短編置き場

 雨が天井を叩く音で、ふっと目が覚める。
 パタパタ。パタパタ。リズムよく落ちる雨雫は、私の眼を覚ますには十分すぎた。
 昨日起きるのが遅かったせいもあって、私のまぶたの上にやってきた眠気たちは、早々にどこかに行ってしまったらしい。残されたのは、真夜中にもかかわらず眠れない哀れな私だけだ。

「……お水でも飲もう」

 誰に聞かせるまでもなく、私はゆるゆると立ち上がって部屋を出る。言葉にした通り、水でも飲んで一息入れようと思ったのだ。
 どうせ眠るには時間がかかる。ついでに何かつまみ食いしようと、私は真っ暗な廊下を行く。
 申し訳程度に部屋から漏れる間接照明で照らされた廊下は、妙な風情を醸し出している。なるべく寝てる人を起こすまいと足音を立てないように歩いていたとき。
 私の耳はよせばいいのにギシギシという、はっきりと誰かが来る音を拾っていた。

「ひっ」

 小さく悲鳴をあげたのは、人として反射的な反応としては当然だろう。私はお化けはそこまで信じていないが、それでも怖いものは怖い。
 ギシギシ。ギシギシ。足音はだんだん近づいてくる。
 思わず生唾をごくりと飲んで、私はぼんやりとした闇から見える人影に目を凝らした。
 徐々にくっきりとする輪郭、そして灯りに照らされた横顔を見て、私は肩から力を抜いて思わず息を吐き出した。

「主。こんな時間に何をしているの」
「髭切こそ。そんなお化けみたいな登場しないでよ」
「そんなに変だったかな?」

 髭切は片手に水差しを持ってそこに立っていた。
 別に変なところはなく、私は彼に言いがかりをつけた形になるが、怖かったのは確かなんだから今は我慢してもらう。

「ちょっと眠れなくて、厨でお水でも飲もうかと思って」
「奇遇だね。僕もそのつもりだったよ」

 髭切は水差しを僕に見せるように少し持ち上げてみせる。

「こんな所で立ち話というのも何だから、良かったら僕の部屋に来る? 弟が遠征でいないから、久しぶりに一人なんだよね」
「ああ、そうだったね」

 弟の膝丸が来てから、彼は弟の部屋を自分の部屋と兼用にして一緒にいることが多かった。
 人間ではない彼らも、相部屋の兄弟がいないと寂しいということもあるのだろうか。特に断る理由もなく、すぐに私は首を縦に振った。


 髭切の本来の部屋は、畑につながる縁側が近い。だから、私の部屋よりも雨の音も近く感じる気がした。
 彼の部屋にお邪魔した私は、いそいそと廊下につながる障子を開く。途端、雨の音が大きくなった。
 縁側は雨戸を下ろしているので、期待していたように夜の庭は見ることができない。でも、普段は目にできない人の部屋から見る光景というのはそれだけで面白いものだった。

「主は雨が好きなのかい」
「びしょ濡れになりたいわけじゃないけど、嫌いじゃないよ。雨のおかげで植物は元気になる。水がないよりはあった方がいいと思う」
「そうなんだね。僕は少し苦手かなあ」

 言いつつ、彼は私に湯飲みに入れた水を渡す。冷えた水を喉に流し込むと、ますます目が覚めてしまった。暫くはもう眠れないだろう。

「何で苦手なの?」
「何だか錆つきそうな気がするんだ。体が硬くなって、動けなくなって、誰の声も聞こえないし誰にも気付かれなくなっていくみたいな感じがするんだ。そんなことないとわかっているのにね」

 いつもみたいに髭切は笑っているのに、その笑顔はまるで自分の言葉を自分で茶化しているみたいで、なんだか悲しく見えた。
 私は、そんな彼の笑顔はあまり好きじゃない。
 廊下の近くにしゃがんだ私の隣を軽く叩いて座るように促した。大人しく腰を下ろした彼の頭を、私はポンポンと撫でる。彼の髪の毛は五虎退の虎みたいに柔らかくて、私は好きだ。

「もしかして、安心させようとしてる?」
「一応、そのつもり。僕がここにいるし、他の皆だっている。もし君が何も言えなくなっても、ちゃんと見つけるよ」
「うん。ありがとう」

