短編置き場

「うわ、なにこれ」

 その日の朝、いつもより少しだけ早く起きた本丸の主──藤は目の前に広がる光景を見て、思わず感嘆の息をついた。
 縁側の向こうには変わり映えのしない冬の庭が広がっている、はずだった。
 なのに、そこにあるのは一面の白。
 雪ではなく、視界そのものをぼんやりとした白が覆っている。それは、ほんの一部だけでなく広々とした庭を延々と埋め尽くしていた。

「霧かあ、珍しいね」

 昨晩は雨が降ったようだし、湿気と気温がうまく噛み合った結果だろうと藤は頷く。
 雪と違って大騒ぎするほどのものではないかもしれないが、ここまでの濃霧は日常をあっという間に非日常にすり替える。
 藤は、内心で浮足立つのを止められなかった。

「ちょっと歩いてみようかな」

 着替えはすでに済ませていた彼女は、敷石の上に置かれているサンダルに足をつっかける。そして、鼻歌混じりで霧の世界へと足を踏み入れた。
 微かに漂う水分に寒気を覚えながら、彼女はずいずいと庭のベンチへと向かう。霧は遠慮なく彼女を真っ白の世界に取り込み、手を伸ばす距離にしか十分な視界はなかった。
 一寸先は闇ならぬ一寸先は霧である。

「こりゃすごい。庭を歩いてるはずなのに探検になってしまうね」

 大げさに言ってはみたものの、所詮庭は庭である。
 どこかで行き止まりにぶつかるだろうと思いながら、彼女は躊躇することなくずんずんと歩みを進めていく。
 その時だった。

「うわっ」

 何かにドンとぶつかる音、そして衝撃を受けて藤は尻餅をつく。か細い少年の声はどこかで聞き覚えのあるものだった。

「あれ、五虎退?」
「は、はい……いたた」

 思わず声の主を探すものの、肝心の本人すらも霧のカーテンの向こう側のようだった。
 とにかく、声のする方に向けて藤は謝罪を述べる。

「ごめん。霧で何も見えなくて」
「すごい、ですよね。本当に真っ白で。僕も、びっくりしました」

 こちらに近寄ってきてくれたことで、藤の曖昧な視界にも五虎退の姿がはっきりと見えた。
 ふわふわした白の猫毛が霧と同化してしまって、まるで彼が霧そのもので出来ているようにも見えてしまう。
 彼は何かを探すように、ひょこひょこと落ち着きなく首を左右に振っていた。

「何か探し物でもしているの?」
「じ、実は……虎くんが、一匹はしゃいで、外に行ってしまって……今、探してるんです」
「五虎退でも、この霧の中じゃ大変?」
「はい……少しは見えるんですけど、色々曖昧になっているというか……」

 夜の世界では無類の強さを発揮する五虎退でも、この霧は勝手が違うらしい。
 そのようなものかと、藤は彼の言葉を素直に受け止める。

「じゃあ、一緒に探そうか」
「いいん、ですか……? あるじさまは散歩して、いたんじゃ……」
「いいよ。特に何かしようとしていたわけでもないから。ほら」

 自分の主から手を差し伸べられ、五虎退の白い肌に歓喜の朱が差す。

「ありがとうございます!」

 ぺこりと頭を下げて、彼はほっそりとした主の手をそっと取った。



「虎くーん、どこにいるんだーい」
「は、早く帰ってこないと、朝ごはんがなくなっちゃうよー……」

 藤と五虎退のか細い呼びかけに応じる鳴き声はしない。
 五虎退曰く、いなくなったのは一匹だけだから大したことはないと思っていたとのことだったが、ミルクの中のような霧をあてもなく延々と歩くのはなかなかに骨が折れることだった。

「あるじさまは、その……こわく、ないんですか?」
「怖い?」
「霧で全然、先が、見えないから……」
「ああ……。でも、霧だからね。そのうち晴れるものだし、故郷だとしょっちゅうあったよ。標高が高い所だったから」

 問われた本人は、ケロリとした顔で事もなげに告げる。
 五虎退は彼女の口から出た故郷という単語に、少しだけ目を丸くした。
 彼の認識では、自分の主はあまり自分のことについて多くを語ろうとしない人物だったからだ。
 それは単にミステリアスな一面というだけでなく、彼女の本心さえ殺しかねない自暴自棄な処世術だったと知ったのはつい最近のことである。
 一悶着あってからは、無理に自分の心中を偽るようなことこそ彼女はしなくなったものの、それでも藤は己の経歴等については多くを語ろうとしていなかった。

