短編置き場

「ふわあ……」

 大きな欠伸をしながら、髭切はゆっくりと雨の降る庭を眺めながら縁側を歩いていた。
 梅雨の季節になると、否が応でも体が軋んでしまうような気がする。普段なら清々しい目覚めを迎えるはずの朝も。生憎の悪天候のせいで疲労感を引きずってしまっているようだ。
 そうでなくても多すぎる湿気というのは、やる気を削いでいく。普段はのんびりしている髭切も、いつも以上にスロースペースでゆるゆると足を動かしていた。
 髭切の髪には、この湿気のせいであちこちに寝癖がついてぴょんぴょん跳ねている。小言を言う弟も、今日ばかりは自分の寝癖にてんてこ舞いになっていて、兄の面倒を見ている余裕がなかったためだ。

「梅雨は、何だか気分が重くなるよねえ」

 誰とも知れず独り言を呟きながら、髭切はもう一度大きく欠伸をする。廊下から見える庭も、朝であるにもかかわらずどんよりしていた。畑仕事は、この分ではできないだろう。
 ついでとばかりに、彼はぐるりと庭を見渡す。点々と散らばる緑にとっては、この憂鬱な雨も恵みの雨らしい。
 彩りが少ない雨の中に、青や桃色の色あざやかな花が見える。小さな花束のように咲いているそれは、紫陽花と言う花だと、以前主から教わっていた。
 あちらに二つ、こちらに三つと数えていると、不意に一際大きな藤色の花束を見つける。いや、それは藤色の傘をさした誰かだった。

「……おや、こんな朝早くから」

 一体、誰だろう。
 興味本位で髭切は縁側に置かれたサンダルに足を引っ掛け、カランカランと石畳を歩く。
 近づく足音に気がつき、藤色の傘がぐるりとまわる。その下にいたのは、彼の主でもあり、数ヶ月前に思いを告白した相手でもある人物――彼の主がしゃがんでいた。

「おはよう、主。何をしているの?」
「おはよう。濡れるから先に入ってきなよ」

 傘もささずに外に出てきた彼は、当然のように濡れ鼠になっていた。藤色の傘の下に屈んで入った髭切は、その場にしゃがみこんで主の様子を窺う。

「主は紫陽花を見ていたの?」
「色が付いてきたから綺麗だなと思ってね。それだけじゃないのだけど」

 言いつつ、主はつんつんと葉っぱをつつく。すると、今まで静かに雨に打たれていた葉っぱから、ぴょんと小さな緑のものが飛び出した。
 それは別の葉っぱの上に飛び移りはしたものの、流石にあそこまで激しく動けば、髭切もその正体が何かすぐに察する。

「蛙?」
「うん。アマガエルがいたんだ」
「へえ、緑同士だから全く気がつかなかったよ」
「保護色だね。アマガエルは自分がいる場所に合わせて、皮膚の色をある程度変えられるんだよ。石畳の上なら茶色、草の上なら緑色」
「でも、どうしてそんなことをするんだい?」
「食べられないように、だよ」

 もう一度葉っぱをつつくと、不躾な巨人の攻撃に耐えかねた緑の小さな蛙は、紫陽花の根元へと姿を消してしまった。

「カエルはいろんな敵に狙われているから、周りの色に合わせて目立たないようにしてるんだ。その方が、怖い奴に目をつけられなくて生きやすいってこと」
「ふうん。カエル君は大変なんだねえ。ところで、主は蛙が好きなのかい」
「とりたてて好きというわけではないけれど、久々に見たから何だか嬉しくなった」

 藤は声を弾ませ、髭切を見つめる。だが、彼女は不意に真面目くさった表情をやめて、大笑いしたいのを堪えるような顔になってしまった。

「髭切、寝癖凄い」
「そんなに凄い?」
「うん。身だしなみを整えないと、歌仙に怒られるよ」

 主に促されて、髭切はぐいぐいと彼女に引きずられるように本丸に戻る。普段なら彼女の言いなりになるなどということは早々ないのだが、今日ばかりは湿気と眠気が起き抜けの髭切の気力を奪っていた。
 幸か不幸か、主に連れてこられたのは主自身の部屋だった。洗面所はこの時間、顔を洗ったり歯を磨いたりする他の刀剣男士で満員御礼になるのを見越した彼女が、ここを選んだのである。寝起きの自分の部屋の惨状は、今日はいつもにも増して酷いと思っていた髭切としては、願ったり叶ったりでもあった。

「僕も大概、梅雨の時期は寝癖が酷くってね。整えるのに時間がかかるんだよ」
「そうなんだね……冷たっ」

 いそいそと主が持ち出してきた寝癖直しのスプレーを浴びさせられて、髭切は思わず肩を縮ませる。
 彼女に促されて、鏡台の前に正座させられた髭切は、鏡越しに眠そうにしている自分と眼を合わせる。彼の後ろでは、主が嬉しそうに鼻歌を歌いつつ、髭切の髪の毛に櫛を通していた。

