本編第一部(完結済み)

「……あれ。ここどこだっけ」

 顕現してから翌日の朝。髭切は本丸の庭で迷子になっていた。
 時刻はまだ朝早いが、東の空はすっかり白くなっている。差し込む日差しこそ今は弱いが、今日もまた暑くなりそうだ。
 主の怪我が治るまでと依頼された畑仕事のために、彼は教えられた畑へと足を向けていた。雨が降ったことと、顕現初日に畑仕事は気の毒だ、と藤に言われたこともあって、今朝が髭切の初仕事の日になる。

(一人で作業ができるなら願ったり叶ったりなのかもね)

 歌仙や五虎退、物吉と目を合わすと、相変わらず腹の底に溜まっている淀みのようなものを意識してしまう。
 笑いかけることはできるのに、話をすることもできるのに、どこかに冷静でない自分がいる。片腕が落ちたような収まりの悪さも健在だ。
 幸い名前については、何度も呼ばれるからか覚えられるようにはなった。
 自分の名前は、髭切という。
 けれども正直なところ、それすらも他にこの名前で呼ばれる人がいないから自分の名前なのだろうという、消去法的な考えから来ているものだ。刀剣男士とはそのようなものかもしれないと、髭切は深く考えないようにしていた。

「それで、ここはどこなんだろう」

 そんな髭切は、昨日あらかじめ下調べをしておいた畑への道を歩いているはずだった。だが気がつけば、彼は見慣れない景色の只中にいた。

「ここが夢の中ってわけじゃあないよね。色が付いているもの」

 髭切は周りをぐるりと見渡す。昨日も彼は主のいうところの夢なるものを見たが、前日に比べればあまりに曖昧な景色だった。
 ざらざらと砂を混ぜたような不愉快な音と、もやもやした黒白の世界をふわふわ漂うだけのもの。何かをはっきりと感じる前に、今日は目が醒めた。
 そうはいっても、実はまだ布団の中に自分がいて、ここは夢の世界だという感じはしていない。そもそも緑が生い茂っているところから鑑みても、この見慣れない空間は庭の一部だということがわかる。おそらく、考え事をして歩いているうちに畑に続く道から外れてしまったのだろう。

「ちょっと散策してみようかな」

 どうせ少しばかり遅れても、この時間だ。まだ誰も起きていないだろう。予定していた時間よりも早く行動していたことが、髭切の足を外れた道へと進ませる理由となる。
 あまり使われていない獣道のような細い道には、落ち葉がまだ残っていた。ざくりざくりと音を立てて、腰ほどまである垣根に囲まれた小さな道を行く。足で落ち葉を退けてみると石畳が見えた。恐らくはここも、昔はもっと整備されていたのだろう。
 歩くこと五分もしないうちに、髭切は足を止める。

「うわあ。これは凄いね。何の木だろう」

 思わず感嘆の吐息を漏らすほど、見事なアーチがそこにはあった。いや、正確にはあったのだろう。
 小さなトンネルのような形で奥へと人を誘うアーチには、びっしりと植物が絡んでいた。根元を見る限り、それは木の一種なのだろうが髭切に名前がわかるわけもない。
 アーチからこぼれ落ちんばかりに広がる葉に頭を引っ掛けないように、長身の彼は屈み込むようにして奥に向かう。そうしてくぐり抜けたトンネルの向こうで、思わず髭切は目を見開いた。

「……家?」

 本丸よりもずっと小さな、まるで賽子のような四角いものがそこにあった。昨日、歌仙から渡された現代の風景に関する本を読んでいなければ、これを家と認識できなかっただろう。本丸と違って、新しい様式の建物であることは間違いない。

「庭の中にまだ家があるんだね。これは離れ……あるいは庵かな」

 独り言を漏らしながら、髭切は白い立方体を組み合わせたような建物をぐるりと回る。予想通りと言うべきか、人の気配はまるでしない。
 当然だ。本丸に主も歌仙たちもいるのだから、ここに誰かがいるわけがない。入り口にあたる扉に手をかけるも、こちらも鍵がかかっていて開く様子はない。一通りあちこち入れないか試してみたものの、全ては徒労へと変わった。

「それにしても、ここは静かな場所だねえ」

 髭切が口にするまでもなく、朝早くから頑張る蝉のジーという寝ぼけた鳴き声以外は耳に入るものはない。他の刀剣男士たちの話し声も足音もしない。夏の風が髪を微かに撫でていくだけだ。
 彼らに会うと否応無しに自覚せずにはいられない淀みも、この静寂の中では落ち着いている。笑顔を引っ込め、ゆるりと目を瞑る。家の扉にもたれかかるようにして、彼は落ち葉の残る敷石の上に座り込んだ。
 そのまま壁と一体化でもしたような穏やかなひと時を過ごしていたが、どんなものにも終わりは訪れる。ガサガサという落ち葉を踏む足音が聞こえ、髭切は意識を外へと向ける。程なくして、彼の上に影が落ちた。

