短編置き場
ある晴れた日の午後。洗濯物を取り込もうと庭にやってきた藤は、幽霊に出くわしていた。
(なんでまたこんな古典的な……)
声に出さずともそう思ってしまうほど、その幽霊はよく見かける真っ白な姿をしていた。
外国のコメディ漫画にでも出てきそうな、頭から布をすっぽりかぶっただけの、謎の存在。裾を引きずるほどの白い布に包まれた正体不明の何かは、足下も覚束ないのかよろよろと藤に近寄る。
思わず藤が数歩後ずさると、
「た、助けてください~」
「五虎退!? 何してるの、そんな格好で」
見知った声で救出を求める幽霊に、藤はその正体をすぐさま見破った。慌てて駆け寄り、被っている布を掴んで、弾みをつけて持ち上げる。果たして、そこには五虎退が涙を浮かべて立っていた。
「どうしたの、こんな布かぶって」
「あの……シーツを取り込もうとしたら、頭から被ってしまって」
「そういうことね。あ、こら。虎くんたち、シーツにじゃれないで。毛がついたって歌仙に怒られる」
幽霊の後を追いかけてきた白い虎の子たちは、ヒラヒラした布をおもちゃと勘違いしたようだ。獲物に見立てて飛びかかる彼らから、藤は慌ててシーツを引き剥がす。
「僕がシーツを取り込んでおくよ。五虎退は、他の服を取ってきて。届かないなら次郎の手も借りていいから。大方、今日も部屋で酔い潰れてるんだろうし」
「そ、そんなことないです……多分」
五虎退は必死に弁護をしてみたものの、あの飲兵衛大太刀は、なんだかんだで非番の時は部屋で酒盛りをしていることが多いとは周知の事実だった。
「じゃあ、よろしくね」
手短に言い残して、物干し竿に翻る白旗のようなシーツを、藤は手早く回収していった。
***
「お化けかと思ったよ。あーびっくりした」
部屋に戻った藤の腕には、先ほど取り込んだシーツの山がこんもりとかけられていた。一つ一つ汚れていないかを確認するために、丁寧にシーツを広げていく。見たところ大きな汚れはなさそうだ。
「お日様の匂いがして、気持ちいいよねえ」
まだ日光の暖かさの名残が残るシーツに顔を埋め、藤は人知れず微笑む。
その時。コンコンと部屋の襖へ繋がる、柱に当たる部分がノックされた。
「入ってもいい? 主の部屋の本を借りたいんだけど」
聞こえたのは、優しげな男性の声。それがこの本丸の髭切のものだと気がつき、藤はニヤリと笑う。
今、彼女の手にあるのはシーツの山。丁度、ほんの少し前に五虎退によって度肝を抜かされたばかりだ。折角だから、自分も誰かを脅かしてみよう。
返事をする前に、藤は勢いよくシーツを被った。
「入るね」
藤の返事を待ってから、髭切は開き慣れた襖を横に動かす。
その先にあったのは――白い布を被った正体不明の何かだった。
主の声がしていたのに、主の気配もしていたはずなのに、視覚は目の前にいるのは謎の白い何かだと訴えてくる。
髭切は咄嗟に身構え、主の気配を探りなおす。気配は、何故か布の仲からしていた。
「……主?」
質問をしてみても、返事はない。代わりにもぞもぞと白い布の塊が髭切に接近してくる。
「もしそれ以上近づくつもりなら、斬っちゃうよ」
言葉自体は優しいが、そこに秘められた殺気は本物だ。すると、不意に布は慌てふためいたように、その場で大きく動き回った後、
「待って、斬らないで!」
ぷはぁという呼吸とともに、藤が布をずらして顔を見せた。頭にまだシーツの端を載せた彼女は、目の前にいる彼の脅しを聞いてか、青い顔になっている。
「髭切は、冗談が通じないなあ」
「だって、主があやかしに食べられているかもしれないからね」
先ほどの殺気は雲散霧消していたが、藤は依然として余韻に中てられているのか、ぶるりとその身を震わせた。
「五虎退がシーツを被って脅かしてきたから、真似してやろうと思ったのに。髭切ったら、ちっとも驚かないんだもの。逆に僕の方が驚かされたよ」
シーツを頭に引っかけながら不満を言う藤の頭を、髭切はいつものように軽く撫でる。今日は、頭のシーツごとだ。
「むしろ僕は幽霊じゃなくて、この前あの箱に映っていたものを……えーと」