「どんな、所なんですか?」

 そんな主が、自ら故郷のことを語っている。
 五虎退が思わず身を乗り出して、質問を重ねるのも詮無いことだった。

「辺りをどれだけ見ても自然だけしかないって感じのところ。天気はころころ変わるし、面白いものも特にはない。冬はとっても寒いし、春はちょっとしかない」

 五虎退が少し残念そうに悲しげな顔をしたのを見て、藤は思わず苦笑いを漏らす。

「でも、眺めはいいんだよ。高い所だったから、見晴がいい所も多くて。雪だったり、遅く来た春が綺麗な花をあちこちに見せてくれるんだ」

 何か悲しい思い出がそこにあるのだろうか、少し目を細めて語る彼女は五虎退からは寂しげなものとして映った。

「こことはまた違う、趣があっていい所だったよ」
「あ、あの! 僕も、その……行ってみたい、です!」

 その寂しさを少しでも払拭したくて、慣れない大きな声を出してみるも、

「君と? うーん、そうだねえ。行って、みるのもいいかもね」

 返ってきた言葉は、内容とは裏腹に悲しげなものに聞こえてしまった。
 彼の精一杯の気遣いを受け取るために、大丈夫だよと笑いかける姿は大人としては正しいのだろう。

(また、気を遣わせてしまっている……)

 けれども、そうやって笑いかける彼女の本心はどうなのだろうと気にしてしまうと、やりきれないものを感じてしまう。
 五虎退は内心で、小さく唇をかんだ。
 五虎退も藤も黙ってしまったことで、会話と会話に間ができた。
 そうして、少しばかりの静寂が辺りを支配した時だった。ガサガサと茂みを揺らす音が二人の耳に飛び込んだ。

「……あ、虎くんかもしれません。見てきます」

 五虎退はとっさに藤の手を放して、そちらに向かって走って行く。
 これ以上、彼女の側にいても居たたまれなさが増すだけだ。気まずさに耐えかねて、五虎退が藤の側を離れるのも無理のないことであった。
 逃げるように去って行った彼の背中を見て、藤はほう、と小さく息を吐き出す。

「顔に出してもいいってのは、逆に相手を気遣わせちゃうよね……」

 五虎退の表情を見て彼の心中を察し、彼女もまた憂鬱な気持ちを漂わせていた。
 今までなら、自分の苦々しい感情を全て殺して笑顔で流すこともできていたが、最近はそのような仮面は意識して外すようにしている。
 結果的に、このような気まずさともまた顔を合わせることになってしまったのだ。
 虎が見つかって話の仕切り直しできればいいのだけど、と彼女が思った時だった。

「あるじさま」

 不意に自分の近くで声がして、藤はギョッとして振り返った。
 見れば、何と言うことはない。五虎退がじっとこちらを見上げているだけだった。

「あ、ああ。五虎退……どうしたの? 虎くんはいた?」
「見つからなかったんです……。でも、足跡があって。だから、一緒についてきてくれますか?」

 まるで先ほどまでの気まずさなど無かったかのように、今度は五虎退の方から手が差し出された。

「うん」

 藤は、躊躇いなくそれを掴む。
 先だっての会話は、一旦無かったことにしましょう。そう言われたような気がしたからだ。
 少年の細い指が自分の指に絡まるのを感じながら、藤は彼に手を引かれて庭を進む。
 深い霧の中ではついには地面すらもほぼ見えなくなり、頼りになるのは五虎退の短刀ならではの視界だけだ。
 機械的に足を進めながら、藤はふと思う。
 そういえばこの庭は、こんなに広かっただろうか?
 だが、その懸念は霧のせいだと結論をつけて、すぐに彼女の頭の中から拭い去られてしまった。



「あ、あるじさま。虎くん、見つかりました!」

 茂みに頭を突っ込んでいた真っ白な自分の相棒を引きずり出した五虎退は、それを抱えながら先ほどまでいた場所にたどり着く。
 主は気がついてなかったようだが、庭の藤棚のベンチが近くにあったのでその場所に間違いはないはず、だった。
 だというのに、そこには誰もいない。

「あるじ、さま?」

 もう一度声をかける。
 もしかして、別れる直前にしていた会話で気分を害して本丸に戻ってしまったのだろうか。

「あるじさま……!」

 声を張り上げても、返事はない。数歩その場から動いて、何度も何度も呼びかけても、返事はない。

「あるじさま……もう、本丸に、戻ったのかな……」

 昔のことを思い出して落ち着かない気持ちにもなってしまい、部屋に戻っているのかもしれない。お腹が空いて、厨でつまみ食いでもしているのかもしれない。
 きっとそうだと思い直し、五虎退は駆け足で本丸に向かった。