 彼は安心したのか、もう一度私に笑ってみせる。その笑顔は、彼が安心していると分かる穏やかな笑顔だった。
 改めて、私は彼の部屋から廊下に響く雨音に耳をそばだててみる。雨戸を叩く天然のシャワーが降り注ぐ音は、屋根を叩く音よりもずっと強く響いていた。まるで太鼓の中にでも入ってるみたいに、バタバタと身体中に音が染み渡っていく。
 寝起きの時はうるさいと思った音も、誰かと聞けばいい音だと感じるなんて我ながら現金なものだ。気がつくと、隣にいる髭切も目を細めて音に聞き入っている。

「……っくしゅん」

 ただ、初夏の夜はまだ少し寒い。
 私は寝間着姿だったから、背筋を上る寒気に思わずくしゃみをしてしまった。
 
「寒い?」
「少しだけ。さすがに閉めた方がよさそうだね」

 私は障子を閉め直し、ずるずると座ったまますり足で部屋に戻る。立ち上がった髭切は部屋の中の箪笥をごそごそと漁り、上着を持って戻ってきた。彼がいつも内番で着ているジャケットだ。

「ほら。体を冷やして風邪をひくと歌仙に怒られるよ」
「髭切は和泉守みたいなこと言うんだね。僕が彼の部屋に夜遊びに行ってくしゃみしたら、彼も同じようなこと言ってたよ」
「……彼のところに、夜中に遊びに行ったの?」
「うん。堀川と物吉と、乱も混ざってトランプしたりしてね。三人が先に帰っちゃったから、夜通し彼の話に付き合ってたの。昔いた新撰組の話とか、元の主の話とか、なかなか人に話す機会を持てなかったみたいだから楽しそうに喋ってたよ」

 そんなこともあったなあと語っただけなのに、髭切は急に弟そっくりな真面目な顔になっていた。心なしか眉間に皺が寄っている。さっきまで楽しそうにしてたのに、急にご機嫌斜めになってしまったみたいだ。

「髭切?」
「主はなんというか、危機感がないよねえ。それに僕もつけこんでるわけだから、文句は言えた側じゃないんだろうけど」
「もしかして、馬鹿にしてる?」
「馬鹿にはしてないよ。主は無自覚だなあって困っているだけ」

 彼が何で機嫌を悪くしてるのか分からないので、私はちびちびと湯飲みの中の水を飲んで沈黙を誤魔化してみる。時間が解決してくれるかと思いきや、彼は私が湯飲みの中身を飲み干してもなお、何だか拗ねたような顔をしていた。

「髭切。僕が悪いことしたなら謝りたいから、何が悪かったか言って」
「うぅん……その聞き方も意地が悪い」

 珍しく彼を困らせてしまってるようで、私としても居心地が悪い。畳の上で正座している私は、何だか叱られている気分だった。対する髭切は私から顔をそらしてうんうんと悩んでいる。
 硬直状態が過ぎること数分。沈黙に耐えかねた私は、ずいと髭切に体を寄せる。

「どうしたの、主」
「寒くなってきたから近くに来たの。それに君がずっと黙ってるから、眠くなってきた」
「主はいつもマイペースだよね。ほら、じゃあこっち」

 髭切に彼の隣を示されて、私はそちらに移動する。見るものがあるわけでもないのに、隣に並んで座っているなんてちょっと奇妙な感じだ。

「それで、さっきからご機嫌斜めな理由は?」
「人の部屋まで来て、他の男と二人きりで過ごした夜の話を楽しそうにされたから」
「そうなんだ……ん?」

 間違ってはいないけれど、何だかやけにわざとらしい表現を使われた気がする。
 たしかに、他の男(そもそもこの本丸には私以外男しかいない)と夜に二人きりで楽しく過ごした話はしたけれど、それで髭切が怒る理由がわからない。
 いや、本当のことを言うと、可能性はちらりほらりと頭の端をよぎってはいる。でも、それはほら――考えすぎというやつで、私はその考えをすぐに頭の片隅に追いやった。

