本編第一部(完結済み)

 ふと目を開くと、曖昧な靄がかかった暗闇が続いていた。灯りもないはずなのに、何故か自分の体はよく見える。まるで、自分自身が光っているかのようだ。

(体……?)

 改めて、そこにある己という存在に目を通す。けれども、そこには今まで目にしてきた体というものとは違うものがあった。
 掌は自分のものより小さい。足が常より近く見えるのは、恐らく体が小さくなっている証拠だ。これではまるで、女子供のようではないか。

(違う。僕は、こんな姿をしていなかった)

 靄がかかった世界の中で、彼は頭を何度か横に振る。ここに至るまでの記憶を、彼はゆっくりと辿っていく。
 真っ白な光。真っ赤な血。耳に響いた怒号。自分の目の前に立った藤色の目。

(僕は、刀剣男士で名前は──たしか、名前は)

 声にならない声でそこまで口にして、しかし彼の思考は止まる。名前のことを考えると、沢山の呼び声で頭が埋め尽くされるような奇妙な感覚に襲われる。そこだけ墨で塗りつぶされたかのように、はたまた何重もの字が上から塗り替えるように書かれたかのように。

(僕の、名前は)

 名のことを考えれば考えるほど、体の輪郭がぼやけていくようだった。彼は思考をやめて、改めて己の体を見つめようとする。
 けれども、彼の思惑とは反対に体はどんどん先へと歩いて行ってしまう。まるで体の主導権は別の誰かが握っているかのようだ。

(ねえ。一体どこに行くの)

 体の持ち主に話しかけても、まるで聞こえないように足が止まることはなかった。
 靄の中を走って行くと、やがて周りの景色にも輪郭ができあがる。装飾のない柱。板張りとは違う継ぎ目のない平らな廊下。四角い枠から見える灰色の空。
 随分と馴染みが薄く感じられる様式だが、ここは建物の中らしい。だが、世界から色が抜け落ちたように、視界は黒と白と灰色で作られていた。
 おそらくは廊下と思われる場所を、迷うこと無く歩いて行く。何個目かの曲がり角を曲がった先で、彼は人影を見つけた。
 この体の持ち主より少しばかり背の高い女性だ。馴染みのないゆったりとした服を着ているが、間違いないだろう。彼女を目にすると、体は真っ直ぐそちらに向かって突き進んだ。

「おばさん、今日も来てくれたの」

 自分が口にしようとしたわけではないが、不意をついて言葉が音となって口から滑り落ちる。耳にした声は、どこかで聞いたことがあるような気がした。
 何か心躍ることでもあったのだろうか。落ち着いて話せば少し低いトーンになると思われる声は、今はやや上ずって聞こえた。

「ええ。近所にとても美味しい洋菓子店ができたのよ。今日は皆にお裾分けしようって思ったの」
「本当!? この前食べた黄色いお菓子はある?」
「プリンのことかしら。残念、今日はプリンはないの。でも、タルトがあるわ」
「たるとって?」
「それは見てのお楽しみ。ほら、手を洗ってきなさい」

 女性に促されて、体の持ち主である少女は走って行く。背丈や受け答えから察するに、七つ八つの子供というわけではなさそうだが、大人であるとも思えない。
 足を早めて歩いた先では、水場のようなものがあった。新しい時代の井戸なのだろうか。灰色の世界でも妙に光って見えるからくりの取っ手を捻ると、キュッという甲高い音と共に水が涼しげな音をたてて流れ落ちる。

(へえ。随分便利なんだね。ねえ、君は誰?)

 呼びかけてみたところで、相変わらず返事はない。暫くは流れ落ちる水を見つめていたが、ふと気がつくと彼女の側に誰かが立っていることに気がついた。背丈は彼の体を借りている子供より少しばかり大きいようだが、子供であることには間違いないだろう。
 その誰かは、白黒の世界の中でも殊更に黒い染みのようにぼんやりとした輪郭をしており、人間の姿をしているのは確かなのに、何やら不吉な予感を覚えさせる。彼女の中にいる彼は警戒するように、心の中だけでも身構えた。

「おい、鬼女。宮下のおばさんって、もう来たのか?」

 最初は、その声がどこから生じたものかも定かではなかった。だが、よく耳を澄ませば自分の隣に生じたぼんやりとした人影から聞こえたのだと気がついた。
 妙にざらざらした濁った声のせいで、何を言っているのか理解するまで彼は数秒を要した。彼女もそうなのだろうか。暫く黙ってから、小さく頷いてみせた。

「そっか。じゃあまた何かみやげがあるんだな。チビどもに取られる前にキッチンに行こうっと」
「あっ、たるとっていうのは私が食べるんだから」
「なんだよ、鬼女。お前、タルトなんか食うのかよ。お前が食うのは、もっと違うもんだろ?」
「な、何、違うものって」
「俺、この前先生が話してるの聞いちゃったんだよな。お前って、前テレビでニュースになってた──」