 いくら短刀の中でも小柄な五虎退とはいえ、本丸の庭は十分もかけなくても踏破できる広さしかない。
 視界はお世辞にも良好と言い難かったため、いつもより時間はかかったものの彼はすぐに庭に続く縁側へと辿りついた。
 そうして本丸に戻った彼は、キョロキョロと辺りを見渡す。どうやら、藤はもう中に入ってしまったようで姿は見えなかった。

「今朝は随分と早いな、五虎退。何か探し物か?」
「あ、膝丸さん。あるじさまを、見ませんでしたか?」

 折良く朝の鍛錬でもしていたのか、剣道着姿の膝丸が通りがかる。その後ろでは相手をしていたらしい、同じく袴をはいた髭切が大きな欠伸をしていた。
 五虎退の問いを聞き、膝丸は後ろの兄と顔を見合わせる。髭切はふるふると首を横に振り、膝丸も訝しげに眉を顰めていた。

「いや、見ていないが。厨ではないのか?」
「そうです、ね。あるじさま、よくお腹が空いたら厨に行っています……から」

 嫌なことがあると、とりあえず食べて発散しようとするという性格だということは、本丸の一同が知るところである。
 膝丸に指針を示されたこともあり、五虎退は厨へと駆け足で向かった。五虎退の様子が気になったのか、兄弟も揃って後をついてきている。
 辿りついた厨では、すでに朝ごはん当番の者のおかげで、美味しそうな匂いが漂ってきていた。

「す、すみません。あるじさま、いませんか」

 五虎退は虎を厨の外の廊下に置いてから、暖簾をくぐって声をかけた。

「主ぃ? いんや、来てないが? それより握り飯作るの手伝ってくれねえか?」

 今日の厨当番の和泉守は、五虎退の問いかけを聞いてゆるゆると首を横に振る。話している間にも、彼の大きな手はせっせと全員分のおにぎりを作っていた。
 和泉守の否定の言葉を耳にして、五虎退は不安で顔をくしゃりと歪める。

「そこまでして、どうして主に会いたいんだい? この時間なら寝てることの方が多いんじゃないかなぁ」

 先程から眠たげにしていた髭切は、まず五虎退の行動の原因を問いかける。
 しどろもどろになりながら、五虎退は事の経緯を三人に説明した。
 霧がけぶっている庭に迷い込んだ虎を探していたこと、主と合流していたが目を離したすきに姿が見えなくなったこと、本丸に戻ったのだろうと思っていたが見当たらないことなどをつっかえつっかえ説明する。
 彼女が自分が振った話題のせいで、寂しげな顔をしていたことは流石に口に出すのは憚られたため伏せてしまった。

「そんなら、自分の部屋に帰って寝直してるんじゃないのか? しっかし、たしかにこりゃすごい霧だな」

 和泉守は厨の格子戸越しに見える庭を覗いて、顔をしかめた。庭の木々は最早影すらもはっきり見えないほど白の中に溶け込んでいる。

「部屋の方も、見てきます。どうしよう、庭の中で迷子になってたら……」
「いくら主でも、自分の本丸の庭で迷子になるわけないだろう。真っ直ぐ歩けば、主の歩幅でも十分もしないうちにどっかの壁にぶつかる大きさなんだからよ」

 和泉守のもっともな発言を聞いて、五虎退はこくこくと頷く。
 これも何かの付き合いだと思い、膝丸は五虎退について主の部屋に向かった。兄である髭切は眠気を覚ますためか、先に流し場に向かったようだった。

「主、失礼する」
「あるじさん、お邪魔します……」

 挨拶を交えてから、そっと主の部屋の襖を開く。
 はたして、そこに主の姿はなかった。乱れた布団と脱ぎ散らかされた着替えは、彼女が起きてから戻ってきてないことを如実に示している。

「ここでもないようだな、五虎退」
「そう、みたいです……」
「霧が収まるまで待っているのかもしれないな。人の身の主では、この霧は少し怖いと感じるかもしれない」
「は、はい。でも……」

 五虎退は膝丸の考えに頷いていたものの、それはないはずだと確信してもいた。
 彼女の口ぶりでは、霧そのものに対する恐怖感はないように思われたからだ。無論、その理由を説明すると彼女が触れたくない話題に触れてしまうことになる。五虎退としても、口を閉ざすしかなかった。
 二人が顔を突き合わせ、どうしようかと思い悩んでいるときだった。

