本編第一部(完結済み)
「えーと、これじゃなくて、これでもなくて……」
誰もいない本丸に、主の声が響く。出陣の見送りを済ませた藤は、自室にこもって調べ物をしていた。
戸棚の奥から掘り出してきたのは、薄く埃の積もった薄い板状の端末だ。上司に当たる政府の人間から配属直後にもらったにもかかわらず、起動したのは実に二ヶ月ぶりである。
「ここが歌仙のページで……」
俗に刀帳と呼ばれるその端末は、刀剣男士と刀そのものについてまとめた辞書のようなものだった。歌仙が顕現する前にも、一度目を通して彼の来歴を調べたことがある。
「五虎退……へえ、上杉謙信への土産物だったんだ。物吉については……これは、彼が話していた幸運を運ぶお話だっけ」
ついつい見知った刀剣男士のページがあると、そこに目を留めてしまう。日本史や刀剣にまつわる美術史について特段詳しいわけではないが、寝食を共にした刀剣男士のこととなればまた話は別だ。
しばらく五虎退と物吉のページを読むのに時間を割いたあと、藤は当初の目的のページを探し始めた。
「髭切……髭切……ああ、あった」
出陣前に見た彼の姿や不調を訴えた様子を見て、何か解決策がないかと思っていた彼女は、刀帳で彼のことを調べるという選択肢を選んだ。他の刀剣男士にはわからないことのようだったが、彼固有の物語に纏わるものならここなら何か書いてあるかもしれない。そんな期待を込めて、ページを読み進める。
「源氏の重宝……とある京の神社の所蔵になっているとも言われて……名を何度か変えて、多くの物語に語られている……」
文字を辿り、そして藤はある一点で目を留めた。
「大江山の鬼退治……一条戻橋にて、その刀が斬ったのは」
更に続く言葉を見て、藤は思わず息を呑む。咄嗟に自分の額に手を伸ばし、布で覆い隠した角に思わず触れる。
不意打ちのようにやってきた衝撃を心で受け止めてから、今度は目を瞑り、彼が見せた表情の一つ一つをたどっていく。
そうして、彼女は一つの可能性を掴んだ。自分の予想が短慮なものではないかと疑念を持ち、この短い間での彼とのやりとりを一つずつ思い返す。
「……もし、本当にそうなら」
思い返し、彼女は確信に近い感情を胸に抱く。すぐに蘇ったのは直前の彼の言葉だった。
――今度はちゃんと斬るべきものを斬るから、安心していいよ
確信した今なら分かる。あの彼の発言は、分かりやすい当てつけだ。いっそ子どもじみていると笑ってしまいたくなるほどだ。
彼の考えが分かった今なら、あの言葉の意味が理解できる。だからこそ、十にも満たない幼子の駄々のようなことを言わずに我慢しろと、言うべきなのかもしれない。これが人間の世界の作法なのだと、すまし顔の大人のように忍耐を説くべきなのかもしれない。
――他に言うことがあるだろう。
――謝ってください。
歌仙の怒りをこらえた声が、物吉の正当な批判が、鮮明に思い返される。
――何でそんなことを言うの。
――謝ってちょうだい。
別の声が一瞬、幻のように微かに聞こえる。藤は頭をぶんぶんと振って、混ざった声を振り払う。
――ごめんね。
彼は、抗弁をしなかった。
――ごめんなさい。
僕も、抗弁はしなかった。
間違っているのが、自分だと分かっていたから。その場を収める必要があると、分かっていたから。求められている振る舞いが何かを、分かっていたから。
――ありがとう。
許されたことを、彼はお礼とともに許容した。
――ありがとう。
人間として受け入れてくれたことを、自分はお礼とともに許容した。
喉の奥にあった確かな抗弁は、口にしなかった。彼も自分も、口にすることはなかった。
確かに間違っているのかもしれない。主に斬りかかるなんて、歌仙たちからしたら問答無用で首を落としたくなるような行為のはずだ。
でも、彼らは髭切が行動した意味を聞いていない。
鬼だからと彼は言った。
それは理由の全てではない。結末だけだ。
言葉足らずにも程があると言えばそれまでかもしれない。けれども、彼にとってはきっと、当たり前すぎた。だから、それ以上を言葉にする必要が、見いだせなかったのだろう。
「……そりゃ、胸が重いに決まってる。そんなの、怒って当たり前だ」
奇しくも、畑で自分が髭切に語って聞かせた時と同じ言葉が、口をついて出る。
――罰が当たったんです。
五虎退が言った言葉が、ふと蘇る。しかし藤は首を横に振り、今度こそ確かな気持ちで否定する。
「罰なものか。こんなの、当たり前のことだ」
何と言い表すのが、正しいのだろう。
この澱のように溜まった苛立ちを。
この檻のように囲われた行き場のない矛盾を。
「本当、君が言った通りだ。彼らは、凄く人間じみている」
演練会場で話した審神者は、刀剣男士が人間に近い考え方を持っていると話していた。
全くもってその通りだ。だからこそ人間と変わらない優しさを持ち、人間と変わらない善意を持ち、その善意をもってして人間と変わらない行動をする。馴染みがありすぎて気付くのが遅くなったと、藤は己の失敗に顔を顰める。
「……みんなが戻ってきたら、話をしないと」
戻ってきたら。自分で口にした言葉を聞き、藤は眉をひそめる。
出陣をしたら、戻ってくる。当たり前のように言葉にしたが、以前の負傷した歌仙のことを思えば安心することなどできないということは、藤自身が分かっていた。
「本当は、審神者としてこんな姿は求められてないのだろうけれど……大丈夫、かな」
不安に思うべきではない。折れたならまた新しく作ればいい。刀剣男士たちだって、戦いを望んでいる。引き留めることなど、寧ろ彼らを戸惑わせるだけだ。それが正しい審神者の心構えなのだと、藤は心を既に縛っている。
出陣の知らせや彼らのあり方を聞かされるたびに、あの狐の声が、政府の使いとしてやってきた男の声が、記憶の底でぐわんと響く。彼らの言葉もまた、善意からのものだと知っている。
だから彼女は、否定をしない。否、できない。それでも無事を祈るくらいは、誰も見ていない今ならば許してほしい。彼女は胸の前で手を組み、誰とも知れぬ相手に向けて彼らの無事を祈ろうとして、
「────っ!」
びくりと、弾かれたように顔を上げる。誰かに後ろから囁かれたような気がしたが、当然背後には誰もいない。まるで何か恐ろしいものに付き纏われているような悪寒が、一瞬彼女の背筋を這い上がっていった。
「……何をびっくりしてるんだろう。手入れ、手入れの準備を、しないと」
一瞬よぎった嫌な予感を振りほどくように、彼女は己のするべきことを口にする。彼らが赴く先は、戦地だ。また怪我をして帰ってくるだろう。そこまで思考が行き着いて、藤は自嘲混じりの微笑を浮かべる。
怪我の可能性を分かって送り出している自分は、いったいどんな顔をして彼らを送り出したのだろう。彼女は手入れ部屋に向かう道中、消えない不安に顔を暗くする。
「手入れして、それでまた具合が悪くなるのかな……」
手入れをした後に気分が悪くなることも、決して解決したわけではない。初めてのことだからなのか、これからずっとなのか、予測はまるでつかない。
キュッと唇を噛み、震えが走りかけた体に爪を立てる。背筋に走る冷たい感覚に人知れず肩を縮こませ、藤は手入れ部屋に向かった。