髭切は何かを思いかえそうと、顎に手を当てて暫く考え込むと、
「そう。花嫁っていう人に似てるって思ったよ」
何気なく、その単語を口にした。
彼に、他意はなかった。当世の花嫁は裾の長い白い衣服に、同じく白い薄布を頭から被るものらしいと、この前テレビで見かけたのだ。
だから、思ったままに言ってみた。それだけのことのつもりだった。
「……主?」
故に、彼女の瞳に涙がたまっていくなどとは、思いもよらなかった。
「どうしたの、どこか怪我でもしたの?」
珍しく動揺を露わにした髭切。だが、彼女はぽろぽろと透明な雫をこぼすばかりである。
「……っ、う、うう」
嗚咽を漏らし、必死に涙を拭おうとする藤の手は、すっかり震えていて用をなさない。何とか顔を隠そうと両手で顔を覆うも、涙は留まることを知らず落ちていく。
「なんでも、ない……なんでもないのに。ごめん。急に、ごめん」
濡れた声でただ謝罪を重ねる彼女を見て、いっときの動揺から抜け出した彼は、今度は首をゆるゆると横に振った。
「謝らなくていいよ。主にとって泣きたくなることなら、きっとそれはなんでもないことだろうから」
口では何だかんだ言いながら、実際のところ彼女は自分の内側に様々な感情を抱え込んでしまう悪癖がある。その悪癖を拗らせて、自分を追い詰めてしまいがちであると、髭切はよく知っていた。
できるなら、隠さずに吐き出して欲しいと思っている彼は、彼女の涙を否定しなかった。見ないふりをしなかった。その代わりに、寄る辺をなくして涙を流す彼女に寄り添うことを選ぶ。
「うん、ひっく、うん……」
いまだしゃくり上げる彼女の頭をもう一度撫で、そのまま彼は彼女の腕を引き、
「……髭切!?」
自分の腕の中に引き寄せる。自然と抱きしめられる形になった彼女は、思わずしゃくりあげるのを止めるほど驚いたようだった。
「いい子いい子。ほら、大丈夫だから」
まるで小さな子供をあやすように、彼は彼女の頭をそっと撫でる。
「ありが……とう」
「どういたしまして」
小さく吐き出された彼女の吐息は、安堵から漏れたもののようだった。
髭切は撫でるのをやめず、背中を軽くトントンと叩く。彼の仕草につられるように、泣くことで乱れていた彼女の息もようやく落ち着いていった。
「……あのね」
「うん」
「花嫁ってさ、綺麗だよね」
「そうだね」
彼女が口にしていることを、無理に深く聞こうとはしない。ただ、彼女の心が素直に吐き出していた言葉を、ゆっくりと受け止める。
「僕さ、凄く山奥で暮らしていた時期があるって前には話したよね」
藤の故郷は、山をずっと奥深く分け入った先にある。もう廃墟しか残っていないような廃村で、彼女はそこの最後の住人だった。以前、彼女と赴いたことがあるので、髭切もよく知っている。
「山から下りて暮らすようになって、初めて街の中を見て回ったときに、凄く綺麗なものを見つけたんだ」
今まで暮らしていた所とは全く違う世界を、おっかなびっくり彼女は歩いていた。側に友人がいなかったら、きっと尻込みしていただろう。
目まぐるしく行き交う人々と音、喧噪にくらくらしているとき。彼女は、とある駅前の店で足を止めた。
「真っ白なドレスだったんだ。ウェディングドレスっていうんだって。レースがいっぱい使ってあって、宝石がきらきらしていて、スカートなんて風船みたいに膨らんで大きくて」
髭切も、彼女と一緒に想像する。以前、てれびという映像を映す箱の中にいた女性は、主の言うように真っ白なドレスを着ていた。
あれは、花嫁となる女性が式典に臨む際に纏う衣装だと紹介されていた。当世はそんな衣装があるのかと、髭切は然して気にも留めていなかったのだが。
「山の夕日も、空も、緑も、街の中のものよりずっと綺麗だと思っていた。でも、そのドレスは今まで僕が見てきたものの中で一番綺麗だったんだ」
異世界のような環境に、突然放り出された彼女が見つけ出した、心の底を震えさせるような美しさ。目を奪われ、心を奪われ、無我夢中になって、隣の友人にこれは何かと尋ねた。