「ねえ、ちょっといい?」
「兄者か。どうしたんだ?」

 顔を洗ってきたからか、髪を少し濡らした髭切が二人の静寂を打ち破る。
 彼は、どういうわけか自分の本体である太刀と、膝丸の本体である一振りを片手に掴んできていた。

「主、気が付いたら五虎退の所からいなくなってたんだよね」
「は、はい……。ほんの、五分も離れてなかったんですけど……」
「どこかに行くとも、言ってなかったんだよね」

 髭切に重ねて問われ、五虎退は勢いに押されこくこくと首肯を返す。実際、彼女はそのようなことは口にしていなかった。

「ねえ、お前はどう思う?」

 不意に、髭切は隣に立つ弟に質問を振る。
 端的な兄の質問に、膝丸は首をかしげる。彼の質問が、言外に主はどこに行ったのかという問いかけだということを察し、わざわざこのような問いかけをしてる理由を探る。
 主が帰ってきていない。
 五虎退曰く、目を離したすきにいなくなったという。だから、てっきり本丸に戻ったものだろうと。
 だが、五虎退が主が本丸に向かう姿を見たわけではない。庭はさほど広いわけでもなく、和泉守の言う通り迷子になる程のものでもない。
 ならば、導き出せる結論は一つ。
 ──帰りたくても、帰れない。

「……霧に紛れて、あやかしが入り込んでると?」
「もしくはそれに似た何か、かもだけどねえ。五虎退や虎くんたちが戻ってこれて彼女だけ戻ってきてないというのも、だからじゃないかなぁ」

 五虎退も虎も、見た目は幼くあどけないが歴とした付喪神の一つである。低級なあやかし程度なら手出しはできないだろう。
 だが、藤は人と言っていい存在である。また、彼女の普段の様子からはその手の怨霊やらあやかしやらに詳しい様子はまるで見られなかった。
 五虎退が離れてしまえば、見えない何かにとっては格好の獲物である。

「それならば、俺たちの出番だな」
「うん。入ってきたものがあやかしなら斬っちゃえばいい」

 髭切から自身の本体を受け取った膝丸は、オロオロしている五虎退の頭を安心させるように撫でた。

「俺たちで主を探してくる。なに、もしかしたら本当にただの迷子かもしれない。皆には念のため霧が晴れるまで出歩かないように伝えておいてくれ」
「は、はい」
「それと、帰ってくるときに迷子にならないように、そうだなあ……呼びかけてもらえないかな」
「呼びかける、ですか」

 五虎退は突然髭切に出された奇妙な頼みごとに、首を傾げる。

「霧は、色々と曖昧にしちゃうからね。目印になるものが僕らも欲しくって」
「わかり、ました。……いっぱい、いっぱい、声を出します。だから……」

 自分が付いていたのにと泣きかけていた五虎退を励ますように、トンと膝丸は彼の背中を軽く叩く。

「寝ている者たちも起こしておいてほしい。主が帰ってきたとき、ガランとしていたら寂しいだろう」

 五虎退は浮かびかかっていた涙をぐいと拭い、「はい」と返事をしてから踵を返して本丸の中へと走って行った。
 彼の後姿を見送り、二振りの兄弟刀は縁側から霧の中へと足を踏み入れた。



「まだ足跡続いてる?」
「は、はい。もう少し」

 五虎退に手を引かれながら、藤は未だ霧の中をさまよい続けていた。
 思っていた以上にこの庭は大きかったようで、十分近く歩いてもなかなか角にたどり着かない。気分としては、まさに雲の中を歩いているようなといったところだ。

「あ、の。あるじさまは」
「何?」
「……会いたい人、とか、いますか?」

 唐突な五虎退からの質問に、藤は首を傾げる。

「それって、どういう意味で?」
「深い意味は……ないんです。ただ、何となく……」

 ひたすら何も言わずに五里霧中で歩くのも退屈だろうと思ったのだろうか。
 わざわざ話題を振ってくれたのだろうと好意的に問いかけを捉えて、今度は彼女も真剣に考え直す。

「うーん……会わないと嫌だって人はいないかな。今は皆もいることだし」

 そこまで言って、ぽつんと頭の隅に何かが浮かぶ。
 まるで水滴でも落ちたように、じわじわと一つの思いが波紋のように広がり響いていく。

「でも、そうだね。できるなら」

 故郷の話をしてしまったからだろうか。それとも、濃い霧が全てを隠して彼女の気持ちから余分なものを削り落としてしまったからだろうか。あるいは、その両方か。
 彼女は、柄にもなく懐古に走っていた。