***
「ひい、ふう、みい……えっと、いっぱい、大きいのがいます。多分、六……十よりは少ないです。あと、小さいものも……でも、木陰に隠れていて」
「偵察、終わりました。五虎退が言っている小さいものというのは脇差と、多分短刀だと思います。ただ……ボクも全ての数までは」
先んじて報告をしていた五虎退、その隣にいた歌仙兼定。彼らの隣に、物吉が息を弾ませて戻ってくる。
歌仙は片手に小さな筒のようなものを持っていた。政府から支給された、遠見のための器具――望遠鏡というものだ。
彼らの言葉を聞き、歌仙も筒に目を当てて実情の確認をする。どうやら、二人の偵察に大きく外れはないようだ。
「……事前に報告があった数より、多いな」
歌仙が口にしたように、出陣前にあった通達では正式な部隊が不要なほど敵の数は少ないとのことだった。だからこそ、歌仙たちのように人数に穴がある部隊が招集されたのだろう。
だが、今目の前にしている光景は、最初の報告とはあまりにかけ離れていた。出陣した先の里山、その木々の隙間から見える時間遡行軍の数は、彼らが全力で戦ってぎりぎり全て仕留めきれるかどうかといった数だ。
「どうしましょう……。や、やっぱり一度戻って、あるじさまに連絡を」
「戻る? どうして」
不意に割って入った声に、五虎退も歌仙も顔を上げる。
声を発したのは髭切だ。だが、彼の質問は質問の形をした詰問だった。
まるで悩むまでもないことを、何故相談しているとでも言わんばかりの語調に、臆病な五虎退だけでなく歌仙までも言葉を詰まらせる。
「場所はどこ」
「あの……あっちです」
髭切に気圧されるように、五虎退は震える指である方角を指す。彼が指さした先に向けて、髭切はぐっと目を凝らした。
歌仙のような遠見の器具はないので詳しくはわからないが、ちらりと黒い影のようなものが見える。この位置からなら、背後に回って奇襲を仕掛けられるだろう。
「待つんだ、髭切。敵の数が聞いていたものより多い。一旦作戦を立てた方が」
「数が多いなら、数を減らせばいいんだよね。斬れば、敵は減る。それが僕らの任務だよね?」
彼の言葉は、まるで彼そのものを表すかのように鋭いものだった。実際、ここで待っていたところで援軍が来るわけでもなければ、事態を誰かが解決してくれるわけでもない。
選択肢は二つに一つ。退くか、戦うかだ。
彼が黙りこくった一瞬の間隙を、髭切は了承ととった。これ以上の口論を重ねることなく、彼は歌仙に背を向けて宣言通り木々の中へと消えていく。
遠ざかる彼の白い上着を見つめ、歌仙はしばしかける言葉を失い、
「……単独行動は控えてほしい、というのは遅すぎたか」
代わりに吐き出されたのは重々しいため息と、落胆の声だった。
「僕たちも、行かないと。髭切さん……きっと、大変です」
「そうですね。とりあえずやれるだけ、やりましょう」
物吉と五虎退も、己の腰から得物を抜き放ち彼の後を追うように野山を駆ける。少年たちに負けじと歌仙も足を急がせ、しかしつい呟かずにはいられなかった。
「……きみは、僕たちが何のために戦っているのか、分かっているんだろうね」
脳裏によぎるのは、容赦なく戦火によって命を摘み取られた姉弟の姿。彼らの結末がどれほど無残であったとしても、その歴史は守らなければならない。
多くの名も残らぬ者の犠牲と共に積み重ねられたものといえど、その先に正しい未来がある。だからこそ、続く未来のために敵を斬る。その瞬間を必死に藻掻いて生きた彼らの積み重ねだからこそ、安易にねじ曲げることは許されない。
「歴史を守る。そのために、僕らはここにいる」
どれだけの欺瞞を重ねても、同時に思うものもある。自分たちなら、歴史の果てに消えていった人間たちを、大切な人たちを助けられるのではと。
けれど、彼は否定する。
名も無い村の名も無い村娘のほんの数十年の営みであったとしても、彼らの誇りは、生き様は、選択は、どれだけ悲惨であったとしても、同時に尊ばれなければならない。
それに、今の主と共に暮らすあの本丸がある。彼女の笑顔と共に過ごす日々がある。今は、それを守りたい。我が儘で傲慢な心だったとしても、それでいいと主は許してくれた。
だから、歌仙兼定は刀をとる。
「きみは、何のために自分を振るうんだい。――髭切」
山道の落ち葉を蹴り、白い風が走り抜ける。五虎退が言っていた場所に近づくたびに、殺気のようなものがいや増していくのが肌でわかる。
怖じ気付きはしない。この程度、どうということもない。
ただ斬ればいいのだ。
もう、斬っても何も言われないだろう。
何がそんなに、自分を駆り立てているのか。その理由はもう分かっていた。行き先のない衝動が、内側に燻り続けているわけも分かっていた。
けれども、彼は否定する。この怒りはただの余分なものだと、顔を背ける。
心というものがあるから、余計なものに振り回される。
己は刀だ。
一振りの刃だ。
それなら、それだけでいい。
感傷は不要だ。激情は不要だ。思考は――不要だ。
瞼の裏によぎる朝焼け色の花びらからも、目に映った青々とした夏の空からも、鼻の奥を掠めた土の香りからも、彼は人として見つけた新しいものを自分から切り離す。
必要なのは、斬ることだけ。
目の前にある何もかもを斬り捨てる。そうすれば、刀に戻れる。こんなわけのわからないものに、振り回されずに済む。
切り立った斜面を、姿勢を崩さずに滑り落ちる。その先はもう敵の巣窟だ。
突如姿を見せた闖入者に、異形の姿の軍勢は明らかに動揺をしていた。だが、対する髭切は動じる姿を一切見せることなく、腰に吊した鞘を払い、己が何かを宣言する。
「やあやあ我こそは――源氏の重宝、髭切なり!」
たじろぐ相手が何者かも考えない。
いるのは、敵だ。
戸惑いから未だ脱しない愚かな武者の亡霊。或いは、動揺を僅かに見せた、蜘蛛のような異形。
見た目に動じることなどない。一息に踏み込み、一刀の元に武者の亡霊を斬り捨てる。人のそれとは違うものの、肉らしいものを抉り、骨を断った感触はたしかに手に届く。
だというのに。
――消えない。
出陣の前から引きずっていた、胸の内をかき回し続けるこの苛立ちが払えない。
たった一つではダメなのか。ならあとどれだけ、腕を断てばいい。足を断てばいい。首を折り、頭を割ればいい。
「……とりあえず、全部かな」
血を払いながら、こちらの距離を伺う悪鬼羅刹のような姿の敵を見る。
本丸で見せているような笑みは彼の口元に既に無く。瞳に優しげな色などは欠片も残さず。
ただ獣のような鋭さだけを残して、髭切は自身を囲む時間遡行軍らを睨む。
もし少しばかり冷静になれたのなら、五虎退の報告よりも敵の数が少ないことに彼は気がついただろう。或いは彼の目がもう少し良ければ、他の敵に紛れるようにして姿を消した数体を見逃さなかっただろう。
しかし、髭切の中にそのような余裕は微塵もない。ただ、為すべきは眼前の敵を屠るのみ。そうすれば何もかもを振り切れると信じて、彼は愚直なまでに己を振るう。
「ふっ」
と息を呑み、距離を詰めながらの斬り上げ。真っ直ぐに走った一条の傷を見るまでもなく、勢いを殺すことなく斜め後方の敵を今度は返す刀で斬り伏せる。