これは花嫁が着るウェディングドレスなのよ、と彼女は物知らずな友達に、丁寧に教えてくれた。
「それから、何分も何十分も眺めていてね。友達に、もう帰らないと遅くなるって、怒られるまで眺めてたんだ」
「主にとって、思い出のある服なんだね」
じゃあ、どうしてそのドレスを連想して、泣き出したのか。髭切は、問うべきか悩んだ。純粋な興味はあるが、その程度の感情で、彼女の抱えるものに触れてしまってよいのか。
だが、髭切が疑問を形にするより先に、藤の唇が動いた。
「すっごく綺麗で、でも……大きくなってからこう思うようになったんだ。僕は、あれは着られないんだって」
「……そうなんだ。それは今も、思っているの?」
「わかんない。でも、なんか胸のあたりがいっぱいになっちゃって」
また感情が溢れないようにするためか、髭切の服を彼女はぎゅっと掴んだ。その手は、彼のものよりずっと小さく、頼りなく見えた。
どうして着られないと思うのかについては、尋ねられなかった。張り詰めすぎた糸を綱渡りするように、彼女は今、危うい一線を歩きながら言葉を紡いでいる。付き合いも長い髭切には、彼女の言葉からそのように読み取っていた。
「側にいてくれて、ありがとう。……暖かくて嬉しかった」
顔は見えないが、彼女が安心しきっている声が伝わってくる。体重を預けられたことが、服越しに感じられる熱から分かった。
「……もうちょっと、このままでもいい?」
「うん。好きなだけどうぞ」
髭切は快く了承し、藤は暫く彼の腕の温かさに包まれていた。
落ち着いた藤に少し休むように伝えてから、髭切は部屋を出た。向かう先は、共用の端末を置いている洋間だ。薄い板のような形の端末を手にとった彼は、早速先ほど聞いた単語を検索用のウィンドウに入力していく。
果たして、数秒も待たないうちにいくつかの説明書きと写真が表示された。テレビでも説明されていたように、ウェディングドレスという服は、夫婦の契りを交わす際に纏う装束として一般的な装いらしい。元は外の国の衣装だったが、この国が外へ向けて門戸を開いてから、徐々に広まったらしい。
「どうして、これを主が着られないんだろう」
ざっと見た限り、制約のようなものは見当たらない。試しに拡大した画像には、ふんわりと胸元を覆うたっぷりとしたレースに、繊細な刺繍をあしらった白のドレス姿の女性が、にこやかに微笑んでいた。
傍らに立つ男性は、花嫁に倣ってか、真っ白なスーツを着ている。幸せの絶頂にあると思える二人の写真を見つめていても、問いに答えは出なかった。
数秒悩んでから、髭切は端末を元の場所に戻す。洋間のソファに腰掛けて、髭切は宙を見上げながら思案を続けた。
(いつか、主が笑顔でさっきの言葉を受け止められるようになる日が、来るといいのだけれど)
白い薄布を被り、先ほどの写真に写っていた女性のような衣装を纏う主が、瞼の裏を通り過ぎていく。子供の頃に憧れた衣服なら、きっと大層喜んで、花のように笑ってくれるだろう。
その笑顔を見られるだけでいい――と思っていたはずなのに。
(そんな日が来たとして、彼女の隣には誰が立つんだろう)
顔も知らない誰かに、微笑んでいる主の姿を想像する。いつも髭切にするように、頭をもたれかけさせている主を考えてみる。
あの衣装は夫婦の契りを結ぶ際に、纏う衣装だそうだ。髭切と主は今でこそ、互いに好意を持ち合う仲ではあるものの、夫婦がそれとはまた別の関係であるとは、髭切も薄ら理解していた。
自分は、その契りを彼女と結びたいと思っているのだろうか。彼女も、頷いてくれるのだろうか。
――答えは、やはり出なかった。
たとえ、彼女の隣にいるのが自分でなくなったとしても、彼女が本当の笑顔を見せてくれるなら、それでも構わない。そう言い切れなくなっていることに、髭切は気が付いてしまっていた。
「……今はそれよりも先に、主があの服を笑って着られるようにする方を考えようかな。そもそも、あれっていくらぐらいのものだろう」
現実逃避も交えながら、髭切は再度端末を手に取り、値段という単語を加えて検索する。数分後、表示された金額を見て、髭切はその端正な顔を微かに引き攣らせてしまったのだった。