 ざらざら。ざらざら。
 砂をかき混ぜたような音が不意に強く響く。そのせいで、人影が口にした言葉は彼の耳には届かなかった。
 少女は何も答えない。これは異音のせいではなく、彼女が何も口にしていないからだ。人影はまだざらざらとした濁りが混ざった音で、何かを話している。

「こら。女の子いじめちゃだめでしょう」

 不意に背後から聞こえたのは、先ほど声をかけた女性だ。彼女は出会ったときに見せていた笑顔を引っ込めて、真剣な面持ちで黒い人影と少女を見下ろしていた。

「ふんだ。こんな鬼女、女の子のうちにも入んねえだろ」
「あーちゃんのこと、鬼って呼ぶなっていつも言っているでしょう!」
「うるっさいなあ。鬼を鬼って呼んで何がいけねーんだよ!」

 激しい叱責に反感を覚えたのか、人影はくるっと背中を向けてどこかへと消えていった。

「ごめんね。鬼なんて言われて嫌でしょう。我慢して偉いわね」
「……うん。私、おやつ貰ってくる」

 女性は少女に微笑みかけたが、少女は浮かない声で彼女から目を逸らしてしまった。

 
 女性と別れて、彼女は廊下を走る。どこまで走っても終わりは無く、まるで永遠に続いているかのようにすら思えた。徐々に白黒の世界は灰色に移り変わり、ぐにゃりと輪郭が崩れていく。やがて最初にそうだったように、世界は黒一色に染まっていった。
 先が見えない道を、彼女は駆ける。目的地を目指すためではなく、まるで何かから逃げているかのように。
 やがて、白い四角いものが目に入る。そこからは、光が漏れ出ていた。
 ――あそこに行けば、きっと何かが見つかる。そんな予感めいたものも、彼は感じていた。
 彼女も同じことを思っているのだろうか。息を切らして少女は駆ける。ようやく辿り着いた四角いものは、扉の形をしていた。微かに開いているそこから光が漏れているのだ。

(開けてみてよ。何があるんだろう)

 好奇心に駆られて、声無き声で彼は呼びかける。聞こえたわけではないのだろうが、少女は扉についている取っ手を掴んで開こうとして、その場に足を止めた。
 
「どうにも難しい子で……何度言っても、なかなか分かってくれないようです……」
「仕方あるまい、環境が環境だった……から……」
 
 だが、扉を開けるより先に誰かの声が聞こえた。砂をかき回すような耳障りな音が混ざり合っているため、不明瞭ではあるが、こちらは大人の男の声のようだ。

「――可哀想に」

 不意に響いた声だけが、やけにはっきりと聞こえた。
 会話を止めるかのように、少女が扉の取っ手を捻り、開く。扉の向こうでは二つの人影が見える。
 彼らは何かを話しているのに、開くと同時に大きくなった不愉快な音のせいで会話は聞こえない。いつしか自分の耳の奥まで砂が混ざり込んだように、頭が耳障りな音で満たされていく。

(うるさいなあ、この音。こんな音が聞きたいわけじゃないのに)

 少女にも聞こえているのか、彼女も自分の耳を塞いで数度、頭を振る。

「そんな話、聞きたくない。聞きたくない……」

 彼と彼女の声が重なる。黒い世界が急速に霞んでいく。形の掴めない靄が彼女を包み、世界が彼らから遠くなっていく――。
 

 ***


「……?」

 ごく自然に瞼が開かれる。視界に飛び込んできたのは、柔らかな木目の天井だ。この景色は体を横たえる前に見たものだと理解し、先ほど見たものは何かと考える。

「白と黒の世界で、もやもやしたものがあって、それから」

 思わず見たものを口にしたが、答えてくれる者がいるわけでもない。まるで、この世ではないどこかを彷徨ったような奇妙な感覚だ。
 とはいえ、思考を巡らせてみても答えが出るわけではない。頭を振って彼はゆっくりと体を起こした。上体を起こし――そして眉根を顰める。自分についているこの腕、この足、この体というものに。何かを思考し、感じ取る存在そのものに。

「僕は……」

 自分が何なのかを問いかけるように口にして、そこで言葉が止まる。名前を紡ごうとした唇は、中途半端なまま固まってしまった。夢の中でもそうだったと、彼は思い返す。
 何かが足りない。何かが欠けている。己という存在そのものに対して、片腕が落ちているような欠落感。右手はあるのに左手がないような喪失感。あるべきものが存在していないという、一縷の寂寥感。
 加えて、自分を確立する名前すら容易に言い切れない。もし欠けている何かがあったなら、きっと名前もすぐに分かっていただろうにという、予感めいた直感が彼の頭をよぎる。
 思考の端に微かな苛立ちが募る。何故このようなことに心を振り回されなくてはいけないのかと、彼は無意識に眉根を寄せていた。