「髭切、一人で先走りすぎりだ!」
遠くで声がする。歌仙の声だということは、分かる。
分かるが、だから何だと言うのだろう。
出陣前に彼が口にした言葉が、食卓を挟んで彼が発した許しの言葉が、不意に蘇る。初めて会った時の鬼気迫る様子までも思い返した瞬間、彼はギリと無意識で奥歯を噛み締めていた。
彼は、正しい。
その正しさに真正面からぶつかるほどの正しさを、自分は持ち合わせていない。この頭のてっぺんを真っ黒に染め上げるような衝動を、正しくぶつけることができないと彼が一番分かっている。
だから忘れるためにも、振り払うためにも、自分を体現し続けるしかなかった。
(……足りない)
血風を纏いながら敵を斬り捨てる彼は、顕現当初から引きずっていた言い知れない欠落を、戦闘の最中でも感じていた。
隣に並び立つ誰かがいない。
右腕に対する左腕、右足に対する左足のような、対になっているべき何かが足りない。
この感情を受け止めてくれる誰かが、いない。
不意に沸き立つ感情は、一瞬彼の足を鈍らせる。
「……チッ」
その隙を狙わんと、敵の黒ずんだ刃が迫る。脇腹に掠った痛みに、髭切はすぐさま我に返った。
これも余剰だ。不要な、感傷だ。
余計な気持ちを斬り捨てるように、彼は自分を傷つける不遜な存在に斬りかかった。
「すごいです……あっという間に」
「負けていられないですね、ボクたちも!」
「は、はい」
喋りながらも斜面を滑り降りた五虎退に、すかさず魚の骨のような怪物が肉薄する。それが咥える短刀の軌道を見抜き、五虎退は最低限の足さばきで躱す。
勢いを殺すこと無く、斜面を壁がわりに三角飛びの要領で上を取り、一思いで得物である短刀を突き立てた。微かな動きと共に動かなくなった骨の怪物に、とどめをもう一度刺す。
完全に仕留めきったと判断してから、五虎退は敵陣の真ん中で黙々と死体の数を増やしている白い彼を見つめた。
「あれなら、髭切さんが全部倒して……」
そこまで言いかけて、五虎退は口を噤む。
「どうしましたか?」
五虎退と同じ要領で蜘蛛のような姿の時間遡行軍を仕留めていた物吉は、同じように髭切が積み上げている死体の数に目をやる。
「……数が、少ない?」
「物吉さんにも……そう見えますか?」
「はい。正確に数えていたわけではないですが、でも最初に見たときより数が少ない気がします」
敵の数を多めに見積もりすぎていたという単純な理由ではないと、二人は考えていた。ならば、何故少ないのか。
「五虎退、後ろ!」
物吉の声で我に返った五虎退は、背後から迫る殺気に気がついて距離を置く。
対峙するボロ笠を被った落ち武者のような怪異が持っている刀は、どうやら打刀のようだった。後ろに控えているのは、先ほど相手をした魚のように宙を浮遊する、短刀を咥えた怪物だ。
「……先に、こちらを相手しないといけないようですね」
「はい。その後すぐに、歌仙さんに報告しましょう」
自分たちの杞憂であってほしいと願いながら、五虎退たちは得物を構え直した。
敵の体から湧き出た血とも言えない汚れたものを、自分の半身から振り払う。
これで何体目だろうか。まさに鬼神のように戦場を駆け抜けていた髭切だったが、流石の彼も無傷というわけではなかった。
いかな頑丈な太刀の刀剣男士であるとはいえ、この戦いが初陣であることに変わりはない。手合わせらしいことも、彼はまだ全くしていなかったのも理由の一つだ。故に、ぶっつけ本番で積み上げた戦果は、それだけの負傷を代価として要求していた。
鮮やかな白が美しかった上着は、所々破れ、どす黒い血に濡れている。それは、返り血だけではなく自分が散らした血でもあった。
一番の深手は、脇腹のものだろう。今も血が止まらずに、滲み出てしまっている。蜘蛛のような姿をした化け物が持っていた脇差に斬られたときについたものだ。おかげで、身体を捻るだけでも痛みが走る。
それ以外にも単純な切り傷、打ち身だけなら数え切れないほど身体に刻まれていた。視界が赤に染まっているのは、額を斬られて血が流れ落ちているせいだろう。背中が熱いのは、挟撃を捌いた際に一撃を許したせいだ。
だが、と彼は思う。
だから、なんだと言うのか。
まだ拭えない。まだ消えない。
喉の奥に競り上がっている、吐き出せない怒りを断ち切れない。
まだ、ただの刀に戻れない。
戦いを続けるために息を整えようと、瞬時足を止める。だが、休む暇すら与えまいと、鎧武者姿の大柄な鬼人が大太刀を振り下ろさんとする。
敵の動きを確認するのが、赤に濡れた視界のせいで遅れる。足を動かそうにも、体中に刻まれた傷が一歩それを遅らせる。確かに走る痛覚が、彼の動きを鈍らせる。
このままでは――躱しきれない。
「髭切、しゃがめ!」
割って入ったのは歌仙の怒号。反射的に姿勢を低くすると、歌仙の斬撃が鎧武者を文字通り吹き飛ばしていたところだった。どうやら斬っただけでなく、斬りかかった勢いを殺すこと無く蹴り飛ばしたようだ。
「あまり突出しすぎないでくれ。支援ができない!」
「……わかってるよ」
わかっている。彼の言葉はどこまでも正しくて正論だ。間違っているところなんて一つもない。だから、向き合いたくないと彼は顔を逸らす。
「髭切!」
「わかってるって」
「違う、右だ!」
本能として染み付いた行動が、彼の視線を辛うじて動かした。
藪からこちらに向かって一直線に飛び込んでくる、短刀を咥えた骨の妖。まるで空飛ぶ魚が骨になったような姿の異形は、まっすぐ彼の喉を突かんと迫る。
「――っ!」
反射的に喉を庇うため動いた右腕に、容赦なく小さな刃は突き刺さる。刃が貫通した痛みは身体の内側を電流のように走り、髭切は一瞬身体を強張らせる。
だが、まだ動ける。くれてやったのは、腕だけだ。致命的な傷には至っていない。
「ああ、もう」
腕に刺さったまま短刀が抜けなくなっている骨の妖を左手で掴み、力任せに叩きつけ、足で踏み抜く。
刺さったままの短刀が弾みで抜け落ち、ぼたぼたと傷口から血が流れ落ちる。溢れ出る血の量を見て、これは刺したままの方が良かったかと彼は冷静に判断する。
――まあ、そんなことはどうでもいい。
思考を切り替え直し、髭切は既に土と血で塗れた上着についている紐を引きちぎる。紐で刀を手に固定するように縛り付ければ、腕に力を込めずとも刀を振るえるようになった。
「髭切、あれで最後のはず……っ!?」
大太刀を振るう敵を倒し、改めて髭切の方を見た歌仙は思わず声を失う。
全身を敵と己の双方の血で染め、それでいて尚ぎらついた光を宿した獣のような瞳を持った者がそこには立っていた。
それは、敵が全ていなくなるまで、殺しつくすと決めた――鬼だった。
思わず唾を飲み、それでも歌仙が何か声をかけようとした時。
「歌仙さん、増軍が! 敵の数が少ないと思ったら、別陣地の援軍を呼ばれたみたいです!」
「数は、ここにいたのと同じくらいで……でも、大きいのが、さっきより多いと、思います!」
