本編第一部(完結済み)

 真っ暗闇の中で、声がした。
 呼ばれている。その声に、呼ばれている。まるで願うように、縋り付くように、それでいて何かに怯えるような声だった。
 応えなければと、それはゆっくりと瞼を開く。世界が急速に光を取り戻していく。
 まだ確たる体すら持つことができていない彼は、しかし眼前に『い』るものの存在を感知する。形すら朧な眼が、そこにいる者が何かを伝える。
 それは、斬らねばならぬものだった。
 思考が働く前に、しっかりとした輪郭すら得ていない手が動く。まだ鞘とも言えない曖昧なものから、確かな形をした何かを掴む。それは、己自身とも言える刃であると彼は知っている。
 
 ――斬らねばならない。

 もう一度、今度ははっきりと自覚する。
 己を突き動かすのは、ただ一つの衝動。自分というものの輪郭を形作る逸話。謂わば、本能とも言える激しい熱が、彼の体を勝手に動かしていく。
 逆らおうとも思わない。ただ、流れに身を任せる。

「――ッ」

 口から漏れたのは、微かな息だけ。
 己の半身である刃を目の前の者に突き出す。だが、やはりまだ朧な腕のせいで致命傷には程遠い。散った赤が、今もなお形作られ続ける体の中に、或いは刃そのものの中に溶け込んでいく。斬った相手の一部が、己の一つとなって混ざり合っていく。
 だが、そんな些細なことは、今の彼の行動を押しとどめる動機にはならない。先ほどよりはいくらか形がはっきりした腕を伸ばし、目の前にいる相手の首元を掴む。形を伴っていない腕のせいで、照準が少しずれてしまった。首そのものを掴むには至らなかったが、代わりに握りしめた衣服を離すことなく彼はそれを引き倒す。

「!」

 引き倒された者の瞳が、大きく見開かれる。そこに宿る感情の意味を、彼は理解できない。
 傍らで、何かが動く気配がする。耳を微かにくすぐる風は感じていても、彼の聴覚はまだ目覚めの途中であり、その声を理解させない。
 自分によって床に引き倒された相手に向けて、彼は刃を垂直にして向ける。その切っ先で、今度こそとどめを刺すために。
 ――何故なら、己は鬼を斬った刀だから。


 ***


 視界がぐるりと回転し、背中を強く打った衝撃が走る。弾みで一瞬、息が詰まる。頭を打ったせいなのか、やけに視界が眩しい。だが、すぐに彼女は――藤は、そういうわけではないと気がつく。
 自分を引き倒し、馬乗りになっている何か。その何かが持っている者が発する光が、彼女の視界を奪っていた。

(いったい、何が)

 顕現している途中の、まだ光と紫の花びらで輪郭ができているような朧な存在。けれども、その何かは彼女に対して明確な敵意を見せていた。
 何故なら、彼女が今突きつけられているのは銀に輝く刃だからだ。

(こんなこと、前にもあったっけ)

 もっとも、その時の記憶は酷く朧なものだ。そもそも刀ですらなく、もっと小さな小刀のようなものだった。曖昧な思い出の中にあったそれと、今のものはは違うと彼女はしみじみと感じ入ってすらいた。そんな余裕を感じてしまうほど、まさに今顔面に突き刺さらんとしている死を前にして、彼女は自分でも驚くほど冷静でいた。

(ああ、綺麗だな)

 この刃は、先ほど自分が鍛刀した刀だろうか。優美な曲線を描いた反りが印象的な刀だった。近くで見ても尚、見劣りすることのない美が宿っている。
 刹那が永遠に思えるほど長く引き延ばされた時間。刀が己の皮膚を切り裂き、切っ先を体に埋めるまでの僅かな時。刻一刻と近づいてくる死の影に藤が見蕩れていると、

「主!!」

 聞き慣れた歌仙の呼びかけと共に、銀の影がぶれる。己を呼ぶ声を聞いて、我に返った彼女は咄嗟に首を捻った。同時に、ぞっとするような冷たさが頬を通り過ぎていく。己の内側を金属が通り過ぎていくという悍ましい感触に、藤の背筋に怖気が走る。
 だが、恐怖を十分に感じ入る間もなく、通り過ぎた箇所から内側が焼けるような痛みが一気に爆ぜた。
 急速に思考が覚醒していく。奇妙に引き延ばされた時間は元に戻り、殺される所だったという事実が不意に現実として認識される。