「……できるなら、お母さんに会ってみたいなって」
「あるじさまの、お母様ですか?」
「うん。十くらいの頃に亡くなったから、もう顔もはっきり覚えてないんだけどね」
「そう、なんですね」
「ごめん、湿っぽい話になっちゃった。虎くんを探さな──」
「あるじさま」

 藤の声を遮り、不意にぐるりと五虎退が手を繋いだまま藤に向かい合うように振り向く。
 まるでこちらを覗き込むように、わずかに見開かれた目はぐりぐりと遠慮なく彼女を捉えていた。
 蛇に睨まれる蛙よりも遠慮のないもの。違和感は覚えるのに、目を離せない。彼の視線が、藤を掴んで離さない。
 思わずたじろぎ、それでも彼女は二、三歩後ろに下がろうとする。
 だが、少年の細い手は彼女の手を物理的にもしっかり握って離さなかった。

「もし会えるかもって言ったら?」
「五虎、退?」
「……あ、ごめんなさい。なんでもないんです」

 彼の顔は、不意にいつもの調子に戻る。ただ、普段どこか怯えたように見える表情は、今日はどういうわけかやけに楽しそうに見えた。
 口の端には、いつもの控えめな微笑ではなくより大きな弧が描かれている。

「そ、そう……。それより、早く見つけないとね……」

 藤の手に絡みついた少年の手は、普段より少し冷たく感じる。霧のせいだろうと、藤は自らを納得させようとした。
 今見てしまったものも、感じてしまったものも、全てを霧のせいということにして彼女は五虎退に手を引かれて歩みを再開する。

***

「主の気配はするか、兄者」
「いいや、全く。五虎退が話していたベンチの辺りで、ふっつり途絶えてるね」

 庭の藤棚、その下にあるベンチをそっと髭切は触る。
 審神者である主と、彼女が顕現した刀剣男士たちには確かに縁のようなものは存在していた。
 だが、その縁を頼りに歩いてもここで終わってしまうのだ。

「これも、あやかしの仕業なのか……?」
「というよりも、もっと曖昧でふわふわしたものかもしれない」
「兄者?」

 いつになく真剣な顔で足元を見つめる兄の姿を見て、膝丸もこれがただのあやかし退治とは異なる空気のものであると肌で感じていた。

「どちらにしろ、今の僕たちじゃ見つけられないかな。これだけ歩き回っても、ここにあるのは現実にある庭だけだから」
「そのようだな。相手の懐に潜り込めねば、斬れるものも斬れない」

 片手に握られた自らの象徴であり自ら自身でもある太刀を、膝丸はぎゅっと握りしめる。
 目の前で異常な事態が発生していると分かっているのに、何もできない己の未熟がただただ不甲斐なかった。

「まいったなあ。主に鈴でもつけておくべきだったかな……」
「兄者、主は猫ではないのだぞ。いや、悪い案ではないとは思うが」
「せめて、主がいる所と僕らがいる所が何かで繋がればいいのだけれど」
「先ほど兄者が言っていた、声で呼びかけるというものか」

 膝丸は、髭切が五虎退に告げた内容を思い出して問いかける。髭切もすぐに頷きを返した。

「うん。後は、名前とかね。呼んでもらえれば、それなら」

 もう一度、撫でれば縁が生まれるのではと祈るように、髭切はベンチを触る。

「それなら、僕らもすぐに向かえるのに。……僕らの、『狭野方さのかたの花』のために」

 その名は『藤の花』の異名。
 この名で呼ぶと、彼女はくすぐったそうな恥ずかしそうな笑顔を、いつも浮かべていた。
 できれば、見えないどこかに行ってしまった彼女にこの声が届きますように。
 彼は身を切るような思いで祈り続けた。

***

 霧の中の捜索は、依然として終わりを告げそうにない。ひんやりとした五虎退の手に掴まれたまま、歩き疲れてじんわりと痛みを感じる足を藤はひたすらに動かしていた。

「五虎退。一度、戻った方が」
「でも……早く行って、見つけないといけませんから」
「うん……。ええ、と……何を、だっけ」

 ぽろりとこぼれた言葉を自分の耳でも確かめた瞬間、藤は全身に冷水を浴びせられたような寒気を覚えた。
 頭の奥が妙にシンと冷えこんでていくのが、わかる。
 何かがボロボロと落ちていっているような薄ら寒さはあるのに、それが何かわからない。

「五虎退、ちょっと待って」

 声をかけると、少年は振り返った。癖の強い髪の毛で片目を隠すようにしてる彼の名前は、五虎退だということが分かる。
 口にしていなければ、それすらも花びらが散るようにと自分の中から剥がれ落ちていくのではないかという恐怖に、突如苛まされていく。

