちのように告げられた言葉は、どんな刀よりも鋭く藤の胸を貫く。けれども、それは髭切が知る由もないことだ。
今はまだ鎮まっている内側にある怒りも、また歌仙たちを目にすれば燻るのだろう。
言い知れないこの感情に行き場を与えることはできない。それは、身勝手で子供じみたものだと理解しているから。故に、誰にもぶつけることはできない激情は再び溜まり続ける。
そんなものに振り回され続けながら在ることに、意味は見いだせない。
「ごめんね。最初から最後まで、迷惑ばかりかけて。主にも怪我をさせてしまったし、歌仙たちも困らせてしまった」
この感情は、いずれ結果的に主たちを危険に晒す。あの通信相手の誰かに言われるまでもなく、戦場に立った実感として髭切は理解していた。だから、
「もう、おしまいにしていいよ」
――終わりにしてしまおう。
誰にも問われなかった、己の誇りに固執するのも。
ついに分からなかった、己の欠落に縋り付くのも。
髭切の言葉を聞き、藤は驚愕に目を見開き――けれども、覚悟を決めたように目を据わらせ、そして、唇を開いた。
***
コチコチ。コチコチ。
時計の秒針が足早に刻む音が、今日はやけにうるさく響く。
手入れ部屋にこもって髭切の手入れを始めた藤の邪魔をしないように、歌仙と五虎退、物吉は空き部屋の一角で自分たちの手当を進めていた。審神者の手入れには及ばないものの、血をぬぐってガーゼを押し当てて包帯を巻けば止血にはなる。
本質的に刀である彼らにとって、審神者の手入れを待てば止血も消毒も無用の存在だ。だが、傷口を曝け出していれば痛みも走る。流れ出た血が本丸を汚すし、見た目としても決して気持ちがいいものではない。ならば、取る選択肢は必然的に絞られる。
「主様、遅いですね。手入れというものは、時間がかかるものなんですか?」
歌仙は物吉に質問をされるも、困ったような笑顔を浮かべるしかなかった。前回の手入れの時は、歌仙は手入れを受ける側だった。故に、彼が時間の経過について詳しく知るはずもない。代わりに、五虎退に視線を投げ渡すと、
「多分……これくらいは……かかってたと思います」
そこまで言いかけて、五虎退はキュッと唇を噛んでから震える声で続ける。
「でも、どうしましょう。もし」
「五虎退。滅多なことを言うものじゃないよ」
涙目になりながら暗い予想を口にしかけた少年を、歌仙がそっと諌める。
満身創痍とはいえ、手入れ部屋で別れた髭切にはまだ意識があった。それなら、彼の回復の見込みは十分にある。歌仙のときよりも希望が持てる、と言っていいほどだ。
「……ボクたちのせいなんでしょうか。髭切さんが頑張りすぎたのって」
ぽそりと、物吉が包帯を巻く手を止めて呟く。
「どうして、そう思うんだい」
「ボクたちは……ボクは、歌仙さんのように彼をすぐに許すことができませんでした。髭切さんがしたことを、なかったことにできなかったんです」
畑で主と会話をしたときも、彼は髭切を批難する自分を許してしまった。正しさは自分の側にあると思っていたからこそ、主を守る自分という立場を分かっていたからこそ、髭切の所業を完全に許して、彼を受け入れることができなかった。
「口には出さなくても、気付いていたんじゃないでしょうか」
物吉の告白に、歌仙は口を一文字に引き結ぶ。彼の言葉は、そのまま歌仙が懸念していたものでもあった。
歌仙自身、髭切とは溝を埋められたと胸を張って言える自信はない。物吉の悔恨は、歌仙の悔恨でもある。
「ボクだったら、それならせめて戦いで認めてほしいって思います。だから、無茶な戦い方をしていたんでしょうか」
じょきりと包帯を切り落とす音が、やけにはっきりと部屋に響く。
「……どうだろうね。真実は、髭切に聞かなければわからないことだ」
「な、なら、ちゃんと聞きます。僕、どんな話だって、聞きます。聞かなきゃいけないんです。あるじさまのときと……同じです」
感情が溢れて涙交じりになっている声で、けれどもきっぱりと五虎退は言う。藤に距離を置かれたように感じて、必死で彼女に言葉を投げかけたのはほんの数日前のことである。
その甲斐があってか、髭切が顕現したあの日、藤は三人に話をしようと決意してくれた。それは、五虎退にとって自分の言動に意味があったと認められる出来事だった。
「主にも、何か考えはあるみたいだったよ。この手入れが終わったら皆で話し合う機会を設けようか」
そうして歌仙が話をまとめようとしたとき。
「――――ったんだ!! ――――のに!!」
誰かが言い争うような声が、静寂の間隙に挟まれる。三人は、即座に得物を持って畳を蹴るように立ち上がる。
これは、主の声だ。彼女は普段、声を荒らげることはしない。
つまり、これは。
――主に、何かあった。
(手入れをしていたんじゃなかったのか!?)
未だ傷みが残る己の分身を片手に握り、歌仙は廊下を駆ける。物吉や五虎退も、すかさず彼の後ろに続く。荒々しく足音を立てて手入れ部屋に向かった彼は、勢いよく障子を開いた。
「主、一体何が――!!」
そして、今日何度目になるかわからない絶句を覚える。
見慣れた手入部屋で、幽鬼と見紛わんばかりにゆらりと立った髭切が、正座をしている主に向けて刀を向けて立っていた。
まるで罪人を裁く処刑人のように――罅割れた銀の切っ先が、主に向けて振り下ろされんとしていた。