「…………」

 苛立ちを拭い去れないと判断した彼――髭切は、布団から抜け出して、ぎこちない所作で寝間着というものを脱いだ。続いて、普段着用にと渡された衣服に着替える。ただそれだけのことも、今はどういうわけかとても煩わしい。
 
 何故、肉を持った体があるのか。
 ――それは、自分が刀を振るうため。
 ならば、何故刀を振るうのか。
 ――それは、敵を斬るため。
 ならば――何故。
 そこで、思考は止まってしまった。


 「いったい、僕は何を気にしているんだろうね」

 そもそも、刀の自分が何かを気にするということの方がおかしい。昨晩一人になってからも、じりじりと胸の奥を焦げ付かせるような不愉快な感覚があった。まるで泥のように胸の奥にこびりつき、断ち切ることができないものだ。

「ま、細かいことはどうでもいいよね」

 己の感情そのものを切り捨てるように、彼は内側から沸き立つものを『どうでもいい』ものとした。そうやって口にすることで、少しばかり気が楽になったようにすら思える。
 諸々の煩わしさは尾を引きずるように残ってはいたが、彼は着替えを終えて自室を後にした。



 昨晩の案内にあった、食事という行動を行う場所に向けて彼は歩を進めた。お腹の底が空になったような、地に足がついていないような感覚は奇妙なものだった。これが案内人の刀剣男士たちが話していた『空腹』というものだろうか。
 一歩一歩廊下を歩いて行くという行為にも、ぎこちなさは残っている。まるで、足という存在の機能を確かめているかのような動きだった。
 普通の人よりも、幾分かゆっくりとした足取りで髭切が歩いていると、曲がり角に影がさしたことに気がつく。誰かと思いきや、続いて朝焼け色の髪が目に留まる。そこにいたのは、昨日髭切が斬り伏せようとした鬼だった。

「おはよう、髭切。よく眠れた?」

 何気なく名を呼ばれて、髭切は微かに目を見開く。起き抜けに見失っていた自分の存在を、名前を呼ばれることで少しだけ見つけられたように思えた。
 髭切の心など知ることも無く、加えて言うなら自分に斬りかかった相手に対して、何ら確執を感じさせることもなく、主である人物は髭切に問いかける。頬に張られた絆創膏と首の包帯の白が、鮮やかと同時に痛々しさを見る者に感じさせていた。
 けれども傷つけた当の本人である髭切は、気に病む様子も見せずに、ぎこちなく彼女に笑いかける。

「眠るって何だか不思議なことだね。体を横にして目を瞑っているだけなのに、変なものを見るんだから」
「変なもの?」
「靄がかかった場所とか、白と黒しかないような景色とか――あれは何なんだろうね」
「それはきっと夢だよ」

 夢という聞き慣れない単語に、髭切は首を傾げる。

「夢っていうのは、自分の記憶や感じたものを体験すること。寝ている時に見ていて、起きたら忘れてしまっているということもあるんだよ」
「でも、僕にとっては見覚えのない場所だったよ」
「それでも、君にとっては何かの縁のあるものだったんじゃないかな」

 主はそう言うものの、髭切としては納得のできないものであった。ならば目の前の人物はどうなのかと、彼の中で疑問が芽生える。

「主も夢を見るの?」
「そうだね。昔のこととか、他にも色々」

 彼女は口元に微かな弧を浮かべ、笑ってみせた。詳しく聞こうと髭切が口を開きかけ――しかし、声は喉から出ることはなかった。

(……なんだろう)

 まるで質問をすることを、心のどこかで避けているような、妙な感情が彼の言葉を止めている。どこから生み出されたかも分からない不可解な気持ちだ。その出所を辿る気は今の髭切にはない。

(まあ、どうでもいいことだよね)

 何かを気にするということそのものが、今の彼にとってはとても煩わしいもののように思えていた。故に、これ以上の思索を続けようとはせず、彼は主との会話を打ち切って歩行を再開する。後ろを主がついてきているが、彼――或いは彼女も、それ以上髭切に何か言おうとはしなかった。
 朝の陽光を障子の隙間から浴びながらも、奇妙な沈黙が二人の間を流れる。互いに何も語らず、干渉もしない。だからこそ心地よいとすら思えたひとときは、程なくして破られた。

「主、そろそろ朝ご飯が……ああ、きみも起きたのか」
「歌仙、おはよう」

 廊下の反対側からやってきたすみれ色の髪の青年――歌仙兼定は、主を見つけて笑顔の花を咲かせる。しかし髭切を目にした瞬間、彼の顔には明らかに渋いものがよぎった。

「髭切の分もできているよ。早く来るといい」

 努めて主と同じように声をかけようとしているのだろうが、髭切に声をかけた時に漂った剣呑さは隠しきれるものではなかったようだ。
 息をするのが妙に苦しくなっていくことに髭切は気がつかされる。まるで腹の底に石でも入れられたようだ。食事の話をされても、喉というものはまるで食べる機能などないかのように強張っている。