「どうしたんですか?」
「どうして、僕らはここを歩いてるんだっけ」
「僕は、ついてきてくださいって言いました。あなたは、うんと頷いてくれたんですよ」

 嬉しそうに、それは笑う。楽しそうに、それは微笑む。
 無邪気に、あどけない姿をした少年が笑っている。
 なのに、まるで底なしの闇に微笑まれたような怖気が体中を包んでいく。
 手は、未だに握られたままだった。

「そうだ、けど。待って、待ってよ」

 口にしながら、自分が何を恐怖しているのかすらも分からなくなってきているのが分かる。
 霧の中を歩き続けることが、異常だという考えすら溶かされてしまっていたことに、遅まきながら気づいてしまった。

「僕は、僕は審神者として、この場所にいて。刀剣男士を呼んで……そうだ、彼らのことは」

 自分の周りにいる、彼らの名を思い出そうとする。
 一時期は、名前すらも思い出せず別の審神者に「もっとちゃんと男士の相手をしなさいよ」と叱られたこともあった。
 今ではもう忘れないだろう、彼らの名前を思い出そうとする。

「……歌仙兼定、最初の刀で、口うるさくて、でもご飯は美味しくて」

 思い出を辿ろうとすればするほど、それが虫食いになっていこうとしていることに気が付く。
 彼は普段、どのように小言を言っていた?
 彼の口癖は何だった?
 彼が最初に作ってくれた料理は?

「分からない……。何で、普段はすぐに思い出せるのに」

 嫌な汗が体中から噴き出る。
 焦りが、ますます正常な思考を奪っていく。
 いつの間にか、彼女の片手だけでなく両手が少年にしっかりと握られていた。
 地面に落ちていた視線を恐る恐る上げる。彼は、嬉しそうに笑っていた。真っ黒の瞳で、光を一切宿さぬ眼で、こちらを見ていた。

「もうすぐ、お母さんに会えますよ。そして、僕と一緒に遊んでくれますよね?」
「……五虎退、じゃ、ないよね」

 少年は、返事をしない。ただ笑っているだけだ。
 掴まれた両手は、まるで凍りついたみたいに振り払えない。
 少年の手から伝わる冷気が、まるで全身に染み渡るように体の温度が下がっていく。それと同時に、本丸で今日まで過ごしてきたこともはらはらと、記憶から剥がれ落ちていく。

「歌仙は、私のことを……最初に」

 それでも、本丸に来て最初の夜のことを思い出す。
 花開いた藤の花がカーテンのように垂れ下がっていて、とても綺麗だった。
 その時、歌仙は言ったのだ。

「最初に、『狭野方さのかたの花』って呼んで、くれた」



『──僕らの名前を呼んで、狭野方さのかたの花』



 不意に、誰かに呼ばれたように彼女は弾かれたように顔を上げた。
 この声を、自分は知っている。
 柔らかくて、ふわふわしていて、それでいて時に厳しくて、時に優しい声。

「……髭切。それに、膝丸も?」

 反射的に、言葉はこぼれた。だが、それが誰の名か、何の名かも、曖昧としてしまった思考では判断がつかない。

「僕は……何だっけ?」

 こぼれ落ちていく自分という存在を定義するものを探そうと、彼女は無我夢中で自分の記憶を我武者羅にかき集めようとした。
 少年はますます楽しそうに、まるでとっておきのお菓子が出てくるのを待ちわびるような満面の笑顔で彼女を見ていた。

「あなたは、何て名前なんでしたっけ?」
「僕は……藤。違う。それは、審神者になるとき、適当に考えた名前で、僕の、私は」

 本名は何故名乗ってはいけないのか、審神者になるときに告げられていた。けれども、そのような些末なやり取りは彼女の中にはもう、残っていなかった。

「私の、本当の名前は、お──」

 瞬間、彼女の口が大きな何かに塞がれる。驚きで悲鳴を叫ぶ間もなく、 同時に今度は後ろにぐいと引っ張られた。
 倒れる。
 そう思った刹那、しっかりとしたものに体を支えられて何とか倒れ込むことは回避できた。

「弟、そっち!」
「ああ!」

 最低限の掛け声の応酬とあわせて、藤の視界に銀光が走る。
 それは、五虎退の姿をしたものを薙ぎ払った。
 引っ張られたおかげで、ナニカから掴まれていた手を離すことができたのだと一拍遅れて藤は理解する。
 だが、口をふさがれた恐怖が消え去るわけではない。