「……主?」

 何も言われずとも、気配はわかる。刀剣男士と人間の主では、何気ない所作にも違いがあらわれる。

「寝ていたの?」
「そうかもしれない。静かだったから」

 歌仙たちと違って、彼女と話しているときはそこまで胸は重くならない。目を開けば、予想通りそこには藤が立っていた。
 立ち上がると彼女の顔がよく見える。微かに眉間に皺を刻んでいるが、それがどういう理由から生じたものかはわからない。

「どうしてこんなところに?」
「畑に行く道から外れてしまったんだ。びっくりしたよ。庭の端にこんな広い場所があるなんて」
「道の整備ができてないから、五虎退も物吉もここは知らないと思うんだ。僕はたまに来ているんだけど、寝ている人を見かけたのは初めてだね」
「……静かで居心地が良かったから」

 ふうと息を吐き出し、髭切は大きく伸びをする。一人を楽しむ時間はもう終わりにしなくてはいけない。自分は主の刀なのだから、手伝いを求められれば応じるべきなのだろう。

「畑の仕事、やらないとね」
「僕も手伝うよ。水やりくらいならできる」
「そういうものなのかい?」
「そういうものなんだ」

 他愛のないやり取りを交わしながら、彼らは寂しさだけを住人としている家から離れていく。やがてこの場所に何度も訪れるようになることになるとは、今の髭切には知る由もなかった。


「じゃあ、髭切は草むしりをしておいて。昨日の夕立でまた伸びてきてるから。僕は水やりしておく」

 テキパキと指示を出すと、藤は庭の片隅にある銀色に光るからくりに向かった。夢の中では水を出していたものだから、あれを使って水やりをするのだろう。
 彼女から目を外し、代わりに髭切は藤に指さされた方に目をやる。そこには彼女がいう通り、びっしりと細長い緑の草が生い茂っていた。

「これを抜けばいいのかい?」

 問いかけてみたが、肝心の主は距離を置いてせっせと青い紐のようなものから出た水を草にかけていた。どうやら水をやるのに夢中になって、まるで聞こえていないらしい。

(草をむしるんだから、多分これであってるよね)

 その場にしゃがみこむと、むっとした草いきれと土の匂いが鼻に充満する。刀の身なら考えたこともなかったものに包まれながら、彼は手を伸ばして一つ一つ草を摘んでいく。そうすると、見える土の面積が少しずつ増えていく。地道ではあったが、目に見えた成果がある分、何だか心に弾むものも覚えていた。

(長い間刀をしていたけれど、こんなことをするようになるなんて思わなかったなあ)

 そもそも刀の身なら、何かを思う必要もなかった。代わりに土の匂いも、根を張る草を抜く感触も縁遠かった。これも人間の身体があるからこそ、分かることなのだろうか。そうやって彼がある種の感慨に耽っていると、

「髭切、何してるの!?」

 不意に鋭い叱責が彼の耳を貫いた。慌てて顔を上げると、そこには妙に青ざめた顔の主が立っている。

「え?」
「君が今掴んでるのは、雑草じゃなくて先日僕が植えた苗なんだけど……」
「苗?」
「それは抜かないで欲しかったの。あー、結構抜いちゃったな。根が切れてないといいんだけど……」

 髭切が抜いた草の山から藤はいくつかの草を摘まみ上げる。髭切が土だけにした場所に、彼女は摘まみ上げた草を丁寧に植え直し始めた。
 言われてみればたくさん生えている草と、彼女が植えている草には微かに違いがある。だが、そんなことが彼にわかるわけもない。慌ててその場から退いて草の山を見つめ直しても、髭切には放り投げられた緑に違いを見いだすことはできなかった。
 今の彼ができることは、自分の失態を修正するために彼女があくせく働き回っているのを黙って見ていることだけ。故に、彼は棒立ちになって藤の様子を見守っていた。

「…………」

 叱責を受けた瞬間は、何かしでかしたということに胃の底が冷えるような嫌な感触が湧き上がった。だが、今はそれとは異なるものが渦巻いている。
 ジリジリと体の隅を焼かれるような嫌な感覚。喉の奥に冷たい石ができて、外にいるのに呼吸すら楽にできない。
 ――体がなければいいのに。
 何度目になるかわからない呟きが、今日も心の中に泡のように浮かび上がる。その場に立っているはずなのに、まるでその場に地面が無いような、ふわふわした感覚に苛まれる。この感覚は、歌仙や五虎退たちに相対した時に似ている気がした。

(僕は何を気にしているんだろう。こんなもの、どうでもいいことのはずなのに)

 苗と雑草を見間違えたことを、ではない。
 次から次へと身体の内に湧き上がる不可解な何かを、彼は無用のものとして捨てようとする。昨日から続く呪いだ。そうして切り離してしまえば、楽になる。
 髭切がそんなことを考えているとはつゆ知らず、彼の後始末を終えた藤が立ち上がった。

「……ごめんね」

 彼の口をついて出たのは、謝罪だった。
 誤ったことをした。だからこの言葉が必要だ。そう思って告げたのはたった四文字の言葉なのに、何故だかガリガリと内側を引っ掻かれるような苦しさも同時に湧き上がる。
 けれども、彼は内側に沸き立つ苦々しさを無視することを選ぶ。苦々しさの代わりに笑顔を浮かべて、場の空気を押し流そうとした。
 だが、藤は怪訝そうな顔をして、