(なんでまたこんな古典的な……)
声に出さずともそう思ってしまうほど、その幽霊はよく見かける真っ白な姿をしていた。
外国のコメディ漫画にでも出てきそうな、頭から布をすっぽりかぶっただけの、謎の存在。裾を引きずるほどの白い布に包まれた正体不明の何かは、足下も覚束ないのかよろよろと藤に近寄る。
思わず藤が数歩後ずさると、
「た、助けてください~」
「五虎退!? 何してるの、そんな格好で」
見知った声で救出を求める幽霊に、藤はその正体をすぐさま見破った。慌てて駆け寄り、被っている布を掴んで、弾みをつけて持ち上げる。果たして、そこには五虎退が涙を浮かべて立っていた。
「どうしたの、こんな布かぶって」
「あの……シーツを取り込もうとしたら、頭から被ってしまって」
「そういうことね。あ、こら。虎くんたち、シーツにじゃれないで。毛がついたって歌仙に怒られる」
幽霊の後を追いかけてきた白い虎の子たちは、ヒラヒラした布をおもちゃと勘違いしたようだ。獲物に見立てて飛びかかる彼らから、藤は慌ててシーツを引き剥がす。
「僕がシーツを取り込んでおくよ。五虎退は、他の服を取ってきて。届かないなら次郎の手も借りていいから。大方、今日も部屋で酔い潰れてるんだろうし」
「そ、そんなことないです……多分」
五虎退は必死に弁護をしてみたものの、あの飲兵衛大太刀は、なんだかんだで非番の時は部屋で酒盛りをしていることが多いとは周知の事実だった。
「じゃあ、よろしくね」
手短に言い残して、物干し竿に翻る白旗のようなシーツを、藤は手早く回収していった。
***
「お化けかと思ったよ。あーびっくりした」
部屋に戻った藤の腕には、先ほど取り込んだシーツの山がこんもりとかけられていた。一つ一つ汚れていないかを確認するために、丁寧にシーツを広げていく。見たところ大きな汚れはなさそうだ。
「お日様の匂いがして、気持ちいいよねえ」
まだ日光の暖かさの名残が残るシーツに顔を埋め、藤は人知れず微笑む。
その時。コンコンと部屋の襖へ繋がる、柱に当たる部分がノックされた。
「入ってもいい? 主の部屋の本を借りたいんだけど」
聞こえたのは、優しげな男性の声。それがこの本丸の髭切のものだと気がつき、藤はニヤリと笑う。
今、彼女の手にあるのはシーツの山。丁度、ほんの少し前に五虎退によって度肝を抜かされたばかりだ。折角だから、自分も誰かを脅かしてみよう。
返事をする前に、藤は勢いよくシーツを被った。
「入るね」
藤の返事を待ってから、髭切は開き慣れた襖を横に動かす。
その先にあったのは――白い布を被った正体不明の何かだった。
主の声がしていたのに、主の気配もしていたはずなのに、視覚は目の前にいるのは謎の白い何かだと訴えてくる。
髭切は咄嗟に身構え、主の気配を探りなおす。気配は、何故か布の仲からしていた。
「……主?」
質問をしてみても、返事はない。代わりにもぞもぞと白い布の塊が髭切に接近してくる。
「もしそれ以上近づくつもりなら、斬っちゃうよ」
言葉自体は優しいが、そこに秘められた殺気は本物だ。すると、不意に布は慌てふためいたように、その場で大きく動き回った後、
「待って、斬らないで!」
ぷはぁという呼吸とともに、藤が布をずらして顔を見せた。頭にまだシーツの端を載せた彼女は、目の前にいる彼の脅しを聞いてか、青い顔になっている。
「髭切は、冗談が通じないなあ」
「だって、主があやかしに食べられているかもしれないからね」
先ほどの殺気は雲散霧消していたが、藤は依然として余韻に中てられているのか、ぶるりとその身を震わせた。
「五虎退がシーツを被って脅かしてきたから、真似してやろうと思ったのに。髭切ったら、ちっとも驚かないんだもの。逆に僕の方が驚かされたよ」
シーツを頭に引っかけながら不満を言う藤の頭を、髭切はいつものように軽く撫でる。今日は、頭のシーツごとだ。
「むしろ僕は幽霊じゃなくて、この前あの箱に映っていたものを……えーと」
髭切は何かを思いかえそうと、顎に手を当てて暫く考え込むと、