物吉の連絡と五虎退の報告に、歌仙は顔をはね上げた。髭切の乱戦に付き合っていたせいで、敵数の把握をし損ねていたことに歌仙は内心で舌打ちする。増援を呼びに行った者を野放しにしたのも失策だ。けれども、後悔をいくら重ねたところで時間が戻るわけではない。
「大きいというと、大太刀を振るう敵のことか?」
「は、はい。あの……鬼、みたいな」
髭切の目が一瞬細まり、鋭い視線を歌仙に送る。
「あれを複数となると、まずいね……」
「その鬼は、斬るんだね」
不意に横から入ってきた声。返り血を浴びた青年が、薄く笑いながら歌仙を見つめていた。物言いたげな視線が、一瞬二人の間を交差する。
先に動いたのは、髭切だった。視線を断ち切り五虎退たちが来た方角に一歩、足を踏み出す。
「待つんだ、髭切」
これ以上の単独行動を許すまいと、歌仙が鋭い言葉を差し入れる。彼の言葉を聞き入れてくれたのか、髭切はそれ以上は歩みを進めなかった。
髭切が足を止めたのを確認してから、歌仙は思考を回転させる。
五虎退と物吉は現在軽傷だ。自分自身もまだ十分に戦える。だが、これは相手に対して優位を得ているからではない。
今も敵に噛みつかんばかりと好戦的な姿勢を見せている髭切が、敵の七割ほどを斬りふせてくれたからだ。だが、その分だけ手傷も多い。彼がこれ以上戦えるようには到底見えなかった。
彼と同様の戦い方を、自分たちができるか。この問いについては、考えるまでも無く否だ。
物吉も五虎退も大きな個体を仕留めるような練度には程遠い。歌仙自身とて、真正面から一撃で仕留められるかどうかというと五分五分の確率になる。以前相対したときは、自身の重傷と引き換えだった。せめて一撃で複数を相手できる刀剣男士がいれば話は別だが、そんな夢物語は描くだけ今は時間の無駄だ。
(だが、ここで撤退をすれば、僕らは敗北したことになる)
刀としての矜持が、敗者のレッテルに対して病的なまでの忌避感を覚えさせる。
無理をすれば、或いは。
そこまで考えて、歌仙の脳裏にあるものがよぎる。
それは、藤色の瞳をした主の視線。手入れをしている最中に聞こえた、彼女の声。
藤はたとえ自分たちがぼろぼろになって帰っても、表面では動じるような姿は見せないだろう。泣き崩れてしまうような姿を見せることはないだろう。いつものように、「そう」とだけ呟くのだろう。
(僕らが勝って帰ったとして、僕らが満身創痍だったら、主はそれを喜ぶのか?)
刀剣男士である以上――刀である以上、戦って傷がつくのは当たり前だ。けれど、主がどう思うかはまた別である。
人間の暮らしを数ヶ月して、歌仙も人の感覚を理解しつつあった。
とりわけ、藤が怪我をした数日前の出来事は歌仙もよく覚えている。彼女の頬や首から流れ出る血に、痛いと顔を顰める彼女に、手当をしている歌仙は己が傷ついたとき以上に胸がしめつけられるような思いをした。
以前の出陣の際、彼女は素知らぬ顔で手入れをし続けていた。けれども、確かに彼女が泣いているような声も聞いた気がした。あの声を、もう一度彼女から聞きたいとは思わない。
故に、彼は決断を下す。
「撤退しよう。僕たちの手には余る。援軍となれば、僕らで対処できる範囲を上回っている」
「分かりました。それでは殿は誰が?」
打てば響くような返事は物吉からだ。彼に首肯を返し、歌仙は自らを指さす。
「殿は僕が引き受ける。僕はほとんど負傷していないからね。隊長の責任として、それぐらいはやらせてほしい」
「は、はい。それなら、僕が先頭を行きます」
五虎退がおずおずと手を挙げる。こうしている間にも敵の気配は刻一刻と近づいているはずだ。早速、五虎退が安全な方角はどちらか確認するための偵察に向かう。
歌仙も周囲の警戒を続けようとして、
「……どうして、撤退するの?」
反意を露わにした髭切の声が、歌仙の耳に飛び込んだ。今にも倒れそうなほど満身創痍の彼は、それでもまだはっきりと戦意を残していた。
「まだ、斬っていない敵がいるんだよね」
「君だってもう限界のはずだ。言っただろう、あの数は僕たちの想定外だ。一旦引いて、主から政府に連絡を取ってもらおう」
「僕はまだ戦えるよ。まだ、斬れる」
髭切に纏わり付く気配を感じ、歌仙は眉を顰める。
そこにいるのは、人の姿を得た心ある刀の付喪神ではない。ただの、一振りの刀だった。
「僕らは、敵を斬りに来たんだよね。まだ全て斬っていないのに、帰るのはおかしい」
「違う。僕らは歴史を守るためにここにいるんだ。ここで僕らが折れれば、この時代の敵の様子を報告する者がいなくなる。そうしたら、この時代の歴史が守れなくなる」
「そんなこと、関係ないよ」
目の前の彼が口にした言葉は、鉄のように冷えていた。が、対する歌仙の中では、瞬時に怒りが熱を持って全身を駆け巡る。
先日目の当たりにした、苦難の時代を必死に生きてきた人間の営みを。
たとえ何があろうとも、歴史を変えない選択肢をとらねばならない苦渋を。
よりにもよって人の営みの中で生きてきた刀であるにも関わらず、彼は今なんと言った?
「……ふざけているのか」
「…………」
普段口にすることもない、地の底から響くような歌仙の低い声。その中に確かに滲んでいる怒りを耳にしても、髭切は返事をしない。黙ったまま、冷めた目で歌仙を見つめている。
けれども隠しきれない彼の戦意は、今や歌仙に向けられていた。間に挟まれている物吉が、余計の口を挟む余裕すらない。
「僕が、部隊長だ。僕の命令には従って貰う」
なるべく激情をぶつけまいと、歌仙はゆっくりと力を込めて告げる。それでも、髭切の目は不服そうに据わったままだった。
彼の右腕に縛られていた刀が、ぴくりと動く。その様を見て、突発的な感情に駆られた歌仙は更に追い打ちのように言葉を続ける。
「それとも、僕も斬るつもりかい。主を斬ったように」
口をついて出た言葉は、わざのつもりではなかった。瞬間的に血が上ってしまって、気がつけばいつの間にか言葉が滑り出ていた。
だが、髭切にも思うところがあったのだろう。微かに伏せられていた彼の目には先ほどよりは僅かに光が宿り、視線に躊躇いが混ざっていた。
「……そうだね。分かったよ」
返事をした髭切の仕草は、どこか主に似ているように歌仙には見えた。
髭切は右腕に縛り付けていた刀を外し、左手に刀を持ち直す。鞘に入れ直すことができないため抜き身のままではあるが、継戦の意思を取り下げたと見ていいだろう。
折良く、五虎退が三人の前に姿を見せる。
「歌仙さん。撤退のために使えそうな安全な場所、確認しました。ここから東方向に、えっと……十分くらいです。川が近いので、すぐに分かると思います」
「承知したよ。案内は任せたからね」
先行して先を行く五虎退たちを見送りながら、歌仙は垣間見える敵の先鋒に向けて自身の姿を晒す。
部隊の殿を引き受けるということは、最も危険な役割をこなすということだ。引き際を間違えれば、敵の只中に孤立して撤退し損ねることになる。機を逸してはいけないと、全神経を集中させて歌仙は得物を構え直した。
先を行く五虎退の小さい背中を追いかけながら、髭切は目を伏せる。
どれだけの数の敵を斬り伏せても、どれだけの傷を身体に負っても、結局髭切の中にあるものを打ち払うことはできなかった。
無意識に噛んだ彼の唇からは、いつしか彼自身が新たな傷を刻んでしまっていた。