 ――何で体などというものがあるのだろう。

 今日が始まって一時間と経たないうちに、髭切は再び答えのない問いを繰り返した。


 ***


「箸の使い方は分かるかい」
「うん」
「嫌いな味のものはありますか」
「ううん、ないよ」
「熱いものを食べるときは……ふうーって冷ますと、いいんですよ」
「ありがとう。気をつけるよ」

 朝食として用意されたものを食べている髭切に、本丸の先達である刀剣男士たちが声をかける。しかし、彼らと髭切の目が合うことは決してない。正確には少しだけ合うのだが、すぐに視線ははずれていく。
 昨晩のやり取りがまだ尾を引いているのは、いくら顕現したての彼でも理解はしていた。表面上は穏やかなのに、致命的な溝が彼らと自分の間にあることは分かってる。その溝が簡単に埋まるものでもないということも。
 当事者の一人である主は、昨晩のやり取りで全て解決したと思っているかのように黙々と味噌汁を飲んでいた。嫌でも目に入る主の絆創膏と包帯を見て、髭切はほんの僅かに目を伏せる。
 主を斬ったことが確かに良いとは言えないことだとは、今の髭切には分かっている。
 ――しかし、それでも。
 それ以上何かを考えると、胸の奥にある石がより重くなるようだった。
 だから、彼は考えることをやめる。どうでもいいことだと、思考そのものを切り捨てる。柔らかな微笑を浮かべて、当たり障りのない返事をする。たとえ、口にしているものの味がちっとも分からなかったとしても。
 だが、髭切が何を考えていたとしても、考えていなかったとしても、そのことが歌仙たちに伝わるわけではない。まして、音をたてて亀裂が入ったような緊張が改善されるわけでもなかった。ゆえに歌仙が口火を切ったのは、必定ともいえた。

「……昨日は色々とあったけれど、主はあれで終わりにすると言っている。僕としても、いつまでもこんな状態じゃ良くないと思っているところだ」

 物吉と五虎退の視線が、歌仙に集中する。髭切も笑みを消して、彼の横顔を見つめていた。視線を料理に向けているのは、主である藤だけだった。

「物吉も五虎退も――無論、僕もだけれど、昨日のことをすぐに許すというわけにはいかないだろう。けれど、禍根を後に残すような真似はしたくない。髭切もこの本丸の刀剣男士なのだから、良い関係を築きたいと考えている」

 皆の注目を浴びて気恥ずかしいのか、ごほんと咳払いを一つしてから歌仙は続ける。

「主もそれを、望んでいるようだったからね。色々と戸惑うことも多いだろうが、改めてよろしく、髭切」

 歌仙の翡翠色の瞳を向けられ、髭切は穏やかに微笑んでみせた。喉の奥に何かが刺さったような不愉快な感覚は抜けなくても、笑顔ぐらいなら見せることができる。腹の底でざわめくものを無視して、彼はゆっくりと頷いた。

「ありがとう」

 その笑顔は、奇しくも昨晩主が見せたものにそっくりだった。


 ***


 じんわりと暑気を帯びた風が、本丸の中を吹き抜けていく。己の体の横を通り過ぎていく空気の動きに、髭切は微かに目を眇めた。
 夜の間に本丸の案内はしてもらっていたが、昼間に見るとまた違った趣が感じられる。今もこうして特にあてもなくうろうろしているが、暇を潰すには十分だった。
 鍛錬のために手合わせをしているらしく、物吉と五虎退の威勢のいいかけ声が道場から聞こえる。抜けるような青い空には、絵に描いたような白い雲が連なっていた。障子を開けば、じゃわじゃわと五月蠅い音が耳に飛び込む。これは蝉という虫が鳴いている声だと、主は教えてくれた。
 肌を伝うしょっぱい水は汗。体にこもった熱が不愉快に感じるのは暑さと表現する。そして今は夏で、当世の暦では七月と表す。
 そんなことも、全て主が教えてくれた。歌仙が部屋に持ち込んできた書籍を読めば、この程度のことはすぐに分かるらしい。
 もとより人に作られ、人と共にあった身だ。はっきりとした記憶がなくても、からだが覚えている。

(それなら、このもやもやした気持ちも主に尋ねたら教えてくれるのだろうか)

 朝食を食べても胸中には沈み込んだ石のような、言葉にならない靄が残っている。これが人の身には当たり前のことだというのなら、主に尋ねれば何か分かるだろうか。
 本丸の中を彷徨っていた髭切は、主を見つけるという当面の目標を定めて更に歩みを進めた。程なくして彼は、縁側の片隅に、朝も見かけた朝焼けの空と同じ色の髪を見つけることができた。