「貴様、いったい何のつもりだ!!」

 今まで聞いたこともない歌仙の怒号と共に、自分を抑えつけていた何かの重みが無くなる。藤はよろよろと上体を起こし、依然としてくらくらする頭をはっきりさせるために数度頭を振った。
 視界ははっきりしているはずなのに、見ているものの情報が頭で理解することができない。あまりに突拍子もないことが立て続けに起こったせいだ。

「いったい、何がどうなって……」
「主様、大丈夫ですか。すみません、咄嗟のことでボクもすぐに動けなくて」
「物吉? 何があったの。顕現が失敗したの?」
「いえ、顕現自体は成功したのですが……」

 物吉に支えながらも立ち上がろうとするが、不自然なまでに体に力が入らない。耳の奥がじんじんしていて、物吉の言葉自体もなかなか理解できない。

「もう一度問う。顕現して早々に主に斬りかかるとは何のつもりだ!!」

 再び響いたのは雷のような激しい怒号。その声が歌仙のものと気がつき、藤は彼の姿を探す。
 特徴的なすみれ色の髪の毛は、すぐに見つかった。彼は見たこともない青年の胸ぐらを、その両手で掴みあげて宙吊りにせんとしていた。だが、今はそれよりも気になったのは歌仙が口にした言葉だ。

「主に斬りかかる……?」
「あ、あるじさまを、斬ったんです。まだ、顕現の途中……だったのに」

 物吉同様、藤に駆け寄った五虎退が何が起きたかを彼女に伝える。事ここに至って、藤は自分が攻撃されたのだという理解を得た。

「そうだ。顕現しようとしたときに、急に――」

 体がまだ形すら保っていなかったにも関わらず、光を伴った刃で彼に斬りかかられた。偶然微かに頭を動かしたことで致命傷には至らなかったものの、そのまま為す術無く引き倒されてとどめを刺されるところだった。
 ようやく経緯を飲み込んだと同時に、不意に頬と首の痛みが強い主張を始める。やけに熱い鼓動が、そこに傷を負っているということを教えてくれた。

「主様。お怪我の様子は」
「大丈夫。大したことないよ」

 労る物吉の言葉に、藤は反射的に答えていた。実際のところ傷そのものは大したことはないのだろう。だが、首元を伝う濡れた感触は血が流れ出ていることを確かに彼女に伝えていた。
 しかし、今気にするべきはそこではない。藤は怪我のことを一度思考の外に押しやり、青年に掴みかかっている歌仙に声をかける。

「歌仙。その人、下ろしてあげて。首が絞まっちゃう」
「しかし、主! こいつはきみを斬ろうとした下手人だ!!」
「いいから。それでも僕が顕現した刀剣男士なんだから」

 藤に促され、ようやく歌仙は力を緩める。青年は歌仙の手を簡単に振りほどき、改めて藤に相対した。
 歌仙の射殺さんばかりの視線を受けているためだろう。再度彼女に刃を向けるようなことはしなかったが、だらりと下げた手にはまだ抜き身の刀が握られていた。
 顔を上げた藤がまず目にしたのは、秋の草を思わせる淡い金の髪。顔立ちは端正という表現が似合うが、どこか野性味の強い金がかかった茶の瞳が印象的だった。
 身に纏っている装束は、白の上着に黒のシャツというシンプルなものだ。上着は古い時代の礼装を思わせる様式で、随所に施された金の飾りも相まって、近寄りがたい高貴さを彼に漂わせている。足を包んでいるのも上着同様、染み一つない白のズボンだ。
 だが、彼の白はあまりに鮮やかすぎた。先ほどまで主を斬りつけていたにも関わらず、上着にも彼がまだ片手に携えている一振りの刀にも、血一滴ついていない。まるで、血すらも体を現出させる際に、取り込んでしまったかのようだ。

「どうして、主に斬りかかるような真似をした」

 先ほどの問いかけよりは幾らか落ち着いた声で、歌仙が問いかける。
 
「何で斬りかかったかって?」

 歌仙の凄みのある声に対して、名も知らぬ彼の声はこの場に不釣り合いなくらいゆったりとしていた。
 そして、決定的な一言を告げる。

「だって――そこに、鬼がいたから」

 刀で藤を真っ直ぐ指す彼につられて、歌仙の視線が彼女に向かう。青年の言葉を聞いた瞬間、彼女は微かに目を見開いて凍り付いていた。
 歌仙の視線が、硬直した主の視線と交差する。彼は迷うこと無く、藤の額にある角を見つめていた。
 顕現の直前に彼女が見せてくれたもの。そこに生えている、一対の異質な存在。いつもバンダナで見えないようにしていた、歌仙たちに違和感を与えていた原因になっていたであろう秘密の正体。
 彼女は、ほんの数分前にその秘密を歌仙に打ち明けた。不自然に距離をとり続けることで歌仙たちを悩ませ続けるくらいなら、いっそ話した方がいいと考えたのだろうと、今なら彼も分かる。
 ――だからこそ、歌仙兼定は許せない。