「なんで髭切が謝るの?」

 土で汚れた軍手をぱっぱと払いながら、首を捻ってみせる。

「え?」
「だから、なんで君が謝るの?」
「……僕は、主の命の通りにできなかったんでしょう?」
「僕は草をむしって欲しいと言った。君は草をむしった。別に間違ったことはしてないと思うよ」

 彼女は、髭切が作り上げた雑草の山に目を落とす。

「でも、主がしないで欲しいと思ってたこともしていた」
「してたね。でも、それはちゃんと指示しない方が悪い。君は草むしりはしてたわけで、別にサボってたわけじゃ無い」
「……主の命に背いているのに、褒められるの?」

 刀が斬るべきでもないものを斬って褒められたような、不可解な評価に思わず髭切は眉を寄せる。その様子を見て、藤も困ったように眉を寄せた。
 伝えたいことが伝わっていない。彼女の瞳からは、そんな感情が見て取れる。
 額に皺を作って何かを考え込んでいた藤は、不意に思いついたと言わんばかりの表情を見せ、

「……昔、僕も今の髭切みたいに畑仕事を誰かと一緒にやってたことがあったんだ。その時、僕は水やりを頼まれていたんだ。今日みたいなとても暑い日だった」
「?」

 脈絡もなく始めた彼女の話に、今度は髭切が首を傾げる番だった。構わず、藤は話を続ける。

「植物に水を上げると元気になることはわかっていたから、僕はいっぱい水をあげた。でも、頼んだ人は僕を怒ったんだ」
「どうして。主は、水やりを頼まれたんじゃなかったのかい」
「それはその通りなんだけど……ちょっとあげすぎてたんだ。その人は一目見て、あげすぎなことに気がついたんだよね。こんなにあげたら根が腐ってしまうって、僕を叱った」

 彼女は自分の失敗を話すのが恥ずかしいのか、誤魔化すような笑顔を髭切に見せた。

「僕は謝った。ごめんなさい、もっと考えるべきでしたと。実際、ちょっとした洪水が起きてるぐらいまで、水をあげてしまったから。でも」

 そこで言葉を句切り、彼女は髭切を真正面に見据えて続けた。

「でも、内心ではごめんなさいより先に、ちょっと頭にきてた」
「頭にきてたって?」
「むかむかして、もやもやしたってこと」

 彼女の言葉を聞いて、髭切は微かに目を見開く。その表現は、まるで昨日から髭切が内側に抱え続けていたものを言い表しているかのようだった。

「僕は僕なりに、頼まれた人のために行動した。水をあげる植物のことも考えていた。こんなに暑いなら、きっと水も沢山必要だ。沢山あげれば元気になるだろう。そんなことを思っていた」

 徐々に藤が言いたいことが見えてきたように思い、同時に髭切は彼女に気付かれないように視線を地面に落とした。
 彼女はきっと、今も彼の腹の底にある重い石のようなものの正体を話している。人間として長く生きてきた彼女だからこそ分かることを、髭切に伝えようとしている。先ほど藤に叱責を受けた時にもできた暗い何かのことも、どうでもいいことだと押し流してきたことも、彼女の言葉で明らかになってしまう気がする。

「でも、僕の言い分は聞いてもらえなかった。僕の間違いだけが指摘され続けた」

 ただ、これを聞いてしまってはいけないという予感めいたものが、髭切の脳裏に走る。
 聞いてしまったら――きっとどこかで堪えられなくなる。
 知ってしまったら――きっとどこかで飲み込めなくなる。
 けれども、顕現した時から付き纏う感情の正体を知りたいという好奇心もある。

「正しいことではなかったかもしれない。間違ったことだったかもしれない。でも、一方的に正しさで押さえつけられるのは、あまり気分がいいものじゃない。せめて、間違ったことをしてしまった言い分を聞いてほしい。誰だってそういうものだと思うよ」

 聞かない方がいい。聞いてしまっては、戻れないと、頭の片隅で警鐘が鳴っているような気がした。
 しかし、髭切は彼女の言葉を耳にしてしまう。

「謝るよりも先に、そんな風に自分を否定されてしまったら――怒って当たり前だ」

 知ってしまう。
 腹の底にあったものの正体を、知らされてしまう。
 それは、自分の意見を尋ねられることもなく、悪と決めつけられたがゆえに生まれたもの。
 けれども、場を乱すことも己の矜持としてできず、吐き出す場を見失ってしまったもの。
 鬼を斬った考えを、理由を話す機会を与えられず、主を斬った凶行だけを咎められて許されたが故に残ってしまったもの。
 ――この行き場のない感情は、怒りだ。