「主。ちょっと尋ねたいことがあるのだけど」

 そこまで言って、彼は言葉を切る。主の隣には歌仙がいたからだ。二人は二つのざるを挟んで縁側に腰掛けている。ざるに入っている実についている糸のようなものを、手ずから取っているようだった。

「どうしたの。もしかして迷子?」

 髭切の声に反応して、主は顔を上げる。その間にも、休むこと無く手は動き続けている。
 ほんの数分前に髭切の中に浮かび上がっていた疑問は、しかし歌仙を前にすると、口にするのも憚られるように思われた。
 ――彼には聞かせたくない。
 朝のときとは異なる苛立ちが、泡のように浮かび上がる。

「何をしているの?」

 続いて口に出した言葉は、予定していたものとは随分異なるものになった。彼の思いなどつゆ知らず、主は片方のざるを髭切に見せた。

「さやえんどうの筋取り。暇ならやってみる?」
「筋を取ると、どうなるの?」
「筋は硬くて美味しくないから取ってるんだよ。筋を取らないと、主が五月蠅くてね」

 横から歌仙の説明が入る。食事というものに馴染みが持てていない髭切には、今ひとつ理解しかねる内容ではあったが、ともかく頷いてみせた。
 主が体を横にずらして、髭切が座れる分の空間を作る。今度はざるを挟んで、髭切が歌仙の隣に腰掛けることになった。しばしの沈黙を挟んでから、口を開いたのは歌仙だった。

「明日からだけれど、君も何か本丸の仕事を手伝ってもらおうと思っているんだ。何かやりたいことはあるかい」
「それは、どんなものがあるの」

 歌仙が振った話題は、今までの確執に触れるものではなかった。そのおかげだろうか。髭切もすぐに返事をすることができた。

「主なものは掃除だね。それに炊事、洗濯、諸々の雑用。あとは、畑仕事もかな。今は人数が少ないからある程度は自主的にしている所も多いけれど、一人がまとめて一つのことをした方が効率がいいだろう」
「あ。畑仕事は僕がやるから気にしなくていいよ」

 横から主が口を挟む。だが歌仙は途端に眦をつり上げて、

「怪我もまだ治りきっていないんだから、暫くは畑仕事はするんじゃないよ。怪我そのものより、怪我から入った病で死に至ることもあるそうじゃないか」

 ぴしゃりと言い返されてしまい、主は小さく唇を尖らせる。首を縦に振ってはいるが、不承不承であることは明らかだった。

「それなら、僕がその畑仕事とやらをしようか?」
「そうだね。主の怪我が治るまででもいいから、やってくれるかな」
「構わないよ。これを極めれば、また名前が」

 そこまで言いかけて、不意に主が「あっ」と声を発する。突然漏らされた声に、彼らの目線が自然とそちらに向けられる。

「そういえば、名乗ってなかったね。僕は皆には藤って呼ばれてる」
「……呼ばれてる?」
「審神者になるとき、本名は隠しておいた方がいいって言われたから。そういうお約束みたいなものらしいよ」

 主改め藤は何気ない調子で話をしていたが、髭切の内側で何かがざわりと蠢いた。
 ――呼ばれている。
 ただそれだけの言葉だけで、夢の中のことを彼に呼び起こす。名を思い出そうにも、あまりに多くの声が重なって自分すら見えなくなるような感覚。その中でも、存在を確かにしてくれる片腕のようなものが、今はいないという欠落感。

「髭切。どこか具合が悪いの」

 不意に髭切が黙り込んだからか、藤が心配そうに尋ねた。微かに頭を振って、彼は夢のことは振り払う。

「藤と言うんだね。鬼の藤。それが今代の僕の主」

 主の名を確かめるように髭切が何気なく発した言葉。
 しかし、それを聞いた瞬間、主はゆっくりと目を見開いた。ぽとりと、その手からさやえんどうが滑り落ちる。いったいその挙動にどんな意味があったのか、と髭切が問いかける前に、

「あまり、主のことを鬼と呼ばないでくれるかな」

 不機嫌さを隠しきれていない歌仙の声が、割って入る。

「どうして。だって主は鬼なんだろう」
「ただ見た目が少しばかり、似ているというだけだよ。そんな風に呼ばれて良い気持ちになる人はいないだろう」

 ――鬼なんて言われて、嫌でしょう。

 不意に、夢の中で話しかけてきた女性の声が蘇る。あのとき、髭切が宿っていた体の持ち主は頷いていた。ならば、ここで頷くのが人としては正しいことなのだろうか。いや、きっと正しいことなのだろう。

「そうなんだね。気をつけるよ」

 夢の中の声に押されるようにして、髭切はゆっくりと首を縦に振った。
 藤は髭切から目を逸らし、落ちたさやえんどうを拾い上げていた。彼女の前髪に隠されて、その表情を伺うことはできない。だというのに、何故か髭切の奥に薄い刃を差し込まれたような痛みが、鈍く走る。その意味を考えるよりも先に、藤の声が思索から彼を引き上げた。