誰もいない本丸に、主の声が響く。出陣の見送りを済ませた藤は、自室にこもって調べ物をしていた。
戸棚の奥から掘り出してきたのは、薄く埃の積もった薄い板状の端末だ。上司に当たる政府の人間から配属直後にもらったにもかかわらず、起動したのは実に二ヶ月ぶりである。
「ここが歌仙のページで……」
俗に刀帳と呼ばれるその端末は、刀剣男士と刀そのものについてまとめた辞書のようなものだった。歌仙が顕現する前にも、一度目を通して彼の来歴を調べたことがある。
「五虎退……へえ、上杉謙信への土産物だったんだ。物吉については……これは、彼が話していた幸運を運ぶお話だっけ」
ついつい見知った刀剣男士のページがあると、そこに目を留めてしまう。日本史や刀剣にまつわる美術史について特段詳しいわけではないが、寝食を共にした刀剣男士のこととなればまた話は別だ。
しばらく五虎退と物吉のページを読むのに時間を割いたあと、藤は当初の目的のページを探し始めた。
「髭切……髭切……ああ、あった」
出陣前に見た彼の姿や不調を訴えた様子を見て、何か解決策がないかと思っていた彼女は、刀帳で彼のことを調べるという選択肢を選んだ。他の刀剣男士にはわからないことのようだったが、彼固有の物語に纏わるものならここなら何か書いてあるかもしれない。そんな期待を込めて、ページを読み進める。
「源氏の重宝……とある京の神社の所蔵になっているとも言われて……名を何度か変えて、多くの物語に語られている……」
文字を辿り、そして藤はある一点で目を留めた。
「大江山の鬼退治……一条戻橋にて、その刀が斬ったのは」
更に続く言葉を見て、藤は思わず息を呑む。咄嗟に自分の額に手を伸ばし、布で覆い隠した角に思わず触れる。
不意打ちのようにやってきた衝撃を心で受け止めてから、今度は目を瞑り、彼が見せた表情の一つ一つをたどっていく。
そうして、彼女は一つの可能性を掴んだ。自分の予想が短慮なものではないかと疑念を持ち、この短い間での彼とのやりとりを一つずつ思い返す。
「……もし、本当にそうなら」
思い返し、彼女は確信に近い感情を胸に抱く。すぐに蘇ったのは直前の彼の言葉だった。
――今度はちゃんと斬るべきものを斬るから、安心していいよ
確信した今なら分かる。あの彼の発言は、分かりやすい当てつけだ。いっそ子どもじみていると笑ってしまいたくなるほどだ。
彼の考えが分かった今なら、あの言葉の意味が理解できる。だからこそ、十にも満たない幼子の駄々のようなことを言わずに我慢しろと、言うべきなのかもしれない。これが人間の世界の作法なのだと、すまし顔の大人のように忍耐を説くべきなのかもしれない。
――他に言うことがあるだろう。
――謝ってください。
歌仙の怒りをこらえた声が、物吉の正当な批判が、鮮明に思い返される。
――何でそんなことを言うの。
――謝ってちょうだい。
別の声が一瞬、幻のように微かに聞こえる。藤は頭をぶんぶんと振って、混ざった声を振り払う。
――ごめんね。
彼は、抗弁をしなかった。
――ごめんなさい。
僕も、抗弁はしなかった。
間違っているのが、自分だと分かっていたから。その場を収める必要があると、分かっていたから。求められている振る舞いが何かを、分かっていたから。
――ありがとう。
許されたことを、彼はお礼とともに許容した。
――ありがとう。
人間として受け入れてくれたことを、自分はお礼とともに許容した。
喉の奥にあった確かな抗弁は、口にしなかった。彼も自分も、口にすることはなかった。
確かに間違っているのかもしれない。主に斬りかかるなんて、歌仙たちからしたら問答無用で首を落としたくなるような行為のはずだ。
でも、彼らは髭切が行動した意味を聞いていない。
鬼だからと彼は言った。
それは理由の全てではない。結末だけだ。
言葉足らずにも程があると言えばそれまでかもしれない。けれども、彼にとってはきっと、当たり前すぎた。だから、それ以上を言葉にする必要が、見いだせなかったのだろう。
「……そりゃ、胸が重いに決まってる。そんなの、怒って当たり前だ」
奇しくも、畑で自分が髭切に語って聞かせた時と同じ言葉が、口をついて出る。
――罰が当たったんです。
五虎退が言った言葉が、ふと蘇る。しかし藤は首を横に振り、今度こそ確かな気持ちで否定する。
「罰なものか。こんなの、当たり前のことだ」
何と言い表すのが、正しいのだろう。
この澱のように溜まった苛立ちを。
この檻のように囲われた行き場のない矛盾を。
「本当、君が言った通りだ。彼らは、凄く人間じみている」
演練会場で話した審神者は、刀剣男士が人間に近い考え方を持っていると話していた。
全くもってその通りだ。だからこそ人間と変わらない優しさを持ち、人間と変わらない善意を持ち、その善意をもってして人間と変わらない行動をする。馴染みがありすぎて気付くのが遅くなったと、藤は己の失敗に顔を顰める。
「……みんなが戻ってきたら、話をしないと」
戻ってきたら。自分で口にした言葉を聞き、藤は眉をひそめる。
出陣をしたら、戻ってくる。当たり前のように言葉にしたが、以前の負傷した歌仙のことを思えば安心することなどできないということは、藤自身が分かっていた。
「本当は、審神者としてこんな姿は求められてないのだろうけれど……大丈夫、かな」
不安に思うべきではない。折れたならまた新しく作ればいい。刀剣男士たちだって、戦いを望んでいる。引き留めることなど、寧ろ彼らを戸惑わせるだけだ。それが正しい審神者の心構えなのだと、藤は心を既に縛っている。
出陣の知らせや彼らのあり方を聞かされるたびに、あの狐の声が、政府の使いとしてやってきた男の声が、記憶の底でぐわんと響く。彼らの言葉もまた、善意からのものだと知っている。
だから彼女は、否定をしない。否、できない。それでも無事を祈るくらいは、誰も見ていない今ならば許してほしい。彼女は胸の前で手を組み、誰とも知れぬ相手に向けて彼らの無事を祈ろうとして、
「────っ!」
びくりと、弾かれたように顔を上げる。誰かに後ろから囁かれたような気がしたが、当然背後には誰もいない。まるで何か恐ろしいものに付き纏われているような悪寒が、一瞬彼女の背筋を這い上がっていった。
「……何をびっくりしてるんだろう。手入れ、手入れの準備を、しないと」
一瞬よぎった嫌な予感を振りほどくように、彼女は己のするべきことを口にする。彼らが赴く先は、戦地だ。また怪我をして帰ってくるだろう。そこまで思考が行き着いて、藤は自嘲混じりの微笑を浮かべる。
怪我の可能性を分かって送り出している自分は、いったいどんな顔をして彼らを送り出したのだろう。彼女は手入れ部屋に向かう道中、消えない不安に顔を暗くする。
「手入れして、それでまた具合が悪くなるのかな……」
手入れをした後に気分が悪くなることも、決して解決したわけではない。初めてのことだからなのか、これからずっとなのか、予測はまるでつかない。
キュッと唇を噛み、震えが走りかけた体に爪を立てる。背筋に走る冷たい感覚に人知れず肩を縮こませ、藤は手入れ部屋に向かった。