「主があまり自分に対して自覚ないというか、危機感がないのは仕方ないし、和泉守はそういう話とは縁遠そうだから油断しちゃうのはわかるけど」

 恐る恐る顔を上げると、彼がニコニコ笑いながらこちらを見ている。笑ってるだけなのに、何だか怖いと感じるのは何故だろう。

「男の人に夜中に部屋においでと言われて、ほいほいついて行くものじゃないよ?」
「えっと、それは、どういう」

 思わず後ろに下がろうとして、手が動かないことに気がつく。目線だけ下に下ろせば、彼の手が私の手をしっかりと抑えていた。それなりに力を込めても、ビクともしない。
 普段は手袋をつけているのに、寝るところだったからか彼は珍しく素手のままだった。そのせいだろうか。触れてる所が妙に熱く感じる。

「だから、こういうことされるかもしれないよってこと」

 驚いて仰け反るように彼から距離を置こうとしていた私の体が、彼の片腕だけでぐいと引き寄せられる。

「ひゃっ」

 思いがけなく髭切の顔が近づき、私は思わず目を瞑る。だけど、何も起こる気配はしない。恐る恐る目を開くと、

「うわっ」

 彼の顔が私の顔のすぐそばにあった。鼻先とか触れちゃいそう。睫毛は長いし、目も大きいし、美人だなあ――なんてことを考えて現実逃避をしてみるけれど、彼と至近距離で見つめ合っているという現実が変わるわけではない。

「えっと、こういうことされるって、どういうことかな……」
「どういうことだろうね」

 話しながらも、なんだか彼は楽しそうにしている。私の方は心臓がばくばくしていて、怖がってるのか緊張してるのかもよくわからない。顔が赤くなって、悲しいわけでもないのにちょっと泣きそうになる。
 それを見て、彼は気の毒かと思ったのか少し顔を離してくれた。

「これに懲りたら、ほいほい夜中に他の刀剣男士の部屋に行かないことだよ」
「わかった。わかったから、もう手を離していいよ」
「それはそれ。これはこれ」
「ええっ」

 不服そうに声を上げても、彼は私の腕を掴んだまま宣言通り離そうとしない。片手は相変わらず塞がれてる。
 その気になれば大暴れすれば良いのだけど、不思議と私はそこまで嫌なわけじゃなかった。だからこの中途半端な姿勢のままで居続けた。けれども視線をどこにやっていいか分からなくて、私の目はどんどん彼から逸らされて明後日の方向を見ていく。
 そんな奇妙な姿勢をとること、数分。髭切は私から手を離したかと思いきや、今度はへたりこんだ私の頭を撫で始めた。さっきのお返しみたいに、優しい手つきだった。
 ただ、妙に落ち着かない気持ちになっていく。指先で髪の毛を弄んでるみたいで、本当にそれだけなのに、背筋にむず痒い何かが上ってくる。

「主。髪の毛少し伸びた?」
「かもしれない……」

 他愛のない話を急に振られても、答えられる余裕が今は一ミリもない。私は目をぎゅっと瞑って蚊の鳴くような声で返事をした。
 不意に前髪がぐいとかきあげられ、額に柔らかで、でも少しだけ湿った感触が掠める。それでも私は目を瞑ったままでいた。何だか怖いようで恥ずかしいようで、目を開けることもできない。
 じっとしていると、また嘘のように静寂が訪れる。気づけば前髪も下されていて、もう離れてもいいかなと思った時。
 私の唇に柔らかい感触が、ふに、と押し付けられた。
 思わずその場に飛び上がりそうになった。当然、目だってばっちり開いてしまう。

「な、ちょっと、今、何を」
「うん? ちょっとからかってみただけだよ」

 髭切はいつのまにか私を抑えていた手を離して、指で狐を作っていた。ぱくぱくと口の部分を動かして見せた後、彼はその狐でコツンと私の額を小突く。その感触は、丁度さっき私の唇を掠めた感触によく似ていた。

「……もしかして、ただ指で抑えただけってこと?」
「さあ。どうだろうね?」

 ねー、と指で作った狐と顔を見合わせる髭切に、私は彼が言うようにからかわれただけど気がつく。
 ほんの数秒間だけの思い違いをしてしまっただけなのに、顔どころか耳まで赤くなってしまった。今だってからかわれた怒りよりも、行き場のないむず痒い感情がぐるぐると私の中を巡っている。
 彼から距離を置いて深呼吸したいのに、まるで腰が抜けたみたいに力が入らない。だから私は、相変わらず彼と向き合ったままだった。でも、体は動かなくても私の口は達者に動いていく。