「……歌仙。えんどうの筋とれたから、ご飯の続き作ってきたら?」
「そうだね。じゃあ二人とも、僕はこれで」

 藤に促され、歌仙はその場を後にした。残されたのは、昨晩の大立ち回りの当事者二人だけだった。
 ざあっと木々の揺れる音が響く。少し湿り気を帯びた風につられて顔を上げれば、いつのまにか太陽は陰り、辺りが暗くなっていた。心なしか、木々をざわつかせる風の中にも湿り気を帯びているようだった。

「髭切。僕に何か訊きたいことがあるんじゃなかったの」

 何気なく外に目をやっていた髭切は、不意に主に話しかけられて視線を彼女に向ける。昨晩会ったときと異なり、額にあった小さな角は鉢巻きのように巻いた布で隠されていた。変わることのない藤色の目は出会ったときよりは幾分か光が宿っていたが、それでもまだ陰りが残っているように髭切には見える。
 だが今は、主の観察よりも主の問いに答えるのが先だった。

「うん。ちょっと朝から、この辺りが重い気がするんだ。人の身体ってそういうものなのかい」

 髭切は自分の胸から腹部にかけてを指しながら、何故か歌仙の前では訊くことが憚られると思っていたことを口にする。彼がいなくなったのなら、この問いも不思議と容易く口にすることができた。
 問われた藤の方は、小首を傾げて髭切の顔と彼が指す位置を見比べている。

「胃腸の調子が悪いのかな。きりきり痛んだりとか、吐きそうになったりとかはしていないの」
「そういうわけじゃないよ。ああ、でも喉の奥がつっかえた感じは少しするね」
「ううん……僕じゃよく分からないな。刀剣男士の医者っているのかな」

 藤は口元に手を当てて真剣そうに考え込む。彼女があまりに深刻な顔で悩むので、髭切としては逆にそこまで考え込まなくても、と思ったほどだった。

「そんなに大した問題じゃないなら、気にしなくていいよ。ほら、細かいことなんてどうでもいいよね」
「……何日も経ってもまだ治らないなら、ちゃんと言ってね」

 藤に窘められて、髭切は首を縦に振る。
 ひゅうとひときわ強く風が吹いたとき、髭切の頬を何か濡れたものが掠めた。誘われるように外に目をやると、点々と石畳に黒く濡れた染みが落ちる。どうやら、雨が降ってきたようだ。
 藤と髭切が外を見ている間にも、濡れた場所はあっという間に広がる。絵に描いたような土砂降りが、夏の賑やかな庭にひとときの静けさをもたらしていた。

「あのさ、髭切。歌仙が言ってたことなんだけど」

 庭を眺めながら、彼女はぽつりぽつりと言葉を漏らす。慎重に耳を傾けなければ激しい雨音にかき消されそうな、微かな囁きだった。

「馴染みにくいと思うのなら、無理に馴染まなくてもいいよ」

 不意に告げられた言葉はあまりに唐突すぎて、髭切にはすぐに理解できるものではなかった。どういうことかと続く言葉を待っていると、

「歌仙は本丸のためにああ言ってくれているんだろうし、仲良くしてくれると色々と順調に物事は回るのかもしれない。でも」

 主は髭切に真っ直ぐ視線を向けて、告げる。

「昨日のこともあったし、無理に仲良くしろとは言わないから」

 聞き方によっては、突き放すような冷たい言い方にも聞こえる。だが彼女が言外に滲ませた意味は違うと髭切はようやく分かった。
 ぎくしゃくした状態から始まった関係を、無理に丸く収める必要がない。彼女の瞳はそう語っているように見えた。
 彼は、答えない。
 素直に頷くべきなのか、そんなことはできないと首を横に振るべきか、それすらも今の彼には選択できない。
 ただ、朝から内側にあった重石は、少し軽くなった気がした。

「なんて言ったらいいのかはよく分からないんだけど、主が言ったことは覚えておく。今は、それでいいかな」
「うん。何だか、来て早々ごたごたしててごめんね」
「いいよ。細かいことは」
「どうでもいい?」

 今日何度目になるか分からない口癖のような言葉は、早速主にかすめ取られてしまった。藤は歌うように数度、「どうでもいい」と口ずさむ。目を伏せ、指を組み合わせ、口ずさむ。その姿は、どこか起きた所の自分を思わせるものであり、夢の中の少女を思わせるものだった。
 ふと髭切の脳裏に、ある可能性が掠める。あの見たことのない景色が己の想像の産物でないのなら、もしかしたらあの夢は目の前の人物に関係があるのかもしれない。鬼女と呼ばれていたのも、それなら合点がいく。