「そう。花嫁っていう人に似てるって思ったよ」
何気なく、その単語を口にした。
彼に、他意はなかった。当世の花嫁は裾の長い白い衣服に、同じく白い薄布を頭から被るものらしいと、この前テレビで見かけたのだ。
だから、思ったままに言ってみた。それだけのことのつもりだった。
「……主?」
故に、彼女の瞳に涙がたまっていくなどとは、思いもよらなかった。
「どうしたの、どこか怪我でもしたの?」
珍しく動揺を露わにした髭切。だが、彼女はぽろぽろと透明な雫をこぼすばかりである。
「……っ、う、うう」
嗚咽を漏らし、必死に涙を拭おうとする藤の手は、すっかり震えていて用をなさない。何とか顔を隠そうと両手で顔を覆うも、涙は留まることを知らず落ちていく。
「なんでも、ない……なんでもないのに。ごめん。急に、ごめん」
濡れた声でただ謝罪を重ねる彼女を見て、いっときの動揺から抜け出した彼は、今度は首をゆるゆると横に振った。
「謝らなくていいよ。主にとって泣きたくなることなら、きっとそれはなんでもないことだろうから」
口では何だかんだ言いながら、実際のところ彼女は自分の内側に様々な感情を抱え込んでしまう悪癖がある。その悪癖を拗らせて、自分を追い詰めてしまいがちであると、髭切はよく知っていた。
できるなら、隠さずに吐き出して欲しいと思っている彼は、彼女の涙を否定しなかった。見ないふりをしなかった。その代わりに、寄る辺をなくして涙を流す彼女に寄り添うことを選ぶ。
「うん、ひっく、うん……」
いまだしゃくり上げる彼女の頭をもう一度撫で、そのまま彼は彼女の腕を引き、
「……髭切!?」
自分の腕の中に引き寄せる。自然と抱きしめられる形になった彼女は、思わずしゃくりあげるのを止めるほど驚いたようだった。
「いい子いい子。ほら、大丈夫だから」
まるで小さな子供をあやすように、彼は彼女の頭をそっと撫でる。
「ありが……とう」
「どういたしまして」
小さく吐き出された彼女の吐息は、安堵から漏れたもののようだった。
髭切は撫でるのをやめず、背中を軽くトントンと叩く。彼の仕草につられるように、泣くことで乱れていた彼女の息もようやく落ち着いていった。
「……あのね」
「うん」
「花嫁ってさ、綺麗だよね」
「そうだね」
彼女が口にしていることを、無理に深く聞こうとはしない。ただ、彼女の心が素直に吐き出していた言葉を、ゆっくりと受け止める。
「僕さ、凄く山奥で暮らしていた時期があるって前には話したよね」
藤の故郷は、山をずっと奥深く分け入った先にある。もう廃墟しか残っていないような廃村で、彼女はそこの最後の住人だった。以前、彼女と赴いたことがあるので、髭切もよく知っている。
「山から下りて暮らすようになって、初めて街の中を見て回ったときに、凄く綺麗なものを見つけたんだ」
今まで暮らしていた所とは全く違う世界を、おっかなびっくり彼女は歩いていた。側に友人がいなかったら、きっと尻込みしていただろう。
目まぐるしく行き交う人々と音、喧噪にくらくらしているとき。彼女は、とある駅前の店で足を止めた。
「真っ白なドレスだったんだ。ウェディングドレスっていうんだって。レースがいっぱい使ってあって、宝石がきらきらしていて、スカートなんて風船みたいに膨らんで大きくて」
髭切も、彼女と一緒に想像する。以前、てれびという映像を映す箱の中にいた女性は、主の言うように真っ白なドレスを着ていた。
あれは、花嫁となる女性が式典に臨む際に纏う衣装だと紹介されていた。当世はそんな衣装があるのかと、髭切は然して気にも留めていなかったのだが。
「山の夕日も、空も、緑も、街の中のものよりずっと綺麗だと思っていた。でも、そのドレスは今まで僕が見てきたものの中で一番綺麗だったんだ」
異世界のような環境に、突然放り出された彼女が見つけ出した、心の底を震えさせるような美しさ。目を奪われ、心を奪われ、無我夢中になって、隣の友人にこれは何かと尋ねた。
これは花嫁が着るウェディングドレスなのよ、と彼女は物知らずな友達に、丁寧に教えてくれた。