「だから、君も謝らなくてもいいよ」

 髭切の気など知らないのだろう。少しばかり土を頬につけて、彼女は薄く笑う。

「ただ、次からは気をつけて欲しい。分からないと思ったら尋ねて欲しい。僕が言いたいのはそれだけ」

 彼女はその場に凍りついたように立ち尽くしている髭切を、拳で軽く小突いた。トンと彼女の触れる感触に、髭切ははっとする。

「大丈夫。植え直したから、きっとまた根を張り直してくれるよ。心配しないで」
「……うん」

 足元に目をやれば、彼が抜いた苗が再び土に根を埋めて整然と並んでいた。何事も変わらぬように見えて、けれども髭切の胸中には、急速に薄黒いものが次から次へと生まれようとする。

「よし。まずはわかりやすいものから教えていこう」

 しかし、思索にふけるほどの時間をくれるような主ではない。息をつかせることも無く声をかけてくれたのが、せめてもの救いだった。

「よろしく頼むよ、主」

 それに、藤の目は妙にきらきらと輝いている。そのおかげか、心の端がどこか浮き足立っているようにも思う。
 ――きっと、これは悪くないもののはずだ。この感情に身を任せていれば、まだ笑っていられる。
 彼自身意識をすることもなく、髭切は心の片隅に根ざした黒い感情からそっと視線を外した。


 畑仕事というものは言葉にすれば一言ではあるが、実際に行えばとても一言では済まない作業の連続だ。
 草むしりに水やりは勿論のこと、収穫できそうな野菜があれば収穫を行い、害虫がやってきていないかの確認もする。まだ耕していない部分の石をどけ、土に鍬を入れる。
 朝食のための休憩は一度挟んだものの、その後は終始働きづめとなった。流れ落ちる汗を拭った数など、最早数え切れないほどだ。

「これは本当に、名前が雑草切りになるのかも……」
「ちょっと疲れちゃったなら、一度休憩する?」

 藤に促されて、髭切は首を縦に振るか悩む素振りを見せた。主の刀として、彼女の要請に応えられないのは不甲斐ないと感じているのだろうかと、藤はダメ押しの言葉をかける。

「後はちょっと水やりするだけだから、木陰で休んでいなよ。昨日言ってたみたいに、お腹はまだ痛い?」
「……うん。少しだけ。でも」
「じゃあ尚更休まないと。休憩も大事だよ」

 水の入った容器を押しつけられれば、流石の髭切も頷くしかなかった。押しやられるように日陰に向かう彼を、藤はじっと見つめる。

(……朝に話したときから、ちょっと変だったな)

 苗を間違えて引っこ抜いていたのを思わず叱ったとき、彼はすぐに謝罪の姿勢を見せた。
 刀として彼の態度は間違っていなかったかもしれない。だが、謝る彼の瞳には拭いきれない淀みのようなものがあった。彼自身、そのことには気がついていなかったかもしれない。
 けれども、見過ごすわけにはいかないと思った藤は、自分の嘗ての失敗談を彼に伝えた。彼女の話を聞いて、髭切は初めて何かに気がついたように表情を変えた。その後に苗を見つめていた視線は、ただ自分の過ちを反省しているのとは違う感情が、見え隠れしていたように思う。

「何だか自分の感情が何か分からないような、持て余しているみたいな、気がつかないふりをしているような」

 そこまで言って、藤は口を噤む。

(まるで、僕みたいだ)

 顕現した直後に、主を斬りつけたことを謝った彼の姿が。
 仲良くしていこうと歌仙に許されて、ありがとうと笑う彼の笑顔が。
 静かで居心地が良かったと、目を細める彼の横顔が。
 ――どこか、自分に似ている気がした。

(……胸のあたりからお腹にかけて、重い感じがするって話していたな。関係あるんだろうか)
「うわっ。主様、水、水!!」

 急に割って入った物吉の声に、藤ははっとする。気がつくと、びしょ濡れの物吉と五虎退が彼女の前にいた。
 考え事をしながら、ホースの先を振っていたからだろう。どうやら植物だけではなく、近づいていた彼らにも水をかけてしまったようだ。

「ああ。ごめん。ちょっとぼーっとしてて」
「今日、暑いですからね。それでも頑張る主様は凄いです。ボクも手伝わせてください」

 藤からホースを受け取ると、物吉は慣れた手つきで畑に水をやり始めた。手持ち無沙汰になった主の姿を横目で見守りつつ、少年は微かに眉を顰める。
 視線の先にある彼女の頬と首に巻かれた手当の跡。本丸の中で見るのと違い、畑仕事の最中で見かけるとまた違った印象を彼に与えていた。
 本来なら、彼女は本丸の中で安静にしているべきだ。そんな感情が生まれてしまう。

「髭切さんは、何をしてるんですか」

 口をついて出たのは、物吉にしては珍しく批難めいたものなってしまった。主を大事に思うからこそ、彼は新参者の存在を、口で言うほどまだ許すことができていなかった。

「彼なら休憩中。朝からずっと付き合わせていたから、疲れちゃったみたい」
「あるじさまだって……お疲れのはずです」
「そうは言っても、五虎退。僕はこれでも慣れているから。君たちも手合わせの後でしょう? 疲れてるんじゃないの」
「これぐらい平気ですっ。ぼくも何かお手伝いします……!」