***
「ひい、ふう、みい……えっと、いっぱい、大きいのがいます。多分、六……十よりは少ないです。あと、小さいものも……でも、木陰に隠れていて」
「偵察、終わりました。五虎退が言っている小さいものというのは脇差と、多分短刀だと思います。ただ……ボクも全ての数までは」
先んじて報告をしていた五虎退、その隣にいた歌仙兼定。彼らの隣に、物吉が息を弾ませて戻ってくる。
歌仙は片手に小さな筒のようなものを持っていた。政府から支給された、遠見のための器具――望遠鏡というものだ。
彼らの言葉を聞き、歌仙も筒に目を当てて実情の確認をする。どうやら、二人の偵察に大きく外れはないようだ。
「……事前に報告があった数より、多いな」
歌仙が口にしたように、出陣前にあった通達では正式な部隊が不要なほど敵の数は少ないとのことだった。だからこそ、歌仙たちのように人数に穴がある部隊が招集されたのだろう。
だが、今目の前にしている光景は、最初の報告とはあまりにかけ離れていた。出陣した先の里山、その木々の隙間から見える時間遡行軍の数は、彼らが全力で戦ってぎりぎり全て仕留めきれるかどうかといった数だ。
「どうしましょう……。や、やっぱり一度戻って、あるじさまに連絡を」
「戻る? どうして」
不意に割って入った声に、五虎退も歌仙も顔を上げる。
声を発したのは髭切だ。だが、彼の質問は質問の形をした詰問だった。
まるで悩むまでもないことを、何故相談しているとでも言わんばかりの語調に、臆病な五虎退だけでなく歌仙までも言葉を詰まらせる。
「場所はどこ」
「あの……あっちです」
髭切に気圧されるように、五虎退は震える指である方角を指す。彼が指さした先に向けて、髭切はぐっと目を凝らした。
歌仙のような遠見の器具はないので詳しくはわからないが、ちらりと黒い影のようなものが見える。この位置からなら、背後に回って奇襲を仕掛けられるだろう。
「待つんだ、髭切。敵の数が聞いていたものより多い。一旦作戦を立てた方が」
「数が多いなら、数を減らせばいいんだよね。斬れば、敵は減る。それが僕らの任務だよね?」
彼の言葉は、まるで彼そのものを表すかのように鋭いものだった。実際、ここで待っていたところで援軍が来るわけでもなければ、事態を誰かが解決してくれるわけでもない。
選択肢は二つに一つ。退くか、戦うかだ。
彼が黙りこくった一瞬の間隙を、髭切は了承ととった。これ以上の口論を重ねることなく、彼は歌仙に背を向けて宣言通り木々の中へと消えていく。
遠ざかる彼の白い上着を見つめ、歌仙はしばしかける言葉を失い、
「……単独行動は控えてほしい、というのは遅すぎたか」
代わりに吐き出されたのは重々しいため息と、落胆の声だった。
「僕たちも、行かないと。髭切さん……きっと、大変です」
「そうですね。とりあえずやれるだけ、やりましょう」
物吉と五虎退も、己の腰から得物を抜き放ち彼の後を追うように野山を駆ける。少年たちに負けじと歌仙も足を急がせ、しかしつい呟かずにはいられなかった。
「……きみは、僕たちが何のために戦っているのか、分かっているんだろうね」
脳裏によぎるのは、容赦なく戦火によって命を摘み取られた姉弟の姿。彼らの結末がどれほど無残であったとしても、その歴史は守らなければならない。
多くの名も残らぬ者の犠牲と共に積み重ねられたものといえど、その先に正しい未来がある。だからこそ、続く未来のために敵を斬る。その瞬間を必死に藻掻いて生きた彼らの積み重ねだからこそ、安易にねじ曲げることは許されない。
「歴史を守る。そのために、僕らはここにいる」
どれだけの欺瞞を重ねても、同時に思うものもある。自分たちなら、歴史の果てに消えていった人間たちを、大切な人たちを助けられるのではと。
けれど、彼は否定する。
名も無い村の名も無い村娘のほんの数十年の営みであったとしても、彼らの誇りは、生き様は、選択は、どれだけ悲惨であったとしても、同時に尊ばれなければならない。
それに、今の主と共に暮らすあの本丸がある。彼女の笑顔と共に過ごす日々がある。今は、それを守りたい。我が儘で傲慢な心だったとしても、それでいいと主は許してくれた。
だから、歌仙兼定は刀をとる。
「きみは、何のために自分を振るうんだい。――髭切」
山道の落ち葉を蹴り、白い風が走り抜ける。五虎退が言っていた場所に近づくたびに、殺気のようなものがいや増していくのが肌でわかる。
怖じ気付きはしない。この程度、どうということもない。
ただ斬ればいいのだ。
もう、斬っても何も言われないだろう。
何がそんなに、自分を駆り立てているのか。その理由はもう分かっていた。行き先のない衝動が、内側に燻り続けているわけも分かっていた。
けれども、彼は否定する。この怒りはただの余分なものだと、顔を背ける。
心というものがあるから、余計なものに振り回される。
己は刀だ。
一振りの刃だ。
それなら、それだけでいい。
感傷は不要だ。激情は不要だ。思考は――不要だ。
瞼の裏によぎる朝焼け色の花びらからも、目に映った青々とした夏の空からも、鼻の奥を掠めた土の香りからも、彼は人として見つけた新しいものを自分から切り離す。
必要なのは、斬ることだけ。
目の前にある何もかもを斬り捨てる。そうすれば、刀に戻れる。こんなわけのわからないものに、振り回されずに済む。
切り立った斜面を、姿勢を崩さずに滑り落ちる。その先はもう敵の巣窟だ。
突如姿を見せた闖入者に、異形の姿の軍勢は明らかに動揺をしていた。だが、対する髭切は動じる姿を一切見せることなく、腰に吊した鞘を払い、己が何かを宣言する。
「やあやあ我こそは――源氏の重宝、髭切なり!」
たじろぐ相手が何者かも考えない。
いるのは、敵だ。
戸惑いから未だ脱しない愚かな武者の亡霊。或いは、動揺を僅かに見せた、蜘蛛のような異形。
見た目に動じることなどない。一息に踏み込み、一刀の元に武者の亡霊を斬り捨てる。人のそれとは違うものの、肉らしいものを抉り、骨を断った感触はたしかに手に届く。
だというのに。
――消えない。
出陣の前から引きずっていた、胸の内をかき回し続けるこの苛立ちが払えない。
たった一つではダメなのか。ならあとどれだけ、腕を断てばいい。足を断てばいい。首を折り、頭を割ればいい。
「……とりあえず、全部かな」
血を払いながら、こちらの距離を伺う悪鬼羅刹のような姿の敵を見る。
本丸で見せているような笑みは彼の口元に既に無く。瞳に優しげな色などは欠片も残さず。
ただ獣のような鋭さだけを残して、髭切は自身を囲む時間遡行軍らを睨む。
もし少しばかり冷静になれたのなら、五虎退の報告よりも敵の数が少ないことに彼は気がついただろう。或いは彼の目がもう少し良ければ、他の敵に紛れるようにして姿を消した数体を見逃さなかっただろう。
しかし、髭切の中にそのような余裕は微塵もない。ただ、為すべきは眼前の敵を屠るのみ。そうすれば何もかもを振り切れると信じて、彼は愚直なまでに己を振るう。
「ふっ」
と息を呑み、距離を詰めながらの斬り上げ。真っ直ぐに走った一条の傷を見るまでもなく、勢いを殺すことなく斜め後方の敵を今度は返す刀で斬り伏せる。