「それから、何分も何十分も眺めていてね。友達に、もう帰らないと遅くなるって、怒られるまで眺めてたんだ」
「主にとって、思い出のある服なんだね」
じゃあ、どうしてそのドレスを連想して、泣き出したのか。髭切は、問うべきか悩んだ。純粋な興味はあるが、その程度の感情で、彼女の抱えるものに触れてしまってよいのか。
だが、髭切が疑問を形にするより先に、藤の唇が動いた。
「すっごく綺麗で、でも……大きくなってからこう思うようになったんだ。僕は、あれは着られないんだって」
「……そうなんだ。それは今も、思っているの?」
「わかんない。でも、なんか胸のあたりがいっぱいになっちゃって」
また感情が溢れないようにするためか、髭切の服を彼女はぎゅっと掴んだ。その手は、彼のものよりずっと小さく、頼りなく見えた。
どうして着られないと思うのかについては、尋ねられなかった。張り詰めすぎた糸を綱渡りするように、彼女は今、危うい一線を歩きながら言葉を紡いでいる。付き合いも長い髭切には、彼女の言葉からそのように読み取っていた。
「側にいてくれて、ありがとう。……暖かくて嬉しかった」
顔は見えないが、彼女が安心しきっている声が伝わってくる。体重を預けられたことが、服越しに感じられる熱から分かった。
「……もうちょっと、このままでもいい?」
「うん。好きなだけどうぞ」
髭切は快く了承し、藤は暫く彼の腕の温かさに包まれていた。
落ち着いた藤に少し休むように伝えてから、髭切は部屋を出た。向かう先は、共用の端末を置いている洋間だ。薄い板のような形の端末を手にとった彼は、早速先ほど聞いた単語を検索用のウィンドウに入力していく。
果たして、数秒も待たないうちにいくつかの説明書きと写真が表示された。テレビでも説明されていたように、ウェディングドレスという服は、夫婦の契りを交わす際に纏う装束として一般的な装いらしい。元は外の国の衣装だったが、この国が外へ向けて門戸を開いてから、徐々に広まったらしい。
「どうして、これを主が着られないんだろう」
ざっと見た限り、制約のようなものは見当たらない。試しに拡大した画像には、ふんわりと胸元を覆うたっぷりとしたレースに、繊細な刺繍をあしらった白のドレス姿の女性が、にこやかに微笑んでいた。
傍らに立つ男性は、花嫁に倣ってか、真っ白なスーツを着ている。幸せの絶頂にあると思える二人の写真を見つめていても、問いに答えは出なかった。
数秒悩んでから、髭切は端末を元の場所に戻す。洋間のソファに腰掛けて、髭切は宙を見上げながら思案を続けた。
(いつか、主が笑顔でさっきの言葉を受け止められるようになる日が、来るといいのだけれど)
白い薄布を被り、先ほどの写真に写っていた女性のような衣装を纏う主が、瞼の裏を通り過ぎていく。子供の頃に憧れた衣服なら、きっと大層喜んで、花のように笑ってくれるだろう。
その笑顔を見られるだけでいい――と思っていたはずなのに。
(そんな日が来たとして、彼女の隣には誰が立つんだろう)
顔も知らない誰かに、微笑んでいる主の姿を想像する。いつも髭切にするように、頭をもたれかけさせている主を考えてみる。
あの衣装は夫婦の契りを結ぶ際に、纏う衣装だそうだ。髭切と主は今でこそ、互いに好意を持ち合う仲ではあるものの、夫婦がそれとはまた別の関係であるとは、髭切も薄ら理解していた。
自分は、その契りを彼女と結びたいと思っているのだろうか。彼女も、頷いてくれるのだろうか。
――答えは、やはり出なかった。
たとえ、彼女の隣にいるのが自分でなくなったとしても、彼女が本当の笑顔を見せてくれるなら、それでも構わない。そう言い切れなくなっていることに、髭切は気が付いてしまっていた。
「……今はそれよりも先に、主があの服を笑って着られるようにする方を考えようかな。そもそも、あれっていくらぐらいのものだろう」
現実逃避も交えながら、髭切は再度端末を手に取り、値段という単語を加えて検索する。数分後、表示された金額を見て、髭切はその端正な顔を微かに引き攣らせてしまったのだった。