 勢い込む五虎退に、藤は目を丸くする。彼女の知る由もないことだったが、五虎退と物吉の手合わせは髭切が顕現した翌日から、より白熱したものになっていた。

(僕があるじさまを、お守りするんです)

 先日彼女の身に起きたことを思うと、少年たちの胸には歌仙とはまた異なる闘志の炎が燃え上がっていた。
 普段は何気なく接していたからこそ、彼らは失念しかけていた。主が、藤が、ただの人間なのだということを。襲われれば、あっという間にとどめを刺されてしまうような弱い存在だということを。
 彼女は、自分たちとは違う。殊更に弱いと卑下しているわけではない。むしろその逆だ。

(あるじさまは、僕たちが持ってないものを沢山持っています。でも、僕たちが持っているものを、あるじさまは持ってない……)

 畑を手早く作り上げる技術も、手入れのための審神者の力も、五虎退たちの手にはない。だが、主の手には五虎退たちのような危難に対する即応力がない。不意打ちを受けて、咄嗟に得物を抜いて反抗する力はない。
 あの時、五虎退も物吉も主の盾となるのに一歩出遅れてしまった。あまりに突然のことだったから面食らってしまった。思考が追いつかず、行動が一歩遅れた。先んじて行動したのは、初期刀の歌仙だけだ。

「五虎退。物吉。ちょっと訊きたいことがあるんだけど」
「は、はい。なんでしょうか」
「何でしょう、主様」

 人知れず決意を固めていた五虎退は、突然主に質問をされて少しばかり驚いた様子を見せる。物吉は水やりを続けながら、顔だけを主に向けた。

「お腹の辺りが重くなったことってある? それも多分、一日以上」
「重く……? いえ、ないです」
「ボクもありません。何かあったんですか?」
「髭切が、昨日そんな話をしていたんだ。刀剣男士同士なら何か知っているかと思ったんだけれど、君たちも知らないんだね」

 質問はそこで終わり、と藤は思っていたが、

「あるじさまを……怪我、させたからです」

 五虎退の少し怒ったような言葉に、彼女は目をぱちくりとさせた。

「顕現させた人を怪我させたら、具合が悪くなるっていうこと?」
「よ、よく分からないですけど……でも、そうかもしれないなって」
「根拠があるわけじゃないんだ」
「でも……きっと、罰が当たったんです。だって」
「五虎退」

 気弱な少年は、不意に冷水を浴びせられたような寒気に襲われた。
 ただ、主に名前を呼ばれた。それだけのことのはずなのに、まるで強く咎められたような居心地の悪さが彼を襲う。
 彼女はいつもの笑顔を浮かべているのに、発した声はまるで氷のように冷たく聞こえていた。今までの主とはあまりにも違う声に五虎退に震えが走りかけ、

「終わったことを蒸し返して関係ないことと結びつけるのは、まして天罰だなんて言い方をするのは、やめた方がいいよ。僕のために怒ってくれるのは、嬉しいけれどね」

 だが、その冷たさもほんの一瞬。すぐにいつもの優しげな声に戻り、五虎退は先の言葉が何かの聞き間違いだと自分に言い聞かせた。きっと何かの間違いだったのだろう、と。

「物吉。水やりはその辺でいいよ。後は僕で片付けておくから」

 にっこりと微笑む彼女は、これ以上その場に五虎退たちがいるのを許すまいとしているようだった。彼女の勢いに圧された少年たちが、首を縦に振る以外の選択肢をとれるわけもなかった。


「惣領は、見かけによらず元気なんだなあ」

 額から流れ落ちる塩水、もとい汗を拭い、髭切は木陰にその長身の体を縮こませるように収めていた。木の根元を腰掛け代わりにすると、夏の風がゆるりと通り過ぎていく。
 藤に持たされた容器に口をつけて、冷たい水を身体の中へと流し込んだ。おかげで、内側に籠もっていた熱が少しばかり引いたようだった。
 木陰から畑に目をやると、藤が水を撒いているのが見える。あの細い体のどこにそんな体力があるのかと思うほど、彼女は精力的に動き回っていた。

「……ああ。彼らもお手伝いかな」

 主に近づく物吉と五虎退の姿を見つけて、髭切は目を細める。彼らの姿を認めると、忘れかけていた苦々しいものが再び自分の内側に広がっていく気がした。

「結局、僕は怒っているんだろうね」

 歌仙たちに向けている感情は、恐らく主に叱られたときに湧き出したものと同じだ。それならば、きっと主が言うように自分は昨日から――或いは、一昨日からずっと怒りを持っていたということになる。

(じゃあ、これはどうすればいいんだろう)

 顕現した瞬間に起きたことを思えば、何が原因かは髭切にとってはあまりに明白だった。
 微かに目を伏せて、あの日のことを思い浮かべる。あの日の自分を辿っていく。その瞬間に芽生えた感情を自覚する。
 己の内に沈んだものの正体に気がついてしまった彼は、自覚したが故に小さく息を吐き出した。
 勝手な言い分だとは思う。言葉が足りない部分もあったと、分かってはいる。自分の考え以外を咄嗟に飲み込めるほどの余裕も、あまりなかったことも自覚している。
 それでも。
 それでも――言い分はあった。
 既に罪人という形で許されてしまった今となっては、口にすることもできなくなった言い分だ。
 もう一度、髭切は内側にこびりつくものをそぎ落とすように、長々と息を吐いた。