「そこにいるのは、鬼だよね。だから斬っただけ」

 答えのわかりきった問いを聞かれたかのように、新参者はもう一度言う。
 藤は何も言わない。目線を下に向けて、その場に縫い止められたように微動だにしない。
 歌仙たちが何も言わないことを、了解と判断したのだろう。冷徹な処刑人のようなその青年は、一歩前に歩み出ようとした。だが、その行く手を一つの影が阻む。

「何のつもり?」
「……貴様、よくも主を鬼と愚弄してくれたな」

 歌仙の手が再び伸びて、青年の腕を掴んでいた。先ほどよりもずっと強く掴んでいることが、青年を掴む彼の手が白くなっていることから分かる。

「あるじさまは……鬼なんかじゃ、ありません」

 続いて震えを堪えた少年の声が、青年と藤の間に割って入る。主を守るように立っている五虎退の瞳は、気弱で儚げな見た目から想像できないほど強い意志を秘めていた。
 両手を広げて、主を庇わんと彼は立つ。足は震え、広げた腕にも動揺は見えていたが、それでも彼は言う。

「あるじさまは、鬼じゃありません。そんな、風に、言わないでください」

 ひゅっと鋭く息を呑む音が微かに響く。だが、それが誰の発した音に気付くこともなく、主を支えている物吉も五虎退に倣って口を開いた。

「そうです。主様は、ボクらに優しくしてくれる素晴らしい方です。ボクらに沢山のことを教えてくれた方です。鬼なんかじゃありません」

 あの雨の日の山の中で、今にも崩れてしまいそうな脆い表情を見せた藤を物吉は思い返す。
 遠征から帰った日の夜、自分の逸話にがんじがらめになっていた少年の心を彼女はそっと掬い上げた。その時の言葉は、まだ彼の心の中に残っている。
 物吉は立ち上がり、キッと目の前の青年を睨んだ。まだ年端もいかぬ少年の見た目をしているといえ、彼の姿は大事な主を守るという命を背負った忠臣そのものだった。

「あなたがどんな刀だったとしても、今の主を斬ることがあなたのすることなんですか!」

 普段は温厚な彼が滅多に口にしない苛烈な叱責は、刀で斬るのと変わらないくらいの鋭さが込められていた。
 対する青年は、自分の腕を掴む歌仙、そして目の前に対峙する少年二人の姿を見て顔を微かに歪めた。その表情は、明らかに困惑を示している。

「そこにいるのが、僕の主なの?」

 青年が問いかける。しかし、藤は答えない。
 歌仙がちらと主に目を向けるが、彼女は俯いたままそこにいるだけだった。肩が微かに震えている。もしかしたら、泣いているのだろうか。
 本当なら、今すぐにでも彼女に駆け寄りたい。彼女の角がどういう意味を持っているかは知らないが、きっとこの新参者は主の体だけではなく、心も傷つけた。
 今自分が抜刀していないのは、ただ主がそれを命じていないからというだけのこと。彼女の言葉一つあれば、歌仙は躊躇せずにこの男を斬り捨てる覚悟を既に持っていた。

「君が、僕の主なの?」

 もう一度、青年が問う。
 自分の内側に溜まった感情を吐き出すような、大きなため息が一つ聞こえた。そうすることで心の整理をつけたのだろうか。ようやく藤が、顔を上げる。
 顔色はいいとは言えない。首元からも頬からも、まだ血がじんわりと流れ落ちている。けれども、顔色の悪さはそのせいだけではないだろう。
 それでも彼女は、覚束ない足取りで立ち上がる。主を支えようとする物吉の手をやんわりと払い、五虎退の横を通り過ぎ、藤は青年の前に立った。

「主、危ない。下がるんだ」
「歌仙、いいから」
「しかし」
「いいから。彼を放して。彼は、僕の刀だ」

 有無を言わさない強い口調に押し切られ、歌仙は不承不承その手を放す。だが、代わりに今度は自分の腰の刀に手を添える。もし不審な動きを少しでもしたら、問答無用で斬る。その意思の表明だった。