「意地悪された。ひどい」
「嫌だった?」
「嫌じゃ、ない。でも、ひどい」

 言葉がまとまらなくて、まるで子供みたいな返事をしてしまう。思考がショートしてしまったみたいで、髭切と顔を合わすこともできなくて、視線はどんどん下を向いてしまう。だから、私は彼がどんな顔で問いかけているのかも分からなかった。

「ごめんごめん。ほら、機嫌なおして」

 ポンポンとまた彼は私の頭を撫でる。急に距離を詰められたかと思ったら今度は子供扱いされて、これでは彼が何をしたいのかすらも分からない。
 意を決して顔を上げると、目を細めた髭切と目が合う。その顔がびっくりするぐらい優しげなものに見えて、急にさっきのことを思い出して、顔はまた赤くなるし、でも何だか泣きたくなるし、もう何が何だかさっぱり分からない。

「機嫌は、悪くなってないっ。でも、びっくりした。
 びっくり、したんだからね」

 精一杯の虚勢を張って、彼に文句を叩きつける。ついでに、えいと彼の胸をぽこぽこと握りこぶしで叩く。

「驚かせてごめんね。でも、主があんまりにも不用心だったからね」

 ぽこぽこ叩かれながらも、髭切はいつもの調子を崩さない。私だけリンゴみたいに真っ赤で、彼はいつも通りなんて、何だかずるい。からかわれた挙句恥ずかしい思いをしてるのは私だけなんて、ずるい。よくわからないけど、ずるい。
 理由もないのに目の奥が熱くなって、泣きそうになるのに泣いてやるもんかという負けん気な私もいて、声にならない声を漏らしながら私は彼を叩き続けた。

「主は駄々っ子だね。そんなに叩くと、手入れしてもらわないといけなくなるよ」
「だって、意地悪した。髭切、ずるい」

 まとまらない感情をぶつけていると、困ったような顔をして、髭切は自分を叩き続ける薄情な私の腕を掴んだ。さっきよりは優しい掴み方で、でもこれでもう彼を叩くことはできない。しかも、ちょっと泣きそうになってる顔まできっと見られてる。

「うーん。いじめすぎたかな。ほら、よしよし」

 髭切は一度私の手を放すと、ぎゅっと私のことを抱き寄せて、背中をとんとんと叩き始めた。これって要するに、私が泣いている五虎退を慰めるのと同じような感じで――つまり、子供扱いされているということではないだろうか。でも、距離はさっきより近くても彼の顔は見ずに済んだ。
 だらんと下げられた私の腕を恐る恐る彼の背中に回してみる。いつもは後ろから見てるだけの背中は、思ったよりずっと広かった。ぎゅうとしがみつくと、暖かい熱が身体中に染み渡っていく。

「……もしかして、怖かったの?」
「よく分からない。怖いみたいな、わくわくするみたいな、びっくりしたみたいな」
「やっぱり、嫌だった?」

 髭切の声はくぐもっていて、どんな感情がそこに載っているのかよく分からない。人の気持ちは読める気がしていたのに、彼の気持ち一つ今はよく分からない。

「嫌じゃないよ。嫌だったら、もっと暴れてるから。恥ずかしいし、むずむずするし、でも──嫌じゃない」
「嘘はついてない?」

 髭切の声が、少しだけ硬い。これはきっと大事な質問だということは私にも分かる。
 だから私も、精一杯の本当で答える。

「嘘はついてないよ。本当に嫌じゃないの」
「そっか。でも、僕はいっぱい叩かれたんだよね」
「……それは、髭切がずるいから」
「主はよくわからないねえ」
「よくわからないのはそっちでしょ。いきなり、怒ったり、拗ねたり、くっついてきたり」
「ううん。そう言われると、何だか僕の方が悲しくなってきたよ」

 悲しくなってきたのはこっちの台詞なのに、髭切は私を抱きしめたまま困ったような声でそんなことを言う。悲しいなんて言葉を聞いたから、私もなんだか悲しくなって、ぐいと彼の肩に顔を押し付けた。
 今の私はなんだか変だ。
 ただお喋りに来ただけなのに、髭切はよくわからないことばかりするせいで、私まで泣いたり怒ったり恥ずかしくなったりと感情に振り回されている。
 私の真似なのか、彼も私の肩に顔を埋めていた。心臓の音が聞こえるから、この場所に顔を近づけたがったこともあったっけ。あの時の彼は、何だかとても不安そうだった。
 今夜も嫌な夢でも見たんだろうか。だから、さっきみたいなまるで──ちょっと特別な関係の人みたいなことを私にしたのだろうか。
 そんなことをぼんやりとした頭で考えていると、

(痛い……?)