「髭切、一人で先走りすぎりだ!」
遠くで声がする。歌仙の声だということは、分かる。
分かるが、だから何だと言うのだろう。
出陣前に彼が口にした言葉が、食卓を挟んで彼が発した許しの言葉が、不意に蘇る。初めて会った時の鬼気迫る様子までも思い返した瞬間、彼はギリと無意識で奥歯を噛み締めていた。
彼は、正しい。
その正しさに真正面からぶつかるほどの正しさを、自分は持ち合わせていない。この頭のてっぺんを真っ黒に染め上げるような衝動を、正しくぶつけることができないと彼が一番分かっている。
だから忘れるためにも、振り払うためにも、自分を体現し続けるしかなかった。
(……足りない)
血風を纏いながら敵を斬り捨てる彼は、顕現当初から引きずっていた言い知れない欠落を、戦闘の最中でも感じていた。
隣に並び立つ誰かがいない。
右腕に対する左腕、右足に対する左足のような、対になっているべき何かが足りない。
この感情を受け止めてくれる誰かが、いない。
不意に沸き立つ感情は、一瞬彼の足を鈍らせる。
「……チッ」
その隙を狙わんと、敵の黒ずんだ刃が迫る。脇腹に掠った痛みに、髭切はすぐさま我に返った。
これも余剰だ。不要な、感傷だ。
余計な気持ちを斬り捨てるように、彼は自分を傷つける不遜な存在に斬りかかった。
「すごいです……あっという間に」
「負けていられないですね、ボクたちも!」
「は、はい」
喋りながらも斜面を滑り降りた五虎退に、すかさず魚の骨のような怪物が肉薄する。それが咥える短刀の軌道を見抜き、五虎退は最低限の足さばきで躱す。
勢いを殺すこと無く、斜面を壁がわりに三角飛びの要領で上を取り、一思いで得物である短刀を突き立てた。微かな動きと共に動かなくなった骨の怪物に、とどめをもう一度刺す。
完全に仕留めきったと判断してから、五虎退は敵陣の真ん中で黙々と死体の数を増やしている白い彼を見つめた。
「あれなら、髭切さんが全部倒して……」
そこまで言いかけて、五虎退は口を噤む。
「どうしましたか?」
五虎退と同じ要領で蜘蛛のような姿の時間遡行軍を仕留めていた物吉は、同じように髭切が積み上げている死体の数に目をやる。
「……数が、少ない?」
「物吉さんにも……そう見えますか?」
「はい。正確に数えていたわけではないですが、でも最初に見たときより数が少ない気がします」
敵の数を多めに見積もりすぎていたという単純な理由ではないと、二人は考えていた。ならば、何故少ないのか。
「五虎退、後ろ!」
物吉の声で我に返った五虎退は、背後から迫る殺気に気がついて距離を置く。
対峙するボロ笠を被った落ち武者のような怪異が持っている刀は、どうやら打刀のようだった。後ろに控えているのは、先ほど相手をした魚のように宙を浮遊する、短刀を咥えた怪物だ。
「……先に、こちらを相手しないといけないようですね」
「はい。その後すぐに、歌仙さんに報告しましょう」
自分たちの杞憂であってほしいと願いながら、五虎退たちは得物を構え直した。
敵の体から湧き出た血とも言えない汚れたものを、自分の半身から振り払う。
これで何体目だろうか。まさに鬼神のように戦場を駆け抜けていた髭切だったが、流石の彼も無傷というわけではなかった。
いかな頑丈な太刀の刀剣男士であるとはいえ、この戦いが初陣であることに変わりはない。手合わせらしいことも、彼はまだ全くしていなかったのも理由の一つだ。故に、ぶっつけ本番で積み上げた戦果は、それだけの負傷を代価として要求していた。
鮮やかな白が美しかった上着は、所々破れ、どす黒い血に濡れている。それは、返り血だけではなく自分が散らした血でもあった。
一番の深手は、脇腹のものだろう。今も血が止まらずに、滲み出てしまっている。蜘蛛のような姿をした化け物が持っていた脇差に斬られたときについたものだ。おかげで、身体を捻るだけでも痛みが走る。
それ以外にも単純な切り傷、打ち身だけなら数え切れないほど身体に刻まれていた。視界が赤に染まっているのは、額を斬られて血が流れ落ちているせいだろう。背中が熱いのは、挟撃を捌いた際に一撃を許したせいだ。
だが、と彼は思う。
だから、なんだと言うのか。
まだ拭えない。まだ消えない。
喉の奥に競り上がっている、吐き出せない怒りを断ち切れない。
まだ、ただの刀に戻れない。
戦いを続けるために息を整えようと、瞬時足を止める。だが、休む暇すら与えまいと、鎧武者姿の大柄な鬼人が大太刀を振り下ろさんとする。
敵の動きを確認するのが、赤に濡れた視界のせいで遅れる。足を動かそうにも、体中に刻まれた傷が一歩それを遅らせる。確かに走る痛覚が、彼の動きを鈍らせる。
このままでは――躱しきれない。
「髭切、しゃがめ!」
割って入ったのは歌仙の怒号。反射的に姿勢を低くすると、歌仙の斬撃が鎧武者を文字通り吹き飛ばしていたところだった。どうやら斬っただけでなく、斬りかかった勢いを殺すこと無く蹴り飛ばしたようだ。
「あまり突出しすぎないでくれ。支援ができない!」
「……わかってるよ」
わかっている。彼の言葉はどこまでも正しくて正論だ。間違っているところなんて一つもない。だから、向き合いたくないと彼は顔を逸らす。
「髭切!」
「わかってるって」
「違う、右だ!」
本能として染み付いた行動が、彼の視線を辛うじて動かした。
藪からこちらに向かって一直線に飛び込んでくる、短刀を咥えた骨の妖。まるで空飛ぶ魚が骨になったような姿の異形は、まっすぐ彼の喉を突かんと迫る。
「――っ!」
反射的に喉を庇うため動いた右腕に、容赦なく小さな刃は突き刺さる。刃が貫通した痛みは身体の内側を電流のように走り、髭切は一瞬身体を強張らせる。
だが、まだ動ける。くれてやったのは、腕だけだ。致命的な傷には至っていない。
「ああ、もう」
腕に刺さったまま短刀が抜けなくなっている骨の妖を左手で掴み、力任せに叩きつけ、足で踏み抜く。
刺さったままの短刀が弾みで抜け落ち、ぼたぼたと傷口から血が流れ落ちる。溢れ出る血の量を見て、これは刺したままの方が良かったかと彼は冷静に判断する。
――まあ、そんなことはどうでもいい。
思考を切り替え直し、髭切は既に土と血で塗れた上着についている紐を引きちぎる。紐で刀を手に固定するように縛り付ければ、腕に力を込めずとも刀を振るえるようになった。
「髭切、あれで最後のはず……っ!?」
大太刀を振るう敵を倒し、改めて髭切の方を見た歌仙は思わず声を失う。
全身を敵と己の双方の血で染め、それでいて尚ぎらついた光を宿した獣のような瞳を持った者がそこには立っていた。
それは、敵が全ていなくなるまで、殺しつくすと決めた――鬼だった。
思わず唾を飲み、それでも歌仙が何か声をかけようとした時。
「歌仙さん、増軍が! 敵の数が少ないと思ったら、別陣地の援軍を呼ばれたみたいです!」
「数は、ここにいたのと同じくらいで……でも、大きいのが、さっきより多いと、思います!」
物吉の連絡と五虎退の報告に、歌仙は顔をはね上げた。髭切の乱戦に付き合っていたせいで、敵数の把握をし損ねていたことに歌仙は内心で舌打ちする。増援を呼びに行った者を野放しにしたのも失策だ。けれども、後悔をいくら重ねたところで時間が戻るわけではない。