「名前は?」

 青ざめながらも、彼女は青年から目を逸らすことなく問う。

「……源氏の重宝、髭切さ。君が今代の主でいいのかい?」

 未だ刀を収めることもなく、青年――髭切は言う。声音に違わない優しげな微笑が、彼の口の端にのぼっていた。先ほどまでの一件がなければ、このやり取りは穏やかな自己紹介の一幕に見えただろう。
 けれども、過ぎたことをなかったことにできるわけもない。歌仙たちの剣呑な気配は、依然として漂っている。
 藤は周りの三人の様子などまるで気にすることなく、髭切と名乗った青年と会話を続けた。

「僕が君の主ということで間違いないよ。できるなら痛いことは勘弁してほしいんだけど、いいかな?」
「うーん、やっぱりそうなんだね。じゃあ、今は仕方ないか」

 まるでとても些細なことを諦めるように、彼は頷いて銀の刃を鞘に収める。そのあっさりとした様子たるや、取るに足らない失敗をしてしまったような振る舞いだ。

「……他に言うことがあるだろう」

 勝手に納得しあっている二人とは対照的に、歌仙の声は隠しきれない怒りを滲ませていた。物吉も五虎退も、批難するような目つきで髭切を睨む。ギシギシと軋みをあげて亀裂が走るような緊張が、この場を支配していく。
 だが、髭切はただ緩やかな微笑を浮かべてそこに立っているだけだった。その様子が、彼の怒りの炎に油を注いでしまう。

「言うことって?」
「貴様、主にいきなり斬りかかっておいて、あまつさえあのような酷いことを言って、それで何も言うことがないと口にするか!!」

 歌仙の感情がそのまま形になった怒号は、再度雷鳴のように部屋に響き渡った。彼の怒鳴り声に、流石の髭切も笑顔を引っ込めて困ったような表情を作る。
 髭切が視線を主に向けると、今度はその間に五虎退と物吉が割って入った。

「……何か、勘違いだったんだとしても、謝って、ください」
「主様を斬ったこと。鬼と呼んだこと。顕現した瞬間からあなたが主様にしたことを、謝ってください」

 五虎退はおずおずと、物吉はきっぱりと、だが内容は二人とも謝罪を要求するものだった。
 髭切は、ほんの僅かに眉をひそめる。笑顔を引っ込め、瞬間とは言え彼は感情の一切を殺したような真顔を見せる。だが、すぐに申し訳なさそうな顔になると、

「ごめんね。急に主を斬ったりして。

 ――僕が、悪かったよ」

 彼は、謝罪の意を見せるために頭を下げた。
 その様子を、藤は小さく息を吐き出して見つめている。彼女の表情は、先ほどまで殺されかけていたとは思えないほど感情が抜け落ちたものだった。

「もういいよ。頭を上げて、髭切」

 彼女に促されて、青年は頭を下げるのをやめる。顔を上げた彼は、目の前にいる小さな鬼を見つめた。
 藤色の瞳に、朝焼けと同じ色の癖の多い髪。そして額に、新緑と同じ彩りの小ぶりの角。顕現した直後に見たときから変わらぬ姿が、そこにはあった。
 ただ、斬りかかった時と違う点が一点あることに髭切は気がつく。初めて出会ったときの彼女の瞳には、攻撃された驚きと刃に見蕩れる人間らしい輝きがあったのに、今はまるで死人のように濁った瞳をしている。とはいえ、その変化の理由が髭切に分かるわけがなかった。

「歌仙たち、彼に本丸の案内をしてあげて。本丸の中で迷子になったら困るだろうから」

 一方で、指示だけを残して、主である藤は部屋を出ようとした。だが、立ち去ろうとする彼女の腕を歌仙は反射的に掴む。

「どうしたの?」
「どうしたの、じゃない。今のきみを一人にできるわけがないだろう。それに怪我の手当も必要だ」

 歌仙がわざわざ口にするまでもなく、藤自身も徐々にじんじんと大きくなる頬と首元の痛みには気がついていた。けれども、彼女は彼から目を逸らして小さく首を横に振る。

「一人で、できる」
「顔と首を一人で手当しきれるわけがないだろう。強がるのもいいが、今は僕を頼ってくれないか」

 まるで先日の焼き直しのようだと歌仙は思う。だが、あの時と今では状況がまるで違っていた。
 主は心身共に疲れ切った様子を見せている。このまま一人にしていては、彼女のために良くない。そう思ったときには、既に歌仙の口は動いていた。