「ねえ。主は――」

 髭切が夢について尋ねようとしたとき、とんとんという軽い足音が響いた。続いて、小さな影の持ち主が二人の目の前に現れる。

「あるじさま、雨、すごいです!」
「さっきゴロゴロって音がしたんですよ。あれが雷ですか、主様」

 姿を見せたのは、白の上衣に紺の袴を履いた物吉と五虎退だった。二人とも少し雨に降られたのか、肩のあたりがじっとりと濡れているのが見てとれる。

「雷も鳴ってるんだね。じゃあ本格的な夕立ってことかな。まだ昼前だけど」

 藤は物吉の質問に返事をした後、自らも雷を探すように空を見上げる。あいにくと言うべきか、雲間を走る雷光は藤の目に留まることもなかった。

「僕、虎くんたちとお風呂の準備してきます。汗を、かいてしまったので」
「そうするといいよ」
「虎?」

 不意に耳に入った聞きなれない単語に、髭切は反射的な問いを投げる。

「五虎退には五匹の虎の子が一緒に顕現してるんだよ。五虎退と一緒に行けば、見つかるんじゃないかな」
「……そうだね」

 髭切は少し迷い、しかし頷くことにした。どのみち、このまま藤に夢の話を持ちかけることは難しそうだ。それに純粋に虎も気になる。己という存在の内側が、虎という言葉を聞いた時、微かな反応を見せた。自分自身の琴線に触れるものなら関わっても損はないだろう。

「じゃあ、一緒に行こうかな」

 五虎退は少しばかり困った顔を見せたが、緩やかに首を縦に振った。


 起き抜けに主とそうしたように、髭切は今度も五虎退との間に沈黙を保ちながら廊下を歩いていた。だが、あの時と違うのはその沈黙が硬いものだということだ。
 何かを言おうと思ってはいるが、口になかなかできない。五虎退から漂う気配は雄弁に彼の思いを伝えていた。それでも、やがて耐えかねたように足を止めて、少年は恐る恐る口を開くことを選んだ。

「あ、あの」
「どうかしたの?」
「ぼ、僕も、歌仙さんが言うみたいに、あなたのことは……もう、怒らないように、頑張ります」

 昨夜のことであるというのは、わざわざ確認するまでもない。髭切は小さく頷いてみせる――が、喉の奥のつっかえが少し大きくなった気がした。

「だ、だから、あなたも、あるじさまに怪我をさせたり、ひどいことは、言わないでください」
「うん。もう、そんなことをするつもりはないよ」
「あるじさまのことも、びっくりさせないで、ください。あるじさま、きっと斬られて、驚いて、だからすごく、悲しそうな顔をしてたから……」
「…………」

 髭切は微かに顎先を上下に動かしたが、声に出して肯定はしなかった。
 彼女が顔を曇らせたのは、斬られた直後ではない。その後のやり取りの後だ。寧ろ斬った本人だからこそ、彼は断言できる。
 けれども、それを言ったところでこの少年は肯定しないだろうということも、髭切には薄っすら分かっていた。
 おどおどした口調に隠れて見える、確固たる意志。物怖じするものかとこちらを見つめる瞳は、身長差や体格差はあれど己と何ら変わるものではない。故に、一つ二つ言葉をかけたところで、考えを曲げることもないだろう。

(まあ、どうでもいいよね)

 まるで何かの呪いのように、髭切は心の中で呟く。内側に溜まる考えの渦を、この言葉を呟けば鎮められるような気がした。

「僕が、言いたいのは、それだけです。これから、よろしくお願い……します」
「うん。よろしく」

 言いつつ、髭切は薄く唇を噛む。ただ挨拶をしているだけなのに、何故頭の奥がジリジリと焼けるように痛むのか。何故こんなにも、胸の奥が重いのか。
 具合が悪いのかと藤には問われたが、そういうわけではないと髭切は理解していた。
 それでも、笑うことはできる。
 緩く弧を描く笑みを、口元に浮かべることならできる。
 その笑顔を見ると、五虎退は安心したようにパッと顔を輝かせた。ならば、笑ったことにきっと意味はあったのだろう。

「……そうだ。五虎退、君は主について詳しいのかな」
「は、はい。ぼくは、二振り目に顕現したんです」

 胸を張る少年に、ならばと髭切は主に問えなかったことを尋ねようと思う。

「主の昔の頃のこととか、分かるかな」

 髭切にとっては、何気ない質問だった。けれども、五虎退はその白い顔に明らかな狼狽を見せた。
 詳しいとは言っても、彼は顕現してから二ヶ月程度の時を共に過ごしただけで、主の何もかもを知っているわけではない。そのことが、何気ない問いによって明るみに出たからこその狼狽だったのだが、髭切に五虎退の気持ちがわかるわけもない。