「随分と主に振り回されているようだね。慣れないことで戸惑うだろう?」
「ああ……うん。ちょっとはね」

 不意に降ってきた声は、畑の様子を見にきた歌仙のものだ。視線を上に向ければ、こちらを見つめている翡翠色の瞳と目が合う。ため息をついている様子を見られて、疲れているとでも思われたのだろうか。

「主はご覧の通り、畑仕事が好きみたいなんだよ」

 何気なく会話を続ける彼から、髭切はそっと視線をそらす。畑仕事をしている間は忘れていることができたものが――くぐもった怒りが、よりはっきりと自覚できてしまったがための行動だった。

「そうみたいだね。今日一日でも随分と色々なことを教えてもらったよ」
「まだ半日も過ぎていないよ?」

 朗らかに笑う歌仙を、なるべく視界に入れないようにする。顕現した瞬間に掴みかかってきた顔を、思い出さないようにする。良い関係を築きたいと、さも一点も自分の非がないように振る舞っていたことも、思い出さないようにする。
 いや、むしろと髭切は思う。いっそ、この黒いものを彼にぶつけてしまえば、すっきりするのではと考え、

「……主のことは、きみも驚いたかもしれないが受け入れてくれたようで、安心してるんだよ」

 しかしできないと、何かが否定する。

「できれば、これ以上あの角のことには触れない方がいいだろう。僕も散々勘ぐりをして、彼女を傷つけてしまっただろうから」

 主人の身を案じる刀剣男士の鑑のような歌仙に、この行き場のないものをぶつけてどうする?
 彼は、決して悪気があるわけでもないのに?
 彼の中で解決したことを今更蒸し返すのか?
 自問に対する自答は、あまりに明快だった。
 すなわち、笑って何事もないように過ごす。ただ、それだけだ。

「……うん。そうだね」

 口にするのは、いつも通りの肯定。微かに唇に弧を浮かべれば笑顔の完成だ。
 歌仙がその場を立ち去るのを見送り、髭切は一度ぎゅっと目をつぶった。体の奥に沈んでいた石から生まれる何かを、無理矢理押しとどめる。こんなものに振り回されているなんて、源氏の重宝の名が泣くというものだ。
 数秒そうしてから、心に区切りをつけて彼は立ち上がろうとした。

「……おや、こんなところに」

 立ち上がりかけた彼の目に留まったのは、一輪の花。朱色の細く波打った花弁には、点々と紫の粒が散っている。
 ちょうど近くに咲いている向日葵の陰に隠れるように咲いていたので、今の今まで気がつかなかったのだろう。心なしか、元気がなさそうにも見える。

「この花の名前は教えてもらってないねえ。ねえ、何て言うんだい」

 返事はないと知りつつも、声をかけてみる。風に揺れる花はその細長い茎を揺らしはするものの、それ以上の変化は見せない。

「元気がないね。こんな陰の中にいるからだよ。そうだ。主に頼んでもう少し日の当たる所に移動させてもらおう」

 気分を切り替えるように、わざと声を弾ませる。ぐるりと周囲を見渡すと、折しも藤がこちらにやってくるところだった。

「主。お願いしたいことがあるんだ」
「何?」
「ここにある花を、別の所に移動させてあげたいんだ。ほら、向日葵という花の陰に隠れてしまっているから」

 髭切の指す朱色の花に藤が目を留めた瞬間、彼女の瞳がすぅっと細くなった。
 彼女の表情の変化に髭切は気がつかない。だが、まるでその変化に合わせるように、身体の内側にぴりと小さな痛みが走る。小さな胸の疼きに彼が眉を顰めていると、

「それ、抜いて」

 藤が、ぽつりと呟いた。

「……え?」

 何かの聞き違いかと思い、髭切は顔を上げる。そして、彼は一瞬思考を停止させる。
 出会った後にも一度見た、光が消えた藤色の瞳。感情を殺したような黒々とした双眸が、髭切を見据えていた。

「それ、抜いて。どうせ放っておいても枯れるだろうけど」
「……どうして。主はこの花が嫌いなの」

 今まで畑に生えているものならば、自分が植えたものから勝手に生えてきたものまで丁寧に教えていた藤が、何も言わずに破棄を命じている。唐突な掌の返しように、髭切は面食らってしまった。
 髭切の問いに、藤は答えない。ただ、表情を殺してじっと花を見つめているだけだった。

「僕はこの花、好きだなあ。これは、なんという名前の花なんだい?」
「――鬼百合」

 一言告げてから、彼女は吐き捨てるように続ける。

「鬼百合が好きだなんて、変な人って言われるよ」
「そういうものなのかい?」
「そういうものなの。だから、抜いちゃうよ」

 ほっそりとした茎に、彼女は無造作に手を伸ばす。咄嗟に髭切は、躊躇いなく伸ばされた藤の手を掴んだ。
 瞬間、まるで電気でも流れたかのように、彼女は髭切の手を払う。我に返ったように、その瞳には光が戻っていた。