「物吉。五虎退。そこの新参者の案内は任せるよ。僕は主についていく」
「歌仙」
「今日ばかりは、主の我が儘を聞いてあげることはできない。いいね?」
「…………分かった」

 数秒の沈黙を挟んで、藤は小さく頷く。彼女の後に続き、歌仙も夜の廊下へと足を踏み出した。


 静まり返った部屋に残っているのは物吉と五虎退、そして新しく顕現された髭切だけだ。
 彼は何か思うところでもあるのか、笑顔を消して自分の胸の辺りに手を当てていた。一度手を放し、じっと自身の掌を見つめ直す。まるで、掌という存在そのものに違和感でも覚えているかのように。

「……どうかしたんですか」
「なんだかこの辺りが、気持ち悪くて。気のせいなのかな」

 胸に再度軽く手を載せ、彼は小首を傾げる。彼の言葉を聞いて、物吉は不愉快そうに眉を顰めた。立ち去った主のことを心配する素振りすら見せなかったのが、普段は穏やかな彼の神経を逆なでしていたのだ。

「自分の主を、斬ったりするからですよ」

 睨むような目つきと共に、物吉は批難めいた言葉を口にする。
 主はああ言ったものの、物吉は彼を簡単に許すことはできなさそうだと思っていた。奇しくも今日、主たちが演練に行っている間に彼は一つの決意をしたところだった。

(もし主様が隠していることで、誰かが主様を傷つけるようなことがあったら――ボクはその人を、許さない)

 同じ本丸にいる以上、ずっと彼を許さないでいるわけにはいかないとは物吉も分かっていた。だが、彼は暫く自分の中に燃える思いを消すこともできないと自覚する。
 横目で五虎退を見やれば、あの気弱な少年でさえ虎のような瞳で髭切を見つめていた。

「本丸の案内をしますから。ついてきてください」

 主の命令は守らねばと物吉は髭切の前に立ち、先導せんと一歩外に出る。しかし彼らの目つきは、まるで髭切を監視するかのような剣呑さが残ったものだった。


 刀剣男士はどれほどの深手を負ったとしても、手入れをすれば治る。刀本体が折れることがなければ、人間でいう完全な致命傷に至っていなければ、手入れをすることでたちまち傷は塞がる。しかし、人間の傷は刀剣男士たちのようにたちどころに塞がることはない。

「痛い、痛い痛い痛いっ」
「これでも優しくしているつもりなんだが、それでも痛いかい?」
「うん。それは分かってるんだけど、痛いものは痛いの」

 ひーっと小さな悲鳴をあげる藤。わざとらしいくらいの彼女の泣き言は、どうしても重くなる空気を払拭しようとするためのものだと歌仙も分かっていた。
 漂う空気を別としても、消毒用の薬液を含ませた脱脂綿を傷口に押し当てるという治療方法では、優しく撫でようがきつく叩こうが激痛が走るのは当然のことである。困ったように触る角度を変えている歌仙の側には、血で汚れた脱脂綿が小さな山を作っていた。

「幸い、傷自体はそこまで深くなさそうだ。この時代にはいい薬もあることだし、一週間もしたら痕も残らず塞がっていると思うよ」
「ありがとう、歌仙。やっぱり一人じゃ手当できなかったかも」
「そうだろう。ほら、顎を少し上げて」

 歌仙に言われた通り顎を上げた藤の首に、するすると白い包帯が巻かれていく。止血用のガーゼをすっかり包んでから、歌仙は包帯を切って処置を終えた。
 彼が後片付けをしている傍ら、彼女は手入れ部屋にある姿見に自分の姿を写す。そこには、頬には大きな白いガーゼ状の絆創膏が貼られ、首には白い包帯がきっちり巻かれた自分がいた。

「何だか大怪我した人みたいだ」
「実際大怪我みたいなものだよ。女性の顔に傷をつけるなんて、あの刀剣男士はそもそもの礼儀がなっていない」
「…………」

 不意に藤は押し黙り、視線を下に落としながらも自分の頬をそっと触る。
 歌仙に言われるまで、彼女は自分の顔に傷が残るということの意味に気がつかなかった。とりたてて自分の見目に自信があるわけでもない。寧ろ、と彼女は心の中で首を横に振る。
 それ以上を考えてしまったら、こうして歌仙と話していて取り戻した『いつも通り』を、また暗いものにしてしまう。何か違う話題を振らなければと顔を上げ、