「大きいというと、大太刀を振るう敵のことか?」
「は、はい。あの……鬼、みたいな」
髭切の目が一瞬細まり、鋭い視線を歌仙に送る。
「あれを複数となると、まずいね……」
「その鬼は、斬るんだね」
不意に横から入ってきた声。返り血を浴びた青年が、薄く笑いながら歌仙を見つめていた。物言いたげな視線が、一瞬二人の間を交差する。
先に動いたのは、髭切だった。視線を断ち切り五虎退たちが来た方角に一歩、足を踏み出す。
「待つんだ、髭切」
これ以上の単独行動を許すまいと、歌仙が鋭い言葉を差し入れる。彼の言葉を聞き入れてくれたのか、髭切はそれ以上は歩みを進めなかった。
髭切が足を止めたのを確認してから、歌仙は思考を回転させる。
五虎退と物吉は現在軽傷だ。自分自身もまだ十分に戦える。だが、これは相手に対して優位を得ているからではない。
今も敵に噛みつかんばかりと好戦的な姿勢を見せている髭切が、敵の七割ほどを斬りふせてくれたからだ。だが、その分だけ手傷も多い。彼がこれ以上戦えるようには到底見えなかった。
彼と同様の戦い方を、自分たちができるか。この問いについては、考えるまでも無く否だ。
物吉も五虎退も大きな個体を仕留めるような練度には程遠い。歌仙自身とて、真正面から一撃で仕留められるかどうかというと五分五分の確率になる。以前相対したときは、自身の重傷と引き換えだった。せめて一撃で複数を相手できる刀剣男士がいれば話は別だが、そんな夢物語は描くだけ今は時間の無駄だ。
(だが、ここで撤退をすれば、僕らは敗北したことになる)
刀としての矜持が、敗者のレッテルに対して病的なまでの忌避感を覚えさせる。
無理をすれば、或いは。
そこまで考えて、歌仙の脳裏にあるものがよぎる。
それは、藤色の瞳をした主の視線。手入れをしている最中に聞こえた、彼女の声。
藤はたとえ自分たちがぼろぼろになって帰っても、表面では動じるような姿は見せないだろう。泣き崩れてしまうような姿を見せることはないだろう。いつものように、「そう」とだけ呟くのだろう。
(僕らが勝って帰ったとして、僕らが満身創痍だったら、主はそれを喜ぶのか?)
刀剣男士である以上――刀である以上、戦って傷がつくのは当たり前だ。けれど、主がどう思うかはまた別である。
人間の暮らしを数ヶ月して、歌仙も人の感覚を理解しつつあった。
とりわけ、藤が怪我をした数日前の出来事は歌仙もよく覚えている。彼女の頬や首から流れ出る血に、痛いと顔を顰める彼女に、手当をしている歌仙は己が傷ついたとき以上に胸がしめつけられるような思いをした。
以前の出陣の際、彼女は素知らぬ顔で手入れをし続けていた。けれども、確かに彼女が泣いているような声も聞いた気がした。あの声を、もう一度彼女から聞きたいとは思わない。
故に、彼は決断を下す。
「撤退しよう。僕たちの手には余る。援軍となれば、僕らで対処できる範囲を上回っている」
「分かりました。それでは殿は誰が?」
打てば響くような返事は物吉からだ。彼に首肯を返し、歌仙は自らを指さす。
「殿は僕が引き受ける。僕はほとんど負傷していないからね。隊長の責任として、それぐらいはやらせてほしい」
「は、はい。それなら、僕が先頭を行きます」
五虎退がおずおずと手を挙げる。こうしている間にも敵の気配は刻一刻と近づいているはずだ。早速、五虎退が安全な方角はどちらか確認するための偵察に向かう。
歌仙も周囲の警戒を続けようとして、
「……どうして、撤退するの?」
反意を露わにした髭切の声が、歌仙の耳に飛び込んだ。今にも倒れそうなほど満身創痍の彼は、それでもまだはっきりと戦意を残していた。
「まだ、斬っていない敵がいるんだよね」
「君だってもう限界のはずだ。言っただろう、あの数は僕たちの想定外だ。一旦引いて、主から政府に連絡を取ってもらおう」
「僕はまだ戦えるよ。まだ、斬れる」
髭切に纏わり付く気配を感じ、歌仙は眉を顰める。
そこにいるのは、人の姿を得た心ある刀の付喪神ではない。ただの、一振りの刀だった。
「僕らは、敵を斬りに来たんだよね。まだ全て斬っていないのに、帰るのはおかしい」
「違う。僕らは歴史を守るためにここにいるんだ。ここで僕らが折れれば、この時代の敵の様子を報告する者がいなくなる。そうしたら、この時代の歴史が守れなくなる」
「そんなこと、関係ないよ」
目の前の彼が口にした言葉は、鉄のように冷えていた。が、対する歌仙の中では、瞬時に怒りが熱を持って全身を駆け巡る。
先日目の当たりにした、苦難の時代を必死に生きてきた人間の営みを。
たとえ何があろうとも、歴史を変えない選択肢をとらねばならない苦渋を。
よりにもよって人の営みの中で生きてきた刀であるにも関わらず、彼は今なんと言った?
「……ふざけているのか」
「…………」
普段口にすることもない、地の底から響くような歌仙の低い声。その中に確かに滲んでいる怒りを耳にしても、髭切は返事をしない。黙ったまま、冷めた目で歌仙を見つめている。
けれども隠しきれない彼の戦意は、今や歌仙に向けられていた。間に挟まれている物吉が、余計の口を挟む余裕すらない。
「僕が、部隊長だ。僕の命令には従って貰う」
なるべく激情をぶつけまいと、歌仙はゆっくりと力を込めて告げる。それでも、髭切の目は不服そうに据わったままだった。
彼の右腕に縛られていた刀が、ぴくりと動く。その様を見て、突発的な感情に駆られた歌仙は更に追い打ちのように言葉を続ける。
「それとも、僕も斬るつもりかい。主を斬ったように」
口をついて出た言葉は、わざのつもりではなかった。瞬間的に血が上ってしまって、気がつけばいつの間にか言葉が滑り出ていた。
だが、髭切にも思うところがあったのだろう。微かに伏せられていた彼の目には先ほどよりは僅かに光が宿り、視線に躊躇いが混ざっていた。
「……そうだね。分かったよ」
返事をした髭切の仕草は、どこか主に似ているように歌仙には見えた。
髭切は右腕に縛り付けていた刀を外し、左手に刀を持ち直す。鞘に入れ直すことができないため抜き身のままではあるが、継戦の意思を取り下げたと見ていいだろう。
折良く、五虎退が三人の前に姿を見せる。
「歌仙さん。撤退のために使えそうな安全な場所、確認しました。ここから東方向に、えっと……十分くらいです。川が近いので、すぐに分かると思います」
「承知したよ。案内は任せたからね」
先行して先を行く五虎退たちを見送りながら、歌仙は垣間見える敵の先鋒に向けて自身の姿を晒す。
部隊の殿を引き受けるということは、最も危険な役割をこなすということだ。引き際を間違えれば、敵の只中に孤立して撤退し損ねることになる。機を逸してはいけないと、全神経を集中させて歌仙は得物を構え直した。
先を行く五虎退の小さい背中を追いかけながら、髭切は目を伏せる。
どれだけの数の敵を斬り伏せても、どれだけの傷を身体に負っても、結局髭切の中にあるものを打ち払うことはできなかった。
無意識に噛んだ彼の唇からは、いつしか彼自身が新たな傷を刻んでしまっていた。