「ん~~っ?!」
「ああ、ごめんごめん。息ができなかったね」

 パッと口を塞いでいた何かが離れ、藤は息を整える。
 聞き覚えのある声に顔を上げると、そこには一人の青年の姿があった。
 ふわふわした、淡い金髪。アーモンド形の眼窩にはまった、鮮やかなブラウンの瞳。

「髭切……?」
「うん。呼んでくれたから、やっと入り込めたよ」

 後ろに引っ張られた事で倒れかかっている彼女を、彼は片腕だけで事も無げに支えている。口を塞いだのは、どうやら彼の手のようだった。

「五虎退、は」
「あれは五虎退じゃないよ。五虎退ならとうの昔に本丸に帰ってる」

 髭切の言葉を聞いて、藤は安堵の息を小さく吐いた。
 先ほどまであった、自身が丸ごと霧に溶け込むような喪失感も少しだけ落ち着いている。

「すまない、兄者。追い払うことしかできなかったようだ」
「お前でそれなら僕でもあまり結果は変わらなさそうだね。おっと」

 糸が切れたようにその場に崩れ落ちかけた藤を、髭切は咄嗟に支え直した。
 安心して緊張の糸が切れたのだろうかと彼女の様子を窺った髭切は、表情を険しいものに変える。
 彼女の顔は相変わらず青白く、息はまるで全力疾走でもしたかのように乱れていた。しかし、その体は服越しでもはっきり分かるほど、どんどん冷えていっている。

「主?」
「大丈夫か、主。寒いのか」

 膝丸と髭切に顔を覗きこまれ、膝丸の問いに藤は小さな頷きを以て返した。

「よく、わからなくて。どんどん寒くなって、色々なことが思い出せなくなって。頭の中ががんがんして。何なの、さっきの」
「タチの悪いあやかしの一種だ。霧にまぎれて入ってきたのだろう」

 膝丸は簡潔に説明したものの、聞いている藤の瞳の焦点は徐々に合わなくなってきているのが彼らの目にもはっきりとわかっていた。

「話は後にしようか。とりあえず、早くここから離れたほうがいいね。主、その様子じゃ立てないよね?」

 髭切に問われて、反射的に藤は首を横に振った。
 しかし、当然全身の体重のほとんどを彼の片腕にかけているような状態で立てるわけがない。

「無理しない方がいいよ。主は僕が連れて行く」
「殿は任せてくれ、兄者」
「お前なら安心できるよ。ただ、連れて行かれないように」
「わかっている」

 髭切は弟の返事に、それ以上の念押しはしなかった。顕現して共にいた期間は一年もないが、それ以上の信頼が二人の間にはしっかりとあった。

「じゃあ、主にはこれ預ってもらおうかな」

 髭切は、自分が片手に持っていた太刀を同じく片手で支えた藤の手に握らせる。

「それ、握ってたら少し楽になるかもしれないよ。あと、びっくりして落っこちないでね」

 彼女が何かを言い出す前に、彼は彼女を抱え上げた。
 普段の藤なら、まず間違いなく目を白黒させて「下ろせ」と騒いだろうが、今の彼女はそんな元気は欠片も残っていないようだった。

「じゃあ行こうか、膝丸」
「ああ、兄者」

 流石にこの状況で、普段忘れられている名前を呼ばれて嬉しがるような余裕は膝丸にもない。
 敢えて髭切が名前を呼んだのは、互いの存在確認だけでなく名を呼ぶことそのものに意味があるからだろうということを膝丸も理解していた。
 藤が名前にとにかく拘る性質であり、髭切に弟の名前を覚えるように何度も言っていたのが今は功を奏していた。
 来た道は藤には最早わかるわけもなく、兄弟にも半ば勘に近いものを辿っている。
 本丸は常に彼らにとって帰る場所だった。
 そして帰ってきてと望む者たちが、あそこには沢山いる。主を求める刀たちがいる。

「だから、連れて行かせるわけにはいかないんだよね」

 遠く近く、誰かの笑い声が聞こえる。あるいは新しい仲間を連れ戻されて、憤っている声にも聞こえる。
 しかし、彼らは歩みを止めない。
 髭切の腕の中に揺られ、藤は彼自身でもある太刀を握りしめる。そうしていると、自分にまとわりつくような何かを悉く斬り払ってくれるような気がした。

「膝丸、ついてきている?」
「ああ。兄者、これはあやかしというよりはむしろ──」
「詮索は後にしようよ。今は、主を連れ出す方が先」

 念のために声を掛け合い、名前を呼び合い、互いの位置を確認しながらひたすらに走る。
 一分経っただろうか。或いは二分、それとも四半時だろうか。
 時間という概念すら存在してないような場所を延々と駆け抜けている時、遠くで「あるじさまー!」と声が聞こえた。