「……きみが僕らに話したいと言っていたのは、それのことだったんだね」

 歌仙の視線が己の額の辺りをさまよっていることに気がつき、藤は口を噤む。
 そこにあるのは、顕現する前から隠すのをやめていた角だ。避けては通れない話題であることは分かっていたが、今このときばかりは歌仙には何も言わないでほしかった。しかし彼女の内心を知る由もない歌仙は、続きを口にする。

「あんな形になってしまったけれど、僕の意見は変わらないよ。きみを鬼だと言うつもりはない。たとえ角があったとしても、きみは僕たちと同じ――いや、普通の人と何ら変わらない」
「…………うん」

 彼の口調はとても優しげなものだったが、彼女の視線は落ちたままだ。
 彼女の沈んだ様子が言い知れない不安から生まれているものならば、今はいくら言葉をかけても意味はないだろうと歌仙は思う。
 彼女の角を見ても動揺せず、否定せず、変わらぬ今までを続ける。そうすることで、彼女の不安もいずれ解けていくはずだ。

(人間は時に見た目が異なる者を排斥しようとすることがあると、書物にもあったからね。僕らの知らない形の苦労もあったのだろう)

 新しい刀剣男士が来ることを嫌がっていたのも、角のことを知られたときの反応が怖かったからだろう。それなら、彼女が鍛刀を避けていたとするのも納得がいく。殊更に距離を置こうとする素振りも、今回の件が原因と見ていいはずだ。

「僕らはこれまで通り主と過ごしていくよ。だから、主も安心するといい」
「ありがとう。……そう、言ってくれて」

 ようやく緊張が解けたのか、藤は歌仙に向かってふわりと微笑んでみせた。その笑顔が安堵から零れたものだろうと思った歌仙は、つられるように彼女を安心させるための微笑を自分の口元に浮かべる。しかし、これで何もかもが解決したわけではない。

「主。新しく顕現した彼のことなんだが」
「髭切っていう人のこと?」
「……近づかない方がいいんじゃないか」
「どうして。彼は謝罪していたし、それでもう終わりじゃないか。まさか、土下座でもさせるつもり?」

 藤が眉を顰めてみせたため、歌仙も形だけは首を横に振ってみせた。正直なことを言うのなら、土下座程度で彼の蛮行を許せるものではないというのが彼の本音だった。
 あの男が主を刺し殺そうとしたとき、頭の中が真っ白になって――そしてすぐに、真っ赤に染まった。彼女を助けるという考えと同じくらい強く、彼を許さないという怒りが歌仙を突き動かしていた。今はこうして落ち着いて主と話をすることができているが、髭切を前にして冷静なままでいられるかは怪しい所である。

「主を殺そうとしたんだよ」
「何か勘違いがあったんでしょう。鬼がいたから、ちょっと驚いたんじゃないの」
「主。そんな風に自分を卑下するものじゃないよ」

 彼女の自虐的に聞こえる物言いに、歌仙は窘めるように口を挟む。しかし藤は何でも無いことのように、薄く微笑を浮かべてみせたままだった。

「大丈夫だよ。僕は彼の主でもある。一人だけのけ者にはできない。それに、さっきから何度も言っているけど、彼はもう謝っている。僕はそれでいいって言っている。今は、それで終わりにしよう」

 彼女の笑顔に気圧されるように、歌仙は無理矢理首を縦に振った。内心で納得はできなくとも、主の命に従うのが刀としてのあるべき姿だ。

(主に最初に選ばれた刀として、新入りに個人的な感情を抱くことなく、主を支えて新たな仲間を受け入れる。それが僕の役目だときみは言っていたが)

 今日言葉を交わした、紅い瞳の青年──加州清光の言葉を思い返す。
 この状況は、当初想像していたものとあまりに違いすぎる。主の言葉には頷いてみせたものの、振り切れない思いは確かにあった。
 歌仙の考えを見透かしているかのように、主は笑い続けている。まるで、自分が平気な顔をしていなければ本丸の調和が乱れるとでも思っているかのように。そんな様を見せつけられては、歌仙としてもこれ以上話題を蒸し返すこともできない。
 ため息をついて救急箱を片付け始めたのを、藤は了承と受け取ったのだろう。

「ありがとう」

 彼女は、掠れた囁きをぽつりと漏らした。





 ──ああ、いつまで私は笑っていればいいんだろう。

 歌仙を見守る笑顔が、微かに崩れる。己の笑顔が空虚なものであることは、誰よりも彼女自身が分かっていた。
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