「僕は変な人って言われてもいいよ。これ、元気にしてあげたいんだけど、どうすればいいかな」
「……鬼百合は、水が沢山いる植物なんだ。夏は乾きやすいから水を沢山あげればいい。あと、球根から育つ植物だから……要するに、枯れても水はあげ続けると、来年もまた花を咲かせるよ」
「詳しいんだねえ。助かるよ。このまま日陰ってのも可哀想だから、どこかに植え替えてあげたいな」

 丁度良い場所はないものかと、髭切は畑全体に目を通す。ぐるりと見渡した彼の目に、自分の部屋の前の空間が目に入った。日当たりもよく、他の植物も育っていない。まさにうってつけと言えるだろう。

「植え替えるなら、手伝うよ」
「ありゃ。主はこの花が嫌いなんじゃないのかい?」
「僕は――鬼じゃない、から」

 まるで喉を絞められてでもいるかのように、妙に引き攣った声が髭切の耳に届く。

「鬼じゃないから、鬼百合を好きになるのは変だよ。そういうものなんだって聞いた」

 人間として長いときを生きてきたわけではない髭切には、彼女が何を変と表現しているのかは分からない。そういうものらしいという認識を持つことしか、彼にはできない。だからこそ、彼は素直な思いを言葉に変える。

「僕はこの花は気に入ったよ。僕は鬼じゃあないけどね。色が鮮やかだし、丁度主と同じ髪の色をしている」

 思ったままを口にして、髭切は表裏のない笑顔を藤に見せた。その笑顔を見て藤は小さく目を見開き、ゆっくりと頬を緩ませ、はにかんでみせた。
 彼女の笑顔に合わせるように、髭切の心の端で小さく何かが弾んだ。まるで、自分の意思とは違う何かが住まっているかのようだった。

「……ありがとう」

 藤が口にした言葉が何に対するものかも、髭切には分からない。ただ、慣例として「どういたしまして」と彼は返事をした。
 やることが決まったならば、行動はトントン拍子に進んでいく。彼女が腰に吊していた移植ごてを借りて、藤に言われるままに鬼百合の周りの土ごとその場から抉り取る。そうしなければ、根をちぎってしまうかもしれないということだった。

「髭切は、好きな花はあるの」

 土ごと鬼百合を抱えたまま移動しているとき、何気なく藤が髭切に質問を投げかける。彼は、今目の前にゆらゆら揺れている鬼百合をぼんやりと見つめた後、

「特にこれといって好きというものはないけれど……ああ、でもこの花は見てみたいな」

 言って、片手で鬼百合を支えたまま土ですっかり薄汚れてしまった自身の上着を指した。そこには彼の髪と同じ色で染め抜かれた、五枚の花弁を持つ花の意匠があった。

「これって、刀剣男士の紋だよね」
「そういうものなのかい。僕自身にもついているものだし、馴染みのあるものなんだよねえ。でも、何の花かっていうのは意識したことがなかったな。主には分かる?」

 僕自身と言っているのは、刀のことだろうと藤は推測する。下に笹のような葉が広がっているが、あまりに抽象的な図に落とし込まれているために、花の名までは藤にも分からなかった。
 ゆるゆると首を横に振る彼女に、髭切は少しだけ残念そうな顔を見せる。

「……大事なものと繋がるためのもの。この模様を見ていると、何だかそんな気分になるんだ」
「また今度、調べてみるよ。夏の花じゃないのかもしれないね」

 丁度髭切の部屋の前に来たことで、会話はそこで途切れた。彼女に言われるままに腕を動かし、数分もすれば髭切の部屋の前には朱色の花がゆらゆらと揺れていた。
 一仕事を終えて、額の汗を拭うために彼は顔を上げる。その先に広がっていたのは、どこまでも広がる夏の青空だ。
 吸い込まれるような青の下に揺れる、一輪の朱。
 その隣でもう一つの花のように揺れている、朱の髪。
 よく似た二つの色を目に刻み、髭切は薄い微笑を浮かべる。歌仙らと話しているときよりも、彼はずっと穏やかな心で笑うことができた。

「じゃあ、今日はこれでおしまい。明日はもうちょっと手際よくやれるよう、頑張ろうか」
「結局主もあれこれ手を出していたけれど、傷はもういいのかい」
「……あまり、良くないかも」

 元々、怪我をした主が土に触れたり汗をかいたりすることが無いようにと髭切が手伝いを依頼されたのに、これでは本末転倒である。冷や汗を流す主と顔を見合わせ、二人は苦笑いを浮かべる。
 平和な一日が、こうして今日も過ぎていく――はずだった。