「主、なんだか楽しそうだね。蛙と出会ったから?」
「そうかもしれない。蛙だけじゃ無いんだけど、近くにあるけど普段気づけないものに気がつくと、何だかちょっと楽しい気持ちになるんだよね」
「そういうものなのかな」
「そういうものだよ。雨は憂鬱だけど、雨の日の方が紫陽花は綺麗に見えるし、蛙はよく見つかる」

 微かに聞こえる主の鼻歌の裏側で、窓を打つ雨の音がリズムを刻んでいる。
 彼女が髪の毛を触る感覚を楽しみながら、うつらうつらしつつ髭切は静寂に身を委ねる。このまま寝てしまいそうだと、彼は大きな欠伸をした。

「あのさ、髭切。前から思っていたんだけど、髭切の歯ってちょっと尖ってる?」
「ん……? 歯が尖っている?」
「うん。このあたり」

 不意に主は髭切の前に回ってきて、彼の口の端に手を伸ばして、ぐいと唇の端を少しばかり引っ張った。
 あまりにも突然のことに、しかも主に唇を触れられるなどということが突如起きたせいで、髭切はぴたりとその場で固まってしまった。眠気など、一瞬で吹き飛んでいる。

「ある、じ?」
「僕と一緒だね。髭切も尖ってるんだ。へえ、気がつかなかったな」

 雨の日の蛙と同じように、新しい発見ができて主の目に楽しそうな光が瞬いている。
 それ自体は、とても嬉しい。嬉しいのだが、予想外のタイミングで予想外の位置に手を伸ばされてしまった髭切の思考は、珍しくパンクしていた。
 見やすい角度を模索しているのか、彼女は時折首の角度を変えて髭切の顔を――正確にはその犬歯を眺めている。
 不意に頬に彼女の片手が添えられ、思わずびくりと動きそうになるのをぐっと堪える。
 楽しそうにしている主を邪魔したくはない。だが、これでは子供に遊ばれている犬か何かだ。

「僕よりも尖ってるのかな。やっぱり刀剣男士だから違うのかな?」

 まじまじと観察を続けていた彼女は、髭切の歯をつんつんと指でつついた。

「な、なに、してるの?」
「いや、綺麗に磨いてるなあって。そういえば、六月って虫歯の日があるんだよ」

 言いつつ、彼女は髭切の歯を指でなぞる。次いで、根元にあたる歯茎に彼女の指が触れたとき、言い知れないぞくりとした感覚が、彼の背筋を這い上がった。
 頭の片隅が痺れていくような気配に対して、言葉にできない危険を感じた髭切は、咄嗟に顔を背ける。慌てて主も、彼から指を離していた。

「ごめん。嫌だった……?」
「そうじゃないけど、ちょっとびっくりしたから」

 何故か頬が妙な熱を帯び、髭切は彼女に気がつかれまいと顔を背けたままでいた。
 けれども彼の思いなど知るはずもない主は、明らかに意気消沈している。先ほどまでの楽しそうな輝きはどこへやらだ。

「主。本当に僕は、怒ってないからね。ほら、寝癖を直してくれるんだろう?」
「うん」

 再び主が背後に回り、髪の毛を手にとって櫛で梳いていく。櫛の歯が通り抜けるときに聞こえるさらさらという音と、雨が屋根を叩く音だけが暫く辺りを支配していた。
 どうやら口では納得したように言いつつも、未だ彼が怒っているものと思い込んでいるらしい。

「……本当の本当に怒っていないから、そんなにしょんぼりしなくていいよ」
「本当の本当に?」
「本当の本当に」
「じゃあ、膝丸も同じようになっているか、見に行ってもいい?」

 勢いに任せて頷きかけた髭切は、すんでの所で気がつき、その場でぐるりと振り返る。
 櫛を持ったまま、好奇心で瞳を再び輝かせた主がそこに立っていた。

「ど、どうしたの?」
「膝丸には、やらなくて、いいからね」

 一言一句に力を込めて、否定をしておく。
 あんな――思い返すだけで一瞬むず痒さが背筋に上るようなことを、弟にさせるなんて、許せるわけがなかった。もしかしたら自分だけにしてほしいなんて、そんな気持ちもないようなあるような気もするが、今は無視する。
 ともかく、彼女をこのまま行かせるわけにはいかなかった。

「気になるなら、代わりに僕が確認しておくから。それでいいよね?」
「そ、そう……」

 なぜか仄かに怒りを感じさせる笑顔に、彼女も首を縦に振らざるを得ない。

「じゃあ、そろそろ行こうか。主のおかげで寝癖も収まったからね」
「髭切の髪の毛、触っててふわふわしてて気持ちよかったよ。また触ってもいい?」
「髪ならね」

 暗に歯は触るなと言ったつもりだったが、主には馬耳東風のようだった。
 彼女に手をとられ、来たときと同じように引っ張られながら居間へと向かう。そんな二人を見守るように、窓の向こうで蛙がケロケロと鳴いていた。
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