 くい、と何か肌を引っ張るような刺激が、私の首筋で走った。
 まるで五虎退の虎がじゃれてきたような、小さな痛み。けれども程なくして微かな違和感は無くなって、きっと気のせいだろうと私は思い直した。

「僕に抱きついたままうとうとしているのは構わないけど、そのまま寝ちゃうつもり?」
「……ううん。ちゃんと布団に入って寝ないと、寝た気がしなくなるから」

 ゆるりと彼から体を離すと、髭切もすんなりと私を解放してくれた。
 ふと目をやれば、髭切が寝ていた布団がある。いつもの私なら、彼が夜更かししているのをいいことに布団にお邪魔していた所だろうけれど──今はそれを言ったら、怒られる気がした。

「部屋に戻るね。夜更かし、付き合ってくれてありがとう」
「こっちこそ、驚かせてごめんね。でも、気をつけた方がいいと思うのは本当だよ」
「う……。反省してる」
「まあ、そうは言っても当分はそんな誘いを受けることはないだろうね」

 妙に意味深な笑顔を見せられた気がするけど、きっとそんな風に見えたのも灯りのせいだろう。
 おやすみなさいの挨拶をしてから、私は彼の部屋から出る。まだ頬は熱いみたいで、廊下の空気がちょっとひんやりとして気持ちよかった。

「顔洗ってから寝よう……。髭切も夜中に起きて不安だったのかもしれないけど、いきなりあんな風にからかわなくてもいいのに」

 ぶつぶつ言いながら、私は洗面台に向かう。ざばざばと流水で顔を洗い流すと、やけに熱を帯びていた頬がすぅと冷えていく。
 鏡に写っている自分の姿を見つめ直し、そして私はいつもと違うものに気がついた。

「あれ。何か虫にでも刺されたかな」

 丁度髭切が顔を埋めていた首筋のあたりが、少しだけ赤くなっている。虫除けを用意する時期になったのかなと小首を傾げながら、私は欠伸をした。
 ああ、やっぱり眠くなってきた。雨音がきっと丁度いい子守歌になってくれることだろう。


***


 翌朝。夜中降り通しだった雨もすっかり上がり、朝の眩しい日差しが髭切の部屋に差し込んでいた。結局あれから眠ることもできず、部屋の主は腫れぼったさの残る目をこすりながら部屋を出た。

「兄者。ただいま戻ったぞ」
「ふあぁ、おかえり。膝丸」

 廊下に出て早々、遠征から帰ってきた弟と出くわす。
 遠征先での話をしに来たのかもしれないが、普段は早起きの兄が眠そうにしている様子が余程珍しかったのだろう。
 膝丸は不思議そうに髭切を見つめ、

「随分と眠そうにしているようだが、どうかされたのか?」
「ああ。ちょっと昨日は色々あって」

 隠しきれない大あくびを一つした後、髭切はにこりと笑ってみせる。

「何があったのかは分からないが……兄者、何か良いことでもあったのか」
「うん。ちょっと無鉄砲な子猫に悪戯をして、首輪をつけておいただけ」
「子猫? 動物を育てるなら、主に相談はした方がいいと思うぞ」
「うーん。主はそれはもう、よく知っていると思うよ」

 はぐらかすように髭切は微笑を浮かべ、楽しそうに調子外れの鼻歌を残して洗面所へと向かっていった。

「もうちょっと、主が気がつくまで時間がかかるかなあ。でも、それはそれで楽しみだよね」

 昨晩の彼女の狼狽っぷりを思い出して、つい彼は口元を緩める。
 今日はどんな風に声をかけよう。
 気持ちを浮き足立たせて、彼は主の姿を探すのだった。
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