「主! よかった。すぐに見つけられて」

 急いでいる様子を隠しもせずに、足音高く歌仙が本丸の廊下を駆けてこちらに向かっている。藤が何事かと尋ねるより早く、

「出陣の知らせが来ていたんだ。五虎退にも物吉にも伝えてある。髭切、君もすぐに準備をしてくれ」

 歌仙に早口で告げられた内容を聞いて、藤は日常を謳歌するただの人間の表情を捨てた。隣に立つ髭切を見て、感情を殺した抑揚のない声で彼に告げる。

「君も行くんだよね」
「うん。それが僕らの役目だから」

 藤は髭切をじっと暫く見つめていたが、やがて断ち切るように視線を外した。
 その所作が、彼の出陣に対する不安と感じ取ったのだろうか。庭に降りてきた歌仙は、主に向けて優しげに声をかける。

「大丈夫だよ、主。以前のような失態はしない。髭切とも上手くやるよ」
「…………」
「昨日も話しただろう。それに僕が率先して行動しなければ、他の者にも示しがつかないからね」

 安心させるような、自信に満ちた声。藤も彼の言葉に納得したのか、小さく頷いてみせた。
 そんな主と刀剣男士としての理想的な姿を見て、髭切は思わずその場で小さく一歩後ずさった。何気なく歌仙が口にした言葉を、意識の端に追いやろうとした。
 だが、できなかった。
 無意識に差し挟まれる、彼の正しさの主張。その度に、髭切の胸中に渦巻く黒いものが唸り声をあげる。

(君は、僕の言うことを聞こうともしなかったのに)

 けれども、何も言わないことを選んだのもまた自分だ。こんなものに振り回されたくないと思っているのに、けれどもいざ彼の言葉一つで出陣前だというのに、こんなにも動揺してしまう。
 無視をしたい。
 どうでもいいものにしたい。
 けれど、できない。
 理性と感情が内側でせめぎ合い、つい無意識で伸びた手が自分の胸を掴んでいた。彼の様子に気がついた藤が、微かに心配を顔に覗かせて駆け寄る。

「……髭切、大丈夫? 昨日から調子悪そうだったよね」
「そうなのかい? なら、きみは休んでおいた方が」
「敵を斬るだけでいいんだろう。それぐらいなら、できるよ」

 そんなつもりは、歌仙にはなかったのかもしれないが、彼の言葉はまるでお前はいない方がいいと言われているように、髭切の耳に届いてしまった。歌仙の言葉に被せるように響いた彼の声は、隠しようもない不穏な気配がにじみ出ていた。

「あ、ああ……」

 それならいい、と髭切は安堵の微笑を浮かべる。
 敵を斬るだけなら、何も考えなくていい。
 この影法師のようにつきまとう怒りごと、敵を斬り捨てればいい。
 そうだ。それで、きっと全てが解決する筈だ。
 彼は自分の体に目を落とす。
 手があるのは何のためか。
 足があるのは何のためか。
 それは、敵を斬るためだ。
 それだけで、それ以上はない。
 この鬱積した激情すらも、ただの余剰だ。斬り捨てて仕舞えば、刀の本分に戻れば、それで終わる。
 細かいことは、どうでもいい。
 感情など最初からなければよかったのに。
 思わず拳を強く握る。最早、彼の視界に小さく揺れる朱色の花が入る余地はない。

「今度はちゃんと斬るべきものを斬るから、安心していいよ」

 歌仙にそれだけ言って、髭切は建物の中へと戻っていく。
 残された歌仙は、戸惑いを隠せずに藤を見つめていた。藤も、かける言葉を探しあぐねているようだった。

「……なかなか、難しいものだね。僕は、もう終わったことにしたつもりなんだけれど」

 歌仙が言外に滲ませた内容は、藤の頬に未だ張り付いている絆創膏や首の包帯の原因について言及しているものだった。
 藤は自分の傷にそっと手をやり、先だっての髭切の顔を思い浮かべる。口元に浮かべた笑みを、内側に爆ぜた思いを全て押し殺したような声を、己の胸を掴んでいる所作を、全部思い返していく。
 だが、彼の行動をなぞってもすぐに答えが出るわけではない。藤は一旦考え込むのをやめて、歌仙へ視線を向けた。

「歌仙。気をつけて行ってきてね」
「ああ。任せてくれ」
「歌仙自身も、だよ」

 念を押されるように言われ、思わず歌仙は苦笑いをこぼす。初陣で重傷を負ったことは、まだ記憶に新しい。
 彼女に頼りないと思われているのか、それとも別の感情を抱いているのかは、表情の変化に乏しい顔からは窺えない。けれども、今は彼女の信頼に真っ直ぐに応えていきたいと歌仙は決めていた。

「分かっているよ。同じ失敗をするようには見えるかい」

 気を張りすぎることもなく、かといって緩めることもない言葉は藤を安心させるものだったらしい。
 緩く微笑を浮かべた藤は、小さく頷いた。
 出陣のために気持ちを切り替える歌仙から視線を逸らし、藤は彼に気付かれないように小さく眉根を寄せる。

(髭切、大丈夫かな……)

 じわりと、嫌な胸騒ぎを覚える。
 けれども、今はそれすらも見ないふりをして、彼女は彼らを見送るしかなかった。
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