「五虎退……?」

 耳にしたことのある声に、藤は重くなっていた瞼をこじ開ける。
 首をひねって前方に目をやれば、先ほどよりずっと薄くなった霧の先にふわふわした白髪の少年の姿が見えた。

「さてさて、あれは本物かな」

 髭切は目をすっと細める。
 先ほど、五虎退に姿を変えた何かを目にしていた彼らは、僅かに身構えながらもそちらに向かう。
 近づけば近づくほど、霧はどんどん薄くなり、そして彼らはいつの間にか朝日が差し込む本丸の縁側に辿りついていた。
 朝焼けに照らされて、髭切の腕の中の藤の顔色も少しだけ良くなったように見える。

「あるじさま、あるじさま!!」

 五虎退が涙を隠すこともせずに、一目散に髭切の──正確には彼の腕の中にいる藤の元に駆け寄る。

「ご、ごめんなさい……僕が、僕があるじさまを、置いて行ってしまったから」
「……気を、遣わせたのは、僕も、一緒だから。上手く言えないけど、でも、気にしてくれてありがとう」

 そろそろと冷え切って上手く動かせない手を伸ばし、彼女はそっと五虎退の柔らかな髪の毛を撫でる。
 二人の様子を見守っていると、五虎退同様縁側に出てやきもきした表情を見せていた歌仙がずんずんと近づいてきた。

「主! 知らないものにふらふらついて行くなと前にも言わなかったかな!!」

 開口一番そう言われて、藤は不愉快さを前面に押し出した表情を彼に見せた。

「歌仙……うるさい」

 それ以上の小言を言う元気はないらしく、身をぎゅっと縮ませて大人しくなる。
 流石に、いつもの減らず口の応酬の少なさに歌仙の顔も心配の色に染まった。

「五虎退から霧の中で主を見失って、それがあやかしの仕業ではないかとは聞いていたけれど、結局何だったんだい?」
「僕も弟も、主が名前を呼んでくれなかったら、主の所まで行けなかっただろうね。それくらいしっかり向こう側まで呼ばれてたから」
「向こう側?」
「うーん、あの世?」

 さらりと言われた言葉を聞いて、少しばかり顔色が良くなっていた藤はまた青ざめる羽目になった。

「あの世って、死後の世界のあの世?」
「うん。主、何か引っ張られそうなこと考えてなかった?」
「……昔のことを、少し」

 言われて、藤は五虎退に故郷の話を振ったときに頭に思い描いたことを再生する。
 故郷、そしてそこに住まう人々や家族。どれも、既にこの世にいない人たちばかりだった。

「霧が出ると、色々なものが曖昧になるだろうから。そういうこともあるんじゃないかなって」
「何はともあれ、無事に戻れて何よりだよ。これに懲りて、主も一人でふらふらしなくなるだろうからね」
「そうだ。兄者が鈴をつけてはどうかと言っていた」
「名案だね。早速そうしよう」
「やめて」

 膝丸が見せた提案にのっかる歌仙。そして、それを言葉少なに主である藤が制止する。

「……僕は、今は、ちゃんと生きてたいから。向こう側になんて、行かないよ」
「うん。分かってるよ」

 髭切のゆったりとした声を子守唄代わりにして、彼女は安心したように微笑んだ。

「それに、呼んだら来てくれる、から」
「うん。君の刀なら誰だってすぐに来るよ」
「……だから、何かあっても、だい、じょう、ぶ」

 想像以上の疲労に苛まされたからか、彼女の意識はゆっくりと眠りの世界に誘われていった。

「流石に疲れているみたいだね。休ませる準備ならしてあるよ」
「助かるよ、歌仙」

 歌仙に促され、髭切は腕の中で目を閉じている彼女を本人の自室まで連れて行った。
 主が眠っている間の番を引きうけた髭切は、彼女が目を覚ますまでずっとベッドの側から離れなかった。

「呼んでくれたら、みんな主のもとに向かうとは思うけれど」

 そっと彼女の顔を覗き込むと、何か楽しい夢でも見ているのか、薄い唇には微笑みが浮かんでいる。

「勿論、僕が一番に飛んでいくけれどね」

 ちょんと彼女の頬をつつき、彼も口元を緩ませる。
 藤と自分しかいない部屋で、張り合うように漏らした彼の言葉は誰にも聞こえずに溶けていったのだった。
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