「知らないならいいんだ。そうだ。そもそも主ってどっちなんだろう」

 縁側に座っている藤と、夢の中にいた少女が同一なら前提として、問わねばならないことが髭切にはあった。

「どっちって、何がですか?」
「男の人か女の人か」
「女の人です、間違えちゃだめです!」

 急に食いつくように五虎退に言われて、髭切は目を丸くする。

「あるじさまは、女性の方です。間違えちゃ……だめ、です」
「う、うん」

 五虎退と主の間に性別の勘違いについて、一悶着があったことを髭切は知らない。藤自身も明確に五虎退と諍いを起こしたわけではないが、少年の心に何も残さないわけではなかった。

(そうか。女性……。それなら、勘違いというわけじゃないかもしれない)

 五虎退の思いはわからずとも、自分の予想が正しいのではないかという推測はできる。髭切は納得したように小さく頷いた。
 気を取り直したように、五虎退は一つ息を吐いてからある部屋の前で足を止める。

「あ、虎くんたちは多分この辺りに……虎くーん」

 彼が部屋の障子をカラカラと開くと、そこには白いふわふわした塊が部屋の隅に小さくなって集まっていた。何匹そこにいるのかもわからない。まるで毛の生えた白い団子である。

「雷の音、怖かったんでしょうか。だ、大丈夫ですよ」

 五虎退が近づくと、毛玉は解けてバラバラと五匹の虎の子に変わった。その中の二匹が新参者の髭切に近寄りふんふんと鼻をひくつかせる。
 彼らの様子を見ていると、ふと暖かいものが内側から込み上げてくる。今はその暖かさに心を任せ、髭切は近寄ってくる虎の子にそっと手を伸ばした。


 雨どいから流れ落ちている雨は、まるで滝のようだ。その上から下へと落ちる水の流れを、藤と彼女の隣に座った物吉が見つめている。ただ見るともなしに雨降る庭を眺めていた二人の沈黙は、少年の声で破られた。

「……少し、安心したんです」
「物吉?」
「主様のこと、みんなが何も気にしないでいてくれたことに」

 物吉の視線が藤の額をさまよう。そこはいつものように薄紫の布が鉢巻のように巻かれていたが、その下に何があるのかは物吉だけでなく、この本丸の誰であってももう知っていた。

「あの時もこんな風に、雨が降ってましたね」
「……そうだね」

 物吉が話していることが、二人で山を散策しに行ったことだというのはわざわざ確かめるまでもない事実だった。
 故に、藤は肯定だけをする。

「ボクは主様の隠してるものをみんなが知っても大丈夫だって、信じたかった。でも、どこかでもしかしたらって思っていました」

 藤は黙って物吉の言葉の続きを待つ。彼に向けられる視線は、物吉には優しげなものに見えた。

「でも、やっぱり大丈夫でした。ちょっと色々ありましたけど、でも髭切さんもきっとすぐに」
「そうだね。……物吉のおかげかな」
「え?」
「ほら。幸運を運んでくれるんでしょう」

 藤は何気なく物吉の口癖を言葉にしたが、物吉は首をゆるゆると横に振って否定の意を見せた。首を傾げる彼女に、幸せを運ぶ逸話を課せられた少年は、くすりと笑みを零す。

「主様が言ってくれたんですよ。ボクは幸運を運ぶというよりは、ボクが幸運を教えるんだって」
「――ああ。うん、そうだったね」
「そのボクが、今の主様は幸運だって教えてあげます」

 いまいち合点がいかないという顔を見せる藤に、物吉は雲間に隠れた太陽の代わりのような明るい笑顔を向けた。

「だってほら。主様に悲しい思いをさせたい人は、この本丸にはいません。歌仙さんも、五虎退も、それに……髭切さんもきっと、主様に悲しい思いはさせたくないはずです。それってきっと、とても幸運なことだと思います!」
「……そうだね。本丸に来る人を審神者は選べない。君たちみたいな良い人に巡り会えたのは、きっと幸運なんだろうね」

 物吉の笑顔に誘われるように、藤も笑みを見せる。口元に薄く弧を描く笑みは、物吉がいつも見ている主の笑顔だった。

「でも、ただ幸運なだけじゃないとボクは思います。だってボクらは主様が主様だから、主様の見た目が少し……違うところがあっても、気にすることじゃないって、そう思えたんです」
「僕が、僕だから?」
「はい。主様の幸せは主様自身が掴んだものなんですよ」

 藤は微かに目を細め、静かに物吉から目を逸らした。その仕草は、まるで物吉から受け取った言葉を受け取って感慨に耽っているようにも見えた。
 だから物吉は、彼女の顔を無理に見ようとはせずに、空を見上げることにする。黒々とした雷雲の隙間からは、まるで幸運を祝福するかのような小さな光が垣間見えた。

「――君には、幸せに見えるんだろうね」

 空を見上げる物吉に聞こえないように、極限まで絞られた声は彼の耳に届くことはなかった。
 雨はいつの間にか、あがっていた。黒い雨雲を押しのけるように、夏の日差しが濡れた庭をきらきらと輝かせていた。
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